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音楽も写真も良いし、何か小学時代を思い出しました。ありがとうございます!!
子供の頃家が貧しくて家族で旅行なんて行った事が無かったから親戚の家に行くのが数少ない電車に乗るチャンスでした浦賀に住んでて親戚が馬堀海岸、堀ノ内、追浜、金沢文庫に住んでて遠くても金沢文庫まで特急青砥、特急小岩(一時期京成小岩行きの特急が有りました)の行き先表示を見て子供にはとんでもない遠い場所に思えました
あの頃の金沢文庫はいろんな車両がいて楽しかった。冷房車だとラッキー!なんて言ってたの懐かしい
赤地に白い帯、これぞ京急。垢抜けないかもしれませんが、残して欲しい配色です。
勿論今の京急も大好きですが・・・子供の頃の頃に運転席を眺めながら乗ったインバーター化される前のあの凄いGを感じる加速感が大好きでした。
海水浴で賑わった三浦海岸を想い出す💧
はじめまして。撮影されたのは、昭和55~60年頃でしょうか。とても懐かしい写真ばかりです。生まれてから現在まで京急沿線に住んでいる50代の私にとって、この時代の京急はツボです。ちょうど中学生の頃で、これらの写真と同じ時期にカメラを持って撮影していました。特に金沢文庫~金沢八景は自転車で手軽に行けることもあり、日常的によく見ていました。金沢と新町の検車区で撮影された写真群も今となっては貴重でしょう(特にデワ40の車内)。種々雑多な形式の車両はもちろんですが、拝見するといかに1000形が主力であったか、よくわかりますね。そして、肩身の狭さも伝わる600形も。展示間もない頃と思われるデハ601も見どころかと思います。
コメントありがとうございます。昭和55~60年頃の写真です。デワ40の車内は許可を取らずに勝手に入って撮影しました。方向幕も変えて撮影してました。今では出来ません。デハ601は展示間もないです。今ではボロボロですね。
@@skyline210 良い時代だったと思います。デワ40の表示器は、確かハンドルではなくローラーをひたすら回すタイプだったと記憶しています。金沢検車区配属車の種別幕には黒字の「通特」という幻の?表示がありました(確かデワ45)。デハ601は撮影された頃から数ヶ月後には「盗れるものはあらかた無くなって」いて残念に思いました。
長きにわたり片開き戸にこだわりつづけた京浜急行電鉄、乗り入れ先の都営浅草線、京成電鉄グループでも存在感が圧倒的に目立った、ついに昭和57年には両開き扉を採用した2000型を登場させて周囲を驚かせた京浜急行電鉄
2灯前照灯も2000系から。
京急は、やっぱり「赤色」が良いです😄
昭和の頃、国鉄のストが決行されると、横須賀線の乗客が京急に殺到しましたね。関東私鉄では京急、西武、小田急がゼネスト不参加で、常に動いていました。殺到する乗客で窓ガラスが割れる危険性があったため、京急は朝から車内の窓を全開して運行していましたね。窓を全開して乗客を運ぶ京急のようすを、朝日新聞が1面に載せていました。国鉄、私鉄総連傘下の東急労組がストに入ると、京浜間では京急だけで乗客を運ぶのですから、昭和の京浜急行のすごさがわかります。
国鉄同時多発ゲリラで国電全線ストップの時も客が京急に殺到していましたね。
今でも神奈川県内JRがトラブルと京急は迷惑を被ります。
昔の京急のCMに赤い電車に白い帯〜🎵って良く覚えてますね〜🚃
やっぱ快速特急は昔の停車駅がいいな。蒲田も八景も堀ノ内もスルーでイイって😁
現在は、京急蒲田、金沢八景も停車駅です。堀ノ内から終点までは、各駅に停車します。
@@user-dy8po9gl1i 列車名も快特ではなく快速特急の方が早そうに聞こえる。
私と京急の初邂逅は幼稚園の頃、都営1号線(→浅草線)に乗った時の事。虫歯が出来て高輪台にある歯医者に強制連行されて江戸橋(→日本橋)から高輪台まで乗ったわけですが、営団(→東京メトロ)東西線と総武線の “きいろいでんしゃ” と京成電車しか知らなかった私にとって、ある意味カルチャーショックなことばかり。まず、その京成電車を目の当たりにして「なんでやちよだいにいくでんしゃがここにいるの?」と母親に疑問を投げかけたり、東京都5000形がトラウマになったり、その中でも極めつけが京浜急行でした。赤い車体に白い腹巻きをした電車を見て、「なんでここにまるのうちせんがいるの?」と母親に疑問を投げかけました。京浜急行っていうと、ついついその思い出がフラッシュバックします。
私が幼稚園の頃(約55年前)横浜の叔母の家に伺う時、床が木で出来ていました。多分200系だと思います。モーターの音が響いてました。1枚扉は迫力が有り、扉に挟まれる恐怖が有りました。旧1000系は、見た目も乗り心地も良くなりましたが、今では、線路の継ぎ目が無くなり、高架では枕木も横置きから縦置きになり騒音が低減されました。連結もほんの数秒で終わりますね。沿線住民として、京急は欠かせない存在です。
京急と云えばヘッドライト1灯、片開き扉を頑なに守り続け、1980年代初頭の800形までその伝統が有りました。中でも1000形は色々なバリエーションが有り、京急の顔でした。駅停車中に聞こえるロータリーコンプレッサーの音は懐かしい限りでした。京急は高速運転が売りなので新性能電車化は一番早いと思いきや400.500形みたいな吊り掛け駆動車も沢山残っていたのですね。意外でした。何れにしろ京急の名車は私的には1000形、600形特急車両だと思っています。
あと正面のアンチクライマー😂
京急の思い出と言えば、三崎口や三浦海岸の方から帰って来る時だんだん眠くなってきたのを思いだします。
700型や旧1000型は今も四国で走ってますね。
東播の人が京急車両の高砂行を見たら、「えっ?」ってなりそう。
800系が新型に見えたあの頃…
一番好きだったのは旧1000黒幕を幌で繋いだ8両だったなあれが来るとテンションが上がったもんだ(車号が繋がっているとなおさら)
大師線…子供の頃は床が板張りだったなぁ。UPありがとうございます。
その電車横浜に移転した本社1階に展示されています。
密着連結器以前の連結作業は琴電方式か
2000形以外はヘッドライトが真ん中一つ、ドアは片開という京急の昔の方針の車両ですね。
高松で未だ現役の電車が居るw
5:25 😊待合室 って何だ?
バザァル金沢文庫😊
1Fと、3Fに🍜寿がきや入ってましたね😊
これが通称タラコ列車かな?😅
黄色い一つ目小僧の電車がコワい。
音楽も写真も良いし、何か小学時代を思い出しました。ありがとうございます!!
子供の頃
家が貧しくて
家族で旅行なんて行った事が無かったから
親戚の家に行くのが
数少ない電車に乗るチャンスでした
浦賀に住んでて
親戚が馬堀海岸、堀ノ内、追浜、金沢文庫に住んでて遠くても金沢文庫まで
特急青砥、特急小岩(一時期京成小岩行きの特急が有りました)の行き先表示を見て
子供にはとんでもない遠い場所に思えました
あの頃の金沢文庫はいろんな車両がいて楽しかった。冷房車だとラッキー!なんて言ってたの懐かしい
赤地に白い帯、これぞ京急。
垢抜けないかもしれませんが、残して欲しい配色です。
勿論今の京急も大好きですが・・・子供の頃の頃に運転席を眺めながら乗ったインバーター化される前のあの凄いGを感じる加速感が大好きでした。
海水浴で賑わった三浦海岸を想い出す💧
はじめまして。撮影されたのは、昭和55~60年頃でしょうか。とても懐かしい写真ばかりです。
生まれてから現在まで京急沿線に住んでいる50代の私にとって、この時代の京急はツボです。ちょうど中学生の頃で、これらの写真と同じ時期にカメラを持って撮影していました。特に金沢文庫~金沢八景は自転車で手軽に行けることもあり、日常的によく見ていました。
金沢と新町の検車区で撮影された写真群も今となっては貴重でしょう(特にデワ40の車内)。
種々雑多な形式の車両はもちろんですが、拝見するといかに1000形が主力であったか、よくわかりますね。そして、肩身の狭さも伝わる600形も。展示間もない頃と思われるデハ601も見どころかと思います。
コメントありがとうございます。昭和55~60年頃の写真です。
デワ40の車内は許可を取らずに勝手に入って撮影しました。方向幕も変えて撮影してました。今では出来ません。デハ601は展示間もないです。今ではボロボロですね。
@@skyline210 良い時代だったと思います。デワ40の表示器は、確かハンドルではなくローラーをひたすら回すタイプだったと記憶しています。金沢検車区配属車の種別幕には黒字の「通特」という幻の?表示がありました(確かデワ45)。
デハ601は撮影された頃から数ヶ月後には「盗れるものはあらかた無くなって」いて残念に思いました。
長きにわたり片開き戸にこだわりつづけた京浜急行電鉄、乗り入れ先の都営浅草線、京成電鉄グループでも存在感が圧倒的に目立った、ついに昭和57年には両開き扉を採用した2000型を登場させて周囲を驚かせた京浜急行電鉄
2灯前照灯も2000系から。
京急は、やっぱり「赤色」が良いです😄
昭和の頃、国鉄のストが決行されると、横須賀線の乗客が京急に殺到しましたね。
関東私鉄では京急、西武、小田急がゼネスト不参加で、常に動いていました。
殺到する乗客で窓ガラスが割れる危険性があったため、京急は朝から車内の窓を全開して運行していましたね。
窓を全開して乗客を運ぶ京急のようすを、朝日新聞が1面に載せていました。
国鉄、私鉄総連傘下の東急労組がストに入ると、京浜間では京急だけで乗客を運ぶのですから、
昭和の京浜急行のすごさがわかります。
国鉄同時多発ゲリラで国電全線ストップの時も客が京急に殺到していましたね。
今でも神奈川県内JRがトラブルと京急は迷惑を被ります。
昔の京急のCMに赤い電車に白い帯〜🎵って良く覚えてますね〜🚃
やっぱ快速特急は昔の停車駅がいいな。蒲田も八景も堀ノ内もスルーでイイって😁
現在は、京急蒲田、金沢八景も停車駅です。
堀ノ内から終点までは、各駅に停車します。
@@user-dy8po9gl1i 列車名も快特ではなく快速特急の方が早そうに聞こえる。
私と京急の初邂逅は幼稚園の頃、都営1号線(→浅草線)に乗った時の事。
虫歯が出来て高輪台にある歯医者に強制連行されて江戸橋(→日本橋)から高輪台まで
乗ったわけですが、営団(→東京メトロ)東西線と総武線の “きいろいでんしゃ” と京成電車
しか知らなかった私にとって、ある意味カルチャーショックなことばかり。
まず、その京成電車を目の当たりにして「なんでやちよだいにいくでんしゃがここにいるの?」
と母親に疑問を投げかけたり、東京都5000形がトラウマになったり、その中でも
極めつけが京浜急行でした。
赤い車体に白い腹巻きをした電車を見て、「なんでここにまるのうちせんがいるの?」
と母親に疑問を投げかけました。
京浜急行っていうと、ついついその思い出がフラッシュバックします。
私が幼稚園の頃(約55年前)横浜の叔母の家に伺う時、床が木で出来ていました。多分200系だと思います。モーターの音が響いてました。1枚扉は迫力が有り、扉に挟まれる恐怖が有りました。旧1000系は、見た目も乗り心地も良くなりましたが、今では、線路の継ぎ目が無くなり、高架では枕木も横置きから縦置きになり騒音が低減されました。連結もほんの数秒で終わりますね。沿線住民として、京急は欠かせない存在です。
京急と云えばヘッドライト1灯、片開き扉を頑なに守り続け、1980年代初頭の800形までその伝統が有りました。中でも1000形は色々なバリエーションが有り、京急の顔でした。駅停車中に聞こえるロータリーコンプレッサーの音は懐かしい限りでした。京急は高速運転が売りなので新性能電車化は一番早いと思いきや400.500形みたいな吊り掛け駆動車も沢山残っていたのですね。意外でした。何れにしろ京急の名車は私的には1000形、600形特急車両だと思っています。
あと正面のアンチクライマー😂
京急の思い出と言えば、三崎口や三浦海岸の方から帰って来る時だんだん眠くなってきたのを思いだします。
700型や旧1000型は今も四国で走ってますね。
東播の人が京急車両の高砂行を見たら、「えっ?」ってなりそう。
800系が新型に見えたあの頃…
一番好きだったのは旧1000黒幕を幌で繋いだ8両だったな
あれが来るとテンションが上がったもんだ(車号が繋がっているとなおさら)
大師線…子供の頃は床が板張りだったなぁ。UPありがとうございます。
その電車横浜に移転した本社1階に展示されています。
密着連結器以前の連結作業は琴電方式か
2000形以外はヘッドライトが真ん中一つ、ドアは片開という京急の昔の方針の車両ですね。
高松で未だ現役の電車が居るw
5:25 😊待合室 って何だ?
バザァル金沢文庫😊
1Fと、3Fに🍜寿がきや入ってましたね😊
これが通称タラコ列車かな?😅
黄色い一つ目小僧の電車がコワい。