【織田信長の合戦】桶狭間の戦いの実態【道と地形図で合戦解説】

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  • Опубликовано: 4 окт 2024
  • 織田信長と今川義元が1560年に戦った
    「桶狭間の戦い」についてその実態を解明するため
    道と地形図を使って分かりやすく解説した動画です
    この動画を見て動画の舞台となった地に旅行に行ってみたいと
    思ってくれたら幸いです。そうだ名古屋へ行こう!
    【おすすめの参考文献】
    かぎや散人、太田牛一「現代語訳 信長公記天理本首巻」(デイズ)
    amzn.to/3PIIuAQ
    「信長公記」は実は2種類あります、貴重な天理本が読めるのはこの本だけ
    初期の信長について調べるならこれを読まないと話になりません
    絶対にオススメ、信長ファンなら買って損はありません
    中川太古、太田牛一「現代語訳 信長公記」(2013、KADOKAWA)
    amzn.to/3NE6t1l
    「信長公記」の基本的な本、現代語訳を読むならこれがおすすめ
    信長ファンなら持ってないとやはりお話にならないかも
    梅垣牧「「桶狭間の戦い」の真実ー今川義元・氏真の終焉の地/その後の今川宗家ー」(2021、文芸社)
    amzn.to/3JGFSji
    サブタイの通り今川家が詳しい、今川が好きなら買ってもよいかも
    <よしふじ歴史ちゃんねるの動画>
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    地図引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」等を加工して作成
    #桶狭間の戦い
    #織田信長
    #よしふじ

Комментарии • 425

  • @Yoshifuji-Sengoku
    @Yoshifuji-Sengoku  Год назад +129

    新チャンネルで動画投稿1本目になります
    チャンネル登録、応援コメント、高く評価のボタンなど押して頂けると嬉しいです
    戦国時代の一ファンとして動画投稿がんばります

    • @jwenger88
      @jwenger88 Год назад +3

      旧チャンネルと立ち位置の違いをどこに置く予定ですか?
      チャンネル登録しました

    • @musashino_103hi
      @musashino_103hi Год назад +3

      前チャンネルのコミュニティのお知らせで、新チャンネルのこと知りました。
      もっと早く教えてほしかった。
      チャンネル登録したよ!

    • @ks-kr9ir
      @ks-kr9ir Год назад

      @@daisuke5755 辛辣だが同意俺も一瞬混乱した
      アナウンス動画とかあったほうがええ

    • @米井富春
      @米井富春 Год назад

      @@musashino_103hip4わ

  • @watyos8592
    @watyos8592 Год назад +81

    私はこの地域の生まれ育ちですが、とても納得のいく腹に落ちる見解です。私の実家のお墓は長福寺にあります。また、伝説地のほうには小学校の遠足で行きました。Cルートが最も自然なルートだと思います。また、あのあたりの地形をみても伝説地を核とした合戦説には無理があると思います。価値のある動画だと思います。

  • @KokonTouzai-Rekisi-Channel
    @KokonTouzai-Rekisi-Channel 7 месяцев назад +16

    私の先祖は信長の側近で、桶狭間の戦いでは本隊にはいませんでしたが砦(丹下か中嶋か善照寺だと思われる)を守っていたと伝わっています。今もその戦功で信長公からいただいた土地(父がアパートを立てて管理しています)を所持しており、信長公と桶狭間の戦いには特別な思い入れがあります。
    詳しく解説してくれてありがとう。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  7 месяцев назад +2

      先祖代々の土地を維持するだけでも大変だと思います

  • @cardman2401
    @cardman2401 Год назад +32

    あの辺りは隘路になっていて横に20人も並べばふさがってしまうほど狭い。 国道1号が片道1車線しかないような所。
    そんな場所で自城の救援の為とは言え本陣を手薄にして部下を向かわせた事、それを織田に察知されたのが運の尽き
    あそこでは兵力の差が10倍あったとしても先制攻撃側が有利すぎる地形。 現地を見ればわかるので是非歩いてみてください。

  • @-chitoitu-3076
    @-chitoitu-3076 Год назад +45

    生涯、豪雨、豪雪の中の奇襲戦を3度仕掛けて全て成功している信長公が凄すぎる。

  • @旅人はにー
    @旅人はにー Год назад +21

    沓掛城から南1.6kmの所に実家がある豊明市民です。なので桶狭間の合戦は今川軍目線でいつも見てます。沓掛城をスタートして、戦人塚、豊明市側の伝説地、緑区側の古戦場公園、丸根・鷲津砦、大高城、先日の大河2回目の翌日に久々回ってきました。石碑等の古さでいえば何といっても伝説地の方。昭和50年代まではこちら側が定説だったと思われ。で古戦場公園は銅像とか設置されて視覚的に訴えかけてるけど、昭和60年代あたりから整備されていて全てにおいてピカピカなんだよね。ただ伝説地にある最古の碑も合戦後250年も経ってから立てられた物。東海道からわずか100m、江戸時代は古戦場テーマパークだったかもしれないし?今川軍進軍ルートは、豊明ボランティアは郷土史家太田先生の鎌倉街道&間米ルートを、緑区は東浦街道&大高道ルートを主張。太田先生説は豊明非公認なんで、もしかすると豊明市教育委員会公式説もある?で太田先生説では、佐々軍の決死の先陣が古戦場公園辺りで今川軍の軍列の先頭と戦い、今川軍は数珠繋ぎの渋滞、進軍できない今川軍は仕方なく進軍停止(休憩)。で伝説地で休息してた義元を信長が襲って討ち取った。とのことです。また緑区説では、大高道から義元本隊のみ外れて古戦場公園で休息してたら信長に襲われて討ち取られた、となっています。どちらもあり得そうなんですよねー。またどんどん研究も進んでいくんでしょうね。ちな以前、伝説地の行った時に豊明ボランティアにいろいろ専門用語含めて質問してたら「ボランティアに入らない?」て逆スカウトされたこと、あります(笑)。

  • @浮草-l5j
    @浮草-l5j Год назад +67

    今川軍にとっては大高・鳴海城の後詰戦にすぎないのだから、信長以外の武将であれば、各砦を放棄して撤退していたことだろう。
    しかし信長は敵兵力を前線に引き付け義元の首を狙ったところが凄い。
    地図での説明わかりやすかったです。

  • @ysmiura
    @ysmiura Год назад +36

    今まで見た諸説の中で一番リアリティあるわ。

  • @hatlabo
    @hatlabo Год назад +40

    桶狭間のあたりは仕事で出向いている機械装置の工場があるので地形や道筋なども理解している、それとクリップの解説を照らし合わせてなるほどなぁと納得しながら見ていました。現地の地形などと合わせて考えると他説よりも説得力があると思いますね。

  • @しゅ-g6v
    @しゅ-g6v Год назад +44

    真偽についてはともかく、こういう考察系で説得力あるの初めて見た。見せ方もうまいし面白い

  • @yukichi3087
    @yukichi3087 Год назад +16

    こないだ大河ドラマでサルがものすごくザックリと説明していた戦術・戦局がこんなにも濃いのだったとは。
    次の動画も期待してます。

  • @トミテツ-z1o
    @トミテツ-z1o Год назад +23

    めっちゃたまたま見つけました!動画再開してくれるとは思ってなくて嬉しい限りです。 ゆっくりじゃないバージョンも良いですね〜。次作も楽しみにしております!

  • @-moriken-6313
    @-moriken-6313 Год назад +55

    信長はかなりの策士だったんですね。
    軍議で雑談をして戦略を隠す。素晴らしい。

  • @HK-io9on
    @HK-io9on Год назад +29

    こんなにも血が熱くなる合戦は他にない

    • @蛍火-p7t
      @蛍火-p7t 13 дней назад

      他にもいっぱい有るやろwww

  • @大庭相模守
    @大庭相模守 Год назад +73

    地図があると戦況が分かりやすくて助かる!

    • @zunbero8070
      @zunbero8070 Год назад +6

      自分も助かりました!

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад +13

      地図をがんばって作った甲斐がありました

  • @パチオ君
    @パチオ君 Год назад +24

    この有松ルートなら松井宗信の陣地からは織田信長の軍は見えない可能性が高い。鳴海城側を見下ろせる様に高台に陣地を張った場合に織田信長の進軍ルートが近いけどちょっとした丘を挟んでいて隠れてしまっている気がする。もちろん豪雨で見えないのも込みで。
    でもサラッと描かれてる今川義元の自領での進軍スピードが結構エグくて浜松城→岡崎城とか多分日の出出発で深夜到着になりそう。
    復活おめでとうございます。チャンネル登録してあるのにおすすめに上がらなかったのはブランクが長かったからかなあ。

  • @anakin001
    @anakin001 Год назад +26

    勝った側も不確かな伝承しか残してないとこからして、相当無茶な作戦だったのは間違いないんでしょうね

  • @user-hpshc849
    @user-hpshc849 Год назад +34

    海道一の弓取りとまで言われて天下人候補でもあった今川を倒した信長はやっぱり凄いんだろうなぁ…

    • @triple1853
      @triple1853 Год назад +8

      海道一の弓取りと言われるくらい腕にも自信があったから、信長は義元自らが前線まで出て来ると確信してできたんだろうな
      だから、本陣をどの辺りに敷くか先に分析してそのあたりに密偵を忍ばせてたのかもな

  • @flightlog508
    @flightlog508 Год назад +49

    非常に内容の濃い考察ありがとうございます!しかもわかりやすい!私も、同じ意見です。私は、信長はぎりぎりまで戦場に駆け付けないことで、大将がどこにいるかわからなくし、一つの砦に敵の兵力を集中させないこと(各砦へ攻撃をさせ戦力を分散)、鷲津と丸根への総攻撃が終わったころ(大高の敵戦力の休憩中)を狙ったタイミングでの移動・攻撃、加えて大高と鳴海の間に山があり戦力が大きく分断されること。(山が多い地域で大軍では行動しにくい立地)を把握したうえで戦ったように感じています。このスピード感であれば、誰かが今川に内通していても情報が届かなかったかと思いますね。ぜひ、他にも、関ヶ原の合戦の実態、厳島の戦い(毛利VS陶)など、大きな戦をピックアップして動画を作成いただければと思います!楽しみにしています!

  • @JS-xw6wr
    @JS-xw6wr Год назад +13

    こういう動画大好きだわ

  • @1412kidmagic
    @1412kidmagic Год назад +17

    信長本人が後に「(桶狭間で今川に)勝てたのはまぐれ」とはっきり言っているぐらいの奇跡。

  • @wtgajdmgt
    @wtgajdmgt Год назад +28

    小牧長久手の羽柴秀次のようなもので休憩中に奇襲されると簡単に崩壊する。

  • @ロック梅酒-h3m
    @ロック梅酒-h3m Год назад +6

    義元側目線で見たらかなり完璧に近い配置に見えるけど これはやっぱり信長の捨て身の戦術が凄いとしか言いようがない。

  • @skip99999
    @skip99999 Год назад +25

    数ある桶狭間解説の動画の中で、最も信頼できるまとまった動画であり、かつ娯楽性もあって珍重、珍重と思います。

  • @flightlog508
    @flightlog508 6 месяцев назад +2

    中島砦から4kmも満たない距離に今川本陣があった。本陣の場所がわかって、これくらいの距離なら当時は目の前という感覚だと思う。本陣設営準備の情報が前日までに耳に入っていたなら、信長は前日の会議をはぐらかしたこともわかる。当日は、少なくとも今川本体の一部が離れて警戒していることも斥候の情報で把握していたかもしれないし、天候もゴロゴロと言っていれば、豪雨になることもわかっていた。そうやって、勝手にいろいろと考えてしまうくらい没頭できる素晴らしい内容です。ありがとうございました。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  6 месяцев назад +1

      清洲城での軍議が雑談で終わったのはもう軍事情報の秘匿ですね、小説の簗田さんの今川本陣通報が妙に説得力あるのも人物は別として事実に近いからなのかなぁと思っておりまする

  • @user-4rtm3m0cho
    @user-4rtm3m0cho Год назад +26

    また面白そうな歴史解説チャンネルがひとつ…!

  • @桔梗屋幸伯
    @桔梗屋幸伯 6 месяцев назад +3

    地図の海岸線がしっかり作り込んであるのに感服しました。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  6 месяцев назад +2

      海岸線や国境に街道、河川跡は絵じゃなくて3Dマッピングだったりするので拡大も回転も可能なのです

  • @たけさん-k3g
    @たけさん-k3g Год назад +7

    義元にすれば分散・並列処理して高速に戦に勝つつもりだったし上手く行けばスマートな戦略として称えられたかも。
    バランスよく布陣させることで諜報網としても使えてたし、天候という運がなかったらどうなってたか・・・

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад +4

      あの時あのタイミングでしか成功はないと思うのでやはり天に選ばれたとしか

  • @baban616
    @baban616 Год назад +6

    たまたま見たけどめっちゃ面白い!!次回も期待してます

  • @vfr7419
    @vfr7419 6 месяцев назад +1

    既存の通説が悪天候での奇襲ばかり着目しているところ、前線の攻城戦に今川の戦力を引き出して本陣を手薄にする過程が詳しく解説されていて、良解説だ。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  6 месяцев назад +1

      義元をひきずりだした信長の戦略勝ちかなぁと

  • @高田健一-l7l
    @高田健一-l7l Год назад +6

    桶狭間は入り組んだ地形で、大軍が近付いてはいけない場所。孫氏の兵法を知る武田信玄なら絶対着陣しなかったはず。
    信長が近付いてくるのが見えても思うように軍を動かせなかったはずである。

  • @マサミさんスズキ
    @マサミさんスズキ Месяц назад +1

    桶狭間から本能寺までハッキリとした詳細が残ってないミステリアスな信長が本当に好き♥

  • @yassysmovies9403
    @yassysmovies9403 Год назад +9

    信長は情報収集力と情報処理力が凄かったんだなぁ

  • @harigane4773
    @harigane4773 Год назад +6

    おお!新チャンネルなんですね!アイコン変わったな~と思いきや!
    さっそく登録いたしました!!

  • @3bukkii458
    @3bukkii458 Год назад +4

    義元がそこにいなかったらどうすんだろ
    と思いながら興味深く拝見させて貰いました
    確証があったからこその策だとは思うのですが、その確証を裏付けるものが欲しいですね

  • @heliodor555
    @heliodor555 Год назад +13

    地図に布陣、進撃ルート(推定)を示してくれての解説すごく助かります! 義元の本陣強襲説支持派ですが、義元の前衛部隊は避けられるに越したことはないので渡河して前衛を避けながらの強襲(奇襲)ルート説に納得です。

  • @discovery-defender
    @discovery-defender 8 месяцев назад +2

    とても興味を引く動画で秀作です。

  • @yellowpanp6099
    @yellowpanp6099 Год назад +3

    地図のおかげでわかりやすかったです
    地図上にスケールがあれば、それぞれの間の距離感と移動に掛かるであろう時間を想定できたでしょうから、より理解度が増したと思います
    流石に細かい時間まではわからないんでしょうかね、それがあれば更にでしょうね

  • @桔梗屋幸伯
    @桔梗屋幸伯 Год назад +2

    なるほど。武路に住んでいたことがあるので地形的には納得しやすい展開でした。

  • @Azure-tv9oz
    @Azure-tv9oz Год назад +1

    復活ありがとうございます。

  • @古橋-n9b
    @古橋-n9b Год назад +16

    地形図を基本にして、細かな軍の動きから客観的に歴史を見る感覚は大好きです。最近信長の義元陣営が真正面から攻めている説がでてきて嬉しい限り。ただ泥田にある道をまっすぐ攻めていくことで、数のマイナスをなくすことはわかるけど、どのように義元陣営を攻めたか?詳しく知りたいです。

  • @山本さえ-k7d
    @山本さえ-k7d 7 месяцев назад +1

    私は、歴史が好きで桶狭間の戦いが、きになったのでよかったです。

  • @engawanoneko2435
    @engawanoneko2435 Год назад +3

    先日NHKで桶狭間が取り上げられた際に大高城代となってた鵜殿氏について語られていました
    また伊勢湾を挟んだ海西郡の服部党が今川方として参加していたり蟹江城を巡って争っていたりしています
    義元は尾張の海岸部(特に熱田津島)を抑えようとしてたのかもしれませんね

  • @姫生姜
    @姫生姜 Год назад +22

    復活おめでとうございます!
    考証がロジカルなので見ていて納得
    出来ます。
    尾張の海部分、400年ですげー埋め立てられててびっくり!🙀

  • @きづか-y4z
    @きづか-y4z Год назад +1

    豊明市に長年住んでいました。桶狭間も隣町でした。地名もほとんど分かります。
    わかりやすい解説で面白いですね😊

  • @はげネズミ
    @はげネズミ Год назад +6

    考察お見事でした。地図を見ながらの説明でとても分かり易く良いものを見れました。

  • @aamm11111
    @aamm11111 Год назад +7

    戦場に砦を広く並べて、敵をバラバラにしたわけですね
    今川側は正面を広く攻めていたつもりが地形の妙で右翼がガラガラになっていた
    すこし時間がたてば、この状況は無くなってしまいますね。
    なるほど、コレは偶然の勝利ではない、もし義元がこのルートを取るように仕向けていたのなら、やはり戦争の天才ですね。

  • @evoevo6b
    @evoevo6b 29 дней назад

    とても分かりやすい説明ですね。この説を基に現地へ旅したいと思います!👍

  • @HARAMI-e3h
    @HARAMI-e3h Год назад +10

    桶狭間は色々な説がありますが納得できる考察です!
    次回の動画も楽しみにしています!

  • @麒麟檸檬-i1d
    @麒麟檸檬-i1d 6 месяцев назад +1

    太田牛一の信長公記では雨が降り始めたのは今川との交戦開始後と明記されていること、兵数の差はあったが今川方は広範囲に展開していたため信長の強襲に耐えられなかったとされるなど、桶狭間奇襲説は後世の創作(主に甫庵信長記)と考えられてます。

  • @酒井建-w2z
    @酒井建-w2z 4 месяца назад +2

    一瞬の油断と天候で歴史は変わる。信長も最後は本能寺だからなあ。

  • @島純-z5k
    @島純-z5k Год назад +10

    この戦いを知れば知るほど今川義元はそこまでの失策を犯していないことがよくわかるし、むしろ打てる手はしっかり打った上で盤石な進軍をしているのだから、本当に運がなかったのだと思う
    もちろん、その運を引き寄せる布石を入念に打った信長が素晴らしいのは大前提として

    • @m.s.9023
      @m.s.9023 Год назад +5

      戦闘目的の違いも大きいね。今川義元からすれば前線の砦を救い、自国領を広げるための、ある意味「いつもの」戦い。しかし織田信長は今川義元の首級を取る事が最大の目的である「己を賭けた」戦い。今川義元はまさか織田信長が首級を取りに来るとは考えていなかったのかな。

  • @NagoyaKuromon
    @NagoyaKuromon Год назад +3

    織田信長の桶狭間山への進軍ルートの説明が合理的です。義元は襲われてから西に逃げ 古戦場公園あたりで討たれた説明も分かりやすいです。
    ただ 可能性としてですが 織田軍は東に向かって攻めたということから 東に逃げた義元が 古戦場伝承地で討たれたという可能性もありではないかとも思います。 いずれにしても 分かりやすい説明で素晴らしいと思いました。

  • @206dayo9
    @206dayo9 Год назад +1

    おひさしゅーございます また動画が見れて嬉しいです

  • @myoujinnfuru5649
    @myoujinnfuru5649 Год назад +2

    今川義元が布陣した場所は中島砦、鳴海城への道と大高城へ回るT字路、信長坂をあがる方面が大高城への道。
    T字路に沿ってVの字に布陣したのでしょうね。中島砦、鳴海城方面の中山道から敵が来ると想定した布陣で、また状況によって大高城へも鳴海城にも行けるように。
    桶狭間古戦場の伝承地が二つあるのは、Vの字に布陣した為だと思われます。
    長福寺の大池方面(大高城への道)に義元がいたなら逃げれたかも、高徳院にいたら逃げ道なし。地形上。
    どうにしろ義元がT字路付近に布陣するようあらかじめ信長が仕掛けた可能性が高い。
    長福寺の大池ってのも丁度いい場所に道を塞ぐようにあるので逃げたら渋滞する。池も信長作か?

  • @myoujinnfuru5649
    @myoujinnfuru5649 Год назад +2

    地形上、中島砦は鳴海城から丸見え。鳴海城と同じ台地上にあるのが善照寺砦で、鳴海城の唯一の死角が砦の善照寺砦裏。
    善照寺砦裏手には一段下がった広場のような場所があり軍勢を集結できそうな空間あり。
    鳴海城からすると善照寺砦が邪魔をして善照寺砦裏手が死角となり、ついでに沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も死角でになっており道が見えない。善照寺砦裏下広場から沓掛城に向かう一本道(現、県道36号)も繋がっているのでそのまま兵を出せます。
    おそらく鳴海城から見える正面に砦の入口を構え目立つように塀や建物を建造、そして砦の裏手にも出口をもうけてそこから坂を下り
    広場のような場所に軍勢を集結できるような工夫がなされていた可能性が高い。
    鳴海城からは入口に入った所は見えるけど裏に下の広場へ通じる出口があったなら集結してるのは見えない。入口から軍勢が入ったのを確認し出てこないので鳴海城側からすれば安心してしまう。
    この見えない死角を利用し信長は出陣したのでしょうね。鳴海城からの死角で出陣したのがわからなかった。国土地理院地形図(赤色立体地図)から察するに。

  • @CullinB
    @CullinB Год назад +2

    子供の頃瑞穂区や笠寺や鳴海に住んでて砦って善照寺砦がまだ残っててそこで遊んでて信長は幼稚園の頃からこどもの英雄扱い(笑)
    大高も大高公園あったので年中遊びに行ってたし遠足で東の方もよく行ってたので地形は把握してました
    大人になって信長公記とか読んでなるほどーと思いつつも昔はここまで海岸だったんだよなーと

  • @mitoman32
    @mitoman32 Месяц назад

    現代では桶狭間周辺の山々は均されて平地になっているのが良くわかる。地理が好きな自分にはありがたい

  • @harapan08
    @harapan08 Год назад +1

    大変に説得力のある内容で面白かったです😊織田信長の桶狭間は、どこまでが偶然でどこまでが必然だったのか?
    最後に今川本体がばらけて手薄になったのは流石に読みきれないはずで、ラッキーだったのかなぁとは思いました😂

  • @kuru0048
    @kuru0048 Год назад +15

    現地あたりに住むものですが不思議なのが鳴海城の岡部元信の挙動 善照寺砦も中島砦も鳴海城から500mほどの距離 特に中島砦など鳴海城から俯瞰できる位置関係であるのに真っ昼間信長勢の集散をただ見過ごしてたんですかねえ

    • @YY-gg2pw
      @YY-gg2pw Год назад +2

      包囲下にあったので見てはいたが今川本軍に知らせるすべがなかったとか…?

    • @コンドル男栗山
      @コンドル男栗山 Год назад +3

      @十束丹居候太 これまじであり得そうですね

  • @やまやす-p7w
    @やまやす-p7w Год назад +22

    尾張・美濃のマイナーな戦いを解説する動画がなくて復活してほしいチャンネルだったので\(^_^)/今後も楽しみにしてます。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад +1

      案の定2作目がクソマイナーな戦いてんこ盛りw

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Год назад +4

    大変に分かりやすい解説でした。
    信長公記では前衛部隊との戦闘は記されておらず直接今川義元本陣を襲撃しているのですが、このような迂回であれば納得もいきますし、窮地において半ばパニックに陥り仲間を頼ろうと集まる本能により山を降り、谷津で雨による泥濘にはまってしまう流れも自然です。
    織田信長が今川義元本陣を特定できたのは、周囲の友軍から見えるよう馬印などを高々と掲げていたという点も大きいでしょうね。
    逆に織田勢は旗指物は全て捨ててステルス性を高めて接近したでしょう。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад +2

      正面攻撃説は無いかなぁと思ってこの説を採用しました
      名古屋市側の地元では信長坂からの攻撃を推してるんですよね

  • @musashino_103hi
    @musashino_103hi Год назад +4

    桶狭間の戦いを詳しく知らない人でも、地形図を使った解説で分かりやすい動画だと思う。
    信長が義元に奇襲で勝利できたのは強運だけでなく、戦場となった尾張南部の地形を熟知していたことも大きいでしょうね。
    裏道や小道を使って、桶狭間まで上手く移動できたのは大きかった。

    • @yoshii871
      @yoshii871 Год назад +2

      当時の地形をさらに重ねると面白い

  • @正昭岩下
    @正昭岩下 Год назад +3

    正面突破説とか偶然の遭遇戦説とかあるがどちらも今川軍を軽視している。この新説を支持します。信長は義元のいる場所を特定したのちなるべく軍勢を隠しながら本陣に突撃した。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад

      私も同じ理由で正面突破は懐疑的ですねぇ
      腐っても今川家なんで簡単に正面突破はされないかなと

  • @js-fd1ri
    @js-fd1ri Год назад +2

    歴史解説はもちろんですが、当時の海岸線がとても面白いです 水野家は水運の家だったのかな? 今の刈谷城は内陸にあるので意外でした

  • @yuuisi9962
    @yuuisi9962 8 месяцев назад +1

    敵の大将や君主を野戦で討ち取るか囚えれば勝ちだけど
    世界史でも滅多に起きない劣勢側の大逆転をやっちゃう信長が凄い
    というか宮島合戦なども含めて何度か起きてる戦国時代がヤバすぎい

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  7 месяцев назад

      世界的に見てもかなりの戦闘民族だと思います。鎌倉武士とか世界最強クラスのマルチファイターですし

  • @れんげ-l5y
    @れんげ-l5y Год назад +3

    とても分かりやすく地図も見やすいです。次の動画の期待します。

  • @平木下和馬
    @平木下和馬 Год назад +4

    攻めてるはずが攻められている戦
    これは歴史上稀に見る名戦だよね
    厳島の戦いもあるけど
    あっちは海上の有利を取らなかったから負けただけだから
    桶狭間の戦いとは状況の有利が違う

    • @nomoney8296
      @nomoney8296 Год назад +1

      それなら戦国三大奇襲の残りの一つ、河越夜戦は如何かな?
      相手が格落ちするとか言うのは禁句だよ!

  • @serucaicyou
    @serucaicyou Год назад +1

    桶狭間地元民ですが桶狭間山の地はいまだ確定してないので一説として面白いと思います。
    神明様の北は緩やかな窪地になっていて今の桶狭間小学校とカーマ辺りで乱戦でしょうかねぇ

  • @mdjgjtw
    @mdjgjtw Год назад +4

    とても聞きやすくわかりやすくていいですね。

  • @ぽち-g5j
    @ぽち-g5j Год назад +11

    従来の義元が攻めてきて信長が天才的な臨機応変さで討ち取ったと言うより、付城戦略も含めて信長が今川軍をおびき出して、はめて討ち取ったって言う印象を強く感じました。今川軍が攻めて来たらどこに布陣してどう動くかも何年も前から当然予測して考えていたはずで狙いが完全にハマった結果なのかもしれませんね。義元を討ち取ったわすが数日後に美濃に出兵している事から信長にとって今川軍を倒すと言うのは想定内の事だったのかもとも思います。

  • @オリバーウッド
    @オリバーウッド 18 дней назад

    応援しています🎉

  • @fujikyunsanpo
    @fujikyunsanpo Год назад

    細かいのに分かりやすかったです。次の動画が楽しみです!

  • @hiroto291
    @hiroto291 2 месяца назад

    すばらしいです。感動🥹

  • @hilldale5495
    @hilldale5495 Год назад +2

    地図が丁寧に描かれていて、地形的な行軍ルートの理屈がよくわかりました。
    桶狭間のあたりは今は住宅街ですが高低差の顕著な土地です。尾張•知多•三河を隔てるのに充分な山谷であると思います。
    なので今川義元は山中(さんちゅう)にて御休憩の折に討ち死に。
    織田信長本隊が今川方に見つからずに義元本陣にたどり着けた奇跡がこの戦の勝敗を決定づけた『地理の妙』でもあると思いました。

  • @白狐姫
    @白狐姫 Год назад +2

    復活おめでとうございます。いつも楽しく見ていますので、楽しみにしています。

  • @Chihuahua0358
    @Chihuahua0358 Год назад +4

    非常に分かりやすいです🎉

  • @LandMark291
    @LandMark291 4 месяца назад +1

    今宵はこれまでにいたしとうございます。
    ってかなり前の大河ドラマの毎回の最後を締める言葉でしたね。
    (タイトル忘れちゃった)

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  3 месяца назад +1

      大河「武田信玄」の信玄母役の若尾文子の名セリフ
      良い大河には記憶に残る良いセリフがある・・・

  • @you-yq3wi
    @you-yq3wi Год назад +2

    今川家好きだったから、織田家に勝って勢力拡大するところ見たかったな😭…

  • @高谷民動
    @高谷民動 Год назад +2

    復活おめでとうございます。今後も楽しみです。

  • @sebon77
    @sebon77 Год назад +1

    桶狭間の戦いの動画もたくさんありますが、長い内容ですしこれくらいのスピードの音声の方がテンポよくていいと思いますね。
    ゆっくり音声も嫌いじゃないですがやはり見飽きて(聞き飽きて?)最近は最後までみる気が薄れてきました 汗
    内容も要点を抑えてて細かな所はバッサリと切り捨てる感じで個人的には非常に良いと思います!

  • @山下直人-n2n
    @山下直人-n2n Год назад +2

    常識から言って五騎で出発して、同日に数千が集まるはずなく、事前に陣ぶれしてるはず。今川の兵力を分散させながら、想定された場所に本陣をはらせた作戦勝ちと言うところか。この辺りは小さい丘があり、谷の間をぬって接近したと言うのは同感です。
    元々、今川の国力と尾張統一をほぼ果たした信長の国力はそんなに差はなく、地の利を生かした信長が負ける要素はなかったと考えます。総大将が戦場で討ち死にするところまで、想定しておらず、これは棚ぼただったのでしょうが、運が味方した信長に歴史は一気に傾いたのでしょう。

  • @omochimochiomochi1224
    @omochimochiomochi1224 Год назад +1

    地図があるととても分かりやすいです

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  Год назад

      地図は頑張って作ってるので褒められると嬉しいです

  • @isobeferrero9778
    @isobeferrero9778 Месяц назад +1

    昔は歩いて合戦場まで行くのだから大変だよな。清州から鳴海までなんて絶対歩けないよ、俺なら。

  • @tanntei-hiroto
    @tanntei-hiroto Год назад

    すばらしい動画です‼️ぼくは信長が好きでとくに桶狭間はいろんな資料を読みました。いゃ〜すばらしいですね。ここまでのクオリティはなかなかないですよ。すごいです。ほんとに。😊
    チャンネル登録させてください!これからも応援してます!

  • @hiros3319
    @hiros3319 Год назад +2

    尾張は経済的に発展しており、石高も今川との差が少なかったと言われていますね。
    後世で言うほど、数千人VS数万人の戦いではなかったのかも知れませんね。

  • @nakka1682
    @nakka1682 Год назад +1

    詳しくはないのですが結構妥当そうで面白かったです。信長って基本的に味方も信用しませんよね

  • @Nyansuke1981
    @Nyansuke1981 Год назад +4

    分かりやすくて面白かったです。

  • @macsy1955
    @macsy1955 6 месяцев назад

    今川家という名門の大家と尾張の自由奔放な若大将との戦いですから、その双方の特徴が明暗を分けましたね。大軍に勝つにはどうするのか?の答えがあります。地の利と行動力だけでなく運も味方をしました。積極性があったからでしょう。
    この戦いの結果はその後の織田家の行く末に良い影響を及ぼし続けましたね。

  • @手羽先-h8b
    @手羽先-h8b Год назад +1

    信長は神がってる。敵の部隊を分散させて、本陣を手薄にして天候を味方につけ、短時間の内に義元の首を取り、その情報を戦地に広めて今川軍を追い払う素早さ。
    どっちつかずの水野の動きを使って今川軍に退路を断たせることも出来たはず

  • @mujinamiti
    @mujinamiti 8 месяцев назад +1

    今川義元が本陣の守備をもっと固めていたなら、織田信長の特攻にも対応できたと思われる。
    この時、信長の兵は精鋭とは言っても大きく見積もって3500。対する今川は5000程。
    奇襲でなく正面突破でも織田側が勝つ機会は有りました。
    ともかく、子細に調べてて好感が持てましたので、Ch登録致します。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  8 месяцев назад +1

      正面突破説が厳しいなぁと思って自分は新・迂回襲撃説をとっておりますが、そのうち詳細なリメイクを作りたいとも思ってます

  • @sakusaku6747
    @sakusaku6747 Год назад

    テンポが良かったです。

  • @OBIWAN12261213
    @OBIWAN12261213 Год назад

    納得できる内容だった

  • @ごんちゅうなごん
    @ごんちゅうなごん 5 месяцев назад +1

    個人的には正面衝突説かなと思ってます。第一に石高を考えると兵力差は通説程差は無かったかと、あとこちらの動画でも描かれてますが今川軍が兵力を分散していた、織田軍が砦から撤退し兵力を温存と、正面撃破でもそこまで無理が無い気が、どちらにせよ一番の決め手は信長自ら全力で打って出た事(後の戦いでも自ら前に出てるしこの辺が信長の凄い所)。他の大名家では普通形だけで終わります。今川もそれを想定して油断してたのかも

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  5 месяцев назад

      学会だと正面突破説と乱取り説で落ち着いてしまった感がありますね

  • @MultiHuhihi
    @MultiHuhihi Год назад +3

    面白そうなチャンネル、見つけてしまいました。
    旧国名と位置関係は知っていても、今の地図とのリンクが僕の中であまり解像度が高くないため、見ていて面白いです。

  • @murasondayo
    @murasondayo 7 месяцев назад +1

    会社近くに 沓掛城趾 があります。春になると桜🌸が咲き良いところです。

    • @Yoshifuji-Sengoku
      @Yoshifuji-Sengoku  7 месяцев назад +1

      聖應寺の裏山が当時の沓掛城(沓掛古城)じゃないかと云われてますので、
      近くならそっちにもオススメかも

  • @メガネサブ垢
    @メガネサブ垢 Год назад +148

    敗因は太原雪斎がなくったからだな多分

    • @engawanoneko2435
      @engawanoneko2435 Год назад +35

      雪斎が生きていれば
      尾張に対してもう少し早く大きな手を打ててた可能性が高いですからね
      少なくとも義元が討死する様な状況にはなってなかったでしょう

    • @マスカット-p7u
      @マスカット-p7u Год назад +48

      けっして義元が無能な訳では無いが雪斎がいないのはかなり痛手だよね

    • @田中三-p7l
      @田中三-p7l Год назад +24

      雪斎が生きていたら、義元のように油断して桶狭間山で ランチ会なんてすることなかったと思う。信長が清州城から出る前に、そのまま本陣を大高城に速やかに移動させていたと思う。実際に小豆坂の戦いで、雪斎VS織田信秀(信長の父)の戦いで、信秀を出し抜いて大勝しているし。

    • @大黒天-d7h
      @大黒天-d7h Год назад +7

      その通り
      皆んな良く知ってますね

    • @影の政府
      @影の政府 Год назад +9

      それもあるが情報戦で負けていたのだ、天気や地形、敵の状況等々

  • @watanabesumioh
    @watanabesumioh 2 месяца назад

    これは妥当な見解ですね。説得力があります。

  • @とらのやぼう
    @とらのやぼう Год назад +5

    センゴクの信長の外伝でもこの説を取り入れてますよね〜。
    奇襲自体は必然と言えるかもしれないですが、そもそもの戦況として、信長は絶望的に追い込まれており、九死に一生を得て反省した信長は、以降なるべく戦をせずに済む方法(調略、経済力)を徹底していたとか。

  • @RekishiRyoko
    @RekishiRyoko Год назад +1

    参考になったので来月自分のチャンネルで桶狭間行って動画にします