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非常によく出来ていて素晴らしい動画でした。老婆心ながら、志保の戦いは違う場所です。動画で使用されてるのは篠原の戦いかと思います。
今見直したら確かに勘違いを引き起こす可能性のある解説でしたご指摘ありがとうございますすぐに注釈つけておきますすごく助かりますのでまたお気づきの点などありましたら教えてください!志保から撤退してきた後の戦いを描いたつもりでしたのでご指摘の通り動画内で扱っているのは篠原の戦いで間違いありません
RUclips高校 迅速なご対応ありがとうございます。あとこれは断定できないので明らかな間違いではないですし、これは自分が絶対に正しいとも言えないのですが、度々出てくる義仲の家紋にちょっと違和感がありました。おそらく九曜紋は戦国時代の木曽氏が家紋として用いていたので、この木曽氏が義仲の子孫を名乗っていることから使用されたのかなと。あと頼朝と区別したいという意図もあったような感じですかね。ただ一般的にこの木曽氏は藤姓木曽氏と言われてるだけにちょっと違和感がって感じでした。これは飽くまで個人の考えによるものなので気にしないでください^ ^;
こちらの意図するところまで考えていただきありがたいです家紋に関しては知らない情報だったので勉強になりました面白い話をありがとうございます!
RUclips高校 いえいえ、こちらはあまりメディアに取り上げてもらえない義仲を動画でピックアップして頂いてるので感謝したいくらいです✨引き続き動画作成、頑張ってください^ ^
ここで斎藤実盛のことがめっちゃ好きになった覚えがある
白髪を黒に染めて、出陣したんですよね義仲に情をかけられないために・・・・義仲は、白髪の武将は、絶対に殺すな生け捕りにしろと厳命しましたからね
@@呉志 それは違います
@@惟神-f2s はて⁉️人形劇平家物語は、そう言っていたよな⁉️
@@呉志 いえ、私が聞いたところによると、斎藤実盛は源氏方の生まれでありながら平家に仕えていた武士であり、平家側にも関わらず、義賢の息子を木曽の地へ逃して来たとのこと。その際に、実盛は平家側に着く身なので自分に恩義を感じる必要はない。元服したら、いずれ私を討ちにこい。手合わせ致す。と伝えたようです。その際に、見た目も変わっているだろうから髭と髪を炭で黒く染め、今と同じ見た目でおろうと。そう伝えたそうです。しかし、決闘の際実盛は名を名乗りませんでした。それは木曽方に自分の恩を感じさせずに真剣勝負をさせるような配慮だったのでしょう。実盛と戦った木曽の武士は歳を増しているであろう実盛が若々しい姿で現れ、あの実盛だと首を洗うまで気づかなかったと聞いております。何が正しいかは私は知りませんが笑
ちなみに出典ですが歌舞伎のSANEMORIです
頼朝兄弟と義仲の関係が分かりやすく説明してあったのがよかったです。
始めの家系図がわかりやすく工夫されていてすごい。最後まで観ました。大河ドラマと一緒に勉強になりました。
短く端的に説明されており、裏話よりまずは基本の流れが知りたい私にとっては、こちらのサイトが一番分かりやすいです。ありがとうございます。
今までチンプンカンプンだった「○○源氏」が一瞬で解決しました。ありがとうございます!
えらく複雑ですからわかりにくいですよね時代が進めば源氏の血筋じゃないのに源氏を自称する人物まで出てきて更に複雑になる印象です
義仲好きだなぁ
非常に分かりやすい解説です。これまでの疑問が全て氷解しました。
倶利伽羅峠は、家から近いので、行ってみようと思いました!
暫く前に道の駅「俱利伽羅塾」で宿泊し「火牛の計」も見ていたので興味を持って拝見しました。安くて良い宿でした、歴史の舞台を訪ねてみるのも良いですねコロナが治まればもっとウロウロしたいと思います。
義仲の出生が分かってスッキリしました。我が町の倶利伽羅の話が詳しく聞けて良かったです。
木曽義仲は名前を聞いたことがある程度でしたが、何時代で何をしたどんなルーツを持つ人物なのかイメージできるようになりました!最近仕事で遠隔視聴用の映像を作ったのですが、元々喋りが苦手でナレーションを何度も噛み録音に苦労しました。これだけ難しい解説をさらっとやってのけるRUclips高校さんの凄さを思い知りました。
今回出てきた木曾義仲と巴御前は名前は聞いたことあるけど何した人かわからない歴史上の人物代表格ですよね笑僕も録音の時は何度か撮り直して編集でなんとかしてるだけですよーまだまだ聞き取りづらいところがありますのでこれからも頑張っていきます
スキーをしに木曽に行きますが所々に巴御前、木曾義仲の名所があります。今度寄ってみようかな。
家系で読み解くと馬の血統を見ているようで過去が未来によって再評価されるようで面白いですね
今日見つけたけどとても分かりやすいです!コ○ナの影響で授業が無いので助かります
見つけていただきありがとうございます!一緒に勉強好きになっていきましょー!
素晴らしい❤️
【中国の戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。】後に北条早雲も小田原城を奪うのにも使われてますね。
初コメです!とてもわかりやすいので、蒙古襲来絵巻について解説してほしいです!
こんにちは!実は蒙古襲来絵図についてはずっと楽しみにしている解説でしてすでに絵図に出てくる現地の映像撮影済みです笑時代順に進めているのでもうすぐ鎌倉時代に入りますからもう少しお待ち下さい!
斎藤実盛のとこ泣きそうになった🥲
「地の利」を活かす戦いはかなり有利ですね!
倶利伽羅峠の戦い20200617東大王で出題されましたね
おおー 見ていませんが出題されていたんですね
木曽義仲カッコいいですよね! 源氏と平家の間に天下をとった男ですよね。巴御前との恋愛もいいエピソードですよね。 彼を大河ドラマの主役にしようという動きが彼のゆかりの地で活発に行われているらしいですが、父が「彼は活躍した時期が短すぎたから無理じゃね?」って言いました。 ウェ~~~~~~~ン😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭‼️‼️ビャァ~~~~~~ン😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭‼️‼️ コンチキショ~~~~~~💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢❕❕
お父さん毎度の如く的確ですね笑木曾義仲となると真っ直ぐで猪突猛進な主人公になるだろうから子供にも人気が出そうだなと思います
@@Y_Eschool 僕、精神年齢4歳でちゅ❤️
@@ptgj224 津幡町(石川県)か小矢部市(富山県)
義経に匹敵する戦略家なのに人気がないのは、京に入った時に部下の略奪を止めなかったことですか頼朝との関係が良くなかったのなら、平氏と和睦して頼朝に対抗するという手もあったのですが、実現していたら頼朝が鎌倉幕府を開く時期もかなり遅れていたでしょう
中原兼遠の子供は3人でなく、5~6人いて、長女が義仲と結婚し、巴はなんとなく次の奥さんに収まった…という感じです。ただ資料がさまざまで、諸説あることはあります。
富山の人間なので義仲は親近感ある武将むしろもっと知名度高いと思ってたけどそうじゃない事を知ったのがちょっとショック
手塚光盛と斎藤実盛の一騎討ちは見事だったとか。斎藤実盛の像は白髪を染めてるとこだと思う。鎌倉武士はお洒落です。ちなみに水鳥の羽音で平家が総崩れしたのは斎藤実盛が東国武者の怖さを吹き込んだからだとか?手塚光盛の兄さんは流鏑馬の名手で鎌倉で処刑されそうになった時、その神業で赦免されたそうです。
いま、冨士川の合戦見ました。ちゃんと東国武者の怖さを吹き込んだシーンがありましたね(笑)
木曽義仲が源義経と同じくらい戦上手なんて初めて聞きました!平家を都落ちさせた?木曽義仲が日本をまとめて欲しかったなーと思いました!
義経と同じくらいってのは僕の個人的な意見ではありますが戦上手だったのは確実でしょう殆どの戦を少ない軍勢で挑み勝利していっているんですからね!とはいえ義仲は木曾という山奥で育ったこともあり京の人々と感覚にズレがあるのも不安です次の動画ではそんなちょっとズレた義仲が京に入りますのでそういった視点でもお楽しみください!笑
@@Y_Eschool 楽しみにしております!>
木曽義仲は呂布と同じイメージです。もし、優れた家臣がいたとしても、肝腎の義仲に苦言に耳を貸さないのが
人形劇の方は、話が分かりそうだったがな(笑)
頼朝の世となった故に木曽義仲は歴史的に良いイメージでは残されなかった。この様な例は数多くある。しかし近年は、秀吉へのマイナス評価が増えたり、明智光秀、石田三成、吉良上野介などの評価がプラスになる等の傾向もあり公平性が強くなってきてはいますね。
義仲すきやわー!!!
昔、八坂の五重塔の下に朝日将軍の碑が建ってた記憶があります。今もあるのかな?
1183年 倶利伽羅峠の戦い行き場(1)無く悲鳴が(1)闇に(83)こだまする
木曽義賢を討った悪源太義平を語らないと意味不明…悪源太義平は源氏の嫡流で頼朝のお兄さん…義平が生きていたら義平か源氏の嫡流…
いやいや源氏の嫡流は正室から生まれた頼朝で義平は生きていたとしても嫡流にはなり得ません!
義平は頼朝の兄ではあるが側室の子です。頼朝の生母は由良御前であり正室であります。義経も常盤御前と言う側室の子であります。どちらも目茶目茶美人で有名な方です。(近頃女性の容姿を褒めると何かとうるさい人がいますが、外見での美を感じる基準は文化として残したいので美しかったと記録された方は美しいと言いたい)故に源氏の嫡流は正室の子で生き残った頼朝になります。
日本史Bでここまで学べたらなぁ😌
討ち取った首が誰のものなのか当時はどのように調べていたのですか?
この時は義仲の軍勢の中に実盛の顔を知っている樋口次郎という人物がいました義仲自身も幼少期の記憶で斎藤実盛だと予想はできたんですが幼い頃の記憶で確証がないため樋口を呼んで首を見せたことにより確定したという流れです基本的に顔を知っている人が見る以外の手段はないと思います勝った軍が京都まで大量の首を持って帰ってきて晒し首として河原に並べたら京に残っていた妻や子どもが自分の夫や父の首がないかを探しにきますそこに首があったら首の前で泣き崩れるという光景は当時よくあったそうです
RUclips高校 さらし首って敗者を辱める為の行為だと単純に思ってましたが、家族の安否確認という側面もあったんですな。結果論ですが
この時代をテーマにしたゲームやってたけど、義仲についてあまり分からなかったのでこの動画有難いですm(_ _)m
義賢は正確には義朝の長男義平に殺されている。(指示したのはもちろん義朝だけど)
空木岳に木曽殿越と義仲の力水がある。あんな所を何の用で通ったのだろう?しんどかった…
巴御前といえば和田義盛さんの妻という印象があります。(諸説はあります)①なぜ平家は赤色で 源氏は白色なんでしょうか? 昔紅白歌合戦で 戦争をイメージがあったので 紅白歌合戦ではなく「紅白音楽試合」になったそうですね。中国でも 髪型や旗などで敵 見方が一目でわかるようになってたみたいですね。ただ当時の中国は言語が統一ではなかったので 話で だいたい 敵か味方かどうか1つの判断になってたそうです。②当時の日本では、言葉は統一になっていたのでしょうか? 特に関西(平家)と関東場合(源氏)鎌倉時代では 当時文字を書くことができず 京の貴族から馬鹿にされた印象がありますね。だから、資料としてはあまり残っていない印象があります。牛の火は、私の記憶が正しければ 関東戦国武将 (後)北条早雲も そういうことをやった記憶がありますね。
色の由来については説が多すぎて分からないっていうのが正直なところです特に源氏の白旗はぼくは見当もつきません笑だけど個人的には平家の赤は錦の御旗の赤だという説を支持していますざっくり説明すると錦の御旗というのは天皇家の軍が使う旗なんですがそれが赤いんですよねなので平家としては「我々が官軍だ」とアピールするために赤を用いていたっていう説です言語については識字率は低かったはずです確か日本の識字率は江戸時代頃に爆発的に向上したようなイメージがあります(間違ってたらすみません)とはいえ京育ちの頼朝が関東に行っても生活できているから話すことが不可能ではなかったんだろうなーと思いますもちろん方言はあったとは思いますが元々方言も京の流行り言葉だという話もありますし会話が成り立たないということはなかったんだと思います
たった今吾妻鏡(鎌倉幕府の歴史書)について調べていたところこの歴史書では誤字や脱字年代の間違い等が多いそうですということで「東国の武士は鎌倉幕府成立後に文字の読み書きができるようになった」という考え方が一般的みたいですね「なるほど」と思いましたしそういえば言語について質問されてたなと思い出しての追記でした
そのまま天下を取っていたら、源義仲と呼ばれ、他は鎌倉頼朝・平泉義経とかと呼ばれていたろうに。
平知盛ワイと強力な水軍がいるから無理だな九郎は、強いが、介と朝日将軍だけなら平家も楽に復興出来たんだけどな(笑)
結局源頼朝は漁夫の利、美味しい所取りだよね。
樋口兼光の子孫と思われる戦国武将が、直江兼続。
はい、見つけましたよ!樋口次郎兼光!新潟県小千谷市北山地区に在る小学校校歌に兼光さんが歌われています。地区のいわれには、兼光の子孫が!樋口与六後の直江兼続さんとの!記載してある語りがあります。因み越後の樋口姓のルーツは‼️兼光さんから?私自身も!それを信じている人です。信憑は?皆さんにお任せします。
世間的には四天王と言えば5人目がいるらしいのですが、木曽四天王の5人目は巴御前になるんでしょうか?😊
河内源氏じゃなくて摂津源氏の方(元々髭切持ってた頼光とか)が本流だと思ってたんですが、頼政の代以降は摂津が本流になった感じでなんでしょうか?
義仲すごい
とっても分かりやすい動画ですね。ただ数の暴力の言葉の使い方が気になりました。でもこんなに頭に入りやすい動画はめったにないです。
アメリカの【ジャッカス】でも有ったな〜牛に追われるシーン。それを1000年前にやってのけるとは😁👍🐃⛳
旭将軍 旭=日本
斎藤実盛は白髪の見苦しい姿を義仲に見られたくなくて、髪を黒く染めて戦ったんですな。わっちもアデランスにしようかと思います!
いえ、私が聞いたところによると、斎藤実盛は源氏方の生まれでありながら平家に仕えていた武士であり、平家側にも関わらず、義賢の息子を木曽の地へ逃して来たとのこと。その際に、実盛は平家側に着く身なので自分に恩義を感じる必要はない。元服したら、いずれ私を討ちにこい。手合わせ致す。と伝えたようです。その際に、見た目も変わっているだろうから髭と髪を炭で黒く染め、今と同じ見た目でおろうと。そう伝えたそうです。しかし、決闘の際実盛は名を名乗りませんでした。それは木曽方に自分の恩を感じさせずに真剣勝負をさせるような配慮だったのでしょう。実盛と戦った木曽の武士は歳を増しているであろう実盛が若々しい姿で現れ、あの実盛だと首を洗うまで気づかなかったと聞いております。
ありがとうございました!わっちも昔、平家物語読んだんですけど、詳しいことは忘れてまいました。やっぱりズラにしようかな?
斎藤実盛…まじかよ…鳥肌たった笑
倶梨伽羅峠は河崎土佐守基家が源平の前に戦いをした場所です(._.)
地元の方はわかると思います。義仲が勝利したのは、神様仏様の、お力もあったと思います(_ _)。
あれ?火打ち城やなくて、燧が城やなかったっけ??
正確には義朝の長男悪源太義平が義賢を討ったんだがな(大蔵合戦)
後の執権の北条も確か平家筋だ言うんだよねメッチャ嫌われてたんだろ平家筋でも平(たいら)のことは大嫌いなので源氏味方したつうか
松明どころか牛の尻に唐辛子つっこんでるやんファビョン{火病}理論やんしかも、雌牛に、、森田巴って外道やね
倶利伽羅峠の兵数10万騎とかがウソくさすぎますね、実際は三千騎いや千騎くらいだったのでは。
平家物語は数を盛りすぎ。1/10にしてもまだ多い。この時代は全員職業軍人なので多くても1000騎ですね。
びっくりするほど知らない人ばかり出てきた
コベルコ科研の営業本ぶ
今でもあるやんか。いとこ同士って仲が悪いじゃん。爺ちゃん・婆ちゃんを頂点にして内孫vs外孫。本当に仲が悪いやんか。のちの第1次世界大戦の両軍の総大将はいとこ同士なんやで。どっちもイギリスのヴィクトリア女王の孫やで。金田一耕助シリーズの犬神家もそうやで。爺さんの莫大な遺産を巡って3人の孫たちが醜い争いを始めるんやから。この3人はいとこやで。一人は孫ではなく息子やけどね。息子が甥だと偽って遺産争いに参戦するんやけど、詳しくは読んでみてよ。
海音寺潮五郎先生の武将列伝を読んでもっと勉強してください
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老婆心ながら、志保の戦いは違う場所です。
動画で使用されてるのは篠原の戦いかと思います。
今見直したら確かに勘違いを引き起こす可能性のある解説でした
ご指摘ありがとうございます
すぐに注釈つけておきます
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ご指摘の通り動画内で扱っているのは篠原の戦いで間違いありません
RUclips高校
迅速なご対応ありがとうございます。
あとこれは断定できないので明らかな間違いではないですし、これは自分が絶対に正しいとも言えないのですが、度々出てくる義仲の家紋にちょっと違和感がありました。
おそらく九曜紋は戦国時代の木曽氏が家紋として用いていたので、この木曽氏が義仲の子孫を名乗っていることから使用されたのかなと。
あと頼朝と区別したいという意図もあったような感じですかね。
ただ一般的にこの木曽氏は藤姓木曽氏と言われてるだけにちょっと違和感がって感じでした。
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面白い話をありがとうございます!
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引き続き動画作成、頑張ってください^ ^
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白髪を黒に染めて、出陣したんですよね
義仲に情をかけられないために・・・・
義仲は、白髪の武将は、絶対に殺すな生け捕りにしろと
厳命しましたからね
@@呉志 それは違います
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はて⁉️人形劇平家物語は、そう言っていたよな⁉️
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その際に、実盛は平家側に着く身なので自分に恩義を感じる必要はない。元服したら、いずれ私を討ちにこい。手合わせ致す。と伝えたようです。
その際に、見た目も変わっているだろうから髭と髪を炭で黒く染め、今と同じ見た目でおろうと。そう伝えたそうです。
しかし、決闘の際実盛は名を名乗りませんでした。それは木曽方に自分の恩を感じさせずに真剣勝負をさせるような配慮だったのでしょう。実盛と戦った木曽の武士は歳を増しているであろう実盛が若々しい姿で現れ、あの実盛だと首を洗うまで気づかなかったと聞いております。
何が正しいかは私は知りませんが笑
ちなみに出典ですが歌舞伎のSANEMORIです
頼朝兄弟と義仲の関係が分かりやすく説明してあったのがよかったです。
始めの家系図がわかりやすく工夫されていてすごい。最後まで観ました。大河ドラマと一緒に勉強になりました。
短く端的に説明されており、裏話よりまずは基本の流れが知りたい私にとっては、こちらのサイトが一番分かりやすいです。ありがとうございます。
今までチンプンカンプンだった「○○源氏」が一瞬で解決しました。ありがとうございます!
えらく複雑ですからわかりにくいですよね
時代が進めば源氏の血筋じゃないのに源氏を自称する人物まで出てきて更に複雑になる印象です
義仲好きだなぁ
非常に分かりやすい解説です。
これまでの疑問が
全て氷解しました。
倶利伽羅峠は、家から近いので、行ってみようと思いました!
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安くて良い宿でした、歴史の舞台を訪ねてみるのも良いですねコロナが治まればもっとウロウロしたいと思います。
義仲の出生が分かってスッキリしました。我が町の倶利伽羅の話が詳しく聞けて良かったです。
木曽義仲は名前を聞いたことがある程度でしたが、何時代で何をしたどんなルーツを持つ人物なのかイメージできるようになりました!
最近仕事で遠隔視聴用の映像を作ったのですが、元々喋りが苦手でナレーションを何度も噛み録音に苦労しました。
これだけ難しい解説をさらっとやってのけるRUclips高校さんの凄さを思い知りました。
今回出てきた木曾義仲と巴御前は
名前は聞いたことあるけど何した人かわからない歴史上の人物代表格ですよね笑
僕も録音の時は何度か撮り直して編集でなんとかしてるだけですよー
まだまだ聞き取りづらいところがありますのでこれからも頑張っていきます
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家系で読み解くと馬の血統を見ているようで過去が未来によって
再評価されるようで面白いですね
今日見つけたけどとても分かりやすいです!
コ○ナの影響で授業が無いので助かります
見つけていただきありがとうございます!
一緒に勉強好きになっていきましょー!
素晴らしい❤️
【中国の戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、
楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に
松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。】
後に北条早雲も小田原城を奪うのにも使われてますね。
初コメです!
とてもわかりやすいので、蒙古襲来絵巻について解説してほしいです!
こんにちは!実は蒙古襲来絵図についてはずっと楽しみにしている解説でして
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時代順に進めているのでもうすぐ鎌倉時代に入りますからもう少しお待ち下さい!
斎藤実盛のとこ泣きそうになった🥲
「地の利」を活かす戦いはかなり有利ですね!
倶利伽羅峠の戦い
20200617東大王で出題されましたね
おおー 見ていませんが出題されていたんですね
木曽義仲カッコいいですよね!
源氏と平家の間に天下をとった男ですよね。巴御前との恋愛もいいエピソードですよね。
彼を大河ドラマの主役にしようという動きが彼のゆかりの地で活発に行われているらしいですが、父が「彼は活躍した時期が短すぎたから無理じゃね?」って言いました。
ウェ~~~~~~~ン😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭‼️‼️
ビャァ~~~~~~ン😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭‼️‼️
コンチキショ~~~~~~💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢❕❕
お父さん毎度の如く的確ですね笑
木曾義仲となると真っ直ぐで猪突猛進な主人公になるだろうから
子供にも人気が出そうだなと思います
@@Y_Eschool 僕、精神年齢4歳でちゅ❤️
@@ptgj224 津幡町(石川県)か小矢部市(富山県)
義経に匹敵する戦略家なのに人気がないのは、京に入った時に部下の略奪を止めなかったことですか
頼朝との関係が良くなかったのなら、平氏と和睦して頼朝に対抗するという手もあったのですが、実現していたら頼朝が鎌倉幕府を開く時期もかなり遅れていたでしょう
中原兼遠の子供は3人でなく、5~6人いて、長女が義仲と結婚し、巴はなんとなく次の奥さんに収まった…という感じです。
ただ資料がさまざまで、諸説あることはあります。
富山の人間なので義仲は親近感ある武将
むしろもっと知名度高いと思ってたけどそうじゃない事を知ったのがちょっとショック
手塚光盛と斎藤実盛の一騎討ちは見事だったとか。
斎藤実盛の像は白髪を染めてるとこだと思う。鎌倉武士はお洒落です。
ちなみに水鳥の羽音で平家が総崩れしたのは斎藤実盛が東国武者の怖さを吹き込んだからだとか?
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ちゃんと東国武者の怖さを吹き込んだシーンがありましたね(笑)
木曽義仲が源義経と同じくらい戦上手なんて初めて聞きました!平家を都落ちさせた?木曽義仲が日本をまとめて欲しかったなーと思いました!
義経と同じくらいってのは僕の個人的な意見ではありますが
戦上手だったのは確実でしょう
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勝利していっているんですからね!
とはいえ義仲は木曾という山奥で育ったこともあり
京の人々と感覚にズレがあるのも不安です
次の動画ではそんなちょっとズレた義仲が京に入りますので
そういった視点でもお楽しみください!笑
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頼朝の世となった故に木曽義仲は歴史的に良いイメージでは残されなかった。この様な例は数多くある。しかし近年は、秀吉へのマイナス評価が増えたり、明智光秀、石田三成、吉良上野介などの評価がプラスになる等の傾向もあり公平性が強くなってきてはいますね。
義仲すきやわー!!!
昔、八坂の五重塔の下に朝日将軍の碑が建ってた記憶があります。今もあるのかな?
1183年 倶利伽羅峠の戦い
行き場(1)無く
悲鳴が(1)闇に(83)
こだまする
木曽義賢を討った悪源太義平を語らないと意味不明…悪源太義平は源氏の嫡流で頼朝のお兄さん…義平が生きていたら義平か源氏の嫡流…
いやいや源氏の嫡流は正室から生まれた頼朝で義平は生きていたとしても嫡流にはなり得ません!
義平は頼朝の兄ではあるが側室の子です。頼朝の生母は由良御前であり正室であります。義経も常盤御前と言う側室の子であります。どちらも目茶目茶美人で有名な方です。(近頃女性の容姿を褒めると何かとうるさい人がいますが、外見での美を感じる基準は文化として残したいので美しかったと記録された方は美しいと言いたい)故に源氏の嫡流は正室の子で生き残った頼朝になります。
日本史Bでここまで学べたらなぁ😌
討ち取った首が誰のものなのか当時はどのように調べていたのですか?
この時は義仲の軍勢の中に実盛の顔を知っている樋口次郎という人物がいました
義仲自身も幼少期の記憶で斎藤実盛だと予想はできたんですが
幼い頃の記憶で確証がないため
樋口を呼んで首を見せたことにより確定したという流れです
基本的に顔を知っている人が見る以外の手段はないと思います
勝った軍が京都まで大量の首を持って帰ってきて
晒し首として河原に並べたら
京に残っていた妻や子どもが自分の夫や父の首がないかを探しにきます
そこに首があったら首の前で泣き崩れる
という光景は当時よくあったそうです
RUclips高校
さらし首って敗者を辱める為の行為だと単純に思ってましたが、家族の安否確認という側面もあったんですな。
結果論ですが
この時代をテーマにしたゲームやってたけど、義仲についてあまり分からなかったのでこの動画有難いですm(_ _)m
義賢は正確には義朝の長男義平に殺されている。
(指示したのはもちろん義朝だけど)
空木岳に木曽殿越と義仲の力水がある。あんな所を何の用で通ったのだろう?しんどかった…
巴御前といえば和田義盛さんの妻という印象があります。(諸説はあります)
①なぜ平家は赤色で 源氏は白色なんでしょうか?
昔紅白歌合戦で 戦争をイメージがあったので 紅白歌合戦ではなく「紅白音楽試合」になったそうですね。
中国でも 髪型や旗などで敵 見方が一目でわかるようになってたみたいですね。ただ当時の中国は言語が統一ではなかったので 話で だいたい 敵か味方かどうか1つの判断になってたそうです。
②当時の日本では、言葉は統一になっていたのでしょうか? 特に関西(平家)と関東場合(源氏)
鎌倉時代では 当時文字を書くことができず 京の貴族から馬鹿にされた印象がありますね。
だから、資料としてはあまり残っていない印象があります。
牛の火は、私の記憶が正しければ 関東戦国武将 (後)北条早雲も そういうことをやった記憶がありますね。
色の由来については説が多すぎて分からないっていうのが正直なところです
特に源氏の白旗はぼくは見当もつきません笑
だけど個人的には平家の赤は錦の御旗の赤だという説を支持しています
ざっくり説明すると錦の御旗というのは天皇家の軍が使う旗なんですが
それが赤いんですよね
なので平家としては「我々が官軍だ」とアピールするために赤を用いていたっていう説です
言語については識字率は低かったはずです
確か日本の識字率は江戸時代頃に爆発的に向上したようなイメージがあります
(間違ってたらすみません)
とはいえ京育ちの頼朝が関東に行っても生活できているから
話すことが不可能ではなかったんだろうなーと思います
もちろん方言はあったとは思いますが
元々方言も京の流行り言葉だという話もありますし
会話が成り立たないということはなかったんだと思います
たった今吾妻鏡(鎌倉幕府の歴史書)について調べていたところ
この歴史書では誤字や脱字
年代の間違い等が多いそうです
ということで
「東国の武士は鎌倉幕府成立後に文字の読み書きができるようになった」
という考え方が一般的みたいですね
「なるほど」と思いましたし
そういえば言語について質問されてたなと思い出しての追記でした
そのまま天下を取っていたら、源義仲と呼ばれ、他は鎌倉頼朝・平泉義経とかと呼ばれていたろうに。
平知盛
ワイと強力な水軍がいるから無理だな
九郎は、強いが、介と朝日将軍だけなら
平家も楽に復興出来たんだけどな(笑)
結局
源頼朝は漁夫の利、美味しい所取りだよね。
樋口兼光の子孫と思われる戦国武将が、直江兼続。
はい、見つけましたよ!樋口次郎兼光!新潟県小千谷市北山地区に在る小学校校歌に兼光さんが歌われています。地区のいわれには、兼光の子孫が!樋口与六後の直江兼続さんとの!記載してある語りがあります。因み越後の樋口姓のルーツは‼️
兼光さんから?私自身も!それを信じている人です。信憑は?皆さんにお任せします。
世間的には四天王と言えば5人目がいるらしいのですが、木曽四天王の5人目は巴御前になるんでしょうか?😊
河内源氏じゃなくて摂津源氏の方(元々髭切持ってた頼光とか)が本流だと思ってたんですが、頼政の代以降は摂津が本流になった感じでなんでしょうか?
義仲すごい
とっても分かりやすい動画ですね。
ただ数の暴力の言葉の使い方が気になりました。
でもこんなに頭に入りやすい動画はめったにないです。
アメリカの【ジャッカス】でも有ったな〜牛に追われるシーン。それを1000年前にやってのけるとは😁👍🐃⛳
旭将軍 旭=日本
斎藤実盛は白髪の見苦しい姿を義仲に見られたくなくて、髪を黒く染めて戦ったんですな。
わっちもアデランスにしようかと思います!
いえ、私が聞いたところによると、斎藤実盛は源氏方の生まれでありながら平家に仕えていた武士であり、平家側にも関わらず、義賢の息子を木曽の地へ逃して来たとのこと。
その際に、実盛は平家側に着く身なので自分に恩義を感じる必要はない。元服したら、いずれ私を討ちにこい。手合わせ致す。と伝えたようです。
その際に、見た目も変わっているだろうから髭と髪を炭で黒く染め、今と同じ見た目でおろうと。そう伝えたそうです。
しかし、決闘の際実盛は名を名乗りませんでした。それは木曽方に自分の恩を感じさせずに真剣勝負をさせるような配慮だったのでしょう。実盛と戦った木曽の武士は歳を増しているであろう実盛が若々しい姿で現れ、あの実盛だと首を洗うまで気づかなかったと聞いております。
ありがとうございました!
わっちも昔、平家物語読んだんですけど、詳しいことは忘れてまいました。
やっぱりズラにしようかな?
斎藤実盛…まじかよ…鳥肌たった笑
倶梨伽羅峠は河崎土佐守基家が源平の前に戦いをした場所です(._.)
地元の方はわかると思います。義仲が勝利したのは、神様仏様の、お力もあったと思います(_ _)。
あれ?
火打ち城やなくて、燧が城やなかったっけ??
正確には義朝の長男悪源太義平が義賢を討ったんだがな(大蔵合戦)
後の執権の北条も確か平家筋だ言うんだよね
メッチャ嫌われてたんだろ
平家筋でも平(たいら)のことは大嫌いなので源氏味方したつうか
松明どころか牛の尻に唐辛子つっこんでるやん
ファビョン{火病}理論やん
しかも、雌牛に、、
森田巴って外道やね
倶利伽羅峠の兵数10万騎とかがウソくさすぎますね、実際は三千騎いや千騎くらいだったのでは。
平家物語は数を盛りすぎ。1/10にしてもまだ多い。
この時代は全員職業軍人なので多くても1000騎ですね。
びっくりするほど知らない人ばかり出てきた
コベルコ科研の営業本ぶ
今でもあるやんか。いとこ同士って仲が悪いじゃん。爺ちゃん・婆ちゃんを頂点にして内孫vs外孫。本当に仲が悪いやんか。のちの第1次世界大戦の両軍の総大将はいとこ同士なんやで。どっちもイギリスのヴィクトリア女王の孫やで。金田一耕助シリーズの犬神家もそうやで。爺さんの莫大な遺産を巡って3人の孫たちが醜い争いを始めるんやから。この3人はいとこやで。一人は孫ではなく息子やけどね。息子が甥だと偽って遺産争いに参戦するんやけど、詳しくは読んでみてよ。
海音寺潮五郎先生の武将列伝を読んでもっと勉強してください