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北海道~本州間の寝台列車全盛期で北斗星の上野からの切符を取ろうにも常に満席、泣く泣く急行八甲田にして青森から快速海峡に乗って北海道入りした記憶があり、かなりしんどかった思い出。
急行八甲田は、急行十和田、急行津軽と共にワイド周遊券で、二桁は超えるぐらい乗車した…かなりお世話になった列車でした。本当に懐かしい列車でした。取り上げて頂きありがとうございました。
1992年に単独卒業旅行で北海道を旅した帰りに青森発の八甲田の自由席に乗車したところ、途中の盛岡から帰宅サラリーマンがそこそこの数乗車してきて、花巻や北上などで下車していく姿が見られました。
いわゆる多層建て列車で併結相手が非電化区間を走行するため急行八甲田は全区間架線の下を走行する列車となったようですね。
当時の東北地方の多層建て列車は半端ない程本数がありましたね。
八甲田 懐かしいですね。取り上げていただきありがとうございます。学生時代によく利用して帰省してました。上野で友達と一杯ひっかけて、あとは寝て帰るだけ。冬は 暖房が効きすぎて 暑かったことや、飲みすぎて酔っ払い大騒ぎしてた爺さまが途中駅でつまみ出されたことなど、思い出しました。夜行列車 また乗りたいですね。
つまみ出されたあとはどうなったのでしょうか?
@@夕刻夕刻今やありえない出来事😮
実は夜行八甲田は函館に乗り入れています。バイクを乗せた荷物車連結時限定で、ダイヤ上は八甲田は青森止まりですが、そのまま臨時快速海峡号に化けて青函トンネルを潜ってました。
カートレインありましたね。今はフェリー利用ですね。
一回だけバイクを鉄道輸送した事があります。今あったら使うだろうな。両方の趣味を満たしてくれる貴重な存在
モトトレインだよね。便利だったなー 夏に運行すれば今でもそこそこ需要はありそうだけど、収支を考えると無理だよなぁ...
高い早い特急よりも 昼も夜も安い遅い八甲田は庶民の味方だったなぁ
夜行の八甲田は何回か乗った事がある。山形新幹線の開業で夜行急行「津軽」は485系でやってたな。現在は東北地方を走る夜行列車がなくなって寂しいな。
新田次郎「八甲田山死の彷徨」が映画化した年にED75牽引の12系「八甲田52号」に乗車。夜行初体験がこれやった。盛岡までメチャ混みで通路に座って過ごし、疲れのせいかその晩は体調不良なったなあ。
懐かしい。1994年3月に東北ワイド周遊券使って東北乗りつぶし旅行してた時、当時既に週末臨になってた八甲田と津軽の折り返しを使って宿代節約してましたね。あの頃は元気でした(笑)。
八甲田、臨時夜行で最後の方にちょっとだけ乗りました。津軽とかも同様でした。🛤️
急行八甲田は客車列車が有名だったけどこんな列車もあったのか。
北海道ワイド周遊券で夜行急行は乗りました。客車だったから12系かな?油断するとリクライニングが元に戻ってしまう座席で、なんかいろいろ楽しかった。
それは12系ではなくて14系です。もともと14系は特急型として誕生していて、波動輸送で当時の特急しおじやつばさなど12系で運転されていて100円引きだった特急を置き換えて行った系列です。昭和47年夏に登場した183系直流特急型電車の流れを組み昭和47年10月頃に誕生した。また簡易リクライニングシートを採用していたが何しろシートピッチが910ミリ,と狭くまた座席下には暖房用カバーがあり足を伸ばせず窮屈だった。これは特急型の583系を除く全てに当てはまっていて、151系時代から変わっていない。シートピッチを拡大したのは在来線では北海道のキハ183系であった。ただし相変わらず座席下には暖房用カバーがあった。
上野駅で見る[八甲田][男鹿][蔵王]⇨東北地方の名山が浮かぶ
上野発着の奥羽本線直通の臨時急行列車にも、58系気動車等が用いられたことがよくありましたね。走行区間が全線電化されているのにもかかわらず気動車で運転されていたのは、繁忙期における急行形電車の不足、気動車ならあちこちからかき集められる、液体式トルクコンバータでのトルク増幅効果によって板谷峠を補機なしで登れる ということだったらしい。しかし板谷峠では30㎞/hほどのノロノロ運転だったのを覚えています。絶景はよく見えましたが。
架線下気動車昼行急行八甲田号よりは、オハ14系簡易リクライニングシート時代の夜行急行八甲田号の方が、何度か乗車しただけに記憶に残っています。仮眠しながら何度となくバタンという音と共にリクライニングが戻る不快感に悩まされながらも通過駅停車駅の模様を眺めるのは悪くなかったです。青森駅で青函連絡船に乗り継ぐ時に必要となる旅客名簿記入から青森駅でのダッシュ、普通船室で居場所を決めたあとは客用甲板上で海風を感じながら渡道する気分は最高でした。函館駅からはワイド周遊券で気動車特急に乗車する時もあれば函館市電に乗車する時もあって、それぞれの過ごし方を楽しんでいました。帰路は北海道ワイド周遊券を有効期限ギリギリまで使いし尽くして、青函連絡船から有効期限最終日に青森駅で上り八甲田号に席を占めてからは、あとは継続乗車船の条文に則って翌日朝の東京都区内各駅まで利用しても追加運賃や急行料金は請求されない決まりでしたが、上野駅以外では継続乗車船を知らない出札口職員が多かったので、上野駅で出場して改めて乗車券を買い直して帰路に就いていました。
ヨン・サン・トオの時刻表を見ると、昼行八甲田は21号車があるトンデモ列車。実際はおがと併結する時としない時で編成が異なり、上野発車時点では最大で14両だったそう。それでも、かなり長い😮
そもそもヨン・サン・トオ改正前の「おが」(下り・上り1号)は、食堂車も連結されていた昼行客車急行「たざわ」(元・鳥海)でそこそこ長編成の列車だったのを、気動車にしてムリクリ増結して運転していた。
現在の多層建て列車は新幹線のはやぶさとこまち、やまびことつばさに引き継がれています。因みに17両編成ですね。
東北北部は東北線も羽越線も奥羽線も普通列車は基本気動車か客車で電車が基本となったのは90年代後半の話です。
一ノ関〜盛岡はED75の牽引する50系客車の爆走が味わえて楽しかった。
上野から青森まで無給油で走り抜けたキハ58が凄い。急行運用だから燃費は良かったのかもしれないけど。
青函トンネルの開業初日、上野駅に入線してきた急行八甲田(オハ14系)側面の行き先表示は函館だったとか。青森到着後の客車がそのまま快速海峡81号に化けて北海道に渡るダイヤだった。
まさに私の青春そのもの🥰当時東北民だった私にとって急行八甲田には、西日本方面への周遊券の旅でさんざんお世話になった。ただ、短い期間とはいえ昼行便気動車があったなんて、今の今まで知らなかった😅それにしても、よくもまあこんな長距離をDMH17Hエンジンを唸らせながら走ったもんだわ😮
「八甲田」東北新幹線が開業しても10年以上存続しました。健闘した部類だと思います。夏期に旅行する若者、冬期に移動する季節労働者の方など、それなりに安定した需要があったのでしょうね。私が住んでいる仙台市からは利用しにくい列車なので乗ったことはありませんが、1度乗りたかったです。
今や東北地方の列車は新幹線か普通列車かの二極化ですね。現在の多層建て列車は新幹線に引き継がれてますね。
昼行八甲田1号が廃止というよりも。特急はつかりに格上げされたと言うのが正しい。この列車は特急格上げ後も青函連絡船を介して函館から室蘭本線・千歳線経由の札幌行きの夜行急行すずらん6号や函館本線山線経由の夜行普通列車に接続していた。それと夜行急行八甲田は寝台急行とは呼びません。どちらかというと座席車主体列車です。ちなみにこの列車八甲田は仙台から青森まで増結の寝台車があり、この寝台車は22時30分頃に仙台駅に入線して乗車できた。
八甲田格上げと同時に上野発常磐線経由気動車急行みちのくも仙台で系統分割されて上野来なくなりましたね。
EF57の重連かっこよかったなあ!
平成改元直後、これに乗って上野から自宅に戻りました❗️
いつもお世話になります。当方は東日本方面の路線事情には疎い身ですが、本動画の起承転結のバックミュージックに準じた丁寧なご解説と、社会や人の流れの変化をしみじみと思い起こしつつ、拝見しております。今後とも良き動画を宜しくご高説お願い申し上げますm(__)m
自分は帰省シーズンに上野から臨時の八甲田に乗りました、発車時八戸付近で地震があり上野出発時点で並走する京浜東北線の電車に抜かされまくり、記憶が曖昧ですが盛岡で秋田経由(小牛田かも)で青森まで行ったその青森からはまなすに乗って札幌までいったのは人生初の夜行列車乗り継ぎになった、本来なら八戸経由のため夜行乗り継ぎにはならない
実際に2度ほど夜行の急行八甲田に乗車したことあります。さすがに座席は特急列車と同じで2列2列だったけど。隣に綺麗なお姉さんが座っておしゃべりしたり夜中はお姉さんが俺にもたれ掛かってきたり、盛岡まで幸せな時間だったな〜まあ、俺は中学生だったけど(笑)
青春時代の甘酸っぱい思い出良かったですね😊
昭和40年代初頭には、季節臨時列車の「八甲田号」に鮫駅を始発とする列車も運行されていました。※1966年の夏季シーズンの臨時急行第三陸中号・1966年~1967年の年末年始の臨時急行第三八甲田号・1967年の夏季シーズンの臨時急行第二ひめかみ号・1967年~1968年の年末年始の臨時急行はちのへ号・1967年の夏季シーズンの臨時急行はちのへ号・1968年~1969年の年末年始の臨時急行八甲田52号・1969年の夏季シーズンの臨時急行八甲田53号・1969年~1970年の年末年始の臨時急行八甲田53号が鮫駅→上野駅で運行されていました。
東北本線の優等列車は特急、急行問わず東北新幹線開業以降、ほぼ完全に置き換えられてしまった印象ですね。こうしてみると東海道(&山陽)本線上を一部区間とは言え在来線特急(踊り子、富士川、しらさぎ、ひだ、スーパーはくと、スーパーいなば、はまかぜ等)が走ってるのはそれぞれに特殊な理由があるからとは言えなかなか貴重な光景なんですね。
ビジネス、レジャーを含め大都市から地方都市まで需要が多けばの話しですね。
はつかり や やまびこ などの特急が18時ころですべて発車しおわりますので、のりおくれると、この八甲田しかありませんでした。客車なので、停車駅で発車のたびに、客席に体を打ち付けられたことを思い出しました。
全区間架線下を走る気動車特急「らくらくびわこ」草津行き。
全架線下を走る気動車といえば、普通列車ですが、羽越本線の新津〜酒田を走る列車は100キロ以上の距離を走ってますな。
気動車は汎用性がありますよね。瀬戸大橋線でパンタグラフ破損のため自力走行不能になる事例がありましたが、ある意味これからはハイブリッド列車を走らせた方が良いのではないかと思う。
上野から東北方面行きの急行列車が遅くまで残ったのは出稼ぎ労働者の帰省費用を抑えるよう配慮されていたからと聞いたことがあります。1993年の夏に北海道ワイド周遊券を利用して八甲田に乗車しました。利用したのは確か臨時で車両は12系客車で帰省シーズンにもかかわらず思いの外車内は空いており、自由席は各ボックスシートに2人ずつ座っている程度で私の向かいでは出稼ぎっぽいおじさんが1人ウイスキーをチビチビやってました。
急行八甲田は良く乗りました。北海道へ渡るときのみならず、東北内を東北ワイドで利用するときにも良く利用しました。当時は12系座席でした。でも座席が良い14系の十和田1号やおが3号(いずれも季節列車)へ行ってしまう事もありました(笑)。多客時には臨時の八甲田は数本ありましたね、編成が若干短いですが空いてました。その中で臨時の八甲田・津軽の併結夜行(八戸行きと弘前行き)という珍しいのもありました。
当時の14系座席車は夜行にはむかない。なぜなら簡易リクライニングシートは背中に力を入れていないともとに戻ってしまい、夜中にあちこちでバタンバタンとうるさくて眠れなかった。それと当時の特急型全てに言えることだがシートピッチ910ミリで座席下には暖房用のカバーがあり足が伸ばせず窮屈だったので、かえって12系のほうがまだマシだった。4人一緒だときついが!その点では583系は4人ボックス席でもシートピッチも広くて重心も低いので長距離には向いていた。しかも窓側肘掛けは窪みが設けられていてシート自体も広かった。
@@もりわききくお583系はリクライニング無しでもシート幅があり親子三人で利用しました。
出羽 「全区間架線下DCなんてねぇ」しらゆき「そうそう!」ときわ 「ちょっとねぇ」
あれ?陸羽西線は非電化なので、急行出羽はDCでしょう?急行「いいで」「ざおう」と同じ編成ですよね。
5113f「わっかるマーン!」
急行しらゆきが全線架線下DCになった昭和47年10月ダイヤ改正には急行型電車や気動車はすでに製造されておらず3電源交直流急行型の457系は前年に北陸快速増発の名目でクモハ・モハ4ユニットとサハ455型8両で打ち止めになっている。そもそも3電源直通運転は特急白鳥のみで臨時特急日本海があるくらいだ。当時国鉄が3電源にしたのは直通運転よりも広範囲な転属を見据えてのものです。
尻内懐かしい
北福岡も
乗ったことは無かったが、帰省で上野駅のホームに行くと、やたら乗車位置の列車名木札が目立った感じはするなぁ。。
若かりし頃に、貧乏旅行でお世話になりました。
30数年前横浜在住時北海道に帰省する時は旅費を節約する為八甲田を使い旅情の景色を変えたい時には津軽を使いと12時間の長旅を楽しみました……
奥羽本線経由が津軽、東北本線経由が八甲田、因みに常磐線経由が十和田でしたね。あとは新潟廻りのルートもありますが、余りにも時間がかかり過ぎる為に眼中にはありませんでした。途中下車しない限り運賃は同じだったはずです。
1994年には残ってね。黒磯から交流区間だから583系電車は交直流電車だったのですか?
気のせいだろうか、一ノ関と盛を結んでいる路線を大船渡線ではなく気仙沼線と勘違いしているような。
当時気仙沼線は柳津-本吉間が未開業でした。
北福岡、尻内と何年と聞いてない駅名ですね。以前にも配信されてましたが、東北地方は多層建て列車が定期運行されていた故にディーゼルカーが主流であり決して珍しくありませんでした。電車急行はくりこまがエースでした😊
大鰐なんかが終点の列車があったことに驚いたわ。
サムネの編成マニ30が繋がってる...
肥薩おれんじ鉄道『ナカーマ』
やっぱりこの上野~青森区間は昼行電車は似合わん!残念ながら東京から東北北海道方面の夜行は、あけぼのと北斗星に乗っただけでオワッタ!
やっぱり新幹線だよね
八甲田山遭難事件
学生時代この列車に乗る予定でしたが連れが遅刻した為津軽に乗りました😅
北海道~本州間の寝台列車全盛期で北斗星の上野からの切符を取ろうにも常に満席、泣く泣く急行八甲田にして青森から快速海峡に乗って北海道入りした記憶があり、かなりしんどかった思い出。
急行八甲田は、急行十和田、急行津軽と共にワイド周遊券で、二桁は超えるぐらい乗車した…かなりお世話になった列車でした。
本当に懐かしい列車でした。
取り上げて頂きありがとうございました。
1992年に単独卒業旅行で北海道を旅した帰りに青森発の八甲田の自由席に乗車したところ、途中の盛岡から帰宅サラリーマンがそこそこの数乗車してきて、花巻や北上などで下車していく姿が見られました。
いわゆる多層建て列車で併結相手が非電化区間を走行するため急行八甲田は全区間架線の下を走行する列車となったようですね。
当時の東北地方の多層建て列車は半端ない程本数がありましたね。
八甲田 懐かしいですね。取り上げていただきありがとうございます。学生時代によく利用して帰省してました。上野で友達と一杯ひっかけて、あとは寝て帰るだけ。冬は 暖房が効きすぎて 暑かったことや、飲みすぎて酔っ払い大騒ぎしてた爺さまが途中駅でつまみ出されたことなど、思い出しました。夜行列車 また乗りたいですね。
つまみ出されたあとはどうなったのでしょうか?
@@夕刻夕刻今やありえない出来事😮
実は夜行八甲田は函館に乗り入れています。バイクを乗せた荷物車連結時限定で、ダイヤ上は八甲田は青森止まりですが、そのまま臨時快速海峡号に化けて青函トンネルを潜ってました。
カートレインありましたね。今はフェリー利用ですね。
一回だけバイクを鉄道輸送した事があります。今あったら使うだろうな。両方の趣味を満たしてくれる貴重な存在
モトトレインだよね。便利だったなー 夏に運行すれば今でもそこそこ需要はありそうだけど、収支を考えると無理だよなぁ...
高い早い特急よりも 昼も夜も安い遅い八甲田は庶民の味方だったなぁ
夜行の八甲田は何回か乗った事がある。山形新幹線の開業で夜行急行「津軽」は485系でやってたな。
現在は東北地方を走る夜行列車がなくなって寂しいな。
新田次郎「八甲田山死の彷徨」が映画化した年にED75牽引の12系「八甲田52号」に乗車。夜行初体験がこれやった。
盛岡までメチャ混みで通路に座って過ごし、疲れのせいかその晩は体調不良なったなあ。
懐かしい。
1994年3月に東北ワイド周遊券使って東北乗りつぶし旅行してた時、当時既に週末臨になってた八甲田と津軽の折り返しを使って宿代節約してましたね。
あの頃は元気でした(笑)。
八甲田、臨時夜行で最後の方にちょっとだけ乗りました。津軽とかも同様でした。🛤️
急行八甲田は客車列車が有名だったけどこんな列車もあったのか。
北海道ワイド周遊券で夜行急行は乗りました。
客車だったから12系かな?
油断するとリクライニングが元に戻ってしまう座席で、なんかいろいろ楽しかった。
それは12系ではなくて14系です。もともと14系は特急型として誕生していて、波動輸送で当時の特急しおじやつばさなど12系で運転されていて100円引きだった特急を置き換えて行った系列です。昭和47年夏に登場した183系直流特急型電車の流れを組み昭和47年10月頃に誕生した。また簡易リクライニングシートを採用していたが何しろシートピッチが910ミリ,と狭くまた座席下には暖房用カバーがあり足を伸ばせず窮屈だった。これは特急型の583系を除く全てに当てはまっていて、151系時代から変わっていない。シートピッチを拡大したのは在来線では北海道のキハ183系であった。ただし相変わらず座席下には暖房用カバーがあった。
上野駅で見る[八甲田][男鹿][蔵王]⇨東北地方の名山が浮かぶ
上野発着の奥羽本線直通の臨時急行列車にも、58系気動車等が用いられたことがよくありましたね。
走行区間が全線電化されているのにもかかわらず気動車で運転されていたのは、繁忙期における急行形電車の不足、気動車ならあちこちからかき集められる、液体式トルクコンバータでのトルク増幅効果によって板谷峠を補機なしで登れる ということだったらしい。しかし板谷峠では30㎞/hほどのノロノロ運転だったのを覚えています。絶景はよく見えましたが。
架線下気動車昼行急行八甲田号よりは、オハ14系簡易リクライニングシート時代の夜行急行八甲田号の方が、何度か乗車しただけに記憶に残っています。
仮眠しながら何度となくバタンという音と共にリクライニングが戻る不快感に悩まされながらも通過駅停車駅の模様を眺めるのは悪くなかったです。青森駅で青函連絡船に乗り継ぐ時に必要となる旅客名簿記入から青森駅でのダッシュ、普通船室で居場所を決めたあとは客用甲板上で海風を感じながら渡道する気分は最高でした。函館駅からはワイド周遊券で気動車特急に乗車する時もあれば函館市電に乗車する時もあって、それぞれの過ごし方を楽しんでいました。
帰路は北海道ワイド周遊券を有効期限ギリギリまで使いし尽くして、青函連絡船から有効期限最終日に青森駅で上り八甲田号に席を占めてからは、あとは継続乗車船の条文に則って翌日朝の東京都区内各駅まで利用しても追加運賃や急行料金は請求されない決まりでしたが、上野駅以外では継続乗車船を知らない出札口職員が多かったので、上野駅で出場して改めて乗車券を買い直して帰路に就いていました。
ヨン・サン・トオの時刻表を見ると、昼行八甲田は21号車があるトンデモ列車。
実際はおがと併結する時としない時で編成が異なり、上野発車時点では最大で14両だったそう。
それでも、かなり長い😮
そもそもヨン・サン・トオ改正前の「おが」(下り・上り1号)は、食堂車も連結されていた昼行客車急行「たざわ」(元・鳥海)でそこそこ長編成の列車だったのを、気動車にしてムリクリ増結して運転していた。
現在の多層建て列車は新幹線のはやぶさとこまち、やまびことつばさに引き継がれています。因みに17両編成ですね。
東北北部は東北線も羽越線も奥羽線も普通列車は基本気動車か客車で電車が基本となったのは90年代後半の話です。
一ノ関〜盛岡はED75の牽引する50系客車の爆走が味わえて楽しかった。
上野から青森まで無給油で走り抜けたキハ58が凄い。急行運用だから燃費は良かったのかもしれないけど。
青函トンネルの開業初日、上野駅に入線してきた急行八甲田(オハ14系)側面の行き先表示は函館だったとか。
青森到着後の客車がそのまま快速海峡81号に化けて北海道に渡るダイヤだった。
まさに私の青春そのもの🥰
当時東北民だった私にとって急行八甲田には、西日本方面への周遊券の旅でさんざんお世話になった。
ただ、短い期間とはいえ昼行便気動車があったなんて、今の今まで知らなかった😅
それにしても、よくもまあこんな長距離をDMH17Hエンジンを唸らせながら走ったもんだわ😮
「八甲田」東北新幹線が開業しても10年以上存続しました。健闘した部類だと思います。夏期に旅行する若者、冬期に移動する季節労働者の方など、それなりに安定した需要があったのでしょうね。私が住んでいる仙台市からは利用しにくい列車なので乗ったことはありませんが、1度乗りたかったです。
今や東北地方の列車は新幹線か普通列車かの二極化ですね。
現在の多層建て列車は新幹線に引き継がれてますね。
昼行八甲田1号が廃止というよりも。特急はつかりに格上げされたと言うのが正しい。この列車は特急格上げ後も青函連絡船を介して函館から室蘭本線・千歳線経由の札幌行きの夜行急行すずらん6号や函館本線山線経由の夜行普通列車に接続していた。それと夜行急行八甲田は寝台急行とは呼びません。どちらかというと座席車主体列車です。ちなみにこの列車八甲田は仙台から青森まで増結の寝台車があり、この寝台車は22時30分頃に仙台駅に入線して乗車できた。
八甲田格上げと同時に上野発常磐線経由気動車急行みちのくも仙台で系統分割されて上野来なくなりましたね。
EF57の重連かっこよかったなあ!
平成改元直後、これに乗って上野から自宅に戻りました❗️
いつもお世話になります。当方は東日本方面の路線事情には疎い身ですが、本動画の起承転結のバックミュージックに準じた丁寧なご解説と、社会や人の流れの変化をしみじみと思い起こしつつ、拝見しております。今後とも良き動画を宜しくご高説お願い申し上げますm(__)m
自分は帰省シーズンに上野から臨時の八甲田に乗りました、発車時八戸付近で地震があり上野出発時点で並走する京浜東北線の電車に抜かされまくり、記憶が曖昧ですが盛岡で秋田経由(小牛田かも)で青森まで行ったその青森からはまなすに乗って札幌までいったのは人生初の夜行列車乗り継ぎになった、本来なら八戸経由のため夜行乗り継ぎにはならない
実際に2度ほど夜行の急行八甲田に乗車したことあります。
さすがに座席は特急列車と同じで2列2列だったけど。
隣に綺麗なお姉さんが座っておしゃべりしたり夜中はお姉さんが俺にもたれ掛かってきたり、盛岡まで幸せな時間だったな〜
まあ、俺は中学生だったけど(笑)
青春時代の甘酸っぱい思い出良かったですね😊
昭和40年代初頭には、季節臨時列車の「八甲田号」に鮫駅を始発とする列車も運行されていました。※1966年の夏季シーズンの臨時急行第三陸中号・1966年~1967年の年末年始の臨時急行第三八甲田号・1967年の夏季シーズンの臨時急行第二ひめかみ号・1967年~1968年の年末年始の臨時急行はちのへ号・1967年の夏季シーズンの臨時急行はちのへ号・1968年~1969年の年末年始の臨時急行八甲田52号・1969年の夏季シーズンの臨時急行八甲田53号・1969年~1970年の年末年始の臨時急行八甲田53号が鮫駅→上野駅で運行されていました。
東北本線の優等列車は特急、急行問わず東北新幹線開業以降、ほぼ完全に置き換えられてしまった印象ですね。こうしてみると東海道(&山陽)本線上を一部区間とは言え在来線特急
(踊り子、富士川、しらさぎ、ひだ、スーパーはくと、スーパーいなば、はまかぜ等)が走ってるのはそれぞれに特殊な理由があるからとは言えなかなか貴重な光景なんですね。
ビジネス、レジャーを含め大都市から地方都市まで需要が多けばの話しですね。
はつかり や やまびこ などの特急が18時ころですべて発車しおわりますので、のりおくれると、この八甲田しかありませんでした。客車なので、停車駅で発車のたびに、客席に体を打ち付けられたことを思い出しました。
全区間架線下を走る気動車特急「らくらくびわこ」草津行き。
全架線下を走る気動車といえば、普通列車ですが、羽越本線の新津〜酒田を走る列車は100キロ以上の距離を走ってますな。
気動車は汎用性がありますよね。瀬戸大橋線でパンタグラフ破損のため自力走行不能になる事例がありましたが、ある意味これからはハイブリッド列車を走らせた方が良いのではないかと思う。
上野から東北方面行きの急行列車が遅くまで残ったのは出稼ぎ労働者の帰省費用を抑えるよう配慮されていたからと聞いたことがあります。
1993年の夏に北海道ワイド周遊券を利用して八甲田に乗車しました。
利用したのは確か臨時で車両は12系客車で帰省シーズンにもかかわらず思いの外車内は空いており、自由席は各ボックスシートに2人ずつ座っている程度で私の向かいでは出稼ぎっぽいおじさんが1人ウイスキーをチビチビやってました。
急行八甲田は良く乗りました。北海道へ渡るときのみならず、東北内を東北ワイドで利用するときにも良く利用しました。当時は12系座席でした。でも座席が良い14系の十和田1号やおが3号(いずれも季節列車)へ行ってしまう事もありました(笑)。多客時には臨時の八甲田は数本ありましたね、編成が若干短いですが空いてました。その中で臨時の八甲田・津軽の併結夜行(八戸行きと弘前行き)という珍しいのもありました。
当時の14系座席車は夜行にはむかない。なぜなら簡易リクライニングシートは背中に力を入れていないともとに戻ってしまい、夜中にあちこちでバタンバタンとうるさくて眠れなかった。それと当時の特急型全てに言えることだがシートピッチ910ミリで座席下には暖房用のカバーがあり足が伸ばせず窮屈だったので、かえって12系のほうがまだマシだった。4人一緒だときついが!その点では583系は4人ボックス席でもシートピッチも広くて重心も低いので長距離には向いていた。しかも窓側肘掛けは窪みが設けられていてシート自体も広かった。
@@もりわききくお583系はリクライニング無しでもシート幅があり親子三人で利用しました。
出羽 「全区間架線下DCなんてねぇ」
しらゆき「そうそう!」
ときわ 「ちょっとねぇ」
あれ?陸羽西線は非電化なので、急行出羽はDCでしょう?急行「いいで」「ざおう」と同じ編成ですよね。
5113f「わっかるマーン!」
急行しらゆきが全線架線下DCになった昭和47年10月ダイヤ改正には急行型電車や気動車はすでに製造されておらず3電源交直流急行型の457系は前年に北陸快速増発の名目でクモハ・モハ4ユニットとサハ455型8両で打ち止めになっている。そもそも3電源直通運転は特急白鳥のみで臨時特急日本海があるくらいだ。当時国鉄が3電源にしたのは直通運転よりも広範囲な転属を見据えてのものです。
尻内懐かしい
北福岡も
乗ったことは無かったが、帰省で上野駅のホームに行くと、やたら乗車位置の列車名木札が目立った感じはするなぁ。。
若かりし頃に、貧乏旅行でお世話になりました。
30数年前横浜在住時北海道に帰省する時は旅費を節約する為八甲田を使い旅情の景色を変えたい時には津軽を使いと12時間の長旅を楽しみました……
奥羽本線経由が津軽、東北本線経由が八甲田、因みに常磐線経由が十和田でしたね。あとは新潟廻りのルートもありますが、余りにも時間がかかり過ぎる為に眼中にはありませんでした。途中下車しない限り運賃は同じだったはずです。
1994年には残ってね。黒磯から交流区間だから583系電車は交直流電車だったのですか?
気のせいだろうか、一ノ関と盛を結んでいる路線を大船渡線ではなく気仙沼線と勘違いしているような。
当時気仙沼線は柳津-本吉間が未開業でした。
北福岡、尻内と何年と聞いてない駅名ですね。以前にも配信されてましたが、東北地方は多層建て列車が定期運行されていた故にディーゼルカーが主流であり決して珍しくありませんでした。電車急行はくりこまがエースでした😊
大鰐なんかが終点の列車があったことに驚いたわ。
サムネの編成マニ30が繋がってる...
肥薩おれんじ鉄道『ナカーマ』
やっぱりこの上野~青森区間は昼行電車は似合わん!
残念ながら東京から東北北海道方面の夜行は、あけぼのと北斗星に乗っただけでオワッタ!
やっぱり新幹線だよね
八甲田山遭難事件
学生時代この列車に乗る予定でしたが連れが遅刻した為津軽に乗りました😅