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15:42 将棋風に言うと、形作りさえさせてもらえなかった義仲
粗暴だったから貴族に嫌われたと言うより、貴族に嫌われたから粗暴な人物として扱われたんかね
ここら辺、嫌いじゃないんだけど登場人物がむずいのよね改めて思うけど、この人ら皆んな親戚よね笑
木曽義仲や巴御前は江戸時代の錦絵に多く描かれていますね。『平家物語』で義仲は乱暴狼藉で悪く書かれていますが、錦絵で描かれている義仲や巴御前はまさに勇士ですね。
義経とぶつからずに状況見て、一旦自身の本拠地の木曽北陸に引いていれば、こういう結果にならなかっただろうなそれ以前に大姫と吉高との婚姻時も、逆に頼朝のバックアップに回る事を条件に、大姫の方を迎える形にして置けば吉高を殺されずに済んだこういう全体の状況判断が出来なかったのが滅んだ原因逆に頼朝はそういう状況判断の政治判断が凄かった後の世の家康の様に時節を待てるのも大事
義仲陣営には朝廷工作ができる人材がいなかった。これが頼朝との最大の違い。
みんな脳筋しか居なかったからね😅義経もそうだったけど…結局家来筋までが限界
頼朝の政治力距離の取り方が絶妙だった都の権威を否定はしないけど近づかない
別にいいんですよ破滅しても不忠の烙印を押されるよりは生きた心地しただろうし
このての話を系図をじっくり見せてくれないと、さっぱりわからない❗
源氏のお得意のお家芸・内ゲバ従兄の頼朝・範頼・義経に滅ぼされる
そしてその範頼・義経も兄の頼朝に滅ぼされる
@@ジョンスミス-d9z その頼朝(一族)もある意味自業自得な末路を迎えるから、ある意味良かったかも
父の世代からして兄弟で敵対して争う関係なんだから何の不思議もないw父の義賢は甥の悪源太義平に討たれるが、これにはさらに後日談があって、義賢の養子分になり、事実上為義が義賢に代わる嫡子と目していた頼賢(為義の四男)が仇を討とうと東国へ下ると、今度は義朝が朝廷から頼賢追討の院宣を受けて頼賢追討に向かうという…結局義朝と頼賢は戦う事は無くその場は収まったが、これで義朝と為義の関係は決定的な亀裂となり、保元の乱における「為義一党vs義朝」へと繋がる。
父や祖父、そのもっと前の代から骨肉の争いばっかりしてたのがこの一族😫
@@kazsteinkreis8570 分家(?)の足利や武田も同じようなことやってましたね同族争いは他も多少はあるけど、ここは特に酷い。平氏(not平家)のほうがマシ。
武将としては優れていたけど、都で渡り歩く教養が欠けていたのが致命的だった…皇位継承に介入しようとしたり云々当初は北陸の寺院を味方に付けていたんだけど、法住寺合戦で後白河側にいた天台座主を討ち取ってドン引きされて離反したこともあったとか
上洛後の織田信長は、義仲の失敗を反面教師にしてたりして。
皇位継承問題に介入したのが運の尽き。
確かにね…最近で言ったら平成の時に次の皇位継承者は今の天皇陛下ではなくていきなり高円宮殿下を皇太子にしようとするような感じで以仁王の息子の北陸宮を擁立させようとしましたしね…
しかし皇位継承に介入した、なら平家も北条家もやってるような
@@rKK-p1f 平家と北条家は皇位継承に介入できる正当性と権威があった。義仲にはない。
介入自体はあり得ても担いだ北陸宮が無理筋過ぎた親王とかを担いでたら行けたかもねえ
義仲が尾張あたりの産まれで母親が高貴な家柄だったら
田舎者が都の公家の扱い方を知らずに、上皇以上の権力を持ったと勘違いしたからかな。
うしおととら外伝で、木曽義仲と巴御前のエピソードがありましたね。星を掴み損ねたというか、もう気がついたらどうにもならない状況の中足掻くしかない。新撰組に通じるものがありますね。
頼朝はスターリンみたい。はっきりわかんだね
討って討たれて、最後にウハウハしたのが「北条」
木曽義仲の不運は軍事的才能はあったけど政治的才能が乏しかったことではないかと思います。平氏は一族がまとまる傾向だけど源氏は身内同士がつぶし合う傾向がある気がします。
大姫可哀そす
鎌倉殿の13人でそれがよく描かれてました…死後何年経っても義高のことが忘れられず、「あの世に行けば義高様に会える🥰」と生きる気力を無くし、そのまま逝ってしまった👼
@@江戸城の正成像大泉洋
長野県歌『信濃の国』の歌詞に「旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 象山佐久間先生も 春台太宰先生も」があります。
最後の歌詞は「国は偉人のある習い♪~」。
地元に倶利伽羅峠があるので、地元の自治体は義仲と巴御前と何故か火牛ゆるキャラを作って木曽義仲を主役にした大河ドラマを実現しようと猛アピールしているのですが正直、無理だと思う・・・挙兵して京都から平氏を追い出したまでは良かったですがその後は、平家追討で大敗し仕舞には、同族に討たれる訳ですがこれは1年間の大河ドラマでやるには、内容が少なすぎると思う訳ですまあ、それ以前に悲劇の英雄である義経は、ストーリー的にも良いですが果たして義仲はどうなのかと・・・
荒武者のイメージだったけど「鎌倉殿の13人」見てからは誇り高い武人のイメージなった。
朝日将軍の朝日って倶利伽羅の地名だった様な…
地獄谷wこの動画をみる少し前にニホンザルが地獄谷の温泉に遣ってる話を見たばかりだw
親の代から抹殺される運命だったんだよ大人しく木曽谷で生きていたら良かったのに
この人と逃げ若君は本当長野で地方権威として暮らしてたら良かったと思いますね。庇護者は地元の名家ですし。
しかし、それなりに実力はあるから、周囲が勝手に担ぎ上げるやろな。本人の意思にかかわらず・・・
木曽がクソに聞こえて堪えきれなかった
めちゃくちゃ暴言吐きながらの人物紹介!!w
『鎌倉殿』のキャストとスタッフでスピンオフを作って欲しいコロナもおさまったし合戦シーンも存分に
北陸から出るべきではなったな〜
義仲は三国志の董卓と共通点が多い。地方から上洛して権力を握ったが配下に中央とのコネがあるのがいなく栄華も短期間で終わった。
蔡邕が居たよ朝廷のパイプ残念ながら王允に殺された
越前あたりで軍を止め、北陸地方の地盤を固めて様子見するべきだったのかなぁ...。勢いにまかせて西に進まなかった慎重な頼朝との差が出たような気がする。
自分は鎌倉にいて異母弟2人を派遣したし
@@sugisinfkk 恐らく坂東武士で和田義盛辺りが同じような事をしでかさないか心配だったと思うし皇室とべったりしたら録な事にならないって解ったからでは…
この動画を見た感じだと、短期的な合戦の戦術には優れていたけど、兵糧の確保などを含めた長期的な戦略や、世渡り的な政略的な能力はなかったのかな。頼朝は戦略や政略的な能力についてはしっかりしていた印象だし。
「主上にやならまし、法皇にやなるべき。法皇にならうと思へども、法師にならんもをかしかるべし。主上にならうと思へども、童にならんもしかるべからず」(「平家物語」巻八『法住寺合戦の事』)・・・あーあ、とうとう言っちゃあならんことを。知い~~らない(嘆息)。
長野県木曽郡日義村(現・木曽郡木曽町日義)朝日将軍義仲が名前の由来
武力100政治20みたいな能力値だったから。日本版、呂布といえばわかりやすい。
呂布なら、行家を助けないしwww鎌倉軍では、呂布は、倒せない⁉️
鎌倉軍って、大軍の上に、義経がいたでしょ?いくら義仲が強くても勝てるわけないやん😂
ずるい人間しか登場しない
源氏定番の同族抗争と朝廷の策略に翻弄された生涯だったと言う可き哉。
俺の先祖の可能性高い人だから悲しい
今井兼平の兄樋口兼光は直江兼続の祖先
ちなみに海野も真田の本家筋の先祖
10:32そもそも義仲軍自体が乱暴狼藉の限りを尽くしていたので、他の軍勢の非行の取り締まりなんか出来る訳もなかった
まあ、飢饉の最中だから多少はね?
まぁ、都を守る警察が実は強盗団の親玉だったって感じ?
当時京都に居た法然(浄土宗の開祖、浄土真宗の開祖である親鸞の師)は毎日欠かさず長時間の念仏修行をしていたのですが、義仲軍の狼藉が余りに酷く京都が騒乱状態に陥った為に落ち着いて修行が出来なくなり京都から退避せざるを得ない程だったと言われています
残念ながら、はっきり言って「田舎の山賊が、きらびやかな都の様々な文物に目がくらんで盛大に“ヒャッハー!”してしまった」という、情状酌量の余地が余り無い有り様だった様です…
当時は占領後の略奪行為は当然の権利だったらしいでも飢饉の最中、しかも都でやったのがまずかったどうも義仲と董卓のイメージが被ることがしばしばある
身内の内紛は源氏の伝統ですが、平氏よりも頼朝の方が怨敵だったので平氏と組んで頼朝を攻撃する選択肢もあったはず。平氏以上に同族の源氏の方が信用できないという認識がなかったのか。
父の義賢をその兄で頼朝父の義朝に討たれてるわけですから
火牛の計は春秋戦国時代の田単のパクリだろうね。
園城寺 おんじょうじ
ん~⁉️ 木曽義仲って言うと…。【落馬して、田んぼに顔を突っ込んだ状態で】タヒ亡したオッサンだっけ⁉️😁
肖像画で珍しく笑ってる
ざっくりだとバカの典型に思えるこんなやり方で誰が従う?簒奪では人心はついてこない
あららららら、鬱陶しい
15:42 将棋風に言うと、形作りさえさせてもらえなかった義仲
粗暴だったから貴族に嫌われたと言うより、貴族に嫌われたから粗暴な人物として扱われたんかね
ここら辺、嫌いじゃないんだけど
登場人物がむずいのよね
改めて思うけど、この人ら皆んな親戚よね笑
木曽義仲や巴御前は江戸時代の錦絵に多く描かれていますね。『平家物語』で義仲は乱暴狼藉で悪く書かれていますが、錦絵で描かれている義仲や巴御前はまさに勇士ですね。
義経とぶつからずに状況見て、一旦自身の本拠地の木曽北陸に引いていれば、こういう結果にならなかっただろうな
それ以前に大姫と吉高との婚姻時も、逆に頼朝のバックアップに回る事を条件に、大姫の方を迎える形にして置けば吉高を殺されずに済んだ
こういう全体の状況判断が出来なかったのが滅んだ原因
逆に頼朝はそういう状況判断の政治判断が凄かった
後の世の家康の様に時節を待てるのも大事
義仲陣営には朝廷工作ができる人材がいなかった。これが頼朝との最大の違い。
みんな脳筋しか居なかったからね😅義経もそうだったけど…結局家来筋までが限界
頼朝の政治力
距離の取り方が絶妙だった
都の権威を否定はしないけど近づかない
別にいいんですよ
破滅しても
不忠の烙印を押されるよりは生きた心地しただろうし
このての話を系図をじっくり見せてくれないと、さっぱりわからない❗
源氏のお得意のお家芸・内ゲバ
従兄の頼朝・範頼・義経に滅ぼされる
そしてその範頼・義経も兄の頼朝に滅ぼされる
@@ジョンスミス-d9z その頼朝(一族)もある意味自業自得な末路を迎えるから、ある意味良かったかも
父の世代からして兄弟で敵対して争う関係なんだから何の不思議もないw
父の義賢は甥の悪源太義平に討たれるが、これにはさらに後日談があって、
義賢の養子分になり、事実上為義が義賢に代わる嫡子と目していた頼賢(為義の四男)が
仇を討とうと東国へ下ると、今度は義朝が朝廷から頼賢追討の院宣を受けて
頼賢追討に向かうという…
結局義朝と頼賢は戦う事は無くその場は収まったが、これで義朝と為義の関係は
決定的な亀裂となり、保元の乱における「為義一党vs義朝」へと繋がる。
父や祖父、そのもっと前の代から骨肉の争いばっかりしてたのがこの一族😫
@@kazsteinkreis8570
分家(?)の足利や武田も同じようなことやってましたね
同族争いは他も多少はあるけど、ここは特に酷い。平氏(not平家)のほうがマシ。
武将としては優れていたけど、都で渡り歩く教養が欠けていたのが致命的だった…
皇位継承に介入しようとしたり云々
当初は北陸の寺院を味方に付けていたんだけど、法住寺合戦で後白河側にいた天台座主を討ち取ってドン引きされて離反したこともあったとか
上洛後の織田信長は、義仲の失敗を反面教師にしてたりして。
皇位継承問題に介入したのが運の尽き。
確かにね…最近で言ったら平成の時に次の皇位継承者は今の天皇陛下ではなくていきなり高円宮殿下を皇太子にしようとするような感じで以仁王の息子の北陸宮を擁立させようとしましたしね…
しかし皇位継承に介入した、なら平家も北条家もやってるような
@@rKK-p1f 平家と北条家は皇位継承に介入できる正当性と権威があった。義仲にはない。
介入自体はあり得ても担いだ北陸宮が無理筋過ぎた親王とかを担いでたら行けたかもねえ
義仲が尾張あたりの産まれで母親が高貴な家柄だったら
田舎者が都の公家の扱い方を知らずに、上皇以上の権力を持ったと勘違いしたからかな。
うしおととら外伝で、木曽義仲と巴御前のエピソードがありましたね。
星を掴み損ねたというか、もう気がついたらどうにもならない状況の中足掻くしかない。新撰組に通じるものがありますね。
頼朝はスターリンみたい。
はっきりわかんだね
討って討たれて、最後にウハウハしたのが「北条」
木曽義仲の不運は軍事的才能はあったけど政治的才能が乏しかったことではないかと思います。
平氏は一族がまとまる傾向だけど源氏は身内同士がつぶし合う傾向がある気がします。
大姫可哀そす
鎌倉殿の13人でそれがよく描かれてました…
死後何年経っても義高のことが忘れられず、「あの世に行けば義高様に会える🥰」と生きる気力を無くし、そのまま逝ってしまった👼
@@江戸城の正成像
大泉洋
長野県歌『信濃の国』の歌詞に「旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 象山佐久間先生も 春台太宰先生も」があります。
最後の歌詞は「国は偉人のある習い♪~」。
地元に倶利伽羅峠があるので、地元の自治体は義仲と巴御前と何故か火牛ゆるキャラを作って
木曽義仲を主役にした大河ドラマを実現しようと猛アピールしているのですが
正直、無理だと思う・・・
挙兵して京都から平氏を追い出したまでは良かったですが
その後は、平家追討で大敗し仕舞には、同族に討たれる訳ですが
これは1年間の大河ドラマでやるには、内容が少なすぎると思う訳です
まあ、それ以前に悲劇の英雄である義経は、ストーリー的にも良いですが
果たして義仲はどうなのかと・・・
荒武者のイメージだったけど「鎌倉殿の13人」見てからは誇り高い武人のイメージなった。
朝日将軍の朝日って倶利伽羅の地名だった様な…
地獄谷wこの動画をみる少し前にニホンザルが地獄谷の温泉に遣ってる話を見たばかりだw
親の代から抹殺される運命だったんだよ
大人しく木曽谷で生きていたら良かったのに
この人と逃げ若君は本当長野で
地方権威として暮らしてたら
良かったと思いますね。庇護者は
地元の名家ですし。
しかし、それなりに実力はあるから、周囲が勝手に担ぎ上げるやろな。
本人の意思にかかわらず・・・
木曽がクソに聞こえて堪えきれなかった
めちゃくちゃ暴言吐きながらの人物紹介!!w
『鎌倉殿』のキャストとスタッフでスピンオフを作って欲しい
コロナもおさまったし合戦シーンも存分に
北陸から出るべきではなったな〜
義仲は三国志の董卓と共通点が多い。地方から上洛して権力を握ったが配下に中央とのコネがあるのがいなく栄華も短期間で終わった。
蔡邕が居たよ朝廷のパイプ
残念ながら王允に殺された
越前あたりで軍を止め、北陸地方の地盤を固めて様子見するべきだったのかなぁ...。
勢いにまかせて西に進まなかった慎重な頼朝との差が出たような気がする。
自分は鎌倉にいて異母弟2人を派遣したし
@@sugisinfkk 恐らく坂東武士で和田義盛辺りが同じような事をしでかさないか心配だったと思うし皇室とべったりしたら録な事にならないって解ったからでは…
この動画を見た感じだと、短期的な合戦の戦術には優れていたけど、兵糧の確保などを含めた長期的な戦略や、世渡り的な政略的な能力はなかったのかな。頼朝は戦略や政略的な能力についてはしっかりしていた印象だし。
「主上にやならまし、法皇にやなるべき。法皇にならうと思へども、法師にならんもをかしかるべし。主上にならうと思へども、童にならんもしかるべからず」(「平家物語」巻八『法住寺合戦の事』)・・・あーあ、とうとう言っちゃあならんことを。知い~~らない(嘆息)。
長野県木曽郡日義村
(現・木曽郡木曽町日義)
朝日将軍義仲が名前の由来
武力100
政治20
みたいな能力値だったから。
日本版、呂布といえばわかりやすい。
呂布なら、行家を助けないしwww
鎌倉軍では、呂布は、倒せない⁉️
鎌倉軍って、大軍の上に、義経がいたでしょ?
いくら義仲が強くても勝てるわけないやん😂
ずるい人間しか登場しない
源氏定番の同族抗争と朝廷の策略に翻弄された生涯だったと言う可き哉。
俺の先祖の可能性高い人だから悲しい
今井兼平の兄樋口兼光は直江兼続の祖先
ちなみに海野も真田の本家筋の先祖
10:32
そもそも義仲軍自体が乱暴狼藉の限りを尽くしていたので、他の軍勢の非行の取り締まりなんか出来る訳もなかった
まあ、飢饉の最中だから多少はね?
まぁ、都を守る警察が実は強盗団の親玉だったって感じ?
当時京都に居た法然(浄土宗の開祖、浄土真宗の開祖である親鸞の師)は毎日欠かさず長時間の念仏修行をしていたのですが、義仲軍の狼藉が余りに酷く京都が騒乱状態に陥った為に落ち着いて修行が出来なくなり京都から退避せざるを得ない程だったと言われています
残念ながら、はっきり言って「田舎の山賊が、きらびやかな都の様々な文物に目がくらんで盛大に“ヒャッハー!”してしまった」という、情状酌量の余地が余り無い有り様だった様です…
当時は占領後の略奪行為は当然の権利だったらしい
でも飢饉の最中、しかも都でやったのがまずかった
どうも義仲と董卓のイメージが被ることがしばしばある
身内の内紛は源氏の伝統ですが、平氏よりも頼朝の方が怨敵だったので平氏と組んで頼朝を攻撃する選択肢もあったはず。
平氏以上に同族の源氏の方が信用できないという認識がなかったのか。
父の義賢をその兄で頼朝父の義朝に討たれてるわけですから
火牛の計は春秋戦国時代の田単のパクリだろうね。
園城寺 おんじょうじ
ん~⁉️ 木曽義仲って言うと…。
【落馬して、田んぼに顔を突っ込んだ状態で】タヒ亡したオッサンだっけ⁉️😁
肖像画で珍しく笑ってる
ざっくりだとバカの典型に思える
こんなやり方で誰が従う?
簒奪では人心はついてこない
あららららら、鬱陶しい