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炎立つの村上さん演じる清衡は、非常に素晴らしかったですね。仇の家に囲われて、侮蔑され、それを無限に忍従し、ついには宿願を果たす…本当に素晴らしい物語でした。長年の人質生活で苦労した家康と話が合いそう♪
中尊寺金色堂はコロナ禍が始まる直前に見に行ってきましたが、圧倒されるほど見事でした。こちらのチャンネルは面白く分かり易いので、もっと伸びると思います。頑張って下さい、応援してます!
小学校の修学旅行のコースに平泉がありました。高校への通学路からは清原氏の居城の山が常に見えてました☺️
炎立つは萩原流行さんの怪演が印象的だった
自立しているように見えて奥州藤原氏は中央との関係の取り方も結構巧み。摂関家から院政という政権の交代が起こったのは清衡が戦っていた後三年の役只中の1086年。お蔭で摂関家の番犬であった義家は勝利したにもかかわらず奥州から手を引かされた。清衡はこの情勢を見てちゃっかり摂関家から白川院との関係を構築した。基衡は保元の乱の崇徳上皇側の首謀者であり奥州の利権に手を突っ込んでくる藤原頼長とは犬猿の仲。しかし保元の乱で後白河天皇についたため奥州藤原氏は安泰だった。秀衡は平清盛が政権をとる過程で西日本を地盤とする平氏との関係を良好に保っていた。お蔭で清盛の時代は奥州に手出しすることはなかった。泰衡の時代は東日本を地盤とする鎌倉幕府が成立したため鎌倉との激突は不可避だった。ならば義経や内部の粛清などせず外の脅威をてことして鎌倉の侵略に対抗するのがベストだったと思う。鎌倉が侵略してくるのなら奥州の人民もみんな結束したはず。結果論になるが腹のくくり方がちょっと足りなかった。
大河ドラマの炎立つでは原作小説では基衡の話がほとんど無かったからドラマでも全く無かった。
興味深く拝見させていただきました。平泉藤原氏は流言飛語をお家芸にしていたらしく、兄弟争いや継母とのレビラト婚はその風説の流布の可能性が高そうです。頼朝に屈したとされる泰衡ですが、義経の首を時間をかけて運び、鎌倉を翻弄しています。合戦も焦土やゲリラも無くすんなり負けながら敵を平泉に誘導するも、土地台帳を燃やすことでその統治を困難にする嫌がらせを発揮します。最期は自ら死を選んだと地元の伝承にはあり、その家臣は裏切ったことにして差し出したそうな。そうすることで泰衡は義経と共に鎌倉幕府認定の怨霊となって東北を護ろうとしたのではないかと見られます。悪名高い泰衡ですがその首桶には蓮の種が副えられていて、中尊寺ハスとして今も境内に咲き誇っています。なので義経を本当に暗殺したのか?泰衡は本当に暗君だったのか?想いを馳せるものです。
「炎立つ」(原作の方)ではかなり優れた人物として描かれていますね。ドラマは原作が間に合わず、ほとんどオリジナル脚本になっていましたが、原作通りのドラマもつくってほしいです。全編通して、原作とドラマの相違点を見ると、原作通りにすればよかったのに…と思うシーンばっかりです。
西行法師の勧める文治主義に、泰衡(渡辺謙)は触発された風にドラマでは描かれていました。西行(柳生博)に「貞観政要」の写本を譲ってもらって、世の中を武力ではなく、唐の貞観の治のように、「文化の力」で治めたいと泰衡は強く願うようになります。泰衡の最期は、北上する頼朝軍と戦いを避けて、平泉の美しい建築物を守り、一人で逃げて逃げて野垂れ死にしたのが印象的でした。
それはそれは見事な当時の栄華をその目で見ていただきたいもんだ。それにしてもこの平和をぶち壊した憎き頼朝、この恨みは忘れんぞ。イーハトーボたる理想郷はその時から確実にあったんだろうて。
藤原氏の力を得て義経が本気で鎌倉幕府に戦ったらどうなるか気になるな
面白いIFですね。奥州18万騎と俗にいいますけど、奥州軍は長き平和の上に胡座をかいてた武士たちで、片や鎌倉方は平家との連戦で磨き上げられた精鋭。いかに義経の軍事指揮能力が高かろうが、ナマクラの奥州軍兵士では精鋭の鎌倉方相手には厳しいかと。加えて鎌倉方には義経の手の内を知り尽くした梶原やら三浦、和田、畠山、佐々木といった連中も存在してるしね。あとは朝廷がどう絡むかが未知数だけど、奥州方が不利なのは間違いないと思います。
頼朝も義経が生きてる時は攻めなかった。義経が大軍を操ったら勝てない事は百も承知していたからでしよう。
頼朝もきっちりしっぺ返し食らっていて草
畿内から離れていたおかげで戦火を免れたけれど、そのために実戦を経験することが無く最後には頼朝率いる関東の軍勢に大敗して滅ぼされてしまった。だからといって、義仲と組んで平家を滅ぼしても領土は増えないし、平家と組んで源氏を滅ぼしても平泉から関東や北陸は遠すぎる。領土化したとしても、平泉からの命令が行き届かずに領土内で反乱を起こす武将が出てくるのは確実。中立を宣言して傍観せざる終えなかったのが正しいかと。
奇しくも奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府の御家人の中に、伊達政宗の先祖になる初代伊達朝宗(藤原朝宗)なる人物がいました。奥州藤原氏も伊達氏も先祖を辿ると同じ京都の藤原氏で藤原北家魚名に行き着く。藤原氏は、桓武平氏や清和源氏と並んで多くの軍事貴族を輩出した名門ですね。伊達政宗のライバルだった近江(滋賀県)の蒲生氏郷も藤原秀郷のを先祖に持つ。
藤原氏の元は中臣ですね
残念ながら金色堂は撮影不可だが、中尊寺はなかなか見事だったね。平泉駅からレンタルチャリで無量光院跡、義経の衣川館、毛越寺庭園、中尊寺の順で行くと効率良く回れる。あの鄙びた平泉の町並みが、昔は京の都や福原の都以上に栄えてただなんて、なんか凄いよね。
おっしゃる通りですよね
でも平泉町の民家が文化財との調和て規制があるのだろうけど美しい佇まいなんですよね。
私もレンタルチャリで周りました。平泉観光はチャリが最適ですね😊
奥州藤原氏の子孫は今はなんという名字で何をしてるんだろう、子孫の方、ご存知の方いらっしゃいませんか?
根絶やしじゃね?逃げた奴らは帰農でもしたんでね?
直系が絶えてるので、確実に現代まで繋がっていると言われてる子孫はいないらしい。全国に一応ルーツがあるとされる苗字はあるらしいが、史料に乏しい。
@@レオナルドルンパッパ『家』として滅んでいると血を継いでいても何百年の間に忘れ去られ、伝承のみとなって伝わってしまう。その不確かな情報に加えて自称『平泉藤原氏』の後裔を騙る者も現れては事実上、確認・立証する事は不可能ですからね。
男系女系を問わなければ、清衡の娘が常陸佐竹氏に嫁ぎ、その子孫が本家分家に分かれ、やがて秋田藩主になります。佐竹敬久秋田県知事は佐竹氏の分家ですが、遡れば奥州藤原氏にたどり着きます。
友人に子孫だという人がいます秋田です 友人は東京に住んでいますが、帰ると当主に必ず挨拶にいかなくちゃいけないって言っていました。
経清の処刑はかなり残酷だったようです。刃がこぼれた刀で鋸挽きによって斬首されました。
源頼朝の日本制覇に利用されてしまった奥州藤原氏。義経を最初から受け入れなかったら歴史自体が変わっていたかもな。
頼朝に従って戦い、領土を得た佐々木さんの子孫が多いのもこれですね
白河の関は元々蝦夷を中央に攻めこませない為に出来たのだが、皮肉にも中央政府が東北に3度攻め込むために通過された。
なるほどね。そういうことなら、炎立つで基衡を描けないわけですよね😅
衡の字があるのに…
源義家、義朝は下野守になったことがあるらしいですよ😮 栃木県県民としては驚きを隠せないですね😮
平泉藤原氏の始祖と言ってもいい藤原経清とその平泉藤原氏の滅亡のきっかけとなった源義経が揃って『経』の一字を使用してるのが面白い。また滅亡の当事者となった藤原泰衡と鎌倉幕府の事実上、最盛期を築いた北条泰時が共に『泰』の字を持っているのもまた興味深い。
炎立つの藤原経清の処刑は今でもちょっとトラウマ😢
光栄のゲームの源平合戦では秀衡が当主ですね。
先月平泉行ってきたぞ
ご視聴ありがとうございます!!羨ましい!!!私もいつか行ってみたいです( ・᷄-・᷅ )
私も行って参りました
奥州藤原氏と八幡太郎義家とは戦友だったから義経は匿われていたのでは頼朝が島抜けをしたとき藤原氏追悼の仏像を祈願の為寄贈したとか言われているけど
藤原秀衡は後継者争いを避けるため庶子の国衡と泰衡の母親でもある秀衡の本妻と再婚させることにしましたが、国衡と泰衡の対立は避けられませんでした。
藤原経清は、元々が中央の京都から派遣された役人(在庁官人)の子孫で土着しましたね。安倍氏も、藤原氏と同じように京都から派遣された在庁官人出身の家柄だったと言われていますね。前九年の役で処刑された藤原経清は、イングランドと戦ったスコットランド独立の英雄ウィリアム・ウォレストの日本版って感じですね。映画「ブレイブハート」は感動しましたね。
清原氏も同じような出自だと言われていますとなると奥羽の有力豪族はいずれも中央貴族の分家筋ということになりますね
@@MyForestStudio 様中央貴族の本家筋筆頭は、京都の藤原摂関家でしたね。分家は地方に下って自立独立しなさいって事かなぁ‼️🤗鎌倉御家人の中にも、藤原秀郷の流れを組む名門武家が多く有りますね。北条氏に滅ぼされた比企氏や、小山氏も藤原氏ですね。
10年そこらで南は九州北は東北まで暴れ回った鎌倉武士と範頼の強さ
もっと子孫がいてほしい!
反逆以上って、何に相当するのでしょうw
朝廷に対して、それ以上の罪ないですよね(笑)挙句、自分は…
中尊寺=瀬戸内寂聴尼が出家の寺院。
大河ドラマの炎立つでやってたぐらいか?
泰衡の首は昭和に調査されるまで何故か弟の忠衡の首と思われていました😮
源頼義と藤原清衡が先祖で清衡の父経清が頼義により処刑され、先祖の平将門が先祖の平貞盛と藤原秀衡に討伐されたりて先祖が先祖を倒すことが多いように思います。藤原清衡は男系祖先で無く先祖の佐竹隆義の母が藤原清衡の娘で有る事で繋がってます。先祖の常盤御前が一条家に嫁いだとは知ってましたが秀衡との繋がりは初めて知りました。常盤御前とは息子の阿野全成から繋がってます。又頼朝とは妹の坊門姫から繋がってます。近年家系を知る迄、歴史に全く興味は有りませんでしたが、先祖達を知るにつけ興味を持つようになりました。国立博物館の中尊寺展は息子と観に行く予定です。詳しい動画を、有難う御座います。😊
『清原』って苗字は関西に多いけど、元々は東北がルーツであり、この戦いで滅んだ清原一族が京を目指し関西に土着して行ったと聞いた事がある。
最近だと清原伽耶さんと言う大阪出身の女優さんが有名ですよね
@@s浩則 彼女は大阪出身なんですね⁉︎私は清原と言えば西武や巨人で活躍して番長と呼ばれた元野球選手が思い浮かびます(^ ^)後はカワサキZⅡの開発ライダーだった清原さんでしょうか。
狭い日本なんてその手の話しだしたらキリないよ。大谷翔平もこの辺(奥州市)の出身だけど大谷姓のルーツは島根の方らしいし母親は神奈川だからね。
前九年の役の敗戦後に四国・九州に流された安倍氏(安倍宗任)の後裔が、元総理の安倍晋三だという話もありませんからね(これは本人がそう言ってたとか)。これに限らず、流刑に処された結果変な場所に血筋が残っている例も結構あるのかもしれません。
安倍晋三氏は、奥州藤原氏が栄える前の奥州の覇者・安倍頼時(炎立つでは里見浩太朗が演じた)の三男・安倍宗任(川野太郎が演じた)の子孫らしいね。
武家が支配するようになった時は日本はいわゆる三国志のような状態でした。西国の平氏、東国の源氏、そして奥州藤原氏です。そのような構図だったので頼朝は義経と違って平氏を滅ぼすという考えはなかったと思います。あくまでも頼朝は東国の自治権があればそれで満足だったと思います。あくまで義経が平氏を倒したいという欲望があっただけで頼朝はそうではなかったと考えています。それが義経の活躍で平氏が滅んだことで三国のバランスが崩れました。ゆえに奥州藤原氏も滅ぶ運命になったのではないかと思います。
初めてのコメントですが動画中の「~んだけど」というフレーズの多さが気になってしまいました。その度に流れがリセットされてしまうというか、一時停止ボタンを押された感じというか。心折れそうな時に繰り返し読んだ小説『炎立つ』の舞台のため、違う解釈がすんなり入ってこないだけかなぁ…
2:57 安倍氏のその後ですが、安倍頼義の三男の宗任が厨川の戦い(前九年の役の最後の戦い)で降伏・捕縛された後、伊予(→筑前)に流され、その末裔が九州四国地方に散りました。そしてその末裔のひとりとされるのが、元総理の安倍晋三ですね(本人称)。山口のあたりだと確かに可能性はありますが、系譜がどうなっているのか知りたかったり。なお、たまに「阿部」と間違えられていた彼ですが、「前九年の役の安倍氏の後裔と称していた」と覚えればたぶん大丈夫でしょう。‥‥‥リアルでそう言ったら、「その方が難解な覚え方」というツッコミを貰ったのは内緒です。
約40年位振りに平泉を訪問しました。金色堂の美しさ壮麗さを堪能しました。大人でないと平泉の良さは解らないと思います。
ぜひ一度行ってみたいです(´•̥̥̥௰•̥̥̥`)
修羅のときでわ 陸奥一族と初代が約束を締結 陸奥の一族を保護し願いかなえる 代わりに奥州に危機あるとき 陸奥の合力を得る
ゆっくりしていってね~♪(代わりに言っといた)
私も以仁王様の令旨に従い、兄頼朝に助勢したいと思います。行かせてくださいませんか?『ならん!以仁王様の令旨などは、法皇様の院宣次第でたやすく覆る!いま、動いてはならん!法皇様をあなどってはならん!清盛入道を‥、甘くみてはならん!!』という高橋英樹さん演じる藤原秀衡の言葉が、やたらに印象に残っています。
奥州藤原氏の祖、藤原経清が平将門の乱で武功があった藤原秀郷の子孫なら、承久の乱で後鳥羽上皇に加勢した藤原秀康も子孫とあった。武士の藤原氏でも子孫はあちこちでいたのか。
秀郷の子孫の他に為憲の子孫が伊東他、利仁の子孫が加藤他で織田も本当は利仁の子孫。
歴史にタラレバはないですが、もし戦の天才義経が秀衡の慰留を受けていたらどうなっていただろうね。平家は滅びなかったかもしれないし、頼朝は征夷大将軍になれなかったかも。奥州が攻め込まれても義経が総大将になれば撃退できたかもしれない。などと空想。自分が東北出身だから奥州藤原氏にはつい肩入れしてしまいます。平泉今もいいところですよね。また行きたいです。
頭巾被ると途端に得体の知れない感じが出ますな。魔法使いもローブ被ってるしね。
出家していたからだ。
兵どもが夢のあとだね。
マンガ・奥州藤原4代はKindle Unlimitedで好評配信中です
泰衡が裏切らず、義経をリーダーにしてアイヌ民族も味方にして、頼朝の鎌倉幕府軍と戦って勝てば後白河法皇なども味方して頼朝を挟み打ちできるし
泰衡「父ちゃんもタヒんだし、ここは義経を討って頼朝に恩を売るんやで。義経、ゴルァ」泰衡「頼朝様、これでどないだすか」頼朝「ワレ何を勝手にワシの弟を56しとんねん」泰衡「えっ」頼朝「潰す」泰衡「嘘やろ。父ちゃ~ん、遺言無視してゴメン、グフッ」
鎌倉時代にもアベガーがいたとたわ
安倍元総理は実際安倍貞任の弟の安倍宗任の子孫。征夷大将軍 源頼義が山上
安倍・清原・藤原、源氏にちょっかいかけられて悉く滅ぶか
調子に乗った源氏も滅びてしまう(笑)
@@sugisinfkkただ源氏の血筋はその後も日本の表舞台に台頭してきたからな
@@ままかなか 源○○の形ではないが確かに。足利・新田・佐竹・武田…
きもひやす何故かこれだけ覚えてます
奥州藤原氏は滅ぼされてしまいましたが、奥州(東北)独立のへ志や悲願は後に同じ藤原氏を出自(藤原秀郷系では無いですが)とする伊達氏の伊達政宗によって引き継がれますが、ここでも中央政権の豊臣秀吉が立ちはだかる?泣現在の日本は、明治時代以来において首都東京の政府による中央集権体制を敷いているが地方分権(道州制や連邦制)に移行すべきだと思っています。アメリカ合衆国のように各州政府が独立行政を敷いて、独自の法律と独自の税制度を制定設定して自治運営行っている。日本も見習わないといけないけれども、東京中央政府の霞ヶ関官僚が許さないでしょうね?泣日本は政治体制では決して先進国では無いです。むしろ発展途上国です。
あっ😅それ言っちゃたら😂
@@s浩則 様おそらく、このような考え方思いに至ったのはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」と「炎立つ」の2作品影響受けたからでしょうね‼️🤗この2作品共に、ハリウッド俳優の渡辺謙氏が伊達政宗と藤原経清と藤原泰衡を演じられて感動感銘受けたからでしょうね‼️🤗中央政権(幕府や朝廷)に逆らって独自の地方政府樹立に挑戦したけれども成功しなかった?泣日本がアメリカ合衆国やフランスのように大統領制や共和制になって欲しいとは言わないけれども自分の生まれ育った故郷や仕事で転勤した町が国からの助成金に頼る事なく自立自給自足出来る時代が来て欲しいと願っているだけでする。綺麗ごとと言われるかも知れないですが?泣ウクライナがロシアから侵略しんこう
@@s浩則 様文章が途切れてしまいました。すいません。ウクライナがロシアから侵略侵行受けたのを見て余計に感じました。
「炎立つ」を思い出しますね。初代主役である経清役の渡辺謙さんが鈍刀によるのこぎり引きの刑で処刑されたのは強烈でしたね。頼義役の佐藤慶さんはいかにも悪役っぽく描かれてましたが、頼朝役の長塚京三さんはちょっと役不足だった気がしますね。結果的に奥州藤原氏は滅ぼされてしまいましたが、勝者となった源家も傀儡にされた末に三十数年後には滅亡してしまうのですから、盛者必衰ですね。
義家は腹黒い
昨年、中尊寺に行った時にコロナ過のせいか見学者が少ないために照明も少なくしていたのか、「煌びやかさ」が全くなくガッカリだった。
武力で負けたわけではない。そもそも奥州には統治思想がなく縁戚関係だけで成り立っていた。その結果、現地勢力が簡単に調略されてしまった。将門の乱も同じですね。
や鎌蛮
うちの先祖を悪く言わないで😂
藤原秀衡が好きです🎵源義経は、嫌い😭💔です🎵武田勝頼公と徳川慶喜公と武田信玄公が一番大好き💓♥️❤️です🎵 明智光秀公と後醍醐天皇と大久保利通と伊達政宗公も大好き💓♥️❤️です🎵源頼朝と松平容保と徳川家康と豊臣秀吉と足利尊氏と織田信長が一番大嫌い😭💔です🎵浜松城と青葉城と松本城と岡崎城と安土城と清州城が一番大好き💓♥️❤️です🎵
死んだはずだよ。お富さん。
まぁ砂金を掲げ続けさせたのは、わざとやろなぁ。
あら滅んでないと思いますけど…変だな?
めちゃくちゃ面白いだけに…平泉に世界遺産は相応しくないなあ。世界遺産でケチがついた。
なんで世界遺産だと駄目なの?
さあ問題です。この動画中に「だけど」は何百回でたでしょう?
あんな長期の大遠征してくる部隊なんか、途中で待ち伏せしてれば楽勝だったのに、わざわざ平泉まで引き入れたのがアホ。戦の経験がなさすぎ。
阿津賀志山を破られてます。
な
為になります。
概ね、間違いだと思います。前九年の役や後三年の役は虚構です。藤原基衡は陸奧国衙の役人で目(さかん)であったが、陸奧守藤原師綱に公田(国衙領)の押領を疑われ、部下が打ち首にされてた事が故事談等に記されている。則ちこの時代に陸奧国衙が存在し陸奧国は律令支配下にあった。しかし、貞観の大津波で苅田郡以北の律令支配は放棄されていた。従って、陸奧国衙の役人の居館が苅田以北の奥地に存在する道理がないのです。通説では陸奧国衙は多賀城とされていますが、多賀城は名取以南十四郡から遠く離れた栗原郡近くの城塞の一つであり、国衙(国府)ではありません。吾妻鏡文治五年八月の条に源頼朝が多賀国府に寄ったことが記されています。存在しない多賀国府を記すことから、東鑑文治五年の奥州征伐は虚構と考えるのが妥当です。当然、阿津賀志山の戦い、多賀国府、平泉藤原三代居館跡は虚構です。宝亀十一年の呰麻呂の乱に乗じて苅田逆賊も反乱をお起こし征東軍を阻止するため東越山(あずこしやま)砦そ築きました。言い遅れましたが、陸奧国衙は信夫郡にありました。苅田苅田逆賊は国府(所在地所在地地)を侵犯する構えを見せたため、征東軍は逆賊の侵犯を防ぐため築いた防禦施設遺構をあたかも藤原泰衡に俄に築いた堀と土塁と曲筆したのです。目視確認可能な遺構を示し、源頼朝の阿津賀志山戦い、多賀国府、平泉藤原三代居館跡の存在を印象付けしたのです。藤和基衡は国衙の役人目(さかん)、藤原秀衡も陸奧国衙の長官、陸奧守に任じられました。国衙の役人の居館は国衙から百町程の所にありました。藤原秀衡の居館は陸奧国信夫庄鳥和田村にあったのです。藤原秀衡の所帯跡に最初に置かれた地頭は工藤行政(二階堂行政)です。源義経が自害した衣川高舘は福島市飯坂町高舘です。摺上川は衣川と呼称されていたのです。飯坂町高館で義経が自害したため、彼の遺品は近くの医王寺に預けられたため現保存保存されているのです。 多賀城碑出土地を発掘調査しても該当時代の遺構が検出されないのは吾妻鏡文治五年八月の条が虚構の証拠です。当然多賀城碑は偽物です。神亀元年に大野東人は按察使に任じられ手居ません。虚偽が記されています。 平泉の舘は火が放たれ土ばかりが残ったと記されていますが、土台石が無い掘っ立て柱の建物であったなら、柱の地中部は燃えず、境界部は炭化し腐らず残存するはずです。 何れにせよ、虚構なので、いくら発掘しても、痕跡など存在しません。 陸奧国衙は鎌倉時代末期まで存続し、陸奧国司も継続的に補任されています。鎌倉時代末期の陸奧守は大仏貞直で、次に陸奧守に任じられたのは北畠顕家です。 奥州藤原氏を東北地方の覇者とする通説は誤りです。
長えよ全部存在してないとか虚構だとかそんな訳ないだろうがちゃんと文書や物理的な遺物等で全て本当にあった事が確認されているのだからお前がどう言おうと奥州藤原氏もその栄華を極めた平泉もあったんだよお前が言っている事など具体的な証拠などなにもないただの妄想だけだろうがいい加減なデタラメ吹いてるんじゃねえよ
さっぱり訳わからない❗
当時の北東北は蝦夷でしょう。アイヌの領土。アテルイ王が支配していた。出羽も陸奥も蝦夷。日本領土ではなかった。ぬたりがさく以北は蝦夷地。奥州藤原はアテルイの一族?
時代が違うよアテルイ達蝦夷の反乱軍を滅ぼしたのが坂上田村麻呂平安時代でも前期(西暦802年)前九年の役は、1051年で、240年以上経過しているその間に蝦夷は朝廷に従ってというか支配されて徐々に同化している
まてまて、何言ってんだ??阿弖流為は9世紀初頭の時代、奥州藤原の家祖清衡は11世紀半ば、250年も時代が違う、そして奥州藤原氏が阿弖流為の子孫??ジョークか?秀郷流藤原氏の出だぞ??せめてwikiで調べる位はした方いいだろ…読んでるだけで頭痛くなったわw
@@S_McQueen性格悪そう
ンガンガンガガガンガン👎🤷!
炎立つの村上さん演じる清衡は、非常に素晴らしかったですね。
仇の家に囲われて、侮蔑され、それを無限に忍従し、
ついには宿願を果たす…本当に素晴らしい物語でした。
長年の人質生活で苦労した家康と話が合いそう♪
中尊寺金色堂はコロナ禍が始まる直前に見に行ってきましたが、圧倒されるほど見事でした。
こちらのチャンネルは面白く分かり易いので、もっと伸びると思います。
頑張って下さい、応援してます!
小学校の修学旅行のコースに平泉がありました。高校への通学路からは清原氏の居城の山が常に見えてました☺️
炎立つは萩原流行さんの怪演が印象的だった
自立しているように見えて奥州藤原氏は中央との関係の取り方も結構巧み。摂関家から院政という政権の交代が起こったのは清衡が戦っていた後三年の役只中の1086年。お蔭で摂関家の番犬であった義家は勝利したにもかかわらず奥州から手を引かされた。清衡はこの情勢を見てちゃっかり摂関家から白川院との関係を構築した。基衡は保元の乱の崇徳上皇側の首謀者であり奥州の利権に手を突っ込んでくる藤原頼長とは犬猿の仲。しかし保元の乱で後白河天皇についたため奥州藤原氏は安泰だった。秀衡は平清盛が政権をとる過程で西日本を地盤とする平氏との関係を良好に保っていた。お蔭で清盛の時代は奥州に手出しすることはなかった。泰衡の時代は東日本を地盤とする鎌倉幕府が成立したため鎌倉との激突は不可避だった。ならば義経や内部の粛清などせず外の脅威をてことして鎌倉の侵略に対抗するのがベストだったと思う。鎌倉が侵略してくるのなら奥州の人民もみんな結束したはず。結果論になるが腹のくくり方がちょっと足りなかった。
大河ドラマの炎立つでは原作小説では基衡の話がほとんど無かったからドラマでも全く無かった。
興味深く拝見させていただきました。平泉藤原氏は流言飛語をお家芸にしていたらしく、兄弟争いや継母とのレビラト婚はその風説の流布の可能性が高そうです。頼朝に屈したとされる泰衡ですが、義経の首を時間をかけて運び、鎌倉を翻弄しています。合戦も焦土やゲリラも無くすんなり負けながら敵を平泉に誘導するも、土地台帳を燃やすことでその統治を困難にする嫌がらせを発揮します。最期は自ら死を選んだと地元の伝承にはあり、その家臣は裏切ったことにして差し出したそうな。そうすることで泰衡は義経と共に鎌倉幕府認定の怨霊となって東北を護ろうとしたのではないかと見られます。悪名高い泰衡ですがその首桶には蓮の種が副えられていて、中尊寺ハスとして今も境内に咲き誇っています。なので義経を本当に暗殺したのか?泰衡は本当に暗君だったのか?想いを馳せるものです。
「炎立つ」(原作の方)ではかなり優れた人物として描かれていますね。
ドラマは原作が間に合わず、ほとんどオリジナル脚本になっていましたが、原作通りのドラマもつくってほしいです。
全編通して、原作とドラマの相違点を見ると、原作通りにすればよかったのに…と思うシーンばっかりです。
西行法師の勧める文治主義に、泰衡(渡辺謙)は触発された風にドラマでは描かれていました。
西行(柳生博)に「貞観政要」の写本を譲ってもらって、
世の中を武力ではなく、唐の貞観の治のように、「文化の力」で治めたいと泰衡は強く願うようになります。
泰衡の最期は、北上する頼朝軍と戦いを避けて、平泉の美しい建築物を守り、一人で逃げて逃げて野垂れ死にしたのが印象的でした。
それはそれは見事な当時の栄華をその目で見ていただきたいもんだ。
それにしてもこの平和をぶち壊した憎き頼朝、この恨みは忘れんぞ。イーハトーボたる理想郷はその時から確実にあったんだろうて。
藤原氏の力を得て義経が本気で鎌倉幕府に戦ったらどうなるか気になるな
面白いIFですね。
奥州18万騎と俗にいいますけど、奥州軍は長き平和の上に胡座をかいてた武士たちで、片や鎌倉方は平家との連戦で磨き上げられた精鋭。いかに義経の軍事指揮能力が高かろうが、ナマクラの奥州軍兵士では精鋭の鎌倉方相手には厳しいかと。
加えて鎌倉方には義経の手の内を知り尽くした梶原やら三浦、和田、畠山、佐々木といった連中も存在してるしね。あとは朝廷がどう絡むかが未知数だけど、奥州方が不利なのは間違いないと思います。
頼朝も義経が生きてる時は攻めなかった。義経が大軍を操ったら勝てない事は百も承知していたからでしよう。
頼朝もきっちりしっぺ返し食らっていて草
畿内から離れていたおかげで戦火を免れたけれど、そのために実戦を経験することが無く最後には頼朝率いる関東の軍勢に大敗して滅ぼされてしまった。だからといって、義仲と組んで平家を滅ぼしても領土は増えないし、平家と組んで源氏を滅ぼしても平泉から関東や北陸は遠すぎる。領土化したとしても、平泉からの命令が行き届かずに領土内で反乱を起こす武将が出てくるのは確実。中立を宣言して傍観せざる終えなかったのが正しいかと。
奇しくも奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府の御家人の中に、伊達政宗の先祖になる初代伊達朝宗(藤原朝宗)なる人物がいました。
奥州藤原氏も伊達氏も先祖を辿ると同じ京都の藤原氏で藤原北家魚名に行き着く。
藤原氏は、桓武平氏や清和源氏と並んで多くの軍事貴族を輩出した名門ですね。
伊達政宗のライバルだった近江(滋賀県)の蒲生氏郷も藤原秀郷のを先祖に持つ。
藤原氏の元は中臣ですね
残念ながら金色堂は撮影不可だが、中尊寺はなかなか見事だったね。
平泉駅からレンタルチャリで無量光院跡、義経の衣川館、毛越寺庭園、中尊寺の順で行くと効率良く回れる。
あの鄙びた平泉の町並みが、昔は京の都や福原の都以上に栄えてただなんて、なんか凄いよね。
おっしゃる通りですよね
でも平泉町の民家が文化財との調和て規制があるのだろうけど美しい佇まいなんですよね。
私もレンタルチャリで周りました。平泉観光はチャリが最適ですね😊
奥州藤原氏の子孫は今はなんという名字で何をしてるんだろう、
子孫の方、ご存知の方いらっしゃいませんか?
根絶やしじゃね?
逃げた奴らは帰農でもしたんでね?
直系が絶えてるので、確実に現代まで繋がっていると言われてる子孫はいないらしい。全国に一応ルーツがあるとされる苗字はあるらしいが、史料に乏しい。
@@レオナルドルンパッパ
『家』として滅んでいると血を継いでいても何百年の間に忘れ去られ、伝承のみとなって伝わってしまう。
その不確かな情報に加えて自称『平泉藤原氏』の後裔を騙る者も現れては事実上、確認・立証する事は不可能ですからね。
男系女系を問わなければ、清衡の娘が常陸佐竹氏に嫁ぎ、その子孫が本家分家に分かれ、やがて秋田藩主になります。佐竹敬久秋田県知事は佐竹氏の分家ですが、遡れば奥州藤原氏にたどり着きます。
友人に子孫だという人がいます
秋田です 友人は東京に住んでいますが、帰ると当主に必ず挨拶にいかなくちゃいけないって言っていました。
経清の処刑はかなり残酷だったようです。
刃がこぼれた刀で鋸挽きによって斬首されました。
源頼朝の日本制覇に利用されてしまった奥州藤原氏。義経を最初から受け入れなかったら歴史自体が変わっていたかもな。
頼朝に従って戦い、領土を得た佐々木さんの子孫が多いのもこれですね
白河の関は元々蝦夷を中央に攻めこませない為に出来たのだが、皮肉にも中央政府が東北に3度攻め込むために通過された。
なるほどね。
そういうことなら、炎立つで基衡を描けないわけですよね😅
衡の字があるのに…
源義家、義朝は下野守になったことがあるらしいですよ😮 栃木県県民としては驚きを隠せないですね😮
平泉藤原氏の始祖と言ってもいい藤原経清とその平泉藤原氏の滅亡のきっかけとなった源義経が揃って『経』の一字を使用してるのが面白い。
また滅亡の当事者となった藤原泰衡と鎌倉幕府の事実上、最盛期を築いた北条泰時が共に『泰』の字を持っているのもまた興味深い。
炎立つの藤原経清の処刑は今でもちょっとトラウマ😢
光栄のゲームの源平合戦では秀衡が当主ですね。
先月平泉行ってきたぞ
ご視聴ありがとうございます!!
羨ましい!!!
私もいつか行ってみたいです( ・᷄-・᷅ )
私も行って参りました
奥州藤原氏と八幡太郎義家とは戦友だったから義経は匿われていたのでは
頼朝が島抜けをしたとき藤原氏追悼の仏像を祈願の為寄贈したとか言われているけど
藤原秀衡は後継者争いを避けるため庶子の国衡と泰衡の母親でもある秀衡の本妻と再婚させることにしましたが、国衡と泰衡の対立は避けられませんでした。
藤原経清は、元々が中央の京都から派遣された役人(在庁官人)の子孫で土着しましたね。
安倍氏も、藤原氏と同じように京都から派遣された在庁官人出身の家柄だったと言われていますね。
前九年の役で処刑された藤原経清は、イングランドと戦ったスコットランド独立の英雄ウィリアム・ウォレストの日本版って感じですね。
映画「ブレイブハート」は感動しましたね。
清原氏も同じような出自だと言われています
となると奥羽の有力豪族はいずれも中央貴族の分家筋ということになりますね
@@MyForestStudio 様
中央貴族の本家筋筆頭は、京都の藤原摂関家でしたね。
分家は地方に下って自立独立しなさいって事かなぁ‼️🤗
鎌倉御家人の中にも、藤原秀郷の流れを組む名門武家が多く有りますね。
北条氏に滅ぼされた比企氏や、小山氏も藤原氏ですね。
10年そこらで南は九州北は東北まで暴れ回った鎌倉武士と範頼の強さ
もっと子孫がいてほしい!
反逆以上って、何に相当するのでしょうw
朝廷に対して、それ以上の罪ないですよね(笑)
挙句、自分は…
中尊寺=瀬戸内寂聴尼が出家の寺院。
大河ドラマの炎立つでやってたぐらいか?
泰衡の首は昭和に調査されるまで何故か弟の忠衡の首と思われていました😮
源頼義と藤原清衡が先祖で清衡の父経清が頼義により処刑され、先祖の平将門が先祖の平貞盛と藤原秀衡に討伐されたりて先祖が先祖を倒すことが多いように思います。
藤原清衡は男系祖先で無く先祖の佐竹隆義の母が藤原清衡の娘で有る事で繋がってます。先祖の常盤御前が一条家に嫁いだとは知ってましたが秀衡との繋がりは初めて知りました。常盤御前とは息子の阿野全成から繋がってます。又頼朝とは妹の坊門姫から繋がってます。
近年家系を知る迄、歴史に全く興味は有りませんでしたが、先祖達を知るにつけ興味を持つようになりました。
国立博物館の中尊寺展は息子と観に行く予定です。
詳しい動画を、有難う御座います。😊
『清原』って苗字は関西に多いけど、元々は東北がルーツであり、この戦いで滅んだ清原一族が京を目指し関西に土着して行ったと聞いた事がある。
最近だと清原伽耶さんと言う大阪出身の女優さんが有名ですよね
@@s浩則
彼女は大阪出身なんですね⁉︎
私は清原と言えば西武や巨人で活躍して番長と呼ばれた元野球選手が思い浮かびます(^ ^)
後はカワサキZⅡの開発ライダーだった清原さんでしょうか。
狭い日本なんてその手の話しだしたらキリないよ。大谷翔平もこの辺(奥州市)の出身だけど大谷姓のルーツは島根の方らしいし母親は神奈川だからね。
前九年の役の敗戦後に四国・九州に流された安倍氏(安倍宗任)の後裔が、元総理の安倍晋三だという話もありませんからね(これは本人がそう言ってたとか)。
これに限らず、流刑に処された結果変な場所に血筋が残っている例も結構あるのかもしれません。
安倍晋三氏は、奥州藤原氏が栄える前の奥州の覇者・安倍頼時(炎立つでは里見浩太朗が演じた)の三男・安倍宗任(川野太郎が演じた)の子孫らしいね。
武家が支配するようになった時は日本はいわゆる三国志のような状態でした。
西国の平氏、東国の源氏、そして奥州藤原氏です。
そのような構図だったので頼朝は義経と違って平氏を滅ぼすという考えはなかったと思います。
あくまでも頼朝は東国の自治権があればそれで満足だったと思います。
あくまで義経が平氏を倒したいという欲望があっただけで頼朝はそうではなかったと考えています。
それが義経の活躍で平氏が滅んだことで三国のバランスが崩れました。
ゆえに奥州藤原氏も滅ぶ運命になったのではないかと思います。
初めてのコメントですが動画中の「~んだけど」というフレーズの多さが気になってしまいました。その度に流れがリセットされてしまうというか、一時停止ボタンを押された感じというか。
心折れそうな時に繰り返し読んだ小説『炎立つ』の舞台のため、違う解釈がすんなり入ってこないだけかなぁ…
2:57 安倍氏のその後ですが、安倍頼義の三男の宗任が厨川の戦い(前九年の役の最後の戦い)で降伏・捕縛された後、伊予(→筑前)に流され、その末裔が九州四国地方に散りました。
そしてその末裔のひとりとされるのが、元総理の安倍晋三ですね(本人称)。山口のあたりだと確かに可能性はありますが、系譜がどうなっているのか知りたかったり。
なお、たまに「阿部」と間違えられていた彼ですが、「前九年の役の安倍氏の後裔と称していた」と覚えればたぶん大丈夫でしょう。
‥‥‥リアルでそう言ったら、「その方が難解な覚え方」というツッコミを貰ったのは内緒です。
約40年位振りに平泉を訪問しました。金色堂の美しさ壮麗さを堪能しました。大人でないと平泉の良さは解らないと思います。
ぜひ一度行ってみたいです(´•̥̥̥௰•̥̥̥`)
修羅のときでわ 陸奥一族と初代が約束を締結 陸奥の一族を保護し願いかなえる 代わりに奥州に危機あるとき 陸奥の合力を得る
ゆっくりしていってね~♪
(代わりに言っといた)
私も以仁王様の令旨に従い、兄頼朝に助勢したいと思います。行かせてくださいませんか?
『ならん!
以仁王様の令旨などは、法皇様の院宣次第でたやすく覆る!
いま、動いてはならん!
法皇様をあなどってはならん!
清盛入道を‥、甘くみてはならん!!』
という高橋英樹さん演じる藤原秀衡の言葉が、やたらに印象に残っています。
奥州藤原氏の祖、藤原経清が平将門の乱で武功があった藤原秀郷の子孫なら、承久の乱で後鳥羽上皇に加勢した藤原秀康も子孫とあった。武士の藤原氏でも子孫はあちこちでいたのか。
秀郷の子孫の他に為憲の子孫が伊東他、利仁の子孫が加藤他で織田も本当は利仁の子孫。
歴史にタラレバはないですが、
もし戦の天才義経が秀衡の慰留を受けていたらどうなっていただろうね。
平家は滅びなかったかもしれないし、頼朝は征夷大将軍になれなかったかも。
奥州が攻め込まれても義経が総大将になれば撃退できたかもしれない。
などと空想。自分が東北出身だから奥州藤原氏にはつい肩入れしてしまいます。
平泉今もいいところですよね。また行きたいです。
頭巾被ると途端に得体の知れない感じが出ますな。
魔法使いもローブ被ってるしね。
出家していたからだ。
兵どもが夢のあとだね。
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泰衡が裏切らず、義経をリーダーにしてアイヌ民族も味方にして、頼朝の鎌倉幕府軍と戦って勝てば後白河法皇なども味方して頼朝を挟み打ちできるし
泰衡「父ちゃんもタヒんだし、ここは義経を討って頼朝に恩を売るんやで。義経、ゴルァ」
泰衡「頼朝様、これでどないだすか」
頼朝「ワレ何を勝手にワシの弟を56しとんねん」
泰衡「えっ」
頼朝「潰す」
泰衡「嘘やろ。父ちゃ~ん、遺言無視してゴメン、グフッ」
鎌倉時代にもアベガーがいたとたわ
安倍元総理は実際安倍貞任の弟の安倍宗任の子孫。
征夷大将軍 源頼義が山上
安倍・清原・藤原、源氏にちょっかいかけられて悉く滅ぶか
調子に乗った源氏も滅びてしまう(笑)
@@sugisinfkkただ源氏の血筋はその後も日本の表舞台に台頭してきたからな
@@ままかなか
源○○の形ではないが確かに。
足利・新田・佐竹・武田…
きもひやす
何故かこれだけ覚えてます
奥州藤原氏は滅ぼされてしまいましたが、奥州(東北)独立のへ志や悲願は後に同じ藤原氏を出自(藤原秀郷系では無いですが)とする伊達氏の伊達政宗によって引き継がれますが、ここでも中央政権の豊臣秀吉が立ちはだかる?泣
現在の日本は、明治時代以来において首都東京の政府による中央集権体制を敷いているが地方分権(道州制や連邦制)に移行すべきだと思っています。
アメリカ合衆国のように各州政府が独立行政を敷いて、独自の法律と独自の税制度を制定設定して自治運営行っている。
日本も見習わないといけないけれども、東京中央政府の霞ヶ関官僚が許さないでしょうね?泣
日本は政治体制では決して先進国では無いです。むしろ発展途上国です。
あっ😅それ言っちゃたら😂
@@s浩則 様
おそらく、このような考え方思いに至ったのはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」と「炎立つ」の2作品影響受けたからでしょうね‼️🤗
この2作品共に、ハリウッド俳優の渡辺謙氏が伊達政宗と藤原経清と藤原泰衡を演じられて感動感銘受けたからでしょうね‼️🤗
中央政権(幕府や朝廷)に逆らって独自の地方政府樹立に挑戦したけれども成功しなかった?泣
日本がアメリカ合衆国やフランスのように大統領制や共和制になって欲しいとは言わないけれども自分の生まれ育った故郷や仕事で転勤した町が国からの助成金に頼る事なく自立自給自足出来る時代が来て欲しいと願っているだけでする。
綺麗ごとと言われるかも知れないですが?泣
ウクライナがロシアから侵略しんこう
@@s浩則 様
文章が途切れてしまいました。すいません。
ウクライナがロシアから侵略侵行受けたのを見て余計に感じました。
「炎立つ」を思い出しますね。初代主役である経清役の渡辺謙さんが鈍刀によるのこぎり引きの刑で処刑されたのは強烈でしたね。頼義役の佐藤慶さんはいかにも悪役っぽく描かれてましたが、頼朝役の長塚京三さんはちょっと役不足だった気がしますね。結果的に奥州藤原氏は滅ぼされてしまいましたが、勝者となった源家も傀儡にされた末に三十数年後には滅亡してしまうのですから、盛者必衰ですね。
義家は腹黒い
昨年、中尊寺に行った時にコロナ過のせいか見学者が少ないために
照明も少なくしていたのか、「煌びやかさ」が全くなくガッカリだった。
武力で負けたわけではない。
そもそも奥州には統治思想がなく縁戚関係だけで成り立っていた。
その結果、現地勢力が簡単に調略されてしまった。
将門の乱も同じですね。
や鎌蛮
うちの先祖を悪く言わないで😂
藤原秀衡が好きです🎵
源義経は、嫌い😭💔です🎵
武田勝頼公と徳川慶喜公と武田信玄公が一番大好き💓♥️❤️です🎵
明智光秀公と後醍醐天皇と大久保利通と伊達政宗公も大好き💓♥️❤️です🎵
源頼朝と松平容保と徳川家康と豊臣秀吉と足利尊氏と織田信長が一番大嫌い😭💔です🎵
浜松城と青葉城と松本城と岡崎城と安土城と清州城が一番大好き💓♥️❤️です🎵
死んだはずだよ。お富さん。
まぁ砂金を掲げ続けさせたのは、わざとやろなぁ。
あら滅んでないと思いますけど…変だな?
めちゃくちゃ面白いだけに…平泉に世界遺産は相応しくないなあ。世界遺産でケチがついた。
なんで世界遺産だと駄目なの?
さあ問題です。
この動画中に「だけど」は何百回でたでしょう?
あんな長期の大遠征してくる部隊なんか、途中で待ち伏せしてれば楽勝だったのに、わざわざ平泉まで引き入れたのがアホ。戦の経験がなさすぎ。
阿津賀志山を破られてます。
な
為になります。
概ね、間違いだと思います。前九年の役や後三年の役は虚構です。
藤原基衡は陸奧国衙の役人で目(さかん)であったが、陸奧守藤原師綱に公田(国衙領)の押領を疑われ、部下が打ち首にされてた事が故事談等に記されている。
則ちこの時代に陸奧国衙が存在し陸奧国は律令支配下にあった。しかし、貞観の大津波で苅田郡以北の律令支配は放棄されていた。従って、陸奧国衙の役人の居館が苅田以北の奥地に存在する道理がないのです。通説では陸奧国衙は多賀城とされていますが、多賀城は名取以南十四郡から遠く離れた栗原郡近くの城塞の一つであり、国衙(国府)ではありません。
吾妻鏡文治五年八月の条に源頼朝が多賀国府に寄ったことが記されています。存在しない多賀国府を記すことから、東鑑文治五年の奥州征伐は虚構と考えるのが妥当です。
当然、阿津賀志山の戦い、多賀国府、平泉藤原三代居館跡は虚構です。宝亀十一年の呰麻呂の乱に乗じて苅田逆賊も反乱をお起こし征東軍を阻止するため東越山(あずこしやま)砦そ築きました。言い遅れましたが、陸奧国衙は信夫郡にありました。苅田苅田逆賊は国府(所在地所在地地)を侵犯する構えを見せたため、征東軍は逆賊の侵犯を防ぐため築いた防禦施設遺構をあたかも藤原泰衡に俄に築いた堀と土塁と曲筆したのです。目視確認可能な遺構を示し、源頼朝の阿津賀志山戦い、多賀国府、平泉藤原三代居館跡の存在を印象付けしたのです。
藤和基衡は国衙の役人目(さかん)、藤原秀衡も陸奧国衙の長官、陸奧守に任じられました。国衙の役人の居館は国衙から百町程の所にありました。藤原秀衡の居館は陸奧国信夫庄鳥和田村にあったのです。藤原秀衡の所帯跡に最初に置かれた地頭は工藤行政(二階堂行政)です。
源義経が自害した衣川高舘は福島市飯坂町高舘です。摺上川は衣川と呼称されていたのです。飯坂町高館で義経が自害したため、彼の遺品は近くの医王寺に預けられたため現保存保存されているのです。
多賀城碑出土地を発掘調査しても該当時代の遺構が検出されないのは吾妻鏡文治五年八月の条が虚構の証拠です。当然多賀城碑は偽物です。神亀元年に大野東人は按察使に任じられ手居ません。虚偽が記されています。
平泉の舘は火が放たれ土ばかりが残ったと記されていますが、土台石が無い掘っ立て柱の建物であったなら、柱の地中部は燃えず、境界部は炭化し腐らず残存するはずです。
何れにせよ、虚構なので、いくら発掘しても、痕跡など存在しません。
陸奧国衙は鎌倉時代末期まで存続し、陸奧国司も継続的に補任されています。鎌倉時代末期の陸奧守は大仏貞直で、次に陸奧守に任じられたのは北畠顕家です。
奥州藤原氏を東北地方の覇者とする通説は誤りです。
長えよ全部存在してないとか虚構だとかそんな訳ないだろうが
ちゃんと文書や物理的な遺物等で全て本当にあった事が確認されているのだから
お前がどう言おうと奥州藤原氏もその栄華を極めた平泉もあったんだよ
お前が言っている事など具体的な証拠などなにもないただの妄想だけだろうが
いい加減なデタラメ吹いてるんじゃねえよ
さっぱり訳わからない❗
当時の北東北は蝦夷でしょう。アイヌの領土。アテルイ王が支配していた。出羽も陸奥も蝦夷。日本領土ではなかった。ぬたりがさく以北は蝦夷地。奥州藤原はアテルイの一族?
時代が違うよ
アテルイ達蝦夷の反乱軍を滅ぼしたのが坂上田村麻呂
平安時代でも前期(西暦802年)
前九年の役は、1051年で、240年以上経過している
その間に蝦夷は朝廷に従ってというか支配されて徐々に同化している
まてまて、何言ってんだ??
阿弖流為は9世紀初頭の時代、
奥州藤原の家祖清衡は11世紀半ば、250年も時代が違う、
そして奥州藤原氏が阿弖流為の子孫??ジョークか?
秀郷流藤原氏の出だぞ??
せめてwikiで調べる位はした方いいだろ…
読んでるだけで頭痛くなったわw
@@S_McQueen性格悪そう
ンガンガンガガガンガン👎🤷!