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戦場の刀は抜き身のままが多く、買い取りする方もそのまま持ってこられて困ったそうな。そこで「鞘も買うよ」となり、これが「鞘を売って利益が出た」→利ざやの語源になったとか(諸説あり)天目山の戦いでは、織田軍が来る前に地元の農民が自刃した夫人や侍女達の服を剥いで持って行ったとか。
なるほど🧐
痒くないところを痒くして視聴者の背中を掻いてくれる動画
まさしくマッチポンプw
秀逸なコメント
シラミって事け。
今作に関しては、Wikipedia以下の薄すぎ。まさにマッチポンプ
@@野森佳 さんちこちゃんもそうかも知れない。
桶狭間が現在は住宅街になっています。住宅を作るときに、重機で掘り返したら大量の鎧や兜が出て来たそうです。その一部を近くのお寺で保管されているそうです。
エリア全体が事故物件w
@@you8996 桶狭間は名古屋市緑区の豊明市との境付近にあり、1号線、名鉄電車が通り、中京競馬場があります。
霊の寿命は、400年。 時効です。
@@伊織-u2o?
前後橋駅は競馬開催中は特急も止まるよ。
吉川英治の「宮本武蔵」では、この合戦のあとの剥ぎ取りや落ち武者狩りの生々しい様子の描写から物語が始まってた。詳細で臨場感のある描写でびっくりして印象に残ってる。
そういわれてみれば、どうしたのだろう?という内容を解説していただき、ありがとうございました。大変勉強になりました。
当時鉄製品は結構高価なものだったはずですが、農村には鉄の農機具や鉄鍋といった鉄製品がけっこう普及していたんですよね。農機具などを作ったり修理したりする野鍛冶といった人達も村々を巡っていたというし、戦の後片付けを通じて鉄素材が広まった事は想像に難くないですね…。
長篠の戦いの否定論者の根拠のひとつに戦場から弾が出てこないみたいなことをどこかで見たけど、当時の農民のたくましさを考慮していないインテリの机上の空論だって分かりますね。
@@DarthDerailer 農民もそうだけど織田・徳川方の軍勢としても安くない鉛弾を戦場に捨てていくのはもったいないという精神があって当然でしょうからね。古今東西で武具や首級など戦利品の略奪は戦場にいる軍勢が先に行い、目ぼしいモノが獲り尽くされた後に農民が駆り出されて残飯の最終処理を行うようです。中世欧州では王様が戦闘中行方不明なので戦場を探し回った結果、数日後にようやく変わり果てた姿で発見された事もありましたが、最初から農民に任せたら雑兵と一緒に埋葬されていた所ですしね。
あるドラマでは南北戦争の戦いが終わった戦場で武器商人が使えそうなライフル銃を拾い集めているシーンがありましたので、何となく当時の状況が理解できます。
それが日本に流れてきたんだよなー
グラバー商会?
@@sazareishiさざれ石 様グラバー商会はイギリスだったような。
動画の最後の方で上野戦争の戦死者が新政府軍によって野ざらしにされた後有志によって埋葬された話がありますが、同じ戊辰戦争の秋田、山形の県境で行われた三崎峠の戦いでは遺骨の収集は大正時代になってやっと行われた話が伝わっております。
箱館戦争では野ざらしにした上埋葬した者は逆賊として厳罰に処すという明治政府からの通達が出た蝦夷共和国(旧幕臣)側の戦シ者を地元の侠客が「いくらお上でもそんな罰当たりは許せねえ!」という義憤から子分を総動員して一晩で全員を回収埋葬したそうです。
長篠の合戦場の跡地で「甲田」って地名があって、その由来は田んぼを耕したら鎧兜がゴロゴロ出てきたからだそうな。
当時の資料によると、黒鍬組や農民が亡骸の処理に従事すると。今の金銭にすると8000円くらいの報酬だったそうです。
日給でですか❓
はい、日給です。現金と食事を合わせてらしいです。
数年前の最低賃金並か
戊辰戦争を取り上げるなら会津戦争の後、彰義隊と同じく遺骸の埋葬を許されなかった惨状を見て、わざわざ身分を落としてまで旧幕府側の遺骸を埋葬し供養に奔走した伴百悦についても触れてほしいです。
そうそう、明治政府、薩長は鬼畜なんですよ酷いことをいっぱいやっていた天皇家をすり替えたという諸説もあるくらいだし
目の付け所が良い動画です👍
本当に!何かと気になるモノ 胃の腑にストンと落ちて参りました。
亡き骸の甲冑や刀はどうしてるんだろうと思っていたけど、こうしていたのか。地元の寺院が供養までしてくれるのはありがたいですね
七人の侍でも落武者狩りを恐れていたし憎んでいたから 農民と言えど舐めてはいけない怖い存在だったのかも
ゲームだと全滅するまでやるけど実際は被害が1割越えたあたりで撤退するからね。終わった戦場で戦利品を確保してまわる人が絶対いただろうけど、そうならないように勝者側が管理しながら見張ってたりとか色々想像できそう
そのまま野ざらしで土に還るという場合もたくさんあったみたい、夏場なんかだとあっという間に藪草に覆われて埋もれていきそう
夏草や 兵どもが 夢のあと
野犬やカラスが喰えば比較的早く無くなるが、単に腐敗だけだと夏場でも結構時間はかかるし、骨はいつまでも残る
@@ざますなまず 確かに腐敗と分解は時間がかかるんだけと、ほっておくと、上からチリやら泥やら上から色々なものが降り積もるし、雨や重力で各パーツがならされて、平板化していくよ、
平安期の墓地は風葬もあったわけだけど、普段は農地や寺社のところが戦場になった場合では、サッサと片付けなければ漂う臭気で酷いことになってしまうような
西南戦争では田んぼの草むしりしてたら生首が出てきたとか・・・
南千住の円通寺には、上野戦争最大の激戦地の黒門が移築されています。
法螺貝吹いてそうな山が有るウチの地元も寺同士で殺し合って死屍累々の祟り騒ぎ→村人集による弔いの焚き上げが伝統行事化、土地が古過ぎて武家屋敷も古い寺も有れば地獄なんて名前の地域もある
これすごく気になってた!ありがとうです
長崎島原は島原の乱の後そのまま埋葬された・供養されなかった戦死者の遺骨がよく出てくるそうですね
私は「忍たま乱太郎」で、きり丸が合戦のあと売れそうな武具を持って行ってお金にするというシーンを見て、そういえば実際はどうしてたんだろうと思っていました。
あたいもきり丸のエピソードで知ってた戦場に弁当ってワードもあったような
確かに私も気になってました!目の付け所が良きです。
ずっと疑問に思っていたので、分かってスッキリしました!
会津若松城🏯の戦いでも城方の亡き骸は放置に任せたらしい😢理由が有り会津藩は京都治安の為に厳しく年貢を召し上げしてたから領民からはすこぶる嫌われていて挙げ句領内で戦になり荒らされたから怒りが表面化したのだそうだ😢
『パットン大戦車軍団』(1970)の初めの方で、カセリーヌ峠の戦いに敗れたアメリカ軍の戦死者が、地元住人に身ぐるみをはがされている場面がありますね。現在のウクライナとか、戦場掃除はどうなっているんだろう?誰かが汚れ仕事を引き受けなければならないはずだが・・・
わかりやすい解説です短いから気軽に見る事が出来ました
そういや桶狭間の戦いの後始末はどうしていたんだろうか?普通に考えるなら織田方だが、敗れた今川方も結構兵が残っていたみたいだし。そういや敗死した兵の亡骸から武具を剥ぎ取ったと聞いて左文字という刀は元々今川義元の刀だったが桶狭間の戦いの後で戦利品として織田信長の物になったのを思い出した
淀屋は大阪市の中心部の「淀屋橋」という地名として残っている。橋のたもとには云われを記した石碑がある。淀屋が、どれ程豪奢だったかというと、広間の天井を格子にして全てガラス張りにした。ガラスを水密化して、水を張って金魚を泳がせた。明かり取りと人工の灯りのもと、下から金魚を見上げるようにして、お客に見せていた。これはほんの一例だ。淀屋を権力が上手く取り込めていたら日本の資本主義制度はもっと早かったかもしれないが、農本主義で前例踏襲の幕府には到底受け入れられなかった。
それは4代目の辰五郎がやってた。因みにそれが原因(町人の分際で贅沢が過ぎる)で淀屋は潰された。
平家物語を読んでたりすると、あの京都でひっきりなしに合戦してたみたいだし。だとすると鴨川なんかはずっと「血が流れる赤い川」みたいだったんじゃないかな、と。 それと、昔は土葬だったわけだから、”埋葬する土地がそんなにあったのかな?”みたいな疑問も。。京都にお寺が多いのは「戦死者が多かったから」という考え方もできるのかも。ですね。
長篠の合戦場近くに医王寺というところが有る。こちらは代々戦死者を弔っているからこの話は間違いないだろう。
会津戦争でも白虎隊の遺体を同じように野晒しにしてたから現代でも長州(山口)に対して恨みが残ってるんだよね。
元福島県民です。福島県民は物心ついたころから白虎隊や新政府軍の蛮行を聞かされて育ちます(笑)
現在のウクライナなどではどうしてるのだろう? と思いを馳せる。
X(旧Twitter)でコメント欄の秀才って載せてリンク貼ってたから見に来たけど普通に内容おもろいからチャンネル登録してしまった
関ヶ原の後はすごかったみたいですね。
竹中半兵衛の子息、重門が千俵貰って処理したそうです。関ヶ原は彼の領地に近かったらしい(正確には後に交代寄合になる高木家)のが理由、本動画と合致してますね。強制奉仕作業になる恐れもあるので、賊軍についた重門への厚遇でしょう。あ、幕府成立まではミカワ人は賊軍ですからね、公儀・天下様は豊臣秀頼です。
面白かったです。ノルマンディー上陸作戦とかクルスク戦車戦のあとなんか凄かったでしょうね
服はリサイクルできるし、武器は売れる。 運が良ければ明智光秀みたいな「お宝」も
有る村にカミナリがよく落ちる村が有りある時やはりカミナリが落ちて私は消防団で火事の現場に行ったのですがね、そこにいたオジサンと話をしていたらここはよくカミナリが落ちるんだよ、なぜですかて聞くとここは戦国時代に合戦があったんだがね刀とかが地面に埋まっているからカミナリがよく落ちるんだよて教えてもらった事が有ります、そして田畑を耕すとトラクターとかがよく折れて錆びた刀とかを拾い起こすんだとオジサンが言っていましたね。
似非科学の法螺吹きジジイか
凄く納得感有ります!
東京の八王子市にある八王子城址を訪れたとき、ここで戦死した人達の遺体は、誰が運んだり、処分したのか疑問に思っていたけど、この動画を視聴して納得しました。
地元の神社は元古戦場で、穢土みたいな扱い。周りは士農工商の枠外(察してください)しかいない土地だったらしい。今は新規住人ばかりで駅近の住宅街だけどね。
強奪もあったけど住所氏名もあるので ほぼ真面目な現地人さんは遺族に送り返したりしてたそうで、先祖代々の物品が残ってるのがそれの名残とか聞きました。
平地は思ってた通りだけど、山城を攻略した時はどうしたんだろう?再使用する時は勝者側がやるんだろうけどそのまま使わない時は?地元農民も困らないだろうしね?
バガボンドの序盤たしか、落ち武者狩りからじゃなかったっけ?気にしたこともなかったけど、言われてみたら気になる…
1:14 これ好き合戦しといて終わったあとに「片付けするぞ〜」ってなるの草
堺屋太一の秀吉の中で負け戦から京に帰ってきたら顔馴染みの商人が自軍の装備を戦場で買い集めて売り込みに来た。と書いてましたね。戦場掃除にはそうした役得もあったからやらざるを得ないとは言え多少は見返りがあったのでしょうね。
今は「戦場掃除班」が行っています。
硫黄島ではブルで生き埋めとか、穴掘って葬ってから滑走路にしたとか。。。
歴史秘話ヒストリアで関ヶ原の集落の百姓、ひすとり兵衛(笑)の視点から見た関ヶ原合戦という合戦前から後始末までの道程を辿った非常に興味深い回がありました。長篠の合戦での武田側の戦シ者を埋葬した「信玄塚」でハチが大量発生し武田軍の怨霊の仕業と慰霊をしたのが「ひよんどり」という祭りです。
小競り合いならともかく数万規模の有名な合戦だと後片付けとか可能だったんですかねぇ…
大合戦のあとしまつという映画を作ってほしい。
ちょっと面白そう🤗農民視線から見たら、異界な物語になりそうだね😄
🦖と違ってちゃんとクオリティ高いの希望。笑
長篠合戦の信長鉄砲三段撃ちの通説は現代ではほぼ否定されてますね。
落ち武者狩りといえば、萩原健一主演映画の「八つ墓村」を思い出します。
合戦を弁当持参して見ていた話しは聞いたことあります。
当時は土葬。関ヶ原の後、1万人の亡骸を全部埋めたのか...。
中古車買うときは前のオーナー亡くなったんかなっていうのが偶にあるけど、中古武具ってほぼ確実に戦死者が使ってたって事よね…
3:15 そのつもりで伊賀上野の半忍半農の人たち300人ほどが徒党を組んで落ち武者狩りをしてたら、島津ののき口をやった後の島津義弘の一向50人と交戦になりメタメタに討ち果たされたという・・・
よりによって、バーサーカーの集団に当たってしまうとは踏んだり蹴ったりだな…
てか50人で300人をメタメタにするとかやっぱり薩摩はあたまおかしい(超褒め言葉)
つい先日関ヶ原古戦場跡を見て回ったんだけど、普通に田んぼだったり原っぱだったりで「ここ掘ったら骨とか鎧とか出てくるんかな?」とか思ったけどやっぱりそんなことないか…
そういえば以前、今井宗久の小説を読んだ際、宗久も中古武具をさばいていたという項もあったな。
面白かったんで登録しましたそういえば一体どうしたんだろう?という疑問が一つ晴れましたところで、淀屋て淀屋橋の人で良いのかな?
そうです。淀屋橋は淀屋が大川に架けた橋なので淀屋橋と名付けられました。
面白い視点ですね
由比ヶ浜から昔の人骨が出たって話思い出した鎌倉攻めの時のかね
和田合戦じゃね?
本当、考えた事なかったけど必要だったはず。着眼点が素晴らしい。歴史学者さんたちにもっと深堀りして欲しい。
そういう感じだったんだ。ヤバすぎる
長篠の戦いがあったところが地元で、その近くには首洗池がありました。連子川沿いには、鉛玉も発掘されていたりしたそう。中学時代には設楽原決戦場祭りで武田勝頼役をやったのもいい思い出です。
小学生のときはじめて漫画の三国志を読んだときに、この処理のことを疑問に思って親に聞いたら、骸骨だらけの山と道ができるんだよって言われてトラウマだった
想像の3倍農民メンタルもフィジカルも強くて草。侍に踏んづけられてるイメージだったのに
戦争になれば足軽として徴用されたり、武士辞めて百姓になったり
『大合戦のあとしまつ』という映画が出来たら、ぜひ観に行きたい。
先を越された(笑)全く同じ事考えていた……😅
亡骸だと思ったけど息があった場合はどうしたんだろうか。
殺すだろうね…治療・世話するの面倒だし、武具売って金にするのが目的で戦場をウロウロしてるわけだから…
重症で動けないのならその方がいいのかもね。
落ち武者狩りがまかり通るくらいだから、さっさと処分されるべき、という方向性でしょう。
実家の畑の中に石が立っていて、子供の頃乗って遊んだりしたけど、合戦の後倒れていた人の供養に立てたらしいと聞いた事がある。上と下の畑に二つ…今もあります。
後片付けもだけど、どうやって何万という武士を同じ日の同じ時間に同じ場所で集めて戦いしよう!って集めるんだろう合戦の何日前くらいに合戦決めるんだろうね
西南戦争では、薩軍の負傷兵を治療した熊本城下の医師が打ち首にあったり、庄屋さんからの依頼で薩軍兵の葬儀を勤めた僧侶が、処罰をおそれて過去帳へ記載しなかったりしてますね
最初の火事や事故現場の片付け、実際に作業するのは誰だろう?火事の後片付けは消防団もやるとは聞いた事あるが他にも仕事を持ってる消防団が全てをやるとは思えない。事件事故現場の現場検証や交通整理等は警察官でも片付けはまた別だろう。
よく考えたら関ヶ原とか桶狭間とか長篠一帯は土地そのものが事故物件なのか
映画「のぼうの城」だと交渉で秀吉側が片付けたけどね。
近くの農民が鎧兜着物を剥ぎ取り遺体は埋めた農民がいちばん怖い
江戸時代になると、処刑された人間はふんどしまで奪われたらしい中には内臓までクスリとして売られたとか
2:56 忍たま乱太郎でやってたからギャグかと思ってたわ…
片付けってすごい費用かかるからね。金目のものは回収して費用の代替にしないとな。
昔々、ウルトラマンシリーズで倒された怪獣たちが、誰によって解体されたのか気になっていました。やはり、そうだったのですね🤔🤔
昔のNHK大河ドラマでやってたな。「国取り物語」だったかな?
戦場のお片付けの際の、徴用された農民の収入の一つとしてたんでは?、
代々農家だった家には刀や槍武具が納屋にたくさんありました。それを買い取る専門業者がいて円滑に回っていたようです。戦場となった農地の百姓はこうした武器や武具を戦が終わると集めていたのです。父方の家には刀が5本もありその他槍なども数本ありましたが人を切った刀や槍ということで「縁起が悪い」ということで近くの神社に全部寄付したそうです。話に聞くと大きな戦場では農民が戦死者の首を集め高い位の首として「オハ黒」を塗り偽装して勝者の陣地に持ち込んでいたという農民もいたそうです。戦国時代の農民とはしたたかに生きていたことが分かります。戦死者は谷に落とすか川に流すのが一般艇です。なお落城した城の女中や姫の家族は格好の餌食でこうした農民が待ち構えて身ぐるみはがされ犯されて自害することがあったそうです。農民とは恐ろしい存在だったようです。
うちの実家の山に2ヶ所戦墓がある。うちの土地だからってうちが管理してるけど何だかなぁ
弁当持参で見学…通りすがりに河川敷の野球観戦みたいで楽しそう
これ結構気になってたやつだ
山から合戦見るの結構おもろそう
山形県米沢市の上杉まつりで、上杉軍と武田軍の再現合戦を毎年やります。気が向いたら足をお運びくださいませ。
面白いというか、ヤケクソ。津波警報が流れて高台に避難したら、自分たちの村が津波に呑まれていくのを見ることしかできない被災者の気分だと思う。
円通寺の名前が出てきてちょっとびっくり。元地元で近くは通ってたけど、吉展ちゃん事件の方がよく知られてたから戦の後始末のことは知らなかった。
以津真天「いつまで?いつまで?」
現代ではどうしているんだろうか?
花の慶次でも死んだら身ぐるみ剥がされて褌一丁になるから褌だけはきれいにしておけって話あったよね
本当いい迷惑だから農民全然悪くないじゃん。迷惑過ぎる。
合戦の後は戦場に死体ゴロゴロ…こええなあ…
日露戦争では犠牲者を回収するための休戦タイムがあったですよね。
そもそも戦場って草ボーボーの野原だったの? 田んぼの上で泥の中ズブズブ入りながら「やーやー我こそは!」やってたのか?草刈りやって綺麗にしてたのか? 山城の周りは禿山か木がおおいしげっていたのか?その辺も解説お願いします
自分も思いました。平坦な広場があれば農地にされている気がする。台地上で水がない、逆に毎年水害で流される様な場所なら放置されていそうですが、草ボウボウですよね。代掻きから生育期は水張ってて動きにくい。夏すぎて水抜いた田で戦争したら、農民も怒るだろう。刈り取り終わって雪が降る前なら勝手にやってろって感じでしょうか。
以前知人から聞いた話しで、その方の先祖からの言い伝えとして、自分の農地で合戦をやられたものなら、さんざん踏め荒らされるし、死体がゴロゴロだったりと、どちらが勝とうが迷惑なだけとか。
勝手な想像だけど戦国時代の合戦って、河川敷や川の中洲が戦場とされてる場合が多いというイメージ。川が国境になっていた場所は多いから。
私は幕府方で、特に長州は好きじゃないんだけど、上野山ので彰義隊を野晒しにした辺りとかホント、ウッカリ偉くなった極左みたいな行動嫌なんだよね。。
西南戦争でも官軍の墓地だけはつくってますが・・
城内で殲滅なんかしたら血まみれ過ぎて使えたもんじゃないよな。時代劇じゃ負けた方の所領と城を分け与える、なんて仰々しい場面があるけど誰がどうやって片付けたんやら。
京都には『血天井』なんて名所が何軒もある
@@田中一朗-s2c さん鳥居元忠が玉砕した伏見城の戦いですね。城の中に水道があるわけじゃなし(水樽を吊り上げて洗うくらいはしたかもだけど)、畳や床板の総取っ替えやら壁の漆喰やら気が遠くなるほど時間が掛かったと思いますよ。
@@三丁目分隊員 最終的にカンナで削ったけどもしみ込んでいたのであきらめて天井板に使ったようですね踏んで歩くのも気味が悪かったのでしょう
淀屋橋って、このオッチャンからか、!?
会津戦争で、白虎隊士の弟所有の脇差を戦争市(略奪品を新政府軍が払い下げ、農民の売却)で売られているのを発見した姉が見つけた時、初めて弟が戦死したと悟ったとありました・・
時代は下るが、日露戦争のときの203高地などの戦いでは、休戦時間というのがあり、その時間に両軍とも戦死者や負傷者の回収を行い、タバコや酒を交換しあい、お互いに戦いぶりを称賛していた。武士道や騎士道の精神が残っていた最後の戦いだったようだ。これ以降の戦争は、ただの人殺しになってしまった。
第一次世界大戦においてもクリスマス休戦があって、敵も味方も一緒になって祝い合ったそうです。私の記憶に間違いがあるかも知れませんが、こんな平和的な風景も1914年だけで、以降はそんな呑気な事もできないほど戦いが激化して行ったようです。20世紀後半のヴェトナム戦争でも、クリスマス停戦・旧正月停戦など戦闘を中断する試みがありました。ヴェトコン(実際は北ヴェトナム軍が中核)側がしばしば停戦を破っていたようだが。
@@SatosiSuzuki-jk8xp 本当の目的は、壕が死体で埋まって使い物にならなかったからだそうです。
人って逞しいな
西南戦争の跡地?史跡?では今でもたまに当時の薬莢とか発掘されててお土産品として道の駅で売られてたりする
農民の現金収入になるので身包み剥がされて葬られた。農民と土民は恐ろしい。
2:55 ヨーロッパでいうコロッセオと似てるとか思っちゃうね
戦場の刀は抜き身のままが多く、買い取りする方もそのまま持ってこられて困ったそうな。
そこで「鞘も買うよ」となり、これが「鞘を売って利益が出た」→利ざやの語源になったとか(諸説あり)
天目山の戦いでは、織田軍が来る前に地元の農民が自刃した夫人や侍女達の服を剥いで持って行ったとか。
なるほど🧐
痒くないところを痒くして視聴者の背中を掻いてくれる動画
まさしくマッチポンプw
秀逸なコメント
シラミって事け。
今作に関しては、Wikipedia以下の薄すぎ。まさにマッチポンプ
@@野森佳 さん
ちこちゃんもそうかも知れない。
桶狭間が現在は住宅街になっています。
住宅を作るときに、重機で掘り返したら大量の鎧や兜が出て来たそうです。
その一部を近くのお寺で保管されているそうです。
エリア全体が事故物件w
@@you8996 桶狭間は名古屋市緑区の豊明市との境付近にあり、1号線、名鉄電車が通り、中京競馬場があります。
霊の寿命は、400年。 時効です。
@@伊織-u2o?
前後橋駅は競馬開催中は特急も止まるよ。
吉川英治の「宮本武蔵」では、この合戦のあとの剥ぎ取りや落ち武者狩りの生々しい様子の描写から物語が始まってた。
詳細で臨場感のある描写でびっくりして印象に残ってる。
そういわれてみれば、どうしたのだろう?という内容を解説していただき、ありがとうございました。
大変勉強になりました。
当時鉄製品は結構高価なものだったはずですが、農村には鉄の農機具や鉄鍋といった鉄製品がけっこう普及していたんですよね。農機具などを作ったり修理したりする野鍛冶といった人達も村々を巡っていたというし、戦の後片付けを通じて鉄素材が広まった事は想像に難くないですね…。
長篠の戦いの否定論者の根拠のひとつに戦場から弾が出てこないみたいなことをどこかで見たけど、当時の農民のたくましさを考慮していないインテリの机上の空論だって分かりますね。
@@DarthDerailer
農民もそうだけど織田・徳川方の軍勢としても安くない鉛弾を戦場に捨てていくのはもったいないという精神があって当然でしょうからね。
古今東西で武具や首級など戦利品の略奪は戦場にいる軍勢が先に行い、目ぼしいモノが獲り尽くされた後に農民が駆り出されて残飯の最終処理を行うようです。
中世欧州では王様が戦闘中行方不明なので戦場を探し回った結果、数日後にようやく変わり果てた姿で発見された事もありましたが、最初から農民に任せたら雑兵と一緒に埋葬されていた所ですしね。
あるドラマでは南北戦争の戦いが終わった戦場で武器商人が使えそうなライフル銃を拾い集めているシーンがありましたので、
何となく当時の状況が理解できます。
それが日本に流れてきたんだよなー
グラバー商会?
@@sazareishiさざれ石 様
グラバー商会はイギリスだったような。
動画の最後の方で上野戦争の戦死者が新政府軍によって野ざらしにされた後有志によって
埋葬された話がありますが、同じ戊辰戦争の秋田、山形の県境で行われた三崎峠の戦いでは
遺骨の収集は大正時代になってやっと行われた話が伝わっております。
箱館戦争では野ざらしにした上埋葬した者は逆賊として厳罰に処すという明治政府からの通達が出た
蝦夷共和国(旧幕臣)側の戦シ者を地元の侠客が「いくらお上でもそんな罰当たりは許せねえ!」という
義憤から子分を総動員して一晩で全員を回収埋葬したそうです。
長篠の合戦場の跡地で「甲田」って地名があって、その由来は田んぼを耕したら鎧兜がゴロゴロ出てきたからだそうな。
当時の資料によると、黒鍬組や農民が亡骸の処理に従事すると。今の金銭にすると8000円くらいの報酬だったそうです。
日給でですか❓
はい、日給です。現金と食事を合わせてらしいです。
数年前の最低賃金並か
戊辰戦争を取り上げるなら会津戦争の後、彰義隊と同じく遺骸の埋葬を許されなかった惨状を見て、わざわざ身分を落としてまで旧幕府側の遺骸を埋葬し供養に奔走した伴百悦についても触れてほしいです。
そうそう、明治政府、薩長は鬼畜なんですよ
酷いことをいっぱいやっていた
天皇家をすり替えたという諸説もあるくらいだし
目の付け所が良い動画です👍
本当に!何かと気になるモノ 胃の腑にストンと落ちて参りました。
亡き骸の甲冑や刀はどうしてるんだろうと思っていたけど、こうしていたのか。
地元の寺院が供養までしてくれるのはありがたいですね
七人の侍でも落武者狩りを恐れていたし憎んでいたから 農民と言えど舐めてはいけない怖い存在だったのかも
ゲームだと全滅するまでやるけど実際は被害が1割越えたあたりで撤退するからね。
終わった戦場で戦利品を確保してまわる人が絶対いただろうけど、そうならないように勝者側が管理しながら見張ってたりとか色々想像できそう
そのまま野ざらしで土に還るという場合もたくさんあったみたい、夏場なんかだとあっという間に藪草に覆われて埋もれていきそう
夏草や 兵どもが 夢のあと
野犬やカラスが喰えば比較的早く無くなるが、単に腐敗だけだと夏場でも結構時間はかかるし、骨はいつまでも残る
@@ざますなまず 確かに腐敗と分解は時間がかかるんだけと、ほっておくと、上からチリやら泥やら上から色々なものが降り積もるし、雨や重力で各パーツがならされて、平板化していくよ、
平安期の墓地は風葬もあったわけだけど、普段は農地や寺社のところが戦場になった場合では、サッサと片付けなければ漂う臭気で酷いことになってしまうような
西南戦争では田んぼの草むしりしてたら生首が出てきたとか・・・
南千住の円通寺には、上野戦争最大の激戦地の黒門が移築されています。
法螺貝吹いてそうな山が有るウチの地元も寺同士で殺し合って死屍累々の祟り騒ぎ→村人集による弔いの焚き上げが伝統行事化、土地が古過ぎて武家屋敷も古い寺も有れば地獄なんて名前の地域もある
これすごく気になってた!
ありがとうです
長崎島原は島原の乱の後そのまま埋葬された・供養されなかった戦死者の遺骨がよく出てくるそうですね
私は「忍たま乱太郎」で、きり丸が合戦のあと売れそうな武具を持って行ってお金にするというシーンを見て、そういえば実際はどうしてたんだろうと思っていました。
あたいもきり丸のエピソードで知ってた
戦場に弁当ってワードもあったような
確かに私も気になってました!目の付け所が良きです。
ずっと疑問に思っていたので、分かってスッキリしました!
会津若松城🏯の戦いでも城方の亡き骸は放置に任せたらしい😢
理由が有り会津藩は京都治安の為に厳しく年貢を召し上げしてたから領民からはすこぶる嫌われていて挙げ句領内で戦になり荒らされたから怒りが表面化したのだそうだ😢
『パットン大戦車軍団』(1970)の初めの方で、カセリーヌ峠の戦いに敗れたアメリカ軍の戦死者が、地元住人に身ぐるみをはがされている場面がありますね。現在のウクライナとか、戦場掃除はどうなっているんだろう?誰かが汚れ仕事を引き受けなければならないはずだが・・・
わかりやすい解説です
短いから気軽に見る事が出来ました
そういや桶狭間の戦いの後始末はどうしていたんだろうか?普通に考えるなら織田方だが、敗れた今川方も結構兵が残っていたみたいだし。そういや敗死した兵の亡骸から武具を剥ぎ取ったと聞いて左文字という刀は元々今川義元の刀だったが桶狭間の戦いの後で戦利品として織田信長の物になったのを思い出した
淀屋は大阪市の中心部の「淀屋橋」という地名として残っている。橋のたもとには云われを記した石碑がある。
淀屋が、どれ程豪奢だったかというと、広間の天井を格子にして全てガラス張りにした。ガラスを水密化して、水を張って金魚を泳がせた。
明かり取りと人工の灯りのもと、下から金魚を見上げるようにして、お客に見せていた。
これはほんの一例だ。
淀屋を権力が上手く取り込めていたら日本の資本主義制度はもっと早かったかもしれないが、農本主義で前例踏襲の幕府には到底受け入れられなかった。
それは4代目の辰五郎がやってた。
因みにそれが原因(町人の分際で贅沢が過ぎる)で淀屋は潰された。
平家物語を読んでたりすると、あの京都でひっきりなしに合戦してたみたいだし。だとすると鴨川なんかはずっと「血が流れる赤い川」みたいだったんじゃないかな、と。 それと、昔は土葬だったわけだから、”埋葬する土地がそんなにあったのかな?”みたいな疑問も。。
京都にお寺が多いのは「戦死者が多かったから」という考え方もできるのかも。ですね。
長篠の合戦場近くに医王寺というところが有る。
こちらは代々戦死者を弔っているからこの話は間違いないだろう。
会津戦争でも白虎隊の遺体を同じように野晒しにしてたから現代でも長州(山口)に対して恨みが残ってるんだよね。
元福島県民です。
福島県民は物心ついたころから白虎隊や新政府軍の蛮行を聞かされて育ちます(笑)
現在のウクライナなどではどうしてるのだろう? と思いを馳せる。
X(旧Twitter)でコメント欄の秀才って載せてリンク貼ってたから見に来たけど普通に内容おもろいからチャンネル登録してしまった
関ヶ原の後はすごかったみたいですね。
竹中半兵衛の子息、重門が千俵貰って処理したそうです。
関ヶ原は彼の領地に近かったらしい(正確には後に交代寄合になる高木家)のが理由、本動画と合致してますね。
強制奉仕作業になる恐れもあるので、賊軍についた重門への厚遇でしょう。
あ、幕府成立まではミカワ人は賊軍ですからね、公儀・天下様は豊臣秀頼です。
面白かったです。ノルマンディー上陸作戦とかクルスク戦車戦のあとなんか凄かったでしょうね
服はリサイクルできるし、武器は売れる。 運が良ければ明智光秀みたいな「お宝」も
有る村にカミナリがよく落ちる村が有りある時やはりカミナリが落ちて私は消防団で火事の現場に行ったのですがね、そこにいたオジサンと話をしていたらここはよくカミナリが落ちるんだよ、なぜですかて聞くとここは戦国時代に合戦があったんだがね刀とかが地面に埋まっているからカミナリがよく落ちるんだよて教えてもらった事が有ります、そして
田畑を耕すとトラクターとかがよく折れて錆びた刀とかを拾い起こすんだとオジサンが言っていましたね。
似非科学の法螺吹きジジイか
凄く納得感有ります!
東京の八王子市にある八王子城址を訪れたとき、ここで戦死した人達の遺体は、誰が運んだり、処分したのか疑問に思っていたけど、この動画を視聴して納得しました。
地元の神社は元古戦場で、穢土みたいな扱い。周りは士農工商の枠外(察してください)しかいない土地だったらしい。今は新規住人ばかりで駅近の住宅街だけどね。
強奪もあったけど住所氏名もあるので ほぼ真面目な現地人さんは遺族に送り返したりしてたそうで、先祖代々の物品が残ってるのがそれの名残とか聞きました。
平地は思ってた通りだけど、山城を攻略した時はどうしたんだろう?再使用する時は勝者側がやるんだろうけどそのまま使わない時は?地元農民も困らないだろうしね?
バガボンドの序盤たしか、落ち武者狩りからじゃなかったっけ?
気にしたこともなかったけど、言われてみたら気になる…
1:14 これ好き
合戦しといて終わったあとに「片付けするぞ〜」ってなるの草
堺屋太一の秀吉の中で負け戦から京に帰ってきたら顔馴染みの商人が自軍の装備を戦場で買い集めて売り込みに来た。と書いてましたね。戦場掃除にはそうした役得もあったからやらざるを得ないとは言え多少は見返りがあったのでしょうね。
今は「戦場掃除班」が行っています。
硫黄島ではブルで生き埋めとか、穴掘って葬ってから滑走路にしたとか。。。
歴史秘話ヒストリアで関ヶ原の集落の百姓、ひすとり兵衛(笑)の視点から見た関ヶ原合戦
という合戦前から後始末までの道程を辿った非常に興味深い回がありました。
長篠の合戦での武田側の戦シ者を埋葬した「信玄塚」でハチが大量発生し武田軍の怨霊の仕業と
慰霊をしたのが「ひよんどり」という祭りです。
小競り合いならともかく数万規模の有名な合戦だと後片付けとか可能だったんですかねぇ…
大合戦のあとしまつという映画を作ってほしい。
ちょっと面白そう🤗
農民視線から見たら、異界な物語になりそうだね😄
🦖と違ってちゃんとクオリティ高いの希望。笑
長篠合戦の信長鉄砲三段撃ちの通説は現代ではほぼ否定されてますね。
落ち武者狩りといえば、萩原健一主演映画の「八つ墓村」を思い出します。
合戦を弁当持参して見ていた話しは聞いたことあります。
当時は土葬。関ヶ原の後、1万人の亡骸を全部埋めたのか...。
中古車買うときは前のオーナー亡くなったんかなっていうのが偶にあるけど、中古武具ってほぼ確実に戦死者が使ってたって事よね…
3:15 そのつもりで伊賀上野の半忍半農の人たち300人ほどが徒党を組んで落ち武者狩りをしてたら、島津ののき口をやった後の島津義弘の一向50人と交戦になりメタメタに討ち果たされたという・・・
よりによって、バーサーカーの集団に当たってしまうとは
踏んだり蹴ったりだな…
てか50人で300人をメタメタにするとかやっぱり薩摩はあたまおかしい(超褒め言葉)
つい先日関ヶ原古戦場跡を見て回ったんだけど、普通に田んぼだったり原っぱだったりで「ここ掘ったら骨とか鎧とか出てくるんかな?」とか思ったけどやっぱりそんなことないか…
そういえば以前、今井宗久の小説を読んだ際、
宗久も中古武具をさばいていたという項もあった
な。
面白かったんで登録しました
そういえば一体どうしたんだろう?という疑問が一つ晴れました
ところで、淀屋て淀屋橋の人で良いのかな?
そうです。
淀屋橋は淀屋が大川に架けた橋なので淀屋橋と名付けられました。
面白い視点ですね
由比ヶ浜から昔の人骨が出たって話思い出した
鎌倉攻めの時のかね
和田合戦じゃね?
本当、考えた事なかったけど必要だったはず。
着眼点が素晴らしい。歴史学者さんたちにもっと深堀りして欲しい。
そういう感じだったんだ。ヤバすぎる
長篠の戦いがあったところが地元で、その近くには首洗池がありました。
連子川沿いには、鉛玉も発掘されていたりしたそう。
中学時代には設楽原決戦場祭りで武田勝頼役をやったのもいい思い出です。
小学生のときはじめて漫画の三国志を読んだときに、この処理のことを疑問に思って親に聞いたら、骸骨だらけの山と道ができるんだよって言われてトラウマだった
想像の3倍農民メンタルもフィジカルも強くて草。侍に踏んづけられてるイメージだったのに
戦争になれば足軽として徴用されたり、武士辞めて百姓になったり
『大合戦のあとしまつ』という映画が出来たら、ぜひ観に行きたい。
先を越された(笑)全く同じ事考えていた……😅
亡骸だと思ったけど息があった場合はどうしたんだろうか。
殺すだろうね…治療・世話するの面倒だし、武具売って金にするのが目的で戦場をウロウロしてるわけだから…
重症で動けないのならその方がいいのかもね。
落ち武者狩りがまかり通るくらいだから、さっさと処分されるべき、という方向性でしょう。
実家の畑の中に石が立っていて、子供の頃乗って遊んだりしたけど、合戦の後倒れていた人の供養に立てたらしいと聞いた事がある。
上と下の畑に二つ…今もあります。
後片付けもだけど、どうやって何万という武士を同じ日の同じ時間に同じ場所で集めて戦いしよう!って集めるんだろう
合戦の何日前くらいに合戦決めるんだろうね
西南戦争では、薩軍の負傷兵を治療した熊本城下の医師が打ち首にあったり、庄屋さんからの依頼で薩軍兵の葬儀を勤めた僧侶が、処罰をおそれて過去帳へ記載しなかったりしてますね
最初の火事や事故現場の片付け、実際に作業するのは誰だろう?火事の後片付けは消防団もやるとは聞いた事あるが他にも仕事を持ってる消防団が全てをやるとは思えない。事件事故現場の現場検証や交通整理等は警察官でも片付けはまた別だろう。
よく考えたら関ヶ原とか桶狭間とか長篠一帯は土地そのものが事故物件なのか
映画「のぼうの城」だと交渉で秀吉側が片付けたけどね。
近くの農民が鎧兜着物を剥ぎ取り遺体は埋めた
農民がいちばん怖い
江戸時代になると、処刑された人間はふんどしまで奪われたらしい
中には内臓までクスリとして売られたとか
2:56
忍たま乱太郎でやってたからギャグかと思ってたわ…
片付けってすごい費用かかるからね。金目のものは回収して費用の代替にしないとな。
昔々、ウルトラマンシリーズで倒された怪獣たちが、誰によって解体されたのか気になっていました。
やはり、そうだったのですね🤔🤔
昔のNHK大河ドラマでやってたな。「国取り物語」だったかな?
戦場のお片付けの際の、徴用された農民の収入の一つとしてたんでは?、
代々農家だった家には刀や槍武具が納屋にたくさんありました。それを買い取る専門業者がいて円滑に回っていたようです。
戦場となった農地の百姓はこうした武器や武具を戦が終わると集めていたのです。父方の家には刀が5本もありその他槍なども
数本ありましたが人を切った刀や槍ということで「縁起が悪い」ということで近くの神社に全部寄付したそうです。
話に聞くと大きな戦場では農民が戦死者の首を集め高い位の首として「オハ黒」を塗り偽装して勝者の陣地に持ち込んでいた
という農民もいたそうです。戦国時代の農民とはしたたかに生きていたことが分かります。戦死者は谷に落とすか川に流すのが一般艇です。
なお落城した城の女中や姫の家族は格好の餌食でこうした農民が待ち構えて身ぐるみはがされ犯されて自害することがあったそうです。
農民とは恐ろしい存在だったようです。
うちの実家の山に2ヶ所戦墓がある。
うちの土地だからってうちが管理してるけど何だかなぁ
弁当持参で見学…通りすがりに河川敷の野球観戦みたいで楽しそう
これ結構気になってたやつだ
山から合戦見るの結構おもろそう
山形県米沢市の上杉まつりで、上杉軍と武田軍の再現合戦を毎年やります。気が向いたら足をお運びくださいませ。
面白いというか、ヤケクソ。津波警報が流れて高台に避難したら、自分たちの村が津波に呑まれていくのを見ることしかできない被災者の気分だと思う。
円通寺の名前が出てきてちょっとびっくり。
元地元で近くは通ってたけど、吉展ちゃん事件の方がよく知られてたから戦の後始末のことは知らなかった。
以津真天「いつまで?いつまで?」
現代ではどうしているんだろうか?
花の慶次でも死んだら身ぐるみ剥がされて褌一丁になるから褌だけはきれいにしておけって話あったよね
本当いい迷惑だから農民全然悪くないじゃん。迷惑過ぎる。
合戦の後は戦場に死体ゴロゴロ…こええなあ…
日露戦争では犠牲者を回収するための休戦タイムがあったですよね。
そもそも戦場って草ボーボーの野原だったの? 田んぼの上で泥の中ズブズブ入りながら「やーやー我こそは!」やってたのか?草刈りやって綺麗にしてたのか? 山城の周りは禿山か木がおおいしげっていたのか?その辺も解説お願いします
自分も思いました。
平坦な広場があれば農地にされている気がする。台地上で水がない、逆に毎年水害で流される様な場所なら放置されていそうですが、草ボウボウですよね。
代掻きから生育期は水張ってて動きにくい。夏すぎて水抜いた田で戦争したら、農民も怒るだろう。刈り取り終わって雪が降る前なら勝手にやってろって感じでしょうか。
以前知人から聞いた話しで、その方の先祖からの言い伝えとして、自分の農地で合戦をやられたものなら、さんざん踏め荒らされるし、死体がゴロゴロだったりと、どちらが勝とうが迷惑なだけとか。
勝手な想像だけど
戦国時代の合戦って、河川敷や川の中洲が戦場とされてる場合が多いというイメージ。
川が国境になっていた場所は多いから。
私は幕府方で、特に長州は好きじゃないんだけど、上野山ので彰義隊を野晒しにした辺りとかホント、ウッカリ偉くなった極左みたいな行動嫌なんだよね。。
西南戦争でも官軍の墓地だけはつくってますが・・
城内で殲滅なんかしたら血まみれ過ぎて使えたもんじゃないよな。
時代劇じゃ負けた方の所領と城を分け与える、なんて仰々しい場面があるけど誰がどうやって片付けたんやら。
京都には『血天井』なんて名所が何軒もある
@@田中一朗-s2c さん
鳥居元忠が玉砕した伏見城の戦いですね。
城の中に水道があるわけじゃなし(水樽を吊り上げて洗うくらいはしたかもだけど)、畳や床板の総取っ替えやら壁の漆喰やら気が遠くなるほど時間が掛かったと思いますよ。
@@三丁目分隊員 最終的にカンナで削ったけどもしみ込んでいたのであきらめて天井板に使ったようですね
踏んで歩くのも気味が悪かったのでしょう
淀屋橋って、このオッチャンからか、!?
会津戦争で、白虎隊士の弟所有の脇差を戦争市(略奪品を新政府軍が払い下げ、農民の売却)で売られているのを発見した姉が見つけた時、初めて弟が戦死したと悟ったとありました・・
時代は下るが、日露戦争のときの203高地などの戦いでは、休戦時間というのがあり、その時間に両軍とも戦死者や負傷者の回収を行い、タバコや酒を交換しあい、お互いに戦いぶりを称賛していた。
武士道や騎士道の精神が残っていた最後の戦いだったようだ。
これ以降の戦争は、ただの人殺しになってしまった。
第一次世界大戦においてもクリスマス休戦があって、敵も味方も一緒になって祝い合ったそうです。私の記憶に間違いがあるかも知れませんが、こんな平和的な風景も1914年だけで、以降はそんな呑気な事もできないほど戦いが激化して行ったようです。
20世紀後半のヴェトナム戦争でも、クリスマス停戦・旧正月停戦など戦闘を中断する試みがありました。ヴェトコン(実際は北ヴェトナム軍が中核)側がしばしば停戦を破っていたようだが。
@@SatosiSuzuki-jk8xp 本当の目的は、壕が死体で埋まって使い物にならなかったからだそうです。
人って逞しいな
西南戦争の跡地?史跡?では今でもたまに当時の薬莢とか発掘されててお土産品として道の駅で売られてたりする
農民の現金収入になるので身包み剥がされて葬られた。農民と土民は恐ろしい。
2:55 ヨーロッパでいうコロッセオと似てるとか思っちゃうね