Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
3電源交直車の車輌単価が高いこともあり、北陸ー信越ー羽越本線の電車化から漏れた可能性もあったりして。
温海−現在のあつみ温泉駅🚉です。
DC急行屈指のロングランナーだった列車が、現在は新潟県内完結のスプリント電車特急に転生しているのは面白いですね。
気動車急行最長距離ランナーで走行距離が772.4kmで運転区間は金沢ー青森間で走行線区は北陸本線ー信越本線ー白新線ー羽越本線ー奥羽本線を走行していました。途中新潟駅で進行方向が逆向きになります!
調べたら、夜にほぼ同じスジを現在は奥羽本線の秋田発青森行き快速が走っているんだよなぁ...。
急行しらゆき号の付属編成4両を秋田駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました、途中新潟ー青森間逆編成で運転していました。
急行しらゆきはキハ58時代は地元駅を通過していたけど、特急白鳥1.4号に格上げされてからは停車するようになりました😌ちなみに現在特急しらゆきは全列車停車します
全線架線下でいうと特急なはもヨンゴウトウダイヤ改正からヨンハチトウダイヤ改正まで架線下気動車特急だった。特急日向を併結していたとはいえ。
交直急行型電車は3電源を走破できる電動車ユニット(457系)が元々少なかった上に、その多くが九州に配置されたからね。
単純に電車は足りないが気動車は余ってるからでしょうね。板谷峠で使えるなら東北地方どこへ行っても大丈夫ですよ
名古屋〜新潟間の急行赤倉号も、1973年から1982年まで全区間電化区間を走っていたにも関わらず、キハ58系気動車で運転していました。
併結のない急行おが も同じだったはず。急行用の交直両用電車の不足が全線電化区間のディーゼル急行の存在理由として説明されていたと思う。
電化区間のみ走るのにディーゼルカーが使われる理由は主に、電車の車両不足、変電所の容量不足(これは皆様も模型をレールにたくさん乗せ過ぎて、動きが遅くなった経験があると思いますが、これと同じような事です)、デットセクションを跨ぐ運転士の負担を軽くするため、または交直両用車の不足(北陸本線や関門トンネルの区間で見られました)が主な理由です。
鉄道ジャーナル誌でも取り上げられていましたが、当時の国鉄の財政事情からすれば高価な三電気車両走らすより気動車だったのでしょうね。これは乗ってみたかったなあわ、
70年代後半の恐ろしい乗り継ぎ(指宿枕崎線)→錦江→えびの→さんべ→大社→赤倉→しらゆき→青函航路→宗谷全てDC急行による西大山→稚内の制覇ルート、ネタ鉄の人がやってましたこのうち、赤倉としらゆきが架線下DC
同じ様な区間に急行『越後』が走っていました新潟から大阪までこれは分割併結なしで始発から終点まで走りました距離はしらゆきより短いですが、全然電化区間を走る気動車としてはこれも外せないなぁと思いました
「越後」は廃止まで大阪〜金沢間で七尾(当時全線非電化)・能登線乗入れの急行「ゆのくに」をつないでましたよ(大体帰省で年一回乗っていた)。余談だけど、「越後・ゆのくに」の共通運用な中央線夜行「ちくま」(大阪〜長野)も全線架線下の気動車急行だな
架線下のDC急行といえば関西では「きのくに」を思い出すなぁ。
1979年に名古屋~富山をのりくら、富山~青森をしらゆき、青函連絡船摩周丸、函館~釧路をおおぞらを利用しました。 名古屋~釧路は3日かかりました。 しらゆきが架線下を走るDC急行だったとは今知りました。 乗ったしらゆきの車両では、入善から青森まで満席で乗客の入れ替わりはありませんでした。
しらゆきは金沢〜青森間運転の記憶が強い。
何しろ金沢~糸魚川間では松本発着の急行「白馬」を併結する2層建て列車であることと、その「白馬」の運行経路上に国鉄時代から現在に至るまで非電化区間である大糸線南小谷~糸魚川間が含まれているために、このような運行パターンになっていたそうです。
しらゆきから生まれ変わった福井白鳥も大阪白鳥と同じ車両で食堂車を営業していればと思うと残念でなりません。白鳥は同じ編成で運用するべきだったと思います。
しらゆきをとりあげていただきありがとうございます、自分は併接されていた白馬号を利用してました。
自分は北陸新幹線開業後のしらゆき号しか知りませんでしたが、過去の急行列車は物凄い特徴を持っていたのですね!
多層建て列車、再婚列車、詐欺急行、ぼったくり急行など、気動車急行は特徴的なものが多かったですね。
電車の数が足りない場合、全線架線下のDCとなる場合は、当時いくらでもありました。余っている車両をかき集めて使っていたわけです。特に、急行用の電車の場合は、全席ボックスシートだったので、この時代、リクライニングシート付きのバスも出てきた関係もあり、増備のための生産が打ち切られていたからです。その足りない分をDCで補っていた面もあります。
同じ交流区間でも60Hzと50Hzがあったのと交直流電車は高額だったからあまり作らなかったと思います。ディーゼル車も高額だったので有効に使いたかったかも?特急白鳥もかなりの距離を走ったから。大阪ー上野間もありましたし。
高額な交直流電車を製造したくなかったのでは?現在でも、羽越本線は普通列車に気動車を充当してるようですし。
それも考えられますが、ウテシの配置の都合もあるかもです。あの頃の日本海縦貫線の北部に電車運転資格持ちは少なそうですが、気動車運転資格持ちなら支線区直通用にゴロゴロいますから。しかも資格転換させようにも組合最強の時代で、ゴネられたらどうにもならないです。
更に言うと、蒸気機関車運転資格持ちの主な転換先が気動車が多かったのもあるのかも。
@@NaruoKusugawa そっか、電車に乗れる人が根本的に不足してたって事情も大きいかもね。
高度な運転技術を必要とするSLからカンタンなDLや EL果ては支線やローカルディーゼルカーへ移れですからね機関助手も居なくなるので実質的には人員削減であり組合からの反発は相当なものでした
北陸本線で、当時運用していた457系は三種の電化区間で走行可能でした。しかしながら北陸と関西がメインの使用だし。当時の金沢鉄道管理局が、長距離、長時間の運行で大事な475系を使用には難色を示し、結局廃止まで気動車に。
この地味な存在だった名気動車急行しらゆきの名が21世紀に復活した時にはびっくりしました。最近の北海道での大雪の復活も同じく。
現在のしらゆきはみのりの復活(その前は急行赤倉)ではないかと思います。
実は現場においては急行しらゆきの電車化を強く要求していたそうです(鉄道ジャーナル列車追跡白鳥3号に記載)。でも特急格上げ(白鳥1・4号)という形になってしまいました。
福井〜青森間を走った特急「白鳥1・4号」でしたね。
現在でもトキ鉄の日本海ひすいラインや、羽越本線の村上~酒田間など、電化のくせして、気動車が走る線区は結構ありますね。国鉄時代の急行を調べたら、カオスで沼りそうになりました。
自慢ですが、乗った事がありますw当時はDCの増結解結が職人技の難解パズルでしたね。あ、あと羽越線内の急行、普通列車の電車化が遅れた最大の原因が、交直流電車のコストが高かったから、だそうですよ。国鉄末期、急行がどんどん特急化されて行って、しらゆきは白鳥二往復化の際に統合され、交直流急行電車の投入はありませんでした。兄弟列車だったDC急行羽越(新潟⇔秋田)が、急行きたぐに(当時新潟止まり)の583系の間合いで運行され、急行庄内(新潟⇔酒田)となったのとは対照的ですねw
自分の中学生の時の仮想急行昼行のきたぐに1号にしてもそうなんだけど、そもそも457系の車両数が少なかったのが大きかったと思う。立山なら475系で行けるしね。気動車なら併結の方が合理的だね。湖西線ができてからの話だけど、近江今津から敦賀に行く普通もキハ58系の2両編成だったよ。ちなみにしらゆきと同じで大阪新潟間の架線下DC急行に越後がいたw
急行しらゆきが電車化されなかった一番の要因は、3電源用の交直両用の457系が1971年以降製造されなかったのが一番大きいんだと思います。そして当時の国鉄は、急行を特急にいずれ格上げするつもりだったため457系など急行型車両を製造しなかった、と思います。
新幹線延伸で特急用電車が余剰になるのが明白だったからね。収益を上げる為に急行を格上げと称し実質的値上げをしていた時代。
急行「しらゆき」は走る時間帯のせいか、乗車率の高い列車だったと記憶してます。秋田から新潟まで乗車したことがありましたが、ほぼ100%でギリ座れた感じで、新潟で多くの客が入れ替わりという流れだったと思います。昭和50年ごろの話ですが、冷房化率は100%で、混んではいたものの快適で速い急行でしたね。
1:51 秋田駅の旧駅舎が懐かしいですね。910ブルーバードのタクシーも相まってまさに住んでいた当時ですね。JRの文字から民営化直後ですね。当時小学6年でした。この頃秋田駅は反対側に東口が開設されましたね。
昭和の時分、急行「しらゆき」には独特の使命がありました。1970年代国労・動労のストが頻発しましたが、急行「しらゆき」はスト破り列車として重宝されていました。急行「しらゆき」の走る秋田・新潟・金沢の鉄道管理局にはストをしない鉄労に所属する運転士や車掌が少なからずおり、当局はスト破り要員を集めて急行「しらゆき」の運転を必至に確保していました。スト破り列車として運転するためには気動車の方が好都合だったとも言えます。日本海側にある鉄労の強い鉄道管理局であっても、電車運転士や電気機関車の機関士は動労組合員が圧倒的多数で、気動車運転士の方がスト破り要員を確保し易かったからです。動労は東北、北陸、新潟地区の183系・485系・583系特急電車の運転を独占するために、東北や新潟の青年部員たちに電車運転士になるように指導していました。
急行しらゆきは最終日の金沢発青森行きに全区間乗り通しました。北陸本線の旧型客車夜行急行や電車昼行急行が一斉に姿を消した改正であるので、なんとも地味な架線下DC急行にはお別れ乗車も少なく、ゆったりと自由席に座ってのんびりできた事を思い出しました。恐らく国内では二度と体験できない懐かしい思い出です🎉。
今も羽越本線の交直区間を跨ぐ普通列車が気動車なのも系列を増やさず周辺の枝線区間と共通にしたいという意向が強いのかも知れませんね。食パンも入れなかった位ですし。
食パンはそもそも会社違うし…😉
1年だけだけど特急にちりんが全区間電化路線をキハ82で運行していたことがありましたが、車両を共有していた肥薩線経由のおおよどが廃止になったため485系になりました。
非冷房車も連結されてたから夏はヤバかったのでは。理由は別ですが、トキ鉄の普通列車が電化下の気動車を運転してますね。
現在よりは気候が涼しい時代でしたし走行している限りは窓から風が入ってきましたなお煤煙と黄害…
白馬やきたかみを併結していたからDCだった東北と上越新幹線開業で485が捻出されたら特急に格上げされた485はしらゆきだけでなく羽越やきたぐにの新潟以北や立山や九州各線やくりこまの盛岡以北やおがの福島以北の特急化に使用した急行は53年以降は特急格上げか快速化のどちらが進んでいた長距離DCだったうわじま、あしずり、赤倉、しらゆき、越後、狩勝、大社、大雪、白兎、さんべもあっという間にきえてしまった
架線下気動車急行が多数走っのは、どうせ特急に格上げするのだからと、新造費をケチり急行型電車を作らなかった。実際架線下気動車急行で特急格上げ以外で電車化されたのは、「赤倉」くらいでしょう。
急行「赤倉」号も、末期に電車化されたが、廃止されました。無理しても乗れば良かったと後悔してます。
「赤倉」が電車化されたのは「しらゆき」の「白鳥1・4号」への格上げと同じ1982年のダイヤ改正。房総各線急行の特急格上げに伴って165系が幕張から新潟に転属した為でした。(この時、中央西線・篠ノ井線の低断面トンネル対応で新潟所属のモハ164-0番台はパンタグラフをPS23に交換。型式標記の頭に🔶マークが加えられました。)その後、1985年のダイヤ改正で運行区間が松本〜新潟間に短縮され(松本〜長野間は普通列車)、愛称も「南越後」となりましたが、JR化後の1988年には、小諸・上田〜長野〜新潟間(長野以南は普通列車)の「とがくし」と統合されて(同時に普通列車区間を妙高高原以南に拡大)二代目「赤倉」を名乗り、北陸新幹線が長野まで先行開業した1997年に特急「みのり」に格上げされるまで走り続けました。
急行赤倉は一時381系で特急格上げも検討されていました。381系の方向幕には新潟のマークがありました!
東北新幹線ができる前、昼行で急行おがが気動車で秋田まで走ってた。板谷峠を走るときは補機なしでエンジン全開。でもめちゃくちゃ遅かったのを覚えています。
赤倉と共に好きな急行でも1号車がなくて2〜10号車の9両編成ってのが不思議だった
筑波万博輸送でも同じくエキスポライナーでキハ58•28等の急行気動車が全電化区間を走ってましたね
つくば博のエキスポライナーは、使える車両を総動員しての運転でしたからね…キハ58・28はダイヤ改正まで運転されていた水郡線直通の「急行 奥久慈」を併結していた気動車急行「ときわ」で使われていた車両でしたし、中には寝台特急「はくつる」「ゆうづる」で上野に着いた583系を東大宮で座席に転換して大宮発のエキスポライナーに充当した列車も有りましたね…
そして七尾線でグリーン車付きの朝の通勤列車として朝イチアルバイトしてから急行しらゆきになって青森を目指しました。秋田局の車輌で働きモノでしたね。
NHKのラジオの公開番組が終わるとちょうど「しらゆき」がありましたが、20分ほどの乗車時間運賃80円で当時の急行料金200円をケチって次の各駅停車に乗っていました。そのまま急行料金を払わずに「しらゆき」に乗った人は降りたら3倍の600円を払っていました。
701系が登場した時に秋田〜大館間の快速としてもしらゆきが復活してますねその後秋田エリアの快速から愛称が無くなってしまいましたが...
30年近く前に東北・北海道を旅行した時、東北の鉄道を詳しく知らなかった自分は快速しらゆきは特急型と来るのかなと思って列車を待っていたらまさかの701系、年末の夜の雪深く暗い景色がより一層身に堪えた。
当初は〔しらかみ〕だったものが、〔リゾートしらかみ〕の登場によって〔しらゆき〕に改称されたという経緯でしたね。
大館からあつみ温泉まで乗ったのが懐かしく思い出されました。
急行しらゆきの他には、急行赤倉も1973年7月改正から1982年11月改正までに架線化ディーゼル急行だった。当時の国鉄は、新潟地区で非電化路線で間合い運用があり、名古屋地区でも太多線での間合い運用のためと言っていた。しかし名古屋地区では、中央西線での間合い運用ができて、新潟地区でも白新線などで間合い運用ができた。ディーゼル赤倉は、普通車には、非冷房車があったので不評だった。また、急行おがの昼行も1975年11月改正から架線化ディーゼル急行だった。この列車もグリーン車以外非冷房車ばかりだった。
違うよ60Hz用の471/473/475しか無かったから特急は50/60Hz共用の485へ移行したけど急行型は50/60Hz共用の457を少数しか製造しなかった為
銭の有る四国、瀬戸内側は電気が御飯なのだけれど、太平洋側と愛媛県松山市の松山駅を境に非電化なのだけれど?、現在でも、特急南風は、非電化区間をかっ飛んで、電化区間を僅かながらも、駆けずり回ってますとも?、
鶴岡在住だった当時、幼稚園児にして、私はすでに鉄道ファン。特急いなほ3往復だった当時、秋田~新潟を補完してたのが、本数も多い急行「羽越」。親に連れていってもらう鶴岡駅では、「羽越」に遭遇する機会が多かったのですが、いつも親は「ほら、しらゆきだぞ」が口癖。覚えやすいウケのいい列車名だったんだと思います。
急行「おが」の昼行もキハ58
1985年3月の改正で福井から新潟の北越と新潟から青森のいなほに分割されて、ほくほく線が開業まで福井発着の北越号は残っていました。大阪から青森の白鳥廃止の時が新潟分断で雷鳥といなほになると思いましたが新潟雷鳥も金沢分断になったので白鳥の分も金沢分断も入っていた。いなほ号は白鳥廃止の時は青森発着は白鳥スジになり従来の青森発着は秋田発着になって秋田から青森は今のつがる号の前身かもしか号になった。急行しらゆき号は仙台の457系で電車置き換えも予定していた。仙台から青森の急行で入出庫を兼ねての運用に。
金沢〜糸魚川間は、急行「しらゆき」に、急行「白馬」(金沢〜糸魚川〜南小谷〜松本間)を併結して、運行されていましたね。
その通りです。何しろ大糸線全線のうち南小谷~糸魚川間は現在に至るまで非電化区間であるため、このような運行パターンになっていたそうです。そしてその「しらゆき」の成れの果てが特急「白鳥」1・4号で、朝晩の通勤対策の一環として発着駅も金沢から福井まで延長されまして、従来の「白鳥」は2・3号に変わりました。
これは急行しらゆきが気動車だったから便箋的に併結されていたから!
給油無しで800kmも走れるなんて凄い。
キハ58は550Lタンクが2個?2km/Lとしても余裕だな
この勢いで金沢からではなく敦賀から走り出したらさらに凄い。そう思っていられるのは僕だけでしょうか?
気動車しらゆきが電車急行にならなかったのは全区間走れる457系の数が少なかったからだと79年くらいの鉄道ジャーナル誌の特集で発表されていた。
昭和40年代は急行列車が多く走っていて面白かったですね。
おそらくですが、3電源対応の457系が多く製造されなかったことと、その形式が東北、北陸、九州等、分散して配置されたことが大きな理由ではないかと思います。逆に言えば、国鉄は3電源に対応しなければいけない区間の急行を、電車に任せる気はなかったのだと思います。運用のしやすさや、それまでキハ58を多数製造してきたので活用する場を増やしたい状況。直流、交流50Hz、交流60Hzに対応する複雑な構造を有する車両の製造は高額のコストを必要とすること。将来的に1968年の時点で急行よりも特急の方が重要視されるであろう状況を考えれば、3電源対応の急行型電車は、最小限の製造数に留めたかったのであろうと思われます。こうした原因が重なった結果、急行しらゆきは気動車のままで残されていたのだと思います。
金沢→糸魚川まで白馬(大糸線経由松本行き)が併結していたのではないのか?
急行白馬はだいぶあとからできた列車でたまたましらゆきが気動車だったので併結相手になっただけでもともとしらゆきは秋田までは単独運転だった。
青森発の急行しらゆきに乗車しました。秋田まで急行きたかみが併結されていて、両列車の到着駅と到着時間を案内する車内放送がやたら長かったです(笑)
急行しらゆきを格上げした福井白鳥は本家の大阪~青森間の白鳥が食堂車付きの12両なのに対し9両で食堂車なしだった。そして2年4ヵ月ほどで福井白鳥は消滅し白鳥は1往復に逆戻りとなった。
その福井発着として新設された分は白鳥1・4号を指差しています。したがって本家の食堂車付きですと2・3号です。
急行しらゆきが電車化されなかったのは、東北本線盛岡以北や奥羽本線山形以北及び羽越本線で安定して運用できるかなりの寒地で使える交直流急行型電車が無かったからというのも理由の一つかも。そういうことを書くと急行くりこまはという方もいるだろうが、実際に前述の区間で運用された電車急行は少ない、また気動車急行は内燃機関で動いていて熱が出るのとキハ56、57、58系に関してはどれも普通車に関しては1段上昇窓だったので思った以上に寒地に強いというのもあるかも。もし仮に、かなりの寒地で運用でき前述の区間や急行しらゆきで使える交直流急行型電車が製造配備されていたら711系のような外観になると思う。
保温性などお構いなしで12系で急行運転してましたし。折戸から粉雪がデッキに侵入しても。711も初期車はユニット窓。結局は運転士の調達がネックでしょう。現場は電車化しろしろ言って突き上げてましたが本社からの解答は特急格上げでした。
@@金澤華 東北北部における12系での急行は旧客と併結できるというのもあるから多少無理矢理で使っていたところもあると思うし、東北北部ではそこまで多くはなかったような。それと、実際に急行でオール旧客の次は14系というのもあったし。キハ40系もユニット窓ながら耐寒耐雪性能を向上させた車両が配備されていたようですし。あと、711系ユニット窓は試作車のみです。ただ、運転士の不足は当時の国鉄労組のこともあり十分にあり得たと思う。
紀勢本線が電化された頃白浜に学校の旅行で出かけることがあったが、381系に乗せてもらえずキハ58系の排ガス臭い車両に乗りがっかりした思い出がある。あれも全線電化区間を走っていたのかな?まだ編成数も少なかったみたいだし、国鉄の赤字のせいで新車投入も最小限だったのかもしれない。
当時は457系ではなくて、471系です。間違えないように!
急行しらゆき、懐かしいですねえ。青森から金沢まで利用したことがあります。1980年頃です。青森発車時は11両編成だったのを覚えています。58系ですから食堂車などはありませんが車販が頻繁に通りお弁当を買うことができました。朝昼夕食の3食がしらゆきでの車内弁当でした。しかし絶壁シートはしんどかったです。
地味にこの路線今でも需要有るかも!6:14昔のソフトバンクのCMのBGMだ!
北陸新幹線敦賀延伸で、特急しらゆきが「上越妙高⇔秋田」にならないかと密かに願っている。(JR東日本でほぼ完結している)
@@ginjirusikinjirusi6694 うに?😜
架線あるのに使わないのひねくれてる感じがして好き。
昭和50年代当時小学生でしたが、時刻表を見ててなぜ電化されてる区間を気動車で走ってるのか?謎な急行として注目してました。
全区画電化されているとこで気動車が走っているとこと言えばデットセクションを抜ける普通列車が思い着くが急行列車でこのような列車が今でも運行されていたら乗りに行ったかも😮
しらゆき号、なんとか増便出来るようにインバウンド等観光方面への促進アピールを新潟地域としても推進してほしいなぁ……てか土休日午後の時間帯に、温泉地妙高高原まで乗り入れても良い気もしますが
うに?😜
金沢~青森でも充分長いが、大阪~青森を急行きたぐにの12系座席車で乗り通した時はしんどかったな!
12系時代のきたぐにの写真を見る度に思いました。
昔は電化区間で気動車運用ってごく一般的でしたね。電化されてるのは本線と一部の地方路線だけですから当然客車か気動車がメインになりますからね。鉄道管理局で気動車しかない所もあったのでしょうがないですよね。
気動車での夜行乗車は辛いと思われ😅でも、新潟付近のように交流/直流の電化区間があると、気動車って【使い勝手】が良いんだよなぁ😂
本社が交直流車への出費を惜しんだからだよ。優等列車も機関車牽引客車列車が大半で縦貫線電化に伴い糸魚川以東ではそれまでのDD51からEF81へ変わり始めた頃。民営化前後に人件費圧縮で客車から電車気動車へ変えていった。
@@金澤華 まあね。EF81だって基本は富山~酒田だからね😁
急行しらゆきに使える電車が無かったから気動車で運行した
急行しらゆき、乗りたかったです。秋田から連結した「きたかみ」には乗ったことがありますが。
うちの地元では気動車を汽車もしくは山汽車と呼んでいます。
電車にすると50Hzと60Hz両方で使える457系が必要になりますが、455系(50Hz)、475系(60Hz)より少なかったから、電車にならなかったのでしょうか。
しらゆきを電車化すると、電車をどこに配置するにしてもしらゆき専用の運用車両と予備車が必要になることが電車化できなかった大きな要因なことは間違いないですね。
電車(165系/455系)と気動車(キハ58系)では同じ急行料金を支払っても、電車は空気バネ、気動車はコイルバネ、最高速度も登坂能力も加速度も電車の圧勝だった。新潟以北は幹線でも機関車牽引客車列車が多数残存していた。人口が多くない地域へ設備投資を抑制したいからか優等列車でもディーゼルが多かった。
気動車の中にもキハ65型や、キハ57型はエアサスですよ!
幼い頃の記憶なので曖昧なんですが、70年代初頭の上野発の常磐線でも気動車の急行が走ってたような?
常磐線 上野口の気動車急行は昭和60年3月改正まで水郡線直通の「急行 奥久慈」を併結した「急行 ときわ」が有りました余談ですが、気動車「ときわ」が廃止された後も昭和61年までは気動車による荷物列車が隅田川貨物駅発着で運転されていました
丁寧なご説明ありがとうございます。70年代ではなく80年代半ばまであったんですね。
昭和57年11月のダイヤ改正で急行「しらゆき」は特急「白鳥1・4号」に格上げされ福井発の「白鳥」が運転開始された。
2往復化された「白鳥」で「急行 しらゆき」から格上げされた福井発着便は2・3号で大阪↔青森の運転便が1・4号でした
@@小早川美幸-h1e いや、福井発は「1・4号」です、大阪-青森は「2・3号」です。正しくは
日本海縦貫線でも羽越本線の電化が遅かったから、気動車急行で運転してましたが。電車化されていたら電動車ユニットは457系に統一しないと不可能でした。羽越本線電化の時には457系は製造されてませんので、転属で集めたとしても数が足りたかどうか?
現在でも、全区間架線下を走るディーゼル列車…と言えば、ディーゼルカーではなく急行でもないが、JR西日本の、たま~にきのくに線を走る、全区間DD51牽引の「サロンカーなにわ」がそうだけどね😉
そういえば電化工事も終了し電化を1週間後に控えた小浜線ではそのプレイベントとして2003年3月8日、急行「わかさ」が京都~綾部~東舞鶴~敦賀間で1日限りの復活運転を果たしました。その復活運転も架線下ディーゼルの一つです。
急行しらゆき号、覚えてますよ。福井から東京の戻る際に、白馬併結で乗りました。誰も同じ車両に乗っていなくて、貸し切り態でした。しらゆきの後継の福井白鳥も知っていたんですが、長くはないだろうとは見ていました。どうなんだろう。北陸新幹線開業後に第三セクター同士で、福井発越後湯沢行きかつてのはくたかみたいな列車を走らせられないだろうか?北越急行にとってもありがたい話ではないだろうか?福井から新潟への足が途絶えてしまっている。
どこから降ってわいたのか、なしらゆき号でしたが、そんな長距離列車が過去に存在していたとは。いやーキハ58のマルチプレイヤーぶりが確かになりました。問題は、秋田以北連結していた急行きたかみ号が、仙台からどのルートを通って青森まで行っていたのかということです。あの辺の急行、某迷列車動画の解説をどれだけ見ても理解不能なんですよ。
急行きたかみはその名の通り北上線経由です。仙台(東北本線)北上(北上線)横手(奥羽本線)秋田の経路です。
@@dodemoyokunai 様「きたかみ」は、至って普通でしたからね…
@@小早川美幸-h1e 様仙台〜秋田の急行は陸羽東線経由の「千秋」北上線経由の「きたかみ」田沢湖線経由の「たざわ」がありました。このうちもっとも所要時間が短いのが「きたかみ」です。
@@dodemoyokunai仙台〜秋田は北上線経由が距離も一番短くて、先発の「千秋」が奥羽本線を、「たざわ」が東北、田沢湖線を通ってる間にきたかみが北上線を通り追い越して秋田に先着するというダイヤもありました。
単に急行型電車の不足が原因と思ってました。しかしこの列車乗りたかったなぁ~あと長距離気動車急行といえば「さんべ」かな。
3:50 駅前の紹介写真が古そう 今考えればしらゆきを電車化できるほど457系が用意出来なかったのが架線下のディーゼル列車を存えさせた気もします 名古屋から新潟の赤倉も架線下のディーゼル列車でした
気動車急行は電車急行に比べて冷房化率がガクンと落ちる上に騒音が大きく車内もお世辞にも綺麗とは言えないなどマイナス要素の塊で、私はあまり好きになれなかったですね。
3電源交直車の車輌単価が高いこともあり、北陸ー信越ー羽越本線の電車化から漏れた可能性もあったりして。
温海−現在のあつみ温泉駅🚉です。
DC急行屈指のロングランナーだった列車が、現在は新潟県内完結のスプリント電車特急に転生しているのは面白いですね。
気動車急行最長距離ランナーで走行距離が772.4kmで運転区間は金沢ー青森間で走行線区は北陸本線ー信越本線ー白新線ー羽越本線ー奥羽本線を走行していました。途中新潟駅で進行方向が逆向きになります!
調べたら、夜にほぼ同じスジを現在は奥羽本線の秋田発青森行き快速が走っているんだよなぁ...。
急行しらゆき号の付属編成4両を秋田駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました、途中新潟ー青森間逆編成で運転していました。
急行しらゆきはキハ58時代は地元駅を通過していたけど、特急白鳥1.4号に格上げされてからは停車するようになりました😌ちなみに現在特急しらゆきは全列車停車します
全線架線下でいうと特急なはもヨンゴウトウダイヤ改正からヨンハチトウダイヤ改正まで架線下気動車特急だった。特急日向を併結していたとはいえ。
交直急行型電車は3電源を走破できる電動車ユニット(457系)が元々少なかった上に、その多くが九州に配置されたからね。
単純に電車は足りないが気動車は余ってるからでしょうね。板谷峠で使えるなら東北地方どこへ行っても大丈夫ですよ
名古屋〜新潟間の急行赤倉号も、1973年から1982年まで全区間電化区間を走っていたにも関わらず、キハ58系気動車で運転していました。
併結のない急行おが も同じだったはず。急行用の交直両用電車の不足が全線電化区間のディーゼル急行の存在理由として説明されていたと思う。
電化区間のみ走るのにディーゼルカーが使われる理由は主に、電車の車両不足、変電所の容量不足(これは皆様も模型をレールにたくさん乗せ過ぎて、動きが遅くなった経験があると思いますが、これと同じような事です)、デットセクションを跨ぐ運転士の負担を軽くするため、または交直両用車の不足(北陸本線や関門トンネルの区間で見られました)が主な理由です。
鉄道ジャーナル誌でも取り上げられていましたが、当時の国鉄の財政事情からすれば高価な三電気車両走らすより気動車だったのでしょうね。これは乗ってみたかったなあわ、
70年代後半の恐ろしい乗り継ぎ
(指宿枕崎線)→錦江→えびの→さんべ→大社→赤倉→しらゆき→青函航路→宗谷
全てDC急行による西大山→稚内の制覇ルート、ネタ鉄の人がやってました
このうち、赤倉としらゆきが架線下DC
同じ様な区間に急行『越後』が走っていました
新潟から大阪まで
これは分割併結なしで始発から終点まで走りました
距離はしらゆきより短いですが、全然電化区間を走る気動車としてはこれも外せないなぁと思いました
「越後」は廃止まで大阪〜金沢間で七尾(当時全線非電化)・能登線乗入れの急行「ゆのくに」をつないでましたよ(大体帰省で年一回乗っていた)。
余談だけど、「越後・ゆのくに」の共通運用な中央線夜行「ちくま」(大阪〜長野)も全線架線下の気動車急行だな
架線下のDC急行といえば関西では「きのくに」を思い出すなぁ。
1979年に名古屋~富山をのりくら、富山~青森をしらゆき、青函連絡船摩周丸、函館~釧路をおおぞらを利用しました。 名古屋~釧路は3日かかりました。 しらゆきが架線下を走るDC急行だったとは今知りました。 乗ったしらゆきの車両では、入善から青森まで満席で乗客の入れ替わりはありませんでした。
しらゆきは金沢〜青森間運転の記憶が強い。
何しろ金沢~糸魚川間では松本発着の急行「白馬」を併結する2層建て列車であることと、その「白馬」の運行経路上に国鉄時代から現在に至るまで非電化区間である大糸線南小谷~糸魚川間が含まれているために、このような運行パターンになっていたそうです。
しらゆきから生まれ変わった福井白鳥も大阪白鳥と同じ車両で食堂車を営業していればと思うと残念でなりません。
白鳥は同じ編成で運用するべきだったと思います。
しらゆきをとりあげていただきありがとうございます、自分は併接されていた白馬号を利用してました。
自分は北陸新幹線開業後のしらゆき号しか知りませんでしたが、過去の急行列車は物凄い特徴を持っていたのですね!
多層建て列車、再婚列車、詐欺急行、ぼったくり急行など、気動車急行は特徴的なものが多かったですね。
電車の数が足りない場合、全線架線下のDCとなる場合は、当時いくらでもありました。余っている車両をかき集めて使っていたわけです。
特に、急行用の電車の場合は、全席ボックスシートだったので、この時代、リクライニングシート付きのバスも出てきた関係もあり、増備のための生産が打ち切られていたからです。その足りない分をDCで補っていた面もあります。
同じ交流区間でも60Hzと50Hzがあったのと交直流電車は高額だったからあまり作らなかったと思います。ディーゼル車も高額だったので有効に使いたかったかも?特急白鳥もかなりの距離を走ったから。大阪ー上野間もありましたし。
高額な交直流電車を製造したくなかったのでは?現在でも、羽越本線は普通列車に気動車を充当してるようですし。
それも考えられますが、ウテシの配置の都合もあるかもです。
あの頃の日本海縦貫線の北部に電車運転資格持ちは少なそうですが、気動車運転資格持ちなら支線区直通用にゴロゴロいますから。
しかも資格転換させようにも組合最強の時代で、ゴネられたらどうにもならないです。
更に言うと、蒸気機関車運転資格持ちの主な転換先が気動車が多かったのもあるのかも。
@@NaruoKusugawa そっか、電車に乗れる人が根本的に不足してたって事情も大きいかもね。
高度な運転技術を必要とするSLからカンタンなDLや EL果ては支線やローカルディーゼルカーへ移れですからね
機関助手も居なくなるので実質的には人員削減であり組合からの反発は相当なものでした
北陸本線で、当時運用していた457系は三種の電化区間で走行可能でした。しかしながら北陸と関西がメインの使用だし。当時の金沢鉄道管理局が、長距離、長時間の運行で大事な475系を使用には難色を示し、結局廃止まで気動車に。
この地味な存在だった名気動車急行しらゆきの名が21世紀に復活した時にはびっくりしました。最近の北海道での大雪の復活も同じく。
現在のしらゆきはみのりの復活(その前は急行赤倉)ではないかと思います。
実は現場においては急行しらゆきの電車化を強く要求していたそうです(鉄道ジャーナル列車追跡白鳥3号に記載)。でも特急格上げ(白鳥1・4号)という形になってしまいました。
福井〜青森間を走った特急「白鳥1・4号」でしたね。
現在でもトキ鉄の日本海ひすいラインや、羽越本線の村上~酒田間など、電化のくせして、気動車が走る線区は結構ありますね。国鉄時代の急行を調べたら、カオスで沼りそうになりました。
自慢ですが、乗った事がありますw
当時はDCの増結解結が職人技の難解パズルでしたね。
あ、あと羽越線内の急行、普通列車の電車化が遅れた最大の原因が、交直流電車のコストが高かったから、だそうですよ。
国鉄末期、急行がどんどん特急化されて行って、しらゆきは白鳥二往復化の際に統合され、交直流急行電車の投入はありませんでした。
兄弟列車だったDC急行羽越(新潟⇔秋田)が、急行きたぐに(当時新潟止まり)の583系の間合いで運行され、急行庄内(新潟⇔酒田)となったのとは対照的ですねw
自分の中学生の時の仮想急行昼行のきたぐに1号にしてもそうなんだけど、そもそも457系の車両数が少なかったのが大きかったと思う。
立山なら475系で行けるしね。
気動車なら併結の方が合理的だね。湖西線ができてからの話だけど、近江今津から敦賀に行く普通もキハ58系の2両編成だったよ。
ちなみにしらゆきと同じで大阪新潟間の架線下DC急行に越後がいたw
急行しらゆきが電車化されなかった一番の要因は、3電源用の交直両用の457系が1971年以降製造されなかったのが一番大きいんだと思います。そして当時の国鉄は、急行を特急にいずれ格上げするつもりだったため457系など急行型車両を製造しなかった、と思います。
新幹線延伸で特急用電車が余剰になるのが明白だったからね。
収益を上げる為に急行を格上げと称し実質的値上げをしていた時代。
急行「しらゆき」は走る時間帯のせいか、乗車率の高い列車だったと記憶してます。
秋田から新潟まで乗車したことがありましたが、ほぼ100%でギリ座れた感じで、新潟で多くの客が入れ替わりという流れだったと思います。
昭和50年ごろの話ですが、冷房化率は100%で、混んではいたものの快適で速い急行でしたね。
1:51 秋田駅の旧駅舎が懐かしいですね。910ブルーバードのタクシーも相まってまさに住んでいた当時ですね。JRの文字から民営化直後ですね。当時小学6年でした。この頃秋田駅は反対側に東口が開設されましたね。
昭和の時分、急行「しらゆき」には独特の使命がありました。1970年代国労・動労のストが頻発しましたが、
急行「しらゆき」はスト破り列車として重宝されていました。
急行「しらゆき」の走る秋田・新潟・金沢の鉄道管理局にはストをしない鉄労に所属する運転士や車掌が少なからずおり、
当局はスト破り要員を集めて急行「しらゆき」の運転を必至に確保していました。
スト破り列車として運転するためには気動車の方が好都合だったとも言えます。
日本海側にある鉄労の強い鉄道管理局であっても、電車運転士や電気機関車の機関士は動労組合員が圧倒的多数で、
気動車運転士の方がスト破り要員を確保し易かったからです。
動労は東北、北陸、新潟地区の183系・485系・583系特急電車の運転を独占するために、
東北や新潟の青年部員たちに電車運転士になるように指導していました。
急行しらゆきは最終日の金沢発青森行きに全区間乗り通しました。北陸本線の旧型客車夜行急行や電車昼行急行が一斉に姿を消した改正であるので、なんとも地味な架線下DC急行にはお別れ乗車も少なく、ゆったりと自由席に座ってのんびりできた事を思い出しました。恐らく国内では二度と体験できない懐かしい思い出です🎉。
今も羽越本線の交直区間を跨ぐ普通列車が気動車なのも系列を増やさず周辺の枝線区間と共通にしたいという意向が強いのかも知れませんね。食パンも入れなかった位ですし。
食パンはそもそも会社違うし…😉
1年だけだけど特急にちりんが全区間電化路線をキハ82で運行していたことがありましたが、車両を共有していた肥薩線経由のおおよどが廃止になったため485系になりました。
非冷房車も連結されてたから夏はヤバかったのでは。理由は別ですが、トキ鉄の普通列車が電化下の気動車を運転してますね。
現在よりは気候が涼しい時代でしたし
走行している限りは窓から風が入ってきました
なお煤煙と黄害…
白馬やきたかみを併結していたからDCだった
東北と上越新幹線開業で485が捻出されたら特急に格上げされた
485はしらゆきだけでなく羽越やきたぐにの新潟以北や立山や九州各線やくりこまの盛岡以北やおがの福島以北の特急化に使用した
急行は53年以降は特急格上げか快速化のどちらが進んでいた
長距離DCだったうわじま、あしずり、赤倉、しらゆき、越後、狩勝、大社、大雪、白兎、さんべもあっという間にきえてしまった
架線下気動車急行が多数走っのは、どうせ特急に格上げするのだからと、新造費をケチり急行型電車を作らなかった。
実際架線下気動車急行で特急格上げ以外で電車化されたのは、「赤倉」くらいでしょう。
急行「赤倉」号も、末期に電車化されたが、廃止されました。
無理しても乗れば良かったと後悔してます。
「赤倉」が電車化されたのは「しらゆき」の「白鳥1・4号」への格上げと同じ1982年のダイヤ改正。
房総各線急行の特急格上げに伴って165系が幕張から新潟に転属した為でした。
(この時、中央西線・篠ノ井線の低断面トンネル対応で新潟所属のモハ164-0番台はパンタグラフをPS23に交換。型式標記の頭に🔶マークが加えられました。)
その後、1985年のダイヤ改正で運行区間が松本〜新潟間に短縮され(松本〜長野間は普通列車)、愛称も「南越後」となりましたが、JR化後の1988年には、小諸・上田〜長野〜新潟間(長野以南は普通列車)の「とがくし」と統合されて(同時に普通列車区間を妙高高原以南に拡大)二代目「赤倉」を名乗り、北陸新幹線が長野まで先行開業した1997年に特急「みのり」に格上げされるまで走り続けました。
急行赤倉は一時381系で特急格上げも検討されていました。381系の方向幕には新潟のマークがありました!
東北新幹線ができる前、昼行で急行おがが気動車で秋田まで走ってた。板谷峠を走るときは補機なしでエンジン全開。でもめちゃくちゃ遅かったのを覚えています。
赤倉と共に好きな急行
でも1号車がなくて2〜10号車の9両編成ってのが不思議だった
筑波万博輸送でも同じく
エキスポライナーで
キハ58•28等の急行気動車が
全電化区間を走ってましたね
つくば博のエキスポライナーは、使える車両を総動員しての運転でしたからね…
キハ58・28はダイヤ改正まで運転されていた水郡線直通の「急行 奥久慈」を併結していた気動車急行「ときわ」で使われていた車両でしたし、中には寝台特急「はくつる」「ゆうづる」で上野に着いた583系を東大宮で座席に転換して大宮発のエキスポライナーに充当した列車も有りましたね…
そして七尾線でグリーン車付きの朝の通勤列車として朝イチアルバイトしてから急行しらゆきになって青森を目指しました。
秋田局の車輌で働きモノでしたね。
NHKのラジオの公開番組が終わるとちょうど「しらゆき」がありましたが、20分ほどの乗車時間運賃80円で当時の急行料金200円をケチって次の各駅停車に乗っていました。
そのまま急行料金を払わずに「しらゆき」に乗った人は降りたら3倍の600円を払っていました。
701系が登場した時に秋田〜大館間の快速としてもしらゆきが復活してますね
その後秋田エリアの快速から愛称が無くなってしまいましたが...
30年近く前に東北・北海道を旅行した時、東北の鉄道を詳しく知らなかった自分は快速しらゆきは特急型と来るのかなと思って列車を待っていたらまさかの701系、年末の夜の雪深く暗い景色がより一層身に堪えた。
当初は〔しらかみ〕だったものが、〔リゾートしらかみ〕の登場によって〔しらゆき〕に改称されたという経緯でしたね。
大館からあつみ温泉まで乗ったのが懐かしく思い出されました。
急行しらゆきの他には、急行赤倉も1973年7月改正から1982年11月改正までに架線化ディーゼル急行だった。当時の国鉄は、新潟地区で非電化路線で間合い運用があり、名古屋地区でも太多線での間合い運用のためと言っていた。しかし名古屋地区では、中央西線での間合い運用ができて、新潟地区でも白新線などで間合い運用ができた。ディーゼル赤倉は、普通車には、非冷房車があったので不評だった。また、急行おがの昼行も1975年11月改正から架線化ディーゼル急行だった。この列車もグリーン車以外非冷房車ばかりだった。
違うよ
60Hz用の471/473/475しか無かったから
特急は50/60Hz共用の485へ移行したけど
急行型は50/60Hz共用の457を少数しか製造しなかった為
銭の有る四国、瀬戸内側は電気が御飯なのだけれど、太平洋側と愛媛県松山市の松山駅を境に非電化なのだけれど?、現在でも、特急南風は、非電化区間をかっ飛んで、電化区間を僅かながらも、駆けずり回ってますとも?、
鶴岡在住だった当時、幼稚園児にして、私はすでに鉄道ファン。特急いなほ3往復だった当時、秋田~新潟を補完してたのが、本数も多い急行「羽越」。親に連れていってもらう鶴岡駅では、「羽越」に遭遇する機会が多かったのですが、いつも親は「ほら、しらゆきだぞ」が口癖。覚えやすいウケのいい列車名だったんだと思います。
急行「おが」の昼行もキハ58
1985年3月の改正で福井から新潟の北越と新潟から青森のいなほに分割されて、ほくほく線が開業まで福井発着の北越号は残っていました。
大阪から青森の白鳥廃止の時が新潟分断で雷鳥といなほになると思いましたが新潟雷鳥も金沢分断になったので白鳥の分も金沢分断も入っていた。
いなほ号は白鳥廃止の時は青森発着は白鳥スジになり従来の青森発着は秋田発着になって秋田から青森は今のつがる号の前身かもしか号になった。
急行しらゆき号は仙台の457系で電車置き換えも予定していた。仙台から青森の急行で入出庫を兼ねての運用に。
金沢〜糸魚川間は、急行「しらゆき」に、急行「白馬」(金沢〜糸魚川〜南小谷〜松本間)を併結して、運行されていましたね。
その通りです。何しろ大糸線全線のうち南小谷~糸魚川間は現在に至るまで非電化区間であるため、このような運行パターンになっていたそうです。
そしてその「しらゆき」の成れの果てが特急「白鳥」1・4号で、朝晩の通勤対策の一環として発着駅も金沢から福井まで延長されまして、従来の「白鳥」は2・3号に変わりました。
これは急行しらゆきが気動車だったから便箋的に併結されていたから!
給油無しで800kmも走れるなんて凄い。
キハ58は550Lタンクが2個?
2km/Lとしても余裕だな
この勢いで金沢からではなく敦賀から走り出したらさらに凄い。そう思っていられるのは僕だけでしょうか?
気動車しらゆきが電車急行にならなかったのは全区間走れる457系の数が少なかったからだと79年くらいの鉄道ジャーナル誌の特集で発表されていた。
昭和40年代は急行列車が多く走っていて面白かったですね。
おそらくですが、3電源対応の457系が多く製造されなかったことと、その形式が東北、北陸、九州等、分散して配置されたことが大きな理由ではないかと思います。逆に言えば、国鉄は3電源に対応しなければいけない区間の急行を、電車に任せる気はなかったのだと思います。
運用のしやすさや、それまでキハ58を多数製造してきたので活用する場を増やしたい状況。直流、交流50Hz、交流60Hzに対応する複雑な構造を有する車両の製造は高額のコストを必要とすること。将来的に1968年の時点で急行よりも特急の方が重要視されるであろう状況を考えれば、3電源対応の急行型電車は、最小限の製造数に留めたかったのであろうと思われます。
こうした原因が重なった結果、急行しらゆきは気動車のままで残されていたのだと思います。
金沢→糸魚川まで白馬(大糸線経由松本行き)が併結していたのではないのか?
急行白馬はだいぶあとからできた列車でたまたましらゆきが気動車だったので併結相手になっただけでもともとしらゆきは秋田までは単独運転だった。
青森発の急行しらゆきに乗車しました。秋田まで急行きたかみが併結されていて、両列車の到着駅と到着時間を案内する車内放送がやたら長かったです(笑)
急行しらゆきを格上げした福井白鳥は本家の大阪~青森間の白鳥が食堂車付きの12両なのに対し9両で食堂車なしだった。そして2年4ヵ月ほどで福井白鳥は消滅し白鳥は1往復に逆戻りとなった。
その福井発着として新設された分は白鳥1・4号を指差しています。したがって本家の食堂車付きですと2・3号です。
急行しらゆきが電車化されなかったのは、東北本線盛岡以北や奥羽本線山形以北及び羽越本線で安定して運用できるかなりの寒地で使える交直流急行型電車が無かったからというのも理由の一つかも。
そういうことを書くと急行くりこまはという方もいるだろうが、実際に前述の区間で運用された電車急行は少ない、また気動車急行は内燃機関で動いていて熱が出るのとキハ56、57、58系に関してはどれも普通車に関しては1段上昇窓だったので思った以上に寒地に強いというのもあるかも。
もし仮に、かなりの寒地で運用でき前述の区間や急行しらゆきで使える交直流急行型電車が製造配備されていたら711系のような外観になると思う。
保温性などお構いなしで12系で急行運転してましたし。
折戸から粉雪がデッキに侵入しても。
711も初期車はユニット窓。
結局は運転士の調達がネックでしょう。
現場は電車化しろしろ言って突き上げてましたが本社からの解答は特急格上げでした。
@@金澤華 東北北部における12系での急行は旧客と併結できるというのもあるから多少無理矢理で使っていたところもあると思うし、東北北部ではそこまで多くはなかったような。
それと、実際に急行でオール旧客の次は14系というのもあったし。
キハ40系もユニット窓ながら耐寒耐雪性能を向上させた車両が配備されていたようですし。
あと、711系ユニット窓は試作車のみです。
ただ、運転士の不足は当時の国鉄労組のこともあり十分にあり得たと思う。
紀勢本線が電化された頃白浜
に学校の旅行で出かけることがあったが、381系に乗せてもらえずキハ58系の排ガス臭い車両に乗りがっかりした思い出がある。あれも全線電化区間を走っていたのかな?まだ編成数も少なかったみたいだし、国鉄の赤字のせいで新車投入も最小限だったのかもしれない。
当時は457系ではなくて、471系です。間違えないように!
急行しらゆき、懐かしいですねえ。
青森から金沢まで利用したことがあります。1980年頃です。
青森発車時は11両編成だったのを覚えています。
58系ですから食堂車などはありませんが車販が頻繁に通りお弁当を買うことができました。
朝昼夕食の3食がしらゆきでの車内弁当でした。
しかし絶壁シートはしんどかったです。
地味にこの路線今でも需要有るかも!
6:14昔のソフトバンクのCMのBGMだ!
北陸新幹線敦賀延伸で、特急しらゆきが「上越妙高⇔秋田」にならないかと密かに願っている。(JR東日本でほぼ完結している)
@@ginjirusikinjirusi6694 うに?😜
架線あるのに使わないのひねくれてる感じがして好き。
昭和50年代当時小学生でしたが、時刻表を見ててなぜ電化されてる区間を気動車で走ってるのか?謎な急行として注目してました。
全区画電化されているとこで気動車が走っているとこと言えばデットセクションを抜ける普通列車が思い着くが急行列車でこのような列車が今でも運行されていたら乗りに行ったかも😮
しらゆき号、なんとか増便出来るようにインバウンド等観光方面への促進アピールを新潟地域としても推進してほしいなぁ……てか土休日午後の時間帯に、温泉地妙高高原まで乗り入れても良い気もしますが
うに?😜
金沢~青森でも充分長いが、大阪~青森を急行きたぐにの12系座席車で乗り通した時はしんどかったな!
12系時代のきたぐにの写真を見る度に思いました。
昔は電化区間で気動車運用ってごく一般的でしたね。電化されてるのは本線と一部の地方路線だけですから当然客車か気動車がメインになりますからね。鉄道管理局で気動車しかない所もあったのでしょうがないですよね。
気動車での夜行乗車は辛いと思われ😅
でも、新潟付近のように交流/直流の電化区間があると、気動車って【使い勝手】が良いんだよなぁ😂
本社が交直流車への出費を惜しんだからだよ。
優等列車も機関車牽引客車列車が大半で縦貫線電化に伴い糸魚川以東ではそれまでのDD51からEF81へ変わり始めた頃。
民営化前後に人件費圧縮で客車から電車気動車へ変えていった。
@@金澤華 まあね。EF81だって基本は富山~酒田だからね😁
急行しらゆきに使える電車が無かったから気動車で運行した
急行しらゆき、乗りたかったです。秋田から連結した「きたかみ」には乗ったことがありますが。
うちの地元では気動車を汽車もしくは山汽車と呼んでいます。
電車にすると50Hzと60Hz両方で使える457系が必要になりますが、455系(50Hz)、475系(60Hz)より少なかったから、電車にならなかったのでしょうか。
しらゆきを電車化すると、電車をどこに配置するにしてもしらゆき専用の運用車両と予備車が必要になることが
電車化できなかった大きな要因なことは間違いないですね。
電車(165系/455系)と気動車(キハ58系)では同じ急行料金を支払っても、
電車は空気バネ、気動車はコイルバネ、
最高速度も登坂能力も加速度も電車の圧勝だった。
新潟以北は幹線でも機関車牽引客車列車が多数残存していた。
人口が多くない地域へ設備投資を抑制したいからか優等列車でもディーゼルが多かった。
気動車の中にもキハ65型や、キハ57型はエアサスですよ!
幼い頃の記憶なので曖昧なんですが、70年代初頭の上野発の常磐線でも気動車の急行が走ってたような?
常磐線 上野口の気動車急行は昭和60年3月改正まで水郡線直通の「急行 奥久慈」を併結した「急行 ときわ」が有りました
余談ですが、気動車「ときわ」が廃止された後も昭和61年までは気動車による荷物列車が隅田川貨物駅発着で運転されていました
丁寧なご説明ありがとうございます。
70年代ではなく80年代半ばまであったんですね。
昭和57年11月のダイヤ改正で急行「しらゆき」は特急「白鳥1・4号」に格上げされ福井発の「白鳥」が運転開始された。
2往復化された「白鳥」で「急行 しらゆき」から格上げされた福井発着便は2・3号で
大阪↔青森の運転便が1・4号でした
@@小早川美幸-h1e いや、福井発は「1・4号」です、大阪-青森は「2・3号」です。
正しくは
日本海縦貫線でも羽越本線の電化が遅かったから、気動車急行で運転してましたが。
電車化されていたら電動車ユニットは457系に統一しないと不可能でした。羽越本線電化の時には457系は製造されてませんので、転属で集めたとしても数が足りたかどうか?
現在でも、全区間架線下を走るディーゼル列車…と言えば、ディーゼルカーではなく急行でもないが、
JR西日本の、たま~にきのくに線を走る、全区間DD51牽引の「サロンカーなにわ」がそうだけどね😉
そういえば電化工事も終了し電化を1週間後に控えた小浜線ではそのプレイベントとして2003年3月8日、急行「わかさ」が京都~綾部~東舞鶴~敦賀間で1日限りの復活運転を果たしました。その復活運転も架線下ディーゼルの一つです。
急行しらゆき号、覚えてますよ。福井から東京の戻る際に、白馬併結で乗りました。誰も同じ車両に乗っていなくて、貸し切り態でした。しらゆきの後継の福井白鳥も知っていたんですが、長くはないだろうとは見ていました。どうなんだろう。北陸新幹線開業後に第三セクター同士で、福井発越後湯沢行きかつてのはくたかみたいな列車を走らせられないだろうか?北越急行にとってもありがたい話ではないだろうか?福井から新潟への足が途絶えてしまっている。
どこから降ってわいたのか、なしらゆき号でしたが、そんな長距離列車が過去に存在していたとは。
いやーキハ58のマルチプレイヤーぶりが確かになりました。
問題は、秋田以北連結していた急行きたかみ号が、仙台からどのルートを通って青森まで行っていたのかということです。あの辺の急行、某迷列車動画の解説をどれだけ見ても理解不能なんですよ。
急行きたかみはその名の通り北上線経由です。
仙台(東北本線)北上(北上線)横手(奥羽本線)秋田の経路です。
@@dodemoyokunai 様
「きたかみ」は、至って普通でしたからね…
@@小早川美幸-h1e 様
仙台〜秋田の急行は陸羽東線経由の「千秋」北上線経由の「きたかみ」田沢湖線経由の「たざわ」が
ありました。
このうちもっとも所要時間が短いのが「きたかみ」です。
@@dodemoyokunai
仙台〜秋田は北上線経由が距離も一番短くて、先発の「千秋」が奥羽本線を、「たざわ」が東北、田沢湖線を通ってる間に
きたかみが北上線を通り追い越して秋田に先着するというダイヤもありました。
単に急行型電車の不足が原因と思ってました。しかしこの列車乗りたかったなぁ~
あと長距離気動車急行といえば「さんべ」かな。
3:50 駅前の紹介写真が古そう 今考えればしらゆきを電車化できるほど457系が用意出来なかったのが架線下のディーゼル列車を存えさせた気もします 名古屋から新潟の赤倉も架線下のディーゼル列車でした
気動車急行は電車急行に比べて冷房化率がガクンと落ちる上に騒音が大きく車内もお世辞にも綺麗とは言えないなどマイナス要素の塊で、私はあまり好きになれなかったですね。