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3分30秒ころに写っていた男性は私です懐かしいなぁ
はじめまして。白いワイシャツの男性ですか?
空の安全にかかわる仕事に携わっておられたとは!
台北まで7時間。パリまで36時間。すごい時間がかかったんですね。
昭和35年の2月の映像でしょうか。途中、模型で出て来ましたがこの半年後に日本航空ではダグラスDC-8が就航しジェット旅客機の時代が始まりました。映像には出てきませんでしたがこの頃にはパンナムのボーイング707も羽田空港に来ていましたね。
ナレータの河井坊茶(かわいぼっちゃ)さん、懐かしすぎてレギュラー番組とか思い出せない。 羽田の飛行機見物に一家そろって小田急や南武線のって牛や馬のいる田舎から行った。1階のロビーだかにプラットアンドホイットニー社製のR4350超大型機用の28気筒エンジンが飾ってあって、何だか分からないけど凄い立派な物と感じた。見送りベランダでいろいろ見物していると、ターボファンジェットがまだまだ珍しくて、どのジェットもコンプレッサの金属音ももの凄く、基地のF104スターファイター同様に真っ黒な煙を出して富津のほうに飛んで行った。 帰りは、場所がらモノレールは乗れなくて冷房車を味わえなかったが、帰りの川崎の岡田屋デパートでアイスクリームとか食わせてもらって大満足だった。それからいくらも経たない20代の中ごろに仕事でひんぱんに外国に行くようになった。日本企業の海外進出は、高度成長期ではなくオイルショックのあとなのを実感できました。
この当時の大卒の初任給は壱万円の時代‥だからこの当時の26万円は現代の貨幣価値にすると500万円以上になると‥飛行機は富裕層しか利用出来ない高価な乗物だった‥現在はLccが安値で世界各国を飛び回っている事をおもえば感慨深いです‥それにしてもロッキードのスーパーコンステレーション美しいですね~
はじめまして。物凄い高価だったんですね!
その前にこの時代一般国民には出国の自由もない。コロナ禍の中バンコク〜羽田が40万円ほどでしたから。また海外出にくい嫌な時代になりました
貴重な羽田空港の映像ありがとうございます!
>ジェット時代からロケットの時代残念ながらロケット旅客機はまだ登場していない。
まだモノレールも来てない時代か。羽田空港に乗り入れる前の京急の羽田空港駅は正にその対岸にあった漁師町の片隅にあったのよね。駅名だけ頼りに来た人が立ち尽くすしか無かったというのは有名な話。
貴重な動画だ!😊
レシプロ機ばかりの懐かしい羽田の映像と河井坊茶さん(テレビの草創期にピヨピヨ大学で学帽を被ってMCをされていましたね)のナレーション素晴らしい映像をありがとうございます。昭和32年頃だったと思いますが、未だ遊覧飛行というのが有って当時7歳くらいの私は父親に連れられてセスナ機に乗って遊覧飛行を楽しませて貰いました。料金は、うろ覚えなのですが(笑)・・1人5,000円位だったと思います。父親と私、それと父の映画関係の仕事仲間の子供と2人(?)の4人(?)で羽田を離陸し、未だ第一展望台の少し上くらいまでしか出来ていなかった東京タワーをぐるっと回り、羽田へ戻ってくる15分程度の遊覧飛行でしたが、本当に【雲にのる】ような素敵な気分でした。当時の5,000円は今の貨幣価値でどのくらいになるか判りませんが、父親は随分と奮発してくれたのだなあ・・今から思うと相当の散財をしたなと今でも思い出します。今日6月1日は父親の誕生日(生きていれば103歳)にあたり父親を思い出すきっかけを戴きました。改めてアップロードに感謝申し上げます。
ナレーションが戦前のボートビリアングループのあきれたぼういず の 河合坊茶!ここでナレーションでお声がきけるとは!
1:28 台北からのCAT 7時間で5万円、1:46 エアーフランス(エールフランス) 東京・パリー間 36時間26万円‥‥これで「地球も狭くなりましたねぇ」って言われましてもねぇ~河井坊茶さん。21世紀の視点だと 当時の飛行機って航続距離短いんだなって つくづく実感させられます。
船で何日もかかっていたことを考えたら、それでも早くなった方なんだろうなぁ…現代の感覚で見たら遅いけど…
VIII WINTER OLLYMPIC TEAMの横断幕から第8回冬季五輪=スコーバレー冬季五輪だから、1960年の映像と分かりますね。
夏期だとローマあたりかな?『TOKYO 1964』の前だからね(^^)
今羽田で働いててこの映像で出てきたとこらへんに住んでるけど今と全然違うな…ど田舎の地元は昭和時代の街の写真見てもほとんどすぐどこかわかるくらいなんも変わってなかったのに。都会ってすげえ。
これって、テレビ番組だったのでしょうか? それとも、映画の幕間に流されたニュースフィルムだったのでしょうか?
沖合展開事業でC滑走路とA滑走路を移転する前に、国際線のほとんどを成田に移管した後に、数10年後のD滑走路完成後に羽田に新規就航した後の国際線の便数の方が、この当時の羽田に発着していた国際線の総数よりも多いんでしょうね。コントロールタワーは管制塔の事を言ってると思うが、GPSなどない時代はラジオ塔の電波で位置を掴んでたんでそうね。今はたった1台の自家用車や自転車でも気軽にGPSを利用できる時代になりました。完成の通信技術が進歩しているとはいえ狭い空域で倍増した航空機の量を裁くのも大変です。
羽田空港の初期の様子ですね。
海外渡航が自由化されてない時代ですね海外に行くには留学か駐在員、出張あるいは 国際試合に出るしかなかった留学と言っても金持ちじゃない限り 国費留学とかフルブライトで、 輸出の多いメーカーの社員とか商社の社員、新聞社の社員なら出張・駐在で行けましたね最初の入った輸出が多かった会社なので 海外に行きたくてこの会社に入ったと言う人が多かった 当時の社長が芸能人と仲良かったので 社員ということにして海外旅行に行かせたなんていう話を聞いたことあります 外貨枠が決まっていて少ないので 闇ドルを持たせたとか
世界的な疫病で各国、鎖国状態なんて誰も予想してないだろうな
台北は「たいほく」って呼んでたんですね。パリは「パリー」と伸ばしていたのでしょうか。
1994年の中華航空機事故のニュースでもたいほくと読んでたのでつい最近までそうだったのかと思います。
ノンビリひていましたね信じられないですね。ロケト時代大きく出た?
これスコーバレー五輪の時だから、1960年だね。しかしプロペラ機だらけ。それもDC-3からコンステレーション、セブンシーズまで全部レシプロ機だよね。
懐かしの昔の羽田、国際線のほうには「別れの窓」なんてあったなァ・・・機材はみんなレシプロばかりで、ただただ貴重な映像というほかない。乗降する向きが途中で反転するタラップがあったなんて(5:07~5:17)知らなかった。悪夢の昭和41年は、もう少しあとになるのでしょうけどね。
お粗末な家並みw今なら炎上しそうですが、ニュースの表現も時代で移り変わりますね
3分30秒ころに写っていた男性は私です
懐かしいなぁ
はじめまして。白いワイシャツの男性ですか?
空の安全にかかわる仕事に携わっておられたとは!
台北まで7時間。パリまで36時間。すごい時間がかかったんですね。
昭和35年の2月の映像でしょうか。途中、模型で出て来ましたがこの半年後に日本航空ではダグラスDC-8が就航しジェット旅客機の時代が始まりました。映像には出てきませんでしたがこの頃にはパンナムのボーイング707も羽田空港に来ていましたね。
ナレータの河井坊茶(かわいぼっちゃ)さん、懐かしすぎてレギュラー番組とか思い出せない。
羽田の飛行機見物に一家そろって小田急や南武線のって牛や馬のいる田舎から行った。1階のロビーだかにプラットアンドホイットニー社製のR4350超大型機用の28気筒エンジンが飾ってあって、何だか分からないけど凄い立派な物と感じた。見送りベランダでいろいろ見物していると、ターボファンジェットがまだまだ珍しくて、どのジェットもコンプレッサの金属音ももの凄く、基地のF104スターファイター同様に真っ黒な煙を出して富津のほうに飛んで行った。
帰りは、場所がらモノレールは乗れなくて冷房車を味わえなかったが、帰りの川崎の岡田屋デパートでアイスクリームとか食わせてもらって大満足だった。それからいくらも経たない20代の中ごろに仕事でひんぱんに外国に行くようになった。日本企業の海外進出は、高度成長期ではなくオイルショックのあとなのを実感できました。
この当時の大卒の初任給は壱万円の時代‥だからこの当時の26万円は現代の貨幣価値にすると500万円以上になると‥飛行機は富裕層しか利用出来ない
高価な乗物だった‥現在はLccが安値で世界各国を飛び回っている事をおもえば感慨深いです‥それにしてもロッキードのスーパーコンステレーション美しいですね~
はじめまして。物凄い高価だったんですね!
その前にこの時代一般国民には出国の自由もない。コロナ禍の中バンコク〜羽田が40万円ほどでしたから。また海外出にくい嫌な時代になりました
貴重な羽田空港の映像ありがとうございます!
>ジェット時代からロケットの時代
残念ながらロケット旅客機はまだ登場していない。
まだモノレールも来てない時代か。
羽田空港に乗り入れる前の京急の羽田空港駅は正にその対岸にあった漁師町の片隅にあったのよね。駅名だけ頼りに来た人が立ち尽くすしか無かったというのは有名な話。
貴重な動画だ!😊
レシプロ機ばかりの懐かしい羽田の映像と河井坊茶さん(テレビの草創期にピヨピヨ大学で学帽を被ってMCをされていましたね)のナレーション素晴らしい映像をありがとうございます。昭和32年頃だったと思いますが、未だ遊覧飛行というのが有って当時7歳くらいの私は父親に連れられてセスナ機に乗って遊覧飛行を楽しませて貰いました。料金は、うろ覚えなのですが(笑)・・1人5,000円位だったと思います。父親と私、それと父の映画関係の仕事仲間の子供と2人(?)の4人(?)で羽田を離陸し、未だ第一展望台の少し上くらいまでしか出来ていなかった東京タワーをぐるっと回り、羽田へ戻ってくる15分程度の遊覧飛行でしたが、本当に【雲にのる】ような素敵な気分でした。当時の5,000円は今の貨幣価値でどのくらいになるか判りませんが、父親は随分と奮発してくれたのだなあ・・今から思うと相当の散財をしたなと今でも思い出します。
今日6月1日は父親の誕生日(生きていれば103歳)にあたり父親を思い出すきっかけを戴きました。改めてアップロードに感謝申し上げます。
ナレーションが戦前のボートビリアングループのあきれたぼういず の 河合坊茶!ここでナレーションでお声がきけるとは!
1:28 台北からのCAT 7時間で5万円、
1:46 エアーフランス(エールフランス) 東京・パリー間 36時間26万円‥‥
これで「地球も狭くなりましたねぇ」って言われましてもねぇ~河井坊茶さん。
21世紀の視点だと 当時の飛行機って航続距離短いんだなって つくづく実感させられます。
船で何日もかかっていたことを考えたら、それでも早くなった方なんだろうなぁ…
現代の感覚で見たら遅いけど…
VIII WINTER OLLYMPIC TEAMの横断幕から第8回冬季五輪=スコーバレー冬季五輪だから、1960年の映像と分かりますね。
夏期だとローマあたりかな?
『TOKYO 1964』の前だからね(^^)
今羽田で働いててこの映像で出てきたとこらへんに住んでるけど今と全然違うな…ど田舎の地元は昭和時代の街の写真見てもほとんどすぐどこかわかるくらいなんも変わってなかったのに。都会ってすげえ。
これって、テレビ番組だったのでしょうか? それとも、映画の幕間に流されたニュースフィルムだったのでしょうか?
沖合展開事業でC滑走路とA滑走路を移転する前に、国際線のほとんどを成田に移管した後に、数10年後のD滑走路完成後に羽田に新規就航した後の国際線の便数の方が、この当時の羽田に発着していた国際線の総数よりも多いんでしょうね。コントロールタワーは管制塔の事を言ってると思うが、GPSなどない時代はラジオ塔の電波で位置を掴んでたんでそうね。今はたった1台の自家用車や自転車でも気軽にGPSを利用できる時代になりました。完成の通信技術が進歩しているとはいえ狭い空域で倍増した航空機の量を裁くのも大変です。
羽田空港の初期の様子ですね。
海外渡航が自由化されてない時代ですね
海外に行くには留学か駐在員、出張あるいは 国際試合に出るしかなかった
留学と言っても金持ちじゃない限り 国費留学とかフルブライトで、 輸出の多いメーカーの社員とか商社の社員、新聞社の社員なら出張・駐在で行けましたね
最初の入った輸出が多かった会社なので 海外に行きたくてこの会社に入ったと言う人が多かった 当時の社長が芸能人と仲良かったので 社員ということにして
海外旅行に行かせたなんていう話を聞いたことあります 外貨枠が決まっていて少ないので 闇ドルを持たせたとか
世界的な疫病で各国、鎖国状態なんて誰も予想してないだろうな
台北は「たいほく」って呼んでたんですね。パリは「パリー」と伸ばしていたのでしょうか。
1994年の中華航空機事故のニュースでもたいほくと読んでたのでつい最近までそうだったのかと思います。
ノンビリひていましたね信じられないですね。ロケト時代大きく出た?
これスコーバレー五輪の時だから、1960年だね。しかしプロペラ機だらけ。それもDC-3からコンステレーション、セブンシーズまで全部レシプロ機だよね。
懐かしの昔の羽田、国際線のほうには「別れの窓」なんてあったなァ・・・
機材はみんなレシプロばかりで、ただただ貴重な映像というほかない。
乗降する向きが途中で反転するタラップがあったなんて(5:07~5:17)知らなかった。
悪夢の昭和41年は、もう少しあとになるのでしょうけどね。
お粗末な家並みw
今なら炎上しそうですが、ニュースの表現も時代で移り変わりますね