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東北方面の夜行復活してくれないかな~。ゆうづる萌えるな~。
晩年の上越線・羽越本線経由でのあけぼのなら、運用がJR東日本管内だけで完結するので、カシオペア車輌を利用した臨時列車の運行はできそうですが、盛岡〜八戸間はいわて銀河鉄道、八戸〜青森間は青い森鉄道に分割された現在では難しいでしょうね。
サンライズの様な電車寝台車で、東北・常磐線や、東北・奥羽線の併結運転すれば結構需要はありそうですけど………利益が出るのかは何とも言えない😢
新幹線で一気に行ける時代になりましたが、「新幹線と飛行機の最終より遅く出て、横になって移動して、始発より早く着く」というのは確実に需要がありますからね。
その通りです、寝台特急には新幹線には、無い独特の、旅の楽しさが有りますね。私も北海道から。帰って来る時、当時24系客車寝台特急の北斗星に札幌から乗りました。その時の感想を申し上げますと。感激の余り一睡も出来ませんでした😂
ムーンライト越後が元気な頃ムーンライト仙台を作るっていう話を聞いたが結局できなかった、実現していたら455系にリクライニングシートだったのだろうか。
ゆうづるで上野をたって青森から青函連絡船に乗って函館、函館から特急北斗で札幌へ この黄金ルート?をぎりぎり経験できた世代です 懐かしいですね もう二度とできないでしょうけどもう1回あの時代の鉄道旅行を味わいたいです
う、羨ましい⁉️
ワイは、7月20日の午前中に登校して終業式。午後の「みちのく」→青函11便→「北海」or「おおぞら1号」のパターン😉
寝台特急ゆうづるは1975年3月改正から1982年11月改正までの間最多の7往復体制だったが使用車両もバラエティーに富んでましたね。583系3往復と20系4往復から客車の方は24系24形4往復、更には14系14形や24系25形も使用されていました。
北斗星客車の試験運行をゆうづるで行ったこともありましたね。しかし風情のあるネーミングは夕方のホームライナーで使えないかな。朝はもちろんあさかぜで(笑)
@@ソーメン節 ゆうづるの客車末期にツインデラックスが連結されてましたね。そして1988年3月改正で北斗星が創設された時にゆうづるの客車2往復分が北斗星にコンバートされ583系1往復になりかかったが1982年11月改正でゆうづるからコンバートして2往復になったはくつるを元さやのゆうづるに戻したため1988年3月改正ではゆうづるは583系2往復になりました。
はくつるには、女性専用車両,レディースカー等も連結されてました。
「ゆうづる」乗ったなぁ。三段寝台の最上段でw。北海道の客先に出張に行くのに、東北本線と常磐線と東北道経由は制覇したが、日本海回りと大洗からのフェリーは勤務時間との兼ね合いでどうしても使えなかった。出張旅費は航空運賃分しか出なかったから不足分は自己負担だけど、それでも格安だったw。あの頃は大変だったけど、いい時代でもあったな。
懐かしいですね、寝台特急「ゆうづる」。生まれて初めて札幌から東京に行った時に、青森から乗ったのが「ゆうづる」。子供の時分で、揺れるわうるさいわでまるで寝つけず、時々目を覚ましては、ブラインドに指を入れて外を覗いてました。一番覚えているのが、平駅の駅名標。その時は「列車なのに何で走ってないんだ?」と思ってました。多分、何十分か停車していたんでしょう。上野に近づいてきた頃の東京スタジアムの遠景も記憶に残っています。当然、今のヤツじゃありません。
特急みちのくも忘れずに。
夜行東北急行の元祖は「みちのく」「北斗」なんですけどね・・
あの特急みちのく583*系特急は遠くからでも、識別でき、フアーンと警笛ならして、近づいて来るシーン、勇ましさを通り越して、怖さをかんじた、ものです。
この特急みちのくはヨンナナサンダイヤ改正までは急行十和田上下の1号で食堂車オシ17,型も付いていました。
みちのくひとり旅な
西村京太郎トラベルミステリー「終着駅殺人事件」の舞台になった583系のゆうつ”る5号と24系ゆうつ”る7号、懐かしいですね。これを機にてっちゃんへw
電車と客車の所要時間の差がトリックになったストーリー
23:00発ゆうづる号のスジの最初は、12系座席客車のみの特急券100円引きの遜色ブルトレ(客車が青色で一応白い横帯が入ってると言う意味で(笑))の臨時特別急行ゆうづる91号でしたよね。この急行型客車ボックス座席の特急ゆうづるで上野から青森、さらに青函連絡船、特急北斗で北海道行ったことがあります。
私は、昭和53年の学校の春休みに家族で北海道に行ってその帰りに24系客車ゆうづる号に乗りました。そのゆうづる号について実は、今だにごだわり続けている事があるのです。この列車は、片方の窓側が通路式なので出発後、途中目が冷めてある用を済ました後、ついでに窓から眺めていました。真っ暗であまり見えないいくつもの小さな駅をポイントの通過音を響かせながら通過して行く中で途中特急が止まる様なより大きな駅を通過したその駅です。時速100km/h位の速度の為、その駅のホー厶の屋根の無い部分のある柱にある縦型電光駅名標の駅名が確か平名四文字がかすかに見える程度で結局わからなかったのですが、盛岡駅を過ぎてからので花巻か北上だと今なら推定できますが、当時は、小学生の頃で花巻や北上は、知らない地名でした。時刻表も持参してなかったので今のスマホでわかる位置情報があるわけでもないので夜中の静まり返った未知の世界という感じです。この列車内は、起きている自分以外みんな寝入りしていた時なので未知の世界どころかその通過した駅とずいぶんかけ離れていた様な独特の感じを受けました。位置情報も何もなかったからです。このゆうづる号は、まさに寝るだけの列車だからかも知れません。
北海道に引っ越しの際、ゆうづるのA2寝台で青森まで乗りました。当時は青函連絡船でしたし、札幌駅も地上ホームでした。
仙台から上野まで旧型客車の十和田の座席に乗ったことがありました。
ゆうづる号は懐かしいですね。国鉄最末期にはEF81牽引の客車が上野駅17番と18番ホームに並んでるのが衝撃でした
そのゆうづるは、水戸駅で機関車交換して水戸以北は.ED-75が牽引してました😅
@@やまひこくん 国鉄時代は日本海も秋田で75に替えてたからね
常磐線に81の運転士があまりいなかったんでしょう
@@吉田仁-l3n機関士の数ではなく交直流機の数😉
小学生の頃に初めて乗車したブルートレインは、24系25形のゆうづる13号でした。9:10 昭和63年のダイヤ改正では、全ての24系が北斗星に転用され、2往復となったゆうづるは583系のみでしたよ。
ゆうづるだけで何本もあったなんて、現在では信じられない。本当にあの頃の上野駅は、次から次へとひっきりなしに様々な優等列車が出ては入って…一日中いても飽きない駅だった。東京にいながら、遠い地方の香りに触れる事も出来たのが、上野駅だった。新幹線主体になり、夜行列車も消えた現在の上野駅は、やはり昔と比べると非常に寂しい思いがする。この動画観て、昔は良かった…タイムマシンがあったら…なんて思ってしまう。
今じゃ誰もが東京駅まで行ってしまいますからね。東北方面の玄関と呼ばれてた時代が懐かしく感じます。上野駅の魅力はやはり端頭式の地上ホームですね。初めて上野で降りた7歳の頃の記憶がよみがえります。
ああ上野駅という名曲もありますからね。令和の今はバスタ新宿がその役目を担っています。
@@菊池勇悦その通り。東京は西の玄関口。上野は北の玄関口。上野駅の衰退と天王寺駅の紀勢方面への位置低下と同じですね。時代の変化ではありますが、寂しさはあります。
ゆうづる・はくつるに加え、JRになってからもピーク時は八甲田2本、十和田2本、あけぼの3本、津軽2本もありましたね。すごい時代。
北斗星が走り始める直前のゆうづる末期でも、上野駅の夜を彩る主役でした。発車を待つゆうづるのマークをつけたEF81が並んだ様子は、東京駅で並ぶさくらとはやぶさとはまだ違う雰囲気を漂わせていました。残念ながら後継となった北斗星も最盛期は3往復体制ではありましたが上野ホームに並ぶ姿を見る事はありませんでした。
C62ゆうづるは運行時間帯が微妙すぎて梅雨時期の晴れた明け方を狙わないと撮れない撮り鉄泣かせで有名でしたね。
今や80前後の方がyoutubeでコメントする時代になったんですね。自分が80になることには世の中はどんなふうに変わっているんだろうか?なんて考えちゃいます。
今51歳です😂丁度ゆうづる全盛期の頃に小学校上がったばかりでしたが、当時はブルトレブームで南正時さんの長大編成の特急をファインダーにかっちり収めた神業ショットや、ロンちゃんこと吉村光夫さんのナレーション解説による映像にワクワクしたものでした。ただ国鉄の組合闘争の影響で東京発の7特急(さくら、はやぶさ、みずほ、富士、博多あさかぜ、浜田出雲、瀬戸)のEF65牽引区間以外は全てヘッドマークが外され、代わりに昼間の電車特急の表示幕がイラスト化されましたね。
1983年産まれです。函館に住んでおりますが、母方の実家が東京にありまして、よく函館から全日空か青函連絡船+ゆうづる・はくつるで移動した思い出があります。冷水機、583のパン下、連絡船の海峡ラーメン、東京へ着くと色鮮やかな国電たち。図鑑か生で見たのですが75+14系寝台ではくつるかゆうづるが有ったような。何にせよ今ではお金を払っても体験出来ない青函連絡船+みちのく寝台ですね。583は特にクセが有った車輌でした。
「みちのく」は昼行だが😉
「ゆうづる」は渡道客輸送に特化した列車だったから、青函トンネルが開通し「北斗星」で直通できるようになった時点で発展的解消を迎える運命だったのだろう。「北斗星」の24系は「ゆうづる」で使われていたものを改造したものであり、水害で東北本線不通時には常磐線経由で走ったこともある。「ゆうづる」と「北斗星」は親子列車なんだと思う。
いわきのおじいちゃんおばあちゃんに会いに遊びに行った時に早朝ゆうづる見るの楽しみでした。今度みちのく号の動画も宜しくお願いします。
常磐線沿線住民です。ゆうづると十和田を取り上げてくださり、本当にありがとうございます。私が小学校低学年の頃、まさにゆうづるの全盛期でした。当時の時刻表は、どのページを見ても紙面が賑やかでした。かつて我が家は、常磐線のすぐわきに建っていたため、二階の部屋から好きなだけ列車を見ることができました。ただ・・・ゆうづる号が通過するのは真夜中だったため、小学校低学年では流石に起きていることができず、見ることができませんでした。北斗星とあけぼのには何度か乗ったことがあるんですが、ゆうづるにも乗っておきたかった・・・。
北海道を目指す周遊券キッパーにとって、東北夜行は貴重な存在でしたね。北海道に入ると特急自由席まで乗り放題になるけれど、そこまでの往復経路上は急行自由席までが許容範囲。寝台特急に乗ろうものなら、別途、特急券と寝台券が必要だったので、「本当は乗りたいけど、やめておこう」という感じでしたね。その中で、選択肢としては八甲田と十和田があったので、行きと帰りで交互に選んだものですよ。だから、十和田にもよくお世話になりましたよ。まぁ、あと津軽なんてのもあったけれど、紆余曲折しながら青森に向かうので、北海道を目指すには不便だったのを覚えています。
@@ToroInoue-c5y さんメッセージありがとうございます。常磐線の十和田、東北線の八甲田、奥羽線の津軽。どれも魅力的な急行列車でしたね。もう、あの頃には戻れないと分かっているからこそ、乗っておきたかったですね・・・。
私も常磐線の近くに住んでいた為(東海村)近くの踏切に寝台特急ゆうづるや急行十和田を撮影に行きました.その時のゆうづるは583系で13両編成急行十和田は、14系客車の.11両編成でした。常磐線沿線に住んで.鉄道ファンになつた、思い出です😂
@@ToroInoue-c5yワイも、家族旅行時は「みちのく」「はつかり」だったが、単身旅行時は「八甲田」 ひどいと丸一日かけて普通列車乗り継ぎっつー18きっぱーみたいな事を…😵
ゆうづる11,13号だと札幌着くの19時頃か、まさに丸一日だね
11,13号は基本本州内用途の設定でした。夏休みを除けば
ゆうづるって旅情を掻き立てるネーミングだと思いませんか?夕焼けに染まる空の中目的地にひた走る。もう一度乗ってみたい(583ではグリーン車しか使った事ありませんが)
寝台特急ゆうづる号で乗車している最中に583系寝台・座席💺兼用型特急電車🚃の場合常磐線内茨城県の取手ー藤代間で流れる電気が違う為交直切換に伴い大半の乗客は寝静まっているので室内灯が消えて再点灯するのに気付きません。
十和田は北海道旅の帰りに青森から上野まで寝台を利用しました。3段寝台の中段は狭くて窮屈でした。学生の身で寝台なぞ当時は奮発した時代でした。その当時の常磐線は電化されてC62は呉線、函館本線に送られていました。国鉄時代の夢と希望を与えてくれた本当に良き時代で有りました。貴重な写真ありがとうございます。
ゆうづるは1日7往復時代は14系、24系、583系と多彩な車両を走行した東北本線経由の「はくつる」「北星」奥羽本線経由の「あけぼの」この3名称を合わせてもゆうづるが多い
ゆうづる・はくつるは九戸・浅虫温泉などを走ったが、東北本線は、東北新幹線は八戸・二戸・新青森に向かってしまい、旧東北本線は「青い森鉄道」として存続、浅虫温泉は通らなくなってしまい衰退。
使用されたクハネ583は、クハネ581では機器配置の関係で貴重な室内に電動発電機を積んでいたが、583では機器小型化が成り床下配置できたので1区画分定員がぞうかした。ちゅうがくのころ、東北撮影旅行のかえり、1席だけ取れた寝台が「ゆうづる」のパンタ下中段だったのもラッキー!以来ゆうづるファンです。
クハネ583型は昭和45年10月ダイヤ改正から青森運転所に新製配置されてクハネ581型は南福岡電車区へ転属になっています。これは、将来583系の15両編成も考えがあったためだと言われています。
最盛期7往復時代のゆうづるの中でも客車便はどっちかといえば青森県方面への需要がメインターゲットだったように見えます。
天理臨で我が地元奈良県にも来ましたよ……重量級なのに、規格が貧弱な桜井線に入れたのは、今考えたら結構凄いですよね。
ゆうずるは懐かしいな、一時期、取手に住んでてキリンビールの近くのアパートで上り線まで100Mなかったから帰宅して眺めるのが楽しみでした。80牽引の24系から583になって13両編成には驚きました。炭鉱閉山で5歳で内地に移住、18歳国鉄入社、23歳で松戸電車区で運転士になりました。本当に懐かしい思い出です。
1982年11月15日の国鉄全国ダイヤ改正で客車ゆうづる2往復の車両は青森運転所所属の24系25形寝台客車✕12両編成で上野ー青森間(奥羽本線経由)のあけぼの3・4号と秋田運転区所属の24系24形寝台客車✕12両編成開放型A寝台1両連結で上野ー秋田間(奥羽本線経由)のあけぼの5・2号とそれぞれ共通運用していました。尚24系25形寝台客車✕12両編成はモノクラス編成(A寝台なし、2段式開放型B寝台)です。24系および24系25形寝台客車の上野寄りに電源車1両が連結していました。
最盛期の本数は知ってましたが、上野発が3分間隔で運転されてたのに驚きました。東北の日本海側に住んでますが、東京に遊びに行くときは、新幹線開業後もあけぼの使ってました。新幹線では無かったワクワク感が毎回ありましたね。
まぁ、その頃は新幹線🚅にも食堂車🍽️やビュッフェ☕あってワクワクしたが😁
@@psychedelicraspberry517 食堂車やビュッフェ付き列車には就学前にしか乗った事ないのでワクワク感が分かりません。
@@菊池勇悦あら😢
あら😢
もうだいぶ前の話になるが、アニメ「サザエさん」は時々一家で日本各地を旅する回がある。確か北東北への旅行で、「ゆうづる」が登場していたのは憶えてる。ただ、ヘッドマークは「ゆう”ず“る」と表記されてたっけ😅
会津に旅行に行った回では、しっかりと「さざえ堂」が出ていましたな。(*´・∀・)
1970年代はじめ、北海道小樽方面に帰省するのにゆうづるを利用しました。函館本線のC62けん引ニセコ3号に都合よく接続する上野23時発のゆうづる最終便は、1970年がゆうづる2号、71年が3号、72年が4号と何故か変わりました。この動画でその理由に納得です。子供にとって寝台客車は楽しく、翌朝、北上平野の田園の流れる車窓を寝ぼけ眼で見たとき子供ながら旅情を感じたものでした。ただ、尻内(八戸)過ぎてから先が意外と長かったですね。青森の桟橋を小走りで連絡船に向かったことも懐かしく思い出しました。
私が小学生1〜2年生だった1977〜1978年頃の新幹線開業前の20番線まであった時の上野駅に夕方いると、両手を何回使っても数え切れない程の夜行寝台列車が地上ホームにやってきて子供心にワクワクしたものでした。「ゆうづる」だけでなく「はくつる」も何往復もありましたし、「北星」、「あけぼの」、「北陸」、「十和田」、「八甲田」、「津軽」、「鳥海」、「天の河」、「能登」、「越前」などすぐに思い浮かびます。あんなに沢山あった上野発の夜行寝台列車も今は定期では1本も無くなりました。寂しいこの頃ですね。50代半ばの親爺より。
この動画を見て、1970年代後半の国鉄運賃の大幅な値上げ(約2倍)が、寝台特急の衰退と飛行機需要(シェア)の拡大につながったことが分かりました。そして、新幹線の開通により決定的に寝台特急が衰退したわけですね。
1982年11月15日国鉄全国ダイヤ改正でゆうづるの運転本数が7往復から5往復に削減されました、内訳は定期列車4往復と季節列車1往復の合計5往復体制に変更されました、定期列車1往復が東北本線経由の寝台特急はくつる号に変更され車両が583系寝台電車🚃に置き換えられました、更に1985年3月14日の国鉄全国ダイヤ改正で季節、定期列車各1往復が廃止されて定期列車3往復体制に短縮されました、1986年11月1日の国鉄最後の全国ダイヤ改正で定期列車3往復のうち1往復が季節列車に格下げられました。
北斗星用の先行改造車が組み入れて走っていて、北斗星がデビューと引き換えにゆうづるは廃止を前提とした減便になったと思ってました。最終的には東北線周りになってはくつるになったような…。記憶違いだったのかな??
あまり知られていないですが、1971年から1972年の年末年始の繁忙期にそれまで急行瀬戸下り2号上り1号で使用浅れている14系寝台車の試作車をまとめて臨時の寝台特急はくつる51号が年末に同じく臨時の寝台特急ゆうづる51号が年始に運転されました。またゴウマルサンダイヤ改正からはゆうづる下り3号と上り7号は、583系だったが、寝台車ではなくて、全車指定席で1976年10月ダイヤ改正まで運転されました。なおこの改正では、客車列車が24系24型になっています。その他にも臨時で12系で運転されたり、14系座席車での運転もありました。12系のときには、特急料金が、100円引きでこの当時、しおじや、つばさなどけっこうありました。
水戸に住んでいた時、ゆうづるのグリーン車で上野や仙台に行ったのが懐かしい
私も18才の頃水戸駅の上りホームで、寝台電車🚃特急.ゆうずるを見ました.今はもう見られず残念です😢
この583系電車寝台特急は確か18才の頃、水戸駅上り線に止まってました、13両編成で、赤に白の鶴のマークそれを,水戸駅下りホームで見た時あーゆうずるだ、私は階段を駆け上がり,上り5番ホームに滑りこんだ😂その時の感想、格好良かつたな今からやく40年位前の話です😅
ゆうづる、なつい…北海道から静岡への引っ越し、函館15:00出港の青函連絡船に乗り18:55青森着、19:20(だったかな)発ゆうづる4号(24系)で上野へ。翌年北海道へ戻ることになり、上野発ゆうづる1号で青森5:08着。5:25出港の青函連絡船で函館へ。往復ともに摩周丸だったな。最後にゆうづるにお世話になったのは高校の修学旅行。583系ゆうづるに乗れたのは今となってはいい思い出です。
東北新幹線が無かった頃は、上野〜青森に9時間も掛かってたのね。まあ大変。新幹線作って良かった。
小学生の時に家族でゆうづる1号乗りました親父の田舎が青森なんで
先日初めて行ったバーで他のお客さんが津軽海峡冬景色を歌っていて上野発の夜行列車で寝台列車と青函連絡船の話題をしたけど店の女の子が寝台列車や夜行列車を知らないのに驚いた!
四半世紀以上前だからね。
@@hiroshia5789青函連絡船廃止から今年で35年も経過。最後の上野発の正式な夜行列車、特急あけぼの廃止からも10年近く経過。また上野発の夜行列車だけではなく、最後の国鉄ブルートレインの姿を残していた北斗星でさえ、廃止から8年経過。夜行の長距離移動といえば安価な高速バスが当たり前なZ世代、特に鉄道無関心なねーちゃんにイミフな話題なのは当たり前やな。
東北自動車道の全線開通が1986年の夏。同年の冬に運行を開始した東京・弘前間の夜行高速バスの大盛況を受けての全国的な新路線開設ラッシュが寝台列車と夜行列車の息の根を止めましたね。
子どもの頃の記憶ですが、本数としては はくつる<ゆうづる という記憶で、車両は はくつる=24系ブルトレ・ゆうづる=583系電車寝台 と刷り込まれたなぁ。本当は客車の方のブルトレに乗ってみたいけど、寝台幅を見たら、三段だけど583の方が広くて寝やすいかなぁと、子供心に思い悩んだものでした。
私も図書館で、写真図鑑「日本の鉄道」と西村京太郎の短編「おおぞら3号殺人事件」を読んだ時に寝台特急「ゆうづる5号」と「ゆうづる1号」が登場していたな
「ゆうづる」には乗ったことがありませんでしたが、生き残った「はくつる」や「あけぼの」には晩年東北旅でずいぶんお世話になりました。常磐線特急では「みちのく」に何度か乗りました。初めて北海道を旅したとき(未だ高校生だった)乗車したのが特急みちのく号、車内はビジネスマンが多く、みな途中駅で下車してましたね。車内では当時危機に陥っていた巨大商社「安宅産業」の話題でもちきりだったことを思い出します。新幹線が開業するまで、北海道の流氷を眺めるために毎年愛用してましたが、やはり往復「はつかり」利用が多かったです。連絡船は夜行便、出航時の蛍の光と朝着いたときのカッコーワルツのメロディがいまも頭に残ってます。いま思うと、客車列車の「ゆうづる」のヘッドマークは素晴らしかったなあ、て思いますね。いちど乗ってみたかった・・・
1回だけ常磐線内を北斗星も走りました(東北本線内運転見合わせの為に)。当時東京行くのに最寄り駅行ったら停車していたので二度見しました。
祖母の家に行くのに、この時間よく乗ってました。懐かしい
ゆうづる(平機関区)の燃料は夕張炭だったのか、すぐ近くで石炭獲れるのにね。
寝台も利用したけど、寝苦しいのでグリーン車を利用したことがあった。ゆうづるの晩年、東大宮の基地で写真を撮らせてもらった。
夕鶴の特急券と急行ときわのチケット今でも持っているぞー。未使用で。
ゆうづる&十和田が多数走っていた時代、懐かしいですね。私は子どもの頃、仙台車両センター(当時・仙台電車区)の近くに住んでいましたが早朝に起きて「十和田」を見に行ったことがあります。ゆうづるは深夜に通過したのでダイヤが乱れないと見れませんでした。
ゆうづる号の牽引に、紹介されてた写真のようにED75の700番台も参加していたのですね。今年ED75の700番台の模型を購入、あけぼの号の牽引に使うためにと思ってましたが、ゆうづる号のヘッドマークも同時に付属していたため、片方の顔にあけぼの号、反対側にゆうづる号を装着させ、24系24形(ゆうづる号の時のみ14系14形も)を牽かせています(もちろん583系もうちには在籍してます)。ゆかりの常磐線沿線にある某レイアウトに伺った際にも14系客車のゆうづる号を持ち込み、運転しましたが、客車を同とするさくら・みずほ号と客車を共通化し、持ち込み車両数を抑えつつさまざまな列車を走らせるという意図もあります。
87年の国鉄解体により、ゆうづるを担当していた青森区のED75-1000の大多数がJR貨物に転籍。同時期に奥羽・羽越線のEF81が運用拡大し、捻出された秋田区の700番代を青森区に補充した形になった。
定期で3分続行、単線区間もある常磐線で7往復も走った「ゆうづる」、「はくつる」より先に消えてしまったのは、やはり夜行需要が……という要因だと思います。国鉄の経営が良好だったとしても縮小は避けられなかったと思います。もし285系が比較的早くに量産された世界線であれば、交直流対応車(585系?)によって「ゆうづる」も生き残っていたかもしれませんね。
ゆうづるの旅客需要が北斗星に移ったので少し違いますね。
昼は はつかり みちのく夜は はくつる ゆうづるあと 八甲田 津軽 十和田
懐かしいゆうづるの話しありがとうございます。ゆうづる1号によく乗り、北海道に行ってました。もっぱらパンタグラフ下の通称パン下中段でお得に乗ってました。3分から5分間隔で運行していたなんて今では考えられませんね。自分語りで申し訳ございません。
できれば編成表もいっしょにお願いします
あと盛岡いき北星もあったね
列車名の「ゆうづる」は木下順二の戯曲から取られたそうです。わかりやすく言うと民話の「鶴のおんがえし」です。
佐世保線の「早岐/佐世保」間のC11が最後じゃないですか?違ったらすみません。
はつかりしか乗った事ありませんでした。因みに姉妹列車のはくつるは東北本線経由ではつかり同等のスピードでした。
だからはくつるの方が人気でしたね。 あけぼのとはくつるが全国の夜行で利用率No1,2だったはずです。
@@情弱ホイホイそれいつの話?1980年頃ならば「あけぼの」と「出雲」だがや😉
@@psychedelicraspberry517 それ新幹線できた82年以降の話じゃないの?
ヘッドマークと車体を見ると、幼少の頃の思い出が…親の仕事で、小学校に上がるタイミングで函館から東京に出てきて、帰省の時は寝台のゆうづるやはくつる、急行の十和田や八甲田で青森へ行き、まだ明け方なのに大混雑な連絡船に乗って北海道へ渡ってました。583系電車に乗ると子供だからいつも狭い上段に…当時は3段の一番高いところってだけで単純に喜んでましたが(^^;)今や東京から北海道まで陸路でも4時間ちょっとで着いちゃう時代、長めの休みを取っても移動の楽しみはないんですよね…
急行十和田の20系と14系に乗る機会があったのは幸運でした。
最後まで残っていた「ゆうづる」は東北本線経由になって「はくつる」になっていたような。違ったかな?
東北本線経由の「はくつる」が「ゆうづる」よりも先に運行を開始。「ゆうづる」廃止後も「はくつる」が残った。
私には言いたいことは分かります。そういう解釈で正しいです。
ちょうど30年前のJR東独自の12月1日ダイヤ改正、別名東北夜行列車大リストラ改正により、特急ゆうづるを廃止すると共に特急はくつるを2往復に増発。実質、ゆうづるを東北本線経由にしたってことだな。また東北本線夜行急行八甲田も廃止され、はくつるの1両に座席車両を設定。それも僅か1年後の九州ブルトレリストラ12月改正により、はくつるは24系客車に置き換えられると共に1往復に再び戻され、同時に座席扱いも廃止。
@@5red90 八甲田の格上げと代替えとかいう記事もあるけど、空気運んでた八甲田の代替えなんてあるはずがないですよね。
当時道北に住んでいた親戚の家からの帰り、親に駄々をこねて最寄り駅から函館まで直通していた「おおとり」に接続する「はくつる」に乗せてもらったことがありましたが、東北夜行の花形は「ゆうづる」というイメージがあり、若干納得がいかなかったものでしたw (動画のネタになるのもゆうづるのほうが多い気がする)とはいえ青函トンネルの開通で、盛岡と函館の乗り換えだけで道北まで行ける!と期待していた「おおとり」が連絡船もろともあえなく廃止されてしまい、あれが貴重な経験となりました。そして「ゆうづる」は乗らずじまい…
これは、ちゃんと鉄道ジャーナルや鉄道ファンを読まないと書いてなくてwiki丸写しだと分からない話ですが・ゆうづる1.3.5は北海道連絡メイン、1.3は仙台ー札幌の利用も加味・ゆうづる7.9は北海道連絡と青森八戸の両方・ゆうづる11.13は青函連絡船接続はしているけど盛岡、青森利用メインという風に用途が分かれていました。夏の北海道ワイド周遊券シーズンは全部北海道に行く若い人たちでいっぱいになりましたが。70年代の早い時期から需要が減り始めた東海道のブルトレに比べて東北の夜行特急は人気あったんですよね。北星という盛岡行きのブルトレもありましたし。でも、富士ぶさが2009年まで粘っていたのに、東だけで廃止が決められるゆうづるはあっさりと廃止が決まりましたけど。
私のテツ師匠はゆうづるは何度も乗っていました。はくつる等は乗りましたが、ゆうづるは沿線で見ただけです。沿線住民
寝台特急ゆうづるで忘れてならないのは、ヨンゴウトウダイヤ改正まで20系で運転されていた下り2号と上り1号には、普通車の座席指定席が2両連結されていました。この座席は、座席部分が少し高くなっていて引退したJR東海の85系気動車のような座席でした。これであさかぜからつづいた普通車の座席車がなくなりました。後にナハ21とは違い、回転クロスシートのナハ20とナハフ21でした。なお下りの2号は、盛岡からは、自由席でした。
あたしはゆうづるが好きです。🐹🐱
晩年のゆうづる、はくつるどちらにも乗車した事あるが、本当にガラガラで需要の無さを感じた。今なら目的は違うかも知れないが、それなりの需要はありそうだけどね。
急逝した祖父の葬式に参加する為に、客車化された「はくつる」に乗ったけどシーズンでもないのにB寝台が埋まっていて仕方なくA個室寝台を使ったぞ。その前にも583系時代の「ゆうづる」に何度か乗ったけど、そこそこ乗っていたよ。そもそも「はくつる」が廃止されたのも需要は見込めるけど東北新幹線の八戸開業で盛岡〜八戸が三セクになる事で採算が取れなくなるという理由だった筈。余談ながら前述の「はくつる」A個室はメッチャ良かった。葬式に赴くというのにウッキウキだった。スマン祖父。あと乗車記念に切符を下さいと言ったら規則で無理ですと言われ仕方なく差し出したら、いやいや見せなかった良いんですよ、と言ってそのままくれた三戸駅の駅員さん本当にありがとう。
新幹線があるので需要はありません
寝台特急夕鶴、はくつる、特にはくつる超が付く人気列車で、寝台券発売開始から直に売り切れ続出の列車で、その補完でゆうづるが誕生しています。時刻表でもわかるように2列車が対になっていてほとんど国鉄が北海道連絡を担っていました。
ゆうづる7往復、十和田3往復
3往復にゆうづるが減便された時期に、仙台から上野まで583系ゆうづる6号のグリーン車に乗ったなぁ〜❕客車列車のゆうづるは、青森から上野まで25系のゆうづる2号に乗った。十和田は14系座席車の1号に上野から青森まで・20系で元Å寝台車を改造した座席車に、上野から花巻まで乗ったかな?
中距離なら寝台よりもグリーン車でリクライニングの方がいいと思いました。
@@hiroshia5789 私も深夜1時過ぎの仙台からなら、グリーン車の方が良いと思って。
急行の「北斗」は小樽の祖父が東京に遊びに来た時に帰りに使っていました。上野駅まで見送りに行って夜行の急行にワクワクしていました。東京から雁行で西に向かう夜行急行、上のから北に向かう急行群、20系の華やかさはないですが大好きでした。「北斗」は「ゆうづる」に格上げ後に北海道に行きましたね。北海道で乗りました。「ゆうづる」になってからは自分では20系、583系の両方に乗ったことがあります。東北本線の「はくつる」も大学受験で乗りました。自分が最後に乗ったブルトレ「北斗星」に使命を譲って消えていきましたがこの先どこかで復活してほしい愛称です。
はくつるもゆうづるもブルートレイン時期が確かにあったんだけど軍配は実はゆうづる側!なんだよね。知ってるかな?はくつる側はあさかぜからの再利用車両でA個室寝台が最高位!しかしゆうづる側は後の北斗星の関係でA2のスイート扱いのツインデラックス!それが連結されたんだよね!
SL牽引定期特急の最後って、さくらの早岐~佐世保じゃなかったでしたっけ?
東北本線の線路容量が足りなかったので、常磐線経由のゆうづるとして運転された。新幹線開業で余裕が出来たので、真っ先に廃止されたのだろう。
時間かかるし、あとは「動労水戸」もあるし
個人的には常磐線は東北線の電化までしか役目がなかったように思えます。電化が完成して、485系が開発されたと同時に今までの勾配区間が噓のように克服され、常磐線経由でなくとも所要時間短縮が見込めたんですね。485・583系は奇しくも客車急行や特急を消した物ではあるものの、東北・常磐線の高速化の為には電車特急の道しか残されていなかった為仕方がないと思いますね。
確か仙台まで、東北本線経由で行くより常磐線の方が、距離が、約14キロ長いと、何かの鉄道雑誌に書いてありましたね。本当ですか。
いや、東北本線は夜行貨物で混んでたから夜行旅客は常磐線😉
愛称に「ゆう」が付く列車、「ゆうづる」「ゆうなぎ」「夕月」「ゆうしお」「ゆうかぜ」「夕星」「はまゆう」
いきなり運賃が倍になるとは今日日の「インフレ」なんかまだヌルく感じるな(当時は給料も上がっていったんだろうが)
田中角栄首相の頃で、内閣支持率は狂乱物価になる前には62%もあったのにこのおかげで内閣支持率は一気に18%まで下がってしまいました。😭
583系「ゆうづる」は寝台をセットしない全車指定席の列車があったな
臨時列車ですね。
いや臨時列車ではなく、昭和50年~51年の1年間だけ、定期列車の下り2号と上り7号の583系で全車座席指定として存在していました。恐らくこの頃は、国鉄で車掌補が廃止されたことによる寝台セット要員不足だったのではないかと思われます。
定期でありました。
夜行のはつかりみたいなもんか?🤔
@@kamimiso9 みちのく「ワイの事忘れんといてや」
3:15 1973年4月にあけぼの号、同年5月に彗星号で蒸気機関車による牽引が行われたので間違えとなります。
3:15 😉
@@psychedelicraspberry517 ありがとうございます!
常磐新幹線も開業して欲しいです。
夜行列車の減少は利用者数が少なくなったでよいですが、廃止は合理化と、今でいう働き方改革によるもの。職員の夜勤を減らせばコスト削減ができるし、労働組合がさんざん挙げていた夜勤の廃止が実現できるから。
14系☆24系24形☆583系☆☆24系25形☆☆☆どっかの特急大百科で「北へ向かう七つ星」なんて書かれてたな
小学生の時に一度だけ、北斗~連絡船~ゆうづるで東京まで行ったな上京後は十和田、津軽、八甲田、北斗星のお世話になりましたところで、あれだけゆうづるが走ってたのに何ではくつるはずっと1往復だったんだろう?
青森朝5時ちょい過ぎに着いて、連絡船の寝台で二度寝した人居そう
俺は、電ハネゆうづるが気に入ってます。
電車の「ゆうつる」乗りました。
「ゆうづる」「はくつる」は特許庁のデータベースで検索しても商標登録されていないんだよな。「はつかり」はJR東日本がしているのにね。なんでかな。JR東は「あさかぜ」だって登録しているのにさ。
誰か急行あぶくまの解説して貰えないかな‼️
何回も乗りました。でもゴッパーサンは避けて客レばかりを選んでいました。20系十和田にも乗りましたが、当時のゆうづるは14系だったと思いますが三段寝台だったので停車駅の多さくらいしか大して違いを感じなかったです。華やかな九州ブルトレに憧れました笑
国鉄内のヒエラルキーの前に、東北ブルトレは利用者が多いので三段じゃないとさばけないという事情があったんです・・
寝台特急「ゆうづる」は青森で生関連作戦と連絡して特急「おおぞら」や特急「おおとり」と連絡していた。
本当に北海道新幹線は不必要。北海道が新幹線が欲しいのなら、自分達で八戸駅⇄札幌駅間の北海道新幹線を作ればいい。どうせ自分達では殆ど北海道新幹線利用しないで、首都圏需要頼みの赤字路線は確実なのだから。
人気機関車型?驚き、は審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両在る列車?、しばらく後に営業です。
ゆうづる、はくつる583系電車では3段の中段寝台でパンタグラフ下を指定実質2段でよく利用しました(*^-^*)この意味わかる方います?(*´ω`)
私もきたぐにを2011年に利用した際、パンタ下中段を利用しました。そこは上段が設けられなかったため、天井がやや高い上に寝台料金も他の中段と変わらないのでお得でしたね。ただ、横幅も70センチなので、リュックにお土産もかかえての乗車だった自分は置き場所に困りました😅
あのスペースはB寝台(3段寝台)利用者の特等席で料金はB寝台なのに、中段の空間がA寝台並なので緑の窓口のある駅での駅員さんが操るマルス発券機での争奪戦は激しかったです。
オイラは、はくつる〜あけぼのッスね🤟🤘👍
ゆうづるねえ。 オラは三男。5人家族の長男(高卒社会人ルーキーの為)不参加の家族旅行で企画立案者の我が父が旅行会社に委託で往復の航空機予約に失敗(青森旅行を聞いて飛行機予約失敗願った)で行きが客車願い叶いの寝台ゆうづる、帰りが583願い叶いの日中帰り特急はつかりだったが行きは機関車のブレーキで玉突き音で寝れなかった。帰りは道中が長く感じたが583の相席はリクライニング無しも辛かった。その12年後 東北新幹線は上野‐盛岡時代で新宿から快速フェアフェイ黒磯行の指定席を抑えて鈍行だけ移動で青森行った方が黒磯以北はリクライニングシートないクロスシート続きながら福島で乗換え時間3分 仙台で乗換え時間1分とかハラハラ味わったが成功で何故か楽しかったのがテツ&トモ並になんでだろ~だった。
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東北方面の夜行復活してくれないかな~。
ゆうづる萌えるな~。
晩年の上越線・羽越本線経由でのあけぼのなら、運用がJR東日本管内だけで完結するので、カシオペア車輌を利用した臨時列車の運行はできそうですが、盛岡〜八戸間はいわて銀河鉄道、八戸〜青森間は青い森鉄道に分割された現在では難しいでしょうね。
サンライズの様な電車寝台車で、東北・常磐線や、東北・奥羽線の併結運転すれば結構需要はありそうですけど………
利益が出るのかは何とも言えない😢
新幹線で一気に行ける時代になりましたが、「新幹線と飛行機の最終より遅く出て、横になって移動して、始発より早く着く」というのは確実に需要がありますからね。
その通りです、寝台特急には新幹線には、無い独特の、旅の楽しさが有りますね。私も北海道から。帰って来る時、当時24系客車寝台特急の北斗星に札幌から乗りました。その時の感想を申し上げますと。感激の余り一睡も出来ませんでした😂
ムーンライト越後が元気な頃ムーンライト仙台を作るっていう話を聞いたが結局できなかった、実現していたら455系にリクライニングシートだったのだろうか。
ゆうづるで上野をたって青森から青函連絡船に乗って函館、函館から特急北斗で札幌へ
この黄金ルート?をぎりぎり経験できた世代です 懐かしいですね もう二度とできないでしょうけどもう1回あの時代の鉄道旅行を味わいたいです
う、羨ましい⁉️
ワイは、7月20日の午前中に登校して終業式。午後の「みちのく」→青函11便→「北海」or「おおぞら1号」のパターン😉
寝台特急ゆうづるは1975年3月改正から1982年11月改正までの間最多の7往復体制だったが使用車両もバラエティーに富んでましたね。583系3往復と20系4往復から客車の方は24系24形4往復、更には14系14形や24系25形も使用されていました。
北斗星客車の試験運行をゆうづるで行ったこともありましたね。
しかし風情のあるネーミングは夕方のホームライナーで使えないかな。朝はもちろんあさかぜで(笑)
@@ソーメン節 ゆうづるの客車末期にツインデラックスが連結されてましたね。そして1988年3月改正で北斗星が創設された時にゆうづるの客車2往復分が北斗星にコンバートされ583系1往復になりかかったが1982年11月改正でゆうづるからコンバートして2往復になったはくつるを元さやのゆうづるに戻したため1988年3月改正ではゆうづるは583系2往復になりました。
はくつるには、女性専用車両,レディースカー等も連結されてました。
「ゆうづる」乗ったなぁ。三段寝台の最上段でw。
北海道の客先に出張に行くのに、東北本線と常磐線と東北道経由は制覇したが、日本海回りと大洗からのフェリーは勤務時間との兼ね合いでどうしても使えなかった。
出張旅費は航空運賃分しか出なかったから不足分は自己負担だけど、それでも格安だったw。あの頃は大変だったけど、いい時代でもあったな。
懐かしいですね、寝台特急「ゆうづる」。
生まれて初めて札幌から東京に行った時に、青森から乗ったのが「ゆうづる」。
子供の時分で、揺れるわうるさいわでまるで寝つけず、
時々目を覚ましては、ブラインドに指を入れて外を覗いてました。
一番覚えているのが、平駅の駅名標。
その時は「列車なのに何で走ってないんだ?」と思ってました。
多分、何十分か停車していたんでしょう。
上野に近づいてきた頃の東京スタジアムの遠景も記憶に残っています。
当然、今のヤツじゃありません。
特急みちのくも忘れずに。
夜行東北急行の元祖は「みちのく」「北斗」なんですけどね・・
あの特急みちのく583*系特急は遠くからでも、識別でき、フアーンと警笛ならして、近づいて来るシーン、勇ましさを通り越して、怖さをかんじた、ものです。
この特急みちのくはヨンナナサンダイヤ改正までは急行十和田上下の1号で食堂車オシ17,型も付いていました。
みちのくひとり旅な
西村京太郎トラベルミステリー「終着駅殺人事件」の舞台になった583系のゆうつ”る5号と24系ゆうつ”る7号、懐かしいですね。これを機にてっちゃんへw
電車と客車の所要時間の差がトリックになったストーリー
23:00発ゆうづる号のスジの最初は、12系座席客車のみの特急券100円引きの遜色ブルトレ(客車が青色で一応白い横帯が入ってると言う意味で(笑))の臨時特別急行ゆうづる91号でしたよね。この急行型客車ボックス座席の特急ゆうづるで上野から青森、さらに青函連絡船、特急北斗で北海道行ったことがあります。
私は、昭和53年の学校の春休みに家族で北海道に行ってその帰りに24系客車ゆうづる号に乗りました。そのゆうづる号について実は、今だにごだわり続けている事があるのです。この列車は、片方の窓側が通路式なので出発後、途中目が冷めてある用を済ました後、ついでに窓から眺めていました。真っ暗であまり見えないいくつもの小さな駅をポイントの通過音を響かせながら通過して行く中で途中特急が止まる様なより大きな駅を通過したその駅です。時速100km/h位の速度の為、その駅のホー厶の屋根の無い部分のある柱にある縦型電光駅名標の駅名が確か平名四文字がかすかに見える程度で結局わからなかったのですが、盛岡駅を過ぎてからので花巻か北上だと今なら推定できますが、当時は、小学生の頃で花巻や北上は、知らない地名でした。時刻表も持参してなかったので今のスマホでわかる位置情報があるわけでもないので夜中の静まり返った未知の世界という感じです。この列車内は、起きている自分以外みんな寝入りしていた時なので未知の世界どころかその通過した駅とずいぶんかけ離れていた様な独特の感じを受けました。位置情報も何もなかったからです。このゆうづる号は、まさに寝るだけの列車だからかも知れません。
北海道に引っ越しの際、ゆうづるのA2寝台で青森まで乗りました。当時は青函連絡船でしたし、札幌駅も地上ホームでした。
仙台から上野まで旧型客車の十和田の座席に乗ったことがありました。
ゆうづる号は懐かしいですね。国鉄最末期にはEF81牽引の客車が上野駅17番と18番ホームに並んでるのが衝撃でした
そのゆうづるは、水戸駅で機関車交換して水戸以北は.ED-75が牽引してました😅
@@やまひこくん 国鉄時代は日本海も秋田で75に替えてたからね
常磐線に81の運転士があまりいなかったんでしょう
@@吉田仁-l3n機関士の数ではなく交直流機の数😉
小学生の頃に初めて乗車したブルートレインは、24系25形のゆうづる13号でした。
9:10 昭和63年のダイヤ改正では、全ての24系が北斗星に転用され、2往復となったゆうづるは583系のみでしたよ。
ゆうづるだけで何本もあったなんて、現在では信じられない。本当にあの頃の上野駅は、次から次へとひっきりなしに様々な優等列車が出ては入って…一日中いても飽きない駅だった。東京にいながら、遠い地方の香りに触れる事も出来たのが、上野駅だった。新幹線主体になり、夜行列車も消えた現在の上野駅は、やはり昔と比べると非常に寂しい思いがする。この動画観て、昔は良かった…タイムマシンがあったら…なんて思ってしまう。
今じゃ誰もが東京駅まで行ってしまいますからね。
東北方面の玄関と呼ばれてた時代が懐かしく感じます。
上野駅の魅力はやはり端頭式の地上ホームですね。
初めて上野で降りた7歳の頃の記憶がよみがえります。
ああ上野駅という名曲もありますからね。
令和の今はバスタ新宿がその役目を担っています。
@@菊池勇悦
その通り。
東京は西の玄関口。上野は北の玄関口。
上野駅の衰退と天王寺駅の紀勢方面への位置低下と同じですね。
時代の変化ではありますが、寂しさはあります。
ゆうづる・はくつるに加え、JRになってからもピーク時は八甲田2本、十和田2本、あけぼの3本、津軽2本もありましたね。すごい時代。
北斗星が走り始める直前のゆうづる末期でも、上野駅の夜を彩る主役でした。
発車を待つゆうづるのマークをつけたEF81が並んだ様子は、東京駅で並ぶさくらとはやぶさとはまだ違う雰囲気を漂わせていました。
残念ながら後継となった北斗星も最盛期は3往復体制ではありましたが上野ホームに並ぶ姿を見る事はありませんでした。
C62ゆうづるは運行時間帯が微妙すぎて梅雨時期の晴れた明け方を狙わないと撮れない撮り鉄泣かせで有名でしたね。
今や80前後の方がyoutubeでコメントする時代になったんですね。
自分が80になることには世の中はどんなふうに変わっているんだろうか?なんて考えちゃいます。
今51歳です😂
丁度ゆうづる全盛期の頃に小学校上がったばかりでしたが、当時はブルトレブームで南正時さんの長大編成の特急をファインダーにかっちり収めた神業ショットや、ロンちゃんこと吉村光夫さんのナレーション解説による映像にワクワクしたものでした。
ただ国鉄の組合闘争の影響で東京発の7特急(さくら、はやぶさ、みずほ、富士、博多あさかぜ、浜田出雲、瀬戸)のEF65牽引区間以外は全てヘッドマークが外され、代わりに昼間の電車特急の表示幕がイラスト化されましたね。
1983年産まれです。
函館に住んでおりますが、母方の実家が東京にありまして、よく函館から全日空か青函連絡船+ゆうづる・はくつるで移動した思い出があります。
冷水機、583のパン下、連絡船の海峡ラーメン、東京へ着くと色鮮やかな国電たち。
図鑑か生で見たのですが75+14系寝台ではくつるかゆうづるが有ったような。
何にせよ今ではお金を払っても体験出来ない青函連絡船+みちのく寝台ですね。
583は特にクセが有った車輌でした。
「みちのく」は昼行だが😉
「ゆうづる」は渡道客輸送に特化した列車だったから、青函トンネルが開通し「北斗星」で直通できるようになった時点で発展的解消を迎える運命だったのだろう。「北斗星」の24系は「ゆうづる」で使われていたものを改造したものであり、水害で東北本線不通時には常磐線経由で走ったこともある。「ゆうづる」と「北斗星」は親子列車なんだと思う。
いわきのおじいちゃんおばあちゃんに会いに遊びに行った時に早朝ゆうづる見るの楽しみでした。今度みちのく号の動画も宜しくお願いします。
常磐線沿線住民です。
ゆうづると十和田を取り上げてくださり、本当にありがとうございます。
私が小学校低学年の頃、まさにゆうづるの全盛期でした。
当時の時刻表は、どのページを見ても紙面が賑やかでした。
かつて我が家は、常磐線のすぐわきに建っていたため、二階の部屋から好きなだけ列車を見ることができました。
ただ・・・ゆうづる号が通過するのは真夜中だったため、小学校低学年では流石に起きていることができず、見ることができませんでした。
北斗星とあけぼのには何度か乗ったことがあるんですが、ゆうづるにも乗っておきたかった・・・。
北海道を目指す周遊券キッパーにとって、東北夜行は貴重な存在でしたね。北海道に入ると特急自由席まで乗り放題になるけれど、そこまでの往復経路上は急行自由席までが許容範囲。寝台特急に乗ろうものなら、別途、特急券と寝台券が必要だったので、「本当は乗りたいけど、やめておこう」という感じでしたね。
その中で、選択肢としては八甲田と十和田があったので、行きと帰りで交互に選んだものですよ。だから、十和田にもよくお世話になりましたよ。
まぁ、あと津軽なんてのもあったけれど、紆余曲折しながら青森に向かうので、北海道を目指すには不便だったのを覚えています。
@@ToroInoue-c5y さん
メッセージありがとうございます。
常磐線の十和田、東北線の八甲田、奥羽線の津軽。
どれも魅力的な急行列車でしたね。
もう、あの頃には戻れないと分かっているからこそ、乗っておきたかったですね・・・。
私も常磐線の近くに住んでいた為(東海村)近くの踏切に寝台特急ゆうづるや急行十和田を撮影に行きました.その時のゆうづるは583系で13両編成急行十和田は、14系客車の.11両編成でした。常磐線沿線に住んで.鉄道ファンになつた、思い出です😂
@@ToroInoue-c5yワイも、家族旅行時は「みちのく」「はつかり」だったが、単身旅行時は「八甲田」 ひどいと丸一日かけて普通列車乗り継ぎっつー18きっぱーみたいな事を…😵
ゆうづる11,13号だと札幌着くの19時頃か、まさに丸一日だね
11,13号は基本本州内用途の設定でした。夏休みを除けば
ゆうづるって旅情を掻き立てるネーミングだと思いませんか?夕焼けに染まる空の中目的地にひた走る。もう一度乗ってみたい(583ではグリーン車しか使った事ありませんが)
寝台特急ゆうづる号で乗車している最中に583系寝台・座席💺兼用型特急電車🚃の場合常磐線内茨城県の取手ー藤代間で流れる電気が違う為交直切換に伴い大半の乗客は寝静まっているので室内灯が消えて再点灯するのに気付きません。
十和田は北海道旅の帰りに青森から上野まで寝台を利用しました。3段寝台の中段は狭くて窮屈でした。学生の身で寝台なぞ当時は奮発した時代でした。その当時の常磐線は電化されてC62は呉線、函館本線に送られていました。国鉄時代の夢と希望を与えてくれた本当に良き時代で有りました。貴重な写真ありがとうございます。
ゆうづるは1日7往復時代は14系、24系、583系と多彩な車両を走行した
東北本線経由の「はくつる」「北星」
奥羽本線経由の「あけぼの」
この3名称を合わせてもゆうづるが多い
ゆうづる・はくつるは九戸・浅虫温泉などを走ったが、東北本線は、東北新幹線は八戸・二戸・新青森に向かってしまい、旧東北本線は「青い森鉄道」として存続、浅虫温泉は通らなくなってしまい衰退。
使用されたクハネ583は、クハネ581では機器配置の関係で貴重な室内に電動発電機を積んでいたが、583では機器小型化が成り床下配置できたので1区画分定員がぞうかした。
ちゅうがくのころ、東北撮影旅行のかえり、1席だけ取れた寝台が「ゆうづる」のパンタ下中段だったのもラッキー!以来ゆうづるファンです。
クハネ583型は昭和45年10月ダイヤ改正から青森運転所に新製配置されてクハネ581型は南福岡電車区へ転属になっています。これは、将来583系の15両編成も考えがあったためだと言われています。
最盛期7往復時代のゆうづるの中でも客車便はどっちかといえば青森県方面への需要がメインターゲットだったように見えます。
天理臨で我が地元奈良県にも来ましたよ……重量級なのに、規格が貧弱な桜井線に入れたのは、今考えたら結構凄いですよね。
ゆうずるは懐かしいな、一時期、取手に住んでてキリンビールの近くのアパートで上り線まで100Mなかったから
帰宅して眺めるのが楽しみでした。80牽引の24系から583になって13両編成には驚きました。炭鉱閉山で5歳で
内地に移住、18歳国鉄入社、23歳で松戸電車区で運転士になりました。本当に懐かしい思い出です。
1982年11月15日の国鉄全国ダイヤ改正で客車ゆうづる2往復の車両は青森運転所所属の24系25形寝台客車✕12両編成で上野ー青森間(奥羽本線経由)のあけぼの3・4号と秋田運転区所属の24系24形寝台客車✕12両編成開放型A寝台1両連結で上野ー秋田間(奥羽本線経由)のあけぼの5・2号とそれぞれ共通運用していました。尚24系25形寝台客車✕12両編成はモノクラス編成(A寝台なし、2段式開放型B寝台)です。24系および24系25形寝台客車の上野寄りに電源車1両が連結していました。
最盛期の本数は知ってましたが、上野発が3分間隔で運転されてたのに驚きました。
東北の日本海側に住んでますが、東京に遊びに行くときは、新幹線開業後もあけぼの使ってました。
新幹線では無かったワクワク感が毎回ありましたね。
まぁ、その頃は新幹線🚅にも食堂車🍽️やビュッフェ☕あってワクワクしたが😁
@@psychedelicraspberry517
食堂車やビュッフェ付き列車には就学前にしか乗った事ないので
ワクワク感が分かりません。
@@菊池勇悦あら😢
あら😢
もうだいぶ前の話になるが、アニメ「サザエさん」は時々一家で日本各地を旅する回がある。
確か北東北への旅行で、「ゆうづる」が登場していたのは憶えてる。
ただ、ヘッドマークは「ゆう”ず“る」と表記されてたっけ😅
会津に旅行に行った回では、しっかりと「さざえ堂」が出ていましたな。(*´・∀・)
1970年代はじめ、北海道小樽方面に帰省するのにゆうづるを利用しました。函館本線のC62けん引ニセコ3号に都合よく接続する上野23時発のゆうづる最終便は、1970年がゆうづる2号、71年が3号、72年が4号と何故か変わりました。この動画でその理由に納得です。
子供にとって寝台客車は楽しく、翌朝、北上平野の田園の流れる車窓を寝ぼけ眼で見たとき子供ながら旅情を感じたものでした。ただ、尻内(八戸)過ぎてから先が意外と長かったですね。青森の桟橋を小走りで連絡船に向かったことも懐かしく思い出しました。
私が小学生1〜2年生だった1977〜1978年頃の新幹線開業前の20番線まであった時の上野駅に夕方いると、両手を何回使っても数え切れない程の夜行寝台列車が地上ホームにやってきて子供心にワクワクしたものでした。「ゆうづる」だけでなく「はくつる」も何往復もありましたし、「北星」、「あけぼの」、「北陸」、「十和田」、「八甲田」、「津軽」、「鳥海」、「天の河」、「能登」、「越前」などすぐに思い浮かびます。あんなに沢山あった上野発の夜行寝台列車も今は定期では1本も無くなりました。寂しいこの頃ですね。50代半ばの親爺より。
この動画を見て、1970年代後半の国鉄運賃の大幅な値上げ(約2倍)が、寝台特急の衰退と飛行機需要(シェア)の拡大につながったことが分かりました。そして、新幹線の開通により決定的に寝台特急が衰退したわけですね。
1982年11月15日国鉄全国ダイヤ改正でゆうづるの運転本数が7往復から5往復に削減されました、内訳は定期列車4往復と季節列車1往復の合計5往復体制に変更されました、定期列車1往復が東北本線経由の寝台特急はくつる号に変更され車両が583系寝台電車🚃に置き換えられました、更に1985年3月14日の国鉄全国ダイヤ改正で季節、定期列車各1往復が廃止されて定期列車3往復体制に短縮されました、1986年11月1日の国鉄最後の全国ダイヤ改正で定期列車3往復のうち1往復が季節列車に格下げられました。
北斗星用の先行改造車が組み入れて走っていて、北斗星がデビューと引き換えにゆうづるは廃止を前提とした減便になったと思ってました。最終的には東北線周りになってはくつるになったような…。記憶違いだったのかな??
あまり知られていないですが、1971年から1972年の年末年始の繁忙期にそれまで急行瀬戸下り2号上り1号で使用浅れている14系寝台車の試作車をまとめて臨時の寝台特急はくつる51号が年末に同じく臨時の寝台特急ゆうづる51号が年始に運転されました。またゴウマルサンダイヤ改正からはゆうづる下り3号と上り7号は、583系だったが、寝台車ではなくて、全車指定席で1976年10月ダイヤ改正まで運転されました。なおこの改正では、客車列車が24系24型になっています。その他にも臨時で12系で運転されたり、14系座席車での運転もありました。12系のときには、特急料金が、100円引きでこの当時、しおじや、つばさなどけっこうありました。
水戸に住んでいた時、ゆうづるのグリーン車で上野や仙台に行ったのが懐かしい
私も18才の頃水戸駅の上りホームで、寝台電車🚃特急.ゆうずるを見ました.今はもう見られず残念です😢
この583系電車寝台特急は確か18才の頃、水戸駅上り線に止まってました、13両編成で、赤に白の鶴のマークそれを,水戸駅下りホームで見た時あーゆうずるだ、私は階段を駆け上がり,上り5番ホームに滑りこんだ😂その時の感想、格好良かつたな今からやく40年位前の話です😅
ゆうづる、なつい…
北海道から静岡への引っ越し、函館15:00出港の青函連絡船に乗り18:55青森着、19:20(だったかな)発ゆうづる4号(24系)で上野へ。翌年北海道へ戻ることになり、上野発ゆうづる1号で青森5:08着。5:25出港の青函連絡船で函館へ。往復ともに摩周丸だったな。
最後にゆうづるにお世話になったのは高校の修学旅行。583系ゆうづるに乗れたのは今となってはいい思い出です。
東北新幹線が無かった頃は、上野〜青森に9時間も掛かってたのね。まあ大変。新幹線作って良かった。
小学生の時に家族でゆうづる1号乗りました
親父の田舎が青森なんで
先日初めて行ったバーで他のお客さんが津軽海峡冬景色を歌っていて上野発の夜行列車で寝台列車と青函連絡船の話題をしたけど店の女の子が寝台列車や夜行列車を知らないのに驚いた!
四半世紀以上前だからね。
@@hiroshia5789
青函連絡船廃止から今年で35年も経過。
最後の上野発の正式な夜行列車、特急あけぼの廃止からも10年近く経過。
また上野発の夜行列車だけではなく、最後の国鉄ブルートレインの姿を残していた北斗星でさえ、廃止から8年経過。
夜行の長距離移動といえば安価な高速バスが当たり前なZ世代、特に鉄道無関心なねーちゃんにイミフな話題なのは当たり前やな。
東北自動車道の全線開通が1986年の夏。
同年の冬に運行を開始した東京・弘前間の夜行高速バスの大盛況を受けての全国的な新路線開設ラッシュが寝台列車と夜行列車の息の根を止めましたね。
子どもの頃の記憶ですが、本数としては はくつる<ゆうづる という記憶で、車両は はくつる=24系ブルトレ・ゆうづる=583系電車寝台 と刷り込まれたなぁ。
本当は客車の方のブルトレに乗ってみたいけど、寝台幅を見たら、三段だけど583の方が広くて寝やすいかなぁと、子供心に思い悩んだものでした。
私も図書館で、写真図鑑「日本の鉄道」と西村京太郎の短編「おおぞら3号殺人事件」を読んだ時に寝台特急「ゆうづる5号」と「ゆうづる1号」が登場していたな
「ゆうづる」には乗ったことがありませんでしたが、生き残った「はくつる」や「あけぼの」には晩年東北旅でずいぶんお世話になりました。
常磐線特急では「みちのく」に何度か乗りました。初めて北海道を旅したとき(未だ高校生だった)乗車したのが特急みちのく号、車内はビジネスマンが多く、みな途中駅で下車してましたね。
車内では当時危機に陥っていた巨大商社「安宅産業」の話題でもちきりだったことを思い出します。
新幹線が開業するまで、北海道の流氷を眺めるために毎年愛用してましたが、やはり往復「はつかり」利用が多かったです。連絡船は夜行便、出航時の蛍の光と朝着いたときのカッコーワルツのメロディがいまも頭に残ってます。
いま思うと、客車列車の「ゆうづる」のヘッドマークは素晴らしかったなあ、て思いますね。いちど乗ってみたかった・・・
1回だけ常磐線内を北斗星も走りました(東北本線内運転見合わせの為に)。当時東京行くのに最寄り駅行ったら停車していたので二度見しました。
祖母の家に行くのに、この時間よく乗ってました。懐かしい
ゆうづる(平機関区)の燃料は夕張炭だったのか、すぐ近くで石炭獲れるのにね。
寝台も利用したけど、寝苦しいのでグリーン車を利用したことがあった。ゆうづるの晩年、東大宮の基地で写真を撮らせてもらった。
夕鶴の特急券と急行ときわのチケット今でも持っているぞー。未使用で。
ゆうづる&十和田が多数走っていた時代、懐かしいですね。私は子どもの頃、仙台車両センター(当時・仙台電車区)の近くに住んでいましたが早朝に起きて「十和田」を見に行ったことがあります。ゆうづるは深夜に通過したのでダイヤが乱れないと見れませんでした。
ゆうづる号の牽引に、紹介されてた写真のようにED75の700番台も参加していたのですね。今年ED75の700番台の模型を購入、あけぼの号の牽引に使うためにと思ってましたが、ゆうづる号のヘッドマークも同時に付属していたため、片方の顔にあけぼの号、反対側にゆうづる号を装着させ、24系24形(ゆうづる号の時のみ14系14形も)を牽かせています(もちろん583系もうちには在籍してます)。
ゆかりの常磐線沿線にある某レイアウトに伺った際にも14系客車のゆうづる号を持ち込み、運転しましたが、客車を同とするさくら・みずほ号と客車を共通化し、持ち込み車両数を抑えつつさまざまな列車を走らせるという意図もあります。
87年の国鉄解体により、ゆうづるを担当していた青森区のED75-1000の大多数がJR貨物に転籍。
同時期に奥羽・羽越線のEF81が運用拡大し、捻出された秋田区の700番代を青森区に補充した形になった。
定期で3分続行、単線区間もある常磐線で7往復も走った「ゆうづる」、「はくつる」より先に消えてしまったのは、やはり夜行需要が……という要因だと思います。
国鉄の経営が良好だったとしても縮小は避けられなかったと思います。
もし285系が比較的早くに量産された世界線であれば、交直流対応車(585系?)によって「ゆうづる」も生き残っていたかもしれませんね。
ゆうづるの旅客需要が北斗星に移ったので少し違いますね。
昼は はつかり みちのく
夜は はくつる ゆうづる
あと 八甲田 津軽 十和田
懐かしいゆうづるの話しありがとうございます。ゆうづる1号によく乗り、北海道に行ってました。もっぱらパンタグラフ下の通称パン下中段でお得に乗ってました。3分から5分間隔で運行していたなんて今では考えられませんね。自分語りで申し訳ございません。
できれば編成表もいっしょに
お願いします
あと盛岡いき北星もあったね
列車名の「ゆうづる」は木下順二の戯曲から取られたそうです。わかりやすく言うと民話の
「鶴のおんがえし」です。
佐世保線の「早岐/佐世保」間のC11が最後じゃないですか?
違ったらすみません。
はつかりしか乗った事ありませんでした。因みに姉妹列車のはくつるは東北本線経由ではつかり同等のスピードでした。
だからはくつるの方が人気でしたね。 あけぼのとはくつるが全国の夜行で利用率No1,2だったはずです。
@@情弱ホイホイそれいつの話?1980年頃ならば「あけぼの」と「出雲」だがや😉
@@psychedelicraspberry517 それ新幹線できた82年以降の話じゃないの?
ヘッドマークと車体を見ると、幼少の頃の思い出が…
親の仕事で、小学校に上がるタイミングで函館から東京に出てきて、帰省の時は寝台のゆうづるやはくつる、急行の十和田や八甲田で青森へ行き、まだ明け方なのに大混雑な連絡船に乗って北海道へ渡ってました。
583系電車に乗ると子供だからいつも狭い上段に…当時は3段の一番高いところってだけで単純に喜んでましたが(^^;)
今や東京から北海道まで陸路でも4時間ちょっとで着いちゃう時代、長めの休みを取っても移動の楽しみはないんですよね…
急行十和田の20系と14系に乗る機会があったのは幸運でした。
最後まで残っていた「ゆうづる」は東北本線経由になって「はくつる」になっていたような。違ったかな?
東北本線経由の「はくつる」が「ゆうづる」よりも先に運行を開始。
「ゆうづる」廃止後も「はくつる」が残った。
私には言いたいことは分かります。そういう解釈で正しいです。
ちょうど30年前のJR東独自の12月1日ダイヤ改正、別名東北夜行列車大リストラ改正により、特急ゆうづるを廃止すると共に特急はくつるを2往復に増発。
実質、ゆうづるを東北本線経由にしたってことだな。
また東北本線夜行急行八甲田も廃止され、はくつるの1両に座席車両を設定。
それも僅か1年後の九州ブルトレリストラ12月改正により、はくつるは24系客車に置き換えられると共に1往復に再び戻され、同時に座席扱いも廃止。
@@5red90 八甲田の格上げと代替えとかいう記事もあるけど、空気運んでた八甲田の代替えなんてあるはずがないですよね。
当時道北に住んでいた親戚の家からの帰り、親に駄々をこねて最寄り駅から函館まで直通していた「おおとり」に接続する「はくつる」に乗せてもらったことがありましたが、東北夜行の花形は「ゆうづる」というイメージがあり、若干納得がいかなかったものでしたw (動画のネタになるのもゆうづるのほうが多い気がする)
とはいえ青函トンネルの開通で、盛岡と函館の乗り換えだけで道北まで行ける!と期待していた「おおとり」が連絡船もろともあえなく廃止されてしまい、あれが貴重な経験となりました。そして「ゆうづる」は乗らずじまい…
これは、ちゃんと鉄道ジャーナルや鉄道ファンを読まないと書いてなくてwiki丸写しだと分からない話ですが
・ゆうづる1.3.5は北海道連絡メイン、1.3は仙台ー札幌の利用も加味
・ゆうづる7.9は北海道連絡と青森八戸の両方
・ゆうづる11.13は青函連絡船接続はしているけど盛岡、青森利用メイン
という風に用途が分かれていました。
夏の北海道ワイド周遊券シーズンは全部北海道に行く若い人たちでいっぱいになりましたが。
70年代の早い時期から需要が減り始めた東海道のブルトレに比べて東北の夜行特急は人気あったんですよね。
北星という盛岡行きのブルトレもありましたし。
でも、富士ぶさが2009年まで粘っていたのに、東だけで廃止が決められるゆうづるはあっさりと廃止が決まりましたけど。
私のテツ師匠はゆうづるは何度も乗っていました。はくつる等は乗りましたが、ゆうづるは沿線で見ただけです。沿線住民
寝台特急ゆうづるで忘れてならないのは、ヨンゴウトウダイヤ改正まで20系で運転されていた下り2号と上り1号には、普通車の座席指定席が2両連結されていました。この座席は、座席部分が少し高くなっていて引退したJR東海の85系気動車のような座席でした。これであさかぜからつづいた普通車の座席車がなくなりました。後にナハ21とは違い、回転クロスシートのナハ20とナハフ21でした。なお下りの2号は、盛岡からは、自由席でした。
あたしはゆうづるが好きです。🐹🐱
晩年のゆうづる、はくつるどちらにも乗車した事あるが、本当にガラガラで需要の無さを感じた。
今なら目的は違うかも知れないが、それなりの需要はありそうだけどね。
急逝した祖父の葬式に参加する為に、客車化された「はくつる」に乗ったけどシーズンでもないのにB寝台が埋まっていて仕方なくA個室寝台を使ったぞ。
その前にも583系時代の「ゆうづる」に何度か乗ったけど、そこそこ乗っていたよ。
そもそも「はくつる」が廃止されたのも需要は見込めるけど東北新幹線の八戸開業で盛岡〜八戸が三セクになる事で採算が取れなくなるという理由だった筈。
余談ながら前述の「はくつる」A個室はメッチャ良かった。葬式に赴くというのにウッキウキだった。スマン祖父。
あと乗車記念に切符を下さいと言ったら規則で無理ですと言われ仕方なく差し出したら、いやいや見せなかった良いんですよ、と言ってそのままくれた三戸駅の駅員さん本当にありがとう。
新幹線があるので需要はありません
寝台特急夕鶴、はくつる、特にはくつる超が付く人気列車で、寝台券発売開始から直に売り切れ続出の列車で、その補完でゆうづるが誕生しています。時刻表でもわかるように2列車が対になっていてほとんど国鉄が北海道連絡を担っていました。
ゆうづる7往復、十和田3往復
3往復にゆうづるが減便された時期に、仙台から上野まで583系ゆうづる6号のグリーン車に乗ったなぁ〜❕客車列車のゆうづるは、青森から上野まで25系のゆうづる2号に乗った。十和田は14系座席車の1号に上野から青森まで・20系で元Å寝台車を改造した座席車に、上野から花巻まで乗ったかな?
中距離なら寝台よりもグリーン車でリクライニングの方がいいと思いました。
@@hiroshia5789 私も深夜1時過ぎの仙台からなら、グリーン車の方が良いと思って。
急行の「北斗」は小樽の祖父が東京に遊びに来た時に帰りに使っていました。上野駅まで見送りに行って夜行の急行にワクワクしていました。
東京から雁行で西に向かう夜行急行、上のから北に向かう急行群、20系の華やかさはないですが大好きでした。
「北斗」は「ゆうづる」に格上げ後に北海道に行きましたね。北海道で乗りました。
「ゆうづる」になってからは自分では20系、583系の両方に乗ったことがあります。東北本線の「はくつる」も大学受験で乗りました。
自分が最後に乗ったブルトレ「北斗星」に使命を譲って消えていきましたがこの先どこかで復活してほしい愛称です。
はくつるもゆうづるもブルートレイン時期が確かにあったんだけど軍配は実はゆうづる側!なんだよね。知ってるかな?はくつる側はあさかぜからの再利用車両でA個室寝台が最高位!しかしゆうづる側は後の北斗星の関係でA2のスイート扱いのツインデラックス!それが連結されたんだよね!
SL牽引定期特急の最後って、さくらの早岐~佐世保じゃなかったでしたっけ?
東北本線の線路容量が足りなかったので、常磐線経由のゆうづるとして運転された。
新幹線開業で余裕が出来たので、真っ先に廃止されたのだろう。
時間かかるし、あとは「動労水戸」もあるし
個人的には常磐線は東北線の電化までしか役目がなかったように思えます。電化が完成して、485系が開発されたと同時に今までの勾配区間が噓のように克服され、常磐線経由でなくとも所要時間短縮が見込めたんですね。485・583系は奇しくも客車急行や特急を消した物ではあるものの、東北・常磐線の高速化の為には電車特急の道しか残されていなかった為仕方がないと思いますね。
確か仙台まで、東北本線経由で行くより常磐線の方が、距離が、約14キロ長いと、何かの鉄道雑誌に書いてありましたね。本当ですか。
いや、東北本線は夜行貨物で混んでたから夜行旅客は常磐線😉
愛称に「ゆう」が付く列車、「ゆうづる」「ゆうなぎ」「夕月」「ゆうしお」「ゆうかぜ」「夕星」「はまゆう」
いきなり運賃が倍になるとは今日日の「インフレ」なんかまだヌルく感じるな(当時は給料も上がっていったんだろうが)
田中角栄首相の頃で、内閣支持率は狂乱物価になる前には62%もあったのにこのおかげで内閣支持率は一気に18%まで下がってしまいました。😭
583系「ゆうづる」は寝台をセットしない全車指定席の列車があったな
臨時列車ですね。
いや臨時列車ではなく、昭和50年~51年の1年間だけ、定期列車の下り2号と上り7号の583系で全車座席指定として存在していました。
恐らくこの頃は、国鉄で車掌補が廃止されたことによる寝台セット要員不足だったのではないかと思われます。
定期でありました。
夜行のはつかりみたいなもんか?🤔
@@kamimiso9
みちのく「ワイの事忘れんといてや」
3:15 1973年4月にあけぼの号、同年5月に彗星号で蒸気機関車による牽引が行われたので間違えとなります。
3:15 😉
@@psychedelicraspberry517 ありがとうございます!
常磐新幹線も開業して欲しいです。
夜行列車の減少は利用者数が少なくなったでよいですが、廃止は合理化と、今でいう働き方改革によるもの。
職員の夜勤を減らせばコスト削減ができるし、労働組合がさんざん挙げていた夜勤の廃止が実現できるから。
14系☆
24系24形☆
583系☆☆
24系25形☆☆☆
どっかの特急大百科で「北へ向かう七つ星」なんて書かれてたな
小学生の時に一度だけ、北斗~連絡船~ゆうづるで東京まで行ったな
上京後は十和田、津軽、八甲田、北斗星のお世話になりました
ところで、あれだけゆうづるが走ってたのに何ではくつるはずっと1往復だったんだろう?
青森朝5時ちょい過ぎに着いて、連絡船の寝台で二度寝した人居そう
俺は、電ハネゆうづるが気に入ってます。
電車の「ゆうつる」乗りました。
「ゆうづる」「はくつる」は特許庁のデータベースで検索しても商標登録されていないんだよな。「はつかり」はJR東日本がしているのにね。なんでかな。JR東は「あさかぜ」だって登録しているのにさ。
誰か急行あぶくまの解説して貰えないかな‼️
何回も乗りました。
でもゴッパーサンは避けて客レばかりを選んでいました。
20系十和田にも乗りましたが、当時のゆうづるは14系だったと思いますが三段寝台だったので停車駅の多さくらいしか大して違いを感じなかったです。
華やかな九州ブルトレに憧れました笑
国鉄内のヒエラルキーの前に、東北ブルトレは利用者が多いので三段じゃないとさばけないという事情があったんです・・
寝台特急「ゆうづる」は青森で生関連作戦と連絡して特急「おおぞら」や特急「おおとり」と連絡していた。
本当に北海道新幹線は不必要。北海道が新幹線が欲しいのなら、自分達で八戸駅⇄札幌駅間の北海道新幹線を作ればいい。どうせ自分達では殆ど北海道新幹線利用しないで、首都圏需要頼みの赤字路線は確実なのだから。
人気機関車型?驚き、は審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両在る列車?、しばらく後に営業です。
ゆうづる、はくつる583系電車では
3段の中段寝台でパンタグラフ下を指定
実質2段でよく利用しました(*^-^*)
この意味わかる方います?(*´ω`)
私もきたぐにを2011年に利用した際、パンタ下中段を利用しました。
そこは上段が設けられなかったため、天井がやや高い上に寝台料金も他の中段と変わらないのでお得でしたね。
ただ、横幅も70センチなので、リュックにお土産もかかえての乗車だった自分は置き場所に困りました😅
あのスペースはB寝台(3段寝台)利用者の特等席で料金はB寝台なのに、中段の空間がA寝台並なので緑の窓口のある駅での駅員さんが操るマルス発券機での争奪戦は激しかったです。
オイラは、はくつる〜あけぼのッスね🤟🤘👍
ゆうづるねえ。 オラは三男。5人家族の長男(高卒社会人ルーキーの為)不参加の家族旅行で企画立案者の我が父が旅行会社に委託で往復の航空機予約に失敗(青森旅行を聞いて飛行機予約失敗願った)で行きが客車願い叶いの寝台ゆうづる、帰りが583願い叶いの日中帰り特急はつかりだったが行きは機関車のブレーキで玉突き音で寝れなかった。帰りは道中が長く感じたが583の相席はリクライニング無しも辛かった。その12年後 東北新幹線は上野‐盛岡時代で新宿から快速フェアフェイ黒磯行の指定席を抑えて鈍行だけ移動で青森行った方が黒磯以北はリクライニングシートないクロスシート続きながら福島で乗換え時間3分 仙台で乗換え時間1分とかハラハラ味わったが成功で何故か楽しかったのがテツ&トモ並になんでだろ~だった。
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