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この頃に青春18があれば 5枚では足りない😁
ホントそれです笑
1985年春季発売までは2日間券片がありましたから、夜行列車にはうってつけでしたが、やっぱり足りないですね。
あっ、そっか。行くことはできても帰ってこれないか・・・
つい数年前まで走っていたムーンライトながら(東京ー大垣)410.0km が、30位にも入ることができない事実。
ムーンライトながらは、そもそも「普通」電車ではなく、「快速」電車。前身となる東京~神戸間の夜行普通列車がヨンサントオまではありましたが、これは589.5キロを走破しており、それならこのランキングでは10~11位相当になると思います。尚、この普通列車は東海道線最後の客車牽引の長距離普通列車だった事もあり、ダイヤ上のネックになっていたのはいうまでもなく、末期に残っていた1往復もヨンサントオ改正で急行型電車運行による大垣夜行にその役目を譲り事実上廃止。これが現在のムーンライトながらになっていくわけなので・・・この時期に「ながら」はおろか「大垣夜行」は存在してなかったんですよね。
信じられん。あの門司駅や鳥栖駅に関西方面行きの普通列車があったとか。でもよく考えたら今でも福岡から札幌行きの貨物列車があるのは未だに国鉄っぽさがあって凄い。
1967年だが未だ山陽新幹線は開通前。広島や岡山は新大阪から特急、急行乗り継ぎ。
東北の長距離鈍行は夜行区間が廃止されて昼行の区間が80年代まで残ってましたね福島発青森行、原ノ町発青森行とか
この時代お金持ち以外の殆どの国民は特急には乗れなかった。少しお金に余裕があればやっと急行に乗れたのでは。だから普通列車での移動が普通でした。
翌年の43.10改正で大鉈が振るわれ、運転区間の縮小、系統分割、廃止になるなど大幅に整理されていきました。中でも東海道本線の143・144列車は、列車番号はそのままで運転区間が大垣〜東京間に短縮され電車化されて「ムーンライトながら」まで生き延びました。列車存続には当時の国鉄総裁の鶴の一声があったと言われています。
以前北上駅は「黒沢尻」、八戸駅は「尻内」という駅名だったのですが、この動画の時刻表はそれらが改称される中間の時期だったのですね〜。アラフィフの自分の子供時代には仙台〜青森などの長距離客車鈍行が時刻表を彩っており、一度乗ってみたかったです。
第3位の129列車って国鉄末期まで残ってましたよね。隅田川発青森行き荷物列車になって、3時過ぎの福島から客扱い開始という。津軽から乗り継いで、何回か乗りました。
私の若い頃はこの様な長距離を走る普通列車が各地を走ってましたから、乗り継ぎは割と楽でしたね。特に東北地方なんかだと客車牽引の列車も多かったですから座って乗るのも困難ではなくボックス一つ占領もしょっちゅう有りました。
復刻版時刻表を見ると、長距離列車が多くても本数が少なくて所要時間も掛かるので例えば東北本線だと上野から青森まで1日では着かないんですよね。新幹線開業後で更に運転本数が増えた1988年頃になると乗り継ぎが多くても余裕で到達できるようになるので、個人的な感想としては、この頃がいちばん普通列車で旅がし易かったのではないかと思います。大垣夜行や上諏訪夜行、新宮夜行などもまだありましたし。
上野→青森22時に出て翌22時って笑
この時代で今の普通車乗り継ぎとB特急、急行と大阪までそんなに変わらないという。
編成を調べると、だいたい荷物車か郵便車、または両方が連結されていますね。乗客は入れ替えがメインで、乗り通すのは荷物車と郵便車の中身の輸送が目的ですね。中央西線には荷物専用列車が無かったのですが、電車化に伴い、荷物専用列車が新設されましたね。
その荷物の積み下ろし等もあって、主要駅だと30分以上の長時間停車もありました。
国有鉄道時代の古き良き長距離夜行列車の紹介有難うございました🙇♂映画男はつらいよの寅さんがいつも利用して日本中を旅していた列車だったのでしょうね。
とても興味深い一面が見えてくる動画ですね。当時、自動車が爆発的に増え始めていましたが当時の高速道路と言えば名神と阪神高速、首都高くらいしか無く、東名の全線開通は動画の2年後(1969年)ですし未舗装の国道も珍しくなかった時代。貨物にするほどでない量…荷物扱いの新聞や雑誌などの輸送も全国隅々まで鉄道が主力だった時代が感じられます。そう、これら列車の主目的は旅客輸送ではなく荷物・郵便輸送だったはずです。ちなみに全国の高速道路網や国道が整備されて貨物輸送の主力がトラックに替わり、鉄道郵便と鉄道小荷物が廃止されたのが1986(昭和61)年で動画から約20年後。ヤマト運輸による個人向け小荷物集配サービス、宅急便の誕生は1976(昭和51)年。全国展開完了(離島を除く)は1997(平成9)年と動画から30年後。
やっぱり山陰本線と東北本線勢が強い……しかし、日付またいで走る普通列車って、すごいものがあったんですね。
日本最長普通列車(当時)の末裔で通勤しています。東京まで22時間停車時間で8時間ほどあったので須賀、その停車時間分を短縮していたのが、急行津軽です。当時も使用車両の自由席は大差なく、夏は暑かったことでしょう。
この時代で凄いなと思うのが、拠点駅ですと午前2時や3時台でも客扱いしていた事ですね。郵便や荷物の扱いだけなら運転停車扱いにすればと書いて思い出したのが、当時主力の旧客は乗客自身がいつでもどこでも開閉出来る手動ドアだった事でした。
手動の扉はほとんど空きっぱなしだったですよ。だからポイントを通過するとき、振り落とされる事故があったみたい。
いずれも今では考えられない列車ばかりですね。山陰本線走破する普通なんか想像するだけで気が遠くなりそうですし、大阪発新津行きについては「なんでそんな中途半端な(失礼しました…)行先なん?」と思ってしまいました。中でも、上野〜青森間の普通列車で126列車と130列車の所要時間に大きな差(126列車が19時間27分なのに対し、130列車だと21時間56分もかかっている)があるのが興味深いですね。
21位の921列車には名古屋から天王寺まで乗車しました。名古屋市内から大阪市内行の硬券切符も手元にあります。乗った頃は一等座席車からB寝台車2両連結に変わってました。因みにB寝台車は新宮〜天王寺間で10系の寝台車。阪和線の天王寺方向では1番列車ですが、阪和線内は無停車でした。
80年代の時刻表には「はやたま」の名前で掲載されていた列車ですね。
今となっては阪和線に客車列車が走っていたというのも衝撃的ですが、阪和線内は無停車というのも凄いですね関西本線と紀勢本線は当時は非電化なので蒸気もしくはDF50、阪和線内はED60かEF52、晩年ならEF58が牽引していたのでしょうね
昭和30年代に、1位の422列車のドキュメンタリーがテレビで放映されていた。撮影スタッフが青森駅から上野駅までぶっ通しで乗車して撮影していた。
みんな凄すぎて上野 ~ 一ノ関の123レですらランク外・・・ヤバすぎる。
もしこれらの長距離普通列車が今でも存在していたら、某鉄道系RUclipsrが、全区間乗車に挑戦していたと思うw
撮影機材のバッテリーが問題。コンセントなんかありませんからね。複数のカメラ持参でしょうが、荷物が大変な事に。
すげぇ。。。新津発大阪行とかあったんだ。。。
14位の225レは546.4㎞ではないでしょうか?東京ー門司が1102.8㎞で東京ー大阪が556.4㎞でして、昭和42年10月の時刻表を参照しました。
昭和42年10月時点であれば、東海道線を最近まで走っていたムーンライトながらのルーツにもなっている、東京~神戸間589.5キロを結ぶ夜行普通列車が1往復あり、それが10~11位に相当するはずなのですが・・・
奥羽本線経由の青森行421列車は出世しなかった人の帰省列車かな。子どもの頃、親しくしていた津軽出身の家族がこの列車を利用していたようです。
確か15位の東京~大阪夜行が廃止されたのち、惜しむ声が高まり大垣夜行として復活したのでしたっけ。
このなかで蒸気機関車が牽引していたのはどれか知りたかった。ディーゼル機関車も加わってきた頃だったので。
上野発青森行き(奥羽本線経由)では、福島から蒸気機関車連結。終点青森まで蒸気機関車が客車をけん引してました。
1967年9月、自分が生まれました。現55歳、桑田清原世代。
長門市出身ですが20位に長門市発福知山行きが載ってて超驚きです。需要があったんですね…(多分)
流れ流れてさすらう旅は、今日は函館、明日は釧路。
30位でいきなり「にちりんシーガイア」を超えてる。
3:32 渡島大野経由は現在、新函館北斗経由として扱われている
故種村直樹さんが毎日新聞記者時代に421列車に乗り通して記事になさったようです。青森到着後は東北本線の上り列車に乗り継いで浅虫温泉に投宿されてます。
青函連絡船を挟むけど、歴代一位は神戸発根室行きだったような大正末期にから昭和初期に運行されてました列車番号は函館で変わるけど、連絡はしていた1本の列車でも神戸青森が最長。ただ貨物となれば今でも札幌福岡が毎日走ってる
オッサンだから、昭和50年代~平成初期に数本乗ってる!
この時代に18きっぷがあれば日本縦断は今より楽だったろうなー
乗り換え無しで長距離移動出来るのはいいけど、直角クロスシートの旧型客車に長時間乗車するのはかなりエグそう
流石に24時間走る電車はないか・・・
山陰線はこの後15年くらいは基本変わってないですね。
普通列車と聞くと各駅停車と思ったけど、現代なら新快速レベルなんですね
客車の普通列車は通過駅が当たり前のようにありましたね。
加減速度が低いので他の列車(特に電車)の脚を引っ張らないようにする必要がありましたからね。
そういえば、昔通勤時に高槻発新三田行きの普通列車(黄色の103系)を利用していたんですが、塚本駅は通過していました。塚本駅の構造上通過せざるを得ないのですが、もしかしたら今でも通過駅のある普通列車は存在するのかもしれませんね。
昭和40年代前半は普通列車でもときどき車内販売がありました。もちろんモグリではないですよ。北陸本線です。
824列車キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
動画主は還暦以上の老人鉄道オタク?1967年だから少なくともアラウンド還暦。
時刻表復刻版から調べたんでは?
乗り通したら気狂いそうな長距離長時間便しかない😂
私鉄通勤型編も見たい
東京から姫路の普通って無かった?
1位は「上野発の夜行列車」か・・・
しかも2位3位と上位独占していて草。。。
この当時(昭和42年9月)、北海道の長距離普通列車はまだSLが牽引していた時代だよね。それにしても上位の列車は、ほぼ1日かけて走っていたんでしょう。まさか、全区間通しで乗っていたという人がいたのかな?
昔の長距離鈍行って、遠方に行くお客はいましたか。
盛岡~尻内(八戸)100kmも無いのになんで4時間もかかるんだ?上野~宇都宮も上りと下りで1時間近く差があるのなんで?
普通列車言えど、電車による運転ではなく、客車牽引による汽車(蒸機→電機) 列車でしたからね・・・
この頃から青春18きっぷがあったら良かったのに・・・・・
JRもそろそろ国鉄に戻す時期ですね。
ムーンライトながらになる前の,東京発大垣行普通に乗った事がある.
この時代はこう言う需要もあったんだと思う。この時代の日本人の平均年収が50万円位。その後20年で8倍に増えるもその後の30年は横ばいで周りが上がって相対的に貧乏街道。タイでも長距離客車列車あるけど、特に3等がある普通や快速は貧民の乗り物って扱い。航空機高速バスが好まれている。鉄道は貨物需要あるので残ってる。
21位に乗ってる
撮り鉄の帰りに22位のヤツは乗ってるなw12年後も残ってたw
あの824がベスト10入りしてないとは⁉︎
ベスト3は上野⇔青森が独占ですね^^; 流石に新潟県を通って羽越線経由はなかったかw
東北は強いですな。
1等車連結!?
当時は普通列車、特に客車列車だと一等車連結はさほど珍しい話ではありませんよ。と言っても普通列車の一等車は並ロと言われた転換クロスシートが多数派でしたが。(急行以上は1958年以降は特ロといわれたリクライニングシートに統一)
s42年…?そんな時代まで遡る意味は…
路線短縮もしくは途中で列車切り離しがされたけど、意外とこのあたりの時刻って昭和末期まで乗り継げばたどれる場合多かったですよ
この頃に青春18があれば 5枚では足りない😁
ホントそれです笑
1985年春季発売までは2日間券片がありましたから、夜行列車にはうってつけでしたが、やっぱり足りないですね。
あっ、そっか。
行くことはできても帰ってこれないか・・・
つい数年前まで走っていたムーンライトながら(東京ー大垣)410.0km が、30位にも入ることができない事実。
ムーンライトながらは、そもそも「普通」電車ではなく、「快速」電車。
前身となる東京~神戸間の夜行普通列車がヨンサントオまではありましたが、これは589.5キロを走破しており、それならこのランキングでは10~11位相当になると思います。
尚、この普通列車は東海道線最後の客車牽引の長距離普通列車だった事もあり、ダイヤ上のネックになっていたのはいうまでもなく、末期に残っていた1往復もヨンサントオ改正で急行型電車運行による大垣夜行にその役目を譲り事実上廃止。
これが現在のムーンライトながらになっていくわけなので・・・
この時期に「ながら」はおろか「大垣夜行」は存在してなかったんですよね。
信じられん。あの門司駅や鳥栖駅に関西方面行きの普通列車があったとか。
でもよく考えたら今でも福岡から札幌行きの貨物列車があるのは未だに国鉄っぽさがあって凄い。
1967年だが未だ山陽新幹線は開通前。広島や岡山は新大阪から特急、急行乗り継ぎ。
東北の長距離鈍行は夜行区間が廃止されて
昼行の区間が80年代まで残ってましたね
福島発青森行、原ノ町発青森行とか
この時代お金持ち以外の殆どの国民は特急には乗れなかった。少しお金に余裕があればやっと急行に乗れたのでは。だから普通列車での移動が普通でした。
翌年の43.10改正で大鉈が振るわれ、運転区間の縮小、系統分割、廃止になるなど大幅に整理されていきました。中でも東海道本線の143・144列車は、列車番号はそのままで運転区間が大垣〜東京間に短縮され電車化されて「ムーンライトながら」まで生き延びました。列車存続には当時の国鉄総裁の鶴の一声があったと言われています。
以前北上駅は「黒沢尻」、八戸駅は「尻内」という駅名だったのですが、この動画の時刻表はそれらが改称される中間の時期だったのですね〜。アラフィフの自分の子供時代には仙台〜青森などの長距離客車鈍行が時刻表を彩っており、一度乗ってみたかったです。
第3位の129列車って国鉄末期まで残ってましたよね。
隅田川発青森行き荷物列車になって、3時過ぎの福島から客扱い開始という。津軽から乗り継いで、何回か乗りました。
私の若い頃はこの様な長距離を走る普通列車が各地を走ってましたから、乗り継ぎは割と楽でしたね。特に東北地方なんかだと客車牽引の列車も多かったですから座って乗るのも困難ではなくボックス一つ占領もしょっちゅう有りました。
復刻版時刻表を見ると、長距離列車が多くても本数が少なくて所要時間も掛かるので例えば東北本線だと上野から青森まで1日では着かないんですよね。
新幹線開業後で更に運転本数が増えた1988年頃になると乗り継ぎが多くても余裕で到達できるようになるので、個人的な感想としては、この頃がいちばん普通列車で旅がし易かったのではないかと思います。
大垣夜行や上諏訪夜行、新宮夜行などもまだありましたし。
上野→青森22時に出て翌22時って笑
この時代で今の普通車乗り継ぎとB特急、急行と大阪までそんなに変わらないという。
編成を調べると、だいたい荷物車か郵便車、または両方が連結されていますね。乗客は入れ替えがメインで、乗り通すのは荷物車と郵便車の中身の輸送が目的ですね。中央西線には荷物専用列車が無かったのですが、電車化に伴い、荷物専用列車が新設されましたね。
その荷物の積み下ろし等もあって、主要駅だと30分以上の長時間停車もありました。
国有鉄道時代の古き良き長距離夜行列車の紹介有難うございました🙇♂
映画男はつらいよの寅さんがいつも利用して日本中を旅していた列車だったのでしょうね。
とても興味深い一面が見えてくる動画ですね。
当時、自動車が爆発的に増え始めていましたが当時の高速道路と言えば名神と阪神高速、首都高くらいしか無く、東名の全線開通は動画の2年後(1969年)ですし未舗装の国道も珍しくなかった時代。
貨物にするほどでない量…荷物扱いの新聞や雑誌などの輸送も全国隅々まで鉄道が主力だった時代が感じられます。
そう、これら列車の主目的は旅客輸送ではなく荷物・郵便輸送だったはずです。
ちなみに全国の高速道路網や国道が整備されて貨物輸送の主力がトラックに替わり、鉄道郵便と鉄道小荷物が廃止されたのが1986(昭和61)年で動画から約20年後。
ヤマト運輸による個人向け小荷物集配サービス、宅急便の誕生は1976(昭和51)年。全国展開完了(離島を除く)は1997(平成9)年と動画から30年後。
やっぱり山陰本線と東北本線勢が強い……しかし、日付またいで走る普通列車って、すごいものがあったんですね。
日本最長普通列車(当時)の末裔で通勤しています。
東京まで22時間
停車時間で8時間ほどあったので須賀、その停車時間分を短縮していたのが、急行津軽です。
当時も使用車両の自由席は大差なく、夏は暑かったことでしょう。
この時代で凄いなと思うのが、拠点駅ですと午前2時や3時台でも客扱いしていた事ですね。郵便や荷物の扱いだけなら運転停車扱いにすればと書いて思い出したのが、当時主力の旧客は乗客自身がいつでもどこでも開閉出来る手動ドアだった事でした。
手動の扉はほとんど空きっぱなしだったですよ。だからポイントを通過するとき、振り落とされる事故があったみたい。
いずれも今では考えられない列車ばかりですね。
山陰本線走破する普通なんか想像するだけで気が遠くなりそうですし、大阪発新津行きについては「なんでそんな中途半端な(失礼しました…)行先なん?」と思ってしまいました。
中でも、上野〜青森間の普通列車で126列車と130列車の所要時間に大きな差(126列車が19時間27分なのに対し、130列車だと21時間56分もかかっている)があるのが興味深いですね。
21位の921列車には名古屋から天王寺まで乗車しました。名古屋市内から大阪市内行の硬券切符も手元にあります。乗った頃は一等座席車からB寝台車2両連結に変わってました。因みにB寝台車は新宮〜天王寺間で10系の寝台車。阪和線の天王寺方向では1番列車ですが、阪和線内は無停車でした。
80年代の時刻表には「はやたま」の名前で掲載されていた列車ですね。
今となっては阪和線に客車列車が走っていたというのも衝撃的ですが、阪和線内は無停車というのも凄いですね
関西本線と紀勢本線は当時は非電化なので蒸気もしくはDF50、阪和線内はED60かEF52、晩年ならEF58が牽引していたのでしょうね
昭和30年代に、1位の422列車のドキュメンタリーがテレビで放映されていた。
撮影スタッフが青森駅から上野駅までぶっ通しで乗車して撮影していた。
みんな凄すぎて上野 ~ 一ノ関の123レですらランク外・・・ヤバすぎる。
もしこれらの長距離普通列車が今でも存在していたら、
某鉄道系RUclipsrが、全区間乗車に挑戦していたと思うw
撮影機材のバッテリーが問題。コンセントなんかありませんからね。複数のカメラ持参でしょうが、荷物が大変な事に。
すげぇ。。。新津発大阪行とかあったんだ。。。
14位の225レは546.4㎞ではないでしょうか?
東京ー門司が1102.8㎞で東京ー大阪が556.4㎞でして、
昭和42年10月の時刻表を参照しました。
昭和42年10月時点であれば、東海道線を最近まで走っていたムーンライトながらのルーツにもなっている、東京~神戸間589.5キロを結ぶ夜行普通列車が1往復あり、それが10~11位に相当するはずなのですが・・・
奥羽本線経由の青森行421列車は出世しなかった人の帰省列車かな。
子どもの頃、親しくしていた津軽出身の家族がこの列車を利用していたようです。
確か15位の東京~大阪夜行が廃止されたのち、惜しむ声が高まり大垣夜行として復活したのでしたっけ。
このなかで蒸気機関車が牽引していたのはどれか知りたかった。ディーゼル機関車も加わってきた頃だったので。
上野発青森行き(奥羽本線経由)では、福島から蒸気機関車連結。終点青森まで蒸気機関車が客車をけん引してました。
1967年9月、自分が生まれました。現55歳、桑田清原世代。
長門市出身ですが
20位に長門市発福知山行きが載ってて超驚きです。需要があったんですね…(多分)
流れ流れてさすらう旅は、今日は函館、明日は釧路。
30位でいきなり「にちりんシーガイア」を超えてる。
3:32 渡島大野経由は現在、新函館北斗経由として扱われている
故種村直樹さんが毎日新聞記者時代に421列車に乗り通して記事になさったようです。青森到着後は東北本線の上り列車に乗り継いで浅虫温泉に投宿されてます。
青函連絡船を挟むけど、歴代一位は
神戸発根室行きだったような
大正末期にから昭和初期に運行されてました
列車番号は函館で変わるけど、連絡はしていた
1本の列車でも神戸青森が最長。ただ貨物となれば
今でも札幌福岡が毎日走ってる
オッサンだから、昭和50年代~平成初期に数本乗ってる!
この時代に18きっぷがあれば日本縦断は今より楽だったろうなー
乗り換え無しで長距離移動出来るのはいいけど、直角クロスシートの旧型客車に長時間乗車するのはかなりエグそう
流石に24時間走る電車はないか・・・
山陰線はこの後15年くらいは基本変わってないですね。
普通列車と聞くと各駅停車と思ったけど、現代なら新快速レベルなんですね
客車の普通列車は通過駅が当たり前のようにありましたね。
加減速度が低いので他の列車(特に電車)の脚を引っ張らないようにする必要がありましたからね。
そういえば、昔通勤時に高槻発新三田行きの普通列車(黄色の103系)を利用していたんですが、塚本駅は通過していました。
塚本駅の構造上通過せざるを得ないのですが、もしかしたら今でも通過駅のある普通列車は存在するのかもしれませんね。
昭和40年代前半は普通列車でもときどき車内販売がありました。
もちろんモグリではないですよ。
北陸本線です。
824列車キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
動画主は還暦以上の老人鉄道オタク?1967年だから少なくともアラウンド還暦。
時刻表復刻版から調べたんでは?
乗り通したら気狂いそうな長距離長時間便しかない😂
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東京から姫路の普通って無かった?
1位は「上野発の夜行列車」か・・・
しかも2位3位と上位独占していて草。。。
この当時(昭和42年9月)、北海道の長距離普通列車はまだSLが牽引していた時代だよね。それにしても上位の列車は、ほぼ1日かけて走っていたんでしょう。まさか、全区間通しで乗っていたという人がいたのかな?
昔の長距離鈍行って、遠方に行くお客はいましたか。
盛岡~尻内(八戸)100kmも無いのになんで4時間もかかるんだ?
上野~宇都宮も上りと下りで1時間近く差があるのなんで?
普通列車言えど、電車による運転ではなく、客車牽引による汽車(蒸機→電機) 列車でしたからね・・・
この頃から青春18きっぷがあったら良かったのに・・・・・
JRもそろそろ国鉄に戻す時期ですね。
ムーンライトながらになる前の,東京発大垣行普通に乗った事がある.
この時代はこう言う需要もあったんだと思う。この時代の日本人の平均年収が50万円位。その後20年で8倍に増えるもその後の30年は横ばいで周りが上がって相対的に貧乏街道。タイでも長距離客車列車あるけど、特に3等がある普通や快速は貧民の乗り物って扱い。航空機高速バスが好まれている。鉄道は貨物需要あるので残ってる。
21位に乗ってる
撮り鉄の帰りに22位のヤツは乗ってるなw
12年後も残ってたw
あの824がベスト10入りしてないとは⁉︎
ベスト3は上野⇔青森が独占ですね^^; 流石に新潟県を通って羽越線経由はなかったかw
東北は強いですな。
1等車連結!?
当時は普通列車、特に客車列車だと一等車連結はさほど珍しい話ではありませんよ。と言っても普通列車の一等車は並ロと言われた転換クロスシートが多数派でしたが。(急行以上は1958年以降は特ロといわれたリクライニングシートに統一)
s42年…?そんな時代まで遡る意味は…
路線短縮もしくは途中で列車切り離しがされたけど、意外とこのあたりの時刻って昭和末期まで乗り継げばたどれる場合多かったですよ