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歴史を学ぶにしても、哲学史は必要ですね。へ-ゲルの精神現象学、NHKのEテレでやってたことがあり、そのテキストも売られてますが、本当の原典はかなり難しそうですね。
歴史の話、面白かったです。
5年10年で一冊なら、哲学部の学生、ヘーゲルを理解して卒業できないじゃないですか。他の哲学者も同じように5年10年なら、同じく身に付かない。ただそれぞれの世紀を代表する大天才を完全に読み解くのは、難しいでしょうな。斎藤さんの対談でもあったように、大学でまだヘーゲルやってる古いだとか、大学の先生バカばかりとかいう心ないyoutuberもいますが、そいつはヘーゲルをきちんと読めてないかも知れん。そう思いました。
弁証法は主客未分→主客分化→主客分離→主客の弁証法構造の自覚という認識主体が認識主体自身を認識対象とするような再帰的認識の獲得へ段階的に向かう歴史を捉えたものと思います。そのため、たとえば物理学的な力や重力の発見も、人間の内面の成立に対応している、そういうニュアンスのことをヘーゲルは書いていると思います。ヘーゲルは、弁証法(自覚された近代主体構造)以降の精神の構造として、それを超える構造が理論的に想定困難であるために、弁証法をして哲学や歴史の完成を主張したような気がします。だから完成といっても弁証法(歴史)は運動であって止まらない気がします。しかしヘーゲル弁証法では意味(知、一般的意味)の外部への着眼がなく、主客分離における否定神学構造の誤認についてが十分には考慮されていません。ヘーゲルは、カントの誤認を指摘するだけで、なぜ近代精神には徳福一致(内的精神の自由と外的客体的幸との非弁証法的主客一致)のような誤認が生じるのか、ということの分析が抜けています。この観点を折り込んで読まないと、なんでヘーゲルがいまこの時代に大事なのか、どういう意義を持ってるのか、ということがまったく掴めないと思います。この時代にヘーゲルを論じるとき問題になってくるのは、なぜ現代人は近代をトラウマのように描写しだすのか?だと思います。たとえばフーコーの監獄論とか。ネット保守言論のルソー集団リンチとか。これと密接に関連しますがポストモダニスト(技術楽観主義等)と日本式保守主義の表象的な二項対立はこの国の政治言論に顕著です。これは哲学史講義にも示される、懐疑主義と形而上学の不毛な対立そのものに思います。懐疑主義ではカントが道徳論でやってしまったような理想と現実、内面と外界、主観と客観との差違を抹消する欲望が人間の主客の分離化に伴う想像的誤認(表象的誤認)によって惹起されてしまう。また独断論(形而上学)でも、この差違は消失してしまう。どちらにも存在論的差違と同一の分離がおきてしまう。だから差違と同一の同一をなすことが弁証法であって差違を消し去って同一したり、差違そのものを拒絶すると形而上学になってしまいます。また弁証法が実現するのはカントの純粋統覚に対する本質的な操作であり、それは実存的時間を根本的に変更するということでもあります。このことが理論的に分かると、いまの社会のディスクールの構造がどのように変質してきているのかも理論的に把握することができます。やはりラカンの欲望の弁証法とセットで観ていかないと、ヘーゲルの弁証法論では、何が本当の問題になっているか、あまり見えてこないと思います。哲学のテキストは生きていて、テキストの意(言わんとすること)と書かれたテキストとは弁証法的な運動をなします。だから書かれたテキストにおいて捕まれていながら、書き手が意識的には自覚できていないもの、書き手の無意識の主体(意)を含めて、哲学者の意を洞察する読み方が必要な気がします。
社会思想史の講義の期末レポートのお題がヘーゲル『法の哲学』でした。
聞いた話ですが、専門家が言ってたそうです「精神現象学は、ヘーゲルの著作では易しい方」って※『精神現象学』は三大難解哲学書の一角とされています
ภาษาไทย! すごい!タイに住んでいますよ!:))
体操の例え、良いですね。定立をテーゼ、反定立をアンチテーゼ、総合をアウフヘーベン、それによって生み出された事をジンテーゼなんて感じになるんですかね。あくまで例えで尊敬していますが、カントは、1人で黙々と思索するが熱い思いを持ったオタクな人、フィヒテはもロマンチストでありながらちょっと怖い政治家、シェリングは科学オタクな哲学者といった感じなのかなと個人的に感じました。(笑)ヘーゲルがそんな個性的な面々をして、弁証法で議論して本気でぶつかり合って、絶対精神へと皆んなで至ろうじゃないのと言いたかったのかななんて感じました。ドイツ観念論って、熱血って感じを受けるんですよね。ヘーゲルの歴史に対する考え方は、マルクス(唯物論)にだいぶ批判されたり、ショーペンハウアーに至っては、悪口?みたいになってかなと思いますが、今後が楽しみです。(笑)お話し面白かったです。長文すみません。
ヘーゲルが阿保過ぎてこの配信を最後まで見る気にもなれなかったんだけど、哲学が終るって考える時点で哲学ってものが分かってないよね。なんかの配信で、哲学は概念をどうのとかって言ってた先生がいたんだけど、ヘーゲルの弟子とかなのかな?まぁとにかく、概念を定義したり生み出したりすることが哲学だとか言っている先生もヘーゲルも根本的に意味が分かってないよね。哲学が終るって、概念を生み出すことが終ると言っているようなものであって、そんなことはありえないでしょう。言葉自体が変化したりし続けるのだから、哲学は人類が思考し続ける限り終わらないし、概念を定義したりするのは哲学の一側面であって、その概念がどういう論理構造として機能しているのかだとかを考えるのが哲学であり、思考を思考することと言い換えてもいいし、思考そのものだと言い換えてもいい。なのでヘーゲルは、」もう人間は思考しない」だとか、「思考はこれで全て終わり」って本気で思ったということなんだろうね。ふしぎ因みに私くしはマイケルサンデルの正義とは何か?で世界中の誰も答えの出ない問題に答えを出し、世界の概念を変えたし、今も変え続けているので、事実上、暫定世界一の哲学者。サンデルが世界一だとしたらだけど。だれかかかってこほぉーい
追記させていただくと、世界の倫理観が崩壊しかねない誰も答えが出せない問題に答えを出したのではなく、誰も答えの出せない問題の論理構造を解き明かし(哲学活動をし)周知した(公的な生産性)ので、事実上の哲学世界一であり、ノーベル平和賞ものの業績なのだが、誰も認めない。なぜならば、世界は世界共産主義独裁体制下であり、特権階級様の支配にとって都合の良い答えだけが正解だとされ、都合の良いと認められた存在だけが正しいと評価される世界だからであり、現実や実績などは全く関係がない世界なのである。なので知恵のあるものは聞くがよい。本来義務教育などでは嘘だらけの民主主義や経済構造や権力構造を教えるのではなく、特権階級様の顔と性質、お気に召す奴隷の在り方を教えるべきであり、落とし穴や罠のような社会を教えて社会性があるだのないだのとその個人の善し悪しを論ずるのは、嘘つきや詐欺師だけが温存される腐敗構造を固定化する為の論理的支配構造なので、私くしが掲げる問題提起を真摯に受け止め考えるべきなのである。
歴史を学ぶにしても、哲学史は必要ですね。へ-ゲルの精神現象学、NHKのEテレでやってたことがあり、そのテキストも売られてますが、本当の原典はかなり難しそうですね。
歴史の話、面白かったです。
5年10年で一冊なら、哲学部の学生、ヘーゲルを理解して卒業できないじゃないですか。他の哲学者も同じように5年10年なら、同じく身に付かない。ただそれぞれの世紀を代表する大天才を完全に読み解くのは、難しいでしょうな。斎藤さんの対談でもあったように、大学でまだヘーゲルやってる古いだとか、大学の先生バカばかりとかいう心ないyoutuberもいますが、そいつはヘーゲルをきちんと読めてないかも知れん。そう思いました。
弁証法は主客未分→主客分化→主客分離→主客の弁証法構造の自覚
という認識主体が認識主体自身を認識対象とするような再帰的認識の獲得へ段階的に向かう歴史を捉えたものと思います。
そのため、たとえば物理学的な力や重力の発見も、人間の内面の成立に対応している、そういうニュアンスのことをヘーゲルは書いていると思います。
ヘーゲルは、弁証法(自覚された近代主体構造)以降の精神の構造として、それを超える構造が理論的に想定困難であるために、弁証法をして哲学や歴史の完成を主張したような気がします。
だから完成といっても弁証法(歴史)は運動であって止まらない気がします。
しかしヘーゲル弁証法では意味(知、一般的意味)の外部への着眼がなく、主客分離における否定神学構造の誤認についてが十分には考慮されていません。
ヘーゲルは、カントの誤認を指摘するだけで、なぜ近代精神には徳福一致(内的精神の自由と外的客体的幸との非弁証法的主客一致)のような誤認が生じるのか、ということの分析が抜けています。
この観点を折り込んで読まないと、なんでヘーゲルがいまこの時代に大事なのか、どういう意義を持ってるのか、ということがまったく掴めないと思います。
この時代にヘーゲルを論じるとき問題になってくるのは、なぜ現代人は近代をトラウマのように描写しだすのか?だと思います。
たとえばフーコーの監獄論とか。ネット保守言論のルソー集団リンチとか。
これと密接に関連しますがポストモダニスト(技術楽観主義等)と日本式保守主義の表象的な二項対立はこの国の政治言論に顕著です。
これは哲学史講義にも示される、懐疑主義と形而上学の不毛な対立そのものに思います。
懐疑主義ではカントが道徳論でやってしまったような理想と現実、内面と外界、主観と客観との差違を抹消する欲望が人間の主客の分離化に伴う想像的誤認(表象的誤認)によって惹起されてしまう。
また独断論(形而上学)でも、この差違は消失してしまう。
どちらにも存在論的差違と同一の分離がおきてしまう。
だから差違と同一の同一をなすことが弁証法であって差違を消し去って同一したり、差違そのものを拒絶すると形而上学になってしまいます。
また弁証法が実現するのはカントの純粋統覚に対する本質的な操作であり、それは実存的時間を根本的に変更するということでもあります。
このことが理論的に分かると、いまの社会のディスクールの構造がどのように変質してきているのかも理論的に把握することができます。
やはりラカンの欲望の弁証法とセットで観ていかないと、ヘーゲルの弁証法論では、何が本当の問題になっているか、あまり見えてこないと思います。
哲学のテキストは生きていて、テキストの意(言わんとすること)と書かれたテキストとは弁証法的な運動をなします。
だから書かれたテキストにおいて捕まれていながら、書き手が意識的には自覚できていないもの、書き手の無意識の主体(意)を含めて、哲学者の意を洞察する読み方が必要な気がします。
社会思想史の講義の期末レポートのお題がヘーゲル『法の哲学』でした。
聞いた話ですが、専門家が言ってたそうです「精神現象学は、ヘーゲルの著作では易しい方」って
※『精神現象学』は三大難解哲学書の一角とされています
ภาษาไทย! すごい!タイに住んでいますよ!:))
体操の例え、良いですね。定立をテーゼ、反定立をアンチテーゼ、総合をアウフヘーベン、それによって生み出された事をジンテーゼなんて感じになるんですかね。あくまで例えで尊敬していますが、カントは、1人で黙々と思索するが熱い思いを持ったオタクな人、フィヒテはもロマンチストでありながらちょっと怖い政治家、シェリングは科学オタクな哲学者といった感じなのかなと個人的に感じました。(笑)ヘーゲルがそんな個性的な面々をして、弁証法で議論して本気でぶつかり合って、絶対精神へと皆んなで至ろうじゃないのと言いたかったのかななんて感じました。ドイツ観念論って、熱血って感じを受けるんですよね。ヘーゲルの歴史に対する考え方は、マルクス(唯物論)にだいぶ批判されたり、ショーペンハウアーに至っては、悪口?みたいになってかなと思いますが、今後が楽しみです。(笑)お話し面白かったです。長文すみません。
ヘーゲルが阿保過ぎてこの配信を最後まで見る気にもなれなかったんだけど、哲学が終るって考える時点で哲学ってものが分かってないよね。なんかの配信で、哲学は概念をどうのとかって言ってた先生がいたんだけど、ヘーゲルの弟子とかなのかな?まぁとにかく、概念を定義したり生み出したりすることが哲学だとか言っている先生もヘーゲルも根本的に意味が分かってないよね。哲学が終るって、概念を生み出すことが終ると言っているようなものであって、そんなことはありえないでしょう。言葉自体が変化したりし続けるのだから、哲学は人類が思考し続ける限り終わらないし、概念を定義したりするのは哲学の一側面であって、その概念がどういう論理構造として機能しているのかだとかを考えるのが哲学であり、思考を思考することと言い換えてもいいし、思考そのものだと言い換えてもいい。なのでヘーゲルは、」もう人間は思考しない」だとか、「思考はこれで全て終わり」って本気で思ったということなんだろうね。ふしぎ
因みに私くしはマイケルサンデルの正義とは何か?で世界中の誰も答えの出ない問題に答えを出し、世界の概念を変えたし、今も変え続けているので、事実上、暫定世界一の哲学者。サンデルが世界一だとしたらだけど。
だれかかかってこほぉーい
追記させていただくと、世界の倫理観が崩壊しかねない誰も答えが出せない問題に答えを出したのではなく、誰も答えの出せない問題の論理構造を解き明かし(哲学活動をし)周知した(公的な生産性)ので、事実上の哲学世界一であり、ノーベル平和賞ものの業績なのだが、誰も認めない。
なぜならば、世界は世界共産主義独裁体制下であり、特権階級様の支配にとって都合の良い答えだけが正解だとされ、都合の良いと認められた存在だけが正しいと評価される世界だからであり、現実や実績などは全く関係がない世界なのである。
なので知恵のあるものは聞くがよい。
本来義務教育などでは嘘だらけの民主主義や経済構造や権力構造を教えるのではなく、特権階級様の顔と性質、お気に召す奴隷の在り方を教えるべきであり、落とし穴や罠のような社会を教えて社会性があるだのないだのとその個人の善し悪しを論ずるのは、嘘つきや詐欺師だけが温存される腐敗構造を固定化する為の論理的支配構造なので、私くしが掲げる問題提起を真摯に受け止め考えるべきなのである。