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死にたいんじゃなくて、色んな問題がゴチャゴチャしてわからなくなってて、助けて欲しいけど、言語化がうまくできず困っている、って思う時があります。
「死ぬ勇気があれば何でもできるでしょ」という人居ますが幸せな人だなあと思います。死ぬのに勇気なんて要らない、ただ絶望と苦しみがあるだけで、そこから佚れたいくらい辛いんだろうと思う。
死については夏目漱石の夢十夜、第七夜を去年読み返して大分考え方が変わったような気がします。死とはどういったことか、というよりも読んだ場面でいざ死ぬというときのぬっと暗い液体に飲まれる感覚に不思議と「こういうものなのかもな」と心の底から納得してしまったような気がします。ずっと希死念慮があり、色々な理屈を読んだりこねくり回して生きてきましたが、それ以降はほとんどありません。自分にとっての死は、だいたいは、退屈だとか屈辱だとか恥だとか孤独だとか、何かしら別の適切な言葉がありました。第七夜の主人公は、気付いたら乗っていたどこに行くか分からない船の中、乗客の中ひとり孤独で死を決心します。そうして海に飛び込みます。そして最後に「自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の公開と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」そのときは久しぶりの強い希死念慮があり、主人公にのめり込んでしまいある種のシミュレーションのような体験をしました。主人公は私の代わりに死んで、私の代わりに後悔をしてくれたのだと思います。
だいぶ前に読んだことがあり、子供の話以外忘れてました。抜き出していただいたので、何となく思い出せました。ありがとうございます。
@@meimeikoyagi1637 よかったです!
「つらくてつらくて」と死を選んだ弟は、本当は、生きていたかったんだと思います。
いい子、理性的であることに疲れます。常に葛藤と戦っています。カウンセリングを続けるといい子である事、理性的である事が良いことなんだという考えになってしまいます。本当は1番慰めてあげなきゃいけない「心の奥底にいる凶暴な感情の私」をうまく扱えない。その子が暴れ出すと死にたくなります。
益田先生やメンタル系RUclipsrの会先生方、ここで出逢えた皆様との繋がりが、私の救いになっております。心より感謝いたします。人には終わりがあるということを忘れずに、今この瞬間を大切に、人との繋がりを大切に、踠きながらも、日々学びながら生きていきたいと思っております。益田先生、皆様、いつも優しさをありがとうございます。またここで皆様にお会いできると嬉しいです。
頭や心を使いすぎてることに疲れてるから、頭と心を使いたくない。私の場合死にたいより、考えるのをやめたい、冬眠したい、一旦時を止めたいと同義。
死んだ後に自分がどうなるかなんて本当にどうでもいいなと私は感じます。私が何度か自死をとどまれた理由はやはり妻と子供たちの存在が大きいです。何度か家からいなくなった時に泣いてくれている姿は今でも脳裏に焼き付いています。死んだら楽かもしれませんが、もっと苦しい想いをするんでしょうね。
誰も私の死を真剣には気にしない、という想像をしてしまい、冷や汗が出てきます。ひとりで生きるのって本当に辛いです。
今の状況を抜け出したいから死にたいと言う、先生の言葉に自分の気持ちを言い当てられたような気持ちでした。死は残される者が傷つき辛い状況に置かれるだけだとわかっています。でも今の辛い状況が苦しくてどうしようもできず死にたいと言ってしまう。死がもたらす影響がどんなに重いものかこれまでの経験でわかっているはずなのに。今の状況が改善され大切にしたい人や物と良き生活を送れる日を諦めたくないと思います。自分の気持ちをよく見つめてみたい。死という言葉で考えるのを止めたくないです。心に響く言葉をありがとうございます。
漠然とした消えたい感情にたまに襲われることがあり死後の事、周りが悲しむことも分かってはいるけれど希死念慮を拭いきれずにいました。ある時RUclipsで残された側の人の動画を見ることがあり親を失った彼の言葉を聞いて、初めて死んだ後のことをリアルに感じる事が出来、今まで自分は分かっているようで分かっていなかったんだと気づきました。そして娘の為にも死んじゃいけないなと強く思いました。いつか死んじゃいけないじゃなくて死にたくないって思えるようになりたいです。
両親や友達、周りの環境に恵まれています。私じゃないひとがこの人生を送っていたのならば、きっととても幸せに過ごせると思います。なんでこんなに辛いんだろう。死後の世界があるないは、今の私にとってはこの環境から逃げたいが1番強いからどっちでもいいな。でも亡くなったひとが死後の世界でご家族に再会することが出来たらいいなと思っています。皆さまの未来が少しでも明るく希望がもてますように。
「死にたい」にはそういう意味があったんですね。「死にたい」→「助けてほしい」、「今の苦しみをとってほしい」「寂しくて、心細くて、自分のことを否定してしまう」、「こんな人生嫌だな」→「今の人生を変えたい」という意味での「死にたい」寂しくて、心細くて、自分のことを否定してしまったら、先生のRUclipsを思い出して、自分の本当の気持ちに耳を傾けて前を向いて歩いていきます。自分に対しても相手に対してもそう思えるようにしたいです。死ぬという概念も多様なんですね🥲前向きな解決策を考えていきます。悪い方に考えてしまう癖があるので、自分の癖に自覚して変える努力をしていきます。先生、優しい🥲
昔具合が悪くて何もかも投げ出したいときに○にたいって言ってましたね自分の前にある様々な障害を取り除いてほしかった。面倒くさいこと、辛いことを変わりになんとかして欲しかった。治療にかなり積極的でしたが、頑張るのを辞めたい気持ちもありましたね。
生きる意味にいま、つまづいている
おれも
禅の教えに行雲流水という言葉があります。日々の流れに任せるということなんですが、別に主体的じゃないとかそういう意味じゃなくて、深い四文字なので私が言葉にできるかはわかりませんが、肩の力を抜き…どうにもならないことは長鞭馬腹という言葉があるようにどうにもならないので、絶望せずに流していくというか…あ、これは哲人皇帝のマルクス・アウレリウスという方も同じ意見なんですが、とにかく何か力みを取ったらまた変わるんじゃないかと。是非試してみたらと思います。
生きる意味は「生かされてる」ってことなんだと思うなので 自分が生かされてるのは何のためなのか考えてみると分かるかもよ
@@コクヨかパイロットか ためになります。ありがとうございます。
@@ミユボー はい。答えを探してみます。
生きていることが向いてないと思って死にたいと考えたことがあります
自分は生きたいと思いながら、自傷をし、死ぬための準備をし、ある日あまりにも苦しくて悲しくて、衝動的に実行しました。それ以来、自分が感情的になるのが怖くて、できるだけ何もしない日々を送っています。でも、辛いですね。周りにそういう人がいたら、実行してしまう前に、誰かが止めてあげて欲しい、セーフティネットになって欲しい、そう思います。
最近、自分には生きがいがない、好きなものや、やりたいことなんて無くてこの先年老いていくだけだと思って死にたくなる時があります。今まで何度もやりたいことを探しましたが何一つとして自分にはまったものがありませんでした。どれもこれも自分がやりたいこととしてしっくりこなくて虚無感に苛まれる毎日です。そんな日々が続くと自分が生きる必要性があるのかなど考えてしまって死にたくなります。ですが自殺行為は苦しいだろうし自殺行為をするやる気や勇気が出ません。食べなければ死ねるのにとか思ってもお腹が空いたら何かしら食べていて… 死にたいのに未だに生きています。やりたいことがなくても生きてていいのだとはなんとなく頭で分かっていますがそれでもやっぱり死にたくなる時があり辛いです。そして死にたくなっても勇気が出ず死ねないことも辛いです。
入院中の主治医からは、とにかく衝動性がすごいからホントにあなたは死んでしまうよ、行動に常に意識を持つようにと言われて、自分なりに危険を感じる時は外から出ず寝てます(ADHD、ASD、鬱、パニック診断)
死という現象を俯瞰でしか感じられない以上は、最大限の感情の表現が死なんだと思います。何度もその感情に襲われましたが、実感は二通りで、・苦しい状況からとにかく脱したいということ・強い自責の念によって、死ななければいけないほどの罪の意識です。その感情になった時に別の言葉(仕事がキツすぎて辛い、振られて寂しい悲しいetc)に言い換えるということを学びましたがそれは本当の死を避けることと、自分の本当の気持ちに気付くのにとても有効だと思います。
うつ状態にあると疲れきってしまう、、そこから死にたいって思ってしまうのでは?言葉にできない心身の状態なんですよね。お薬に頼って休息しましょう…。
「死ぬという概念が多様」というのはすごくわかる気がします。カウンセラーさんに自分が思う「死」や「死に望むこと」を語ると、「それは考えたことなかった」とか「それ(死に望むこと)を条件に死を選ぶのは軽率に感じる」といった反応がありました。自分の考え方を受け容れられなかったことで特に何かを感じることもなかったため、自分の中の「死」が理解されないこと、もしくは「死に多様性がある」ことを、どこか直感的に理解してるのかもしれません。というか…過去に散々「死にたい」を否定されてきたので、周囲の理解を期待してないだけかもしれません。
同じ個体でもその時々の精神状態、周辺状態によって死について考えることは変わってくるだろうしなぁ今の自分は法的な手続きとか葬式とか相続とか遺品整理とか、その後の家族や友人がまぁ少しずつ自分の死に慣れてまた一日一日生きていく感じとかを想像するなぁ
薄っぺらい励ましじゃなくて学問みたいに論理的に話を広げてくれるの凄い好き
以前は死んでしまいたいと思ってました。半年程もがきながら少し持ち直しかけてたところに、また同じ事(人)が絡んできてその度にリスカしてしまいます。今は死ぬのは苦しいだろうし怖いと考えるようになり、先生の言われる様に消えてしまいたい、誰か助けてほしいが本音だと感じてます。半年前に精神科予約のお願いしてたところがやっと連絡来たのに、引っ越しすることになりまた一から病院探しです。誰にも頼れない、たった1人だけでいいのでこの気持ち受け止めて欲しいと思ってます😢先生のところに受診したい…精神科
先生、コメント見てくださりありがとうございます😭
生きてることに疲れた、辛い毎日を泣きながら生きているなら、やってしまっても仕方ないかな。
議論が噛み合わないのは多様で定義がしにくいからというのがなるほどと思いました。私は「死にたいじゃなくて消えたい」じゃないか、とかいう言い換えを提案されると、言い換えの言葉が感情と一致しなくてモゾモゾと気持ち悪い感じがするタイプですが、理解できるところがありました。
今まさにしにたくて、川沿いをふらふら歩いていました。もっと頭がはっきり内容を理解できるときに聞き返します。って思ってる時点で、本当はしにたくないのかな。
私は小学3時、親に「人は死んだらどうなるの?」と質問。親は「死んだらずーっと寝てるのよ」と言い私は心の中で「えー!そんなのつまんないじゃん!いい事した人も悪い事した人も一緒なの?つまんない」と思いました。私だって生きているの嫌になった時、十字路で左右も確認せず道路に飛び出したら事故で死ねるかなとか考えた事もある人間です。でも死後の世界は必ずあると確信してるので今を大切に(しよう)!と思っています。
今回も動画、ありがとうございました。若い頃は上手くいかない人生から逃れたくて、嫌でしかたなかったです。私の場合、超未熟児で出生したので死と生きるは隣り合わせでした。最近は、メンタル不調、橋本病、視力の衰えがありますが、生きているだけでありがたい気がします。
😅 10:00 10:04 😅😅😮😮
明日死ぬって思ったら、自然とじゃあその前に一番したい事をしなくちゃって気持ちが湧きました。うつって本当に実際の死とは遠い場所で苦しんでいるんですね。
死にたい、死ぬしかない。とよく言っている子が身近にいます。。その子は頭も良くて、美人で、周りからもたくさん愛されて、家も裕福で。。私からみたら恵まれていることだらけです。だけど本人はこんなにめぐまれているのにがんばれない自分は生きている資格がないと、、。そんな考えかたもあるんですね。周りはどうしたらいいのでしょうか。。
生命なんてただの化学反応だったり、脳の働きなんて電気信号次第だったりするので、死んだらその段階で全て終わると思います。また今日のお話から、元レーサーの太田哲也さんの事故に関する自叙伝に、大変な大クラッシュで瀕死のケガをされたにも関わらず、ご自身が感じられたのはカシャッという音だけだったという記載があるのを思い出しました。
動画ありがとうございます😊私自身は想像出来ていないと思います。意識と存在が無くなる、想像そのものが無くなるのかなと思っています。ずっと保護された猫さんと暮らしていますが、抵抗することも叶わずこうして我が家に連れられている。彼女に習い、しなやかになりたい、しなやかでありたい。生死すべてでそうありたい。
「死にたい」って発言は「美味しい」の中に五味や食感が内包されているように、複雑なものを言い表せない時に出る言葉ですよね。
確かにその通りですね❤これからは逃げずに問題を解決してゆきますよ😁
明日どうなるかなんてわからないので、明日も必ず生きてると言い切れる人は凄いと思います。そう思って1日1日を後悔無く生きる事が大切なのだと思います。そもそも、生まれたら必ず死ぬ事は決まっているので、「まだ死なないから」と言う高齢の方はなんの根拠があって…とその自信と楽天的さが羨ましい。なるべく苦しまないで死にたいので、計画性を持って挑みたいですねぇ。医療従事者は、きっと死と見直なので考えてる人は多いのではないでしょうか。
もう亡くなりましたが、私の祖父母は、90過ぎてもお金が足りないと嘆き、溜め込んでました。子供や孫にも還元せず、ケチでした。病院に行きまくって薬をたくさん飲めば若い頃のように体力が戻り、スタスタ歩けるようになると思っているようでした。お金は墓場まで持って行けないし、人間だって形ある物だから経年劣化して不可逆的に弱くなる=老いる、そしてやがて死ぬが全く考えられないようでした延命措置も希望してました死ぬか想像できないってこんな感じかなぁと思ったので例を挙げましたいつも動画ありがとうございます。
自分の死より大切な人の死を 自分は受けいられるか そちらの方が不安です。大切な人を看取るより看取られた方が 良いなと思ってしまう。残された時間を生きていく方が不安な私です。ただこればかりは誰にも分からないし とは思っています。
コメント失礼します。別居している母が、幻聴がひどくたぶん統合失調症だと思っています。だいぶ前から精神的な不調を感じていました。何度も試みるもなかなか精神科に行くことが出来ず、寄り添いサポートしていた父も心労含め急死しました。父の死から、母に内科処方での抗不安薬の薬を飲んでもらい朝晩のリズムが出来、定期的に帰省していますが、最近また幻聴や感情の起伏、対人トラブルが出てきました。ちゃんと精神科で治療をしたいです。母をちゃんと治療するスタートアップをする方法や働きかけ、声かけを専門医の先生のお話聞けると嬉しいです。
私は死にたい=なんらから逃げたいって思ってます。自分から逃げたい、現状から逃げたい。そこは色々あるけど
母がくも膜下出血で亡くなった際、頭痛で苦しんだかもしれないけどまさか死ぬとは思ってなかっただろうなって思います死にそうなくらい痛い、とは思ったかもしれないけどきっと母は翌日も生きるつもりだったはずだしそんなことがあってからの私は、実家の片付けやお墓の話、実兄が施主で法要などしていますが元より仲がそこまで良くないために色々目につくこともあったりと色々精神的に負担がかかって、眠った後に目覚めなければいいのにと自分自身に思ったりもします実際に目覚めなければ死んでいるも同然だけれど死にたい、と言うのとはまた違うかな死にたい、だと恐怖を感じます自分でも矛盾だなあと思います
気づいたらいつのまにか産まれていて精神活動もしていた。そして命尽きた瞬間以降は「いつのまにか」という感想すら生じない。仏教において「生老病死」が「苦(ドゥッカ)」であるとはよく言ったものですね。
私は幸せに生きたいだけなのに、死以外の選択肢がわからない、社会が死以外の選択肢を私から奪っているとか、感じることがあります。それなのに私が死ぬ事を選ぼうとしているみたいに言われる。他に選べることがないだけなのに。
死後は無だと思ってます。ただ身近にいた誰かの記憶に残るだけだと。
○にたい、という言葉言葉とおりに聞いていません。益田先生がお話しされて いたように助けてほしいと聞こえてしまいます。
強迫性障害がひどかったころ「死にたい」じゃなく「消えたい」と考えていました。つまり死ねない理由があるのだから生きるしかないとあきらめました。いまはあのころ治らないと悲観していたよりは回復しました。よかったと思ういっぽう、いまだに脳がおかしいのを感じると消えたくなります。人のために生きているのも意味があると思いたいです。
普通と異常の境界線、努力と頑張りすぎの境界線と、わがままと自分の意志を大切にするの違いを教えてほしいです。
限界まで努力した結果、精神疾患で仕事や色々な物を失ったので、私もその境界線が知りたいです。あの時「無責任」と言われようが全部放り出して逃げていたら、こんなに何年も治療に費やすことは無かっただろうな…
@@keikonakagawa2461 そうなのですね。おっしゃっている限界まで努力したの限界って、どこまでですか?私も抗うつ薬と抗不安薬飲みながら医療の仕事してる身なんですけどこの時点で限界なのかそれともまだできるのかいつまでやればその限界が訪れるのかの判断ができなくて困ってます。
消えたい、いなくなりたい時に使ってました。
死それ自体に対してここまで深く考えたことがありませんでした。死の哲学の話とも感じましたし、もっと追及されるべき哲学テーマとも思いました。死についてもっと哲学的に突き詰められれば、多様にある「死にたい」を救うことができるのかもと考えました。
確かに、消えたいですね。自分の存在意義を感じません。否定されて、邪魔扱いされてる日々にもう嫌気がさしています。
個人的な意見ですが、医療現場で毎回、感じるのは「死」の捉え方によってその人の人間性が色濃く感じられると思います。「死」を否認して、周りに当たる方もいれば、洋画の「最高な人生の見つけ方」の様に割り切って過ごす方もいたり等、客観的に観察しても千差万別で凡人にはまとめられない概念だと感じます。私的な感覚での話題になりますが、「死」を受容している方の多くは、経験が豊富であり、柔軟な思考的かつその人なりで「人生」を納得された方が多いと感じています。私も含め神経系の障がいを持つ方には「人生」の生き方に偏りがあり、日々日常を”must to”で生きている考えも少なく無いです。私的なコメントにはなりますが、今回の動画をきっかけにより多くの人と交流して私自身の「人生」の生き方を変えていこうと思いました。
腸閉塞の発作を起こして、でもお金がないから救急車を呼べなくて結局、自宅療養で二週間ほど飲まず食わず点滴もなしという条件で寝たきりの生活をしたことがあります。最後の方、“なんで死んでないのか”という疑問を覚えるまでに至りました(甘味の強い乳酸菌飲料が飲みたいという強い飢餓感の後くらいに)。それから違うタイミングで結局入院して、その際に手術をして貰えて、7年経ちました。子供が中学生に入学するくらいの時間をかけて少しずつ、人間に近付いています。これからも色々と、学ばせていただきたいと思います。お読みいただきましてありがとうございました。
考えさせられました。深いですね。
てんかん・解離性障害・不安神経障害を治療しています。信頼できる先生も、気軽に電話できる先生もいますが、益田先生のRUclipsを淡々とみることで落ち着くこともあるので、お忙しい中ありがとうございます。感謝してます。
昔から「死にたくない」という気持ちがよく分からないし、理解できません...いや、実際死ぬことになったら、私もそう思うのでしょうか...?🤔
神も天国や地獄も無く 死後は無だと思います。
確かに、今の状況から逃げだしたい。家族まるごと助けてほしい。というほうが今の気持ちにしっくりくるのかもしれません。今回も動画ありがとうございました。
今日も、動画、ありがとうございました。🍪🤱🍰🤱🎂🤱
問題が解決したら、限られた選択肢以外の選択ができる人って多いんじゃないかな…と漠然と思ってます
子どもは、嫌気がさすとシヌシヌ言う子はいます。自分のカードが手詰まりで対応できなくて、癇癪でゲームをリセットするみたいに言っている感じかな?口癖だったり愚痴だったり。大人はどうでしょうね…。死んで楽になるとは限りませんけど、亡くなった人をみて、そうなれたら良いなと思うのかな。そういう人にとって死は、安らかな眠りの場所なのかも。苦しい死をみている人は、死に救いを求めない気がします。死に対する印象も様々ですね。そんな概念もなにもかも感じなくなったときが怖い。だから学ぶのですよね、病気に負けないように。
私は昨年、父が病気を苦に自○しました。遺族になって今まで遠い事の様に思ってた死が身近になりました。私はうつで会社を辞めており、フラッシュバックやこの先の人生の不安で死にたくなる時があります。しかし、遺族になった事で自○をした後に家族や周りがどうなるかを身をもって実感したので、辛いけどなんとなく生きています。
こんばんは!決まった答えのない問いを考え続けるのですよね。しにたいの裏にある、本心には、自分でも気づけないように思います。死ぬ、ということを、望む、という、文字通りの意味ではないと、私も思っています。その、裏にある本当の望みを、知る手助けをしてくださったり、その望みを叶えていくための試行錯誤へのヒントを一緒に考えてくださる存在が、先生だったりするなぁと思います!プレゼン云々ではなく、むしろ何らかの確たる答えを提示するとしたら、それこそ何らかの偏りを断定することになるような気がします。一人一人が、自由に考えて、答えを見つけたいですよね、私も!今日もおもしろかったです!
この動画で改めて死について深く考えました。そして諦めました。
本気で楽になりたくてODをしたことがありますが、死は色々と困難なのだと思い知りました。今でも希死念慮はありますが…
死ねればどんな方法でもいいと思えたら本当に死にたいって事だと思ってる。
なんだか、中盤は何の意味があるのだろう?とは思いました。これを見て、死に対してどうでもよいと一時的にでも思えたなら幸いかなとは思います。信じるに価することということを言われた人がいて、それを聞いたときはビックリしました。信じるにも、価することとそれほど価しないことがありますね。ひとつには生まれたら必ず死ぬということとその人は言われました。信じるに価することというのは、人生の中でそこまで多くはないように思いますが、せめてより良く生きたい、少しはマシになるだろう信じて生きることが個人的には全てという感じです。
挿管鎮静で呼吸器管理、栄養管理もされて、半年後あたりに鎮静切ってもらってそれでいて廃用も起きないような病気があればいいのにと思う。
もう死にそう〜とか、病んでるわ〜とか、軽々しく口にしなくなった事は事実です。
死んだ後より死ぬまでが不安です
辛くて死にたいと思うぐらいこころが痛い時、身体があることが気持ち悪くなります。酷い時はそのまま自傷してました。瞬間的に冷静にこころの中を言語化できない時「死にたい」になります。
私は、いつも死にたいと思いながら生きています。何故死にたいのか?あまりに辛く、良い事がない人生。47歳です。死んで、生まれ変わって、幸せになりたい。って思います。
人は、生きている間に、魂を磨くこと。が、大事。だから、目標に向かって成長すること。が、大事。事故や天災などにより、死んでしまったら、悔しい。
私は医療従事者としてステルベンに対してわかりますが、それでもODを彼氏と喧嘩して発作的にしてしまったこともあります。
自爆テロを行うテロリストも、最初は興奮と熱狂で感覚がマヒしていますが、天国へ行くという教えであってもいざ向かう直前は手や体が震えていたりするそうな。
人間が、一人一人数え切れないくらいの人間が生きているので、死ぬということも、今生きている人間の数だけ、あるのだと思います。
今までも、自殺未遂たくさんしていて、いちばん上手くいったときは、気を失っている間、とても、気持ちよくなりました。
死は70歳に手が届く私には日々 思います一人っ子の私は父の癌の一年間の闘病後の死母の70歳にして統合失調症で幻聴になり入院して3年くらいは面会の時に 私がいるから大丈夫よと言うと24時間 幻聴が聞こえている母は大丈夫じゃないと言いました大丈夫と言う言葉はときには傷つける言葉だと知りました。もう母も6年前に亡くなり愛猫も昨年9月に腎不全で亡くし身近でもはや私には両親、親族もおりません。発達障がいと鬱病の私にとり今は唯一 間もなく15歳になる心臓疾患を持つ愛猫だけが支えです夫も私の精神疾患や身障や年の衰えの理解もありません。死が怖いという意識はなく死後の世も分かりませんが日々 衰えてゆく自分は友人も精神疾患も通院中の医師には何ももはや話せず薬だけの処方です 昨日60日分の薬が出されました。夫は自分では分かっていませんが言葉がきつく ある意味言葉の暴力を20年以上に渡り受けてきました。もう疲れました。私の死後は火葬のみで粉骨にして亡くした愛猫とこの夏もはや医師も匙を投げた愛猫を看とったらば火葬で粉骨にしてもらい 自分も火葬粉骨になった時に愛猫の骨と一緒に散骨を遺書として残しておりますたまに帰宅の夫の言葉の暴力にも疲れ果てました。 話せる精神病院を探す気力ももはやありません。夫が帰宅すると食べてなくても下痢と腹痛が 昨年9月には20キロ近く体重が落ち痩せました今も週に3キロは落ち続けています もう薬も飲まず食べることもせずに ただ愛猫の世話を 自分が先か愛猫が先かも分かりませんが 益田先生 動画配信ありがとうございましたごめんなさい
自分の死後のイメージというか望みは体が死ねばそれが完全な死であってほしいと言うことです。魂がその後どうなるかということは考えたくありません。あの世で会いたい人もいないし、もう私というモノがなくなればいいと思っています。双極性障害で難病患者でもあります。呼吸器疾患なので在宅酸素で車椅子です。歩けない程の呼吸苦を抱えながら生きていくのは、もう無理ゲーだよと思います。そこに今後は老化も加わってきます。いつ急性増悪するか分からないため、毎日死を感じながら生きています。急性増悪した場合は人工呼吸器、エクモ、心マ、胃ろうなどは一切拒否するつもりです。
し(あわせ)に(いき)たい😔💭
自分にとって。存在の大きさとその絶対感。この絶対感は何とも比べることさえできないもので。真実とか、世界そのものとか、神みたいな。そういう種類の概念。これを体感したことがない人はわからないと思う。死は生まれる前に戻るだけとか。自分はへっちゃらみたいなこと言う人とか。
死ぬ事をあの世に逝くと言ったりもしますが自分にとってはこの世に居場所がないかな
「死にたいぐらい」〇〇なんです…と捉えようとはしているのですが…。
ずっと寝ていたいのは死んでる状態と同じような状態だからなのかな
ODした時みたいに自我が弱くなってふっと意識が消えてそのままになると思ってました
人によって違いそうですね。浮遊霊もいれば地縛霊もいるし、成仏する場合もあるし、何もない場合もあるだろうとw仮に何かあったとしたら、生前の恨みを晴らすとかそういう方向ではなく、とりあえず自由に行きたい所に行ってみたいw
次の瞬間 死ぬかもしれない、殺し殺されるかもしれない、自死するかもしれない。死を想像し意識して身近においておくことで 今を健やかに生きられる気がすします。
死んでも影響がないし、生きてる価値がない。ただ死んで何も考えられなくなることも怖い。ただ一人泣いて一晩を過ごす毎日。
シんだ後は無だと思っています。今の季節だと、部屋で腐ってしまうかもしれませんが。出来れば、仕事の引き継ぎを終えてからにしたいとは思っています。
Yさん。別のところで(大学生の話題)やり取りしているYさんですかね。
@@藻塩-o4p そうです。
お返事。ありがとうございます❀判ってうれしいです!今夜は寝ます。ホッとしました🙂
死を理解するのは難しいでしょうね。特に生きてる事に現実味が湧かない人は尚の事。後は想像は憶測でしか無いのも原因かも知れない。現実的には形成される(生まれる)消失する(死ぬ)で、それ以前とその後が確認不可能なので否定も肯定も出来ない。私は基本的に生きようと踠くのは生物の本能だと思ってます。死を望む訴えは本能を凌駕する苦痛を受けた時もありますが、勿論生きる為の布石である場合もあり、生きる為である場合が多いのかなと思います。叱責する人がよく居ますが、まず何故?と耳を傾けて欲しいですね。
とても難しいテーマだと思います。死にたい。転じて、殺したいになる時もあります。気持ちや体力が落ちている時は、消えたい、死にたい、助けてほしいなどのような気持ちになりますが、体力があって、今の生活や環境が苦しいと自分を、相手を、関係者を殺したいになります。死にたいと殺したいが行き来するような感覚にもなります。一度死んで、復活できたら、死後の世界も自分の中で実感としてわかるのでしょうが、死んだことのない私は、死はやはり難しく、謎です。死とは何なのか、永遠のテーマではないでしょうか。
不平等を解決できれば死にたいという感情はなくなる
切抜chで死を語られると、ちょっと切り抜きすぎで『え、それでいいの??』で終るので、私はメインの日曜回を楽しみにしていますw決してふざけた意味じゃなくて、私も虐待の加害者宛には復讐が自死!みたいなイメージで固まる事もあるので、イメージってどうしてそうなるのか考えていきたい。
ある程度、大病を体験する人は、真剣に死について考える。しかし、毎日苦労も無く楽しい人は、真剣に死について考える機会はない。
SNSでもよくしにたい、と言ってる人を見かけますが、誰かに構ってもらいたい、寂しい、という本音がありその言葉の裏返しで乱用してる気がします
死ぬこと以外かすり傷だとか今日言ってきた知人がいたので、もはや死ぬことだけがかすり傷にしか今は思えないと反論してしまった自分がいました。うつ病&発達障害です😢
本当は生きていたいということすら思わない。
衝動性が高くて死にに行けるって、昭和の戦争やってる時なら賞賛される行動力だったのかなって考えてしまう身軽なだけに、頓服の薬で少し意識を死なせながら生きています
昨日オーバードーズしてしまいましたが死ねませんでした疲れました
疲れてるなら休んだ方がいいと思います死のうとするのも結構疲れるんで
@@Ozawa_prod. ありがとうございます多分本当に疲れてるんだと思いました
お鮨の例えは、そうかも知れません 死を思ったり考えたりする程の思いをしたのだと。多様だと思います
死にたいんじゃなくて、色んな問題がゴチャゴチャしてわからなくなってて、助けて欲しいけど、言語化がうまくできず困っている、って思う時があります。
「死ぬ勇気があれば何でもできるでしょ」という人居ますが幸せな人だなあと思います。死ぬのに勇気なんて要らない、ただ絶望と苦しみがあるだけで、そこから佚れたいくらい辛いんだろうと思う。
死については夏目漱石の夢十夜、第七夜を去年読み返して大分考え方が変わったような気がします。
死とはどういったことか、というよりも読んだ場面でいざ死ぬというときのぬっと暗い液体に飲まれる感覚に
不思議と「こういうものなのかもな」と心の底から納得してしまったような気がします。
ずっと希死念慮があり、色々な理屈を読んだりこねくり回して生きてきましたが、それ以降はほとんどありません。
自分にとっての死は、だいたいは、退屈だとか屈辱だとか恥だとか孤独だとか、何かしら別の適切な言葉がありました。
第七夜の主人公は、気付いたら乗っていたどこに行くか分からない船の中、乗客の中ひとり孤独で死を決心します。
そうして海に飛び込みます。そして最後に
「自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、
しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の公開と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」
そのときは久しぶりの強い希死念慮があり、主人公にのめり込んでしまいある種のシミュレーションのような体験をしました。
主人公は私の代わりに死んで、私の代わりに後悔をしてくれたのだと思います。
だいぶ前に読んだことがあり、子供の話以外忘れてました。
抜き出していただいたので、何となく思い出せました。ありがとうございます。
@@meimeikoyagi1637 よかったです!
「つらくてつらくて」
と死を選んだ弟は、本当は、生きていたかったんだと思います。
いい子、理性的であることに疲れます。
常に葛藤と戦っています。
カウンセリングを続けるといい子である事、理性的である事が良いことなんだという考えになってしまいます。
本当は1番慰めてあげなきゃいけない「心の奥底にいる凶暴な感情の私」をうまく扱えない。
その子が暴れ出すと死にたくなります。
益田先生やメンタル系RUclipsrの会先生方、ここで出逢えた皆様との繋がりが、私の救いになっております。
心より感謝いたします。
人には終わりがあるということを忘れずに、今この瞬間を大切に、人との繋がりを大切に、踠きながらも、日々学びながら生きていきたいと思っております。
益田先生、皆様、いつも優しさをありがとうございます。
またここで皆様にお会いできると嬉しいです。
頭や心を使いすぎてることに疲れてるから、頭と心を使いたくない。私の場合死にたいより、考えるのをやめたい、冬眠したい、一旦時を止めたいと同義。
死んだ後に自分がどうなるかなんて本当にどうでもいいなと私は感じます。
私が何度か自死をとどまれた理由はやはり妻と子供たちの存在が大きいです。
何度か家からいなくなった時に泣いてくれている姿は今でも脳裏に焼き付いています。
死んだら楽かもしれませんが、もっと苦しい想いをするんでしょうね。
誰も私の死を真剣には気にしない、という想像をしてしまい、冷や汗が出てきます。ひとりで生きるのって本当に辛いです。
今の状況を抜け出したいから死にたいと言う、先生の言葉に自分の気持ちを言い当てられたような気持ちでした。死は残される者が傷つき辛い状況に置かれるだけだとわかっています。でも今の辛い状況が苦しくてどうしようもできず死にたいと言ってしまう。
死がもたらす影響がどんなに重いものかこれまでの経験でわかっているはずなのに。
今の状況が改善され大切にしたい人や物と良き生活を送れる日を諦めたくないと思います。
自分の気持ちをよく見つめてみたい。
死という言葉で考えるのを止めたくないです。
心に響く言葉をありがとうございます。
漠然とした消えたい感情にたまに襲われることがあり死後の事、周りが悲しむことも分かってはいるけれど希死念慮を拭いきれずにいました。ある時RUclipsで残された側の人の動画を見ることがあり親を失った彼の言葉を聞いて、初めて死んだ後のことをリアルに感じる事が出来、今まで自分は分かっているようで分かっていなかったんだと気づきました。そして娘の為にも死んじゃいけないなと強く思いました。いつか死んじゃいけないじゃなくて死にたくないって思えるようになりたいです。
両親や友達、周りの環境に恵まれています。私じゃないひとがこの人生を送っていたのならば、きっととても幸せに過ごせると思います。なんでこんなに辛いんだろう。死後の世界があるないは、今の私にとってはこの環境から逃げたいが1番強いからどっちでもいいな。でも亡くなったひとが死後の世界でご家族に再会することが出来たらいいなと思っています。
皆さまの未来が少しでも明るく希望がもてますように。
「死にたい」にはそういう意味があったんですね。「死にたい」→「助けてほしい」、「今の苦しみをとってほしい」「寂しくて、心細くて、自分のことを否定してしまう」、「こんな人生嫌だな」→「今の人生を変えたい」という意味での「死にたい」寂しくて、心細くて、自分のことを否定してしまったら、先生のRUclipsを思い出して、自分の本当の気持ちに耳を傾けて前を向いて歩いていきます。自分に対しても相手に対してもそう思えるようにしたいです。死ぬという概念も多様なんですね🥲前向きな解決策を考えていきます。悪い方に考えてしまう癖があるので、自分の癖に自覚して変える努力をしていきます。先生、優しい🥲
昔具合が悪くて何もかも投げ出したいときに
○にたいって言ってましたね
自分の前にある様々な障害を取り除いてほしかった。
面倒くさいこと、辛いことを変わりになんとかして欲しかった。
治療にかなり積極的でしたが、頑張るのを辞めたい気持ちもありましたね。
生きる意味にいま、つまづいている
おれも
禅の教えに行雲流水という言葉があります。日々の流れに任せるということなんですが、別に主体的じゃないとかそういう意味じゃなくて、深い四文字なので私が言葉にできるかはわかりませんが、肩の力を抜き…どうにもならないことは長鞭馬腹という言葉があるようにどうにもならないので、絶望せずに流していくというか…あ、これは哲人皇帝のマルクス・アウレリウスという方も同じ意見なんですが、とにかく何か力みを取ったらまた変わるんじゃないかと。是非試してみたらと思います。
生きる意味は
「生かされてる」ってことなんだと思う
なので 自分が生かされてるのは何のためなのか考えてみると分かるかもよ
@@コクヨかパイロットか ためになります。ありがとうございます。
@@ミユボー はい。答えを探してみます。
生きていることが向いてないと思って死にたいと考えたことがあります
自分は生きたいと思いながら、自傷をし、死ぬための準備をし、ある日あまりにも苦しくて悲しくて、衝動的に実行しました。それ以来、自分が感情的になるのが怖くて、できるだけ何もしない日々を送っています。でも、辛いですね。周りにそういう人がいたら、実行してしまう前に、誰かが止めてあげて欲しい、セーフティネットになって欲しい、そう思います。
最近、自分には生きがいがない、好きなものや、やりたいことなんて無くてこの先年老いていくだけだと思って死にたくなる時があります。今まで何度もやりたいことを探しましたが何一つとして自分にはまったものがありませんでした。どれもこれも自分がやりたいこととしてしっくりこなくて虚無感に苛まれる毎日です。そんな日々が続くと自分が生きる必要性があるのかなど考えてしまって死にたくなります。ですが自殺行為は苦しいだろうし自殺行為をするやる気や勇気が出ません。食べなければ死ねるのにとか思ってもお腹が空いたら何かしら食べていて… 死にたいのに未だに生きています。やりたいことがなくても生きてていいのだとはなんとなく頭で分かっていますがそれでもやっぱり死にたくなる時があり辛いです。そして死にたくなっても勇気が出ず死ねないことも辛いです。
入院中の主治医からは、とにかく衝動性がすごいからホントにあなたは死んでしまうよ、行動に常に意識を持つようにと言われて、自分なりに危険を感じる時は外から出ず寝てます(ADHD、ASD、鬱、パニック診断)
死という現象を俯瞰でしか感じられない以上は、最大限の感情の表現が死なんだと思います。
何度もその感情に襲われましたが、実感は二通りで、
・苦しい状況からとにかく脱したいということ
・強い自責の念によって、死ななければいけないほどの罪の意識
です。
その感情になった時に別の言葉(仕事がキツすぎて辛い、振られて寂しい悲しいetc)に言い換えるということを学びましたが
それは本当の死を避けることと、
自分の本当の気持ちに気付くのにとても有効だと思います。
うつ状態にあると疲れきってしまう、、そこから死にたいって思ってしまうのでは?言葉にできない心身の状態なんですよね。お薬に頼って休息しましょう…。
「死ぬという概念が多様」というのはすごくわかる気がします。
カウンセラーさんに自分が思う「死」や「死に望むこと」を語ると、「それは考えたことなかった」とか「それ(死に望むこと)を条件に死を選ぶのは軽率に感じる」といった反応がありました。
自分の考え方を受け容れられなかったことで特に何かを感じることもなかったため、自分の中の「死」が理解されないこと、もしくは「死に多様性がある」ことを、どこか直感的に理解してるのかもしれません。
というか…過去に散々「死にたい」を否定されてきたので、周囲の理解を期待してないだけかもしれません。
同じ個体でもその時々の精神状態、周辺状態によって死について考えることは変わってくるだろうしなぁ
今の自分は法的な手続きとか葬式とか相続とか遺品整理とか、その後の家族や友人がまぁ少しずつ自分の死に慣れてまた一日一日生きていく感じとかを想像するなぁ
薄っぺらい励ましじゃなくて学問みたいに論理的に話を広げてくれるの凄い好き
以前は死んでしまいたいと思ってました。
半年程もがきながら少し持ち直しかけてたところに、また同じ事(人)が絡んできてその度にリスカしてしまいます。
今は死ぬのは苦しいだろうし怖いと考えるようになり、先生の言われる様に消えてしまいたい、誰か助けてほしいが本音だと感じてます。
半年前に精神科予約のお願いしてたところがやっと連絡来たのに、引っ越しすることになりまた一から病院探しです。
誰にも頼れない、たった1人だけでいいのでこの気持ち受け止めて欲しいと思ってます😢
先生のところに受診したい…
精神科
先生、コメント見てくださりありがとうございます😭
生きてることに疲れた、辛い毎日を泣きながら生きているなら、やってしまっても仕方ないかな。
議論が噛み合わないのは多様で定義がしにくいからというのがなるほどと思いました。
私は「死にたいじゃなくて消えたい」じゃないか、とかいう言い換えを提案されると、言い換えの言葉が感情と一致しなくてモゾモゾと気持ち悪い感じがするタイプですが、理解できるところがありました。
今まさにしにたくて、川沿いをふらふら歩いていました。もっと頭がはっきり内容を理解できるときに聞き返します。
って思ってる時点で、本当はしにたくないのかな。
私は小学3時、親に「人は死んだらどうなるの?」と質問。親は「死んだらずーっと寝てるのよ」と言い私は心の中で「えー!そんなのつまんないじゃん!いい事した人も悪い事した人も一緒なの?つまんない」と思いました。
私だって生きているの嫌になった時、十字路で左右も確認せず道路に飛び出したら事故で死ねるかなとか考えた事もある人間です。
でも死後の世界は必ずあると確信してるので今を大切に(しよう)!と思っています。
今回も動画、ありがとうございました。若い頃は上手くいかない人生から逃れたくて、嫌でしかたなかったです。
私の場合、超未熟児で出生したので死と生きるは隣り合わせでした。
最近は、メンタル不調、橋本病、視力の衰えがありますが、
生きているだけでありがたい気がします。
😅 10:00 10:04 😅😅😮😮
明日死ぬって思ったら、自然とじゃあその前に一番したい事をしなくちゃって気持ちが湧きました。
うつって本当に実際の死とは遠い場所で苦しんでいるんですね。
死にたい、死ぬしかない。とよく言っている子が身近にいます。。
その子は頭も良くて、美人で、周りからもたくさん愛されて、家も裕福で。。私からみたら恵まれていることだらけです。だけど本人はこんなにめぐまれているのにがんばれない自分は生きている資格がないと、、。そんな考えかたもあるんですね。周りはどうしたらいいのでしょうか。。
生命なんてただの化学反応だったり、脳の働きなんて電気信号次第だったりするので、死んだらその段階で全て終わると思います。
また今日のお話から、元レーサーの太田哲也さんの事故に関する自叙伝に、大変な大クラッシュで瀕死のケガをされたにも関わらず、ご自身が感じられたのはカシャッという音だけだったという記載があるのを思い出しました。
動画ありがとうございます😊私自身は想像出来ていないと思います。意識と存在が無くなる、想像そのものが無くなるのかなと思っています。ずっと保護された猫さんと暮らしていますが、抵抗することも叶わずこうして我が家に連れられている。彼女に習い、しなやかになりたい、しなやかでありたい。生死すべてでそうありたい。
「死にたい」って発言は「美味しい」の中に五味や食感が内包されているように、複雑なものを言い表せない時に出る言葉ですよね。
確かにその通りですね❤
これからは逃げずに問題を解決してゆきますよ😁
明日どうなるかなんてわからないので、明日も必ず生きてると言い切れる人は凄いと思います。
そう思って1日1日を後悔無く生きる事が大切なのだと思います。
そもそも、生まれたら必ず死ぬ事は決まっているので、「まだ死なないから」と言う高齢の方はなんの根拠があって…とその自信と楽天的さが羨ましい。
なるべく苦しまないで死にたいので、計画性を持って挑みたいですねぇ。
医療従事者は、きっと死と見直なので考えてる人は多いのではないでしょうか。
もう亡くなりましたが、私の祖父母は、90過ぎてもお金が足りないと嘆き、溜め込んでました。子供や孫にも還元せず、ケチでした。
病院に行きまくって薬をたくさん飲めば若い頃のように体力が戻り、スタスタ歩けるようになると思っているようでした。
お金は墓場まで持って行けないし、
人間だって形ある物だから経年劣化して不可逆的に弱くなる=老いる、そしてやがて死ぬ
が全く考えられないようでした
延命措置も希望してました
死ぬか想像できないってこんな感じかなぁと思ったので例を挙げました
いつも動画ありがとうございます。
自分の死より
大切な人の死を 自分は受けいられるか そちらの方が不安です。
大切な人を看取るより
看取られた方が 良いなと思ってしまう。
残された時間を生きていく方が
不安な私です。
ただ
こればかりは
誰にも分からないし とは
思っています。
コメント失礼します。別居している母が、幻聴がひどくたぶん統合失調症だと思っています。だいぶ前から精神的な不調を感じていました。何度も試みるもなかなか精神科に行くことが出来ず、寄り添いサポートしていた父も心労含め急死しました。父の死から、母に内科処方での抗不安薬の薬を飲んでもらい朝晩のリズムが出来、定期的に帰省していますが、最近また幻聴や感情の起伏、対人トラブルが出てきました。ちゃんと精神科で治療をしたいです。母をちゃんと治療するスタートアップをする方法や働きかけ、声かけを専門医の先生のお話聞けると嬉しいです。
私は死にたい=なんらから逃げたいって思ってます。
自分から逃げたい、現状から逃げたい。
そこは色々あるけど
母がくも膜下出血で亡くなった際、
頭痛で苦しんだかもしれないけど
まさか死ぬとは思ってなかっただろうなって思います
死にそうなくらい痛い、とは思ったかもしれないけど
きっと母は翌日も生きるつもりだったはずだし
そんなことがあってからの私は、
実家の片付けやお墓の話、実兄が施主で法要などしていますが元より仲がそこまで良くないために色々目につくこともあったりと
色々精神的に負担がかかって、
眠った後に目覚めなければいいのにと自分自身に思ったりもします
実際に目覚めなければ死んでいるも同然だけれど
死にたい、と言うのとはまた違うかな
死にたい、だと恐怖を感じます
自分でも矛盾だなあと思います
気づいたらいつのまにか産まれていて精神活動もしていた。そして命尽きた瞬間以降は「いつのまにか」という感想すら生じない。
仏教において「生老病死」が「苦(ドゥッカ)」であるとはよく言ったものですね。
私は幸せに生きたいだけなのに、死以外の選択肢がわからない、社会が死以外の選択肢を私から奪っているとか、感じることがあります。
それなのに私が死ぬ事を選ぼうとしているみたいに言われる。
他に選べることがないだけなのに。
死後は無だと思ってます。ただ身近にいた誰かの記憶に残るだけだと。
○にたい、という言葉
言葉とおりに聞いていません。益田先生がお話しされて
いたように助けてほしいと
聞こえてしまいます。
強迫性障害がひどかったころ「死にたい」じゃなく「消えたい」と考えていました。つまり死ねない理由があるのだから生きるしかないとあきらめました。
いまはあのころ治らないと悲観していたよりは回復しました。よかったと思ういっぽう、いまだに脳がおかしいのを感じると消えたくなります。
人のために生きているのも意味があると思いたいです。
普通と異常の境界線、努力と頑張りすぎの境界線と、わがままと自分の意志を大切にするの違いを教えてほしいです。
限界まで努力した結果、精神疾患で仕事や色々な物を失ったので、私もその境界線が知りたいです。
あの時「無責任」と言われようが全部放り出して逃げていたら、こんなに何年も治療に費やすことは無かっただろうな…
@@keikonakagawa2461
そうなのですね。おっしゃっている限界まで努力したの限界って、どこまでですか?私も抗うつ薬と抗不安薬飲みながら医療の仕事してる身なんですけどこの時点で限界なのかそれともまだできるのかいつまでやればその限界が訪れるのかの判断ができなくて困ってます。
消えたい、いなくなりたい時に使ってました。
死それ自体に対してここまで深く考えたことがありませんでした。
死の哲学の話とも感じましたし、もっと追及されるべき哲学テーマとも思いました。
死についてもっと哲学的に突き詰められれば、多様にある「死にたい」を救うことができるのかもと考えました。
確かに、消えたいですね。自分の存在意義を感じません。否定されて、邪魔扱いされてる日々にもう嫌気がさしています。
個人的な意見ですが、医療現場で毎回、感じるのは「死」の捉え方によってその人の人間性が色濃く感じられると思います。
「死」を否認して、周りに当たる方もいれば、洋画の「最高な人生の見つけ方」の様に割り切って過ごす方もいたり等、客観的に観察しても千差万別で凡人にはまとめられない概念だと感じます。
私的な感覚での話題になりますが、「死」を受容している方の多くは、経験が豊富であり、柔軟な思考的かつその人なりで「人生」を納得された方が多いと感じています。
私も含め神経系の障がいを持つ方には「人生」の生き方に偏りがあり、日々日常を”must to”で生きている考えも少なく無いです。
私的なコメントにはなりますが、今回の動画をきっかけにより多くの人と交流して私自身の「人生」の生き方を変えていこうと思いました。
腸閉塞の発作を起こして、でもお金がないから救急車を呼べなくて結局、自宅療養で二週間ほど飲まず食わず点滴もなしという条件で寝たきりの生活をしたことがあります。最後の方、“なんで死んでないのか”という疑問を覚えるまでに至りました(甘味の強い乳酸菌飲料が飲みたいという強い飢餓感の後くらいに)。それから違うタイミングで結局入院して、その際に手術をして貰えて、7年経ちました。子供が中学生に入学するくらいの時間をかけて少しずつ、人間に近付いています。これからも色々と、学ばせていただきたいと思います。お読みいただきましてありがとうございました。
考えさせられました。深いですね。
てんかん・解離性障害・不安神経障害を治療しています。信頼できる先生も、気軽に電話できる先生もいますが、益田先生のRUclipsを淡々とみることで落ち着くこともあるので、お忙しい中ありがとうございます。感謝してます。
昔から「死にたくない」という気持ちがよく分からないし、理解できません...いや、実際死ぬことになったら、私もそう思うのでしょうか...?🤔
神も天国や地獄も無く 死後は無だと思います。
確かに、今の状況から逃げだしたい。家族まるごと助けてほしい。というほうが今の気持ちにしっくりくるのかもしれません。
今回も動画ありがとうございました。
今日も、動画、ありがとうございました。🍪🤱🍰🤱🎂🤱
問題が解決したら、限られた選択肢以外の選択ができる人って多いんじゃないかな…と漠然と思ってます
子どもは、嫌気がさすとシヌシヌ言う子はいます。自分のカードが手詰まりで対応できなくて、癇癪でゲームをリセットするみたいに言っている感じかな?口癖だったり愚痴だったり。
大人はどうでしょうね…。
死んで楽になるとは限りませんけど、亡くなった人をみて、そうなれたら良いなと思うのかな。そういう人にとって死は、安らかな眠りの場所なのかも。
苦しい死をみている人は、死に救いを求めない気がします。
死に対する印象も様々ですね。
そんな概念もなにもかも感じなくなったときが怖い。
だから学ぶのですよね、病気に負けないように。
私は昨年、父が病気を苦に自○しました。
遺族になって今まで遠い事の様に思ってた死が身近になりました。
私はうつで会社を辞めており、フラッシュバックやこの先の人生の不安で死にたくなる時があります。
しかし、遺族になった事で自○をした後に家族や周りがどうなるかを身をもって実感したので、辛いけどなんとなく生きています。
こんばんは!
決まった答えのない問いを考え続けるのですよね。
しにたいの裏にある、本心には、自分でも気づけないように思います。
死ぬ、ということを、望む、という、文字通りの意味ではないと、私も思っています。
その、裏にある本当の望みを、知る手助けをしてくださったり、その望みを叶えていくための試行錯誤へのヒントを一緒に考えてくださる存在が、先生だったりするなぁと思います!
プレゼン云々ではなく、むしろ何らかの確たる答えを提示するとしたら、それこそ何らかの偏りを断定することになるような気がします。
一人一人が、自由に考えて、答えを見つけたいですよね、私も!
今日もおもしろかったです!
この動画で改めて死について深く考えました。
そして諦めました。
本気で楽になりたくてODをしたことがありますが、死は色々と困難なのだと思い知りました。
今でも希死念慮はありますが…
死ねればどんな方法でもいいと思えたら本当に死にたいって事だと思ってる。
なんだか、中盤は何の意味があるのだろう?とは思いました。
これを見て、死に対してどうでもよいと一時的にでも思えたなら幸いかなとは思います。
信じるに価することということを言われた人がいて、それを聞いたときはビックリしました。
信じるにも、価することとそれほど価しないことがありますね。
ひとつには生まれたら必ず死ぬということとその人は言われました。
信じるに価することというのは、人生の中でそこまで多くはないように思いますが、せめてより良く生きたい、少しはマシになるだろう信じて生きることが個人的には全てという感じです。
挿管鎮静で呼吸器管理、栄養管理もされて、半年後あたりに鎮静切ってもらってそれでいて廃用も起きないような病気があればいいのにと思う。
もう死にそう〜とか、病んでるわ〜とか、軽々しく口にしなくなった事は事実です。
死んだ後より死ぬまでが不安です
辛くて死にたいと思うぐらいこころが痛い時、身体があることが気持ち悪くなります。酷い時はそのまま自傷してました。瞬間的に冷静にこころの中を言語化できない時「死にたい」になります。
私は、いつも死にたいと思いながら生きています。
何故死にたいのか?
あまりに辛く、良い事がない人生。47歳です。
死んで、生まれ変わって、幸せになりたい。って思います。
人は、生きている間に、魂を磨くこと。が、大事。
だから、目標に向かって成長すること。が、大事。
事故や天災などにより、死んでしまったら、悔しい。
私は医療従事者としてステルベンに対してわかりますが、それでもODを彼氏と喧嘩して発作的にしてしまったこともあります。
自爆テロを行うテロリストも、最初は興奮と熱狂で感覚がマヒしていますが、天国へ行くという教えであってもいざ向かう直前は手や体が震えていたりするそうな。
人間が、一人一人数え切れないくらいの人間が生きているので、死ぬということも、今生きている人間の数だけ、あるのだと思います。
今までも、自殺未遂たくさんしていて、いちばん上手くいったときは、気を失っている間、とても、気持ちよくなりました。
死は70歳に手が届く私には日々 思います
一人っ子の私は父の癌の一年間の闘病後の死
母の70歳にして統合失調症で幻聴になり入院して3年くらいは面会の時に 私がいるから大丈夫よと言うと24時間 幻聴が聞こえている母は大丈夫じゃないと言いました
大丈夫と言う言葉はときには傷つける言葉だと知りました。もう母も6年前に亡くなり愛猫も昨年9月に腎不全で亡くし身近でもはや私には両親、親族もおりません。発達障がいと鬱病の私にとり今は唯一 間もなく15歳になる心臓疾患を持つ愛猫だけが支えです
夫も私の精神疾患や身障や年の衰えの理解もありません。死が怖いという意識はなく死後の世も分かりませんが
日々 衰えてゆく自分は友人も精神疾患も通院中の医師には何ももはや話せず薬だけの処方です 昨日60日分の薬が出されました。
夫は自分では分かっていませんが言葉がきつく ある意味
言葉の暴力を20年以上に渡り受けてきました。
もう疲れました。私の死後は火葬のみで粉骨にして亡くした愛猫とこの夏もはや医師も匙を投げた愛猫を看とったらば火葬で粉骨にしてもらい 自分も火葬粉骨になった時に愛猫の骨と一緒に散骨を遺書として残しております
たまに帰宅の夫の言葉の暴力にも疲れ果てました。 話せる精神病院を探す気力ももはやありません。夫が帰宅すると食べてなくても下痢と腹痛が 昨年9月には20キロ近く体重が落ち痩せました
今も週に3キロは落ち続けています もう薬も飲まず食べることもせずに ただ愛猫の世話を 自分が先か愛猫が先かも分かりませんが
益田先生 動画配信ありがとうございました
ごめんなさい
自分の死後のイメージというか望みは体が死ねばそれが完全な死であってほしいと言うことです。魂がその後どうなるかということは考えたくありません。あの世で会いたい人もいないし、もう私というモノがなくなればいいと思っています。
双極性障害で難病患者でもあります。
呼吸器疾患なので在宅酸素で車椅子です。歩けない程の呼吸苦を抱えながら生きていくのは、もう無理ゲーだよと思います。そこに今後は老化も加わってきます。いつ急性増悪するか分からないため、毎日死を感じながら生きています。
急性増悪した場合は人工呼吸器、エクモ、心マ、胃ろうなどは一切拒否するつもりです。
し(あわせ)に(いき)たい😔💭
自分にとって。存在の大きさとその絶対感。
この絶対感は何とも比べることさえできないもので。
真実とか、世界そのものとか、神みたいな。そういう種類の概念。
これを体感したことがない人はわからないと思う。
死は生まれる前に戻るだけとか。自分はへっちゃらみたいなこと言う人とか。
死ぬ事をあの世に逝くと言ったりもしますが自分にとってはこの世に居場所がないかな
「死にたいぐらい」〇〇なんです…と捉えようとはしているのですが…。
ずっと寝ていたいのは死んでる状態と同じような状態だからなのかな
ODした時みたいに自我が弱くなってふっと意識が消えてそのままになると思ってました
人によって違いそうですね。浮遊霊もいれば地縛霊もいるし、成仏する場合もあるし、何もない場合もあるだろうとw
仮に何かあったとしたら、生前の恨みを晴らすとかそういう方向ではなく、とりあえず自由に行きたい所に行ってみたいw
次の瞬間 死ぬかもしれない、殺し殺されるかもしれない、自死するかもしれない。
死を想像し意識して身近においておくことで 今を健やかに生きられる気がすします。
死んでも影響がないし、生きてる価値がない。ただ死んで何も考えられなくなることも怖い。ただ一人泣いて一晩を過ごす毎日。
シんだ後は無だと思っています。
今の季節だと、部屋で腐ってしまうかもしれませんが。
出来れば、仕事の引き継ぎを終えてからにしたいとは思っています。
Yさん。別のところで(大学生の話題)やり取りしているYさんですかね。
@@藻塩-o4p
そうです。
お返事。ありがとうございます❀
判ってうれしいです!
今夜は寝ます。ホッとしました🙂
死を理解するのは難しいでしょうね。特に生きてる事に現実味が湧かない人は尚の事。後は想像は憶測でしか無いのも原因かも知れない。現実的には形成される(生まれる)消失する(死ぬ)で、それ以前とその後が確認不可能なので否定も肯定も出来ない。私は基本的に生きようと踠くのは生物の本能だと思ってます。死を望む訴えは本能を凌駕する苦痛を受けた時もありますが、勿論生きる為の布石である場合もあり、生きる為である場合が多いのかなと思います。叱責する人がよく居ますが、まず何故?と耳を傾けて欲しいですね。
とても難しいテーマだと思います。死にたい。転じて、殺したいになる時もあります。気持ちや体力が落ちている時は、消えたい、死にたい、助けてほしいなどのような気持ちになりますが、体力があって、今の生活や環境が苦しいと自分を、相手を、関係者を殺したいになります。死にたいと殺したいが行き来するような感覚にもなります。一度死んで、復活できたら、死後の世界も自分の中で実感としてわかるのでしょうが、死んだことのない私は、死はやはり難しく、謎です。死とは何なのか、永遠のテーマではないでしょうか。
不平等を解決できれば死にたいという感情はなくなる
切抜chで死を語られると、ちょっと切り抜きすぎで『え、それでいいの??』
で終るので、
私はメインの日曜回を楽しみにしていますw決してふざけた意味じゃなくて、私も虐待の加害者宛には復讐が自死!みたいなイメージで固まる事もあるので、イメージってどうしてそうなるのか考えていきたい。
ある程度、大病を体験する人は、真剣に死について考える。
しかし、毎日苦労も無く楽しい人は、真剣に死について考える機会はない。
SNSでもよくしにたい、と言ってる人を見かけますが、誰かに構ってもらいたい、寂しい、という本音がありその言葉の裏返しで乱用してる気がします
死ぬこと以外かすり傷だとか今日言ってきた知人がいたので、もはや死ぬことだけがかすり傷にしか今は思えないと反論してしまった自分がいました。うつ病&発達障害です😢
本当は生きていたいということすら思わない。
衝動性が高くて死にに行けるって、昭和の戦争やってる時なら賞賛される行動力だったのかなって考えてしまう
身軽なだけに、頓服の薬で少し意識を死なせながら生きています
昨日オーバードーズしてしまいましたが死ねませんでした
疲れました
疲れてるなら休んだ方がいいと思います
死のうとするのも結構疲れるんで
@@Ozawa_prod. ありがとうございます
多分本当に疲れてるんだと思いました
お鮨の例えは、そうかも知れません 死を思ったり考えたりする程の思いをしたのだと。多様だと思います