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昔から現場をわかってない官僚の案が採用されて失敗する
楠木正成って後の戦国時代のバリバリの戦闘慣れした武将とか、江戸時代の戦術評論家も皆絶賛してるしほんと日本の歴史に残る武人だと思う。
明治や昭和にも正成のようにありたいと主に軍人は思ってたらしいですね家紋の菊水、旗印の非理法権天、七生滅賊を掲げて戦艦大和は最後の特攻に、それらを掲げで出劇したと逸話にありますそれらは後付けのようですが正成のように天皇や国のために潔く散りたいとの思いだったのでしょうね永遠に語り続けられる英雄でしょう。
間違いなく、世が世なら豊臣秀吉以上の天下人になってたと思う。
天才軍事竹中半兵衛や水戸光圀!明治では土方歳三が楠公を崇拝していた!滅びの美学を地で行った人。永遠のヒ一ロ一です。戦後間もなく左派からの圧力もあってか一時期歴史の表舞台から抹消されましたね。大河にならないのはこういうところも影響してると思います!今のおちゃらけ大河にはうんざりしてて、重厚感が無い!次週見ようかと食指が全く動かない!
武人は犠牲をどんどん増やすために身の安全を保つのが難しいことを身をもって示してくれた楠公はありがたい人だと思いました
大楠公、かっこよすぎる、、、、。
正成が最期に弟の正季に向かって最期の望みは何かと聞いた時に、正季が7たび生まれ変わって朝敵を討つことと答えたエピソードが好きですどんな名将でもトップが戦いを知らないと勝てません
トップがあれじゃ8回負けそう
しかし後醍醐天皇は肉体が朽ちも怨念だけで、北朝の明治天皇に勝ちを認めさせた。約600年後に正統になるとか十字軍よりしつこい。北朝は光厳天皇~後円融天皇までは歴代天皇に数えないからね。戊辰戦争で勝てば官軍、負ければ賊軍なる言葉が生まれるが、同時に負けて官軍(南朝)、勝てば賊軍(北朝・足利)と常識を超える事態が進行していた。
足利義視も面白い人ですね
「おバカで徳のない君主は、混乱を呼び自身は滅ぶ」が『太平記』前半の主題。
正成にはわかっていた。正しいのは尊氏であり後醍醐天皇はまちがっていることを。それでも帝に呼ばれ頼られた自分は逃げることはできなかった。海と陸から押し寄せる足利の大軍に決戦を挑んだ。
楠木一族は基本的に義理人情に厚すぎる傾向にありますね。
正成の不幸はついた上司がバカだった。これに尽きる。後醍醐につかず、足利と組んでいたら、内乱はここまで長引かなかっただろうに。
詳しく教えていただきありがとうございました。楠木正成が、皇居内に銅像があると聞いています。正に皇居に忠義を尽くした尊敬します。
正成さんは 後醍醐・南朝系現在の皇室は 尊氏・北朝系やっぱり 後醍醐天皇への当てつけかな?
史実は別として、「桜井の別れ」から「湊川の戦い」「七生報国」まで泣ける場面ですね。😭
義貞も、正成も後醍醐帝に楯突いてでも、尊氏と和睦させてればこんな戦は起こらなかった。公家一統に拘る後醍醐が悪い。
湊川の戦いは思った物とだいぶ違ったと分かり嬉しく思います。すごく分かり易くて区切り方も好きです。本当に楽しい
大楠公、カッコ良すぎる。
その通り‼️
楠木正成は正に侍。日本人の鏡だね〜
彼は本当に湊川で戦死したのですかね?
@@alexale4074 尊氏自身が楠木正成の首実検してる
楠木正成は「太平記」で俳優の武田鉄矢さんが演じてたのを思い出す。
ドラマの感想も加えます楠木兄弟のラストがあまりにも切なすぎる互いに胸を刺しあって死んでいった正成の話を聞こうとしなかった公家の連中どもムカつくわ正成の死は尊氏にも後醍醐天皇にも痛手でしょうね
91年大河ドラマ「太平記」では、片岡仁左衛門さんの後醍醐天皇「美し過ぎる」のですよね^^。次回太平記映画ドラマが作られるとしたら渡辺謙さんの「脂ぎった黒後醍醐帝」を見てみたいです^^。
正成って足利義詮が絶賛してて、死の直前に正成公の墓の隣に俺の墓を建てて正成公の隣で眠らせて欲しいと言わしめた御仁のイメージが強い。
楠木正成に惹かれるわけだよ。。。武田鉄矢が太平記で演じてた「河内へ帰れ!」の桜井の別れの一喝、泣いたよね。。
楠木正成は悪党なんかじゃない。忠臣だよ。
上司と部下に挟まれた中間管理職みたいな人だね結局、部下を捨てて上司に忠義を尽くしたため700人しか兵隊が集められなかったか犠牲者を減らすためわざと集めなかったか?
この頃の「悪党」は純粋農民ではない=領主様にはナンだか不都合な存在の意味。それが正成などの行動と馬借に代表される流通業者ーー街道を暴走する集団ーー当時の上級国民の大事な収入源である関所とのトラブル等々から、悪党が現在の半ぐれ扱いに変化する。鎌倉末期・建武の悪政・室町初期の悪党はむしろ畏怖の念が込められている。勉強不足だよ。
@@コーティー 主君を持たない武士軍団のことを悪党って当時は言ったんだよこの時代の日本は戦国時代真っ青なぐらい荒れに荒れてたからね
5:30 やっぱりプライドは時に悪い方向に作用しますね
何時も思うけど、画面作りが秀逸だな。
新田義貞は大局観が今ひとつなんだよなぁ
楠木正成公が帝国軍人の鑑とされる理由が分かった。自分の生に固執せず忠義を尽くす、か。
尽くす相手を間違えてましたね
赤松の功績は大きいな、後醍醐を助けたのに恩賞は雀の涙だったから、金輪際後醍醐には味方しまいと誓ったのだと思う!
その結果、赤松氏は足利幕府創設時播磨守護職→四職ヘ大出世ですからね。
朝廷が赤松のことを田舎侍と他の武将より格下に見てしまったことがね
のちに失脚する 護良親王の仲間だと思われたから、という説がありますね
正成はなんとなく、真田幸村と似ているような気がしますね。正成って悪党と呼ばれた新しいタイプの武将なのに、旧タイプの後醍醐天皇についたのは面白いです。
正成さんは 商業に軸足を置いた 銭💴が基盤の「武装商人」といった武士だったと思います。 当時は 戦争をする武士がまず自腹で戦い、勝った後に恩賞をもらうシステムなので 財力がなければ挙兵出来ません。 後醍醐天皇はその財力に目をつけたんでしょうね正成さんにしても ダントツ日本一の権威が 目の前に落ちて来た、これを手にすれば 一躍トップに躍り出るのも夢じゃない… ま、簡単に決心は出来なかったでしょうけどね
もし後醍醐天皇が楠木正成の進言に素直に従っていたら...
湊川神社行ってみたいです
楠木正成「目先の勝利ではなく最終的な勝利です」ヤン・ウェンリー「心配するな。私の命令に従えば助かる。生還したいものは落ち着いて私の指示に従ってほしい。わが部隊は現在のところ負けているが、要は最後の瞬間に勝っていればいいのだ」
一ノ谷の戦いしかり、湊川の戦いしかり、二正面作戦は負けフラグなんですね…
楠木正成めっちゃかっこいいな
すばらしい👍
青葉繁れる桜井の〜♪て歌あったがこの時のことかな
この辺から後醍醐天皇の下の苦労を顧みない暴走がさらに加速する。
ほんとに酷いからなそりゃ明治まで武家が政権握るはずだわ
@@akiran52651 人によってはこの辺で日本の政治の色んな面が乱れて、もう既にこの時点で戦乱の嵐な戦国時代の扉が開いてる言う人も居るよね。万国共通で権力者が後先考えないやり方で国中を巻き込んだ我が儘を通すと高確率で碌な事にならない。
後醍醐天皇はどう考えても、日本の天皇らしくない帝だったのかな?初代の神武天皇、仁徳天皇や明治、大正、昭和、平成の現・明仁上皇陛下に今上天皇陛下のそれぞれ名君とは違い、国民に寄り添う天皇ではなかった後醍醐天皇としか思えてならないな…。 その後、後醍醐天皇が吉野に逃れてできた南朝は、有力武将が次々と討死し、後醍醐天皇の死後には(いくら遺志を示すために北向に塔尾陵が建てられたとはいえ、)河内の四條畷の戦いで楠木正行も8万騎もの足利の大軍により討死するくらい寂しい朝廷だったと言えましょう。だから、後醍醐天皇が建武の新政崩壊後に吉野に逃れて南朝を建てそこで寂しく亡くなるまでの道は、かつての杉山清貴さんの唄 "風のLonely Way"がぴったりだと思う。
楠木正成は日本の歴史上最も忠義の強い武将である。
正成の最期は感慨深いが、その民家の持ち主かわいそうに‥
楠木正成の忠君の精神は、大東亜戦争の特攻隊にも受け継がれていて、楠木家の紋所から菊水作戦として特攻隊か結成されたようです。武士には命の懸け時と懸け方があるということを、身をもって示した天下の武人だと思う。息子の正行も、これまた立派な武人であったらしい。
まあ、生け贄養成思想だな
後醍醐天皇はなぜあせたのだろうぶちギレたらだめだ義貞も赤松軍に苦戦してるから湊川は戦の場所ではない京都でしょうもったいないことをしてる帝だ
これ見て有能のリーダーじゃないと下に付く有能者も発揮することはできませんね😢
大河ドラマ太平記の楠木正成像が印象深い
子供の頃は「楠公さん」と湊川神社は別の(別の場所にある)神社やと思ってたで、東京でも(皇居のまわりだけ?)「なんこうさん」なのをつい先日知りました
かっけー!本当にかっけえ!
正成の案(もぬけの殻の京都に尊氏を招き入れる)が仮に採用されたとしても、一度都に入って北畠、新田、楠木にやられて旗色が悪くなったから九州に逃げた尊氏が同じミスを二度もする保証もない(他の戦が上手い尊氏派の武士が「これは罠だ」と看破すればそれでおしまい)とすると、後醍醐側に対して朝廷の面子をある程度保たせる前提での和睦がいい所だった可能性が
それ 正成さんが言ってます交渉の使者には 自分が行ってもいい、と提案もしています…蹴られます使者をさせるなら ある程度の政治的権限を与える事になるし、後醍醐天皇としては 政治方針に武士(軍部)が口を挟むな、といったところでしょう建武政権にとって正成さんは ある意味 危ない存在だと思われたんだと思います
この人カッコ良すぎるなあ
新田義貞はなにしてたぁー!
分かりやすい歴史動画有難うございます。楠木正成の作戦案が却下されるシーンは架空ファンタジー小説の無能な上官に有能な武将の作戦案却下されるシーンによく流用されていますね。あとシュミレーションゲームの雑誌で新田義貞の無能ぶりを批判した記事読んだことがあります。その記事によると「楠木正成の不幸は新田義貞という無能な武将をパートナーに持った事である」と断言されていました(笑)。
僕ラが元気なうちに楠木正成さんの大河ドラマが見たいキャストとスタッフが令和世代ナラ固定観念を覆して欲しい!
「福山」の場所が今の福山市付近になっています。正しくは高梁川東岸の安養寺などを擁する「福山」という山のことです
後醍醐天皇が楠木正成の言う通りにしてたら間違いなく足利軍に勝てたと思う。
楠木正成が勝っても正成が足利尊氏の代わりに征夷大将軍にならないと収まらないくらい武士の力は強大になっていたんたね
楠正成は、公家らのシビリアンコマンドの犠牲になった。
後醍醐側の主力、北畠顕家軍がこの頃は一旦東北に帰っているから、駒不足だな。
湊川の戦い 1336年潔く(13)最期を(3)迎えた(6)正成公
他人のために死ねるってすげえ
大楠公が、帝が作戦上で誤ったはんだんを下した時に、もっと強く意見具申すべきだと思うのは、とうじの身分制度の意識的に、大楠公に対して求めすぎでしょうか?
備忘録【 最高の戦士 楠木正成 ( 桜井の別れ, 湊川の戦い, 七生報国 ) 】
近くにいった新田は見殺しか、動けない理由があったのか?
よく考えたら楠木正成や新田義貞を南朝方と言うのはおかしいのか?彼らが亡くなった後ですよね?後醍醐天皇が吉野に逃れたのは。
楠一族は足利方にも一族を派遣してますよね、後醍醐は難儀な天皇さんでは?
スパイは送り込んでたと思います
面目というヤバいパラメータがあるから面白い。
こんな愚かなトップに忠義を尽くす正成。
戦艦大和の水上特攻って、湊川の戦いの出陣みたいですね。
現存する資料では計り知れない、91年大河ドラマ「太平記」で描かれた「尊氏と正成の友情と信頼関係」があったのか無かったのかがとても気になります^^。次回、日吉神社での「黒後醍醐帝」と「純な忠義の新田義貞」の攻防がどう語られるのかむっちゃ楽しみです^^。
新田義貞と楠木正成が不仲じゃ無かったら案外歴史変わってたかもね。
新田義貞は足利尊氏に取って代わろうとする野心があったと思うが正成には無かっただけかも?
別に不仲じゃないと思うけどね結局 後醍醐さんが現実を理解して 尊氏を上手くコントロールして武士を飼い慣らせば、ね😅 念願の政権を掴んで舞い上がって イエスマンに囲まれて 理想だけで突っ走ってコケたのね政権取るより 維持が大変、て話だと思う
すぐ手のひら返しする人だから信用できない本当にそんな事言ったかどうかは不明だけど非常にご尤もではある
楠木正成の失敗は横暴かつ無能な後醍醐天皇に忠誠を誓ってしまったこと。
ただの土豪だった自分に河内守の官位を与えてくれた後醍醐帝には弓は引けない。大河ドラマでも、「これは一生掛けても返せない大借金」と言っていた。尊氏に理があるとわかっていながら、敢えて湊川で戦い滅びる道を選んでしまった。ただ、正季と共に自害した楠木兄弟と、弟直義を毒殺した(とされる)足利兄弟は、どちらが幸せだったのでしょうか。
後醍醐天皇本人に忠誠、というより 天皇の権威を利用できる立場になりたかった、だと思いますね当時はまだまだ 天皇や朝廷の権威は信じられていて、尊氏さんも 光厳上皇の院宣をきっちり利用してますから
なーーーんで楠木正成の言うこと聞かないんだよ!!!!
閲覧に来た人からお団子含め全部断ったはず。。何か貰ったかなぁ。。
たつつど(
その福山の戦いって備後の福山ではなく備中の福山の戦いではないのかい?知ったふりする人がよく間違えるんですよねー( *´艸`)
一同で自決する状況なのに、七たび生まれ変わると言ったとか、わかるわけないよな。
@@カネゴンの娘 誰がその現場を見たのかという話をしてるんだよ。
@@machazard さんあ〜なるほど、そういう意味なんですね‼️郎党全員が自決したら、目撃者が現場の様子を見て、太平記に記さないと信憑性が無いですよね。太平記の著者が勝手にイメージして創作した作り話の可能性が高いです。
1こめ
「楠木正成に固執して滅んだ鎌倉幕府」何?この動画?
楠木軍に苦戦したことが、足利が幕府を見限る切っ掛けの一つだからな。
危険な奴だからですよ娯楽の少ないこの時代、討幕とか言って山にこもって 二重柵やら岩落としやら藁人形やら梯子を焼いたやら、妙な手で幕府の正規軍をおちょくる話は、単純に面白いでしょう? 噂は一気に広がります。おまけに 護良の令旨までばら撒いてる。噂も、面白い から 幕府弱いの? もしかしたら倒せるの?になっていく…可能性があるんですよ、アジテーションと言って 近現代の情報戦でも使われる 扇動です。取り逃したら また他所で同じ事をされる、何が何でも倒さねば、と 固執するんです
昔から現場をわかってない官僚の案が採用されて失敗する
楠木正成って後の戦国時代のバリバリの戦闘慣れした武将とか、江戸時代の
戦術評論家も皆絶賛してるしほんと日本の歴史に残る武人だと思う。
明治や昭和にも正成のようにありたいと
主に軍人は思ってたらしいですね
家紋の菊水、旗印の非理法権天、七生滅賊を掲げて
戦艦大和は最後の特攻に、それらを掲げで出劇したと逸話にあります
それらは後付けのようですが
正成のように天皇や国のために潔く散りたいとの思いだったのでしょうね
永遠に語り続けられる英雄でしょう。
間違いなく、世が世なら豊臣秀吉以上の天下人になってたと思う。
天才軍事竹中半兵衛や水戸光圀!明治では土方歳三が楠公を崇拝していた!滅びの美学を地で行った人。永遠のヒ一ロ一です。
戦後間もなく左派からの圧力もあってか一時期歴史の表舞台から抹消されましたね。大河にならないのはこういうところも影響してると思います!今のおちゃらけ大河にはうんざりしてて、重厚感が無い!次週見ようかと食指が全く動かない!
武人は犠牲をどんどん増やすために身の安全を保つのが難しいことを身をもって示してくれた楠公はありがたい人だと思いました
大楠公、かっこよすぎる、、、、。
正成が最期に弟の正季に向かって最期の望みは何かと聞いた時に、正季が7たび生まれ変わって朝敵を討つことと答えたエピソードが好きです
どんな名将でもトップが戦いを知らないと勝てません
トップがあれじゃ8回負けそう
しかし後醍醐天皇は肉体が朽ちも怨念だけで、北朝の明治天皇に勝ちを認めさせた。
約600年後に正統になるとか十字軍よりしつこい。
北朝は光厳天皇~後円融天皇までは歴代天皇に数えないからね。
戊辰戦争で勝てば官軍、負ければ賊軍なる言葉が生まれるが、
同時に負けて官軍(南朝)、勝てば賊軍(北朝・足利)と常識を超える事態が進行していた。
足利義視も面白い人ですね
「おバカで徳のない君主は、混乱を呼び自身は滅ぶ」が『太平記』前半の主題。
正成にはわかっていた。
正しいのは尊氏であり後醍醐天皇はまちがっていることを。
それでも帝に呼ばれ頼られた自分は逃げることはできなかった。
海と陸から押し寄せる足利の大軍に決戦を挑んだ。
楠木一族は基本的に義理人情に厚すぎる傾向にありますね。
正成の不幸はついた上司がバカだった。これに尽きる。
後醍醐につかず、足利と組んでいたら、内乱はここまで長引かなかっただろうに。
詳しく教えていただきありがとうございました。
楠木正成が、皇居内に銅像があると聞いています。
正に皇居に忠義を尽くした尊敬します。
正成さんは 後醍醐・南朝系
現在の皇室は 尊氏・北朝系
やっぱり 後醍醐天皇への当てつけかな?
史実は別として、「桜井の別れ」から「湊川の戦い」「七生報国」まで泣ける場面ですね。😭
義貞も、正成も後醍醐帝に楯突いてでも、尊氏と和睦させてればこんな戦は起こらなかった。公家一統に拘る後醍醐が悪い。
湊川の戦いは思った物とだいぶ違ったと分かり嬉しく思います。すごく分かり易くて区切り方も好きです。本当に楽しい
大楠公、カッコ良すぎる。
その通り‼️
楠木正成は正に侍。日本人の鏡だね〜
彼は本当に湊川で戦死したのですかね?
@@alexale4074 尊氏自身が楠木正成の首実検してる
楠木正成は「太平記」で俳優の武田鉄矢さんが演じてたのを思い出す。
ドラマの感想も加えます
楠木兄弟のラストが
あまりにも切なすぎる
互いに胸を刺しあって
死んでいった
正成の話を聞こうとしなかった
公家の連中ども
ムカつくわ
正成の死は
尊氏にも
後醍醐天皇にも
痛手でしょうね
91年大河ドラマ「太平記」では、片岡仁左衛門さんの後醍醐天皇「美し過ぎる」のですよね^^。次回太平記映画ドラマが作られるとしたら渡辺謙さんの「脂ぎった黒後醍醐帝」を見てみたいです^^。
正成って足利義詮が絶賛してて、死の直前に正成公の墓の隣に俺の墓を建てて正成公の隣で眠らせて欲しいと言わしめた御仁のイメージが強い。
楠木正成に惹かれるわけだよ。。。
武田鉄矢が太平記で演じてた「河内へ帰れ!」の桜井の別れの一喝、泣いたよね。。
楠木正成は悪党なんかじゃない。
忠臣だよ。
上司と部下に挟まれた中間管理職みたいな人だね
結局、部下を捨てて上司に忠義を尽くしたため700人しか兵隊が集められなかったか犠牲者を減らすためわざと集めなかったか?
この頃の「悪党」は純粋農民ではない=領主様にはナンだか不都合な存在の意味。
それが正成などの行動と馬借に代表される流通業者ーー街道を暴走する集団ーー当時の上級国民の大事な収入源である関所とのトラブル等々から、悪党が現在の半ぐれ扱いに変化する。
鎌倉末期・建武の悪政・室町初期の悪党はむしろ畏怖の念が込められている。
勉強不足だよ。
@@コーティー 主君を持たない武士軍団のことを悪党って当時は言ったんだよ
この時代の日本は戦国時代真っ青なぐらい荒れに荒れてたからね
5:30 やっぱりプライドは時に悪い方向に作用しますね
何時も思うけど、画面作りが秀逸だな。
新田義貞は大局観が今ひとつなんだよなぁ
楠木正成公が帝国軍人の鑑とされる理由が分かった。自分の生に固執せず忠義を尽くす、か。
尽くす相手を間違えてましたね
赤松の功績は大きいな、後醍醐を助けたのに恩賞は雀の涙だったから、金輪際後醍醐には味方しまいと誓ったのだと思う!
その結果、赤松氏は足利幕府創設時播磨守護職→四職ヘ大出世ですからね。
朝廷が赤松のことを田舎侍と他の武将より格下に見てしまったことがね
のちに失脚する 護良親王の仲間だと思われたから、という説がありますね
正成はなんとなく、真田幸村と似ているような気がしますね。
正成って悪党と呼ばれた新しいタイプの武将なのに、旧タイプの後醍醐天皇についたのは面白いです。
正成さんは 商業に軸足を置いた 銭💴が基盤の「武装商人」といった武士だったと思います。 当時は 戦争をする武士がまず自腹で戦い、勝った後に恩賞をもらうシステムなので 財力がなければ挙兵出来ません。 後醍醐天皇はその財力に目をつけたんでしょうね
正成さんにしても ダントツ日本一の権威が 目の前に落ちて来た、これを手にすれば 一躍トップに躍り出るのも夢じゃない… ま、簡単に決心は出来なかったでしょうけどね
もし後醍醐天皇が楠木正成の進言に素直に従っていたら...
湊川神社行ってみたいです
楠木正成「目先の勝利ではなく最終的な勝利です」
ヤン・ウェンリー「心配するな。私の命令に従えば助かる。生還したいものは落ち着いて私の指示に従ってほしい。わが部隊は現在のところ負けているが、要は最後の瞬間に勝っていればいいのだ」
一ノ谷の戦いしかり、湊川の戦いしかり、二正面作戦は負けフラグなんですね…
楠木正成めっちゃかっこいいな
すばらしい👍
青葉繁れる桜井の〜♪て歌あったがこの時のことかな
この辺から後醍醐天皇の下の苦労を顧みない暴走がさらに加速する。
ほんとに酷いからな
そりゃ明治まで武家が政権握るはずだわ
@@akiran52651 人によってはこの辺で日本の政治の色んな面が乱れて、もう既にこの時点で
戦乱の嵐な戦国時代の扉が開いてる言う人も居るよね。
万国共通で権力者が後先考えないやり方で国中を巻き込んだ
我が儘を通すと高確率で碌な事にならない。
後醍醐天皇はどう考えても、日本の天皇らしくない帝だったのかな?
初代の神武天皇、仁徳天皇や明治、大正、昭和、平成の現・明仁上皇陛下に今上天皇陛下のそれぞれ名君とは違い、国民に寄り添う天皇ではなかった後醍醐天皇としか思えてならないな…。
その後、後醍醐天皇が吉野に逃れてできた南朝は、有力武将が次々と討死し、後醍醐天皇の死後には(いくら遺志を示すために北向に塔尾陵が建てられたとはいえ、)河内の四條畷の戦いで楠木正行も8万騎もの足利の大軍により討死するくらい
寂しい朝廷だったと言えましょう。
だから、後醍醐天皇が建武の新政崩壊後に吉野に逃れて南朝を建てそこで寂しく亡くなるまでの道は、かつての杉山清貴さんの唄 "風のLonely Way"がぴったりだと思う。
楠木正成は日本の歴史上最も忠義の強い武将である。
正成の最期は感慨深いが、その民家の持ち主かわいそうに‥
楠木正成の忠君の精神は、大東亜戦争の特攻隊にも受け継がれていて、楠木家の紋所から菊水作戦として特攻隊か結成されたようです。
武士には命の懸け時と懸け方があるということを、身をもって示した天下の武人だと思う。
息子の正行も、これまた立派な武人であったらしい。
まあ、生け贄養成思想だな
後醍醐天皇はなぜあせたのだろうぶちギレたらだめだ義貞も赤松軍に苦戦してるから湊川は戦の場所ではない京都でしょうもったいないことをしてる帝だ
これ見て有能のリーダーじゃないと下に付く有能者も発揮することはできませんね😢
大河ドラマ太平記の楠木正成像が印象深い
子供の頃は「楠公さん」と湊川神社は別の(別の場所にある)神社やと思ってた
で、
東京でも(皇居のまわりだけ?)「なんこうさん」なのをつい先日知りました
かっけー!本当にかっけえ!
正成の案(もぬけの殻の京都に尊氏を招き入れる)が仮に採用されたとしても、一度都に入って北畠、新田、楠木にやられて旗色が悪くなったから九州に逃げた尊氏が同じミスを二度もする保証もない(他の戦が上手い尊氏派の武士が「これは罠だ」と看破すればそれでおしまい)とすると、後醍醐側に対して朝廷の面子をある程度保たせる前提での和睦がいい所だった可能性が
それ 正成さんが言ってます
交渉の使者には 自分が行ってもいい、と提案もしています
…蹴られます
使者をさせるなら ある程度の政治的権限を与える事になるし、後醍醐天皇としては 政治方針に武士(軍部)が口を挟むな、といったところでしょう
建武政権にとって正成さんは ある意味 危ない存在だと思われたんだと思います
この人カッコ良すぎるなあ
新田義貞はなにしてたぁー!
分かりやすい歴史動画有難うございます。楠木正成の作戦案が却下されるシーンは架空ファンタジー小説の無能な上官に有能な武将の作戦案却下されるシーンによく流用されていますね。
あとシュミレーションゲームの雑誌で新田義貞の無能ぶりを批判した記事読んだことがあります。その記事によると「楠木正成の不幸は新田義貞という無能な武将をパートナーに持った事である」と断言されていました(笑)。
僕ラが元気なうちに楠木正成さんの大河ドラマが見たいキャストとスタッフが令和世代ナラ固定観念を覆して欲しい!
「福山」の場所が今の福山市付近になっています。正しくは高梁川東岸の安養寺などを擁する「福山」という山のことです
後醍醐天皇が楠木正成の言う通りにしてたら間違いなく足利軍に勝てたと思う。
楠木正成が勝っても正成が足利尊氏の代わりに征夷大将軍にならないと収まらないくらい武士の力は強大になっていたんたね
楠正成は、公家らのシビリアンコマンドの犠牲になった。
後醍醐側の主力、北畠顕家軍がこの頃は一旦東北に帰っているから、駒不足だな。
湊川の戦い 1336年
潔く(13)
最期を(3)迎えた(6)
正成公
他人のために死ねるってすげえ
大楠公が、帝が作戦上で誤ったはんだんを下した時に、もっと強く意見具申すべきだと思うのは、とうじの身分制度の意識的に、大楠公に対して求めすぎでしょうか?
備忘録【 最高の戦士 楠木正成 ( 桜井の別れ, 湊川の戦い, 七生報国 ) 】
近くにいった新田は見殺しか、動けない理由があったのか?
よく考えたら楠木正成や新田義貞を南朝方と言うのはおかしいのか?彼らが亡くなった後ですよね?後醍醐天皇が吉野に逃れたのは。
楠一族は足利方にも一族を派遣してますよね、後醍醐は難儀な天皇さんでは?
スパイは送り込んでたと思います
面目というヤバいパラメータがあるから面白い。
こんな愚かなトップに忠義を尽くす正成。
戦艦大和の水上特攻って、湊川の戦いの出陣みたいですね。
現存する資料では計り知れない、91年大河ドラマ「太平記」で描かれた「尊氏と正成の友情と信頼関係」があったのか無かったのかがとても気になります^^。次回、日吉神社での「黒後醍醐帝」と「純な忠義の新田義貞」の攻防がどう語られるのかむっちゃ楽しみです^^。
新田義貞と楠木正成が不仲じゃ無かったら案外歴史変わってたかもね。
新田義貞は足利尊氏に取って代わろうとする野心があったと思うが正成には無かっただけかも?
別に不仲じゃないと思うけどね
結局 後醍醐さんが現実を理解して 尊氏を上手くコントロールして武士を飼い慣らせば、ね😅 念願の政権を掴んで舞い上がって イエスマンに囲まれて 理想だけで突っ走ってコケたのね
政権取るより 維持が大変、て話だと思う
すぐ手のひら返しする人だから信用できない
本当にそんな事言ったかどうかは不明だけど非常にご尤もではある
楠木正成の失敗は横暴かつ無能な後醍醐天皇に忠誠を誓ってしまったこと。
ただの土豪だった自分に河内守の官位を与えてくれた後醍醐帝には弓は引けない。
大河ドラマでも、「これは一生掛けても返せない大借金」と言っていた。尊氏に理があるとわかっていながら、敢えて湊川で戦い滅びる道を選んでしまった。
ただ、正季と共に自害した楠木兄弟と、弟直義を毒殺した(とされる)足利兄弟は、どちらが幸せだったのでしょうか。
後醍醐天皇本人に忠誠、というより 天皇の権威を利用できる立場になりたかった、だと思いますね
当時はまだまだ 天皇や朝廷の権威は信じられていて、尊氏さんも 光厳上皇の院宣をきっちり利用してますから
なーーーんで楠木正成の言うこと聞かないんだよ!!!!
閲覧に来た人からお団子含め全部断ったはず。。何か貰ったかなぁ。。
たつつど(
その福山の戦いって
備後の福山ではなく
備中の福山の戦いではないのかい?
知ったふりする人がよく間違えるんですよねー( *´艸`)
一同で自決する状況なのに、七たび生まれ変わると言ったとか、わかるわけないよな。
@@カネゴンの娘 誰がその現場を見たのかという話をしてるんだよ。
@@machazard さん
あ〜なるほど、そういう意味なんですね‼️
郎党全員が自決したら、目撃者が現場の様子を見て、太平記に記さないと信憑性が無いですよね。
太平記の著者が勝手にイメージして創作した作り話の可能性が高いです。
1こめ
「楠木正成に固執して滅んだ鎌倉幕府」
何?この動画?
楠木軍に苦戦したことが、足利が幕府を見限る切っ掛けの一つだからな。
危険な奴だからですよ
娯楽の少ないこの時代、討幕とか言って山にこもって 二重柵やら岩落としやら藁人形やら梯子を焼いたやら、妙な手で幕府の正規軍をおちょくる話は、単純に面白いでしょう? 噂は一気に広がります。
おまけに 護良の令旨までばら撒いてる。
噂も、面白い から 幕府弱いの? もしかしたら倒せるの?になっていく…可能性があるんですよ、アジテーションと言って 近現代の情報戦でも使われる 扇動です。
取り逃したら また他所で同じ事をされる、何が何でも倒さねば、と 固執するんです