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昭和38年生まれです。当時は兵庫県川西市に住んでおり夏の帰省で尾道まで急行びんごに乗った記憶があります。懐かしいです。ありがとうございました。
今とは違い特急、急行の多さに感動。こと急行がこんなにもあったなんて。しかもビュッフェや食堂車や寝台を多用している。バラエティー豊かな時代。うらやましい。
この頃の復刻版時刻表が発売してましたね。それにしてもいい意味でえげつない。😅
当時の快速は新快速に似た停車駅だったんですね
大阪駅の長距離列車用のホームの存在意義がよくわかる動画でした。
新幹線の開通で、通勤通学と行楽輸送に回せる時代になりましたね。
今の大阪駅も相当カオスだと思ってたけどこの頃に比べればだいぶシンプルなダイヤになりましたね。
まだまだ宇野〜高松の間を本四連絡船があったので 宇野行きの列車が多かったですね。
畑野よしゆきさん特急列車では「うずしお」(午前発)「ゆうなぎ」(午後発)、電車準急「鷲羽」ですね、「うずしお」は、東海道新幹線開業で廃止となった電車特急「富士」の大阪ー宇野間を継承したのでは?
うずしおやゆうなぎは、翌年の白紙改正までクロ181が連結されていましたね。
@@まじんはひまじん-n1y さん厳密に言えば、クロ151かクロ161ではないですか?181系は151・161系の寒冷地仕様で、上越線・信越線・中央東線に導入されていました。
@@原田寛-e3u さんクロ151は、事故廃車1両と関東に残留となった1両を除く10両が向日町に転属した後にクロ181となり山陽本線の特急に使用されましたが、利用率の低下により8両がクロハ181へ改造、残りの2両はクロ181のまま四国連絡特急に使用されています。
補足すると、151・161系は東海道新幹線🚅開業後に全車181系に改造されています。車番は151系はそのまま、161系はプラス40(40番台)です。なので、181系として新製された車両は100番台になっています。
急行夕月って確か短命に終わった夜行急行だったよな…それが載ってるのは何か凄いわ
名古屋博多のはやとも乗りましたね。同区間で玄海という名前のときもありました。大垣乗り降りで、博多まで12時間ちょっと要しました。夜行じゃなかったので、景色を堪能できました。
昔草津に住んでいたわたし(このころは生まれていません)…大阪から出る快速の最終が22:30で、これに乗り遅れたら23:50の普通東京行きまで列車がなかったのですねまぁ、各駅停車で京都まで行けばワンチャンあったのかもしれませんが、JR化後の一時期は24:20だったことを考えると隔世の感がありますね…
今や見られない貴重な種別行き先もあるな
福知山線の普通列車にディーゼルカーを表す列車番号○○○Dの列車が意外に多いですね。急行列車に使用する車両と併用していたということなんですかね?1970年頃、福知山線の蒸気機関車C11牽引する旧型客車に乗った記憶があります。それから1980年頃の福知山線の普通列車は、ディーゼル機関車DD51が牽引する旧型車両ばかりだったような記憶があります。
この時刻表、大切にされてるんですね。
分割民営化と新幹線の開業の影響もあるのかも知れませんが、今では遠方の行先を見る事は無くなりました。大阪駅では熊本行や西鹿児島行、大分行、下関行、富山行、魚津行、金沢行、札幌行、青森行など各地の行先が見られたあの頃が懐かしい。
この頃までの神戸駅は優等列車バンバン停車してたんだよな。大津も草津より急行いっぱい停車してたよな。
この頃もあったんですね5時38分の普通浜田行き。この頃はまだ蒸気機関車だったかもしれません。昭和59年12月に早朝の浜田行きのDD51牽引の旧型客車に乗ったので、もっと昔からあったんだと驚きました。でも翌年には確か3月になくなくなってしまい、大阪発の旧型客車列車が消滅してすごく悲しかったのが思い出されます。
ほぼ24時間営業!ディープな長距離!ビックリです!
注意書きにもありますが、別掲の電車線の通勤電車も合わせると、新快速が無いくらいで今でも通用しそうなダイヤですね。
いそかぜ号はアラフォー世代では山陰のローカル特急というイメージですが、ごく短期間だけ大阪発の九州方面特急として1Dの看板を背負っていた時期があったんですよね
遠方に行くのが特急、じゃなくて急行ばっかりなのが時代を感じる
広島どころか鳥栖行鈍行列車ってどれだけ時間かかるんだろ。姫路より西の山陽本線は今より充実では?特に新幹線駅が近くにないエリア
明日からこのダイヤになったら、沿線に住んでる撮り鉄はきっと鼻血でそうだわ。
乗り鉄も至福で卒倒しそうですね・・・
夢でもいいから見てみたい!
失禁状態でしょう。乗り鉄からすると…
普通に利用する人からすると大幅減便、撮り鉄大増発、乗り心地悪化で発狂しそう
喜ぶのは鉄「だけ」沿線民からしたらたまったもんじゃねぇ
山陰方面の大社行きが思ったより多い北陸方面や信州方面が思ったより少ない学生時代(1974-78年)スキー旅行で京都から急行立山を利用していましたが、糸魚川まで延伸されたのは、1969年だったんですね直角シートに8時間、今じゃ考えられません
直角シートで背中クッションのない旧客で2時間以上揺られるのも乙なものでしたよw空いてるから、座席だけで寝れましたしw
天草寝台車‼️☺️新横浜→新大阪乗り換えで筑豊本線経由で直方まで引っ越し。懐かしい かれこれ半世紀前❗
R指定さん天草のながれを汲んでいるのが、「あかつき」の佐世保編成の1往復が門司で分割されて、筑豊線経由でした。
@@原田寛-e3u 直方と飯塚に停車するやつですね。
@@YS-cz1ni さんそうでしたね。
急行天草はヨンサントウダイヤ改正で京都行きに戻っていますが元ももは京都行きだった。なお天草の基本編成は急行阿蘇と共通運用で名古屋客貨車区所属だった。
寝台特急が深夜帯に客扱いをしていたのは、当時の専用車両だった20系に、1等・2等座席💺車が連結されていたからその客扱いをしていたのでは?
何でやねん九州ブルトレはもうこの頃には殿様あさかぜのナロ20以外寝台車化されてるわ
深夜時間帯にブルートレインが停車しなくなったのは(運転停車のみ)わりと最近で、ヨンナナサンダイヤ改正からです。その前の寝台特急あけぼので運転停車のみの客扱い停車なしでも問題がなかったので、一部の列車を除いて行われた処置です。
新快速が発足するまで外側線快速は全列車は兵庫駅停車だったかな?
普通列車で浜田行とか鳥栖行など、長距離列車がまだまだ健在だった時代ですね。「桜島」と「高千穂」はこの時は単独運転だったんですね。併結のイメージが強い列車だったので、初めて知りました。同じ行先でも特急と急行で停車駅の数が全然違っていて、特急の格の高さも窺えます。しかも、新大阪〜宇野間の「ゆうなぎ」には食堂車がついているのに、東京〜下関間の「長州」には臨時列車とはいえ食堂車どころかビュッフェすら付いていないという…wwwほか、「夕月」と「かいけ」については聞いたこともない列車でした。今と違ってのんびりとした、旅情をたっぷり味わえた時代だったんでしょうね。この時刻表を見るだけで、旅行気分を存分に味わうことができました。
「長州」は、当時修学旅行電車だった167系でしたからね。
GingaExpressさん「夕月」は、新大阪ー宮崎を走っていた、新婚旅行専用急行で、主に一等車編成でした。
@@Dekatama100 さん修学旅行列車、ということはグリーン車(2等車)すらないということですね。そんな列車を超長距離列車に充当するとは、まさに暴挙ですね…。
@@原田寛-e3u さん新婚旅行専用列車なんてのがあったんですね。初めて聞きました。急行列車で1等車メインの編成とは、さすがに豪華ですね。当時の新婚さんにとっては贅沢で、忘れられない思い出になったでしょうね。
@@gingaexpress6539 さん当時は、新婚旅行のメインだった、宮崎・鹿児島の飛行機✈️の機種がF27フレンドシップやコンベアといった後のYSー11と同じレベルでしたからね。
快速線本数多いなこの時代に20分ヘッドダイヤもどきが出来上がってる
山陽新幹線開業で山陽方面行きの大半の優等列車が廃止となった。山陽新幹線開業をあと15年くらい遅らせて欲しかった。
きつねうどんさん山陽新幹線を開業したのは関西ー九州のビジネス需要が先行していたし、福岡以外の空港のジェット機就航が遅かったのもあるしね。
普通列車 京都行き 新大阪、高槻通過って…( ̄ー ̄) 新快速誕生の前にこんな列車あったとは
これらはすべて客車列車です。
加賀温泉駅ってまだなかったんだなぁと。かわりに動橋(いぶりはし)に特急が止まっていた事実がね^^;
加賀温泉駅は当時「作見駅」の名称で普通のみの停車駅でしたが大聖寺と動橋の特急停車駅争奪戦の沈静化(妥協)として中間の作見を停車駅として改称しました
昭和45年10月ダイヤ改正から、作見駅が加賀温泉駅になりました。その翌年に、大聖寺や動橋に発着していた北陸鉄道の山中・山代線が廃止に・・・。
緩行線は別の時刻表なのかな
長距離鈍行に時々電車列車があるけど、使用されていたのは153系辺りだろうか?
山陽方面は80系、京阪神快速絡みは113系です。関西では153系は急行のみでした。
唯一宇野行きの夜行普通列車が153系であとは夕方1往復2使用されていて列車線を走行して西宮停車の須磨通貨だった。
ここに大阪環状線はないけど、大和路線直通はなく、阪和線直通なんて「何それどうやってするの?」状態。
まだ各線ごとの需要増に追われその余裕はありませんでした。
この頃の大和路線…つか関西線は全線非電化だったし(奈良からの直通通勤快速w(当然キハ30系)を見てみたかったようなみたくなかったようなw)
この頃の大阪環状線は101系の天下で他線区への乗り入れは桜島線だけですね
いちおう新幹線は、開業していますから S42年
普通列車新潟行や新津行・・今じゃとても想像できない行き先。
今じゃ、時間がかかりすぎますからね。
郵便輸送や、荷物輸送の使命もあったから
その新津行きも元は青森行きだったのですからね。1961年10月の白紙改正(サンロクトオ)で短縮されましたからね。さらに、大阪を夜に出て、青森を翌々日の早朝に事実上2泊3日の運行をした普通列車もありましたからね。
東海道新幹線開業後でしたっけ?
東海道新幹線は開業済みです。
@@molenuki7611 39年東京ー新大阪開業ですよね。失礼しました。
その新大阪を通過する列車多いね、「普通・京都行、新大阪通過」って…
情報量が多すぎて見づらいかな路線を絞った方がいいと思う
というよりなぜ福知山線を間に差し込んだのか、デザインのセンスは問われる
福知山線が少なすぎ、、、、通勤通学には使えない
確か1980年代に電化複線化されたはず。1978年に小学生の私は伊丹まで国鉄で行きたいと言ったら、家族は「えっ」という反応だった。来たのはDD51が引っ張る列車で、ドアが自動扉でなく、ハイヒールのOL風の乗客が止まっていないので扉を開けてホームに飛び降りたのは衝撃だった。
@@junueda1105 さん宝塚・伊丹は、阪急の利用が多かったからではないでしょうか?
当時の関西国電区間(今のアーバンネットワークエリア)で電化されてたのて、環状線・桜島線と東海道・山陽本線、阪和線、片町線(長尾〜片町間)だけだったし。
昭和50年代後半でさえ複線電化は宝塚まで。以北は完全な汽車。
SL祭りMやD以外に注目♪
変わるの早い
柳井行き普通列車は80系だろうか?153系だろうか?Mだから電車なのはわかるし。😅列車線使用の普通列車は各駅停車になる区間がまちまちで面白い。大久保から各駅停車という表示にびっくり(自分は『明石から各駅停車』のイメージが定着しているので。😅)
上島正敬さん恐らく80系でしょうね、東京口の東海道線に113系が投入され始めた時期では?
@@原田寛-e3u さん、ありがとうございます。80系でしょうね。当時の柳井は結構広い構内でしたし、保存用の80系がこちらに一時期留置していたみたいで。ちなみにこのコメントを出して1年近く経ちましたが、少し前に復刻版が出たので立ち読みしました。朝は岡山行きとして出発、岡山で列車番号変更して大阪へ(この辺は同じ動画の「広島駅」から憶測)帰りはこの列車は岡山で切り離し(グリーン車付いてた。😅)引き続き柳井に向かってました。おそらく岡山に153系の配置はなかったでしょうし、(80系は1977年位迄姫路迄走っていたみたい)でも今は本数少なくなったとはいえ、列車線走行の快速(須磨・垂水通過)が日中にも走っていたことに感動を覚えます。
@@上島正敬 さんそういえば、かつて弁天町にあった「旧交通科学博物館」に、80系の初期の3枚ガラスの先頭車が展示されていましたが、最終配備が「広セキ」(下関運転所)になっていましたね。
山陰まわりの博多行きなんてあるのか
博多「まつかぜ」ならば60-3までありました😉
急行はやとも名古屋~博多760km?これ電車急行だったら歴代1位の距離じゃね?
立直一発さん当時は、九州の電化区間が博多までだったから使用されていた、471か475系は南福岡電車区の所属だったはずでは?
@@原田寛-e3uこの時点で鹿児島本線は熊本電化ですね。
@@maruhiroya417 さん詳しい情報をありがとうございます。
定期列車ではそうですが、繁忙期の急行長州が日本一の電車急行になります。南福岡電車区に配置されたのは、475系のみです。なぜならセノハチで勾配抑速ブレーキを使用するためと、この当時は475系もしくは455系しか製造していません。ちなみに473系ばわずか1ユニットのみです。
昔は保線あんまりしてなかったのかな?
GraciosoLindoさん当時は、列車が通過する合間で保線作業をしていたのでは、いまの民営私鉄のようなものでしょうね。
ここはわかりませんけど、東北本線上野口・高崎線では日中に1時間、列車を設定していない時間があり、そこで保線してました。
そうだったんですね
誰も触れてへんけどここに出てくる特急やくもは今の伯備線のやくもとは全く関係ないわなさんべ、だいせん、おき、やくもの名前がたらい回しやからホンマにややこしいしちなみにこの浜田行きやくもの基本編成は白鳥と共通やからキロ80が2両入ってる
新幹線岡山延伸時にまつかぜに編入
急行おきはヨンサントウダイヤ改正でだいせんを改称するが、46年4月ダイヤ改正で特急おきに格上げされていて、特急やくもの前身になる。
この当時のやくもは白鳥の基本編成とは違います。後にはそうなりますが。
急行第1関門。😁
ヨンサントウダイヤ改正で急行ながとになった。
私も気になります、電車の長距離鈍行。恐らく仰っている80系か153系辺りと思うんですが。
@@buchigirepanda287 さん、ありがとうございます。あれから広島駅、高松駅を見てもう一度大阪駅を見ました。自分の推測だと80系だと思いました。因みにこの電車は岡山で切り離し(もう一度見た時に気付いた)と注意書きがあった、広島から上りを見たけど、該当する電車がなかった。(朝の大阪、京都行き普通は客車でした)広島からの上り電車は岡山迄しかありませんでした。(自分が見る限り)ってことは、上りは岡山行きで、番号変えて、増結して走っていたのかな?それに関係ないけど、現在保存されている80系が柳井に留置されていたことを思うと・・・。現在の柳井駅からは昔の広大であったであろう、柳井駅構内を想像できないけど。80系もおそらく6両編成ばかりで4両編成がなかったら、昼間から12両編成ってこと?まさかね・・・。😅
153系は瀬野八下れないので多分80系。
昭和38年生まれです。当時は兵庫県川西市に住んでおり夏の帰省で尾道まで急行びんごに乗った記憶があります。懐かしいです。ありがとうございました。
今とは違い特急、急行の多さに感動。
こと急行がこんなにもあったなんて。
しかもビュッフェや食堂車や寝台を多用している。
バラエティー豊かな時代。うらやましい。
この頃の復刻版時刻表が発売してましたね。それにしてもいい意味でえげつない。😅
当時の快速は新快速に似た停車駅だったんですね
大阪駅の長距離列車用のホームの存在意義がよくわかる動画でした。
新幹線の開通で、通勤通学と行楽輸送に回せる時代になりましたね。
今の大阪駅も相当カオスだと思ってたけどこの頃に比べればだいぶシンプルなダイヤになりましたね。
まだまだ宇野〜高松の間を本四連絡船があったので 宇野行きの列車が多かったですね。
畑野よしゆきさん
特急列車では「うずしお」(午前発)「ゆうなぎ」(午後発)、電車準急「鷲羽」ですね、「うずしお」は、東海道新幹線開業で廃止となった電車特急「富士」の大阪ー宇野間を継承したのでは?
うずしおやゆうなぎは、翌年の白紙改正までクロ181が連結されていましたね。
@@まじんはひまじん-n1y さん
厳密に言えば、クロ151かクロ161ではないですか?181系は151・161系の寒冷地仕様で、上越線・信越線・中央東線に導入されていました。
@@原田寛-e3u さん
クロ151は、事故廃車1両と関東に残留となった1両を除く10両が
向日町に転属した後にクロ181となり山陽本線の特急に使用されましたが、
利用率の低下により8両がクロハ181へ改造、
残りの2両はクロ181のまま四国連絡特急に
使用されています。
補足すると、151・161系は東海道新幹線🚅開業後に全車181系に改造されています。車番は151系はそのまま、161系はプラス40(40番台)です。なので、181系として新製された車両は100番台になっています。
急行夕月って確か短命に終わった夜行急行だったよな…それが載ってるのは何か凄いわ
名古屋博多のはやとも乗りましたね。同区間で玄海という名前のときもありました。大垣乗り降りで、博多まで12時間ちょっと要しました。夜行じゃなかったので、景色を堪能できました。
昔草津に住んでいたわたし(このころは生まれていません)…
大阪から出る快速の最終が22:30で、これに乗り遅れたら23:50の普通東京行きまで列車がなかったのですね
まぁ、各駅停車で京都まで行けばワンチャンあったのかもしれませんが、JR化後の一時期は24:20だったことを考えると隔世の感がありますね…
今や見られない貴重な種別行き先もあるな
福知山線の普通列車にディーゼルカーを表す列車番号○○○Dの列車が意外に多いですね。
急行列車に使用する車両と併用していたということなんですかね?
1970年頃、福知山線の蒸気機関車C11牽引する旧型客車に乗った記憶があります。
それから1980年頃の福知山線の普通列車は、ディーゼル機関車DD51が牽引する旧型車両ばかりだったような記憶があります。
この時刻表、大切にされてるんですね。
分割民営化と新幹線の開業の影響もあるのかも知れませんが、今では遠方の行先を見る事は無くなりました。
大阪駅では熊本行や西鹿児島行、大分行、下関行、富山行、魚津行、金沢行、札幌行、青森行など各地の行先が見られたあの頃が懐かしい。
この頃までの神戸駅は優等列車バンバン停車してたんだよな。
大津も草津より急行いっぱい停車してたよな。
この頃もあったんですね5時38分の普通浜田行き。この頃はまだ蒸気機関車だったかもしれません。昭和59年12月に早朝の浜田行きのDD51牽引の旧型客車に乗ったので、もっと昔からあったんだと驚きました。でも翌年には確か3月になくなくなってしまい、大阪発の旧型客車列車が消滅してすごく悲しかったのが思い出されます。
ほぼ24時間営業!ディープな長距離!ビックリです!
注意書きにもありますが、別掲の電車線の通勤電車も合わせると、新快速が無いくらいで今でも通用しそうなダイヤですね。
いそかぜ号はアラフォー世代では山陰のローカル特急というイメージですが、ごく短期間だけ大阪発の九州方面特急として1Dの看板を背負っていた時期があったんですよね
遠方に行くのが特急、じゃなくて急行ばっかりなのが時代を感じる
広島どころか鳥栖行鈍行列車ってどれだけ時間かかるんだろ。姫路より西の山陽本線は今より充実では?特に新幹線駅が近くにないエリア
明日からこのダイヤになったら、沿線に住んでる撮り鉄はきっと鼻血でそうだわ。
乗り鉄も至福で卒倒しそうですね・・・
夢でもいいから見てみたい!
失禁状態でしょう。乗り鉄からすると…
普通に利用する人からすると大幅減便、撮り鉄大増発、乗り心地悪化で発狂しそう
喜ぶのは鉄「だけ」
沿線民からしたらたまったもんじゃねぇ
山陰方面の大社行きが思ったより多い
北陸方面や信州方面が思ったより少ない
学生時代(1974-78年)スキー旅行で京都から急行立山を利用していましたが、糸魚川まで延伸されたのは、1969年だったんですね
直角シートに8時間、今じゃ考えられません
直角シートで背中クッションのない旧客で2時間以上揺られるのも乙なものでしたよw
空いてるから、座席だけで寝れましたしw
天草寝台車‼️☺️新横浜→新大阪乗り換えで
筑豊本線経由で直方まで引っ越し。懐かしい かれこれ半世紀前❗
R指定さん
天草のながれを汲んでいるのが、「あかつき」の佐世保編成の1往復が門司で分割されて、筑豊線経由でした。
@@原田寛-e3u 直方と飯塚に停車するやつですね。
@@YS-cz1ni さん
そうでしたね。
急行天草はヨンサントウダイヤ改正で京都行きに戻っていますが元ももは京都行きだった。なお天草の基本編成は急行阿蘇と共通運用で名古屋客貨車区所属だった。
寝台特急が深夜帯に客扱いをしていたのは、当時の専用車両だった20系に、1等・2等座席💺車が連結されていたからその客扱いをしていたのでは?
何でやねん
九州ブルトレはもうこの頃には殿様あさかぜのナロ20以外寝台車化されてるわ
深夜時間帯にブルートレインが停車しなくなったのは(運転停車のみ)わりと最近で、ヨンナナサンダイヤ改正からです。その前の寝台特急あけぼので運転停車のみの客扱い停車なしでも問題がなかったので、一部の列車を除いて行われた処置です。
新快速が発足するまで外側線快速は全列車は兵庫駅停車だったかな?
普通列車で浜田行とか鳥栖行など、長距離列車がまだまだ健在だった時代ですね。「桜島」と「高千穂」はこの時は単独運転だったんですね。併結のイメージが強い列車だったので、初めて知りました。
同じ行先でも特急と急行で停車駅の数が全然違っていて、特急の格の高さも窺えます。しかも、新大阪〜宇野間の「ゆうなぎ」には食堂車がついているのに、東京〜下関間の「長州」には臨時列車とはいえ食堂車どころかビュッフェすら付いていないという…www
ほか、「夕月」と「かいけ」については聞いたこともない列車でした。
今と違ってのんびりとした、旅情をたっぷり味わえた時代だったんでしょうね。この時刻表を見るだけで、旅行気分を存分に味わうことができました。
「長州」は、当時修学旅行電車だった167系でしたからね。
GingaExpressさん
「夕月」は、新大阪ー宮崎を走っていた、新婚旅行専用急行で、主に一等車編成でした。
@@Dekatama100 さん
修学旅行列車、ということはグリーン車(2等車)すらないということですね。そんな列車を超長距離列車に充当するとは、まさに暴挙ですね…。
@@原田寛-e3u さん
新婚旅行専用列車なんてのがあったんですね。初めて聞きました。
急行列車で1等車メインの編成とは、さすがに豪華ですね。当時の新婚さんにとっては贅沢で、忘れられない思い出になったでしょうね。
@@gingaexpress6539 さん
当時は、新婚旅行のメインだった、宮崎・鹿児島の飛行機✈️の機種がF27フレンドシップやコンベアといった後のYSー11と同じレベルでしたからね。
快速線本数多いな
この時代に20分ヘッドダイヤもどきが出来上がってる
山陽新幹線開業で山陽方面行きの大半の優等列車が廃止となった。山陽新幹線開業をあと15年くらい遅らせて欲しかった。
きつねうどんさん
山陽新幹線を開業したのは
関西ー九州のビジネス需要が先行していたし、福岡以外の空港のジェット機就航が遅かったのもあるしね。
普通列車 京都行き 新大阪、高槻通過って…( ̄ー ̄) 新快速誕生の前にこんな列車あったとは
これらはすべて客車列車です。
加賀温泉駅ってまだなかったんだなぁと。
かわりに動橋(いぶりはし)に特急が止まっていた事実がね^^;
加賀温泉駅は当時「作見駅」の名称で普通のみの停車駅でしたが大聖寺と動橋の特急停車駅争奪戦の
沈静化(妥協)として中間の作見を停車駅として改称しました
昭和45年10月ダイヤ改正から、作見駅が加賀温泉駅になりました。
その翌年に、大聖寺や動橋に発着していた北陸鉄道の山中・山代線が廃止に・・・。
緩行線は別の時刻表なのかな
長距離鈍行に時々電車列車があるけど、使用されていたのは153系辺りだろうか?
山陽方面は80系、京阪神快速絡みは113系です。関西では153系は急行のみでした。
唯一宇野行きの夜行普通列車が153系であとは夕方1往復2使用されていて列車線を走行して西宮停車の須磨通貨だった。
ここに大阪環状線はないけど、大和路線直通はなく、阪和線直通なんて「何それどうやってするの?」状態。
まだ各線ごとの需要増に追われその余裕はありませんでした。
この頃の大和路線…つか関西線は全線非電化だったし(奈良からの直通通勤快速w(当然キハ30系)を見てみたかったようなみたくなかったようなw)
この頃の大阪環状線は101系の天下で他線区への乗り入れは桜島線だけですね
いちおう新幹線は、
開業していますから S42年
普通列車新潟行や新津行・・今じゃとても想像できない行き先。
今じゃ、時間がかかりすぎますからね。
郵便輸送や、荷物輸送の使命もあったから
その新津行きも元は青森行きだったのですからね。1961年10月の白紙改正(サンロクトオ)で短縮されましたからね。さらに、大阪を夜に出て、青森を翌々日の早朝に事実上2泊3日の運行をした普通列車もありましたからね。
東海道新幹線開業後でしたっけ?
東海道新幹線は開業済みです。
@@molenuki7611 39年東京ー新大阪開業ですよね。失礼しました。
その新大阪を通過する列車多いね、「普通・京都行、新大阪通過」って…
情報量が多すぎて見づらいかな
路線を絞った方がいいと思う
というよりなぜ福知山線を間に差し込んだのか、デザインのセンスは問われる
福知山線が少なすぎ、、、、通勤通学には使えない
確か1980年代に電化複線化されたはず。1978年に小学生の私は伊丹まで国鉄で行きたいと言ったら、家族は「えっ」という反応だった。来たのはDD51が引っ張る列車で、ドアが自動扉でなく、ハイヒールのOL風の乗客が止まっていないので扉を開けてホームに飛び降りたのは衝撃だった。
@@junueda1105 さん
宝塚・伊丹は、阪急の利用が多かったからではないでしょうか?
当時の関西国電区間(今のアーバンネットワークエリア)で電化されてたのて、環状線・桜島線と東海道・山陽本線、阪和線、片町線(長尾〜片町間)だけだったし。
昭和50年代後半でさえ複線電化は宝塚まで。以北は完全な汽車。
SL祭り
MやD以外に注目♪
変わるの早い
柳井行き普通列車は80系だろうか?153系だろうか?Mだから電車なのはわかるし。😅
列車線使用の普通列車は各駅停車になる区間がまちまちで面白い。大久保から各駅停車という表示にびっくり(自分は『明石から各駅停車』のイメージが定着しているので。😅)
上島正敬さん
恐らく80系でしょうね、東京口の東海道線に113系が投入され始めた時期では?
@@原田寛-e3u さん、ありがとうございます。
80系でしょうね。当時の柳井は結構広い構内でしたし、保存用の80系がこちらに一時期留置していたみたいで。
ちなみにこのコメントを出して1年近く経ちましたが、少し前に復刻版が出たので立ち読みしました。
朝は岡山行きとして出発、岡山で列車番号変更して大阪へ(この辺は同じ動画の「広島駅」から憶測)帰りはこの列車は岡山で切り離し(グリーン車付いてた。😅)引き続き柳井に向かってました。
おそらく岡山に153系の配置はなかったでしょうし、(80系は1977年位迄姫路迄走っていたみたい)
でも今は本数少なくなったとはいえ、列車線走行の快速(須磨・垂水通過)が日中にも走っていたことに感動を覚えます。
@@上島正敬 さん
そういえば、かつて弁天町にあった「旧交通科学博物館」に、80系の初期の3枚ガラスの先頭車が展示されていましたが、最終配備が「広セキ」(下関運転所)になっていましたね。
山陰まわりの博多行きなんてあるのか
博多「まつかぜ」ならば60-3までありました😉
急行はやとも名古屋~博多760km?これ電車急行だったら歴代1位の距離じゃね?
立直一発さん
当時は、九州の電化区間が博多までだったから使用されていた、471か475系は南福岡電車区の所属だったはずでは?
@@原田寛-e3u
この時点で鹿児島本線は熊本電化ですね。
@@maruhiroya417 さん
詳しい情報をありがとうございます。
定期列車ではそうですが、繁忙期の急行長州が日本一の電車急行になります。南福岡電車区に配置されたのは、475系のみです。なぜならセノハチで勾配抑速ブレーキを使用するためと、この当時は475系もしくは455系しか製造していません。ちなみに473系ばわずか1ユニットのみです。
昔は保線あんまりしてなかったのかな?
GraciosoLindoさん
当時は、列車が通過する合間で保線作業をしていたのでは、いまの民営私鉄のようなものでしょうね。
ここはわかりませんけど、東北本線上野口・高崎線では日中に1時間、列車を設定していない時間があり、そこで保線してました。
そうだったんですね
誰も触れてへんけど
ここに出てくる特急やくもは今の伯備線のやくもとは全く関係ないわな
さんべ、だいせん、おき、やくもの名前がたらい回しやからホンマにややこしいし
ちなみにこの浜田行きやくもの基本編成は白鳥と共通やから
キロ80が2両入ってる
新幹線岡山延伸時にまつかぜに編入
急行おきはヨンサントウダイヤ改正でだいせんを改称するが、46年4月ダイヤ改正で特急おきに格上げされていて、特急やくもの前身になる。
この当時のやくもは白鳥の基本編成とは違います。後にはそうなりますが。
急行第1関門。😁
ヨンサントウダイヤ改正で急行ながとになった。
柳井行き普通列車は80系だろうか?153系だろうか?Mだから電車なのはわかるし。😅
列車線使用の普通列車は各駅停車になる区間がまちまちで面白い。大久保から各駅停車という表示にびっくり(自分は『明石から各駅停車』のイメージが定着しているので。😅)
私も気になります、電車の長距離鈍行。恐らく仰っている80系か153系辺りと思うんですが。
@@buchigirepanda287 さん、ありがとうございます。
あれから広島駅、高松駅を見てもう一度大阪駅を見ました。
自分の推測だと80系だと思いました。
因みにこの電車は岡山で切り離し(もう一度見た時に気付いた)と注意書きがあった、広島から上りを見たけど、該当する電車がなかった。(朝の大阪、京都行き普通は客車でした)
広島からの上り電車は岡山迄しかありませんでした。(自分が見る限り)
ってことは、上りは岡山行きで、番号変えて、増結して走っていたのかな?
それに関係ないけど、現在保存されている80系が柳井に留置されていたことを思うと・・・。
現在の柳井駅からは昔の広大であったであろう、柳井駅構内を想像できないけど。
80系もおそらく6両編成ばかりで4両編成がなかったら、昼間から12両編成ってこと?
まさかね・・・。😅
153系は瀬野八下れないので多分80系。