隠された絶望の罠!信長VS最強の武田軍【長篠の戦い】世界の戦術戦略を解説
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- Опубликовано: 1 окт 2024
- 今回は戦国時代、織田信長の【長篠の戦い】をアニメ付き解説!
三段撃ちやら最強の騎馬軍団やら言われるけど、ほぼないらしい・・・じゃあ長篠の戦いって何なのか?本当の勝因とは?
再生リスト【世界の決戦シリーズ】→ • 不可能を覆す史上空前の決戦【カンナエの戦い】...
参考文献
平山優【長篠合戦と武田勝頼】【検証 長篠合戦】【武田氏滅亡】
藤本正行【長篠の戦い】
小林 芳春 【戦国ウォーク 長篠設楽原の戦い】
桐野作人【火縄銃・大砲・騎馬・鉄甲船の威力】
ルイス・フロイス【完訳フロイス日本史】
西脇総生【戦国の軍隊】
名和弓雄【長篠・設楽原合戦の真実】
海上知明【戦略で読み解く日本合戦史】
乃至政彦【戦国の陣形】【図解・戦国の陣形】
学研【グラフィック図解 長篠の戦い】
現代語訳【雑兵物語】
歴史群像No50 No143
他にもあるけど大体こんな感じっす
素晴らしい画像の提供元
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信長イラスト nabe / PIXTA(ピクスタ)
騎兵・足軽イラスト freehand / PIXTA
★メンバーTwitter・インスタ
ぴろすけ→ / itukapirosuke
→ / pirosuke_ituka
いつかやる社長→ / itukayaru0
いつかやる副社長→ / fukushachou9
★キャラクターイラスト提供
武井 怜様
Twitter→ / kinishisugigirl
BGM提供
魔王魂様「裸足の勇者」
Dova syndrome・作曲者kk様「全てを創造する者」
#歴史 #世界の戦術戦略 #戦国 #軍事 #合戦
明日あたりにぴろすけ君が鳥居強右衛門の動画あげるのでそちらもよろしくお願いします!
さて今回は長篠の戦い!てかこれ謎多すぎぃw
でもいたるところにロマンが溢れてる戦いで長篠関連の本を読んでると、著者のみんなワクワクした感じで思い思いに考えを書いてるのがおもろいwこれでないと歴史は!
もう、皆の考えもどしどしコメントで聞かせて下さい~。
今更ながらの質問も大歓迎よ!きっと誰かが優しくあやすように答えてくれますw
ちなみに副社長的にはやっぱり信長の主な勝因は【武田軍を強火力の野戦築城に攻撃させ続けた事】って感じ。つまりその状況を生み出した優れた作戦と指揮だったじゃねーかと。
ていうかそもそもこの兵力差と野戦築城あったら、いくら武田とはいえ鉄砲がなくても勝てる見込みがあるから最悪鉄砲が使えなくてもいけると思いますわ。
あとチャンネル登録、評価、コメよろです~
すねえもん好き
映画作ってほしい
戦国時代もいよいよ終盤のこの時期は、織田&徳川方も武田方も長篠の戦場で家紋の旗以外に日の丸を
沢山掲げて「俺たちが日本を引っ張る」的な意気込みがあって良いよなぁ・・・。
三国志の戦いとかはやらないんですか?見たいです
@@user-sokutan 三国志の戦いあげるのはいいけど、赤壁の戦いに元ネタあるのってご存じですか?
現地に来て戴けると解りますが、織田、徳川連合軍の布陣位置はとんでもない急斜面でとても騎馬では突破出来ない程です。
そこに土塁や柵を設けてあるため、いかに精強の武田兵でも簡単にはいかないと実感します。
鉄砲が無くても槍や弓で十分だったと地元では伝わっています。
鳥居強右衛門は本当の男ですよ?
地元では今でも英雄です。
歴史の流れを変えたかも知れない男の活躍を解説 よろしくお願いいたします。
相手方がこちらの意図通りに動かざるを得ない状況を作り出す。これが一番すごいと思う。
奇しくも、勝頼の父信玄が好んだ孫子の兵法とかぶるな
ヤン・ウェンリーや。
信長って人一倍勉強家かもね。でなければあらゆる戦術を繰り出すことができるのは努力の賜物だと思う。それも未然と見せないのが信長らしいね。
@@bow3954 ワンチャンガチガチの天才
信長はそら天下統一で、一歩手前まで行ったのが凡人なわけがない。日本人としてはね…(古代ギリシア人が凄すぎるだけ)
ちょうどNHKで長篠の戦やってたからさすがだと思った。意外にも武田家は鉄砲隊が1000人くらいいたとか
鉛不足で銅銭溶かして弾作ってたとか、鉛鉱山が長篠城の近くにあったから欲しかったとか
最近は今までの歴史の通説が覆ることも多いから、日々更新していかないといけない
信長の天才的戦略眼だよな 道を整備して物流と移動を楽にしといて
尚且つ本拠地からとはいえ3万もすぐに行軍できるほど人・物資の手配を決めれるのは化け物
信長の側は常備軍、武田の側は農民兵だったのではないかと思いますね
@@Switzerland6074 ゲームではそうだね
戦は、いつの世も情報と補給が、重要ですね。解説並びに動画編集お疲れ様でした。
参考文献の量やばすぎ。
歴史系youtuverはほんと仕事量がえぐいですな。
事実かどうかが難しいから沢山調べるしかないですよね。
ドラマとか創作の影響で長篠の戦は「織田軍の鉄砲の前にあっけなく崩れた武田軍」の印象が強いけど
実際は「武田軍が織田軍の鉄砲攻撃にも怯まず、苛烈に食い下がって織田の陣の一部が崩された」位
長篠の戦は死闘だった。
無論斬新な戦術を用いた織田軍も見事だけど、この織田軍相手に八時間も食い下がる武田軍もヤバい。
長篠の戦いを描いた絵にも柵を騎兵に食い破られている描写が有りますね。
武田もやはり強いし後方も脅かされているから必死の攻撃だったんでしょうね。
柵の一列目で簡単に撃退してたら、攻め続けなかった
「よし、行ける!!」と思わせるだけの「綻び箇所」を用意しないと武田は攻勢を続けないだろう
@DECTLIEL撫梅雨
当時のアメリカ軍って装備面は実際そうなんだけど
作戦の方は実は沖縄戦に至っても結構脳筋なところがあって、さすがに沖縄戦かつ防御側ということで圧倒的に地の利がある日本軍に対して
正面突撃→壊滅→正面突撃→壊滅を戦線突破するまで延々繰り返してゴリ押しで勝ってたりするんですよ
(嘉数の戦いなんかが顕著な例)
@@TTbrandaccount それ聞くと、ソ連だけじゃなくて、アメリカも畑から兵士収穫してそうだな
@@CHOCOBOLIA
それを複数箇所意図的に作ってわざとと攻めさせて疲弊を誘った?
武田勢も決してこの戦場での判断は間違っていなかったのだろうけど、織田がこの戦場に至るまでにかけた手数が圧倒的過ぎた……。ドリフターズの信長が言ってた「戦なんてものは始まる前に勝敗が決してる。大事なのはいかに準備するかよ」みたいな事言ってたけどこういう事なんだな…………。
ヤンウェンリー提督も仰ってる。
ドリフで思い出したけど、志村って武田家臣の末裔なんだって。武田滅亡後、家康に召し抱えられた志村又左衛門がご先祖らしい。
あと志村けんの実家は東村山で300年続いた名主の家の分家だって。
ファミリーヒストリーでやってた。
この台詞は、信玄も言ってそうですけどね。
毛利元就の「謀多きは勝ち、謀少なきは負ける」と同じですね。
うちの兵士は弱兵ばっかりだから、あれこれ工夫や準備をしないと勝てないみたいな事言ってましたね。
織田軍が火力で武田を粉砕した戦いだという印象が強かったですが他の要素も色々あったんですね~
勝頼は巷で言われてるよりかなり優秀だったけどこの時は完全に罠に嵌ったって感じですな。
世代的には徳川家康、北条氏政のライバルだからな武田勝頼
勝頼は信玄亡きあと勝ち続けて領土を増やしていたんだけど「負け戦を知る」ことも大事なんだなぁ…と思う。
その点、信長も家康も時々負けているし、あの信玄ですら何度か負け戦をしている。
あと、信長は武田との決戦を想定して何年も前から決戦場を念入りに調べていたんだと思う。
鳶ヶ巣山への裏道とか。
もしかしたら気象条件(朝霧が出るとか、いつ頃梅雨が明けるとか…)
更に言えば決戦場は長篠の他にも何ヶ所か想定して調べ尽くしていたのかも?
信玄は同じ相手(村上義清)に二回負けていたけど他にどこで負け戦を経験したんだろう。
まあ信玄に限ったことじゃないが負けを知ることで名将へと成長していったんだと思います。
(もちろん誰もができることじゃない、負けを知って心が折れる人も出てくるだろうから)
3:55 さりげなく内通者殺されてるけど、この時代ってやっぱり気合が違うよな。現代でも密告とか情報流すのって結構リスク高いのに戦国でそれは命懸け。内通者も度胸あるなあ
この内通者は信長が滅ぼした今川家の武将の娘であり、家康の妻だったとかね
自軍の戦力をギリギリまで隠し、また相手に自軍は戦に消極的と思わせ決戦を武田軍に決断させて、尚且つ最終的に選択肢を絞らせる。
こうまでくるともはや芸術の域ではと思えるぐらい見事な戦術ですね。
むしろ長篠に至るまでの間が勝負とも言える。堺、熱田、敦賀、津島、大津などの港湾都市を軒並み押さえた上で武田陣営に仕掛けた経済封鎖が武田陣営に少しずつダメージを与えていた上に信玄最期の遠征で軍資金を枯渇させた上、直前の長篠城攻防戦でなけなしの兵糧を消耗させると言った徹底的な兵糧攻めで勝ったと言ったところか。
戦に至るまでの情勢の解説があると
○○の戦いという端的なものはまた違った視点で見えて新鮮です💡
領地の東西に敵がいる複雑な情勢のなかで機を計り、当時最強と謳われた武田軍を
手玉に取るように撃滅した信長はやはり尋常ではない切れ者だったんだと
再認識いたしました!
この戦いのMVPは間違いなく酒井忠次
4000率いての山間部奇襲攻撃は並大抵の武将ができることではない
なんで酒井左衛門尉にさせたか?って当たり前過ぎてスルーされてんだけど
この頃の酒井って吉田(豊橋)の城代であって、指揮下に入ってるのは東三河の領主たち
つまり「かなりこの辺りの地勢に明るい人員」が多いから。元・長篠城主の菅沼氏の配下の阿部さんと連絡とって案内役させて夜間行軍
こんなの石川伯耆の西三河軍団なんかにさせてたら、阿部さんの存在も知らんし翌朝の付城奇襲にも間に合わない事もあり得た
小牧長久手でも同じように奇襲やってますね
名将酒井忠次率いる奥三河衆プラス信長の旗本鉄砲衆500人。
この戦いにおける織田徳川軍の最強部隊と言ってよいかもしれません。
信長がこの奇襲作戦をいかに重視していたかが伺い知れますね。
徳川家康の初代軍師
これで織田徳川は半包囲完成、武田側の退路は細い山道しかなくなった。
勝頼は残兵を回収して事態を把握、撤退できない事を知り決戦という流れですね
信長の凄いところって、桶狭間の奇跡を過信しないで
どちらかと言うと否定している事だと思う。
美濃平定後は相手より倍以上物量と、
それら供給出来る補給線を用意して
自分で選定した戦場に相手を釣り出して
戦いに臨む『戦略』が本当に恐ろしい…
今川義元って今ではすっかりネタキャラ扱いだけど、実際は武田信玄すら安易に手を出せないレベルの
まさに天下人候補だった人。
金ヶ崎の戦いでは逆桶狭間になりましたけどね…
まぁこの時の信長は今川義元とは違い脱出に成功したみたいですがね。
@@rerepopo663 『海道一の弓取り』は人によっては徳川家康のイメージでしょうが、元々は今川義元の誉れ高い肩書でしたからね…
自分の中では、武田信玄と北条氏康に並ぶ信長と家康に多大なる影響を与えた3武将の一人です。
麒麟が来るとかだと色々条件が整って結果的に「奇襲」って感じだったよね
乱取りを止めさせるために派遣やら松平元康の「中立」という名の離反(三河守の叙任を巡って+兵士の疲労考慮等)で急襲の報を聞いても動かずで、実質兵力が減って・・・って流れ
長篠の方も現在の研究盛り込んだ戦い見たかった・・・(コロナで姉川や長篠収録できなかったのが痛かったらしい)
@@藤岡山之上 今川家って武力の他にも朝廷の文化の理解とか繋がりも深いし、その影響で今川義元の
息子の今川氏真が、江戸時代に朝廷と江戸幕府の間の大切な役割を担うのも面白いですね。
世界史も良いけど
日本版も見たかった!
この勢力図から徳川が天下とる未来想像できた人とかおらんやろな
関ヶ原の陣形を見たヨーロッパの軍人は「西軍の勝ち」と声を揃えたそうな。
@@カレーフラッペ 確かに布陣見ると西軍の方が両サイドの川や山を生かして徳川軍が横に展開しにくい戦略取ってる時点で有利に見えますよね
@@カレーフラッペ 裏切り者が何人もいたらどんな最強の布陣でも勝てる訳がないし、勝ったこともない。
@@カレーフラッペ それって司馬遼太郎さんの創作ですよ、本人も認めてたはず
@大和日本 おじいちゃん、おかゆこぼれてますよ。
世界の決戦シリーズ最初から全部見てるけど、副社長の「今日の本番です!までの盛り上げがめちゃくちゃ進化してる!本番までの話が面白いから、やっぱり最後まで見ちゃうんだよね。もちろん本番の語りも面白くて最高です!
鉄砲構えてる所にバカみたいに突っ込んでいた説から、突破に全てを掛けるしかない状況に追い込まれていたに変わったんですね。
鉄砲の銃弾の鉛も東南アジアや中国製が40%を占めていたとか意外にもグローバルだった事が最新の分析で分かりましたし、20年前の日本史から、世界史の中の日本史に大きく変化して面白くなってます。
戦国時代は見方を変えれば大航海時代でもある。大航海時代を生きた織田、上杉、徳川、毛利、島津、伊達は結果明治維新を迎えることができ、大航海時代に背を向けた武田、朝倉、今川、北条は生き残れなかった。
勝頼って本当に可哀想よな。無能ではなかったのに
ある意味二代目大決戦。ノブも二代目と言えなくもない。
アレキサンダーですな、父の軍事遺産を有効活用し発展させる、ペルシャ王は現状維持だ!
センゴクの長篠が1番ドラマチックで好き
あれまじで良いよね 自分も天正記のとこが一番好きだわ
武田の騎馬隊は存在しなかったとの変な説が上がりましたが、昔の日本の馬はポニーのような大きさだったというミスリードから生まれたものでして
(サラブレッドは、鎧武者を支えるほど足に強度はないですし、サラブレッドができた時期はナポレオン戦争が終わったくらいである)
そもそもポニーという分類が大きさの幅が広すぎまして、木曾馬なんかはその中でも最大クラスの大きさ
海外を見ると、モンゴルはそれよりも小さいタイプ、ヨーロッパのフランス重騎兵が使ってた馬はさらに小さくずんぐりです。
むしろ日本の馬の方が、でかいんですよ
だからこそ鎌倉武士は、世界でも類をみない重装弓騎兵になれたのであって
調べれば分かることを、ただの印象論だけでまとめてしまって、それでも説得力ありそうに見えるのが怖いですね
アーチェリーと一緒で弓を左につがえるか、右につがえるか、和弓は右につがえます。
一方映画や、アーチェリーは左につがえますが、連射したり移動して放つには、右につがえるのが圧倒的有利です
非効率なやり方でもこれほどまで広がりを見せ、それが正しいもの、カッコいいものと見せる
我々は本当に様々なことを決めつけてはダメな事を教わらないといけない、それを一番学べるのはこういうチャンネルだと思います
信長の発想って、第一次世界大戦の塹壕戦のようで進んでいますね。
大阪の役の徳川軍も20世紀の戦争を先取りしている様な塹壕戦を行なっていました。
16世紀の地球上で最強の陸軍である武田軍を相手に戦うんですから時代を300年以上先取りした戦略と戦術で挑まないと逆転勝利はつかめないでしょう。
退路を遮断して陣地攻撃か追撃覚悟の撤退の2択を誘導した信長の戦術眼は流石としか
@ムライテンノ
むしろこの合戦に至るまでの用意周到な下準備とも言える武田陣営に対する徹底的な経済封鎖(いわば戦略的な兵糧攻め)が織田徳川陣営逆転の秘策、戦術以前の問題とも言える戦略的勝利だと思う。信長は元々津島や熱田と言った港湾都市を本拠地としていたが、上洛時点で堺と大津を直轄地にした頃から武田陣営への経済封鎖を開始し、朝倉滅亡により敦賀も傘下に入れるとその経済封鎖のダメージは武田陣営に重くのしかかってきた。そんな最中東美濃18要塞および高天神城を餌に武田陣営の財政をショート寸前に追い込み、武田陣営を決戦に追い込んだ。そう、この戦いは戦術で劣る織田徳川陣営による戦略による逆転のストーリーなのだ。
3倍の戦力を擁する防御陣地に対して、野戦編成で攻城戦を仕掛ける。無理ゲーじゃん。
欺瞞と心理戦と言うより経済封鎖を軸とした戦略的勝利だと思うけど。
個人的にはこの戦で一番カッコいいのは戦の後に勝ったのに、何故か浮かない様子で家臣が理由を尋ねたら
「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と言い放つ
本多忠勝だと思う。
徳川家自体、武田が滅びた後に勇猛果敢な赤備え衆達を大量に雇ってますからね。
彼等がその後の井伊の赤備えの基礎となります。以前から実力は買っていたのでしょう。
まぁ一言坂の戦いで武田軍を紙くずの様に薙ぎ払った三河の化け物は誰だって話ですがね…
@@藤岡山之上 城作りも武田流をリスペクトしたり、ある意味家康の
成長に一番貢献したのも武田家ですね。
某漫画では、摺鉢状の地形に武田軍を誘い込んでの一斉射撃っていう説を取り上げてましたね。
山縣昌景の最期がかっこよすぎて泣けました…。
センゴクでしたっけ?のちに長宗我部元親を鬱にした
@@赤井雷 センゴクです!まぁ、僕は長篠編までしか読んでないんですけどね😅
完結してからまとめて読もうと思っててこの動画観るまで存在を忘れてました笑
@@pahn785 最終章に入りましたしもうすぐ完結すると思います!
志村けんの先祖に首持ち帰られたよね
長篠の前年の高天神城の攻防戦は、信長にとっては落ちても落ちなくても良くて、兵を集めた主目的は
その数ヶ月後の長島攻めの準備だったんだと思う
同意します。落ちたあと信長は、徳川に財政の手当てをしました。結果、勝ったはずの武田の方が徳川よりも疲弊して、長篠に動員した兵力は高天神よりも1万人も少なくなりました。
むしろ高天神城は武田の財政を破綻させるために仕掛けた信長の罠だったのでは。
厳島の戦いとかやって欲しいです。
毛利の戦略、戦術が知りてえ。
砥石崩れみたいに主力の部将を失った戦いではあるけど、あの時と違って武田の規模も、戦う相手勢力の規模もくらべものにならないくらい大きくなっていた。
結局国力差と人材補充が間に合わずにじり貧になる切っ掛けになってしまった。
なら長篠で戦わなければよかったのではないかというと、このまま事態を放置してると、味方勢力がどんどん織田に潰される。
勝頼はどちらにしても大博打に勝たないと生き残れない状態だった
武田領は周辺に上杉とか北条とか強豪が犇めく立地だから余計に大変。
自分も同じ考えですね!
どこかで決戦を挑まないと
結局、時がたてばどんどん信長有利な状況が出来てきてたでしょうし。
@@MAX-rs5oy 武田はもう頼みの金山が枯渇しはじめて、経済流通の拠点を駿河にしたくても、豪族の寄り合いだからなかなか本拠地を移動できない
今川の水軍を吸収したけど、出し惜しみして伊勢の一向一揆を見殺しにしてしまう。等々信長包囲網が崩れ始めて来てましたからね。
徳川を潰して勢力を吸収しないとどちらにしても潰されるんですよね
何の成果も無しに撤退したら、それこそ三河や遠江の国人領主は雪崩を打って徳川に帰順し、更には甲斐や信濃の国人領主達の支持を失い、史実よりも早く武田家が滅亡した可能性も否定はできませんね。
武田家滅亡は甲相駿三国同盟破棄などによる武田家の信用下落、謙信との和睦仲介を依頼しておきながら騙し討ちの形で西上作戦を始めた事による信長との敵対、度重なる戦での財政悪化、勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にした信玄の責任も大きかったと私は思います。
馬場に内藤、山県、真田兄弟、、惜しい武将たちをたくさん失ってしまった、、
ただこの後も直ぐには衰退して滅びずに、普通に徳川を苦しめる
武田勝頼はやっぱり凄いと思う。
@@rerepopo663 武田勝頼の時の方が武田家の領地は広かったらしいですね。由緒正しき諏訪家の血をひく秀でた人ではあると思います。
後に真田兄弟の歳の離れた弟が親子二代に渡って徳川を苦しめますし、幕末に入ると真田家に縁があった佐久間象山の影響を受けた人々による明治維新によっては徳川幕府は瓦解します。腐れ縁というか恐ろしいですね。
@@藤岡山之上 戦国時代最後の戦の大阪の陣で家康が真田の名前を聞いた時に、「それは父の方か子の方か」と
言う位大警戒してますね。
ただ家康自身は武田関連に畏怖と警戒と言うよりも、素直に尊敬も抱いてたのが何とも
戦国時代らしくて良い。
最大版図を築いたのも勝頼だけど、勝ち続けることでしか己の存在意義を示すことができない勝頼の悲哀よ。よりにもよって生き残ったのが小山田とか穴山・・・
あれだけの大大名が無位無官、最後にゃ朝敵だし北条とも仲違いだから外交面はちょっとアレだったかもしれないが
@@フォード-i1w 小山田、穴山共に信虎の代に従属した所謂国衆だし生き残りが重視されるんじゃないかな
一門、譜代に組み込まれてるとはいえ内政に関しては独立してた訳だし
吉田城って愛知県豊橋市の中心部にあるお城(実質豊橋城)
豊橋城とは呼ばれずに未だに吉田城って呼ばれてるんだけど
元々明治時代まで吉田藩の吉田城だったんだけど他に吉田藩がって紛らわしいから国から名前変えろと言われて藩主が「豊橋、関屋、今橋」の3つの名前を候補に出した結果国が豊橋で良いんじゃね?と決めたらしい
そもそも築城当初が今橋で現住所も今橋
それを仮名書き「いまはし」を「忌まわし」とも読めるとかで今川支配期に吉田へ改めさせたのが
そのまま江戸期に入っても用いられたとか
その明治期に決められた豊橋にしても実際の橋は「とよばし」って呼ばれてんのにね
架かってる橋も長篠城の辺りまで満足なのは大正期でも「とよばし」の一本きり
他は船渡しで済ませてたんだって
三方ヶ原では家康が出陣せざるを得ない状況の中、出陣して信玄にやられた
長篠では逆に息子勝頼が信長にやられた………
武田が大日本帝国陸海軍、織田がアメリカ軍と重なるんですよね。三方ヶ原が真珠湾攻撃、長篠合戦がミッドウエー開戦、そして天目山が原爆投下。
@@杉田竜馬
本土決戦ヲやっていれば
数ヶ月後に
台風がやってきた
岩殿城ではなく
岩櫃城を選んで居れば
勝機が
歴史にifは、ある
戦の流れは不思議。偶然と必然が面白いように混ざる。
@@杉田竜馬
高天神城陥落は
レイテ沖海戦かなあ
@@最大の悲劇は悪人の圧制や 岩櫃城は確か硬い城だったはずだし確かに岩櫃城に行ったら延命できたかも(多分上杉家あたりに亡命することになるのかなあ)
有名な割に有名だからこそか戦闘内容の説が二転三転してますよね。
動画内でも紹介されたマウリッツや、長篠より以前に鉄砲を駆使したフス戦争やチャルディラーンの戦いの戦術解説も見てみたいです
やっぱ戦術とは面白いもので鉄砲の力だけではこうはいかない。もっとも大事だったのは兵力の隠蔽と敵背後への迂回。この二点がなければどんなに大量の鉄砲で野戦陣地を築いても勝頼は戦況不利を判断して引くことができたわけだし。知り難きこと陰の如しだ。
織田のれんご川前の薄い布陣は油断させるとともに、主力隠蔽のための敵斥候侵入防止のための役割もあったのでしょうね。
こうして図面でなく地図上に布陣が示されると意図まで分かる気がします。
今回の解説は特に納得できました。
圧倒的に有利な状況を作って陣地で待ち構えてた織田・徳川軍。そんな負け確な状況でも、馬防も引き倒して土塁も乗り越えて突っ込んでくる武田軍(バーサーカー?)と対面した最前線の兵士はどんな気持だったんだろう?
記録だと武田の両翼は柵を回り込んで攻撃したようです。
ただ両翼と中央をつなげていた穴山はじめ武田一門の部隊が無断撤退し両翼と中央が各個に孤立、織田徳川が打って出て分断され戦線崩壊し追撃戦という流れだったようです。
現地に行って馬防柵の中に入って感じたのですが、中だと気分的には守られている感じがして少し安心できました。柵の前にも小さな堀があり、柵の後ろにも尾根や段差がありました。家康本陣(今の東郷中学校)から南に陣を構えていた徳川軍は、恐怖だったでしょうね。
@@otaru6042 なるほど、舞台の配置図等見ても柵は直線的で両端が閉じてないようでしたから、両翼が迂回狙えたんですね。そのまま突破して攪乱できれば勝つまでは無理でも撤退の隙は作れたのでは?と思ってしまいます。 中央部隊が無断撤退さえしなければ…(まぁ、数に勝る敵軍の陣地正面で撃たれ耐え続けるのが嫌になる気持は分かります)
@@jwenger88 現地の感想ありがとうございます。小さくても堀があれば突入の足は止まりますし、段差があれば登って逃げたり段差の裏に身を隠して矢玉から身を守れそうなので安心感ありそうですね。柵だけじゃないしっかりした防御陣地だったんですね。
面白いんだよな~この時代
信長すげえ頭いいし
勝頼。色々と若すぎる。
信玄公みたく失敗の経験を積めれば化けただろうに、そんな猶予がない時代と環境の不幸
と言うか やりたくても
血筋的に 立ち位置的に
制限が多かっただけですよ
その後の立て直しはすごかったらしいね、数年で戻してるとかで、新体制にしたかったけど老臣たちがついてこれなかったのが痛い
勝頼というよりも信玄の失敗でしょうね。
@@my-eg8geさん。 信玄の失敗、同意。
その前の三方原の戦いで惨敗を喫しながらも、見事に立ち直った徳川家康はスゴいです。しかも、家康は恐怖のあまりに痩せこけて、馬上でお漏らししました。ある意味では武田勝頼よりも最悪です。
その違いは、とにかく人材を新規に採用したことですね。
これは信玄でも勝てなかったでしょうね。運も味方したとは言え、織田の圧倒的な動員力と三河兵の粘り強さが遺憾無く発揮。
連合軍って実は連携がかなり難しいはずなのに、織田と徳川の場合は死闘を経た姉川の戦いなどで鍛えられたものがここに昇華したという感じ。
それにしても、家康の経験は半端ない。桶狭間からどれだけ死線を潜って来てるんだよ、、そりゃ強いわ。
今回は自領ということもあるだろうし家康の処世術もあるだろうが、姉川といい長篠といい当然のように最激戦地に配置される徳川軍…
馬上戦闘は鎌倉期は当たり前でしたからね、それが全く無くなったとは考えづらいし 東国(源氏方)が馬上戦闘が多かったのも納得行く話
武田騎馬軍団ってのは誇張でしょうけど、これは織田側の広報宣伝だったんじゃないかと。
最強の騎馬軍団を擁する武田家を打ち破ったという箔をつけるために。
ただ馬の生産地が多い東国の軍勢にとって軍の編制に騎馬隊があるのは極普通のことで、馬の生産が盛んではない西国の軍勢からすれば異常に騎馬武者が多いなという感想だったのかも知れない。
大きな合戦だけど、結局は武田軍を追い払う程度の戦果だったんだよね。
武田四天王の内の3人やらを討てたのは大きかったけど、それでも致命傷ではなかった。
こっからの勝頼の行動が、武田家の行方を左右することになるんですよね。
信長は 宣伝が上手いからな
@@最大の悲劇は悪人の圧制や
宣伝となると、雑賀衆との戦いを思い出します、
あれは宣伝合戦になってましたからw
追い払うだけで十分だったと思います。武田は国力を搾りつくして、ようやく大軍を動員していたのに(長篠への動員は前年の高天神よりも1万人も少ないです)何も成果なく撤退すれば、戦って敗北する以上に領内は動揺したと思う。長篠で信長は武田に大打撃を与えられる体制を整えましたが、それに勝頼が気がついて撤退するならば、それはそれでよかったのだと思います。
鳥居強右衛門ほんとかっこいいよね!!
本当に副社長の情報収集の努力がすごい。私は武田の騎馬軍団を完全否定する説に疑問を持ち一時期必死に調べていたので大変さが想像できます。みんな極端なんですよね。あったかないかの。その方が本が売れるからなのか分からないけど定説をとりあえず否定したがる学者がちらほらいて、しかも極論は広まりやすいから丁寧に歴史を紐解く学者たちの繊細な説がそういうべた塗りのでたらめな色で塗りつぶされるのが不憫でならない。本当は両方正しかったりで中途半端なことが多いのに。実際は騎馬隊と聞いて思い浮かべる欧米のような大規模な騎馬軍団はなかったけど数十騎くらいの騎馬のかたまりで騎乗戦闘があったし、数はともかく織田軍が防御的な陣で鉄砲をうまく使って勝ったのは事実だし。朝鮮の役の明側の資料で倭軍の輸番射撃と騎兵に苦しめられたって書いてあることや「馬で入る」って文言で騎馬戦闘は多くの資料に現れるから全否定なんてできないはずなのに。ちなみに今回の動画で触れられてなくて(あえてかな)知ってるのは3段撃ちの段は今の意味と違ってあの時代では三つの塊で配置するって意味って話があったような。とりあえずはっきり言えるのは副社長の動画が今回も最高だということくらい。
信長は姉川の戦いで浅井氏に奇襲を受けてから慎重に戦をするようになったと聞いてます。
あの武田を相手に望んだから確実に勝てる準備をしていたと思います。
軍事、経済、人材、インフラ整備、情報収集でも信玄亡き後の武田とは国力に差が着きましたね。
武田は金山も枯れたり、年貢の徴収で疲弊していたと思われます。
勝頼も、よもやこれほど惨敗するとは考えてなかったはずけど、勝頼の言うことに一々反発する信玄恩顧の重鎮達が戦場で散るのも良しと考えていた説もありますね。
実際、勝頼は信玄公の時代より領土を広げて、様々に革新的な試みで武田の権勢を広げるのに必要な手を矢継ぎ早に打ってる。決して凡庸な大名じゃない。長篠の戦いの後には実際に人事を刷新したことで、勝頼自身が考える采配は振るいやすくもなってる。
しかし有能な武将を多く抱え、莫大な経済力を得た織田軍勢の勢いを前には、時間が足りず金と人材も圧倒的に差をつけられ、もはや抗う術を絶たれたんでしょうね。
大名としての立場なら、勝頼は最善を尽くした超有能な武将だったはずだと思います。
後の徳川家の天下は、武田家から多くを学んで生かしたからこそ可能だったことも間違いない。天下をとった徳川家の戦闘、戦術、戦略スピリットには武田家の魂がある。。秀吉天下の時代に徳川家が豊臣家にハンドリングされなかったのも、武田家から吸収した力があったからこそ。
武田家は滅亡したが、武田家の魂は天下をとった、、。
強敵は憎しむのではなく、リスペクトすべき。そんな教訓を戦国時代には見つける事ができます。。そういう者が運にも好かれていく。。
それほど織田信長って凄かったってことすか?具体的に差を分けた要因は?
@@秦国六大将軍武陵君白
たぶん、武田信玄が病気で没しなければ、織田家も勝頼と同様に悲運のうちに滅亡していたかもです。勝頼が信長にトドメをさしていた歴史も、少しの風向きの違いで起こり得たはずです。
凄いもの同士が対峙したら、時の運を味方につけてるかどうかが差を分ける。
強い弱いも相性で変わる。チョキに勝つグーが最強ということもない。パーを出されたら負ける。強さは簡単には測れないということです。
でも具体的な何かがあるとしたら、相手がパーを出すとリサーチできる諜報戦の差が大軍同士のぶつかり合いや政治的駆け引きでの決定的な差になるんでしょうね。
@@秦国六大将軍武陵君白 さん 織田と武田の差は、信長は領内を豊かにして他国に比べて領民に負担をかけずに大軍を動員できたのに対して、武田は国力を搾りつくしてようやく大軍を動員していた事ですかね。そしてその違いを信長は生かしきりました。武田が動けば動くほど疲弊しいくのがわかっていたから高天神に2万5千を向けた武田とは決戦を避けてその結果、翌年の長篠の戦いでは武田は1万5千しか動員できず兵力差は格段に大きくなっています。武田の財政がどれだけ厳しかったかはその滅亡に際して国中から捨てられるようにあっという間に滅亡した事からも明らかだと思います。
@@my-eg8ge
信玄の時代から金山は枯渇し出していて、しかも領内は信虎時代からの重税がそのまま続いたらしいですからね。
勝頼はその税をこれはこのくらい納めよとか明確化したらしいですから、それが増税として捉えられたのかもしれませんね。
姉川の戦いを取り扱って欲しいです。真柄十郎左衛門が好きです。
信長と秀吉の強みは行軍速度だよなあ、これ以後にも重要な戦いで相手の予想を裏切って勝利できた
「武田騎馬軍団はない」「日本の馬は小さかったから」… ここ、笑う所ですか?w
日本の馬というものは、「原産」というものはない。すべて中国大陸からやって来た種なのである。
したがって、日本の騎馬隊の馬は当時、中国やヨーロッパで使われていた軍馬とまったく同じものなのである。日本の馬と人間との大きさの比較は、当時の絵巻物でも確認できるが、また、江戸幕末期に日本にやって来たフランスの外交官が、日本で使われていた馬を調査して、「気性が荒い」「調教不足」などと述べてるが、当然、そこには「日本の馬は我々の馬より小さい」ということは一言も述べられていないのである。
やっぱり戦術より戦略、そして戦略より政治だよな。
信長が勝つべくして勝った戦いだったか。
連合軍は そもそも人数多いしな
まるで経済力が違うし信長がそれを認識して生かしきった結果でしょうね。信長の領国は他国よりもずっと負担が少ないのに何度も大軍を編成できるほど財政が豊かでしたが、武田は国中から搾りつくして(あえてそう言います)ようやく大軍を編成していました。だから信長は武田と五分でやりあえればそれでよく、長篠でも殲滅できる体制は作ったものの武田がそれに気がついて撤退するならばそれでもよかったと思う。無理を尽くして動員された武田の遠征軍が何の成果もなく引き揚げれば武田が疲弊するだけだからです。
@@my-eg8ge
貧乏領国は キツいな
@前川嘉規
もっと言えば信長の対武田戦は完全な経済戦争なんですよね。信長は上洛直後に堺と大津を傘下に収めた段階で武田への経済封鎖を開始していて、信玄の西上作戦、勝頼の高天神城攻略および東美濃18要塞攻略も全て武田の財政をショートさせるための餌だったのではないでしょうか。そう考えれば武田と織田の戦いは戦術以前に経済力を背景にした戦略の問題だったのではと思えてくるんです。
日本の地形って川とか高低の激しさすごいから、予告のサムネに出てた地形図を見ただけで日本って見分けつくよね
徳川家康の評価を低くいうの多いけど、現在でも日本国の主力生産工場は愛知県にある事を知らない人が多い。
愛知県と言っても、モロ徳川領の三河。三河人の気性は結構激しく、3英傑の中でも一番短気だったのは家康と言うのは今日の見解。
幼少期から人質として生活を送り、それなのに付き従った忠義の三河武士、弱いわけがない。
本多や親戚筋の水野やら忠義にはせ参じる武将はやはり三河人らしい気質であり、強い。
大敗なら信長や信玄も経験してる
ただ勝頼に挽回の機会は与えられなかった
勝頼が挽回の力を取り戻した頃には、織田家は既に手が出せない程に膨張していた
信長はともかく信玄は生涯全勝ですけど。
@@杉田竜馬 勉強し直していらっしゃい
@@七階堂ふみ-g1x
信玄の負け戦とされている上田原合戦だって先に撤退したのは村上陣営だし、砥石崩れだって最後は真田幸隆の調略で武田陣営が落としているし、小田原攻めだって北条陣営の軍を三増峠へ誘い込んで叩くための罠だったことを考えれば信玄は生涯全勝だったと思うのですが。
酒井忠次が軍議で敵の部隊に奇襲をかけてはどうかと発言というのは挟み撃ちにするための奇襲だったんですね。
一説には信長はそんなことをしては貴重な兵士を無くすことになる。と言い怒って軍議が終了してしまったが、翌日は突然それを決行することになる。
8時間も柵挟んでガチ殺し合いやり合ってたのはマジでヤバい
関ヶ原の戦いなんか子供のお遊びレベル
火薬と鉄砲を安く調達した
信長の戦略が良かった。
武田の話をすると、毎回勝頼は不憫だ()
長篠の戦いは織田軍と仲の良い、根来寺の僧兵も協力してくれてますね。
御館の乱での失敗は擁護できないですねー、高坂弾正が生きていれば、、
@@水本晶久 さん
私も武田を滅ぼした最大の要因は御館の乱だと思っています。
元々同盟関係にあった北条家を敵に回し東西を敵に挟まれる状況を作ってしまったのは
致命的な失策でしたね。
@@水本晶久 まぁ失敗であるけども、
当時の情勢で、違う角度から見て見るのもいいかもしれないですよ
北条が信頼を失うようなこともあるし
逆に上杉領が北条のものになれば
北条に包まれるような形の領土になってしまう事も考えられる
なら前から親交があった佐竹や北関東、
上杉と同盟するればと考えにいたるのも
不思議ではありませんよ
@@水本晶久 ・・・ですね。長篠の戦いでの大敗よりも御館の乱のときの外交の失敗が致命的だったと僕も感じています。
長篠の戦いにおいては有能な人材をたくさん失ったけど通説ほどの大きな被害は出ていなかった気が・・・
(長篠の戦いのあとの立て直しが思ったよりも早かったというのもあるし)
勝頼は織田徳川軍の別働隊(酒井忠次)に気づいてたから突撃したのではないでしょうか?別働隊を出したことで本隊が少なくなったと思ったら武田より多くの兵がいた。兵力を見誤ったから負けたのではないでしょうか?
言っておくけど
勝頼公 は 寧
(重臣が突撃しようと
いきり巻き、立場の弱い
勝頼公はそれに
合わせるしかなかった)
偽装退却や長篠城包囲を
そのまま続けようとした
説もあるし
戦後の建て直しもあるし
決して 戦音痴では無いぞ
待ってました!!
世界の戦略・戦術シリーズ見たかった!!
聞いた話だと、この戦場で一番血気にはやっていたのは勝頼よりも古参の重臣だったとか。
信玄の後を追って、皆で突っ込んで行った的な話を聞いたり。
戦国の合戦でもっとも死傷者が多かったって言うのも。
勝頼が戦術的勝利を重ねても信長との彼我戦力差は大きくなるばかりでジリ貧状態。
この状況を打破するためには決戦に及んで信長、家康のいずれかを討ち取ればのワンチャンに賭けたんだと思う。
逆に信長としては援軍を率いてきた時点で家康に対して義理を果たせていた。
後は戦になろうと、ならずとも負けなければ良くて勝てば幸いだったのが予想以上の結果になっと妄想しました。
勝頼が負けたのはこの戦いだけ。
他は全勝、惜しい武将だった。
重臣が 言う事聞いてくんないからね
@@最大の悲劇は悪人の圧制や さん
すごいハンドルネームですね。
勝頼は元々敵であった諏訪家の姫から生まれた子であり、
信玄の正式な後継者ではありませんでした。
そのような微妙な政治的立場により、勝頼は決定的な功績をあげて
家臣たちを心服させる必要性を強く感じていたはずです。
長篠ではそこを信長にうまく付け込まれた感じですな。
@@窪田秀虎 後継者云々は微妙だよ最近では。
でもあの信玄でさえアタマになった当初は馬鹿みたいに戦ばかりで兎に角勝ちに拘泥した。そうでもして利を与えないと甲斐信濃の国人は従わないんだよね。そういう国柄だったのが不幸だよね。
勝頼が有能でも無能でも武田はどうにもならなかったでしょうね。織田とは経済力が違い過ぎますから。織田領は領民の負担が他の大名よりもずっと軽かったのに何度も大軍を編成できたのに、武田は織田や他の大名とやりあうために国力を搾り尽くして大軍を編成していました。その結果、天正10年に武田は国中から見捨てられるように滅亡しました。
@@my-eg8ge さん!!
だけど、信玄さんの隠し子の子供が武田家を継いだのではないでしょうか?
その子も滅亡したの?
この動画でも紹介してましたが、長篠城は第一目標ではなく、わざと落とさなかった可能性が高いです。敵の後詰めが来る前に落とそうという意思が感じられない攻城ぶりでしたから。
長篠を攻める事で徳川軍を釣り出して、出来れば家康の首を獲るというのが第一目標だったのでしょう。勝頼は決戦指向の強い武将でしたから。
この後も家康と野戦で決着を付けようとしますが残念ながら果たせませんでした。
説明であった、弾込めの分担制はその前の村木砦の戦で実践されたようです。文献に「鉄砲を取り替え取り替え」という文言があります。
情報は命ってよく分かる戦い
桶狭間のとき然りこの戦いのとき然り戦においてやはり情報も兵站と同じくらい重要ですね
あの桶狭間や三方ヶ原とか、謙信が織田軍を破った手取川合戦なんかもそう
授業でこれ見てたら、もっと日本史好きになってただろうな…
言うてもここは日本史の中のほんの一部やから…おもしろさは自分で見つけな
本来だったら被害が少なく感じられるであろう織田・徳川連合軍の死傷者が意外と多いし
この動画のとおり実は武田軍の被害の多くは撤退戦においてである。
某マンガよりもこちらの動画の方が史実通りであります。
そうそう別働隊いたんよ笑
小牧長久手の戦いでもトレースされる
それくらいベストプラクティスな戦い笑
良い戦いだよ本当に
3段撃ちは現実的ではない
兵を動かすってストレスよ
車懸かりもそう(一般的な車懸かり)
回転させる兵なんて無理
鳥居強宇右衛門待ってました!大好きな1人なので楽しみ!!
右衛門な
日本って1600年代に世界最大の銃保有国になったらしい。
平和な江戸時代になっていろいろあったのでめっちゃ減った。
三段撃ちって、一部隊で撃つ人を決めて、弾込め、補助、射撃の三段で複数の銃を回す撃ち方だと思ってました。
そもそもその当時の銃は、精度も低く、弾込めの技術や火薬の取り扱いなど、一つ一つに高度な作業を必要とします。更には、貴重な火薬などを使った射撃訓練は、資源の枯渇を招きますので、優れた射撃者に資源を集中させるべきだと考えるのは当然ではないでしょうか?
つまり三段撃ちとは、撃つ技術者を決め、射撃までの工程を三段に役割分担をし、高度な連射を可能とすると同時に、資源の節約と高度技術の分担による育成の効率化を図ったものであり、戦闘技術というよりは、、内政技術の事だと考えられます。
こうする事で、大量の火薬や銃と移動しながら連射できる、実践で利用可能な射撃部隊を編成できます。多分3人一組
撃つ、受け取る、火薬詰める、玉込める、渡す
銃運びと火薬運びが火薬詰めと弾込めしながら、射撃手の補助
火薬、玉、撃つ、の三段
長篠の戦いって信長の戦術で不利な状況にもかかわらず逆転勝利したってイメージだったけど、実際は戦いが始まる前から勝てる陣形を組んでたんだね。すごく勉強になった。なるほど、これなら武田軍が無理にでも鉄砲陣地に突撃した理由がつく。
むしろ長篠合戦よりはるか前、堺と大津を制圧した頃から武田陣営に経済封鎖を仕掛け、着実に武田陣営を苦しめていた。その苦しみを打開するために仕掛けた信玄最後の大遠征が軍資金の枯渇と言う致命傷を与えていたとすれば手負いどころか瀕死の武田陣営は兵士の強さに全てを賭けて織田徳川陣営を叩いて「一撃講和論」のような戦略を取るしかなかったのでは。
@@杉田竜馬 1944年のレイテ沖海戦みたい。
羽柴、滝川、丹羽が後詰に出て来ると武田軍は大いに困る。背後を突かれるだけでなく長篠城兵が元気づくので攻略はほぼ不可能になる。
そこで織田軍を撃退する選択をしたのであるが、鳶ヶ巣砦攻略部隊はすでに接近して潜んでいたはずである。
もし武具を担いで夜通し山道を歩けば疲れ果てて翌朝の戦闘など無理。武田軍もある程度察していたから二千の兵を砦に残したと思われる。
ともかく長篠城を救出した時点で織田徳川軍は全軍が城か陣地内にいるので、勝頼が撤退しても攻めてきても勝ちは確定です。
戦いは始まる前に勝敗が決してると思わされてしまう
信長天才ですね。酒井も仕事師!
クレシーともポワティエとも違う。大兵力の防御陣形に突撃させる信長さん、お見事です。
甲州兵の戦闘力と尾張兵の戦闘力を考慮すればクレシーやポワティエのイギリス軍と織田軍は似たようなものだと思う。
京・敦賀・琵琶湖・熱田・堺…見事に物量・物流・情報を織田に押さえられちゃってたんだ💦
自分達の戦いたい場所に相手をおびき出し、その上で後退の選択肢を奪った織田徳川軍の用意周到さが恐ろしい…
自軍の戦力を少なく見せる用兵もすごい
強い指揮官って戦う前の準備からしっかりしていて、自分達にとって有利な戦いを押し付けるのが上手い
本当に謎が多い戦いです。野戦築城をした織田・徳川連合軍3万に、なぜ1万の武田軍が決戦を挑んだのか。「猪突猛進の武田勝頼が、織田信長や徳川家康を侮り、部下の進言を退けて決戦の決断をした」と言う説が有力ですが、個人的にはそれは信じられない。さすがに勝頼がそこまで愚かだったとは思えない。裏には信長の綿密な画策があったのではないかと思う。そう考えると、信長と言う武将の底知れない不気味さが感じられる。
都度都度、楽しく拝見させて頂いてます。
まず、防御陣地に無謀な突撃をし続ける理由…内通者からの文書とか言われてましたが、確かに撤退戦の前に痛打を与える必要がある説には納得です。
関ヶ原での退き島津でも少数の死兵を次々出して追撃軍に痛打を与え続けた事で辛うじて島津義弘が逃げ切れた訳で。
あと、「三段打ち」の定説は「さんだん打ち」…”散”発的に小隊=一”団”が打ち続けたから「さんだん打ち」だったのかな?と勝手に推測してます。
小隊編成にしないと鉄砲兵の携行弾薬だけで8時間も打ち続けるのは無理でしょうから。
武田軍は(武田から見て)左翼→中央→右翼と順に攻勢を掛けて来てるのを信長公記に記されているのと、最大兵力の山縣隊や甘利、内藤、原ら主力を左翼に配置したのを考えると斜線陣での攻撃、もしくは左翼から順に攻撃後撤退を考えてたんじゃないでしょうか?
実際山縣の戦死後他の3名は中央に合流し撤退戦で討死していますし。
確かに最大版図は勝頼かもしれんけど決戦に持ち込むには少し早かった感が否めないんよなぁ。外征しまくるのはいいけど西上作戦から疎かになってた内政にもっと力を入れて置くべきだったんかもしれんな。でもその間に織田がもっと台頭するし……詰んでるわ
東三河出身の者です。ついにやってくれましたね!宮城谷昌光先生ファンからしたら、武田信玄を長期に渡り食い止めた野田城攻防戦もやっていただけると嬉しいかなぁ~と(笑)
それ知りたいです!Nice
@@jwenger88 この時に信玄が城から狙撃されて、それが死因の遠因だったとも言われてるんですよね。
あと、小野田城と大野田城の関わりとか。三方原のあと野田城かすめとって帰ろうとした信玄の前に超要塞に大改修された大野田城が現れたエピソードとか(笑)
結構面白い攻防なんですよね~
@@jwenger88 「風は山河より」という小説がまさにその辺りを題材にした小説ですね。野田城城主の菅沼氏が主人公です。大野田城が出現までの経緯は面白くて必見ですよ!
基本的には奥三河の攻防が舞台ですが、松平家の家康興隆に至るまでの変遷もしっかり描かれていてかなり読み応えがあります。ぜひ読んでみてください!
@@suesuntomochan さん ✨ ありがとうございます。是非読んでみます! 奥三河は仕事でしょっちゅう通過するので想い深いです。
長篠の戦いの謎の一つ「野戦築城」
これ自体は当時普通に行われていたことですが、5月18日に着陣後、19日20日と雨の中、土塁を掘って柵を築く。武田の襲撃に怯えながら。
しかも織田方は岐阜から丸太を担いできたと伝承にある。
兵は疲労の極みですよ。
現地には銃眼を掘った2重の土塁が最新の研究の成果としてしつらえてある。これが実際ならますます土木作業量が増えるわけですね。
武田方の攻撃タイミングも、雨であることが史料的に確定している20日に攻撃していれば鉄砲を完封できて武田の勝機は高まるのに、21日となった。織田方が着陣して間もなく攻め寄せることも可能なはずなのに。カウンターの酒井隊も21日に動いている。
推察するに、20日は行軍が難しいほどの大雨であったと。その中でも織田方の兵卒は陣地築城に駆り出されていて、体力も士気もダダ下がりかと。
「敵は行軍に次ぐ雨天での土木作業で疲れ切っている。これは攻め時ぞ」勝頼がそう判断して翌早朝に攻撃をしかける。王道であり数倍の兵力差は十分覆せる条件でしょう。
織田方の夜戦築城を充実させる想定になればなるほど兵の疲労が高まります。
某NHKでは逆茂木の活用を取り上げていたけど、新緑のこの時期の葉の生い茂った枝を刺しても敵方の身隠しになるばかり。葉っぱを毟った?ますます織田方の作業量が増えますね。
降雨のなか実質2日で有効な馬防柵をどこまで築くことができたのか。これが謎ですね。
合戦後、織田方の追撃戦が武田領まで踏み入ることができなかった原因も兵卒の疲労度にありそうです。
本願寺はただでさえ堅固なのに、
その本願寺のスーパーデラックスバージョンが大阪城。
本願寺が☆3レベル1状態
大坂城は☆6レベル200の廃課金完凸済
唯一誤算は徳川主体の戦が織田軍がメインになった❗
信長地元民からすると、信長は案外ディフェンシブな戦い多いなぁ。
勝率は良くないけど、案外無理しない慎重派の気がします。
そんな中で、家康や秀吉が伸び伸びやっていた感じはします。
秀吉の高い戦闘センスは信長に仕える事で始まったと考えると天下の理なんて解らないものですねぇ・・
刀根坂の戦い、天王寺砦の戦いを調べると良いよ
この時の徳川の立場って、現代の日本に置き換えることもできそう。
WW2に当てはめれば家康は蒋介石、信長はルーズベルト、本願寺顕如はヒトラー、上杉謙信はスターリン、武田勝頼は東條英機と言ったところか。
冗談抜きに、某国が「包囲された。残る手は正面攻撃しかない」と思い定めたとき、正面にあるのは防馬柵状に連なる列島。
まあ、そんな戦闘が始まることを予測して、織田軍団は予備兵力の一部を救援に回してくれるつもりではいるでしょうけど。
米国=織田信長、中国=武田家、日本=徳川家。問題は家康級の人材が今の日本にいるかどうか。あと、第二次世界大戦前の英国と今の日本は危機的状況に直面すればするほど、共通点が増えてくる。
@@ジュガシヴィリ 震災の時の自衛隊や尖閣で戦う海上保安庁を見ると、鳥居のような人物はいると思うんですけどね。ただ、家康がいるかと言われれば、確かにいないかもしれませんね。
@@yyoshida3156 今の日本に最も必要な家康、チャーチルのような、この辺の乱世の奸雄がいないよね。
武田軍の上級指揮官の討死が多く致命的な敗戦と思う。
夷陵の戦いと状況、趨勢が重なるところが多い。
これを見ると、勝頼調子こいちゃった説は無いってことか。酒井忠次の別動隊が背後をつく状況じゃ、やるしかなかったんだね。
いやいや、勝頼はそれまでの高天神城での勝ちにより、調子に乗っていたことはあると思うよ。酒井忠次の攻めは、勝頼が設楽原に進んだことから成立したんだからね。一説によると、長篠城が落ちなかったために、家臣からは設楽原に進まず、撤退するよう進言されていたそうだ。
長篠に行くと逆さまに磔にされてるふんどし姿の鳥居強右衛門の看板がある
けっこう大きめで周りに何もない田舎の山らしくてかなり目立つ
知識がないとびっくりする(笑)
後知恵だけど、信長来援の情報をつかんだ時点で勝頼は長篠城を力攻めで無理矢理落とすか、あきらめてさっさと帰るべきだったんだな。
あの手この手で有利な状態での決戦を強要した信長が三枚くらい上手だったのか。
勝頼からしたら兵力と火力に勝る敵に背後を遮断されて十全に準備された防御陣地を攻撃するしかないんだから詰んでるよね。
むしろよく勝頼逃げられたな。
9:56で勝頼は決戦を決断したとありますけど、最近では勝頼が設楽ヶ原に進軍したのは鳶ヶ巣山砦に布陣した軍勢で長篠城を落とす為の時間稼ぎだったという話もあるようです。
設楽ヶ原に進軍しないで長篠城を落としたとしても、そうしたら織田・徳川軍が馬防柵から出てきて落としたばかりの長篠城の守りを固める間も無く武田軍は長篠城に追い込まれ、包囲殲滅されるかもしれない。 それならば設楽ヶ原に出て自分が率いる本隊で織田・徳川軍を牽制し、その間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落とし、退路を確保する事を狙っていたと。
なんだかんだやっぱり天才なんだなと思いますね。
勝頼は最悪の決断をしてしまいましたね。あの辺りは航空写真で見ても大軍が通れる逃げ道は一本しかない。その一本を信長に抑えられ、大軍で殲滅されてしまった。数は少ないだろうと見くびった。運転教習で「だろう」運転は危険、「かもしれない」運転で行こうと教えられますが、「だろう」決断でいとも簡単に殲滅。南無。
長篠の戦いでさらっと出てくる馬防柵。おそらく馬防柵と銃を組み合わせた野戦は日本では初めてだったはず。
武田軍は反対した者もいたようだが、最終的に馬防柵と銃の防御力の高さを見誤った可能性もあるかも。あるいは、あえて貧弱な馬防柵に見せることで攻めさせた可能性もある。
信長はこの策のヒントを誰から得たのだろうか?
イタリア戦争で同じような戦闘があったらしいから宣教師から聞いたのかも
地元民なので取り上げていただいて嬉しいです。ちなみに武田の戦死者を弔う為の塚が「信玄塚」。武田に勝利した事をアピールするにはその方がいいという理由らしいです
それにしても奥平家の武田からの離反ってすごくリスクの高い博打なのでは。私達は歴史を知っているからその判断が当然のように思えるけど当時は武田が攻勢をかけていて、いくら好条件を提示されても負けたら何の意味も無いのだから
奥平家史を鵜呑みにした情報ですと
家康への内通疑惑を持たれておりまして
田峯菅沼が密告したとか
疑惑は真実でしたが、露見せずに済むものの
更なる人質供出を強要されます
これでは武田追従を続けても
立場の悪さを改善されそうもない
だから再転属を決断したんだとか
凄く面白かった。
副社長の戦術考察は勉強になるわぁ。
面白すぎる!信長の相手がそうせざるをえない状勢と心理状態にもっていく戦術眼と手練れさが感動的。あんな変な場所に薄く陣を展開することが不思議だったけど、キルゾーンの設定だったか。弱兵による敵の誘引と別働隊による挟撃。完璧過ぎて震える。思わずビジネス等他の事にに応用できないか考えてしまう。