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死が不可逆なので生きています。「死ぬのはいつでもできるけど、死んだら生き返れないしな……」「今はすごくしんどいけど、来週になったらマシになってるかもしれないしな……」「あと何日か待ってみて、それでも耐えられなかったら死ぬか……」と何十回も思いながら、結局ダラダラ生きています。
失礼します。私の母はよく、別に4ぬわけじゃないんだから大丈夫よ、と私が何かをするのが怖い時、励ましてくれました。その言葉で勇気が出て頑張れたまでは良かったのですが、それがいつしか逆転してしまい、もう4んでも良いかな、もう人生充分楽しんだし、となり、12階から⤵️失敗してしまいました😢寿命って決まってるのかな?その時はそんな気がしました。それからはあまりに闘病生活が大変で、どんなに4にたい時でも、絶対失敗する気がして、2度と出来なくなりました。大分マシになったけど、やっぱりあの時成功してたらなぁ、って、どんなに楽しい事があっても、もっと楽しい事がこれからあるとしても、ずっと早く消えたいです😢
無常感について深く共感しました。休職中は自分が何をしても何も見ないし、何も残せない無常感に絶望していました。自分より優れている人も数年後には忘れ去られると思うと、誰もが交換可能な人材で、かけがえの無いものなんてないとしか思えなくなりました。益田先生のおっしゃる通り命の重さも分からなくなり、死ぬほどではないにしろ、自分が最初からいなかったほうが、パートナーの人生にとっても良かったのではないか?と考え続けていた時期があります。ただ、仕事を休んでいる期間に猫カフェに通い、客観ではなく主観として、「生きているだけで尊い」という感覚を思い出し、少なくとも命は重いものだという実感を取り戻すことができました。無常感も仏教的な客観(あるいは達観)によるものだと思うので、主観や個別の感覚によって脱却できるような気がしています。
産まれる前に産まれたくないと意思表示出来たならどれだけ良かっただろうかと何度も考えますもう生きたくないです、けど死ぬのは怖いから生きるしかないです😞
失礼します。私も同じです。なんで子供は親を、国を、生き物を、惑星を選べないのでしょう。自分がいけないのかもしれないけれど、こんなところに産まれたくなかったです😢早くあの子たちが待っててくれてる虹の橋に逝きたいです💔
最近、自分って意外と単純だったんだな。。。と思うことがあって、ただその瞬間に親切にしてくれたり、愛想良くしてくれたり、対等に扱われると、ちょっと幸せになれるんだなと。車の運転を始めて、運転中って、男女も年齢も関係なく対等で、たまに変な人もいるけど、基本的には皆事故を起こしたくないから、交通ルールを守るし、譲り合うし、譲ったら、お礼の合図を送ってくれる人もいる。会社で酷いセクハラモラハラにあって、PTSDに苦しめられていましたが、運転中は、社会に対等に扱われていて、自尊心が、一瞬回復する時があります。感情に支配されやすいASDだからか、逆に、その時さえ良ければ良くなることもあるのかな??生きるのは確かに苦しいけど、求職活動や、家事に疲れて泣き出してしまっても、とにかく、休んで寝て。。。という風に、今は生きています。。
あなたが死んだら悲しむ人がいる(だから生きて)、という言葉が使われることがあると思います。悪気は無いし、純粋に励まそうとして言ってるのは分かるのですがこれを言われると「私はまだ他者のために苦しみ続けないといけないの?」と思ってしまいます。命は共同体のもの という概念はまだ強く残っていると感じます。
@@くま-p8k原始仏教には「(悟ってない人間が)死ぬことで解放される」という教えはないと思うのですが、どういうことでしょうか?輪廻転生を信じていないにしても釈迦は「無記」として語らなかったような気がします。
ASDの家族は同じくなんらかの発達障害を持っていたりして人の気持ちに対する共感能力が低い場合がある。普段、患者本人に自論を押し付けてくる家族といっしょにいると、本当に死にたくなる。生きていて欲しい理由も「自殺は世間体が悪いから」「自殺されると自分が悪いことしたみたいな気がして嫌だ」だったりするし、生きていても大切にはしてくれない。クチの中をケガしていて、食べやすいものを頼んだのに、香辛料たっぷりの麻婆やカレーを出して来て、こちらが「これは食べられないよ…」というと「気に入らないなら食うな‼︎」って怒るASDの家族といても幸せを感じることはない。そんな家族に「あなたが死んだら悲しい」と言われても、まったく心が動かない。「悲しんでくれる人」とは、そんな自分勝手な親族や知り合いを除外して考えるといい。自分が大切に思うことやモノを同じく大切にしてくれる人。自分自身を大切にしてくれる人。いっしょに楽しい時間や幸せを作っていける人。今はそんな人いないと思うかもしれないし今後現れるか分からないって思うかも知れない。ただ、この動画を見てる人の中でコメントもしてないけど、同じ苦しみを知ってていっしょに幸せを作っていけるような人がいてまだリアルで出会えてないだけかも知れないからもうちょっと生きててよと思う。
「ともに死して幸せをえよう」とか言うヤバイ人ではなくて、いっしょにごはん食べておいしく感じる人とか、いっしょの部屋にいて気持ちが楽になる人とか、そゆの探して見つかればよいなと思う。安楽死も「死んだ方がマシ」と本人に思わせながら死なせる制度なので、それって福祉の敗北なんじゃないかと思うところがある。身体の病気でつらい人には緩和治療が届くように、寄付金などの支援が広がってくれればいいなと思う。心の病の人も、身体の病の人もつらさを軽減して、ちょっとでも多く清潔さやタオルでもシーツでもすべすべした気持ちよさや、ぬいぐるみや握手でも柔らかくて温かくてほっとするものや、自分を思い遣ってもらえる優しさやや笑顔や、共感や和やかさや安らぎや穏やかさや、そういう嬉しいって思えることをたくさん増やして。
命が個人のものだけではないことに最初に気が付いたのは、歴史などを勉強していたときでした。今ある平和や選挙権などの権利、医療、法律、学問……過去の人たちが命削って作り上げたものを享受して生きているということ。大人になるまでには、国家や社会、家族から投資されているような面があるとも感じました。それらからは逃れることが出来ず、責任があるとも感じるようになりました。
私は自分の命は個人のものと考えています。それが、発達障害(グレーゾーン)の特性があるからなのか、機能不全の家庭環境で育ったことから来ているのか、その両方なのかわかりませんが、自分が死んでいなくなっても両親は困らないだろうと思っています。一時は困ったとしても、いずれ私のことなど忘れるだろうと。命を断とうと実行したこともありましたが生き残ってしまいました。それから十年以上経ちましたが、無職だし、友達も離れ、恋人もできず、やりたいこともわからないままです。今でもあの時に死んでおくべきだったと後悔しています。今は実行に移すほど気力がなくただ生きているだけです。苦しみは永遠に続かないなんて思えません。現に苦しみ続けているのですから。そんななか、益田先生の動画は昨年から見続けています。動画の内容がとても興味深く、面白いからです。反発を感じることもありますが、益田先生の熱意や継続力には学ぶところがあります。
いつか終わりが来るというのが、こわくて嬉しく感じてます。最後はみんな土に還るんだなぁと。
そうですよね。いつか終わりがくる、
みんな苦しみながら同じ一つの地球の中で同じ空気を共有しながら生きてると思うと、目の前にいないだけで、どこかでみんな一緒に頑張ってるんだなぁ。私は一人じゃないんだなぁ。と思いました。
7:56 「自己責任ですよね。あの子は社会に対して甘えてたんですよ」と親御さんが仰ったのは、先生に気を遣って先生が自分を責めないように配慮して言った言葉であって、本当はどうにかできなかった、あの子は悪くなかったのに助けられなかったのかと苦しんでいるかもしれません。
時代の流れによって労働の形も本当に様々になりましたし、障がいに対する風あたりは相変わらず冷たいものですがその人にフィットした暮らしを見つけていければ幸せなのかもしれませんね。
益田先生、今日も動画ありがとうございます。幼いころ父のアル中とDVに苦しみ、20代で結婚、出産やっと幸せになれたと思ったら旦那は仕事が長続きせず、子供が成人するまで睡眠時間3時間で昼夜働きました。子供が成人し、やっとほっとしたのも、つかの間。職場で狭心症の発作で倒れ死に直面しました。その後離婚、鬱になり4年間休職。短時間バイトで復帰しましたが女性の、パワハラ上司のせいで鬱が悪化し、自宅療養中です。人生を振り返った時に1番幸せだと感じることは、子供がなんとか自立したことと今のパートナーに、出会え再婚できたことです!
他人や人生は裏切るけど、死だけは絶対に裏切らずに待っててくれていると思うと安らぎや希望のようなものを感じて逆に生きる苦しみが減るように感じますね。一度全身麻酔の手術したことがあって、死ってあんな感じの無なんだーと思うと恐さも薄れたし。死そのものよりそこに至る苦痛が怖い。今は緩和ケアで大分マシなんだろうけど。
仏教の一切皆苦については、いろいろ考えることがあります。人生の9割(もっと?)に苦が存在すると受け入れ、一つ一つの苦に過剰反応せず俯瞰し受け流し、「楽に苦しみ」生きなさい、という意味なのかな、とか。昼間はちゃんと苦しんで交感神経を活動させた方が健康にいいって最近言いますし。また、仏教の「苦」は、現代語の苦とは少し違って「予想通りに行かない」という意味だと書いてるウェブページを見たことがあります。現実はどこまでも複雑なので、人間の予想は外れ続けます。これもやはり受け入れることで楽になりますね。なにか想定外のことが起きると想定しておく。
理屈としては理解できます。ただ、ドクターがよく言う「サイコロの目の6が連続する」くらい不幸が重なる人もいるわけですよね。そういう人に対して、「今後よくなっていく可能性があるから耐え忍んで生き続けろ」と私はなかなか言えないです。
私の人生がまさにそうでした。でも、中学生の時、原因の一つに気が付いた時、その原因の母に怒りが湧いた瞬間、今までは気づか無かったから変えて行く事ができなかった(宿命的)、気付いたなら、ここからは私の責任、全てを回りの責任にはできない。もちろん、今出来ることは非常に小さい(運命は選べる) 。数十年の中で、斯道を変えられる。最初は小さな違いかもしれないけど、長い年月の中では大きなものになると。 金銭的なものは成長する環境が大きいかもしれないけど、それがそのまま、幸せに繋がらないから、それ以外に価値を置ければ、かなり自由がありますよ。特に身体は縛れても心の自由は縛れませんから。心を縛ってる何か(トラウマ) があるなら、少しづつ解いていきました。何十年の中ではありましたが🥲
大切な人と同じ時間過ごせるのが私は幸せです!物よりも時間を大切にしています。生きていれば幸せそのものです!
人生は辛くて皆我慢しているとの考えもあるとのことだが、ならば逆に何故死を選ばないのか、とそういう考えの人に問いたい。何故生きなければならないのか、死んではいけないのか。
いいことがあれば生きててよかったと思えますし、嫌なことがあればこんな人生なんて…と思います。針が両極に触れるんですよね。この針が壊れないように生きていくしかないのかなと感じてます。
人生は苦しみであり修行だと思って生きています。命は自分のものだと思っています。世の中の繋がりや搾取システムを窮屈に思っています。幼少期、世の中に死があり戦争があるってことを知ってからずっと悲しくて親に話してもおかしな子と思われて、自分で仏教について、また他の宗教や哲学について学びました。誰かが悲しむから死んだらいけないっていうのは哲学ではあまり見かけない考え方かなと思います。それ言われると、死んだら迷惑だから困ると言われてる気がします。学生のときに美術に出会ってなかったらもう死んでた気がします。親が悲しむなどは歯止めになりません。自分がこれから作るであろう作品ができないのがもったいないのが1番の死なない理由です。また、まだ苦しみというには足りないし、もっと足掻ける、限界まで足掻いて死なないと命を使い切ったことにならないと思っています。
後ろ向きになる思考からの脱却を廻りがサポート出来るかだと思います
永遠に残る芸術作品、本はあると思います笑益田裕介先生の色々な宗教の幅広い考え方勉強になります、ありがとう笑
何年か前からdoomer(自分の現状と将来に絶望している成人男性)を扱うネタが色んな国籍の人から共感を集めているのを見ると、生きていても良いことあるのか?という疑問は結構普遍化しているのかと感じますね😢
この先、生きていくにしても不安や苦しみを軽減していく選択肢が少なすぎてほんとに無理。周りに先立たれるのは辛いけど私は苦労させた側だから将来的に早いうちに消えといた方がなんか本当に楽になるんだろうなって思ってしまう(まとまらない〜〜)
自分を、「中古で買った十万円の車だと思えば」の言葉は良かったです。ボロボロになっても生きて行こうと思ったら、なんとか生きていけそうです。大平光代さんの「だから、あなたも生き抜いて」の言葉も力強いです。
死は無になる事で、私は死が楽しみですね。じゃあ今自ら死ねるかと言われれば、恐怖心の方が強いしまだその時ではない。そんな今です。
生きづらい。いなくなりたい。人生嫌い😡⚡
やはり文化や価値観の違いによる労働条件の差だとおもう。働いてると分かると思いますが日本での労働者の価値がかなり低い。最近は欧米と比較されてきたし、人手不足もあり改善されてきたがごく一部。経営者の意識改革がされないと駄目だと思います。人は会社の備品ではないし、人の命は軽くないんだよ。
シンプルに考えてほしいんですけど、「みんなだって苦しんでるのに我慢できないのは甘え」っていう考え方、単純に「ふつうは耐えられるよね」という意味だとわたしは捉えていましてつまり、耐えられないのって「ふつうだったら耐えられるけどそれ以上のことが起こってるよ」という話なんですよね……なぜか「ふつうだったら何とかできる」のところで思考停止してる人世の中に多いなーと感じますふつうだったら、という前提があるのになぜ「でももしふつうじゃなかったら?」という考えに至らないんだろうか、めっちゃ物事を一面でしか見てないのでは…?どの例えが1番わかりやすいかな…うーん例えば、ふだんだったらお給料でギリギリの生活してるとしますでも親友が結婚したので(おめでとう架空の親友!)御祝儀を払ったりプレゼントしたりしましたふだんだったら生活費に回してる分が足りなくなりますよねみんなも大変だしなーとがんばっている人がいたとしますわりとカツカツとは言えどもふだんは精神力の余裕があるので生きられますでも何らかの出来事でその余裕がなくなってしまったら?上記の例みたいに収支マイナスになると思うんですよねそこで尚も「みんなだって頑張ってるんだから」とやり過ぎると人は死ぬじゃないですかただ、生が苦しくて死は救いともわたしは思わなくて苦しいのは生そのものじゃなくて目の前にたまに現れる邪悪な何かというイメージです邪悪な何かがドラキーみたいな感じだったら可愛いもんなので上手に飼えますが、それが竜王だと戦えなくなって生そのものが魔王に支配されるでもそれは自分で望んだことじゃない、竜王さえいなければ生きたいんですよ、こっちだってだから、善悪とかはともかく「その人が生き延びるために1番効果のある考え方」を選べたら、と思うのです(それがあるので先日みたいに苦しんだ人に対して身勝手とか言うのは反対でした。逆効果なこと言ってどうすんだと感じたからです)何とか乗り越えて助かろうとしてる人のメンタルを押し付けとか正義論とかで潰して殺すよりも、ちょっと正論とは違うな〜と思いつつも生きてくれたほうがいいなってわたしは思う、自分に対しても他人に対してもですまさしく逆効果になるような言葉のせいで知人が自死してますもん死にそうな人には社会とか倫理とかそんなもんよりもっと大事な、もっと見てあげなくちゃいけない何かがあるはずなんです少なくとも、わたし自身もわたしの大切な人たちも、逆効果なやり方で死なせたくはないなと思っていますこの前の例の動画のせいでだいぶ落ち込みましたけど、なんとか建て直してがんばってます人生の中で長いイレギュラーが起こってるんだと考えるようにして、周りの正論()とかガン無視して、そうすれば死なずに済むし、軽くなったこころで挑めばいつか竜王も倒せるんじゃないかと思います「落ち込んだらダメ、迷惑かけたらダメ、死にたくなる自分が悪い」って自責したらまた竜王の勢力がすごくなっちゃうので、わたしはたぶんそっちの救われ方じゃないほうがいい思いとどまり方は人それぞれです( ¯ᒡ̱¯ )وそれと、生命は個人のものじゃないんだからなおさら殺したり、追い詰めたり、そういうことをするのはナシだなーと思いますね〜もうほんとに最近めちゃくちゃ思うんですよ、なんでボロボロになってる側にぜんぶ気を遣ってもらおうとしてる輩がいるのかそれこそ、現代人は生命を個人のものとして考えてるからなのでしょうか?わたしは、個人のものでもあり社会にとっての大切なものだと思うんだけどなーなんで自分の都合で潰しちゃうんだろ…
生きてて、悩んだり、落ち込んだり、悲しくなったり、苦しみを感じることがありますが、人間には五感があって、食べて美味しいと感じることができたり、腐っていたら身体に入る前に、舌があることで気づくことができます。四季を感じることができたり、誰かが喜んでいたら、一緒に喜ぶことができたり、誰かが悲しんでいたら、一緒に悲しむことができます。一緒に感情を味わうことができます。つながりがあります。自分が「今」できることに目を向けて、日常生活の中にある小さな幸せに気づいて集めていきたいです。いろいろな支えのおかげで、自分が今、生かされていることに感謝です。
自分は無宗教で、毎日他の動物の肉を食べて生きていますので、人間も動物ですので、死後の世界も幽霊も存在せず、生命が終了するだけという科学的な考えで生きています。おばあさんは脳梗塞で倒れ、数年病院のベッドの上で点滴や生命維持装置く管だらけ、点滴を抜くのでベッドの柵に縛り付けられ、床ずれだらけで、最期は両手を合わせ死を懇願し、医師はすべての生命維持装置を外し、1時間後死亡を確認しました。自分が救急車を呼ばなければ生物として食事が摂れなくなり自然に眠るように最期を迎えられたはずなのに。小学生で祖父は脳梗塞で死亡、父は中学生の頃に釣りで崖から転落して死亡、母は2歳の頃に家から出ていき、兄妹もおらず、高校へも行けず、祖母の為必至で働きました。中学生から隠れて新聞配達をし、自分の二十歳の成人式は出席せず、同級生が二次会で宴会をする居酒屋で、お酒や料理を同級生に提供していました。それから数年しておばあさんも亡くなりました。20代後半に実の母と名乗る人物が知らない男を連れて突然自宅に押しかけてきて、母と名乗る人物は自分の祖母と叔母に嫌がらせをされて家から出たんだ、こっちの男はお前の父と別れてから3回目の結婚の旦那 2番目の旦那の間には二人の娘がいる、生活が苦しいから お金を稼いで渡してほしいと言う内容でした。追い返しました。怒りを通り越して空しくなりました。自分が倒れた時に救急車を呼んでくれる人はいないので、生物としての最期を迎えたいです。苦しまずにポックリ逝きたいです。
家族単位ではなく、地域で協力し合えるしくみの充実が必要ですよね。家族とはいえ、個人で支えるには限界があります。その最悪の結果が、家族間殺人です。こうゆう事件が起きるたびに、社会で助けていく仕組みの未熟さを痛感します。家族で助け合う心は、 素晴らしいことです。ただ、苦しいと感じたら、とりあえず周りに相談してみると良いかもしれません。
たくさん話しを聞いてくれて応えてもらって休ませてもくれた人がいる。この先なにもわからないです。支援所に頼ります。できなくなるさまがある 仏教の本物読んで勉強しました。受け入れられない苦しみや悲しみに無理に向き合わなくていい
子供に自殺されると、親は無力感・徒労感に苛まれるんじゃないかな。せっかくこの世に生み出して、一生懸命育てたつもりなのに、自己判断でこの世に見切りをつけて、勝手に去ってしまった。じゃあ、その子の人生は無駄だったのか。自分が生み出した命は無駄だったのか。。。そんな心理から、やるせなくて「甘えだ」と断じてしまうのかな、と想像してみました。考えてみたら、私自身、「もういいや、死んだ方がいいな」と考えたのは、6〜7歳だったと思います。毎日毎日、ピアノの練習をさせられて、人生が面倒くさくなって、「だったらいなくなってもいいな」と考えていた覚えがあります。もちろん、実行に移す気は1%もないですけど、でも、「子供は死を考えない」ということはなくて、普通に考えることもあると思いますね。
みな自分の意志とは関係なく、この世に誕生します。育て方次第では、子供を死に向かわせてしまう。勝手にこの世を去ってもらいたくないのなら、安楽死制度の法制化を実現した方が良いと思います。他国の例では、安楽死までに何度も家族を交えて問診し、死というものに当事者だけでなく家族も向き合う時間が作れます。
人生はそんなに良いものじゃあないから、死はそんなに悪いものでは無いというその考え方は知りませんでした、なんか面白いですね!
日曜日の配信を楽しみにしています。死生観を精神分析的に、宗教学的に考える良い問いをいただいています。先生、ありがとうございます。
いつも見てます😊
8:52 そもそも世の中は無情だし、苦しいものだと皆わかってるいるのにもかかわらず、死を選ぶのは他の人に迷惑がかかる!だから甘えてるんだ!→だったら、苦しんでる人に無条件かつ無対価で生活費を支給するか、それが嫌なら安楽死施設でも作ったら?って話。9:50 小さな子供が自殺を選ぶなんてというのは、結局、可能性を失ってしまう、人生というのはいいもので、これからいい出会いとか楽しいことがいっぱいあるはずなのに、なぜそれを選ばなかった!→後から楽になるより、今すぐ楽になりたい。さっさと損切したい。負債を抱えたまま生きたくない。って思考。未成年なら可能性があるからって理由で支援や保護を受けられるけど、成人してからは一律自己責任だの甘えてるだのって切り捨てられるだけなのが現状の社会。10:08 今は苦しいかもしれないけど、後から楽になって楽しいがことがいっぱいあるのになんで我慢できなかった!→暴漢に殴られた後にその暴漢から治療費を払って怪我を治したんだから、それでチャラにしろって言われてるようなもん。
どこからどこまでが病気によって考えてしまうことなのか?という疑問があります。正しい考え、答えは時に私を苦しめます。生きていることも○にいくことも寿命を迎えることも、そして病気や事故○も全て自然なことだと思います。難しいなあって思いつつ今日のようなことを皆でシェアしながら考え続けていくことに価値を見出せているかもしれません。次回も楽しみにしています。
苦しくて明日の希望も持てなく死を選んだ人に迷惑だと言える人って何ですかね?そちらのが精神的に問題有りだと思うんですが。
そうだそうだ!
幸せと思えたら楽しそうだなぁ🤔どうせなら楽に生きたい😮
戦争の有る最中に産まれた人々と戦争の無い時代に産まれた私達とは生きる又は生き抜く価値は大きく違ってくると思うし死に対しての思いも全く違ってくると思います
面白かったです!
私は人生は苦しいものだと思っています。世の中には素晴らしいことも多いですが、苦しいことの方がはるかに多いと考えています。諸行無常という価値観も持っているので、苦しみが永遠には続かないことも分かっていて、今は適応障害の治療に励んでいます。が、「人生は苦しいものだ」という価値観は、現在鬱状態にあることが関係しているかもしれませんが、かなり良くなってきている今でも変わらないので、これからも変わりにくいと思っています。なので、死を悪いものだと考えないゆえに、死をそこまで恐れておらず、私自身あまり長く生きていたくないし、将来自分が子どもを産むことは今のところ考えていません。私はまだ若いので、両親にこういったことを話すと、辛そうで、それでもこれからの人生は楽しいものだと希望のある言い方をし、なだめようとしてくれます。親の気持ちもわかるので、こんな考え方をする子どもで申し訳ないとは思いつつ、自分の価値観を変えられる気がしないし、変えるつもりもありません。家族はそう言うのに、社会ではやはり、無責任だとか甘えだとか言われるので、まさにぐちゃっとしたところの板挟みになっている気分です。また、私も命は基本的に個人のものだと思いますが、やはりこれまで一生懸命愛し育ててくれた家族のことを思うと(たとえ自分がそれを望んでいなかったとしても)、死にづらいと感じるので、共同体のものだという価値観も無くはないようです。結局今のところ、人生は苦しいものだと思いつつ、ただ自分で死ぬのは大変そうなので、できるだけ楽に生き、日々小さな幸せを感じながら、苦しみには耐えようと思って生きています。しかし、耐えられないほどの苦しみがやってきたときには死ぬと思うし、それは個人の自由だと思います。この場を借りて、今の自分の分かっていることを書き出し、考えをまとめさせていただきました。長文失礼いたしました。
このタイトル、いつも疑問でした。日本人の多くにとって生きることは苦行、修行で、欧米人の多くは楽しむためのもの。よく言われますよね。労働も日本人にとっては「生きがい」「喜び」「義務」で欧米人にとっては「罰」とされています。仏教vsキリスト教なのでしょうけれど、非常に興味深いタイトルです。労働についてですが個人的に日本人らしいなと思った反応があって、以前雅子妃が適応障害で外交など公務が出来なくなった時期に「雅子働け」「税金ドロボウ」と大変叩かれ続けていたんです。日本人らしいな、と象徴的に記憶しています。生きることについてと労働については日本人は境界線が混雑してる気がします。そして他者に不寛容です。
他者に対して冷たいのは本当に同感します😢
境界線が混在…😊たしかに
@@チュン太郎-v6k ですね。中途半端なエセ個人主義で、監視社会、干渉社会で一般的な人と違うことをすると叩かれるし、干渉や非難はするくせに秘技「自己責任」や「迷惑教」を印籠のように振りかざす。「迷惑かけられるけど、自分も迷惑かける。みんなお互い様。」のほうが健康的で明るい社会になると思います。
@@porukoa 「働かざる者食う(=生きる)べからず」ならばじゃあ生きるために働いてるのか、いや日本人は働くために生きてるのか、と考えます。税金納める奴隷のような気分になることがあります。
日本人は同胞というか、日本人同士に超冷たいという感じですね。身内には暖かいですが。けど海外の人には甘いというか優しい感じがします。日本人は、かっこつけなのでしょうね。たぶん日本人は洗脳されているのだと思います。誰かに。マスコミを通じて。それに多くの人は気づいていない、そんな印象を受けます。
Dr.、切ないです。地方公務員で、初めて病休をとっています。給料の制度がよくわからず、上司からは8月までは半額。9月からは無給になると言われたので傷病手当の申請をしました。市に届け出するには辞令が必要ということで本日その病休辞令が来ましたが、その内容が「処分」扱いになっています。病休休暇は地方公務員にとっては「処分扱い」なんですか?もう、嫌になります。
益田先生の日曜日、目的を把握した上ですが好きな曜日です。看護師さんや看護学生さんは『死生観』を学び、現場におられるかと思います。生はどこからどこまで?と考えた事があります、10代の頃です。生・死、どちらも悪と考える人もおられると思います。話としては理解しますが、私は悪かどうかは正直な所わかりません。ただ生がどこからどこまでかは仕事の中で少しだけ答えが出ました。「死を迎えるまでが生」です(個人的意見)。それが現時点での答えなので、苦しさを感じながらも生きる価値を見出だすのも自分の成功体験と思ってもいいかと。つらくてしんどくて投げ出したい時もあるけど、良くも悪くもないベストポジションの中で長くゆるーく生きたいです。ありがとうございます。
今日も、動画、ありがとうございます。🧖♂️🧖♀️
今は中年だけど3歳から何故生きないといけないのか?って思っていました。
なんて利発な3歳児
私自身は多分ですが、なるべく人と関わらないように生きていけるシステムを作って、ルーティーンができてくれば生きていけるのかな?と思います。システムを作りたいけれど、どうしたらいいか分からなかったり無理かもっていうコトがあるとキシネンリョが…
映画「罪の声」では、自死しようとした時に見知らぬ人から電話がかかってくる。自分では気づかない誰かが、自分の知らないところで、見守ってくれていたり気にかけてくれていたりすることがある。また、自分を思ってくれる大切な人が自分の視野にいても、自分がいない方がこの人も幸せになれるのではないかと思ってしまうまで、追い詰められることもある。大切な人がいなくなる衝撃を人以外のもので例えると、大事にしているプラモデルや鉄道模型や鉄道写真や推しのCDや DVDやチェキやその他コレクションなど、どれも無くしたら買い直せない手に入らないものが、突然全部無くなるような感じ。正確にはいろいろちがうけど、とにかくつらい、半狂乱になって怒ったり泣いたりするくらいつらい、というのは同じかな。
もし自分が突然いなくなったら、そんなふうにつらい思いをする誰かっている。まだ出会ってないけど未来に、「あなたがその時死なないでいてくれてよかった」って泣いてくれるような人との出会いがあるかも。生きてみないとわからない。叶えてない幸せのやり残しを叶えてからでもおそくないよ。と思う。
わたしも、日曜日、たのしみです🌱
個人主義と言うと自分勝ってに生きる人だけと言うイメージがします🙇。私とあなたは違う人間だから、自分の価値観を押し付けてはいけない。どうして、私と同じ考えをしないの?何故、私を愛してくれないの?愛だと言いながら相手を自分と同じに染めようとしている。その考えに執着する限り人は孤独から逃れられない…。日出処の天子を読み深く考えた事です。所有したい愛もあるかもだけど自由を与え手放す愛。集合体で生きていてもやはり私とあなたは違う人間。それを受け入れない限り孤独から逃れられない…。と私は母親とは違う人間。そう気持ちを切り替えると、例え半日であっても空を見上げるだけでも気持ちが楽になったりします🙇。車🚙の運転が上手に出来ただけでも明日も頑張ろうと思う時があります。私見を述べさせて頂きました。ありがとう🫂存じます。🙇😴🏄
最近毎日毎日、死や自死に関わるお話なのですが。家族って言われても、最愛の母は若くで他界して、偏屈な父は孫の顔すら認識できず目も耳も気配すら感じず、私がちょっと注意すると泣き出す哀れな姿です。私は、一人ですが、今心の平穏を取り戻しつつあります。家族にいじめられて悔しくないのかとか、過去を振り返っても前を見なきゃっておっしゃたのは、先生ですよね。村から村まで移動できるだけのお金もありません。私は無宗教ですが、人生って辛い事もあれば楽しい事もあるからお若い人には、命を粗末にしてほしくないし、もったいないと思います。自分語りですみません
性善説の日本が人生は苦だと思い、性悪説の西洋が人生は歓びだと思う……なんだかやるせないですね。無宗教の私には、死後なんて誰にもわからないのに宗教が存在し続けていること自体が不思議で仕方ないです。
命は個人のものだと、私は思っています。共同体のものではない。でも、しがらみがある限り、私が死んだとき衝撃を受ける人はいる。そういう意味で、私は自分のものである命を軽く扱うことはできないと考えることもあります。人生は苦しいものだと思って私は病気になりました。苦しいものだと思うことが自分の支えになる人もいるかもしれない。でも、私はそうではなかった。私が死んだとき甘えだとか言われるのは腹立たしい。私は、人生は楽しいものだと思えないと前に進めない。だから、自分は本当は死んでしまいたいと思っていながら、若い方には「これから楽しいことがいっぱいあるよ」と伝えている。無責任かもしれないけど、大変なことがあっても人生は幸せなことが必ず沢山あると思って基本的には楽観性を持っている方が生きていきやすいと思うから。同じ生きるなら、希望や幸せを感じながら生きてほしい。せめてこれからの人には。精一杯生き切ったとき、どんな死に方だろうと、死は私を優しく受け止めてくれるはずだ。だから私は死ぬのはもう怖くない。苦しみに耐えてこそなんて嘘だ。
花が美しいように、人生もまた美しいという歌があったり。人生は儚いから美しい。だから死も悪いものでない、って感覚ですね…。私は西洋系な価値観の家庭から生まれたので先生の動画でやっと意味が分かってきました。西洋系の価値観であると…人生の儚さに重きを置いてないですよね…天国に行くために善行して修業を詰む感覚で人生を生きている気がします。だからそういう意味で個人主義的で。。
今回はかなり難しかったです。人生が苦しいものだから死も怖くないということです。私は人生は価値があるから自己実現して、普遍的になり個人の死を恐れないと感じます。何か私の場合も当てはまるかもしれないです。私の場合は全く自殺は考えていません!しかし今回の話を無理に当てはめると私は地元も心配です!「何も分からなくてよいです」
13:56 た、旅人になりたい人生でした(笑)いやほんとなりたい!
ASDの診察と発達傾向無しの診察を行ったり来たりしてる者です、過去に手帳も所持し今は無しですが、ASDの方が「繋がりや自決の感情や背景について理解しにくい」旨の動画を見て私の場合は特殊かASDを発症してない?と思う様に成りました。 私が自決を拒む理由は祖父のガンと闘病の先に見える物、自身の先に見える世界が怖い。出自問わず自我を繋いでいたいと思うからですね。益田先生も確かに社会や人に依って命を繋ぐと言う考えで良いと思いますが、もっとそれを越えて、社会や他人の思いに囚われず生きる事で自分の命や世界観を見つめ繋ぎ留め命の限りを超えたいと言う思いも良いと思います。生物は色んな物を生み出し生きてるのに、それが急に途絶えるのは不安です母や親戚の中でも恐らくASDまたは統合失調症の傾向が有る方が居ましたが、他者への共感性が低く自身のアイドル関係の趣味や好感度を強く主張しつつ、家族を自身の欲を満たす者の様に扱う様を見て、繋がりを感じる事は難しいなと周りを見て感じました。しかし、自決をする方で繋がりを感じにくい方は何もASDだけの話だけでなく、虐待や学校、労働の中でも優秀な部下や兄弟が居るなどと常に比較対象が居たり、自分自身の居場所や自分の命を繋ぎ止めたく無いと感じられれば発達精神病問わず誰でも自決する可能性は有ると思いました。
しかし、同時に別の側面で思う事も有ります。それは「人間は他人の生存や可能性に賭けられる程、豊かな生き物なのかな?」と。人は過去から学び、未来に活かし繋いでいき、書物や言葉で様々な記憶を残していき時には命を救う事も出来る。でも、無知や暴力や個性の表現と言う名の元に自身の一方的な価値観を押し付け、時には保身に走り優生と劣性を選別して増えては、足元にある生きる事で繋いでいく小さな可能性や未来への投資も踏みつける。その様な人達も居る場所で新しい人を紡いでいく場所に立てないなら、保身と安全と限られた食料の中で閉塞する事に成るのでしょうかとあと、個人的に日曜日に死生観の配信は月曜日に仕事を始める方にとって少し足枷に成るのでは?と思うのですが、どうでしょう
生きることは苦しみと考えるのは、日本人なら仕方ないのかな。5月に逝った叔母は、亡くなる少し前に死ぬのがこわくないと言っていた。向こうに叔父がいるからと。離婚とか、ひとりで子ども育てるとか、がんになったとか、育てるの下手で毒親になってしまったとか、パワハラでうつになってしまったとか、いろいろあったけど死にたいとも思ったけどいつかみんな死ぬんだなということがわかってきた感じがする。特に叔母の死に方が変な言い方だけど、素晴らしかったから。この動画むずかしいですね。益田先生。死生観って言葉、死ぬと生きるが入っている。
鬱になってから死に対する恐怖心がどんどん薄れていくのだけど、脳のバグみたいなものなのかな。
私の考え方だと、生は苦しみではあるが、神(世界)は私たちを、全てを愛してくださる。という考え方。存在の自由は昔から存在する。それこそ、人間が生まれるずっと前、宇宙誕生の瞬間からずっと存在していると思う。まぁ、宇宙誕生より前があったとしたら、本当の本当の最初から。だから、「存在しているのだから修正する必要もないから放置している」と思っているし、法則だって何かの必然的進化性なのかもしれない。しかし、それが人間には理解できない、言葉や人間の思考の幅によって、「常識」という「人間の最低保証」などによって理解できなくさせてるのかもしれない。なので、「認めてくれる人がいない」というのなら、「世界が存在を許してくれてる」って思えばいい。ただ、それはあくまで自己肯定感を「死なない程度まで」戻す程度のものだから、詳細な人生の解決法は専門家や詳しい人に聞いた方がいい。
面白い考えを聞けて楽しかったです。70歳の自分をコントロールする、経験値は5つの嫌いを、思い出しながら心の切り替えをしています。①勉強嫌い、②仕事嫌い、③遊び嫌い、④寝てばかり嫌い、⑤私に断りなく月日が流れるのは嫌いだ、われ思うゆえに我あり、思考が現実の動きを。三方良し。で分析。身近な心臓の動きで感じられます。
現代は個人主義が強い…死が訪れる前に、何らかの経験値は残したい
大変良いお話を聞けました。ありがとうございます。特に命を高級車に例えたら傷を負ったり死への恐怖が高まるが、中古10万円なら死への恐怖を低くしていたということでした。命の価値は高いと思っていました。世の中で最も尊いのは命とも思っていました。しかし必ず死は誰にでもいつかは訪れる。生きている間、幸せであれば良き。現実には楽あれば苦ありですが。自殺してしまう人へは自分勝手、無責任、甘え何て簡単には言えません。周囲の援助が無かったり、それだけ苦しみを背負っていただろうし、正常な精神状態で無いからだと思うので。勿論、推奨はしません。
苦しい時はその苦しみに埋没してしまいますが、なんとか耐えてました。私は若い人から見て毒親の世代ですが、人生に苦しみはつきものなんだと言う割り切った考えをしているし不運が重なるのは仕方がないことと受け入れましたね。でも楽しいこともありましたよ。
益田先生は身近で信頼していた人に裏切られたことがありますか?私はあります、まだ許せません。何時になったら許せるかもわかりません。孤独です。自分が望んで孤独になっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない、わかりません。辛いということだけは確かです。
私は仕事(人間関係)が長続きしなくて困っていますしかし原因が私にはわかりません普通の人にって精神病の人が気持ち悪いからなのか私の喋る量が多いからなのか自他の境界線がないからなのか言動が奇妙だからなのかなぜなのか全くわかりません
私は心臓が壊れて死にそうになりました。その後は、希死念慮は大幅に無くなりました。どうせ、そんなに長生きは出来ないと思いますし、慌てなくても誰でも4にますから。そう考えたら楽になりました。医師に言ったら苦笑いしていましたがただ、気持ちが落ちていて、思う様に仕事が出来なくて本当に困ってしまっています。最近は、寝込んでしまっています。仕事しないとお客様に迷惑を掛けますし、仕事を手伝ってくれるボランティアさんが欲しいです。
穢れだ不謹慎だ厨二とかって、自分が怖いと思っている事に関わりたくないことを正当化してるだけだな。怖がってる自分を知られたくない、話題にする奴のほうが間違ってると。それと同時に、死なれたら迷惑だというのもオメーの都合だけじゃねえかと。あとは、苦しみは永遠じゃなくても死ぬまで増えていく物でそれを終わらせられるのが死のみってところかな。
個人主義に偏りすぎると悲しい末路に行き着いてしまう気がしています。。
生きてきた中で楽しかったことがあったので、今はしんどいけれど死ぬのはもう少し先~と思う。でも一度も〝良い事〟がなかった方も中にはいらっしゃるだろうし、この考え方だと…難しいですよね。
小学生から虐めと虐待で死にたくて、でも死ぬ方法を知らずに生きていましたが、大人になっても性暴行、暴行に遭い、詐欺、恐喝、借金等。虐待も暫く続き…。大人になっても変わらず苦しいですよ。更に苦しいかもしれません。笑 日本人の考え方は勝手で冷たいと感じます。西洋の、生も死も喜びだ、と言う考え方の方が好きです。日本人の自己肯定感が世界的にみてかなり低い理由にも深く関係していそうですね。ありがとうございます。
ADHD ASDの併発者です自分にはこの動画が健常者に対してなのか発達障害者に対してなのか分からないのでとりあえず自分の意見を話します先生の話されている内容は個人的に高校の同級生から聞いたことがあります彼は健常者ですが鬱病で手帳を持っていますその時は彼が鬱病だからそう思うのかなと思っていましたが、これが先生の私見でもあるということで日本人はよく思う事なんでしょうね。ちなみに私は西洋式が好きなので全く同意しません。生きづらいのは認めます笑😂
お金のない方へも、質問コーナーの配信のとき答えたあげて、助けてあげてください!
今は誰も彼も楽になりたがってる気がしますね。しかも、手っ取り早くだとか、手軽に、すぐ、楽になれる方法を求めるし、そんな作品が多いしかし、自分にとって本当に『かけがえのないモノ』って必ず苦労の先にしか顕れないものだと思っていますたぶん最初から楽を手にしている人には、その本当の価値なんて解らないだから和洋折衷で苦と楽はセットで一役。と考えるとすこし前向きになれるかも? です!
生きてるだけでぼくは邪魔ってよく言われますよ😢😢😢
自ら亡くなってからも両親に責められる日本人。日本人はどうしようもないですね。そういう考えからもう抜け出したいです。だから私は近所と付き合いません。村八分ですが、それで結構です。この時代で良かったです。おかしな人と付き合わなくて良いのは幸せです。そういうおかしな近所だからですけど。実際に迷惑を掛けられていますから、この世界に来たので。日本人は、自分の考えが無いんですよ。マスコミの言う事が絶対で、権力者の意見をほいほい聞いて、身近の人の多くの意見に流され何も考えていない。そして、それに馴染まない人を苛めてストレス解消をする。日本人は仏教すら信じていないんです。形だけ。むしろ、実際は、マスコミ教や、拝金教、自民教、多くの人の意見教、なんです。そんな狂った世界。タヒは救いですらあります。それを避ける理由があるとするなら、痛みですかね。現代は、孤独な人もたくさんいると思います。氷河期世代ですけど、子どもがいない人もたくさんいるでしょう。だから誰かが死んで悲しむ、と言うのも、どうなのかなと思います。誰か悲しむ人がいない人は生きてはいけないのか、とも思います。将来的に自分はそうなりますが、自分の為に生きてもいいのではと個人的には思いますね。
一日のほとんどを費やす労働は正の感情より圧倒的に負の感情を感じます。人生もほとんどが負の感情に支配されるように感じます。
甘えという言葉は何も語っていないから使いませんと他の精神科医さんが動画にしています。
スウェーデンとかに生まれたかった
欧州に住んでいますが、宗教に由来する死生観の違いはあまり感じません。基本は日本人と同じことに悩み、恐れを抱えて生きています。一番違うと感じるのは、年功序列が無いこと、学歴格差が少ない(能力主義)こと、性別による考え方の差が少ないこと。これだけも生きる活力になります。
益田先生のお話はとても落ちつきます。
配信ありがとうございます。自分自身の価値観を見直す良い機会になります。ところで、スピノザという哲学者はご存知ですか?私的にすごく面白いと思うのでよろしければ、ぜひスピノザに関する本を読んでいただければと思います。
フランス在住です。キリスト教信者は少なくなったものの、自殺はいけない事となっています。法律でも、人の命は法よりも尊いということで死刑制度はありません。なので、生きているうちに楽しむので、仕事に人生を捧げるなんてこともしませんね。
キリスト教の教えには、愛がある気がします。だから生きていて幸せを感じていられるから死にたいという思考が発生しずらそうですね。仏教は、形ばかりで人々を日常的に救えていない気がします。命の電話がつながらないほど多くの人が精神的に辛い思いを抱えている人がいるのに。
欧米編はどちらにあるのでしょうか?上手く探せません😢
ラッセルはこのあたりの東洋の価値観を受け入れられなくて悩んでたよね
死は原初への回帰だと思います。
仏陀が生きることは苦しみなんて言うから😅そうか、生きることは喜びと思えばいいんですね😊私はずっと苦しみだと思ってました。考え方を変えれば良いのですね😃💕
毎日仕事憂鬱。。。現在社会は仕事行けたら勝ち。
お金ないからメンバーにはなりませんがコメだけ…。楽しい時間や子供に良い事があれば、生きててよかった幸せ って思うけど、、生きるのが長くなればなるほど、いつまでこの病気と付き合っていかなきゃいけないのか… と思う もし病死で死ぬ時、精神疾患がある理由で生命保険も入れず色々条件もついてきて入れないし… 親は死んで頼れる人もいない 生保脱却したのに生保にまた入らなきゃいけないのか?色々考えると死にたくなる。甘えじゃないんだよなー…辛いんよ本人は 他の方がコメントで書かれてた通り安楽死出来る制度が出来ればいいのにな…日本じゃ無理だな…
難しい問題ですね。身内に80.50問題の姉がいます。私が死ねば、保険金が姉のものになるから、死んだほうが、と思います。が、その気持ちを打ち消しながら、仕事の忙しさに任せて忘れようとしています。私も経済的に厳しいです。破産しそうだから自立して欲しいものです。
私は代々クリスチャンです。事故に遭い鬱、適応障害、パニック、PTSDになっていますが消えたい、の最悪な時期(1ヶ月で20キロ痩せました)に、神様は私を知って下さっている、の気持ちが湧き出て闇から救われました。15年以上 薬と共に生きていますが命ある間は神様が喜んでくださる生き方を心掛けています。
依存症は一生の苦しみなんだよなあ
自分らしく人生を作っていくことができないから人生は苦しみになるのだと思います政治にしろ会社の中にしろ何ににしろ社会や自分の状況をよりよくするために、周りに働きかけて変えてゆく方策があるのなら人生は喜びに変わるでしょう訴える場はないし、訴えても個人的にすら理解されないし、司法の場やらに持っていっても一向に解決しない、何も変わらないという日本の社会的な状況を踏まえずにザックリと西洋だの東洋だの歴史だの思想の話にもっていって話すのは、あまりに乱暴すぎるように思います
タイも仏教の国ですが日本とはだいぶ死生観が違いそうな感じです
仏教は輪廻転生の考えが大きいかもしれない🥹解脱しなければまたラットレースに参加するような感じ
魂は永遠ですよ。肉体が死んでも魂が死ぬことはない。だから、苦しいのは嫌だけど、死は怖いものでないのですよ。
人生自体が良いものか悪いものか、なんて元々無いんじゃない?人生が良いか悪いかどうか決めてんのは自分でしょ。般若心経にもそう書いてあるけどね。
チャット欄にて一つのキーワード「和魂洋才」挙げましたが☆☆☆の配信時みたいに賛同全然得られないかもな予感(*'▽')!♪✨
私個人の感覚では、命は個人のものでもあるが、ゆるく共同体に属するとも思う。個人単体で生きている人はいないので、必ずなんらかの影響をし合っているから。だから、ほんの僅かしかできないなりに良い影響を与えていきたいですね。私にも長いこと、希死念慮はありました。しかし、このまま死ねばあそこの家の子はダメだった。と親族に残念がられてしまうし、家庭崩壊している家族も更に僕はダメだとしか思わなくなるから、頑張り続けました。奇妙かもしれないけど、死なない事は受動的に選んではいたけど、内心、死んでも良いと思う事で肩の荷を下ろしてました。生きると決断し続ける事で荷が下ろせず希死念慮が強くなってましたので。😓でも、自殺を肯定し、それを表明することで、辛い想いを今している方が自殺するのを後押ししたり、集団自殺が起こるのは反対です。その方が自殺者本人にとっても過酷に思えます。特に、集団自殺は、苦しい途中で辞めるのを互いに引き止め殺す事にならから、過酷過ぎます。先は見えないです。でも、寿命を全うする事で、新たな展望を見出したり、成長していくこと、味のある人になって行く事が出来るから。影響を他に与える事が全く無いなんてありえません。
死が不可逆なので生きています。
「死ぬのはいつでもできるけど、死んだら生き返れないしな……」
「今はすごくしんどいけど、来週になったらマシになってるかもしれないしな……」
「あと何日か待ってみて、それでも耐えられなかったら死ぬか……」
と何十回も思いながら、結局ダラダラ生きています。
失礼します。
私の母はよく、別に4ぬわけじゃないんだから大丈夫よ、と私が何かをするのが怖い時、励ましてくれました。
その言葉で勇気が出て頑張れたまでは良かったのですが、それがいつしか逆転してしまい、もう4んでも良いかな、もう人生充分楽しんだし、となり、12階から⤵️
失敗してしまいました😢寿命って決まってるのかな?その時はそんな気がしました。それからはあまりに闘病生活が大変で、どんなに4にたい時でも、絶対失敗する気がして、2度と出来なくなりました。大分マシになったけど、やっぱりあの時成功してたらなぁ、って、どんなに楽しい事があっても、もっと楽しい事がこれからあるとしても、ずっと早く消えたいです😢
無常感について深く共感しました。休職中は自分が何をしても何も見ないし、何も残せない無常感に絶望していました。自分より優れている人も数年後には忘れ去られると思うと、誰もが交換可能な人材で、かけがえの無いものなんてないとしか思えなくなりました。益田先生のおっしゃる通り命の重さも分からなくなり、死ぬほどではないにしろ、自分が最初からいなかったほうが、パートナーの人生にとっても良かったのではないか?と考え続けていた時期があります。ただ、仕事を休んでいる期間に猫カフェに通い、客観ではなく主観として、「生きているだけで尊い」という感覚を思い出し、少なくとも命は重いものだという実感を取り戻すことができました。無常感も仏教的な客観(あるいは達観)によるものだと思うので、主観や個別の感覚によって脱却できるような気がしています。
産まれる前に産まれたくないと意思表示出来たならどれだけ良かっただろうかと何度も考えます
もう生きたくないです、けど死ぬのは怖いから生きるしかないです😞
失礼します。私も同じです。なんで子供は親を、国を、生き物を、惑星を選べないのでしょう。自分がいけないのかもしれないけれど、こんなところに産まれたくなかったです😢早くあの子たちが待っててくれてる虹の橋に逝きたいです💔
最近、自分って意外と単純だったんだな。。。と思うことがあって、ただその瞬間に親切にしてくれたり、愛想良くしてくれたり、対等に扱われると、ちょっと幸せになれるんだなと。
車の運転を始めて、運転中って、男女も年齢も関係なく対等で、たまに変な人もいるけど、基本的には皆事故を起こしたくないから、交通ルールを守るし、譲り合うし、譲ったら、お礼の合図を送ってくれる人もいる。
会社で酷いセクハラモラハラにあって、PTSDに苦しめられていましたが、運転中は、社会に対等に扱われていて、自尊心が、一瞬回復する時があります。
感情に支配されやすいASDだからか、逆に、その時さえ良ければ良くなることもあるのかな??
生きるのは確かに苦しいけど、求職活動や、家事に疲れて泣き出してしまっても、とにかく、休んで寝て。。。という風に、今は生きています。。
あなたが死んだら悲しむ人がいる(だから生きて)、という言葉が使われることがあると思います。
悪気は無いし、純粋に励まそうとして言ってるのは分かるのですがこれを言われると「私はまだ他者のために苦しみ続けないといけないの?」と思ってしまいます。
命は共同体のもの という概念はまだ強く残っていると感じます。
@@くま-p8k
原始仏教には「(悟ってない人間が)死ぬことで解放される」という教えはないと思うのですが、どういうことでしょうか?
輪廻転生を信じていないにしても釈迦は「無記」として語らなかったような気がします。
ASDの家族は同じくなんらかの発達障害を持っていたりして人の気持ちに対する共感能力が低い場合がある。
普段、患者本人に自論を押し付けてくる家族といっしょにいると、本当に死にたくなる。
生きていて欲しい理由も「自殺は世間体が悪いから」「自殺されると自分が悪いことしたみたいな気がして嫌だ」だったりするし、
生きていても大切にはしてくれない。
クチの中をケガしていて、食べやすいものを頼んだのに、香辛料たっぷりの麻婆やカレーを出して来て、こちらが「これは食べられないよ…」というと「気に入らないなら食うな‼︎」って怒るASDの家族といても幸せを感じることはない。そんな家族に「あなたが死んだら悲しい」と言われても、まったく心が動かない。
「悲しんでくれる人」とは、そんな自分勝手な親族や知り合いを除外して考えるといい。
自分が大切に思うことやモノを同じく大切にしてくれる人。自分自身を大切にしてくれる人。
いっしょに楽しい時間や幸せを作っていける人。
今はそんな人いないと思うかもしれないし今後現れるか分からないって思うかも知れない。
ただ、この動画を見てる人の中でコメントもしてないけど、
同じ苦しみを知ってて
いっしょに幸せを作っていけるような人がいて
まだリアルで出会えてないだけかも知れないから
もうちょっと生きててよ
と思う。
「ともに死して幸せをえよう」とか言うヤバイ人ではなくて、
いっしょにごはん食べておいしく感じる人とか、
いっしょの部屋にいて気持ちが楽になる人とか、
そゆの探して
見つかればよいなと思う。
安楽死も「死んだ方がマシ」と本人に思わせながら死なせる制度なので、それって福祉の敗北なんじゃないかと思うところがある。
身体の病気でつらい人には緩和治療が届くように、寄付金などの支援が広がってくれればいいなと思う。
心の病の人も、身体の病の人も
つらさを軽減して、ちょっとでも多く清潔さやタオルでもシーツでもすべすべした気持ちよさや、ぬいぐるみや握手でも柔らかくて温かくてほっとするものや、自分を思い遣ってもらえる優しさやや笑顔や、共感や和やかさや安らぎや穏やかさや、そういう嬉しいって思えることをたくさん増やして。
命が個人のものだけではないことに最初に気が付いたのは、歴史などを勉強していたときでした。
今ある平和や選挙権などの権利、医療、法律、学問……過去の人たちが命削って作り上げたものを享受して生きているということ。
大人になるまでには、国家や社会、家族から投資されているような面があるとも感じました。
それらからは逃れることが出来ず、責任があるとも感じるようになりました。
私は自分の命は個人のものと考えています。
それが、発達障害(グレーゾーン)の特性があるからなのか、機能不全の家庭環境で育ったことから来ているのか、その両方なのかわかりませんが、自分が死んでいなくなっても両親は困らないだろうと思っています。一時は困ったとしても、いずれ私のことなど忘れるだろうと。
命を断とうと実行したこともありましたが生き残ってしまいました。
それから十年以上経ちましたが、無職だし、友達も離れ、恋人もできず、やりたいこともわからないままです。
今でもあの時に死んでおくべきだったと後悔しています。今は実行に移すほど気力がなくただ生きているだけです。苦しみは永遠に続かないなんて思えません。現に苦しみ続けているのですから。
そんななか、益田先生の動画は昨年から見続けています。動画の内容がとても興味深く、面白いからです。
反発を感じることもありますが、益田先生の熱意や継続力には学ぶところがあります。
いつか終わりが来るというのが、こわくて嬉しく感じてます。最後はみんな土に還るんだなぁと。
そうですよね。いつか終わりがくる、
みんな苦しみながら同じ一つの地球の中で同じ空気を共有しながら生きてると思うと、目の前にいないだけで、どこかでみんな一緒に頑張ってるんだなぁ。私は一人じゃないんだなぁ。と思いました。
7:56 「自己責任ですよね。あの子は社会に対して甘えてたんですよ」と親御さんが仰ったのは、先生に気を遣って先生が自分を責めないように配慮して言った言葉であって、本当はどうにかできなかった、あの子は悪くなかったのに助けられなかったのかと苦しんでいるかもしれません。
時代の流れによって労働の形も本当に様々になりましたし、障がいに対する風あたりは相変わらず冷たいものですがその人にフィットした暮らしを見つけていければ幸せなのかもしれませんね。
益田先生、今日も動画ありがとうございます。幼いころ父のアル中とDVに苦しみ、20代で結婚、出産やっと幸せになれたと思ったら旦那は仕事が長続きせず、子供が成人するまで睡眠時間3時間で昼夜働きました。子供が成人し、やっとほっとしたのも、つかの間。職場で狭心症の発作で倒れ死に直面しました。その後
離婚、鬱になり4年間休職。
短時間バイトで復帰しましたが女性の、パワハラ上司のせいで鬱が悪化し、自宅療養中です。人生を振り返った時に1番幸せだと感じることは、子供がなんとか自立したことと
今のパートナーに、出会え再婚できたことです!
他人や人生は裏切るけど、死だけは絶対に裏切らずに待っててくれていると思うと安らぎや希望のようなものを感じて逆に生きる苦しみが減るように感じますね。
一度全身麻酔の手術したことがあって、死ってあんな感じの無なんだーと思うと恐さも薄れたし。
死そのものよりそこに至る苦痛が怖い。今は緩和ケアで大分マシなんだろうけど。
仏教の一切皆苦については、いろいろ考えることがあります。
人生の9割(もっと?)に苦が存在すると受け入れ、一つ一つの苦に過剰反応せず俯瞰し受け流し、「楽に苦しみ」生きなさい、という意味なのかな、とか。昼間はちゃんと苦しんで交感神経を活動させた方が健康にいいって最近言いますし。
また、仏教の「苦」は、現代語の苦とは少し違って「予想通りに行かない」という意味だと書いてるウェブページを見たことがあります。現実はどこまでも複雑なので、人間の予想は外れ続けます。これもやはり受け入れることで楽になりますね。なにか想定外のことが起きると想定しておく。
理屈としては理解できます。
ただ、ドクターがよく言う「サイコロの目の6が連続する」くらい不幸が重なる人もいるわけですよね。
そういう人に対して、「今後よくなっていく可能性があるから耐え忍んで生き続けろ」と私はなかなか言えないです。
私の人生がまさにそうでした。でも、中学生の時、原因の一つに気が付いた時、その原因の母に怒りが湧いた瞬間、今までは気づか無かったから変えて行く事ができなかった(宿命的)、気付いたなら、ここからは私の責任、全てを回りの責任にはできない。もちろん、今出来ることは非常に小さい(運命は選べる) 。数十年の中で、斯道を変えられる。最初は小さな違いかもしれないけど、長い年月の中では大きなものになると。 金銭的なものは成長する環境が大きいかもしれないけど、それがそのまま、幸せに繋がらないから、それ以外に価値を置ければ、かなり自由がありますよ。特に身体は縛れても心の自由は縛れませんから。心を縛ってる何か(トラウマ) があるなら、少しづつ解いていきました。何十年の中ではありましたが🥲
大切な人と同じ時間過ごせるのが
私は幸せです!
物よりも時間を大切にしています。
生きていれば幸せそのものです!
人生は辛くて皆我慢しているとの考えもあるとのことだが、ならば逆に何故死を選ばないのか、とそういう考えの人に問いたい。
何故生きなければならないのか、死んではいけないのか。
いいことがあれば生きててよかったと思えますし、嫌なことがあればこんな人生なんて…と思います。
針が両極に触れるんですよね。
この針が壊れないように生きていくしかないのかなと感じてます。
人生は苦しみであり修行だと思って生きています。
命は自分のものだと思っています。世の中の繋がりや搾取システムを窮屈に思っています。
幼少期、世の中に死があり戦争があるってことを知ってからずっと悲しくて親に話してもおかしな子と思われて、自分で仏教について、また他の宗教や哲学について学びました。誰かが悲しむから死んだらいけないっていうのは哲学ではあまり見かけない考え方かなと思います。それ言われると、死んだら迷惑だから困ると言われてる気がします。
学生のときに美術に出会ってなかったらもう死んでた気がします。親が悲しむなどは歯止めになりません。自分がこれから作るであろう作品ができないのがもったいないのが1番の死なない理由です。
また、まだ苦しみというには足りないし、もっと足掻ける、限界まで足掻いて死なないと命を使い切ったことにならないと思っています。
後ろ向きになる思考からの脱却を廻りがサポート出来るかだと思います
永遠に残る芸術作品、本はあると思います笑
益田裕介先生の色々な宗教の幅広い考え方勉強になります、ありがとう笑
何年か前からdoomer(自分の現状と将来に絶望している成人男性)を扱うネタが色んな国籍の人から共感を集めているのを見ると、生きていても良いことあるのか?という疑問は結構普遍化しているのかと感じますね😢
この先、生きていくにしても不安や苦しみを軽減していく選択肢が少なすぎてほんとに無理。周りに先立たれるのは辛いけど私は苦労させた側だから将来的に早いうちに消えといた方がなんか本当に楽になるんだろうなって思ってしまう(まとまらない〜〜)
自分を、「中古で買った十万円の車だと思えば」の言葉は良かったです。
ボロボロになっても生きて行こうと思ったら、なんとか生きていけそうです。
大平光代さんの「だから、あなたも生き抜いて」の言葉も力強いです。
死は無になる事で、私は死が楽しみですね。じゃあ今自ら死ねるかと言われれば、恐怖心の方が強いしまだその時ではない。そんな今です。
生きづらい。いなくなりたい。人生嫌い😡⚡
やはり文化や価値観の違いによる労働条件の差だとおもう。働いてると分かると思いますが日本での労働者の価値がかなり低い。最近は欧米と比較されてきたし、人手不足もあり改善されてきたがごく一部。経営者の意識改革がされないと駄目だと思います。人は会社の備品ではないし、人の命は軽くないんだよ。
シンプルに考えてほしいんですけど、
「みんなだって苦しんでるのに我慢できないのは甘え」っていう考え方、単純に「ふつうは耐えられるよね」という意味だとわたしは捉えていまして
つまり、耐えられないのって「ふつうだったら耐えられるけどそれ以上のことが起こってるよ」という話なんですよね……
なぜか「ふつうだったら何とかできる」のところで思考停止してる人世の中に多いなーと感じます
ふつうだったら、という前提があるのになぜ「でももしふつうじゃなかったら?」という考えに至らないんだろうか、めっちゃ物事を一面でしか見てないのでは…?
どの例えが1番わかりやすいかな…
うーん例えば、ふだんだったらお給料でギリギリの生活してるとします
でも親友が結婚したので(おめでとう架空の親友!)御祝儀を払ったりプレゼントしたりしました
ふだんだったら生活費に回してる分が足りなくなりますよね
みんなも大変だしなーとがんばっている人がいたとします
わりとカツカツとは言えどもふだんは精神力の余裕があるので生きられます
でも何らかの出来事でその余裕がなくなってしまったら?
上記の例みたいに収支マイナスになると思うんですよね
そこで尚も「みんなだって頑張ってるんだから」とやり過ぎると人は死ぬじゃないですか
ただ、生が苦しくて死は救いともわたしは思わなくて
苦しいのは生そのものじゃなくて目の前にたまに現れる邪悪な何かというイメージです
邪悪な何かがドラキーみたいな感じだったら可愛いもんなので上手に飼えますが、それが竜王だと戦えなくなって生そのものが魔王に支配される
でもそれは自分で望んだことじゃない、竜王さえいなければ生きたいんですよ、こっちだって
だから、善悪とかはともかく「その人が生き延びるために1番効果のある考え方」を選べたら、と思うのです(それがあるので先日みたいに苦しんだ人に対して身勝手とか言うのは反対でした。逆効果なこと言ってどうすんだと感じたからです)
何とか乗り越えて助かろうとしてる人のメンタルを押し付けとか正義論とかで潰して殺すよりも、ちょっと正論とは違うな〜と思いつつも生きてくれたほうがいいなってわたしは思う、自分に対しても他人に対してもです
まさしく逆効果になるような言葉のせいで知人が自死してますもん
死にそうな人には社会とか倫理とかそんなもんよりもっと大事な、もっと見てあげなくちゃいけない何かがあるはずなんです
少なくとも、わたし自身もわたしの大切な人たちも、逆効果なやり方で死なせたくはないなと思っています
この前の例の動画のせいでだいぶ落ち込みましたけど、なんとか建て直してがんばってます
人生の中で長いイレギュラーが起こってるんだと考えるようにして、周りの正論()とかガン無視して、そうすれば死なずに済むし、軽くなったこころで挑めばいつか竜王も倒せるんじゃないかと思います
「落ち込んだらダメ、迷惑かけたらダメ、死にたくなる自分が悪い」って自責したらまた竜王の勢力がすごくなっちゃうので、わたしはたぶんそっちの救われ方じゃないほうがいい
思いとどまり方は人それぞれです( ¯ᒡ̱¯ )و
それと、生命は個人のものじゃないんだからなおさら殺したり、追い詰めたり、そういうことをするのはナシだなーと思いますね〜
もうほんとに最近めちゃくちゃ思うんですよ、なんでボロボロになってる側にぜんぶ気を遣ってもらおうとしてる輩がいるのか
それこそ、現代人は生命を個人のものとして考えてるからなのでしょうか?わたしは、個人のものでもあり社会にとっての大切なものだと思うんだけどなーなんで自分の都合で潰しちゃうんだろ…
生きてて、悩んだり、落ち込んだり、悲しくなったり、苦しみを感じることがありますが、人間には五感があって、食べて美味しいと感じることができたり、腐っていたら身体に入る前に、舌があることで気づくことができます。四季を感じることができたり、誰かが喜んでいたら、一緒に喜ぶことができたり、誰かが悲しんでいたら、一緒に悲しむことができます。一緒に感情を味わうことができます。つながりがあります。
自分が「今」できることに目を向けて、日常生活の中にある小さな幸せに気づいて集めていきたいです。
いろいろな支えのおかげで、自分が今、生かされていることに感謝です。
自分は無宗教で、毎日他の動物の肉を食べて生きていますので、人間も動物ですので、死後の世界も幽霊も存在せず、生命が終了するだけという科学的な考えで生きています。おばあさんは脳梗塞で倒れ、数年病院のベッドの上で点滴や生命維持装置く管だらけ、点滴を抜くのでベッドの柵に縛り付けられ、床ずれだらけで、
最期は両手を合わせ死を懇願し、医師はすべての生命維持装置を外し、1時間後死亡を確認しました。自分が救急車を呼ばなければ生物として食事が摂れなくなり自然に眠るように最期を迎えられたはずなのに。
小学生で祖父は脳梗塞で死亡、父は中学生の頃に釣りで崖から転落して死亡、母は2歳の頃に家から出ていき、兄妹もおらず、高校へも行けず、祖母の為必至で働きました。中学生から隠れて新聞配達をし、自分の二十歳の成人式は出席せず、同級生が二次会で宴会をする居酒屋で、お酒や料理を同級生に提供していました。
それから数年しておばあさんも亡くなりました。20代後半に実の母と名乗る人物が知らない男を連れて突然自宅に押しかけてきて、母と名乗る人物は自分の祖母と叔母に嫌がらせをされて家から出たんだ、こっちの男はお前の父と別れてから3回目の結婚の旦那 2番目の旦那の間には二人の娘がいる、生活が苦しいから お金を稼いで渡してほしいと言う内容でした。追い返しました。怒りを通り越して空しくなりました。
自分が倒れた時に救急車を呼んでくれる人はいないので、生物としての最期を迎えたいです。苦しまずにポックリ逝きたいです。
家族単位ではなく、地域で協力し合えるしくみの充実が必要ですよね。
家族とはいえ、個人で支えるには限界があります。その最悪の結果が、家族間殺人です。こうゆう事件が起きるたびに、社会で助けていく仕組みの未熟さを痛感します。
家族で助け合う心は、 素晴らしいことです。ただ、苦しいと感じたら、とりあえず周りに相談してみると良いかもしれません。
たくさん話しを聞いてくれて応えてもらって休ませてもくれた人がいる。
この先なにもわからないです。
支援所に頼ります。できなくなるさまがある 仏教の本物読んで勉強しました。
受け入れられない苦しみや悲しみに無理に向き合わなくていい
子供に自殺されると、親は無力感・徒労感に苛まれるんじゃないかな。せっかくこの世に生み出して、一生懸命育てたつもりなのに、自己判断でこの世に見切りをつけて、勝手に去ってしまった。じゃあ、その子の人生は無駄だったのか。自分が生み出した命は無駄だったのか。。。そんな心理から、やるせなくて「甘えだ」と断じてしまうのかな、と想像してみました。
考えてみたら、私自身、「もういいや、死んだ方がいいな」と考えたのは、6〜7歳だったと思います。毎日毎日、ピアノの練習をさせられて、人生が面倒くさくなって、「だったらいなくなってもいいな」と考えていた覚えがあります。もちろん、実行に移す気は1%もないですけど、でも、「子供は死を考えない」ということはなくて、普通に考えることもあると思いますね。
みな自分の意志とは関係なく、この世に誕生します。
育て方次第では、子供を死に向かわせてしまう。
勝手にこの世を去ってもらいたくないのなら、安楽死制度の法制化を実現した方が良いと思います。他国の例では、安楽死までに何度も家族を交えて問診し、死というものに当事者だけでなく家族も向き合う時間が作れます。
人生はそんなに良いものじゃあないから、死はそんなに悪いものでは無いというその考え方は知りませんでした、なんか面白いですね!
日曜日の
配信を楽しみにしています。
死生観を精神分析的に、宗教学的に考える良い問いをいただいています。
先生、ありがとうございます。
いつも見てます😊
8:52 そもそも世の中は無情だし、苦しいものだと皆わかってるいるのにもかかわらず、
死を選ぶのは他の人に迷惑がかかる!だから甘えてるんだ!
→だったら、苦しんでる人に無条件かつ無対価で生活費を支給するか、それが嫌なら安楽死施設でも作ったら?って話。
9:50 小さな子供が自殺を選ぶなんてというのは、結局、可能性を失ってしまう、人生というのはいいもので、これからいい出会いとか楽しいことがいっぱいあるはずなのに、なぜそれを選ばなかった!
→後から楽になるより、今すぐ楽になりたい。さっさと損切したい。負債を抱えたまま生きたくない。って思考。
未成年なら可能性があるからって理由で支援や保護を受けられるけど、
成人してからは一律自己責任だの甘えてるだのって切り捨てられるだけなのが現状の社会。
10:08 今は苦しいかもしれないけど、後から楽になって楽しいがことがいっぱいあるのになんで我慢できなかった!
→暴漢に殴られた後にその暴漢から治療費を払って怪我を治したんだから、それでチャラにしろって言われてるようなもん。
どこからどこまでが病気によって考えてしまうことなのか?という疑問があります。正しい考え、答えは時に私を苦しめます。
生きていることも○にいくことも寿命を迎えることも、そして病気や事故○も全て自然なことだと思います。
難しいなあって思いつつ今日のようなことを皆でシェアしながら考え続けていくことに価値を見出せているかもしれません。
次回も楽しみにしています。
苦しくて明日の希望も持てなく死を選んだ人に迷惑だと言える人って何ですかね?そちらのが精神的に問題有りだと思うんですが。
そうだそうだ!
幸せと思えたら楽しそうだなぁ🤔どうせなら楽に生きたい😮
戦争の有る最中に産まれた人々と戦争の無い時代に産まれた私達とは生きる又は生き抜く価値は大きく違ってくると思うし死に対しての思いも全く違ってくると思います
面白かったです!
私は人生は苦しいものだと思っています。世の中には素晴らしいことも多いですが、苦しいことの方がはるかに多いと考えています。諸行無常という価値観も持っているので、苦しみが永遠には続かないことも分かっていて、今は適応障害の治療に励んでいます。が、「人生は苦しいものだ」という価値観は、現在鬱状態にあることが関係しているかもしれませんが、かなり良くなってきている今でも変わらないので、これからも変わりにくいと思っています。なので、死を悪いものだと考えないゆえに、死をそこまで恐れておらず、私自身あまり長く生きていたくないし、将来自分が子どもを産むことは今のところ考えていません。
私はまだ若いので、両親にこういったことを話すと、辛そうで、それでもこれからの人生は楽しいものだと希望のある言い方をし、なだめようとしてくれます。親の気持ちもわかるので、こんな考え方をする子どもで申し訳ないとは思いつつ、自分の価値観を変えられる気がしないし、変えるつもりもありません。
家族はそう言うのに、社会ではやはり、無責任だとか甘えだとか言われるので、まさにぐちゃっとしたところの板挟みになっている気分です。
また、私も命は基本的に個人のものだと思いますが、やはりこれまで一生懸命愛し育ててくれた家族のことを思うと(たとえ自分がそれを望んでいなかったとしても)、死にづらいと感じるので、共同体のものだという価値観も無くはないようです。
結局今のところ、人生は苦しいものだと思いつつ、ただ自分で死ぬのは大変そうなので、できるだけ楽に生き、日々小さな幸せを感じながら、苦しみには耐えようと思って生きています。しかし、耐えられないほどの苦しみがやってきたときには死ぬと思うし、それは個人の自由だと思います。
この場を借りて、今の自分の分かっていることを書き出し、考えをまとめさせていただきました。長文失礼いたしました。
このタイトル、いつも疑問でした。
日本人の多くにとって生きることは苦行、修行で、欧米人の多くは楽しむためのもの。よく言われますよね。
労働も日本人にとっては「生きがい」「喜び」「義務」で
欧米人にとっては「罰」とされています。仏教vsキリスト教なのでしょうけれど、非常に興味深いタイトルです。
労働についてですが個人的に日本人らしいなと思った反応があって、
以前雅子妃が適応障害で外交など公務が出来なくなった時期に「雅子働け」「税金ドロボウ」と大変叩かれ続けていたんです。日本人らしいな、と象徴的に記憶しています。
生きることについてと労働については
日本人は境界線が混雑してる気がします。
そして他者に不寛容です。
他者に対して冷たいのは本当に同感します😢
境界線が混在…😊たしかに
@@チュン太郎-v6k ですね。中途半端なエセ個人主義で、監視社会、干渉社会で一般的な人と違うことをすると叩かれるし、干渉や非難はするくせに秘技「自己責任」や「迷惑教」を印籠のように振りかざす。
「迷惑かけられるけど、自分も迷惑かける。みんなお互い様。」のほうが健康的で明るい社会になると思います。
@@porukoa 「働かざる者食う(=生きる)べからず」ならば
じゃあ生きるために働いてるのか、
いや日本人は働くために生きてるのか、と考えます。税金納める奴隷のような気分になることがあります。
日本人は同胞というか、日本人同士に超冷たいという感じですね。身内には暖かいですが。けど海外の人には甘いというか優しい感じがします。日本人は、かっこつけなのでしょうね。たぶん日本人は洗脳されているのだと思います。誰かに。マスコミを通じて。それに多くの人は気づいていない、そんな印象を受けます。
Dr.、切ないです。地方公務員で、初めて病休をとっています。給料の制度がよくわからず、上司からは8月までは半額。9月からは無給になると言われたので傷病手当の申請をしました。市に届け出するには辞令が必要ということで本日その病休辞令が来ましたが、その内容が「処分」扱いになっています。
病休休暇は地方公務員にとっては「処分扱い」なんですか?もう、嫌になります。
益田先生の日曜日、目的を把握した上ですが好きな曜日です。
看護師さんや看護学生さんは『死生観』を学び、現場におられるかと思います。
生はどこからどこまで?と考えた事があります、10代の頃です。
生・死、どちらも悪と考える人もおられると思います。話としては理解しますが、私は悪かどうかは正直な所わかりません。
ただ生がどこからどこまでかは仕事の中で少しだけ答えが出ました。「死を迎えるまでが生」です(個人的意見)。
それが現時点での答えなので、苦しさを感じながらも生きる価値を見出だすのも自分の成功体験と思ってもいいかと。
つらくてしんどくて投げ出したい時もあるけど、良くも悪くもないベストポジションの中で長くゆるーく生きたいです。
ありがとうございます。
今日も、動画、ありがとうございます。🧖♂️🧖♀️
今は中年だけど3歳から何故生きないといけないのか?って思っていました。
なんて利発な3歳児
私自身は多分ですが、なるべく人と関わらないように生きていけるシステムを作って、ルーティーンができてくれば生きていけるのかな?と思います。
システムを作りたいけれど、どうしたらいいか分からなかったり無理かもっていうコトがあるとキシネンリョが…
映画「罪の声」では、自死しようとした時に見知らぬ人から電話がかかってくる。
自分では気づかない誰かが、自分の知らないところで、見守ってくれていたり気にかけてくれていたりすることがある。
また、自分を思ってくれる大切な人が自分の視野にいても、自分がいない方がこの人も幸せになれるのではないかと思ってしまうまで、追い詰められることもある。
大切な人がいなくなる衝撃を人以外のもので例えると、大事にしているプラモデルや鉄道模型や鉄道写真や推しのCDや DVDやチェキやその他コレクションなど、どれも無くしたら買い直せない手に入らないものが、突然全部無くなるような感じ。
正確にはいろいろちがうけど、とにかくつらい、半狂乱になって怒ったり泣いたりするくらいつらい、というのは同じかな。
もし自分が突然いなくなったら、そんなふうにつらい思いをする誰かっている。
まだ出会ってないけど未来に、「あなたがその時死なないでいてくれてよかった」って泣いてくれるような人との出会いがあるかも。生きてみないとわからない。
叶えてない幸せのやり残しを叶えてからでもおそくないよ。
と思う。
わたしも、日曜日、たのしみです🌱
個人主義と言うと自分勝ってに生きる人だけと言うイメージがします🙇。私とあなたは違う人間だから、自分の価値観を押し付けてはいけない。
どうして、私と同じ考えをしないの?
何故、私を愛してくれないの?愛だと言いながら相手を自分と同じに染めようとしている。
その考えに執着する限り人は孤独から逃れられない…。
日出処の天子を読み深く考えた事です。所有したい愛もあるかもだけど自由を与え手放す愛。
集合体で生きていてもやはり私とあなたは違う人間。
それを受け入れない限り孤独から逃れられない…。と私は母親とは違う人間。そう気持ちを切り替えると、例え半日であっても空を見上げるだけでも気持ちが楽になったりします🙇。車🚙の運転が上手に出来ただけでも明日も頑張ろうと思う時があります。私見を述べさせて頂きました。ありがとう🫂存じます。🙇😴🏄
最近毎日毎日、死や自死に関わるお話なのですが。家族って言われても、最愛の母は若くで他界して、偏屈な父は孫の顔すら認識できず目も耳も気配すら感じず、私がちょっと注意すると泣き出す哀れな姿です。私は、一人ですが、今心の平穏を取り戻しつつあります。家族にいじめられて悔しくないのかとか、過去を振り返っても前を見なきゃっておっしゃたのは、先生ですよね。村から村まで移動できるだけのお金もありません。私は無宗教ですが、人生って辛い事もあれば楽しい事もあるからお若い人には、命を粗末にしてほしくないし、もったいないと思います。自分語りですみません
性善説の日本が人生は苦だと思い、性悪説の西洋が人生は歓びだと思う……なんだかやるせないですね。
無宗教の私には、死後なんて誰にもわからないのに宗教が存在し続けていること自体が不思議で仕方ないです。
命は個人のものだと、私は思っています。共同体のものではない。でも、しがらみがある限り、私が死んだとき衝撃を受ける人はいる。そういう意味で、私は自分のものである命を軽く扱うことはできないと考えることもあります。
人生は苦しいものだと思って私は病気になりました。苦しいものだと思うことが自分の支えになる人もいるかもしれない。でも、私はそうではなかった。私が死んだとき甘えだとか言われるのは腹立たしい。
私は、人生は楽しいものだと思えないと前に進めない。
だから、自分は本当は死んでしまいたいと思っていながら、若い方には「これから楽しいことがいっぱいあるよ」と伝えている。無責任かもしれないけど、大変なことがあっても人生は幸せなことが必ず沢山あると思って基本的には楽観性を持っている方が生きていきやすいと思うから。
同じ生きるなら、希望や幸せを感じながら生きてほしい。せめてこれからの人には。
精一杯生き切ったとき、どんな死に方だろうと、死は私を優しく受け止めてくれるはずだ。だから私は死ぬのはもう怖くない。
苦しみに耐えてこそなんて嘘だ。
花が美しいように、人生もまた美しいという歌があったり。人生は儚いから美しい。だから死も悪いものでない、って感覚ですね…。私は西洋系な価値観の家庭から生まれたので先生の動画でやっと意味が分かってきました。
西洋系の価値観であると…人生の儚さに重きを置いてないですよね…天国に行くために善行して修業を詰む感覚で人生を生きている気がします。だからそういう意味で個人主義的で。。
今回はかなり難しかったです。人生が苦しいものだから死も怖くないということです。私は人生は価値があるから自己実現して、普遍的になり個人の死を恐れないと感じます。何か私の場合も当てはまるかもしれないです。私の場合は全く自殺は考えていません!しかし今回の話を無理に当てはめると私は地元も心配です!「何も分からなくてよいです」
13:56 た、旅人になりたい人生でした(笑)いやほんとなりたい!
ASDの診察と発達傾向無しの診察を行ったり来たりしてる者です、過去に手帳も所持し今は無しですが、ASDの方が「繋がりや自決の感情や背景について理解しにくい」旨の動画を見て私の場合は特殊かASDを発症してない?と思う様に成りました。 私が自決を拒む理由は祖父のガンと闘病の先に見える物、自身の先に見える世界が怖い。
出自問わず自我を繋いでいたいと思うからですね。益田先生も確かに社会や人に依って命を繋ぐと言う考えで良いと思いますが、もっとそれを越えて、社会や他人の思いに囚われず生きる事で自分の命や世界観を見つめ繋ぎ留め命の限りを超えたいと言う思いも良いと思います。生物は色んな物を生み出し生きてるのに、それが急に途絶えるのは不安です
母や親戚の中でも恐らくASDまたは統合失調症の傾向が有る方が居ましたが、他者への共感性が低く自身のアイドル関係の趣味や好感度を強く主張しつつ、家族を自身の欲を満たす者の様に扱う様を見て、繋がりを感じる事は難しいなと周りを見て感じました。
しかし、自決をする方で繋がりを感じにくい方は何もASDだけの話だけでなく、虐待や学校、労働の中でも優秀な部下や兄弟が居るなどと常に比較対象が居たり、自分自身の居場所や自分の命を繋ぎ止めたく無いと感じられれば発達精神病問わず誰でも自決する可能性は有ると思いました。
しかし、同時に別の側面で思う事も有ります。それは「人間は他人の生存や可能性に賭けられる程、豊かな生き物なのかな?」と。人は過去から学び、未来に活かし繋いでいき、書物や言葉で様々な記憶を残していき時には命を救う事も出来る。
でも、無知や暴力や個性の表現と言う名の元に自身の一方的な価値観を押し付け、時には保身に走り優生と劣性を選別して増えては、足元にある生きる事で繋いでいく小さな可能性や未来への投資も踏みつける。その様な人達も居る場所で新しい人を紡いでいく場所に立てないなら、保身と安全と限られた食料の中で閉塞する事に成るのでしょうかと
あと、個人的に日曜日に死生観の配信は月曜日に仕事を始める方にとって少し足枷に成るのでは?と思うのですが、どうでしょう
生きることは苦しみと考えるのは、日本人なら仕方ないのかな。
5月に逝った叔母は、
亡くなる少し前に
死ぬのがこわくないと言っていた。
向こうに叔父がいるからと。
離婚とか、ひとりで子ども育てるとか、
がんになったとか、
育てるの下手で毒親になってしまったとか、
パワハラでうつになってしまったとか、
いろいろあったけど
死にたいとも思ったけど
いつかみんな死ぬんだなということがわかってきた感じがする。
特に叔母の死に方が変な言い方だけど、素晴らしかったから。
この動画むずかしいですね。益田先生。
死生観って言葉、
死ぬと生きるが入っている。
鬱になってから死に対する恐怖心がどんどん薄れていくのだけど、脳のバグみたいなものなのかな。
私の考え方だと、
生は苦しみではあるが、神(世界)は私たちを、全てを愛してくださる。
という考え方。
存在の自由は昔から存在する。
それこそ、人間が生まれるずっと前、
宇宙誕生の瞬間からずっと存在していると思う。まぁ、宇宙誕生より前があったとしたら、本当の本当の最初から。
だから、「存在しているのだから修正する必要もないから放置している」と思っているし、法則だって何かの必然的進化性なのかもしれない。しかし、それが人間には理解できない、言葉や人間の思考の幅によって、「常識」という「人間の最低保証」などによって理解できなくさせてるのかもしれない。
なので、「認めてくれる人がいない」というのなら、「世界が存在を許してくれてる」って思えばいい。
ただ、それはあくまで自己肯定感を「死なない程度まで」戻す程度のものだから、
詳細な人生の解決法は専門家や詳しい人に聞いた方がいい。
面白い考えを聞けて楽しかったです。
70歳の自分をコントロールする、経験値は5つの嫌いを、思い出しながら心の切り替えをしています。①勉強嫌い、②仕事嫌い、③遊び嫌い、④寝てばかり嫌い、⑤私に断りなく月日が流れるのは嫌いだ、われ思うゆえに我あり、思考が現実の動きを。三方良し。で分析。身近な心臓の動きで感じられます。
現代は個人主義が強い…
死が訪れる前に、何らかの
経験値は残したい
大変良いお話を聞けました。ありがとうございます。
特に命を高級車に例えたら傷を負ったり死への恐怖が高まるが、中古10万円なら死への恐怖を低くしていたということでした。
命の価値は高いと思っていました。
世の中で最も尊いのは命とも思っていました。
しかし必ず死は誰にでもいつかは訪れる。
生きている間、幸せであれば良き。
現実には楽あれば苦ありですが。
自殺してしまう人へは自分勝手、無責任、甘え何て簡単には言えません。周囲の援助が無かったり、それだけ苦しみを背負っていただろうし、正常な精神状態で無いからだと思うので。勿論、推奨はしません。
苦しい時はその苦しみに埋没してしまいますが、なんとか耐えてました。私は若い人から見て毒親の世代ですが、人生に苦しみはつきものなんだと言う割り切った考えをしているし不運が重なるのは仕方がないことと受け入れましたね。でも楽しいこともありましたよ。
益田先生は身近で信頼していた人に裏切られたことがありますか?
私はあります、まだ許せません。
何時になったら許せるかもわかりません。
孤独です。
自分が望んで孤独になっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない、わかりません。
辛いということだけは確かです。
私は仕事(人間関係)が長続きしなくて困っています
しかし原因が私にはわかりません
普通の人にって精神病の人が気持ち悪いからなのか
私の喋る量が多いからなのか
自他の境界線がないからなのか
言動が奇妙だからなのか
なぜなのか全くわかりません
私は心臓が壊れて死にそうになりました。その後は、希死念慮は大幅に無くなりました。
どうせ、そんなに長生きは出来ないと思いますし、慌てなくても誰でも4にますから。
そう考えたら楽になりました。
医師に言ったら苦笑いしていましたが
ただ、気持ちが落ちていて、思う様に仕事が出来なくて本当に困ってしまっています。
最近は、寝込んでしまっています。
仕事しないとお客様に迷惑を掛けますし、仕事を手伝ってくれるボランティアさんが欲しいです。
穢れだ不謹慎だ厨二とかって、自分が怖いと思っている事に関わりたくないことを正当化してるだけだな。怖がってる自分を知られたくない、話題にする奴のほうが間違ってると。
それと同時に、死なれたら迷惑だというのもオメーの都合だけじゃねえかと。
あとは、苦しみは永遠じゃなくても死ぬまで増えていく物でそれを終わらせられるのが死のみってところかな。
個人主義に偏りすぎると悲しい末路に行き着いてしまう気がしています。。
生きてきた中で楽しかったことがあったので、今はしんどいけれど死ぬのはもう少し先~と思う。
でも一度も〝良い事〟がなかった方も中にはいらっしゃるだろうし、この考え方だと…難しいですよね。
小学生から虐めと虐待で死にたくて、でも死ぬ方法を知らずに生きていましたが、大人になっても性暴行、暴行に遭い、詐欺、恐喝、借金等。虐待も暫く続き…。大人になっても変わらず苦しいですよ。更に苦しいかもしれません。笑 日本人の考え方は勝手で冷たいと感じます。西洋の、生も死も喜びだ、と言う考え方の方が好きです。日本人の自己肯定感が世界的にみてかなり低い理由にも深く関係していそうですね。ありがとうございます。
ADHD ASDの併発者です
自分にはこの動画が健常者に対してなのか発達障害者に対してなのか分からないのでとりあえず自分の意見を話します
先生の話されている内容は個人的に高校の同級生から聞いたことがあります
彼は健常者ですが鬱病で手帳を持っています
その時は彼が鬱病だからそう思うのかなと思っていましたが、これが先生の私見でもあるということで日本人はよく思う事なんでしょうね。
ちなみに私は西洋式が好きなので全く同意しません。
生きづらいのは認めます笑😂
お金のない方へも、質問コーナーの配信のとき答えたあげて、助けてあげてください!
今は誰も彼も楽になりたがってる気がしますね。しかも、手っ取り早くだとか、手軽に、すぐ、楽になれる方法を求めるし、そんな作品が多い
しかし、自分にとって本当に『かけがえのないモノ』って必ず苦労の先にしか顕れないものだと思っています
たぶん最初から楽を手にしている人には、その本当の価値なんて解らない
だから和洋折衷で苦と楽はセットで一役。と考えるとすこし前向きになれるかも? です!
生きてるだけでぼくは邪魔ってよく言われますよ😢😢😢
自ら亡くなってからも両親に責められる日本人。日本人はどうしようもないですね。
そういう考えからもう抜け出したいです。だから私は近所と付き合いません。村八分ですが、それで結構です。この時代で良かったです。おかしな人と付き合わなくて良いのは幸せです。
そういうおかしな近所だからですけど。実際に迷惑を掛けられていますから、この世界に来たので。
日本人は、自分の考えが無いんですよ。マスコミの言う事が絶対で、権力者の意見をほいほい聞いて、身近の人の多くの意見に流され何も考えていない。そして、それに馴染まない人を苛めてストレス解消をする。日本人は仏教すら信じていないんです。形だけ。
むしろ、実際は、マスコミ教や、拝金教、自民教、多くの人の意見教、なんです。
そんな狂った世界。タヒは救いですらあります。
それを避ける理由があるとするなら、痛みですかね。
現代は、孤独な人もたくさんいると思います。
氷河期世代ですけど、子どもがいない人もたくさんいるでしょう。
だから誰かが死んで悲しむ、と言うのも、どうなのかなと思います。
誰か悲しむ人がいない人は生きてはいけないのか、とも思います。
将来的に自分はそうなりますが、自分の為に生きてもいいのではと個人的には思いますね。
一日のほとんどを費やす労働は正の感情より圧倒的に負の感情を感じます。人生もほとんどが負の感情に支配されるように感じます。
甘えという言葉は何も語っていないから使いませんと他の精神科医さんが動画にしています。
スウェーデンとかに生まれたかった
欧州に住んでいますが、宗教に由来する死生観の違いはあまり感じません。基本は日本人と同じことに悩み、恐れを抱えて生きています。一番違うと感じるのは、年功序列が無いこと、学歴格差が少ない(能力主義)こと、性別による考え方の差が少ないこと。これだけも生きる活力になります。
益田先生のお話はとても落ちつきます。
配信ありがとうございます。
自分自身の価値観を見直す良い機会になります。
ところで、スピノザという哲学者はご存知ですか?
私的にすごく面白いと思うので
よろしければ、ぜひスピノザに関する本を読んでいただければと思います。
フランス在住です。キリスト教信者は少なくなったものの、自殺はいけない事となっています。法律でも、人の命は法よりも尊いということで死刑制度はありません。なので、生きているうちに楽しむので、仕事に人生を捧げるなんてこともしませんね。
キリスト教の教えには、愛がある気がします。だから生きていて幸せを感じていられるから死にたいという思考が発生しずらそうですね。
仏教は、形ばかりで人々を日常的に救えていない気がします。命の電話がつながらないほど多くの人が精神的に辛い思いを抱えている人がいるのに。
欧米編はどちらにあるのでしょうか?
上手く探せません😢
ラッセルはこのあたりの東洋の価値観を受け入れられなくて悩んでたよね
死は原初への回帰だと思います。
仏陀が生きることは苦しみなんて言うから😅そうか、生きることは喜びと思えばいいんですね😊
私はずっと苦しみだと思ってました。考え方を変えれば良いのですね😃💕
毎日仕事憂鬱。。。現在社会は仕事行けたら勝ち。
お金ないからメンバーにはなりませんが
コメだけ…。
楽しい時間や子供に良い事があれば、生きててよかった幸せ って思うけど、、
生きるのが長くなればなるほど、いつまでこの病気と付き合っていかなきゃいけないのか… と思う もし病死で死ぬ時、精神疾患がある理由で生命保険も入れず色々条件もついてきて入れないし… 親は死んで頼れる人もいない 生保脱却したのに生保にまた入らなきゃいけないのか?
色々考えると死にたくなる。
甘えじゃないんだよなー…辛いんよ本人は 他の方がコメントで書かれてた通り安楽死出来る制度が出来ればいいのにな…
日本じゃ無理だな…
難しい問題ですね。身内に80.50問題の姉がいます。私が死ねば、保険金が姉のものになるから、死んだほうが、と思います。が、その気持ちを打ち消しながら、仕事の忙しさに任せて忘れようとしています。私も経済的に厳しいです。破産しそうだから自立して欲しいものです。
私は代々クリスチャンです。
事故に遭い
鬱、適応障害、パニック、PTSDになっていますが
消えたい、の最悪な時期(1ヶ月で20キロ痩せました)
に、神様は私を知って下さっている、の気持ちが湧き出て闇から救われました。
15年以上 薬と共に生きていますが命ある間は神様が喜んでくださる生き方を心掛けています。
依存症は一生の苦しみなんだよなあ
自分らしく人生を作っていくことができないから
人生は苦しみになるのだと思います
政治にしろ会社の中にしろ何ににしろ
社会や自分の状況をよりよくするために、周りに働きかけて変えてゆく方策があるのなら
人生は喜びに変わるでしょう
訴える場はないし、訴えても個人的にすら理解されないし、司法の場やらに持っていっても一向に解決しない、何も変わらない
という日本の社会的な状況を踏まえずに
ザックリと西洋だの東洋だの歴史だの思想の話にもっていって話すのは、あまりに乱暴すぎるように思います
タイも仏教の国ですが日本とはだいぶ死生観が違いそうな感じです
仏教は輪廻転生の考えが大きいかもしれない🥹解脱しなければまたラットレースに参加するような感じ
魂は永遠ですよ。肉体が死んでも魂が死ぬことはない。だから、苦しいのは嫌だけど、死は怖いものでないのですよ。
人生自体が良いものか悪いものか、なんて元々無いんじゃない?人生が良いか悪いかどうか決めてんのは自分でしょ。般若心経にもそう書いてあるけどね。
チャット欄にて一つのキーワード「和魂洋才」挙げましたが☆☆☆の配信時みたいに賛同全然得られないかもな予感(*'▽')!♪✨
私個人の感覚では、命は個人のものでもあるが、ゆるく共同体に属するとも思う。
個人単体で生きている人はいないので、必ずなんらかの影響をし合っているから。
だから、ほんの僅かしかできないなりに良い影響を与えていきたいですね。
私にも長いこと、希死念慮はありました。しかし、このまま死ねばあそこの家の子はダメだった。と親族に残念がられてしまうし、家庭崩壊している家族も更に僕はダメだとしか思わなくなるから、頑張り続けました。
奇妙かもしれないけど、死なない事は受動的に選んではいたけど、内心、死んでも良いと思う事で肩の荷を下ろしてました。生きると決断し続ける事で荷が下ろせず希死念慮が強くなってましたので。😓
でも、自殺を肯定し、それを表明することで、辛い想いを今している方が自殺するのを後押ししたり、集団自殺が起こるのは反対です。その方が自殺者本人にとっても過酷に思えます。特に、集団自殺は、苦しい途中で辞めるのを互いに引き止め殺す事にならから、過酷過ぎます。
先は見えないです。でも、寿命を全うする事で、新たな展望を見出したり、成長していくこと、味のある人になって行く事が出来るから。
影響を他に与える事が全く無いなんてありえません。