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高性能なレーダーもなく速度差の大きいジェット機とYSをこんなにも過密に捌いていたとは恐るべし単体の事故はあっても衝突事故が起こらなかったのは凄いなぁ
このころ、友人を見送りに国際線タ-ミナルに行きましたが、かなり混雑していた記憶があります。夕刻以降アンカレッジ経由の欧州線・米国線がもっと多かった、南回り欧州線があったような気がしますが、記憶が霞んでいます。(曜日の関係もあるとは思いますが)
当時は冷戦時代でしたので、ヨーロッパ旅行するにはアンカレッジ経由(北周り)で行くかアジア経由(南周り)で行くしかなかったです。今では、ロシアが領空通過料で稼ぐくらい、ヨーロッパ旅行が気軽にできるようになったわけです。
夜の札幌からの帰り便は国際線のアライバルが優先なので良く千葉上空で待たされました。
懐かしいですね~。学生時代AGS(JALの子会社)でアルバイトしていました。ライン整備課と云うところに配属されていましたが、アルバイトなので人手が足りないセクションへ応援行かされていましたよ♪。国際線到着便の機内清掃とか思い出あり過ぎです(笑)ありがとうございました♪
私IAU(ANAの子会社)でバイトしてました。搭載課の遅番で、折り返しの無い札幌便SRの貨物を全部ひとりで降ろしたり、L10のAPU排気口の下で暖を取ったり、いかれてる貨物ローディング・システムと戦ったり、YS便でスッチーのお姉さんから飴貰ったり、まあ色々ありましたねぇ…。
当時、私たち中国人にとって飛行機で旅行するのは簡単ではありませんでした。1つ目は幹部以上であること、2つ目は部隊の紹介状を発行することです。 当時は海外旅行も簡単ではありませんでした。
DC-8や707ならばシンガポールまで直行で飛べる性能がありましたが、まだ東南アジアは貧しい時代で直行便では座席が埋まらない、途中何か所も寄り道してお客を拾って降ろして飛んでいたのです。当時の羽田空港は国際線ターミナルビルが一番大きくて国内線は脇にある小さな別棟でした。ジェット機はすべて沖止めでバスに乗ってタラップを昇るのでした。ボーディングブリッジが当たり前の伊丹千歳板付に比べてひどく見劣りする空港でした。
この時代の羽田空港の様子を知れて良かったです。見てて楽しかったです 作成お疲れさまでしたありがとうございます!😀
新幹線がまだ東海通山陽新幹線しかない時代だから結構今はない路線が多いですね。
29:55 1976年のJAL123便は18時半発、機体もDC-8で結構違ったのだなと
当時の国際線は、途中で他の空港に寄って目的地に行くっていうのが多かったです。それもそのはず、当時の航空機の燃費は今ほど良くないため航続距離が今ほど長くなかったことがあります。今は航空機の燃費が良くなり、その結果航続距離も長くなりました。そのため、直通便が可能になりました。
あとソ連上空飛行がかなり厳しく制限されており、北回り線はアメリカアラスカのアンカレッジを経由して北極海上空を飛ぶ遠回りが強いられていたこともある北回りのノンストップはフィンエアーが特別改造したDC-10で漸く可能になったほど91年のソ連崩壊後欧州線はシベリア上空経路に皆切り替わり、アメリカ線の機材性能向上によるノンストップ化も合わさって、日本からの航空線ではメジャーな寄港地だったアンカレッジは旅客線では経由便がなくなった。
@@asakazefuji それもそのはず、当時は日本人にとってヨーロッパ旅行は高嶺の花でしたよね(今でもそうですが、当時ほどではない)。ものすごく遠い所に行くっていうものでした。他に、ヨーロッパ行きはアジア経由もありました。アンカレッジ経由よりも遠回りでした。
これめっちゃ見たかった!!お疲れさまです!
グアムにJALがDC8で乗り入れていたのはびっくり。便名は今と変わらず941,942便。
19:45 24:25 PA2 パンナムの世界一周東回り便ですね26:45 31:07 PA1 パンナムの世界一周西回り便ですね
この頃羽田に行くのが楽しかったな。送迎デッキが飛行機にやたら近い。50円だかとられたけど。
懐かしいな~羽田から1972年ニューヨークの大学に留学するためにHNDーSFOに向かい飛び立ちました。。
13:54 ここに登場するKL501は大韓航空ではなくKLMオランダ航空ではないでしょうか?KLはKLMのコードでアムステルダム行きの南回りルートだと思います。あと韓国の航空会社がわざわざ東京まで遠回りして大阪、台北、香港に行く意味も無いので。(ちなみに大韓航空のコードはKEです)
ご指摘ありがとうございます。時刻表を確認したところ、KLではなくKEの間違いでした。失礼しました。(字幕にて修正しました)当該便の始発地はソウルで、前日木曜の1900ソウル発2100東京着となっています。終着地は香港です。
7:09 IL-62 が当たり前に活躍しているすごい時代だなソビエト連邦時代の象徴って感じ
1970年代の羽田空港を知れてよかったです。今の羽田はANAが国際線に就航し、パンナムやノースウエストが消滅して当時より様変わりしてますね。
ヨーロッパの航空機も増加した。それもそのはず、ロシア経由で飛ばしやすくなったから。
成田の開港が延びに延びた記憶がある。開港予定日の前に反対派が乱入して空港施設を破壊しまくった。当時の日本は左派の勢力が強かった。
1982年東北・上越新幹線開業、85年上野開業でトドメを刺された区間もありますなあ羽田ー新潟・仙台・花巻線がそれ福島は当時空港無かったから飛んでもいないけど羽田ー小牧は全日空が東海道新幹線開業後も18年踏みとどまってましたが(そして羽田再国際化で復活する)
それとは逆に九州や北海道、四国辺りは国鉄の料金値上げなどもあり、逆に鉄道利用から航空利用に利用客が大量流れてきたものもありますね
@@通りすがり-y7g 東京ー福岡なんか新幹線博多開業時はまだ鉄道シェア高かったそうですからねぇ今や8%だけど
この頃123便は出発時間も使用機種も違ったんやねしかしラッシュアワーの東京大阪線なのにDC8なんかで客をさばききれたのか
16時半頃から乗り入れ活発過ぎるww
さすが、JALは、当時からB4(B747)使用かやっぱり日本国直下の航空会社だっただな
当時は航空機の航続距離が短くそして、羽田自体が発着容量が乏しいため。国際線は経由便により1機で目的地が2、3箇所発着する便が多いですね。 D滑走路完成後再国際化と成田開港前の羽田を比較したら、今の方が国際線の便数が多いんでしょうね。クローズパラレルのため、AとC滑走路の同時離着陸もできない。
この当時は伊丹空港がワイドボディ機乗り入れ禁止だったので、DC8と727の便ばかりですね。羽田‐千歳間が座性提供数世界一位の路線だったのはこの辺りからかな?TDAのA300が投入された頃からブッチギリ路線になった筈。
B747よりもDC-8、トライスターよりもB727の低バイパス比エンジンの方がよっぽどうるさいのに、全く皮肉な取り決めだね。
@@bgstsmlman7474 まだ当時はワイドボディ機の就航からそれほど時を経ておらず、デカい物はウルサイという先入観からそうなっていたんでしょうね。後年こんどは逆にハイバイパス・エンジン機じゃないと就航禁止になるという…。
旭川や帯広はys11や737なのに千歳線は福岡や大阪よりも大きい747なんだものな、
帯広なんて、今世紀入った頃は週4便で後に毎日一往復になるもジェイエアになりましたから…
JALの747SRの画像がJA8119で草
あわわわ!(;´゚д゚)
9:07永久欠番の471便がある
大韓航空のA300、この頃からいたんだ
高知空港の1日も見てみたいです最盛期だった頃の
コメントありがとうございます。少し趣旨は違いますが、”橋ができる前の四国の航空便の一日”的なやつをそのうちやりたいなーなんて考えてます。
アリタリアの社名は消滅しましたね。ITAエアウェイズになりましたし。
YS11の全盛期時代ですね。
29:55……..
27:20 ルフトハンザがカラチ始発の便運行してたの?と思いました。
すいません、補足に書いていませんでしたが国際線の経由便の中には、スペースの都合上一部の発着地しか表記されていない場合があります。当該便は2行しか書いてなかったのでもうちょっと表記できましたかね。ていうか少なくとも始発地は書いとけばよかったですね。
いわゆる「シルクロード特急」って奴ですね。ルフトハンザに存在したカラチのみ寄航、エールフランスに存在したカラチと北京のみに寄航で「南回りヨーロッパ路線」の類いなのにアンカレッジ経由の北回りより速い事を売り物にした便です。今は普通にヨーロッパへはシベリア上空経由で行けますが、この当時は冷戦です。ヨーロッパへはアンカレッジ経由の北回りで行くか、中国or香港→インド→中東を延々経由する南回りで行くか、アエロフロートに乗ってモスクワ経由で行くかしかなかったのです。一部日本航空やエールフランスにはモスクワ経由便が許されていましたが。
新東京と名乗って羽田の座を奪うの良くないよね(実際は羽田の容量不足だからセーフ)
目が回る
高性能なレーダーもなく速度差の大きいジェット機とYSをこんなにも過密に捌いていたとは恐るべし
単体の事故はあっても衝突事故が起こらなかったのは凄いなぁ
このころ、友人を見送りに国際線タ-ミナルに行きましたが、かなり混雑していた記憶があります。夕刻以降アンカレッジ経由の欧州線・米国線がもっと多かった、南回り欧州線があったような気がしますが、記憶が霞んでいます。(曜日の関係もあるとは思いますが)
当時は冷戦時代でしたので、ヨーロッパ旅行するにはアンカレッジ経由(北周り)で行くかアジア経由(南周り)で行くしかなかったです。今では、ロシアが領空通過料で稼ぐくらい、ヨーロッパ旅行が気軽にできるようになったわけです。
夜の札幌からの帰り便は国際線のアライバルが優先なので良く千葉上空で待たされました。
懐かしいですね~。
学生時代AGS(JALの子会社)でアルバイトしていました。
ライン整備課と云うところに配属されていましたが、アルバイトなので人手が足りないセクションへ応援行かされていましたよ♪。
国際線到着便の機内清掃とか思い出あり過ぎです(笑)
ありがとうございました♪
私IAU(ANAの子会社)でバイトしてました。
搭載課の遅番で、折り返しの無い札幌便SRの貨物を全部ひとりで降ろしたり、L10のAPU排気口の下で暖を取ったり、いかれてる貨物ローディング・システムと戦ったり、YS便でスッチーのお姉さんから飴貰ったり、まあ色々ありましたねぇ…。
当時、私たち中国人にとって飛行機で旅行するのは簡単ではありませんでした。1つ目は幹部以上であること、2つ目は部隊の紹介状を発行することです。 当時は海外旅行も簡単ではありませんでした。
DC-8や707ならばシンガポールまで直行で飛べる性能がありましたが、まだ東南アジアは貧しい時代で直行便では座席が埋まらない、途中何か所も寄り道してお客を拾って降ろして飛んでいたのです。当時の羽田空港は国際線ターミナルビルが一番大きくて国内線は脇にある小さな別棟でした。ジェット機はすべて沖止めでバスに乗ってタラップを昇るのでした。ボーディングブリッジが当たり前の伊丹千歳板付に比べてひどく見劣りする空港でした。
この時代の羽田空港の様子を知れて良かったです。
見てて楽しかったです 作成お疲れさまでした
ありがとうございます!😀
新幹線がまだ東海通山陽新幹線しかない時代だから結構今はない路線が多いですね。
29:55 1976年のJAL123便は18時半発、機体もDC-8で結構違ったのだなと
当時の国際線は、途中で他の空港に寄って目的地に行くっていうのが多かったです。それもそのはず、当時の航空機の燃費は今ほど良くないため航続距離が今ほど長くなかったことがあります。今は航空機の燃費が良くなり、その結果航続距離も長くなりました。そのため、直通便が可能になりました。
あとソ連上空飛行がかなり厳しく制限されており、北回り線はアメリカアラスカのアンカレッジを経由して北極海上空を飛ぶ遠回りが強いられていたこともある
北回りのノンストップはフィンエアーが特別改造したDC-10で漸く可能になったほど
91年のソ連崩壊後欧州線はシベリア上空経路に皆切り替わり、アメリカ線の機材性能向上によるノンストップ化も合わさって、日本からの航空線ではメジャーな寄港地だったアンカレッジは旅客線では経由便がなくなった。
@@asakazefuji
それもそのはず、当時は日本人にとってヨーロッパ旅行は高嶺の花でしたよね(今でもそうですが、当時ほどではない)。ものすごく遠い所に行くっていうものでした。他に、ヨーロッパ行きはアジア経由もありました。アンカレッジ経由よりも遠回りでした。
これめっちゃ見たかった!!
お疲れさまです!
グアムにJALがDC8で乗り入れていたのはびっくり。便名は今と変わらず941,942便。
19:45 24:25 PA2 パンナムの世界一周東回り便ですね
26:45 31:07 PA1 パンナムの世界一周西回り便ですね
この頃羽田に行くのが楽しかったな。送迎デッキが飛行機にやたら近い。50円だかとられたけど。
懐かしいな~羽田から1972年ニューヨークの大学に留学するためにHNDーSFOに向かい飛び立ちました。。
13:54 ここに登場するKL501は大韓航空ではなくKLMオランダ航空ではないでしょうか?
KLはKLMのコードでアムステルダム行きの南回りルートだと思います。
あと韓国の航空会社がわざわざ東京まで遠回りして大阪、台北、香港に行く意味も無いので。(ちなみに大韓航空のコードはKEです)
ご指摘ありがとうございます。時刻表を確認したところ、KLではなくKEの間違いでした。失礼しました。(
字幕にて修正しました)
当該便の始発地はソウルで、前日木曜の1900ソウル発2100東京着となっています。終着地は香港です。
7:09 IL-62 が当たり前に活躍しているすごい時代だな
ソビエト連邦時代の象徴って感じ
1970年代の羽田空港を知れてよかったです。
今の羽田はANAが国際線に就航し、パンナムやノースウエストが消滅して当時より様変わりしてますね。
ヨーロッパの航空機も増加した。それもそのはず、ロシア経由で飛ばしやすくなったから。
成田の開港が延びに延びた記憶がある。開港予定日の前に反対派が乱入して空港施設を破壊しまくった。当時の日本は左派の勢力が強かった。
1982年東北・上越新幹線開業、85年上野開業でトドメを刺された区間もありますなあ
羽田ー新潟・仙台・花巻線がそれ
福島は当時空港無かったから飛んでもいないけど
羽田ー小牧は全日空が東海道新幹線開業後も18年踏みとどまってましたが
(そして羽田再国際化で復活する)
それとは逆に九州や北海道、四国辺りは国鉄の料金値上げなどもあり、逆に鉄道利用から航空利用に利用客が大量流れてきたものもありますね
@@通りすがり-y7g
東京ー福岡なんか
新幹線博多開業時はまだ鉄道シェア高かったそうですからねぇ
今や8%だけど
この頃123便は出発時間も使用機種も違ったんやね
しかしラッシュアワーの東京大阪線なのにDC8なんかで客をさばききれたのか
16時半頃から乗り入れ活発過ぎるww
さすが、JALは、当時からB4(B747)使用か
やっぱり日本国直下の航空会社だっただな
当時は航空機の航続距離が短くそして、羽田自体が発着容量が乏しいため。国際線は経由便により1機で目的地が2、3箇所発着する便が多いですね。 D滑走路完成後再国際化と成田開港前の羽田を比較したら、今の方が国際線の便数が多いんでしょうね。クローズパラレルのため、AとC滑走路の同時離着陸もできない。
この当時は伊丹空港がワイドボディ機乗り入れ禁止だったので、DC8と727の便ばかりですね。
羽田‐千歳間が座性提供数世界一位の路線だったのはこの辺りからかな?
TDAのA300が投入された頃からブッチギリ路線になった筈。
B747よりもDC-8、トライスターよりもB727の低バイパス比エンジンの方がよっぽどうるさいのに、全く皮肉な取り決めだね。
@@bgstsmlman7474 まだ当時はワイドボディ機の就航からそれほど時を経ておらず、デカい物はウルサイという先入観からそうなっていたんでしょうね。
後年こんどは逆にハイバイパス・エンジン機じゃないと就航禁止になるという…。
旭川や帯広はys11や737なのに千歳線は福岡や大阪よりも大きい747なんだものな、
帯広なんて、今世紀入った頃は週4便で後に毎日一往復になるもジェイエアになりましたから…
JALの747SRの画像がJA8119で草
あわわわ!(;´゚д゚)
9:07
永久欠番の471便がある
大韓航空のA300、この頃からいたんだ
高知空港の1日も見てみたいです
最盛期だった頃の
コメントありがとうございます。
少し趣旨は違いますが、”橋ができる前の四国の航空便の一日”的なやつをそのうちやりたいなーなんて考えてます。
アリタリアの社名は消滅しましたね。ITAエアウェイズになりましたし。
YS11の全盛期時代ですね。
29:55……..
27:20 ルフトハンザがカラチ始発の便運行してたの?と思いました。
すいません、補足に書いていませんでしたが国際線の経由便の中には、スペースの都合上一部の発着地しか表記されていない場合があります。当該便は2行しか書いてなかったのでもうちょっと表記できましたかね。ていうか少なくとも始発地は書いとけばよかったですね。
いわゆる「シルクロード特急」って奴ですね。ルフトハンザに存在したカラチのみ寄航、エールフランスに存在したカラチと北京のみに寄航で「南回りヨーロッパ路線」の類いなのにアンカレッジ経由の北回りより速い事を売り物にした便です。今は普通にヨーロッパへはシベリア上空経由で行けますが、この当時は冷戦です。ヨーロッパへはアンカレッジ経由の北回りで行くか、中国or香港→インド→中東を延々経由する南回りで行くか、アエロフロートに乗ってモスクワ経由で行くかしかなかったのです。一部日本航空やエールフランスにはモスクワ経由便が許されていましたが。
新東京と名乗って羽田の座を奪うの良くないよね(実際は羽田の容量不足だからセーフ)
目が回る