冒頭SBB C 5/6 2969号機が牽く保存列車ですが、先頭の2両はBLSの旧型客車、その次はSBBの旧型、最後尾は?の電車なので、いわゆるLeichtstahlwagenではないと思います。Leichtstahlwagenは、やや背が低く、丸っこくて、裾が絞り込まれています。ドアは2箇所で折戸または回転式で銀色、ほとんどは離れて設置されていますが、中央に2個設置した2等車もありますね。なお、BLSにはオープンデッキのLeichtstahlwagenがあったそうですが、裾が丸いようなので動画の車両とは違うように思いました。間違っていたらごめんなさい。
ショート編から来ました。
オロハネ10系が連結された、急行大雪がとても素晴らしかったです。橋を渡る姿がとても圧巻でした。
赤塚さん、ご視聴頂きありがとうございます。ショートから見て頂いたんですね。嬉しいです。
あの大雪崩れの普通列車良い編成ですよね。
1960年代の東海道線の10系客車は塗装がきれいであこがれの存在でした。茶色のもいた。
客車列車の東北急行を利用するようになったのは1970年代半ばからでした。
記憶では八甲田が10系、十和田と津軽が旧型客車。10系には10系のよさがあり、十和田の旧型客車スハ43やオハ35も乗り心地は上質でした。時間がかかっても電車特急より楽しく好んで利用しました。
motohisa ochiaiさん、ご視聴頂きありがとうございます。
北海道も九州も遠いですね。いつも金が無くて、西は高千穂・桜島、北は十和田・八甲田ばかりです。十和田が12系になったのに乗って、冷房がきつすぎて、北海道でおなか壊したことがありました。
スハ43系の 重い車体とTR47台車との組み合わせは『重厚で安定感のある』乗り心地でしたね。
特にロングレール化された区間では 滑るような乗り心地でした。
登場当初の10系客車はEH10の高速試験に使われたりと、まさに期待の新星でしたな
車両を軽量化することで機関車の出力を変えることなく増結ができるという点も、当時はかなり高評価でした
その反面耐久性に不安があり、碓氷峠の運用では前後にスハフ42を連結した編成が多く使われたそうです
この10系客車のコンセプトはその後の鉄道車両に大きな影響を与え、エンジン出力の関係から通常より小さい車体にしなくてはいけなかった気動車の車体の拡大に貢献したり、一段下降窓は157系にも影響を与えました
しかし、後年の日本海側での運用や冷房化による結露で腐食が進んでしまったのは、ある意味予想外だったのかもしれませんな
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
10系の軽量への期待はかなりのものだったようですね。車体だけでなく、台車も軽くしていますね。車輛限界ギリギリという風体がなんか好きです。
小学生の頃、十和田に組み込まれていた10系寝台を憧れの眼差しで見ていました
雑多な編成の中で異彩を放つ10系寝台はいいアクセントだと思っています
乗る事は叶いませんでしたが、今だに好きな形式の一つです。
デカミツさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
十和田って、多くのバリエーションありましたし、臨時も多かったと思っています。私が乗った十和田はいつもボロイと言うイメージしかなく、ロザ連結の十和田は写真用で別物ということなんです。
興味深い動画をありがとうございました。10系客車は1995年まで残ったとは言っても、営業車両としては1985年頃で運用から外れていました。最後の10系の活躍を見るべく、座席車は14系に置き換えたけど、寝台車だけ10系という姿になった「利尻」や「大雪」の姿を追いかけたのが、1983年頃の話です。
スイスの軽量客車は、2005年に訪れた際にはまだ普通列車として走っていました。全体が低床構造なのが、貫通路との高さの違いで車内からも実感されました。結局、機関車の出力が大きくなったことと、普通列車は編成を短くしても高頻度で走らせるのが善とされたために、軽量客車の必要性がスイスでも薄れたのかなと感じました。
Gaku72さん、ご視聴頂きありがとうございます。
1995年は尾久に放置されていたものが無くなった年です。今の放置している24系客車と同じような感じですね。私は昭和49年に蒸機や国鉄の写真をやめたので、その後のことは良く知らないんです。急行ニセコが14系になっていたのを知ったのが最近でびっくりしました。スイスは伊←→独の車での往復で何度も通り、一度列車で行こうと思って行かず仕舞いになりました。
2:08 こういう基本的な知識も載せてくれるのは初学者の私にとってありがたいです。全体的にマニアックだとどうしても置いていかれるので、質の高い動画だと思います。
蚊取り線香さん、ご視聴頂きありがとうございます。
私も蒸機はそこそこ語れますが、その他の車両は動画作りながら皆さんに教えてもらっているんです。ですから偉そうなことは言えないんですよね。
7:44
長大編成の旧型客車の後追いが素晴らしい!!
子どもの頃、東北本線で何度も見たものでした
目の前を通り過ぎる列車のサボには遙かな「青森行き」の文字
遠ざかる赤いテールランプ
まさに遠い旅路を連想させる
今にして思うと、子どもの頃に見た青森行きの旧型客車は
原ノ町~青森や仙台~青森の列車だったと思います
51 Tsさん、ご視聴頂きありがとうございます。
確かに堂々としていて、国鉄蒸機列車ここにあり!という感じですね。高崎のC61が旧型客車をけん引していますが、ちょっと短いですが、趣は感じることができるので好きです。
一度だけ急行「利尻」のオハネフ12に乗ったことがある。今にして思えばノスタルジーな空間だった。一番渋いのはオロネ10かな
Hiroshiさん、ご視聴頂きありがとうございます。やはり10系は寝台が遅くまであったためか人気が高いですね。私はそちらも格好いいと思いますが、オリジナルのナロ10のデカい断面積も良いなと思います。
時刻表を見て内容がわかる様になったのは、昭和51年頃で小学校高学年になったくらいの時。時代は既に10系客車は食堂車は淘汰済みで、座席車も12系に変わりつつあった。もう少し前に遡り日本海縦貫線の「きたぐに」を乗り通し、北海道に入ったら、「利尻」に乗車したかった。
坂田さん、ご視聴頂きありがとうございます。
現在一番長い距離を走る客レはなに?と調べたら、C57のばんえつ物語の111kmなんですね。来週乗りに行こうと思います。
10系客車は、最晩年に常磐線普通列車にナパ10が他の客車と組み込まれて運用、その列車で通学していました。しかし、他のスハ、オハに比較して外板は錆や剥がれ、客室内の床は謎のベタつきで、結局は安定した走行と意外と奥行きがあるシートのスハ42系へ。何となくですがナハ10系の1両だけがいつも空いている印象でした。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。
10系の設計耐用年数はどのくらいだったんでしょう?
かなり短いと思っています。
@@Yukkuri-Lab
父の国鉄時代、職員向け内覧雑誌にナハ10系試作記事があります。多少の差異がありますが、父に言わせると『見てくれは良いが、今ひとつだったなぁ』でした。
コストダウンの事はあまり出てきませんが、間違いなく軽量化と同じぐらい重要だったはずと疑ってます。
記憶だけが頼りで辿る10系特急列車。母と10系食堂車を一度利用した事があります。優雅に紅茶を楽しむ母を覚えています。今に思えば『はつかり』『十和田』か。白いテーブルクロスとウェイトレスの制服が印象的でした。
急行時代の 出雲が10系でした。どこかで映像 出ないかな、と期待してしまいましたが、中々 お目にかかれませんね。急行時代は岐阜駅に停車してまして、松江迄乗車してたかな。豊岡辺りだと思いますが、寝台解体の動作を興味深く眺めてましたよ。その後、特急格上げで20系になった出雲は 名古屋駅から乗車したのですが、ギシギシ音が無かったのは子供心に覚えてます。
まつよしさん、ご視聴頂きありがとうございます。
急行出雲は、安芸のような10系の編成の東海道を下る寝台急行の一つですね。蒸機が牽引しないので話題になったことは少なかったと思います、私も名前だけしか知りませんでした。
10系客車は本物より偽物の方が圧倒的に多かったですね。
オハネ17→スハネ16、オシ16、オシ17は32系等の旧型客車の台枠と台車を流用して車体だけ新製しています。なので車体長が他の形式より50cm短く台車も異なります。
電車で例えれば115系よりも62系の方が新製された103系よりも72系970番代の方が圧倒的に多いと言うことになります。
オロネ10は20系をベースにしたので車体構造が異なり14系の様に床下にディーゼル発電機を装備しており冷暖房もこちらから給電しており他の車両の為に2000番代車はSGとEGの引き通し管と線を0番代車はSGの引き通し管を備えていました。
もう少し後まで製造されていたら14系の車体の車両も製造されていたことでしょうね。
むらっちゃんねるさん、ご視聴頂きありがとうございます。
その偽物づくりに設計の標準化やモジュール化が役立ったのかなぁ?とか思っています。
設計コンセプトは優れていますが、鉄板の選択やら対候性の詰めが甘かったのが早々の引退に繋がったのでしょうか。
お金なくて10系の寝台車に乗れなかったのが、残念。
栄田さん、ご視聴頂きありがとうございます。昔は国鉄は安かったと思います。昭和44,5年頃からでしょうか、急激に運賃が高騰し今に至っていると思います。今でも個人では新幹線は乗れません。
無理して「山陰」のオハネフ12 42に乗っといてよかったわ。
10系客車。古き良き時代の優雅な車両。最近は機関車牽引の客車列車自体なくなってしまった。
高崎では、機関車等が老朽化のため、客車列車の運転を終了します!なんて言っている。ますます寂しくなってきてしまった。
そもそも、鉄道とは、蒸気機関車で客車列車を引っ張って運転を始めたのがその始まり。その「原点」が今消えようとしている。明らかに大きな時代の節目に来ている。
実は、まだ客車の需要があるとも思っている。のんびり旅をしたいとか、夜行列車の潜在需要もあると聞く。創意工夫をもって、需要を掘り起こし、運転免許などの制度等も改革すれば、客車のメリットを生かした客車列車は、まだ存在意義があると思う。
欧州でも似た状況があるが、そのような動きも出てきている。
権三郎さん、ご視聴頂きありがとうございます。
確かに鉄道の原点が客車ですね!
客車は寝ている時間が無駄ということが最大のネックみたいです。
編成の自由度は大きいのですが。
高崎は蒸機客車列車は止めないですね。補機に使っているDLとELをGVに置き換えるということみたいです。
重箱の隅
オロ61→スロ62の台車は、TR50をベースに長軸を用いて廃車発生品の車輪、車軸を使えるようにしたTR52(オハニ36用)を、更にバネを柔らかくする等優等車向けにしたTR52A。
オロネ10の台車は20系のTR55を設計変更したTR60。
春葛さん、ご指摘いただきありがとうございます。大変勉強になります。
ここには詳しい方々が沢山いらっしゃいますね。
確かにまりもの10系寝台車は寒かった思い出です。
道東周遊券で新得駅で乗り換えて宿代浮かした思い出が蘇りました。
道民なんで客車の窓はハメ殺しか1枚窓しかなかったんで内地の2枚窓が新鮮に感じてました。
函館と札幌に親類が居るのですが、急行すずらんの寝台車が寒かった
あと台車?連結器?の凍結で振動が酷くて眠れなかった
という話をしていました
当時の北海道新聞?にも載っていたそうです
天然むすめさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうなんです。皆様にはいつもとても助けていただいています。
@51ts20さん、ご視聴頂きありがとうございます。
動画完成させてから、C62の急行すずらんの10系を出すのを忘れていたことに気が付きました。
故郷東京での浪人時代、夜行急行アルプスの回送だったかな、ナロハネ10の実物を初めて見て、胸の鼓動が高鳴ったの を覚えています。天賞堂の模型を実物を見る前に苦しい小遣いで買いました。歳をとった今でもまだ箱の中でゆっくりお休み中です。
10系20系と、あの頃の国鉄のデザインは美しかったなと、オシ16、オシ17、オロネ10しっとりと深みがあって…gauche
藤原さん、ご視聴頂きありがとうございます。
確かに、10系20系が居た頃の国鉄車輛は、私は蒸機中心でしたが、味がありました。
10系今ではかなり豪華な車両になりましたね✨C62が引く10系乗ってみたかですね🌠
塚越さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。10系の、車両限界まで拡大し、C62とよく合います。
子供のころ小樽から上京してくる祖父や従兄弟を迎えや見送りに上野に行くのが大好きでした。
親と一緒に北海道と東京の行き来には20系寝台が多かったのですが大学受験で上京の帰路、
はつかり(485系EC)から連絡船で道内は寝台急行でした。列車名は失念してしまいました・・・。
上京の時の友人と一緒と違い一人旅でしたので三段寝台の上段で寝るだけでしたが20系と同じと思って寝ていました。
来年、古希ですから懐かしい車両もリアルタイムで乗っていたりしますがそれだけ歳をとったってことですね。。。
Kei Itoさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
上野駅は私は蒸機の汽笛がうるさくて、以前からあまり好きではなく、東京駅や新宿は良いなぁと思っていました。それでも蒸機を撮影するようになるといろんな意味で上野は外せませんね。汽笛が嫌いなので復活蒸機の長い汽笛が苦手なんです。来年古希なのですね!まだ十分に若いではないですか!あれこれチャレンジできますね。
私の年齢は内緒です。
初期の軽量車体構造なので雨水の浸食対策が成されてないのが致命傷でしたね。10系や157系のような下降式窓は特に酷く、157系は固定式に改造された車両もあったはず。
また10系はTR50台車の乗り心地が良くなく、43系旧型客車の方が乗客には好まれた話もありますね。
トミヤマサキオさん、ご視聴頂きありがとうございます。
旧型客車の乗り心地についてですが、良くxxは乗り心地が悪かった、○○は良かったとか聞きます。
みなさん、何をベンチマークにして比較されているのでしょうか?鉄道車両ではなく、国電なのかな?
私はグリーン客車に乗ったことが無いのですが、ほぼすべての旧型客車の乗り心地に文句言うことはないですね。
私の場合はまだ学生の頃ですが、北陸線や紀勢、和歌山線で利用していた旧型客車での経験ですね。ナハ10系とスハ43ではやはり前車の方が悪かったと記憶してます。これは軽量構造による物なのか、とにかくよく跳ねる印象はありましたよ。
またB寝台車はオハネ16を何度か利用した体験では、とにかく廊下側の下降窓が固くて開けにくかった印象。乗り心地は特に悪い印象が無かったのは、重量の関係かもしれませんね。
いつも楽しい動画をありがとうございます。蒸気最終期の急行列車を再現するのに10系客車は欠かせません。
利尻、大雪、(ニセコ/ていね)、安芸、音戸、日南3号…
全て模型で再現できる様になりました。この頃はNゲージでメーカーが1編成丸々「利尻」と北海道型C55を出したりする恐ろしい(笑)時代になっています。
832buuchanさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。使われ方に偏りがあって、なじみの薄いところ、特にローカル線、がありますね。
10系客車も゙魅力溢れる車両でした 寝台車は普通山陰でしか記憶がありませんけどこの列車に一度乗ってみたかったです 意外と蒸気機関車にも似合う系列でした
まつかぜ82さん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうです。とても似合います。新しく・古い。大きい立派な客車です。
10系客車は構造上、旧型客車に含まない場合もありましたが、私としては分類上、旧型客車の一員とみなします。その理由は、43系や35系などの他の旧型客車と併用できるからであります。ところが10系客車は、軽量構造がアダとなって老朽化が意外にも早く、1970年代になると12系と14系座席車が10系に変わって活躍しはじめたので、廃車されはじめました。また寝台車も、70年代後半になると、寝台特急の14系と24系化に伴って、余剰となった20系に置き換えてしまいましたが、一部の車両は12系客車と併結させるために、改造されたものもありました。しかし、43系などの座席車が連結されている夜行急行列車については、従来どおり10系寝台車と併結運用となったいましたが 、80年代になると余剰となった14系寝台車が、それにかわって活躍するようになりましたので、10系客車は急行運用から完全に撤退されるようになりました。また、わずかに残った10系客車は、普通列車に活躍さるましたが、それも国鉄の民営化寸前に、完全に定期運用が撤退されました。
久保さん、ご視聴頂きありがとうございます。
私もご説明の点で10系は旧型客車のグループだと思っています。
いつもそうですが貴重な写真と情報ありがとうございました。電車や気動車 新幹線 飛行機が普及する前は客車は欠かせない手段でしたね。宗谷線のC55はいいですね。橋立を牽引していた機関車はC57?59?いずれにせよ長大編成でも問題ないですね。DD51とC61は当時から良いコンビでしたね😂
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。
急行橋立ビーチは、京都からのは、C57,D51,9600の牽引でやってくるようですよ。私は9600の所しか見ていません。音戸の編成をちょん切って使った7両だったと思います。10系なので連結切り離しは容易なんですね。
10系客車は一度も実車を見る事は叶わなかったな。
寝台車は急行 鳥海みたいにごった煮の編成を見るのが好きで、早朝に急行 十和田に乗って上野駅で夜行列車の到着を待っていた。
上野駅12番線ホーム上の富士そばには、かなりお世話になりました。
狂気と瘴気の祠様さん、ご視聴頂きありがとうございます。
私は客車にはあまり関心なく、編成が綺麗だとか、ロザがあるとか程度しか注目していませんでした。蒸機本体にフォーカスしていたわけですね。勿論、なんか珍しそうな客車の姿を撮影したことはあるのですが、今になって見返すともっとちゃんと撮影しておけば良かったです。
@@Yukkuri-Lab 様
以外とそんなものです。
自分も稀な存在である上野駅乗り入れのディーゼル急行ときわ+奥久慈にたいして興味を持たず、電車急行より遅いとか敬遠していたので。
その列車でしょう、上野駅で撮影したことあります。
@@Yukkuri-Lab 様
他には東北本線→水戸線→常磐線の珍急行つくばね、あれって運行の意味あったんですかね?
自分は勝田から結城の普通列車区間をグリーン車で乗った事があります。
そんな急行があったのは記憶にあります。でもつくばねと言う変な名前だったのですね。
寝台車通路側の下降窓も腐食を早めたんでしょうね。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。
当時の自動車の錆の酷さは身をもって知っています。ドアの内張の中があれであれば、10系はもっと酷かったことでしょう。
似たような構造の窓だった157系電車も車体そのものが短命でした。
10系客車はモノコック構造で
軽量化した車両できたので
車両の増結が
できて1列車辺りの
旅客が増えたので良かった
けど晩年は車両の構造による老朽化
12系.14系.24系.50系客車と言った優れた車両の登場により
運用がなくなり急行きたぐに
に連結されていたオシ17が.北陸トンネル火災事故で
止め刺されたしまったもの
それでも登場した頃は
優れた車両であったことは
たしかです
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
12系は1編成単位で、10系は似ているのですが1輌単位。編成単位より使いまわしはよりフレキシブルだと思っているのですが。国鉄の客車はだんだん安っぽくなっていって終焉となったんですね。
現在の視点からすれば構造の脆さが指摘されてますが
本形式がなければ現在までの客車達の技術面や営業面の
発展、進化、改善は無かったと思います。
そういった意味では客車列車の近代化に十分貢献した形式群と
言えると思います。
山田さん、ご視聴頂きありがとうございます。
私はスタイルが好きなのですが、これが今のE231系他のように車幅を広げて下窄まりの電車に繋がったコンセプトなのかなぁ?と思います。
軽量化の為に考えだされたのは、ダンボール構造、鉄板2枚をダンボールの様に波板を挟む事で軽量化と強度を実現したモノコックボディ
この構造は、後の全金車体の基礎となりました。
エポックメーキングな車両といえます。工法は、まずは全金旧型国電に始まり、以降101系からの新型に改良されつつ継承されていきます。
kasa-brancaさん、ご視聴頂きありがとうございます。
10系の問題点のうち、アスベストの多用があって、後年扱った人々の健康被害に繋がっているようです。
ネガはあれこれあっても、私は10系は大好きなんです。
1:47~2:22 急行白山。子供の頃の憧れでした。まだブドウ色でしたが、丸っこい屋根がスマートで、いつか乗りたいと思っていました。実現できず、今でも残念です。
知り合いの元機関士さんの話。「ああ、白山なぁ、あれには思い出が山ほどあるなぁ。重くてなぁ、苦労したんだ!」
河内さん、ご視聴頂きありがとうございます。
いろいろな幹線には、有名な急行・特急列車がありましたね。
白山は伝統の信越線急行として、信頼感を乗客に与えていたんでしょう。
1979年8月・中学2年生 当時に、鈍行『ながさき』門司港→長崎の10系 寝台に乗りました!
良い思い出です😯
それ行けドッカンさん、ご視聴頂きありがとうございます。
たしか東北方面の普通列車に寝台があったような記憶がありますが、九州にもあったのですね。
九州は夜行の鈍行は乗ったことがありました。北と南を行き来して宿代をケチっていたのですが、その当時寝台あったのか?記憶にありません。あったとしても乗る余裕は無かったと思います。
@@Yukkuri-Lab さま
寝台車連結の普通列車は 他には山陰本線の『山陰』(京都‐出雲市)紀勢本線の『はやたま(元 南紀)』(天王寺‐名古屋 寝台車の連結は新宮まで)北海道の『からまつ』(小樽‐釧路)がありました。
ありがとうございます。
保温性にも難があり冬場の東北や北海道では車内が寒かったと聞いたことがあります。保温材も今は使用禁止されているアスベスト吹付けで対応していたとか。
Hiroki Taguchiさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうなんですよね。
国鉄清算を行っているJRTTにも、国鉄時代のアスベスト被害救済事業があって、今でも苦しんでいる職員が居ることを示しています。かなりあちこちで使っていましたね。
10系客車は、
腐食(特に窓廻り)が酷く、
東北地区の急行や普通で冬季で使うと、
座席側に雪が積もっていた…、
と言われています…。
隙間対策にもう少し力を入れておけば、
長生き出来たのかも…😢
上海亭1978さん、ご視聴頂きありがとうございます。
当時の日本の薄板鋼板ってだめでした。すぐ錆るし。当時のスカイラインを持っていましたが、いつも錆との戦いでした。スイスが2㎜の鋼板使い、国鉄のはもっと薄かったはずです。
特にナハネ10
特にナハネ10→オハネフ12とナハ10の試作車は外板の鋼板の厚さが薄く他の10系客車より腐食がさらに激しかったですね。
国鉄車両の近代化と軽量化に大貢献した10系客車。
その近代的な外観が蒸気に不釣り合いという声もあったそうだけど 牽引する機関車や乗務員さんには大助かり。
『ナ』級といえば当時の木造客車並みの重さだったから。
乗り物にとって昔も今も 一番手っ取り早いチューニング&省エネ策は『軽量化』ですからね。
その『軽すぎる構造』が災いして短い寿命でしたが これは後の『国鉄レールバス(キハ01〜03)』や JR北海道『キハ130』もそうでした。
10系に関してもその反省から 後の50系は『オ』級となりましたね。
最果てを目指す ナロハネ(→オロハネ)10を連結していた 急行『利尻』は 下り列車の場合 真夏でも明け方近い時間は 暖房を入れていたそうです。
とりりさーびすさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そうですね。北海道は東や北だと夜行列車に暖房入りました。今は知りませんが。8月の中旬に南稚内駅で野宿したときは、寒くて寝られませんでした。
@@Yukkuri-Lab さま
残暑厳しい今でも稚内や根室の最高気温は 関東よりも10℃程低く 未明や明け方は 摂氏10℃〜13℃前後迄下がるようで これでは暖房も要りますね。
客車で『ナ』級といえば 20系もそうでした。
あちらは冷房装置や寝台設備を載せながらその軽さだったのは驚異的でもありましたが 固定窓で10系と比べて車体が腐食しにくかったのか 割と長持ちしましたね。
以前常磐線特急ゆうづるの回の時、20系を古いC62で走らせるチャレンジに…と言って、ご指摘いただいたことを思い出しました。
@@Yukkuri-Lab さま
先日 コミュニティで述べました映画『張り込み』冒頭のシーンは 動画に上げられている方もいます。
『とりとみつばち』さんという方が オリジナルモノクロ映像を AIカラー化した物も上げられていますよ。
著作権だいじょうぶなの?と言う動画は見ないことにしているのですが、際どい活動されてますね。
10系客車は、寝台車は廊下側が下降式窓のために腐食が酷く、またオロ11などは、軽量車体に無理矢理発電エンジンを積んで冷房化したら車体が耐えられず歪んで早期廃車されたり、座席車もペラペラな内装が早く劣化した上、旧型客車列車が残る山陰本線や東北本線や北陸本線が揃いも揃って雪が多く寒い地方だったので、外板がペラペラで冬寒くて嫌われたり、と、まあとにかく不運でした。
日本版ライヒトシュタールワーゲン、そういう点では客車は上手くいきませんでしたが、まあ電車や気動車部門ではなくてはならない技術になりましたね。
北村さん、ご視聴頂きありがとうございます。
私はとても10系が好きだったんです。旧型客車には関心なく、なんか貧乏くさいよなとか思っていました。
その後12系があちこちで登場し、古い客車が無くなったり、24系が出てきて、もうその頃には鉄道を追っかけることをやめていたんです。
こちらこそ、いつも楽しい話題をアップしていただきありがとうございます。私も10系客車が大好きでした。我が家近くを走る山陰本線の普通にも1両2両繋がってましたが大半は無骨な旧客、全車10系になる事はあり得ないので残念でした。昭和40年代までなら「高千穂」やら「安芸」やら「だいせん」みたいに10系主体の列車もたくさんあったのですけどね。
10系客車は、軽量化を図った最後の旧型客車だった。
夜行急行列車や普通列車などに使われたが、冷房化で重量が増えた。
ナハ形からオハ形に改造された車輌が多い。
オシ17形は石炭レンジを使った食堂車だったが、昭和47年の北陸トンネル火災で、先行廃車。
残りは、昭和50年代に姿を消した。
大坂さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
デザインとコンセプトは秀逸、耐久性難ありというところでしょうか。
@@Yukkuri-Lab さん、軽量化には成功したが、夏の暑さは過酷で、冷房化が叫ばれた。
ますますはグリーン車とA寝台車から冷房化が始まり、普通客車としてB寝台車と続いた。
その結果、重量が増えてナハ形からオハ形に変わった。
昔の冷房のない寝台車って真夏はどんな感じだったんでしょうかね?特に東海道は暑いと思うのですが。
いつも楽しく観ております、〇関です。前回、小海線特集の返信コメントにはびっくりしました(笑)
モノコック、懐かしい響きですよね。代表例のしては東急5000系ですね。腰部の出っ張りは補強なのかな❓️あの名車も屋根上にクーラーが載せられす消えていきましたが、10系客車も同じくで12系の繁栄を許していたのではないでしょうか❓️
小関さん、ご視聴頂きありがとうございます。
出っ張りはその分車内寸法が広くなっているのでしょうか?サイズ比較していないのですが。食堂車は確かに定員増えていますが。
冒頭SBB C 5/6 2969号機が牽く保存列車ですが、先頭の2両はBLSの旧型客車、その次はSBBの旧型、最後尾は?の電車なので、いわゆるLeichtstahlwagenではないと思います。Leichtstahlwagenは、やや背が低く、丸っこくて、裾が絞り込まれています。ドアは2箇所で折戸または回転式で銀色、ほとんどは離れて設置されていますが、中央に2個設置した2等車もありますね。なお、BLSにはオープンデッキのLeichtstahlwagenがあったそうですが、裾が丸いようなので動画の車両とは違うように思いました。間違っていたらごめんなさい。
DB103さん、ご視聴頂きありがとうございます。単にスイスの蒸機と客レのイメージ動画を載せただけですので、Leichtstahlwagenではないです。そもそもそのような動画は見つかりませんでした。
@@Yukkuri-Lab ご返信ありがとうございました。 ruclips.net/video/WxPWuQitZG4/видео.html&ab_channel=Bratzman はいかがでしょうか?
お知らせいただきありがとうございます。RUclipsですと転載できないのがつらいですね。海外の人は中々返事くれませんので、期待できないんです。
@@Yukkuri-Lab なるほどそういう事情があったのですね。ありがとうございました。
日南3号に2両繋げたオロ11は美しかった。
模型で再現したけど本当に美しい。あと、安芸もすごく似合っていた。
日南3号のオロ11は青色サッシでしたね。
よたろうさん、ご視聴頂きありがとうございます。
私はその前の日南5x号は撮影しているのですが、日南3号は撮っていないです。雑誌を見て急行復活で盛り上がっていたのは覚えてます。
鹿児島局(鹿児島、都城)特有の個体と知り驚きました
模型だと16番ですが天プラで青色サッシが製品化されてましたね。
昔紀勢線の魚釣列車にありました。まだまだ頑張っているのですね。
久保さん、ご視聴頂きありがとうございます。
頑張っているのは10系のことですか?10系は1995年に消滅しているんです。
@@Yukkuri-Lab ああそうでしたか。。
10系と蒸気けっこう有るんですね。限られていると思っていました。10系と蒸気の乗車経験は安芸と大雪くずれしかありません。蒸気晩年に興味を持ったので10系は蒸気より上野EF57の方が印象深いです。円盤付尾灯の白山ナハフ写真良いですね。興味を持った頃には円盤は廃止になっていました。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。
安芸と大雪両方のられた由、素晴らしいですね。
名古屋と天王寺を結んだ、関西線・紀勢線・阪和線経由の普通列車の新宮〜天王寺間に10系寝台車2両を連結していた。
ご視聴頂きありがとうございます。
そのような普通列車があった時期って、国鉄に乗ること自体で夢がありましたね。というか時刻表をめくる楽しみが。
よく勘違いされているのを見るけど、旧客というくくりは10系より前の客車。
10系は車内装備は貧弱だったから旧型客車と思われがちだけど、車体構造そのものは革新的で新型に属する。
国鉄において10系で採用されたセミモノコック構造は従来車両の構造とは全く異なる革新的なもので、この技術は以降に発展する電車気動車はもちろん新幹線車両にまで昇華している。
現代の車両構造も10系から進化したものであり、旧型客車の構造は使われなくなった。
se.v480さん、ご視聴頂きありがとうございます。
色々考え方がありますが、私は新構造は別にして、一両単位で運用できる点で旧型客車のほうだと思っています。
@@Yukkuri-Lab 実は私もそのような定義だと聞いていたのでそう思っていました。
「ながさき」に連結された車輌も腐食が酷かった。もう多度津のオハネ17の1/1の寝台モクアップでしか、当時の雰囲気を味わえないのが残念です。
堺さん、ご視聴頂きありがとうございます。上の視聴者様も各駅ながさきの思い出を述べられていました。
主に使われた夜行急行列車は北帰航の急行十和田と八甲田。
津軽もあった。
青森駅から上京する若者達を母親達が泣きながら😭😭😭🚉🚉🚃上野駅へ向かう夜行急行列車十和田と八甲田を見送った。
JR青森駅。
大坂さん、ご視聴頂きありがとうございます。
昔は上野駅に行くと人さらいに合うと本当に心配されたものです。
@@Yukkuri-Lab さん、集団就職列車になると、大勢の母親達と中学校の教員達が大勢見送りに来て、😭😭😭🚃🚃🚃別れを惜しんでいました。
東京は悪質なキャッチバー名と●●●によって買春婦までやらされた事件まであった。
みんな幻影に迷わされて。その後皆さんはどうされてたんでしょうねぇ?
見た目は優雅なんだけどねー
実際の乗り心地はスハ43系統のオリジナル台車装着車には劣る
配管にまで腐食が浸透していたのか洗面所で赤茶い水が出てきた
決して綺麗ではない国鉄時代の一般型客車の水回りでこれには絶句
金澤さん、ご視聴頂きありがとうございます。
水の配管が腐食してそんなことがあったのですね!
10系からあれこれ金属材の調達先が変わったとか、要求品質レベルが変わったのかもしれないですね。
軽量化の弊害で冷改しにくかった車両群ですね。
ご視聴頂きありがとうございます。
スイスにはそう言えば冷房は不要だったんでしたね。耐久性を考えるとナでなくてもよかってんでしょう。
7:52 これはオロネ10ではなくオシ17だと思われます
他の客車と比べ屋根がスッキリしてるのが特徴です
ザンナナさん、ご視聴頂きありがとうございます。
他の視聴者様からもご指摘でオシ17と言うことでした。
当時の編成表を探してオロネ10と判断したのですが、むずかしいですね。
スマホで拡大すると左側数枚の窓が特徴あるので判別できますよ。
10系客車全廃は1995年、ということは幼い頃に見るチャンスはあったのに逃がしてしまったのかな?と思いきや、魔理沙と霊夢、そして皆さんのコメントを読むと事実上の引退はもっと早かったようで残念です。
ゆっくり研究所の動画や各種写真で見る10系客車の青色は、20系客車や新性能直流ELに合わせた青15号のはずが、どこか雰囲気が違っていて「あの時代には、江戸時代からの伝統色がまだ残っていた」ように感じます。蒸気機関車の媒煙を浴びる機会が多かったからなのか、外観のヤレ具合のせいなのかよく分かりませんが・・・。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
尾久に放置していたナハフ11の2輌が1995年除籍で消滅なんですね。今の尾久の24系のようなものなのでしょうか?
私が塗る青15号はRGBで35/64/89ですが、下地のBWの濃淡に従って塗り終わると変化します。蒸機の色もそうですが、どんな色だったんだろうと想像しながらAIと相談して色を付けています。
10系はアルミサッシと明るい内装で旧型客車ってイメージじゃないですね。どことなくヨーロピアンな感じもして。
TR47はスハ43が履いていたやつを軽量化でTR23に履き替えてオハ47になった時に、玉突きで10系に回ってきたやつでしょうか?
TR47はどっしりしていていいですよね。
nekomintさん、ご視聴頂きありがとうございます。
10系は私の中では旧型客車なんですが、違うという人も多いですね。20系、12系以降だと思っています。
台車のことはあまり詳しくないので、もっと勉強していきます。
急行【まりも】に乗車した時、B寝台の振り分けが、オロハネ10だった、中央入口には、
【A・寝台車・B】だった😋
(作業用宿泊車に改造されたオヤ10は、なぜ「ブドウ色」だったのか?😅)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。オヤ10は発電機持っているので、ホテルになりますね。
3:59
TR47→スハネ16
TR50→オハネ12
車体は外観は似てますがスハネ16は戦前の客車の台枠の流用改造車、全長がやや短いです。
nobu 5861さん、ご視聴頂きありがとうございます。
うーん、なるほど。難しいですねぇ。
特急かもめが10系客車になった時、二等車はともかく三等車はクロスシートに戻って苦情は出なかったのかしら
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。
苦情が多かったとどこかで読んだ記憶があります。
でもすぐにDC化されたので、何の対応もされなかったと。
クロスシートで1ネタ。
「はつかり」で、C61の次がオハニ36だった写真を、昭和35·6年頃のピクトリアル誌で見ました。
スハニ35の代わりでしょうか?その前にオハ二36なのでしょうか?
尾久にスハニ35は3両配置されていましたが、1両が定期検査で離脱している時にもう1両も不具合で離脱せざるを得ないケースもあったでしょうから、急遽品川あたりからオハニ36を持ってきたのではと推測したものです。
夜見たやれた営業中の10系客車が何故か怖かった件、末期だったからボロボロだったし、
MrDogpapaさん、ご視聴頂きありがとうございます。
その感覚良く分かります。デカくてのっぺりしてる外板がぼこぼこだったり、塗装がさびてはがれていたり、動画内のばんえつ物語の客車のイメージですよね。
俺の中では元祖ブルートレインだと思ってるよ、20系からかもしれないけど(10系も20系も大好きだよ)
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
そうですね。0721さんに同意です。
ぶどうと一緒のも中々際立っていいじゃないかって。
その際立ちが芸術的に美しい迄あると思うよ
誠に恐縮ですが少々重箱の隅をつつかせて頂きますm<(_ _)>m
10系寝台車の内、オハネ17(後冷房化してスハネ16)は元々遊休車の台枠を再利用して軽量車体を乗せたもので、ナハネ10(後のナハネフ10→オハネフ12)やナハネ11(後のオハネ12)等の車体長20m、連結面間隔20.5mに対し、在来車同様の19.5m(連結面20m)です。在来車の台枠流用で台車は当初TR-47を履きましたがこれはスハ43から取り上げたもので[脚]を取られたスハ43はTR-23を代わりにあてがわれ乗り心地は多少落ちるも軽量化されオハ47となり、それでなくてもまだまだ蒸機主力の当時換算0.5車軽くなるのは福音でした。
後にオハネ17に電暖車が登場すると、僅かな差で37.5tを超えてしまう為一旦台車をTR-23に代えましたがその後冷房化する際、どうしたって37.5tに収まらないのだからと台車が再びTR-47になり形式もスハネ16となりました。尚この時もスハ43からTR-47を奪い取っています(^^);
4:08、スロ62の台車は実はオハニ36(スハニ37)と同じTR-52です。元々オロ61時代はTR-47を履いていましたが、冷房化の際重量増加を抑える為台車が振り替えられました。そしてオロネ10・オロネフ10はエアサス台車のTR-60を履いています。20系のTR-55と酷似していますがおそらく空気ばねのエア補充の仕方が違うものと推測します。
7:43、急行十和田の後追いカット、2両のロザ(恐らくオロ61)の次位はオロネ10ではなくオシ17ですね。この列車は昼行急行ですから寝台車は入っていない筈で、また客車急行では遅くまで食堂車を連結していた列車でした。
かもめのナハ11投入は、問鉄局からの提案で固定座席のスハ44・スハフ43・スハニ35では編成丸ごと方向転換が大変で殊に博多側では香椎線や勝田線を経由させ1時間43分も要したとのことで回転クロスシート化を求め改造終わったあかつきには再び[かもめ]に投入する予定だった由。然し約束は反故にされてしまい、取り上げられたスハ44・スハフ43・スハニ35は東海道の不定期[さくら]に、そして[こだま]登場後、ちょっとニートした後[はつかり]に投入されましたが、既にモハ20系(後の151→181系)が東海道を颯爽と疾走する中、東北特急はその東海道の[お古]で爆煙もくもくトンネルげほげほとあって不評だったとのこと。
スハ44が[かもめ]に戻ってこなかったのは或いは既に気動車特急化の構想が固まっていて今更経費掛けて改造して再投入も無いと思われたからかも知れません。
スハ・スロに比べナハ・ナロは1両辺り約10t軽く換算1両得します。つばめ・はとの現車12両中5両の特ロがスロ60・スロ54からナロ10に代わると換算5両軽くなります。49両から44両へ。当時のつばめ・はとは確かEF58で牽引定数55両でしたのでその分増結余力が出来ます。殊にマイ38なんぞ増結しようものならナロ10登場以前はそれだけで定数ギリギリ近くになりましたがナロ10登場後はマイ38+ナロ10×2両増結が可能になりました。
ただそんな軽量客車も動力近代化の時代、旅客車は電車・気動車主体となり客車の新製は中止。但し老朽化の酷かったCロネ=ツーリストタイプ=の置き換えようとしてオロネ10がしばらく製造されました。因みに元イネの個室がAロネ、プルマンがBロネ、それ以外がCロネとされました。但し区分室構造でも冷房の無かったスロネ30や、プルマン形態ながら冷房の無かったナロハネ10=冷房化後はオロハネ10=はCロネ扱いでした。
客車の新製を行わなかった為電車気動車に比べ古臭さが目立ち更にはデッキの非自動ドアが問題視されるようになった中、1970/昭和45年の大阪万博に伴う輸送需要、殊に波動輸送対策として、たまにしか使わない車種に高価な電車・気動車は勿体ない。多客期は貨物輸送の端境期でカマに余裕ができる。蒸機だと貨物用のカマで客レを牽かせるには速度の点で物足りない。然し近代動力車、例えばDD51やED75なら客貨両用に使えるから有効活用できる!ということで登場したのが12系でした。
@SleeperExpressJNRさん、ご視聴頂きありがとうございます。
固定させていただき、これからじっくり拝読いたしますね。
@slee…様
誠に失礼と存じますが、私から少々訂正を加えさせて下さい。
元々オロ61時代はTR47…と有りますが、種車オハ61 (5:59左側に1/3が台車と写っています)から一等車オロ61への改造時に台車をイコライザー式TR11から新製したTR52Aへと交換しておりTR47の使用歴は有りません、又 冷房取付け後は重量増加の為スロ62と形式が変更されました。
一方TR47はスハ43以後の2等車専用で、1等車は専らTR40B(スロ50〜54)を履いていました。
その内スロ54のみが冷房取付け改造を受け、重量区分の増加を避ける為 少々乗り心地を犠牲にして、重い鋳鋼製台車TR40Bから 旧式でも軽い形鋼組立て製TR23へ履き替え、形式はそのままで冷房化を果たしました。
細かな事をもう一つ「スロ62の台車はオハニ36と同じTR52」とありますが、厳密にはコレの枕バネを優等車用に柔らかくしたTR52Aとなります。
重箱の隅をつつく様で…と御謙遜されておられますが私も同じくで失礼をどうぞご容赦下さい。
@@DAIHACHI-p8z ご教授有難う御座います。オロ61はてっきり当初TR-40系台車だったとばかり思い込んでいました。
スロ54は最初に冷房化した26・29が重量オーバーでマロ55になってしまったので台車をTR-23に、またその後の冷改は床下ではなく屋根を削る形になりましたね。ただ、TR-23でもコロ改のTR-23Dを履くものが多かったような…
TR-40とTR-47、違いは何処でしたっけ?枕ばね?ブレーキ引き棒?軸バネや台車枠が共通仕様なのでその細かい違いを認識していませんでした(TR-40Dは流石に瞬時に区別できますが…)
同じように見えても実は別形式…車輛そのものは勿論のこと、台車やクーラーキセ、電気車ならパンタ・主電動機、内燃車ならエンジン等々細かい差異があるものですね。まだまだ勉強不足汗顔の至りです。
@@SleeperExpressJNR 様
TR40と47について、TR47は台枠中梁を強化した為その下面が50mm下がり、この為 横梁 上揺れ枕などの変更が必要になった事と(以後、鉄道ピクトリアルNo.718 スハ43系1をそのまま転載)下面が50mm下がった事で、従来は中梁の中央で水槽の上をとおっていたブレーキテコ棒がとおせなくなった、この為、ブレーキシリンダーの前端に付いていたブレーキテコを、ブレーキシリンダーから切り離して水槽前方の台枠に取付け、前後のテコを結ぶ連結棒を水槽と蓄電池との前後に通した。
と有りますが、ご理解頂けますか?
私には図面も無く余りイメージ出来かねますが…。
台車単体を見れば違いが判るかもですが、外観上での判別は私には付きかねます。
PS.オロ61ではなく、スロ60が当初スハ42用に製造されたTR40を履き運用に就きましが軸バネが硬い為 後に柔らかいバネと交換されTR40Aとなりました。それから動画UP主様と間違えておりましたのでお詫び申し上げます。ご質問有難うございました。
マシ38をよく見たら全焼した2でした😢
春葛さん、ご視聴頂きありがとうございます。
これは以前旧型客車特集で出したことがあります。そうなんです。2なんです。
確か、朝食用の味噌󠄀汁のダシ取りのために石炭レンジを熾火にしてあったと縮刷版にありました。
灰箱の戸締まりが不完全だったのかも知れません。
ふるさと列車おくのと号のオハフ61436やスロフ532025でアカメの味噌󠄀汁やサザエ壷焼き等を出してたようですが、熱源は何だったのでしょうね?
こんばんは、小さい頃に急行西海で母親と大阪と九州を往復しました。ただ九州に帰る時に寝小便してしまい(笑)母親がすごく慌てて布団を裏返して駅に降りました。国鉄の職員さんや清掃員さんにすごく迷惑かけたなあと思います。申し訳ございませんでしたm(_ _)m
Tetu Cub Channelさん、ご視聴頂きありがとうございます。昔の旅は長かったですね。今はお金が無いので普通列車しか乗れないので長い旅に戻ってしまいました。
バイクお好きなんですね。私も好きですが動画の仕立ては少ないんです。
35系式や43系式の後なのに10系式という系列名称になったのは訳があるのかな。順番からすれば50系になるかと思うがなぜだろう。35系が出来た時は10系式や20系式の形式が使用できない訳があり欠番になっていて10系登場の頃にそれが解禁になって10系式が使用できるようになったとかかな。まぁそれを言ってしまえば20系や24系や26系もあるから一概に小さい数字から順に付けているわけではなさそうだな。新幹線も600系が欠番になっているのでなにかしらの理由があるのだろうな。
hmuraddojpさん、ご視聴頂きありがとうございます。型式名称を改称したとき、10が余っていたからではないでしょうか?
@@Yukkuri-Lab 気になったので調べてみました。1953年称号規程から10系式と20系式が軽量客車に使えるようになったそうです。それまでは3から9だそうです。
1955年製造の10系客車は1953年以降の軽量客車なので10系式が使えるようになったのですね。その後もいろいろ規定が変わったみたいですね。
お知らせいただきありがとうございました。ということは1x系、2x系は軽い客車なんですね。
10系寝台車って冷房化後は発電機搭載でうるさかったのではないだろうか?
うるさい窓開け状態<冷房。と言うことなのでしょうね。
急行形として製作された筈なのに、食堂車と旧二等車が東海道座席特急に連結運用された不可解さ……(-""-;)
んにょんにょ礼子さん、ご視聴頂きありがとうございます。
それだけ設計の自由度が大きかった原設計と言うことなのでしょうか。
世代でないので10系は碓氷の保存車しか見たことありません。
霧の多いあそこは車体よわよわの10系にはいっとう厳しい環境でしょうか🥺
ピユーンさん、ご視聴頂きありがとうございます。
碓氷峠ばかりで無く、高崎越えれば天気悪いこと多いし、なかなか厳しいのでしょうけど、軽いのは優先項目だった事なんでしょう。
客車を軽くした分エアコン載せればもう少し長生きできたのに😮ちゃんとエアコン載せたいい子もいたのになんで長生きできなかったんでしょうか?
Sho Kaikoさん、ご視聴頂きありがとうございます。
エアコンの発電機乗せると車体がやわで曲がっちゃうとか、強度的な問題があったと聞きました。
とにかく鉄板の腐食に悩まされ続けたことが長生きできない理由だと思ってます。
2:21 正面の ドアを開けても良いのですね。
KESEIさん、ご視聴頂きありがとうございます。
これは軽井沢で、後ろにED42が連結されるところですね。
金サワ だから能登じゃないかな
Laundrygateさん、ご視聴頂きありがとうございます。
其処を見ればよかったです。おそらくその通り能登でしょう。
ちなみに私の場合はスハフ43型国鉄型客車とスハ43型国鉄型客車は撮影しなかったちなみに私の場合はスハフ32ーオハ47ーオハ47ーオハ47ースハフ42とその他はオハニ36以上客車は撮影をしたよあと横川鉄道文化村ではオニ30型とマイネ40型とオハユニ61型とナハフ10型とナハネ12型とオシ17型客車は撮影をしたよ現在もアルバムに残っているみたいかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
オシい!!マシ17ではなくて🎵
一コメありがとうございました。
すみません、失礼ですが マニアの性として また訂正させて下さい。
2:51マシ17誤→2:54 霊夢さんがオシ17と正答
3:34 ナシ17誤→オシ17正
4:05 TR50誤→TR52A正
種車のオハ61を1等車オロ61への改造時、乗り心地の悪い台車TR11を放棄し優等車用に枕バネを柔らかくして乗り心地を改善したTR52A台車を新造して履かせた為、一見古く無骨な車体と 新しくスマートな台車が不釣合いにも見えます。@user-do8wk3m様もご指摘
6:38 C61-5誤→C60-5正(キャブのナンバープレートで確認可、又 炭水車の全長が長く、天面が一直線な事でC60と判る)
7:00 オロネ10で正解です、写真面は給仕室の窓(手前右から2枚目)が有る為 窓が1枚多く10枚です。
オロネ10の特徴は屋根が真ん丸カマボコ形ドーム、車体(外板)面と窓ガラス面がほぼ同じで有る事で凸凹がほとんど無く全体的にツルリとしています。又窓下に帯が一本有るか、それが消され青一色であればオロネ10です、20系客車は3本か 晩年2本の帯が入っています。
7:14 オロネ10の台車 TR50誤→TR60正です。TR50は台車中央に2本並んだコイルバネが見え、TR60はそこにジャバラ状の空気バネが覗きます。
7:53 ロザの後は…前方にHゴム窓が5枚、後方に窓中央の高さで横一線に光る桟の窓が4枚有る事でオシ17と思います、又 寝台車がオロネ10 一両と言う例も無いと思います。
判別は私達に任せて、あまりお気になさらず楽しく動画をお創り下さいませ。
DAISUKEさん、ご視聴頂きありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。
編集修正の過程で変換してなかったり訂正漏れが多発してしまいました。
頂きましたところはコメント欄で修正します。
C61-5はまずいですねぇ。
@@Yukkuri-Lab様
鉄道ファンとは常に間違い探しをしている様な者なので、楽しんで指摘していますが、制作者におかれますと人の粗探しをされている様で穏やか成らざるお気持ちかともお察ししますが、沢山間違いが出ると言う事は、それだけ大変な作業をされているとも思われ、又沢山のサンキューメールを出されるなど本当にお疲れ様です。
私も蒸機以外はあまり知らず、ながーいブランクもあったので、RUclipsで皆様に育てていただいているようなものです。粗探しなんて全く思いません。ありがたい限りです。
@@Yukkuri-Lab 様
鉄道ファンは「あと10年20年早く生まれたかった」と思うのが常と考えますが、SLブームに間に合わなかった世代としては、大型急客機を沢山撮影された@Yukkri-Lab様を本当に羨ましく思います。
小学生時代 10系だけで編成され、オシ17も見られた急行「桜島.高千穂」を公園から良く見送っていました。
DAISUKE HASHIMOTOさん、私も同様5年早く生まれたいと蒸機がある時代から思いました。
でも今となっては5年は貴重ですから、これで最良だったと思っています。