【ゆっくり解説】そう言えば足利氏って室町幕府が滅亡した後どうなったの?超簡単解説
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- Опубликовано: 20 окт 2024
- 今回は「足利氏のその後」について超簡単に解説
成立当初からごたごた続きだった室町幕府、
その後も安定した時期が少なく、結局足利義昭の時代に滅亡
本格的な戦国時代が訪れるわけですが
実は足利義昭は京都追放後も将軍だったわけで
その後足利氏が一体どうなったのか?今回は超簡単に解説していこうと思います
【注意】
今回の解説が必ずしも正しい説とは限りません
あくまで一説としてお聞きいただければ幸いです
登場する人名などに関して、立場や改名などによって
変わったりしていますが解説をわかりやすくするために
変化なく紹介している場合もあります
あくまで歴史上の人物の心境や、それぞれの思惑などは
投稿者自身の解釈や考察が含まれているという事と
逸話や説などはあくまで説として
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【参考サイト】
国立国会図書館デジタルコレクション
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甘茶の音楽工房
【画像】
京都フリー写真素材集
平島公方家、現在の当主は15代目の義徳氏で京都在住とありますね。去年の足利ゆかりの会に出席していました。
足利尊氏以来の将軍家から別れた子孫ってのは限られますが、源義康の子孫といえば、それこそウジャウジャいますね。
吉良、今川等。
喜連川家が古河公方家を継ぐ宗家扱いだけど、早い時期に宮原家(古河公方家の分家)から養子が入り、まあそれは同じ足利なので良いとして、更にその後に大洲藩加藤家から養子が入り、更に水戸徳川家から養子が入ったので、もはや足利家の血脈は?な気が。
宮原家は高家になってるが、こちらも江戸中期以降、戸田や岡部からの養子で足利の子孫であるのは系図上だけな気がする。
結局、蜂須賀に冷遇され京に移った平島公方家が最も足利の血を伝えている。
それと堀越公方は茶々丸が討たれ滅んだとは言え、室町幕府11代の義澄は堀越公方政知の次男であり、以降の各将軍は堀越公方の子孫と言えるのでは。
面白いな、と思いましたんでポチッときました。
足利義昭の遺児の1人に伊予守護河野通宣の娘、河野玉子との間に出来た昭王丸(足利義通)こと河野通勝がいて、子孫も続いてるみたい。
以外に知られていない話。ちなみにこの河野通勝の子孫は皇室にも系図を提出してて、皇室に嫁いだ者もいるらしい。
河野家って旗本や高家とか、毛利家等の藩士として存続していたんですか?
@@長野業正-j9l
旗本で河野氏はいるみたいですが、個人的には多分別系統だと思っています。甲斐武田家の家臣になっていたそうですが、そもそも伊予河野氏は甲斐武田氏とは接点が無いですし、甲斐国に領地もありません。甲斐国に領地があり、その代官として分家が赴任した後に武田家に臣従したのなら可能性はあるんですけど、その痕跡は見当たりません。
毛利家臣として存続した河野氏はいます。一応嫡流扱いのようですが、血縁的には安芸宍戸氏になってますね。萩藩大組の40石の武家として存続してます。
後は、島根県の三谷村に河野嫡流の系図を伝える河野氏がいて、江戸時代は帰農して庄屋やってますね。島根県には他にも、吉見氏を頼って引っ越して来た河野氏などもいます。
足利義昭の子孫を自称するやつは大量にいるからね
@@名無し-q6y5w
詳細な返信ありがとうございます?
@@conspiracy_shine終戦後にも「偽天皇」や「自称天皇」がいました。
足利で生き残ったのは鎌倉公方の系統の喜連川家だけかと思ってたけど、
将軍家の系統もちゃんと残ってたんだね。他の名家のように秀吉や家康が見出してくれれば
もうちょっといい扱いだったんだろうけど。
足利がどんな形で残ったのは、ちょっと安心した。
今の足利の会って平島公方家と喜連川家の両名が代表だったと思いましたが。
喜連川さんは松平に乗っ取られたよー
血筋は確かに足利氏ではなくなったけど、当主が亡くなってからの末期養子(徳川斉昭息子で元松平氏だが)を認め喜連川家をわざわざそのまま存続させているわけだし、お家乗っ取りではないと思うが。当主が生きてるうちに実子がいるのに無理やり徳川から養子を押し付けたならともかく。
鉢植え大名の蜂須賀としたら元将軍の家が領内にあるのは厄介だったんでしょうね
喜連川縄氏は徳川斉昭の十一男で徳川慶喜の実弟
慶喜は正室の子、縄氏は庶子なので異母弟では❓🤔
DNA的にはガチガチの尊皇の家に生まれながら、足利に復姓したばかりに「朝敵の一族認定されてつらい目に」と子孫の足利惇氏が語る。
@@イトーヨーcardここでいう『実』は『義理ではない』という意味であり、異父母とは違う角度の概念なので問題ありません。
平島公方と同じか、或いはそれ以上に江戸幕府から冷遇された新田家の末裔岩松家の場合だと。
戊辰戦争時に官軍側として挙兵して、もう一つの新田家の末裔共々男爵になったのにね。
@@長野業正-j9l
徳島藩(阿波藩?)は稲田騒動があるぐらい複雑な地域ですしね...
室町幕府の将軍は江戸幕府に比べる実権的には弱いが、
足利一門が幕府の重臣や守護などに就いていたので、
そういう意味では却って強固だったはずが、最後は尻
切れトンボに終わった。一門での結束力はなかったみ
たいだ。
三管領とか揃いも揃って内部分裂してるからな……
内ゲバし過ぎたのが室町幕府の敗因
なお、足利義昭の長男義尋は門跡時代に子供をつくった挙げ句に寺を追い出されて還俗したスキャンダルのせいで系図から削除されたために、一色義矯が義昭の子供みたいに記載されるが本当は義尋の長男で二人の門跡の兄説がある
永山休兵衛義在の子孫は幕末の薩摩藩の城下絵図で「永山休兵衛」とあるので一応続いているが、浪人や足軽の息子から家老に爆速出世するヤツすらいた薩摩藩の中では目立たない家格小番の馬廻止まりだった
尊氏公悲しんでそう
ウチのご先祖様はオレに大激怒だろな( ´ー`)y-~~w
尊氏が築いた幕府も結局鎌倉と同じとは、皮肉だ
足利直冬、足利義嗣、陸奥に赴いた稲村、篠川公方も末裔がいるのかな…
@@kumosukeponsuke 足利直冬の子孫なら、島根県にいる可能性がありますね。
直冬の娘が三隅氏の分家に嫁いでます。ただ、三隅氏自体戦国時代に滅亡してるし、この分家もその後はわかっていません。
@@名無し-q6y5wそれは「三隅氏の末裔」だな
@@名無し-q6y5w
ハロー(一応直冬の子孫より)
喜連川?
義国は義家の四男です。
二引両です
足利氏分家の子孫の元豪農やが正直家の説は嘘くさいし多分権威付けの一貫でついた嘘が末代まで残ったパターン
追記あの岩見で行方不明になった奴の子孫って設定無理あるやろ