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似たようなチャンネルと違って、人名や用語の誤読が少ないのが何より好印象です
企業経営者の次男坊が大学院で研究職目指してたら跡継ぎの長男と親父が相次いで死んだからっていきなり社長に担ぎ上げられて右も左もよくわからんし、最大の支社長は社長候補になれなかった恨みで反抗するし、取締役たちはお飾り扱いしてくるし、社長室長や秘書たちも無私の忠誠を誓ってるってわけでもないし、とにかく舐められんように強面の対応せんと家族経営崩壊してまうから気張るでぇ!→→→解任(物理)されたんだが。
センゴク桶狭間戦記で織田信友が「臣を守らぬは主君にあらず!」って言ってたけども、この時代は自力救済の時代だから自分の身分を保証してくれない主君とか存在価値がないわけで、そりゃ締め付けすぎたら反動で返ってくるのは当然なんだよな
6:20 当時は鶏の卵や肉を食べる習慣はなく、今のように玉子焼きや鶏の唐揚げはなかった。
その後の江戸時代では卵は高級品。私の先祖の庄屋がとある事情で謹慎になった小藩の家老にオミアゲで送ってるw
本能寺の変より大規模かつ政治史的に大きな事件。赤松討伐軍の動員が遅れたのは「誰が反幕府で動くかわからない」かららしいです。赤松は本来、同調してくれる守護・タイメイを募っていたようです。が集まらず播磨に下向した、と。
最近見つけたけどこのチャンネルほんと面白い
14:12 主だった武士が逃げ出したにも関わず、周防の大内持世は、守護大名抑制政策をとる足利義教に領地を没収される等圧迫されていたが、それでも将軍を守るため戦って死んだ。死に際して逆賊赤松を討伐するよう遺言したので、大内氏にとって赤松氏は宿敵となった。 また、大内氏は日明貿易の利権をめぐって細川氏と対立していたので、応仁の乱では細川(と赤松)の陣営とは敵対することになる。 応仁の乱は一見、複雑なようで、〇〇と△△は対立という構図から見るとわかりやすい。
そうでしたか、、、ご先祖の軌跡をまたひとつ知る事が出来て嬉しいです。ありがとうございます。
ちなみに将軍を殺して没落した赤松家は、その後天皇を殺し三種の神器を奪還することで加賀半国の大名へと復帰。(長禄の変)そしてこれを実行したのが後の黒田官兵衛の祖先という。
最近、日本史を学んでいて嘉吉の変で赤松家のことを知り遠い親戚筋で繋がってる可能性があることで関心を持ちました。今年のお盆にお墓に行き家紋を確認すると一致。今の私の姓は違うのですがご先祖様が歴史的なことに関わってるかもと考えると胸が熱くなりますね
本当にわかりやすくて重宝してます!!!
義持「決めて…おったのだ……もう何十年も前から余は………何一つ決めてやるものかと…………」
銀河英雄伝説やんw
将軍の苦悩は下々には分からなかったそれだけかその下々はどこに消えたのか知らないけど
義持は、父親の義満に何かしら含むところがあったという話もありますね…
@@TheHisshy 義光の次の代でそれでは、足利幕府が早期に崩壊したのもよくわかる。
首級が落ちる直前の義教…『勝ち続けて…勝ち続けて…最後になって負けるのか!父上!俺はここまでしかこられない男だったのか!』
将軍の権威を強くしようとして最終的に暗殺され権威を失墜させるきっかけを作ってしまった形。
ビックモーターの副社長か
地味で人気の無い室町時代を分かりやすく解説してくれて、ありがたいです。万人恐怖の籤引き将軍とか魔王将軍とか言われている義教ですが、そもそも四代将軍の義持が大元の元凶。五代目が早死にしたのは、大御所として君臨してて将軍なんて名ばかりで、何にもさせてもらえず、酒の呑みすぎで死んだんし。かわいそうに5代将軍は十四代将軍と共に、足利家菩提寺の京都の等持院にある歴代将軍の木像が作られてもいません。わずか8ヶ月の将軍だった七代目さえあるのに....。
戦国以外の室町期は大学受験の頻出範囲とか
足利義量の死因は元服する前から呑んでた酒が祟ったとか....間接的にお酒の飲みすぎで国が荒れた...とか お酒の影響力は古今東西恐るべきものである...
赤松が本性現して義教に襲い掛かるとき、部下は誰一人義教を助けるものはおらず我先にと逃げていった。結局力だけで抑えたら反動が必ずくるというもの。
赤松満祐邸宅跡地にはお寺が立ち、その名を本能寺といったそうな(実話) 赤松満祐の播磨で立て込もった城の名前、坂本と言うそうな(実話)信長と光秀といろいろシンクロしてて怖い
信長より先に火つけられていたことにびっくり!むしろ、信長はこの人を真似したのかな?
そもそも義教は元坊主で権力基盤は余計に弱いから粛正による独裁をしなければ幕府を維持出来なかった。
将軍になったきっかけがくじ引きなんで、舐められまいと頑張り過ぎたんですかね…
それはあると思う持氏さんが長男が元服するのに義教さんに報告して一字貰わないといかんのにやらなかったりとありましたからね。色々言われとるが強い将軍様だったとも思う
あれ?くじ引きって当時は神に選ばれしという神聖なものだった気がしますが、違うのですか?
一瞬下剋上の認識を改めるべきかとも思ったが赤松義祐が足利義教を討って幕府を乗っ取り赤松幕府を開いた訳では無いからそれは違うかな、と。
義教の首塚は大阪の崇禅寺にあります。
暴君は暗君よりもたちが悪いと言う教訓でもあるな。
籤は「この人だけは絶対駄目」という意味だったのかも…👹💀😱
昔、小学館の日本の歴史でこの話を読んだとき、暴君だった足利義教が成敗されていたので、室町時代中期版本能寺の変のような印象を受けましたね。義持の息子が長生きしていたり、その前に義持の弟が義満に将軍にされていれば、こんな事件も起こらなかったのでしょうけど、本能寺の変と同様にこの事件も歴史の運命が紡いだものなのでしょうね。
井沢元彦「逆説の日本史」でも義教と信長のシンクロニシティを取り上げてましたね(リンカーン=ケネディの都市伝説的な)。殺ったのがどちらもA・Mというのはこじつけすぎだとも思いましたが。
@@泰英岡田赤松満祐・明智光秀 、イニシャルが同じだとか考えたことも無かったですね。その後程なくして討たれてしまうところも両者共通してますね。
やり過ぎたな。でもどこまでやるか、とことん見たかった将軍ではある
義持の死因って乾癬からの感染症かな?
高校時代、御家人が将軍を暗殺したり将軍の後継者を巡って戦を始めたりすることが理解出来なかった。将軍ってもっと凄い権力者だと思ってたから。室町幕府の体制が脆弱だったということですね
貴殿の将軍のイメージは江戸幕府の将軍かなと思う。家康公は脆弱な室町幕府を反面教師にし、徹底的に将軍、幕府権力を強化したから、結果として江戸幕府は最終盤まで大規模な内乱を起こすことが無かった。
独立出来た将軍は徳川家だけじゃないかな。事実、名だたる有力大名を軒並み倒して将軍になってるし。
春王丸、安王丸を処刑したり恐ろしい将軍様じゃ。。
まぁ、実際足利持氏の段階で二人を生かしてしまったことで結城合戦が起きてるので....
@@シャル-f4q まぁ持氏さんも悪いちゃ悪いから。。
@@シャル-f4q もう一人の遺児の永寿王丸が大暴れ。もちろん後の足利成氏。
本来矢面に立つ立場になる予定じゃなかったけどなってしまったからには結果で示さねば!というのは武田勝頼となんかダブる
土岐と一色にしたことが返ってきたのよな
この人、織田信長の前世か?ってくらい二人は色々似てる
肖像画からして似てるしね。
恐怖政治、天魔王、まさに似てる
最後も共に家臣の反逆により死亡…
自業自得・因果応報
よしのり、ゴーマンかましすぎ
くじ引きで将軍が決まったが、現在でも選挙で投票数が同一の場合はくじ引きで決まるそうです。
5代がいないみたいでかなしす
しかし人望が無いなこの人。死を喜ばれるのは、支配者の常だが、直ぐに仇をとろうとする者もなく葬儀も適当。本当に嫌われていたことがわかる
嫌われてたかもだが前代未聞の事態だからね。。多少はね。。
将軍就任までの経緯的に忠実な手駒にも欠いてただろうから。
当時の守護大名や貴族、寺社勢力に嫌われたという事は良い政治家だったという事。義教がいなくなったら戦国時代になって、京都も焼け野原になってしまった。
みんな赤松の協力者が誰なのかわからないから疑心暗鬼になって静観してたんじゃないかな。2週間経ってようやく赤松の独断だとわかったとか?
なんてこった、パンナコッタ
僕の見解ですが、義教は征夷大将軍になってなければ少しは長く生きる事が出来たのでは…。あと暴君になることもなかった。
室町将軍として好き勝手やってる守護連中をなんとかしなきゃっていう目標は父親や兄より大分立派だったけどそれは過分なことだったね結局室町将軍にできることは山城国周辺の治安維持程度なんよ😢
足利義教、やり過ぎが原因と思う
まあ、、舐められたらアカンという考えだし分からんでもないがやり過ぎとは思う。。
三國志の馬謖とかといっしょで、参謀としては最高の人間かもしれなかったが組織のトップに立つことには全く向いてなかったやつと思ってる
やっぱ完全な中央集権化に成功した明治維新って偉大だわ
担ぎ上げられた御輿(皇室)が完璧だし、尊王思想は江戸中期から徐々に浸透していったからね。幕末にはもうお膳立ては完了してた
その頃の天皇何してたんだ😱
似たようなチャンネルと違って、人名や用語の誤読が少ないのが何より好印象です
企業経営者の次男坊が大学院で研究職目指してたら跡継ぎの長男と親父が相次いで死んだからって
いきなり社長に担ぎ上げられて右も左もよくわからんし、最大の支社長は社長候補になれなかった恨みで反抗するし、
取締役たちはお飾り扱いしてくるし、社長室長や秘書たちも無私の忠誠を誓ってるってわけでもないし、
とにかく舐められんように強面の対応せんと家族経営崩壊してまうから気張るでぇ!
→→→解任(物理)されたんだが。
センゴク桶狭間戦記で織田信友が「臣を守らぬは主君にあらず!」って言ってたけども、この時代は自力救済の時代だから自分の身分を保証してくれない主君とか存在価値がないわけで、そりゃ締め付けすぎたら反動で返ってくるのは当然なんだよな
6:20 当時は鶏の卵や肉を食べる習慣はなく、今のように玉子焼きや鶏の唐揚げはなかった。
その後の江戸時代では卵は高級品。私の先祖の庄屋がとある事情で謹慎になった小藩の家老にオミアゲで送ってるw
本能寺の変より大規模かつ政治史的に大きな事件。
赤松討伐軍の動員が遅れたのは「誰が反幕府で動くかわからない」かららしいです。
赤松は本来、同調してくれる守護・タイメイを募っていたようです。が集まらず播磨に下向した、と。
最近見つけたけどこのチャンネルほんと面白い
14:12 主だった武士が逃げ出したにも関わず、周防の大内持世は、守護大名抑制政策をとる足利義教に領地を没収される等圧迫されていたが、それでも将軍を守るため戦って死んだ。死に際して逆賊赤松を討伐するよう遺言したので、大内氏にとって赤松氏は宿敵となった。
また、大内氏は日明貿易の利権をめぐって細川氏と対立していたので、応仁の乱では細川(と赤松)の陣営とは敵対することになる。
応仁の乱は一見、複雑なようで、〇〇と△△は対立という構図から見るとわかりやすい。
そうでしたか、、、ご先祖の軌跡をまたひとつ知る事が出来て嬉しいです。ありがとうございます。
ちなみに将軍を殺して没落した赤松家は、その後天皇を殺し三種の神器を奪還することで加賀半国の大名へと復帰。(長禄の変)
そしてこれを実行したのが後の黒田官兵衛の祖先という。
最近、日本史を学んでいて嘉吉の変で赤松家のことを知り
遠い親戚筋で繋がってる可能性があることで関心を持ちました。
今年のお盆にお墓に行き家紋を確認すると一致。
今の私の姓は違うのですがご先祖様が歴史的なことに関わってるかもと考えると胸が熱くなりますね
本当にわかりやすくて重宝してます!!!
義持「決めて…おったのだ……もう何十年も前から余は………何一つ決めてやるものかと…………」
銀河英雄伝説やんw
将軍の苦悩は下々には分からなかった
それだけか
その下々はどこに消えたのか知らないけど
義持は、父親の義満に何かしら含むところがあったという話もありますね…
@@TheHisshy 義光の次の代でそれでは、足利幕府が早期に崩壊したのもよくわかる。
首級が落ちる直前の義教…
『勝ち続けて…勝ち続けて…
最後になって負けるのか!
父上!俺はここまでしかこられない男だったのか!』
将軍の権威を強くしようとして最終的に暗殺され権威を失墜させるきっかけを作ってしまった形。
ビックモーターの副社長か
地味で人気の無い室町時代を分かりやすく解説してくれて、ありがたいです。
万人恐怖の籤引き将軍とか魔王将軍とか言われている義教ですが、そもそも四代将軍の義持が大元の元凶。五代目が早死にしたのは、大御所として君臨してて将軍なんて名ばかりで、何にもさせてもらえず、酒の呑みすぎで死んだんし。
かわいそうに5代将軍は十四代将軍と共に、足利家菩提寺の京都の等持院にある歴代将軍の木像が作られてもいません。わずか8ヶ月の将軍だった七代目さえあるのに....。
戦国以外の室町期は大学受験の頻出範囲とか
足利義量の死因は元服する前から呑んでた酒が祟ったとか....
間接的にお酒の飲みすぎで国が荒れた...とか お酒の影響力は古今東西恐るべきものである...
赤松が本性現して義教に襲い掛かるとき、部下は誰一人義教を助けるものはおらず我先にと逃げていった。結局力だけで抑えたら反動が必ずくるというもの。
赤松満祐邸宅跡地にはお寺が立ち、その名を本能寺といったそうな(実話)
赤松満祐の播磨で立て込もった城の名前、坂本と言うそうな(実話)
信長と光秀といろいろシンクロしてて怖い
信長より先に火つけられていたことにびっくり!むしろ、信長はこの人を真似したのかな?
そもそも義教は元坊主で権力基盤は余計に弱いから粛正による独裁をしなければ幕府を維持出来なかった。
将軍になったきっかけがくじ引きなんで、舐められまいと頑張り過ぎたんですかね…
それはあると思う
持氏さんが長男が元服するのに義教さんに報告して一字貰わないといかんのにやらなかったりとありましたからね。
色々言われとるが強い将軍様だったとも思う
あれ?
くじ引きって当時は神に選ばれしという神聖なものだった気がしますが、違うのですか?
一瞬下剋上の認識を改めるべきかとも思ったが赤松義祐が足利義教を討って幕府を
乗っ取り赤松幕府を開いた訳では無いからそれは違うかな、と。
義教の首塚は大阪の崇禅寺にあります。
暴君は暗君よりもたちが悪いと言う教訓でもあるな。
籤は「この人だけは絶対駄目」という意味だったのかも…👹💀😱
昔、小学館の日本の歴史でこの話を読んだとき、暴君だった足利義教が成敗されていたので、室町時代中期版本能寺の変のような印象を受けましたね。義持の息子が長生きしていたり、その前に義持の弟が義満に将軍にされていれば、こんな事件も起こらなかったのでしょうけど、本能寺の変と同様にこの事件も歴史の運命が紡いだものなのでしょうね。
井沢元彦「逆説の日本史」でも義教と信長のシンクロニシティを取り上げてましたね(リンカーン=ケネディの都市伝説的な)。殺ったのがどちらもA・Mというのはこじつけすぎだとも思いましたが。
@@泰英岡田赤松満祐・明智光秀 、イニシャルが同じだとか考えたことも無かったですね。その後程なくして討たれてしまうところも両者共通してますね。
やり過ぎたな。でもどこまでやるか、とことん見たかった将軍ではある
義持の死因って乾癬からの感染症かな?
高校時代、御家人が将軍を暗殺したり将軍の後継者を巡って戦を始めたりすることが理解出来なかった。
将軍ってもっと凄い権力者だと思ってたから。室町幕府の体制が脆弱だったということですね
貴殿の将軍のイメージは江戸幕府の将軍かなと思う。
家康公は脆弱な室町幕府を反面教師にし、徹底的に将軍、幕府権力を強化したから、結果として江戸幕府は最終盤まで大規模な内乱を起こすことが無かった。
独立出来た将軍は徳川家だけじゃないかな。事実、名だたる有力大名を軒並み倒して将軍になってるし。
春王丸、安王丸を処刑したり恐ろしい将軍様じゃ。。
まぁ、実際足利持氏の段階で二人を生かしてしまったことで結城合戦が起きてるので....
@@シャル-f4q
まぁ持氏さんも悪いちゃ悪いから。。
@@シャル-f4q もう一人の遺児の永寿王丸が大暴れ。
もちろん後の足利成氏。
本来矢面に立つ立場になる予定じゃなかったけどなってしまったからには結果で示さねば!というのは武田勝頼となんかダブる
土岐と一色にしたことが返ってきたのよな
この人、織田信長の前世か?ってくらい二人は色々似てる
肖像画からして似てるしね。
恐怖政治、天魔王、まさに似てる
最後も共に家臣の反逆により死亡…
自業自得・因果応報
よしのり、ゴーマンかましすぎ
くじ引きで将軍が決まったが、現在でも選挙で投票数が同一の場合はくじ引きで決まるそうです。
5代がいないみたいでかなしす
しかし人望が無いなこの人。死を喜ばれるのは、支配者の常だが、直ぐに仇をとろうとする者もなく葬儀も適当。本当に嫌われていたことがわかる
嫌われてたかもだが前代未聞の事態だからね。。
多少はね。。
将軍就任までの経緯的に忠実な手駒にも欠いてただろうから。
当時の守護大名や貴族、寺社勢力に嫌われたという事は良い政治家だったという事。義教がいなくなったら戦国時代になって、京都も焼け野原になってしまった。
みんな赤松の協力者が誰なのかわからないから疑心暗鬼になって静観してたんじゃないかな。2週間経ってようやく赤松の独断だとわかったとか?
なんてこった、パンナコッタ
僕の見解ですが、義教は征夷大将軍になってなければ少しは長く生きる事が出来たのでは…。あと暴君になることもなかった。
室町将軍として好き勝手やってる守護連中をなんとかしなきゃっていう目標は父親や兄より大分立派だったけどそれは過分なことだったね
結局室町将軍にできることは山城国周辺の治安維持程度なんよ😢
足利義教、やり過ぎが原因と思う
まあ、、舐められたらアカンという考えだし分からんでもないがやり過ぎとは思う。。
三國志の馬謖とかといっしょで、
参謀としては最高の人間かもしれなかったが
組織のトップに立つことには全く向いてなかったやつと思ってる
やっぱ完全な中央集権化に成功した明治維新って偉大だわ
担ぎ上げられた御輿(皇室)が完璧だし、尊王思想は江戸中期から徐々に浸透していったからね。幕末にはもうお膳立ては完了してた
その頃の天皇何してたんだ😱