I have also done an ordinary lawsuit by myself without a lawyer and won the case against a real lawyer and got the amount of claim, court costs and everything as sued. The judgment was a victory, but the other party didn't pay the amount after that, so I executed a compulsory execution and got the prescribed amount of money. I did the enforcement by myself. At first, I prosecuted the case in small claims court, but it became an ordinary lawsuit because of the other side's claim. In addition, I was transferred to the other side's court, but I still fought against it. As a result, the argument of this side was admitted, and the court was done in the court which our side requested. Therefore, the amount of money was not a lot to begin with (although it is not a small amount for me), and it was a trial with a small cost-effectiveness even if I won if I put a lawyer and went to court. Moreover, if I had a lawyer do the compulsory execution, there might have been almost no profit if I was not good at it. Because the other party is a general stock company, the judgment record remains, of course, and because the corporate account of the bank was seized in the compulsory execution, I might have lost the credit from the bank and the public furthermore. The court official taught me the court procedure carefully so that even a layman may understand it. During the transfer process, there were times when it was difficult for me to do it on my own, and once I had an attorney prepare a document and send it to the court. That was the only time I needed a lawyer's help, and I did everything else by myself. Even so, the lawyer's fee was about 20,000 yen. I think that the strategy of the other party's lawyer was to make the procedure complicated, from a small-claims suit to an ordinary lawsuit, and further to transfer procedure, and further to compulsory execution, so that I raised my voice and the other party aimed at settling the case on favorable terms. I saw through it and did not accept any of the other party's settlement proposal and went through with it at the end. My impression is that, if it is a simple civil trial, you can do it in person, but you still need to be flexible and rely on your lawyer where you need to rely on your lawyer, and you need to ask the court staff where you need to ask. If it's a winnable case, the trial is dogged.
なんで昔のBGMはこんな恐ろしいんだろう…だがそれが今はとても新鮮で良い!
この世の終わりかと思うくらい悲しい感じのBGMですよね((笑)
確かに、交通事故防止の啓発とかなら分からなくもないけど至って普通のなんなら長閑なものでもこんなかんじのあるもんな
オープニングのおどろおどろしBGMサイコー‼️
私が1963年1月生まれですので、ちょうど生まれた頃の映像ですね。38豪雪で、凄い雪だったと聞いています。柳ヶ瀬線跡を歩いたことがあるのですが山の中で、昔はこんなに乗客がいたんですね。貴重な映像、ありがとうございます。
中学・高校の時、こういった感じの映像を視聴覚室で見せられました。内容は『交通事故』とか『薬物中毒』、『刑務所』なんかのものでした。事故防止やシンナー吸収の恐ろしさ、道を踏み外すと最後は刑務所行きになるよと、警告や戒めの意味で見せたのでしょうね。白黒でBGMや語りも同じ感じで、つい昔の事を思い出してしまいました。
古い建屋でも人が多いと活気付き雰囲気もいい。
柳瀬線の現役時の画像は貴重そうですね。
今は、国道沿いの集落のような感じです。
代替駅の余呉駅も人家が少ないですね。
中之郷周辺が余呉町の中心の風格があります。
1963年の撮影ですね。随分と積雪が多いと思ったらサンパチ豪雪でした。
6:44に通過する82系はおそらく「白鳥」でしょう。柳ヶ瀬線の映像なども大変貴重ですね。
原宿駅舎やチラリと見える建てられたばかり?の小田急百貨店も、もう無くなってしまいましたね…
「駅の顔」と「昭和の顔」。
懐かしく楽しかった顔の時代。
駅の顔というよりは、駅の周辺という感じでしたね。青森駅には4本煙突の洞爺丸型連絡船がみえますね。
小湊駅に可動橋があったとは知りませんでしたね。義経寺や三厩石も懐しく、青函トンネルができる前(だったかな)には余剰の485形が普通列車として走ってましたね。
修学旅行は583系はつかりでした。朝8時過ぎに青森発、夕方17時過ぎ上野着だったような。車内販売の冷凍みかん、アイス、苦いお茶、ゆで卵。わくわくアイテムでした。
62年生まれ。還暦を前に自分が生きた時代の振り返ってみたい。
子どもの頃刷り込まれたモノクロの世界はそのスタートになりますね、
この世の終わりのようなBGMとナレーションがいいなぁ
キハ82系の白鳥の映像は貴重ですね。柳ケ瀬線が北陸線から分離されて5年ということなので昭和37~38年くらいの映像でしょうか。この雪の多さはサンパチ豪雪でしょうね。貴重な映像ありがとうございます。
津軽海峡冬景色て世界観ですね!
今は食堂車がない時代
旅の楽しみも変わりました,,,,
私が生まれた頃の映像のようです。駅に写っている人の身なりが和装の人も多くとてもきちんとしていると思いました。この辺からモータリゼーションが始まるんですね。
感動します。ありが投稿ざいます。
今ではSNSで、あっという間に個人特定されますよね。穏やかな時代でした。
半世紀以上前、自分が生まれるちょい前の雪深い北陸辺りのローカル線の情景が深い侘びしさを感じさせる。
7:08 柳ヶ瀬線(旧北陸本線)・・・1964年廃止
新幹線開通前の、東海道本線に特急こだま号が運行されていた頃ですね。昭和30年代は、戦後昭和の感じが色濃く出ています。極めて、にっぽん人的な、世界から隔絶した、この時代を、この時空を通過してきたのです。 う〜ん。良くもなかったので、懐かしくも無く、言葉になりません。
この番組でかつて北陸本線には旧線(柳ヶ瀬線)があったんだなって初めて知りました。
大袈裟なBGMがいい〜😊
昭和40年代~昭和50年代について興味があります。
その時代のテレビ番組を投稿していただけるとありがたいです。
上福岡駅も霞ヶ丘団地完成時には活況を呈していたけど今はというの団地の老朽化建て替えが行われ
駅自体も隣に急行停車駅たるふじみ野駅ができて以来乗降客は減少している
そして長い歴史を誇った原宿駅も買いたいとこの番組当時から駅の歴史は変わってきている
21:25 脚光を浴びることはありませんでした!
三厩通ることも計画されていたけど結局津軽線はそのままでしたからね
新幹線開業しても
津軽線はそのまんま残った…
冒頭にて、動く特急こだま号を初めて観ました。
この映像に写ってる方々は今も元気にされてるかな?😁
こういう何気ない、素朴な日常の様子から現代社会を文化論的に考察するスタイルが今の「ドキュメント72時間」とかにも生きてるんだろうなと思うとやっぱりN〇Kってすごいわ。
この時代のNH◯は日本に因縁つけてるやつらが在籍してなかったからではないでしょうか。
@@toshiao4908
当時も労働組合は強かったです。NHK組合委員長を社会党へ国会議員として送り込みました。
ただし制作スタッフは、番組には反日を表わさなかった矜持は有ったと思います。
どこかに故郷の 香をのせて 入る列車の なつかしさ 上野は俺らの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった
上福岡駅の
橋上の駅舎は、今と変わらない。
こういう風景を、幼い自分は母の手を握って歩いたんだな、って思う。
人々の顔をそのまま放映していたのだなぁ。
ナレーションは森本毅郎さん?
上福岡駅の階段めちゃくちゃ脆弱で危ない感じ
今庄はそんなに栄えていたのか信じられん蕎麦は今でも名物やけどね‼️
BGMが なんか仁義なき戦い風
まさしくソレ笑
失ったものは、もう戻らない‼︎‼︎(泣)
行き交う人々の顔にほとんど笑みが無いのが印象的です。
ABC・XYZ これは俺らの 口癖さ 今夜も刺激が 欲しくって メトロを降りて 階段昇りゃ
霧にうず巻く まぶしいネオン いかすじゃないか 西銀座駅前
昭和の時代も長い。映像の昭和38年の原宿駅(竹下口)の、ひと気のなさ。。。
これって、1963年(昭和38年)3月2日に放送されたものですね。60年前。
柳ヶ瀬線が登場するとは滋賀県民歓喜
原宿が若者文化のメッカになって賑わいをみせるようにのはいつ頃だろう。オリンピックの後くらい?
1980年代に入ってからじゃないでしょうか。
それにしても原宿駅が山手線で最低乗降客数の駅だったなんて今じゃ考えられませんね。
嗚呼、旧 原宿驛舎どころか、宮廷ホームすら遺せない。 時代の速さよ。 令和のお召し列車は、「東京驛」からだろうか?
@@mitchtaka8823 もっと古いわ
松本ちえこの「ぼく」(昭和51年)に「日曜日にはブーツカットのジーンズはいて原宿や鎌倉なんかも行くよ」ていう一説があるで
タレントショップが増えてからでは?
アイドルが出てくるのは1970年代後半から1980年代にかけてなので、ちょうどそれくらいと被る。
後に美川憲一が歌ってますね
自分用: 27:40 閑散としてる原宿駅
現代の映像 空がこんなに青いとは
放送時間 29分 放送日 1970.07.10 の映像は残っていないでしょうか? 私は当時、舞台となった隣の小学校にいたので、あの映像には特別に感慨深いものがあり、なんとかもう一度観て見たいと願っています。
全国のNHK放送局に設置された番組公開ライブラリーで視聴出来ますよ
@@yh3212 ありがとうございます。知りませんでした。NHKアーカイブスはDVDで発売されている物があってアマゾンで購入できるようですね...
自分が想像する昔の世の中であり世界線生粋のレトロ感覚要素満載は、新日本紀行の放送年代まで
昭和30年代までは音楽派手過ぎるんですよね。
このBGMを聴いて音楽は黛敏郎さんでは?と思いました。
青森駅は、雪の中ですね
27:50 この原宿駅、先週から解体始まった
なんていう惜しいことを
直ぐに忘れ去られるよ。
今のNHKのアナウンサーで、このような番組のナレーションを できる アナウンサーがいない とか。
NHK 内に指導する人もいないので外部から NHK のアナウンサーの 研修の中のナレーション の講義は外部のフリーアナウンサーを呼んでいるらしい。
駅ホームでの立ち喰い蕎麦屋は、妙にうまかったっ!乗り換え駅で、急いでかき込むから尚更、特別感があったと思うな。いまでは、味わえない…
名古屋駅新幹線ホームでも立ち食い蕎麦、きしめん食べれそうです、降りて列車一本送らせて利用してみたらどうでしょうか。
当時は丼代払う(30〜50円くらい)と車内に持ち込めましたね。
この豪雪に比べれば昨年~今年の冬は『暖冬』ですね。明らかに。
三八豪雪と比べたらいつの時代でも暖冬と言えるのでは?
積雪量と暖冬・寒冬は関係ない。北海道ではむしろ暖冬のほうが雪は多い。
今はない感じが、ウルトラQみたい❤
007は二度死ぬで出てきた丹波哲郎扮する公安のシークレット電車丸ノ内線。
四ツ谷駅から東京タワーが見えるなんて。
向きから考えると、二番町にあった日本テレビの鉄塔なのかもです。
OLじゃなくてBGで草
17:17 浅虫付近?
4本煙突の蒸気タービン駆動、洞爺丸型の車載客船、もう見れないんだね‼️
四本煙突の連絡船は洞爺丸事故の安全対策を施していて、船尾扉の設置、ボイラーの重油焚き時代の映像は珍しいです。
俺が生まれた年❓お袋がこんな頭した写真が残ってる^_^
現代にしては女性の髪型あまり見ないな~?
俺が生まれた年や
プラットフォームでたばこ吸ってるよ...時代だなぁ
喘息の人大変そう
いとわびし...。
昭和何年ころなんでしょうかな?
すでに東京タワーがあるけど小田急新宿が建設途上やから昭和30年代後半
四ツ谷の丸の内線ホームから東京タワー見えたのかよ。しかもあんな間近にデカく
加賀美幸子さん司会のNHKアーカイブズでやってそう(^_^;)
偏見に満ちた断定的な理屈っぽいナレーションが時代だよなな。名文を気取っているのも鼻につく。
当時もマスクしてる人結構いるね
24:00
この電話番号
電話機は手回し「ダイヤルの意味ではない」
で
交換手呼び出しかな?
いわゆる「小便臭い映画館」だね
今や死語のBGが使われている
赤字路線ではなく投資路線という考えはないのか。
100年先を見据えたビジョンがなければその日暮らしの国家に成り下がる。
駅はどこも禁煙です。
昭和60年代の後半から
90年代までは駅のホーム上に灰皿が設置されてた
@@ダニエル滝之輔昭和60年代の後半は、ない!
昔は「当駅では喫煙所を除きまして終日禁煙となっております」という放送が当たり前だったとか…
東海道線にあった東京〜平塚間禁煙のステッカーは普通列車のE231系(2000年登場)化後も暫く見れたとか…
I have also done an ordinary lawsuit by myself without a lawyer and won the case against a real lawyer and got the amount of claim, court costs and everything as sued. The judgment was a victory, but the other party didn't pay the amount after that, so I executed a compulsory execution and got the prescribed amount of money. I did the enforcement by myself.
At first, I prosecuted the case in small claims court, but it became an ordinary lawsuit because of the other side's claim. In addition, I was transferred to the other side's court, but I still fought against it. As a result, the argument of this side was admitted, and the court was done in the court which our side requested. Therefore, the amount of money was not a lot to begin with (although it is not a small amount for me), and it was a trial with a small cost-effectiveness even if I won if I put a lawyer and went to court. Moreover, if I had a lawyer do the compulsory execution, there might have been almost no profit if I was not good at it.
Because the other party is a general stock company, the judgment record remains, of course, and because the corporate account of the bank was seized in the compulsory execution, I might have lost the credit from the bank and the public furthermore.
The court official taught me the court procedure carefully so that even a layman may understand it. During the transfer process, there were times when it was difficult for me to do it on my own, and once I had an attorney prepare a document and send it to the court. That was the only time I needed a lawyer's help, and I did everything else by myself. Even so, the lawyer's fee was about 20,000 yen.
I think that the strategy of the other party's lawyer was to make the procedure complicated, from a small-claims suit to an ordinary lawsuit, and further to transfer procedure, and further to compulsory execution, so that I raised my voice and the other party aimed at settling the case on favorable terms. I saw through it and did not accept any of the other party's settlement proposal and went through with it at the end.
My impression is that, if it is a simple civil trial, you can do it in person, but you still need to be flexible and rely on your lawyer where you need to rely on your lawyer, and you need to ask the court staff where you need to ask. If it's a winnable case, the trial is dogged.
What's the relationship of your history with this film about the railways⁉️