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山陰本線の、門司発福知山行き824レに、一度乗ったことがあるが、「旅をした!」という充実感と達成感があった。車窓風景もさることながら、旧型客車だったこともいい思い出。車掌さんがいい人で、「ご乗車記念に、車内補充券をさしあげましょう。」と、わざわざ車補を切ってくれたことも、忘れられない。
それそれ、乗ったなぁ…!
「からまつ」取り上げてくれてありがとうございます。釧路発19時00分に(2駅の間ですが)良く乗りました。 これから一晩かけて小樽に行くことに、いつも感心してました。
最長距離普通列車戦時中の34レ鹿児島⇒東京となります(鹿児島本線経由)下りは東京⇒八代31レ東京~門司は5本の指にも入りません鹿児島2100発、41時間25分かけて東京に到着します何よりも通過駅の少なさ南瀬高、西牟田、醒ケ井、柏原、関ケ原、垂井、穂積、木曽川8駅しか通過しません二等や寝台もありません
824列車(門司~福知山)、乗った。懐かしいなあ。あの駅をゆっくりと走り出す、機関車牽引が懐かしい。あと、はやたま号も。
大垣まで2本、定期と臨時運転されていた時代が懐かしい。18きっぷ、周遊券、普通乗車券で乗車したことがない人はいないと思います。様々な客層の人がいる列車はもうないことに一抹の寂しさを感じます。
京都から博多を結んでいた「ムーンライト九州」は長距離の快速神列車だった。岡山を出ると、厚狭までノンストップ。
小倉まで出かけるのに張り切って京都駅でお昼から席取り(いけませんね)していたがバチが当たって取れた席のリクライニングが壊れていた…まあどちらにしてもドキドキで寝られやしなかったろうけど…下関での機関車付け替えもしっかり見れたしね!
客扱いしていないだけで機関車牽引列車は主要駅で機関士が交代していた民営化後は境界駅での交代も生じた
日が明けて、車内アナウンスで「まもなくアサです」と聞いた時、「朝?」とこの列車はモーニングコール的なことをやるんだと、勘違い、駅について納得したのを思い出しました。
一時期、展望車が連結されていたため、夜景鑑賞することができた。糸崎で運転停車した時、「ここはどこ?」と一瞬パニックになったことがある。
朝に厚狭に着くってな
寝台車連結されていたのは「からまつ」だけではなく…■南紀→はやたま:天王寺~名古屋(紀勢線経由・寝台車は天王寺~新宮)■山陰:京都~出雲市(山陰本線経由)■ながさき:門司港~長崎(佐世保・大村・旧線経由)上記が運行昭和39年4月時点では■門司港~西鹿児島(日豊本線経由):2等寝台 昭和47年のダイヤ改正で「急行みやざき」に格上げ■大阪~浜田・大社(福知山線経由):1等寝台B連結 昭和39年10月のダイヤ改正で「急行しまね」に格上げ■小樽~釧路:2等寝台・1等車連結 後の「からまつ」■門司港~長崎(佐世保・大村線経由):2等寝台連結 後の「ながさき」寝台車連結の普通列車は4列車。「山陰」に関しては結構複雑で、京都~下関(山陰本線経由)の京都~出雲市が夜行部分の普通列車と京都~門司(山陰本線経由)の江津~門司が夜行になる普通列車があり、前者は上記の出雲市行が急行に格上げした時に時間調整をし「しまね」に連絡できるような普通列車になるが、この時点で寝台車は連結されず、後者は40年10月に米子~博多「急行しまね」に格上げ(昭和39年に格上げになった「しまね」は「おき」に改称)昭和43年10月のダイヤ改正で残った普通列車は京都~出雲市になって、この時にB寝台車連結され、後の山陰になっていきます「南紀」→「はやたま」もこの昭和39年時点では往路は天王寺発は1等車連結の客車列車の名古屋行き、復路は新宮始発の1等車連結の気動車と全く別物になっていました、往復とも客車になって寝台車連結されたのは昭和43年10月改正です
1968年に東京〜大垣間の普通列車が廃止される予定だったとき、存続を主張したのが、当時旅客局課長だったのちのJR東海社長の須田寛氏だったそうです。須田さんの大英断のおかげで平成の世まで存続したんですね。
人民列車と呼ばれ今は長距離夜行バスに代わられたね。1週間使える周遊券が定番、大垣を出て暫く普通各駅停車だが途中から快速になって早朝東京につく。座面が外せるのでベッド代わりに重宝した、なお夏場は冷房無し車両を選ばないと寒くて寝られない、懐かしい。
須田寛さんは「青春18きっぷ」を考案された方でもありますね。
平成初期には大垣夜行、大垣発網干行と岡山発下関行の3本の長距離普通を組み合わせて福岡まで行く人が一定数いました。途中で適度な休憩を挟むことができましたし青春18ユーザーに重宝されたと思います。
そのもう少し前になると、大垣夜行で小田原発が00:05発、そのまま乗り継ぐと、熊本に23:59着でした。その後、九州内を2~3日分使って周遊したものです。当時のルールでは「時刻表上のダイヤで」カウントするので、遅延して日付を跨ぐことになってしまっても、確実にw熊本まで行けました。大垣夜行がなくなった現在、東京の始発に乗ると新下関まで行けるか微妙みたいですね。山陰地方に目を向けると、なんとか出雲大社までは行けるみたいですが…。(京都から山陰線に入って。)
国鉄時代は長距離普通列車が数多くあったがその中でも東京~門司間や大阪~青森間のような1000キロを超える普通列車は想像を絶するほどすごいですね。
戦中戦後ならば「2泊3日」もいくつか事例がありましたからねえ…1942年11月から1943年10月までの鹿児島発東京行きが最長記録のハズ所要時間41時間25分
私は数年前から鉄道グッズの店で1970~1990年代の時刻表を、また一昨年あたりからおもに大手書店で販売されている復刻時刻表を購入して暇な時に読むことがありますが、1964年の時刻表には八代発大阪行き(700km台)というのがありました。偶然にも父が八代の出身で、帰省からの戻りで利用したかもしれないので機会があれば聞いてみようかと思います。
道民なので、北海道東日本フリーパスを利用して本州に行った時に、帰りの「はまなす」からの滝川まで普通列車に乗り、滝川から2429Dに乗って釧路まで行ったのは(辛かったが)いい思い出でした。夏の暑い日で冷房の無いキハ40で、帯広の停車時間が30分位あって窓を開けても熱風しか入って来ず、溶けそうになったらのは覚えてます。駅で豚丼買って車内で食べたけど、汗をダラダラ流してました。
国有時代は郵便小荷物輸送をしていたからソチラがメインで旅客はついでだった。だから旅客需要を無視した客車列車が多数存在していた。高速道路網整備が本格化したのが1970年代末〜1990年代初頭なので、民営化を見越したダイヤ改正になるまで郵便小荷物輸送を兼ねた長距離客レが残存していた。伝説になっている824レや荷41レが最たるもの。
昔、飲んで東海道線を使ってた人が大垣行きに乗ったのだけど寝ちゃって大垣迄行ってしまい、翌日「今日は休む」て連絡がありましたね。以降、酔っ払ってるときは、長距離普通は止めようって事になったみたい。それから、70年代に東北線で早朝に上野から郡山行きの鈍行が走っていて、ちょうど通学時間にその列車?が来るのだけど、客車が二つドアの全部ボックス席で通路も狭かったので、中に入ると乗り換えが大変だから入口で固まるので、中はスカスカで入口周辺が大混雑でした。友達がその列車で忘れ物して、問い合わせたら郡山にあるとかで、諦めたって言ってました。
昔あった上野発長岡行きの夜行で寝過ごして、長岡まで行ってしまった話を聞いたこともありました。
寝過ごしといえば急行「能登」も有名ですね.ゴールデンウイークに上野から乗って奇跡的に座れたものの,立ってる人で死ぬほど混雑してました.このときは北陸に旅行したので寝過ごしではないですが,朝起きたらガラガラになっていてちょっとびっくりしました.
大垣夜行は165系時代、373系のムーライトながら時代ともに乗りました長距離運行の普通列車と言えば子供のころに運行していた阪和線、紀勢本線を全通して天王寺-名古屋間を結んだ「はやたま」と、京都-出雲市間を結んだ「山陰」が印象的深いですね壮行距離的には1000キロ超えるというわけではありませんが、動画中でも紹介された「からまつ」同様、寝台車付きの普通列車ということで子供心に乗りたかった列車でしたリクエストで恐縮なのですが、キハ58の活躍と歴史の特集動画または「しらゆき」「出羽」のような架線下DC急行の歴史的背景を動画で解説していただけると嬉しいです今後とも興味深く、わかりやすい鉄道動画を期待しております
当時の国鉄は国民の福祉と移動の自由から低価格な長距離普通列車を走らせていたけど、1975年頃になると旅客の特急志向等出てきて運賃も上がっていきましたよね、農家の出稼ぎの人たちがモンペ着て普通列車に乗り込むと通路の床に新聞敷いて寝てましたからね。前日の夜間に出発すると朝に上野、そんな時代も遠い過去。当時子供で驚いた思い出。
国鉄時代の長距離普通列車の主力は機関車牽引の客車列車だったが、旧型客車の老朽化そして合理化で電車やディーゼルカーへの置き換え、国鉄末期から地方路線の普通列車の短編成短距離高頻度運転ダイヤに変更されて更にJR化後はワンマン運転区間の拡大も普通列車短距離化ですね。
JR化前に民営化されても会社を跨ぐ列車は廃止しません的なポスター貼ってあったけど、大嘘でした
@@sunami808 嘘もへったくれもね~だろ!JTB時刻表1999年7月号には東京~静岡の普通列車が何本も載ってるぞ!そりゃJR化から30年以上経てば変わって当たり前!単に東京~静岡を普通列車で行く客がほぼほぼいないだけ。いても18きっぱー😵
大垣夜行は我々学生のために合ったような列車でした。特に夏休みには乗り切れないため大垣夜行の臨時続行便に113系の応援もありました。またその他乗ったことがある鈍行では上野発長岡の115系、上野から田舎の大石田まで青森行夜行鈍行、門司港から長崎までながさき号B寝台にも乗ったことがあります。懐かしい!
大垣夜行は35年ほど前までは345M、340Mだった。青春18シーズンに発車の3時間ほど前に東京駅10番線ホームに行くとすでに100人ぐらいは待っていた(笑)
貧乏人だらけの人民列車
今あったら愛用してるな。夜行バス4列より楽だもん。
旭川6時台発・函館20時台着122列車ED76(DD51)+旧型客車函館23時台発・札幌6時台着41列車(客扱いもする夜行荷物列車)DD51+旧型客車と荷物車と郵便車旭川6時台発・稚内12時台着321列車DE15+オハフ51(1両のみw)自分が全区間乗った事がある長距離普通列車です。
愛知北部民です。東京発浜松行111系非冷房車編成が懐かしい。
1942年に関門海峡が開通した時に、東京→八代と鹿児島→東京が設定されました。これが歴代最長の普通列車と思います。(この時同時に東京〜長崎の普通列車も設定されました。しかし戦局の悪化に伴って、1944年頃には廃止されました。又これ以外にも明治44年頃〜大正4年頃には、東京〜泊や直江津を東海道本線・北陸本線経由で結んだ普通列車や上野〜明石を信越本線・北陸本線経由で結んだ普通列車が設定されていました。1940年頃には、上野〜川西池田を信越本線・北陸本線で結んだ普通列車や大阪→三次・広島→大阪を芸備線・姫新線経由で結んだ普通列車がありました。又1950年代には、糸魚川〜掛川や静岡まで行く普通列車も設定されていました。)
大垣夜行のグリーン車に乗れたのは、いい思い出。165系の匂い(笑)が好きだった
所要時間だけで言えば、現在なら飯田線の豊橋〜岡谷や上諏訪間の約7時間がすごいと思ってたましたが、1日以上かかる列車があったんですね!😮
70年代は常磐線にも普通に仙台行きが複数走っていました旧客でした。東海道線は電車になっても静岡行き浜松行きが結構ありました。
長距離列車とか夜行列車とか臨時列車って独特の雰囲気あるよね。
敦賀発播州赤穂行新快速は、敦賀からの車両は姫路までで、播州赤穂まで行くのは米原で増結される車両なので、全区間通しで乗る場合には、米原〜姫路のどこかで車両を乗り移る必要があります。増解結部分には貫通路がないため、乗り移りは停車駅で一度ホームに出る必要があります。
熱海と黒磯を結ぶ列車でもかなり長いなと思っていましたが、それ以上の長距離列車がいくつも出てきて驚きました。今では想像が付かない旅が当時は楽しめたでしょうね
青春18旅行で熱海から高崎行き・宇都宮行きの列車(またはその逆)に終着まで乗り通すことがあります。グリーン車を利用することが多いのですが、最近はお尻や腰が疲れるようになり、熱海駅前の温泉で下半身をほぐすこともあります。歳かな😅
松本零士先生が111・112列車に乗って上京したという。まさに銀河鉄道999のモデルだな
この時座席の向かいに座っていた女性がメーテルのヒントになったと聞いたことがあります。
長距離を走る普通列車の乗り通しはやりたくなる。
言わずと知れた922列車(敦賀16:31~19:52綾部20:10~22:14京都)の乗り通しをやりたかっただけに結局実走シーンを見ただけにとどまって実現せずじまい。残念!
私の仕事上のお客様が現役時代に、釧路までの出張がある時には小樽からこのからまつ号の寝台列車を利用していたと言っていました。寝台と言っても粗末なベットだったよと言っていましたが、今にして思えば、旅情あふれる魅力的な列車だと思います。子供の頃小樽駅のホームで見た事がありますが、普通列車でも長い編成でで寝台車もある為、子供心にもとても風格を感じたのを思い出します。
生鮮品や精密機器の輸送に、大量に速く運べてトラックより揺れが少ない新幹線が注目されているというニュースを最近見かけました。今後、鉄道の荷物輸送が見直されるかもしれませんね。
国鉄時代に肝入りで一等地に整備した貨物ヤードは手放しました。回帰したくても出来ません。現在想定しているのは発泡スチロールケースに梱包された生鮮食料品を駅ナカ店舗へ少量輸送する程度。
次はきたぐに、ちくま、など電車夜行急行など取り上げて欲しいです。
今回上げられませんでしたが、紀勢本線の通称「大公望列車」も印象的でした。寝台車もあった時期もありましたね。その寝台車に乗ったことはありますが、程なくして寝台車廃止、区間短縮を得て消えちゃいましたが。。。
「はやたま」乗車経験は羨ましい
@@b-verstheartist6051特急料金はかかりますけどMT54(D)のサウンドと共に国鉄型の味わいが楽しめる今のうちにぜひその趣を。
「はやたま」廃止後の新宮発天王寺行き夜行の乗車経験はあります。亀山から50系客車で日中を延々と移動した後の冷房付き12系客車でしたので快適でした。
2Fセンセイが道路整備するまでは鉄道は夜釣りに便利だった釣り目的で最後に乗ったのは165系時代クーラーボックスをオットマン替わりにして空いたワンボックスを占有贅沢な時代今や紀勢本線は電化区間ですら存廃議論
今じゃ京橋発御坊行の紀州路快速だしなw>はやたま
1990年代に東京駅の新幹線ホームの増設工事が行われていた時期、繁忙期下りの大垣夜行は混雑対策のため、品川駅始発でした。乗車前は品川駅の臨時ホームに並んでいました。
1970年ころ,周遊券(例えば,北海道周遊券)を利用すると,急行まで乗れたので学生としては良く利用していました(例,2週間の間に宿に泊まったのは3日,あとは夜行列車で車中泊)。大垣夜行も,急行が運行されていない時間に何回か利用した記憶がありますが,普通列車の寝台は京都-鳥取で利用した記憶があります(切符が残っています)。なお,ボックス席の夜間利用時は,床に新聞紙を敷いて寝たり(自分も記憶あり),つわものは網棚で寝ていたのを見たことがあります。追記,当時は各駅に小荷物(チッキ)の取り扱いがありました。
トラックはブラック労働すぎて働く人も減り、荷物輸送は崩壊し始めてますから、過疎化で客がいないと嘆く鉄道の出番ですね。貨客混合列車はアリやと思います。
大垣夜行からそのまま乗り継ぎ、門司からまた夜行普通列車「ながさき」に乗り継いで翌朝長崎まで、行くということをしたことがあります。あの頃は若かった。
ながさき、乗りましたねぇ。それほど長い距離でないのに夜行だったのはありがたかった。
「ながさき」ありましたね。昔は夜行の普通列車多くて、時刻表見ては夢ふくらませてました。
ちなみに帰りは山陰本線経由で出雲市から「山陰」に乗りました。
長崎に着く頃には悟りが開けてそう・・・
私もそれやった。ちなみに、大垣夜行→下り「ながさき」→上り「ながさき」→下り土讃夜行→上り土讃夜行→上り「はやたま」😁
懐かしいな、15才の頃に18キップで駅のベンチで寝る旅にて、原ノ町ー青森、函館ー札幌、滝川ー釧路の旧型客車が一番の思い出。夏は暑いし、長かった〰️1985年夏、50系客車で旭川から網走の列車が遠軽で1時間20分の大停車してました。
長距離普通列車が走っていた時代は、深夜でもホームで立売がいたり、駅そばが営業していたりして、今のようにコンビニがなくても、食料が確保できたりした。【ムーンライトながら】になった頃もまだ深夜の「静岡」駅で駅弁売っていたような気がするが、記憶違いかな?
あったらしい。静岡の駅弁は幕の内だけだったが、ホカホカだったらしい。まさに、大垣夜行の為「だけ」の調製。また、829レ「山陰」。福知山の待合室にはキオスクが営業していた上、駅弁も販売だが何とリヤカーで運んでいた。上野発(22:07)→長岡行き(04:45着)733M列車。高崎で40分停車中に急行「天の川」を退避するが、駅麺屋が営業していた、との事。
大垣夜行利用した時に、弁当を買いましたよ。ただその時ボックスシートで出逢った子が買えなかったから、あげちゃって自分はロング缶のビールで我慢したのは良い想い出(笑)
大垣夜行、ながらからの接続で高山線美濃太田で幕ノ内を売っていたの思い出しますね。
最初の頃はスタンプでなく1日券4枚と2日間1枚と記憶しています。
京都から出雲市の山陰も懐かしい。一両だけB寝台をつないでた。
そういった流れなのか、「ムーンライト八重垣」にはBネ1両連結されてたが、ほどなくしてハズされた。→青春18切符は使えず、別途乗車券が必要の為トラブルが絶えなかったらしく、普通座席のみになりましたとさ。
確か「ながさき」にも寝台がありましたね。乗客と乗務員のトラブルは大垣夜行のグリーン車に乗った時に毎回のように見かけて、またやっとるわ、アンポンタンが…と思ったものです。
1984年、京都ー出雲市の普通夜行寝台の「山陰」とか最終の頃が懐かしいです。
@@Yoshin-Sashizume さま。夜行列車内の乗務員トラブルてな事で今更ながら思い出したのですが、大垣夜行がムーンライト化した後なんぢゃが、臨時便の91号に乗車中、横浜あたりから乗り込んだ乗客、乗り間違いをしたらしい。ぶっちゃけた話、毎日運転であった「ながら」号に乗るべきところ、臨時便に乗ってしまったらしい。また、乗車券が必要にもかかわらず、icカード乗車もいたようであります。夜行の事とて早々に寝入ってしまったので、どういった顛末になったか不明ですが、前者の件については、とりあえず開いている席に案内し、浜松だか豊橋あたりで「本家」へ乗り継がせたか?別途指定席料金を取ったかは不明。後者については、東京駅からの運賃を徴収した、と思われます。→同様の件に関しては、鉄道ジャーナル社「旅と鉄道」(号数失念)に記されておりました。
一度乗りましたね。懐かしい。
青森→上野行きが廃止になった前後、NHKでは特番を組みました(歳がバレる・・(^_^;)。青森で商品を仕入れて、上野(東京)で売るオバチャンが、泣く泣く急行券(八甲田だったと思う)を買わされているのは、さすがに涙した。。。。
書き忘れ。大垣夜行は何度か乗りました。ムーライトながらの名前が付く前。大垣駅に1時間以上前に着き、グリーン券を先に確保。その時のグリーン券や周遊券を残しています。帰りは普通を乗り継いで京都まで。乗り継いで帰るのもたのしかったです。
大垣夜行に高校生の時に、1回だけ乗った事があるですね豊橋から東京までですが、つくば万博に行く為に春休みの時に、乗ったですね。乗客の何割かが、万博に行くためみたいでしたね。東京駅に着いても、また普通列車で移動で…流石に帰りは、東京からは新幹線でしたけど(豊橋に止まる最終列車で)万博会場で新幹線とかの列車の検索?みたいの機械があって、何時まで会場にいれるか調べて本来ならば、弟と横浜の友達と一緒に行くはずだったけど、行く当日に2人が都合が悪くなって一人でに(私は、その日以外だと部活動の都合で無理になるから仕方なく)まあ、母親が横浜に墓参りに行くのと同じ日にしてたので、大垣夜行に乗っている時はトイレにも行けたけども
大垣夜行の静岡の駅弁争奪戦は懐かしい。
参考で出した敦賀発播州赤穂行きの新快速ですが、敦賀発車の場面では4両で行き、米原で前に8両繋げて12両で姫路まで行き、姫路で敦賀から来た4両を切り離し、姫路から先播州赤穂まで行くのは米原で繋げた8両が行きます。
115系全盛時代の山陽本線にも似たような普通列車が在りました。115系4連(広島車)で広島を早朝にして糸崎で115系4連(岡山車)を増結。岡山で広島発の4連を切り離して終点の姫路へと向かっていました。広島車と岡山車の間は貫通幌を繋いでいなかったので、糸崎で一旦ホームに降りて車輌を移動した記憶があります。
20年くらいまであった上野を18時頃にで出る原町行とか熱海を8時頃出る米原行きとか 1日数本あった岡山発下関行きとか
1976年 京都駅5時19分発山陰線浜田行きで松江まで行きましたが、5時19分発車1分前の5時18分に「山陰」と、言う列車名の普通寝台列車が下関から到着しました。その他九州では、門司発日豊本線西鹿児島行き普通とか、門司発長崎佐世保行きのふつあなんかもあったようですな?
165系時代の夜行東京行きをよく利用していた、新橋2分ちょいダッシュで山手線か京浜東北線に乗り換えて上野まで行けば各線の一番電車に乗ることが出来た。
今でも高尾〜長野の普通列車が残ってるのに昔はもっと長い普通列車があったのか…
戦前なら上野発長野経由新潟行きがあったのは宮脇俊三の著作に出てきます
わりと最近まで立川〜松本でしたね。
宗谷本線の旭川ー稚内(全線完走)普通ってなかったっけ?
@@月見草-y1y あることはあるが、列車番号が途中で2回変わる(なお走行距離は高尾発長野行の方が長かった覚え)
国鉄時代には新宿〜長野間を運行する普通列車も下り2本・上り3本在りましたよ。しかもそのうちの1往復は夜行(笑)
トラック輸送自体が将来形を変えた結果、再び長距離普通列車が生まれる可能性も
ソレをさせないための分割民営化なので
ある訳がない!乗るのは乗り鉄だけ!
大垣夜行は、貨物郵便車を併結していました。急行東海と共通運用されていて、ムーンライトながらは、特急東海と共通運用されていました。取り上げるなら、『山陰』『長崎』『はやたま』や名前の無い列車なら、東北本線や常磐線、奥羽本線、羽越本線、北陸本線などにも、長距離普通列車が、走っていましたね!?
『山陰』『長崎』『はやたま』にも触れてほしいですね。各駅停車なのに名前がある!(寝台車をつないでるからでしたか?)
@@potasy 全部、乗りました!?旧型客車に、旧型の10系寝台車。のんびり走る夜行列車で、便利でした。寝台車には、乗らなかったけど、面白かったですね!?『はやたま』には、何度か乗りました。新宮駅まで寝台車を併結して、新宮駅から座席車のみで運転されていました。名古屋駅から、亀山駅〜新宮駅に、短縮されましたが、紀伊半島一周には外せない列車でした!?
確かにありました。奥羽本線 横手発福島行きなど、今は言うまでもなく、山形新幹線のからみで新庄までですが・・😅
大垣夜行、実は名古屋で快速に乗り換えると大垣ダッシュをしなくて済むし、若干早く米原に着く6:00ジャストに名古屋駅到着だった頃に、里帰りでよく使いましたw「からまつ」は、宮脇俊三さんの「最長片道切符の旅」で、スタート地点の広尾に向かうのに使われてました
え〜そおなんでしたたけ…猛ダッシュして損した気分です でもそれもまた楽し です!
私は、岡崎で降りて駅前のコンビニで朝食を調達し、岡崎始発の117系普通列車で朝食を取り、米原まで寝て行きました。名古屋で近鉄特急に乗り換えて大阪へ向かうこともありました。とにかく大垣マラソンはしたくなかったので(笑)。
私が乗った国鉄末期~JR初期は大垣から113系7連だったのでダッシュしなくても全然座れた😁
時刻表片手に旅してましたがムーンライトながらの方が断然早いのでそんな裏技調べようとは思いつきませんでした😅
@@DMH17-x5y今でも朝に岡崎発米原行きの電車ってありますよね?普段は浜松から一番電車に乗っても追いつけないのですが、稀に追いつく時があってその時はダッシュで乗り換えた憶えがあります。
あと「山陰」と言う普通寝台車付列車もあったのを覚えている。
乗りたかったわ。
乗ったわ。18きっぱーだからB寝台じゃないけど…😁
山陰・北近畿エリアの国鉄線乗りつぶしに重宝したな>山陰
1990年高校2年生の夏に、本家の福井に行くのに、0時1分頃発の新宿〜上諏訪の普通列車に乗りました。5時頃に上諏訪に到着後、上諏訪〜松本〜南小谷〜糸魚川〜金沢〜福井と乗り継いで福井に16時頃に着きました。(途中、金沢で3時間程観光)朝の大糸線の景色は最高でした😂良い想い出です✨
「大垣夜行」は、1982〜1996年3月ダイヤ改正前までは、JR東海の165系急行形電車のグリーン車のサロ165形の2両を含む11両編成で、運転されていた。(東京〜静岡の急行東海と共通運用されていたね⁉️💕︎笑)
青春18きっぷが始まる前はグリーン車から先に埋まって行きましたね。
その当時春休みの繁忙期、上りに京阪神ミニ周遊券使ってグリーン車に乗ったけど、知らずに18きっぷでグリーン券買ってグリーン車に並んで検札で追い出されている人多発してたなぁ。当時は18きっぷでグリーン車乗れなかったし。(グリーン券に通行税がかかっていた時代w)ただ、グリーン車でもまともに寝れず翌日辛すぎて二度と乗らないって心に誓ったw
373系になっても165系時代と同じ運用形態でしたね。上り「ながら」の折返し普通静岡行が乗り得列車でした!
臨時になってからは167系アコモ車(リクライニングシート装備)183系、113系グリーン車付き(グリーン車は指定席)というのもあった。
山陰本線の824列車は1970年代後半、鉄道雑誌や書籍に多数紹介されました。宮脇俊三氏のエッセイ集は現在でも入手できるのかも。
宮脇俊三先生の著書「旅の終わりは個室寝台車」に824列車が登場してますね。
北海道に住んでいた頃、からまつに乗ったことがあります。
1950年代の蒸気機関車がまだまだ現役の頃に24時間以上走り続ける各停の客車列車って今からは想像もつかないですね。夜勤担当の機関士と機関助士、どんだけきつかったんだろう…
東海道、夜移動なら大垣夜行、朝昼移動なら米原7時58発→熱海13時46分着の普通列車。どちらもよく利用しました。そして熱海からは2階建て快速アクティー。
山陰本線沿線住民ですが、昔は京都行きとか門司行き、東舞鶴行き(岸壁の母時代の名残かな?)なんかが走っていましたけど本数少なくて不便でした。いろいろな要素を天秤にかけて今の短い普通列車になったんですね。京都行きの夜行列車も山陰号と名付けられていました。
その浜田発東舞鶴行き544列車。綾部で牽引機材を交代させるという変わった運用で、敦賀から小浜・舞鶴・山陰線経由京都行き922列車(綾部で1回進行方向が変わるだけ)を牽引してきたDE10が長時間停車中に544列車の牽引に回り、544列車を永らく牽引してきたDD51は引き続き922列車の牽引に回り、最終的に京都には22時14分に到着するという、いかにもカオスな運用でした。
@@rhscm989 様そういうわけのわからない運用でしたんですね。子供ながら謎でした。
大垣夜行は特に165系時代、急行「東海」と共通運用だったから、編成が同じでしたね。だから大垣夜行のグリーン車は人気だったけど、同じ車両ながら急行「東海」だと料金が爆上げするので、ボッタクリ感が否めなかったなw補足すると、大垣夜行が東京~大垣に短縮されたころは名古屋~大阪の急行「比叡」がなかったか。だから名古屋で乗り継げて、安価で東海道本線を走破できたはず。名古屋から大阪への出張にも便利で、まだ繊維産業が元気だった時代は、名古屋圏の中小の繊維企業などが大阪の取引先へ出張する際、経費と時間の両面を天秤にかけた結果、新幹線や近鉄特急ではなく、急行「比叡」利用を推奨していたという話をよく聞いたよ。まぁ、繊維産業の衰退とともに急行「比叡」も廃止された感じがする。
急行「東海」って確か晩年期は2往復で、3・2号は普通車9〜12号車を抜いた『8両』、大垣夜行間合いの1・4号は『12両』でしたね。旧国鉄時代の頃には、東海4号の間合いで、浜松→静岡の普通列車に乗車した事が有ります。その時は忘れてならない販売車『サハ164』が連結してましたからね。
門司発福知山行き824レは有名ではあるけど、さらに昔をさかのぼると、動画にも一部出ていますが、上野発青森行き、大阪発青森行き(一時期2泊3日の列車も存在)、東京発門司行き、京都発鹿児島行き、函館発山線経由釧路行きなどがありました。真の最長普通列車は、関門トンネルができた直後は鹿児島発東京行き34レがありました。こちらは戦後にはなくなっていました。
今JR神戸線沿線に住んでるけど、夕方になると姫路駅には岡山行き、福山行き、三原行きと関西エリアでは見かけないような電車(黄色の115系)と共に姿を現すようになるんよね。そういうのを見ると無性に旅行(それも18きっぷで行く格安小旅行)に行きたくなる。
『山陰』、『はやたま』はよく乗りました。大垣夜行は345M時代はよく乗りました。あとは長野夜行とか。話にあった福知山行きの普通列車は『山陰』に乗っていて交換した時に写真撮ったなぁ。
昔長距離の普通列車があったなんて驚きです。
ムーンライトながらより大垣夜行派です。東京駅のホームに新聞紙を敷いて何時間も待ち、急行型車両のボックスシートで出逢った方達と色々話をしたり。。。何度も何度も利用して貧乏旅行をしたのは若い頃の素晴らしい思い出です。ムーンライト時代になってから大垣夜行時代の良さが無くなったのが需要低下に繋がったと思います。何しろ指定券が手に入らないし、車内は殺伐として、ボックスシートじゃないからただひたすら乗ってるだけ。本当につまらなくなりました。
わかる。僕は大阪から新幹線で名古屋へ行って名古屋からデッキに新聞紙引いて座るパターンだった。373系のムーンライトも乗ったけどアレなら高速バスの方が安くて快適。
MT54モーターが眠りを誘う音でしたね。
隣り合う2席分の指定席券を購入して1人で独占する輩、大量に指定席券を買って転売する輩も問題視されましたね。
大垣行きは大垣到着後に陸橋渡って乗り換えダッシュがあるのでちゃんと睡眠取って体力温存しとかないと大垣から先また寝ようとしても席がないぞ!あと静岡で買った駅弁のわさび漬けにハマってそれまで食べず嫌いだったのが大好きになってしまった!懐かしい…
静岡駅・東海軒の『幕の内弁当』にハマったそうですが(あのワサビ漬けは私も大好きです!)、大垣夜行でこの弁当が買えた深夜、需要はあったと察します。なお『ムーンライトながら』になった時は、深夜販売を撤退したそうですよ。
@@松本政行-x2f そうですか残念だな…
1986年3月3日の国鉄全国ダイヤ改正から付属編成4両の一部にステンレス製車体の415系1500番台が連結を開始しました。鋼鉄製車体の401・403系の老朽取替用としてステンレス製車体の415夜1500番台が常磐線・水戸線系統に導入されて来ました。
なんの話やw
あと、昔はSLが牽引する客車列車だったから、一度火を入れたSLをなるべく長く走らせたいなどの理由もあったんじゃないかなー、方向転換も大変だし
逆!SL時代は、特に水の関係で要所要所で機関車交換してた。電化したら東京~下関が機関車無交換!😋
まあ、最初の東北特急はつかりは、上野を出て、平で、給水。仙台で機関車付け替えしていましたね。
1990年に16時42分発「長岡発、高崎行き」の165系電車乗ったなぁ。上越線のループ線をかぶりつきで見たいから乗りました。走行距離はたぶん180kmくらいかな?懐かしいです。
大垣夜行は終電の様なあつかいで、結構混雑していたようです。ほぼ立ち席だったようですよ。窓から乗り降りしていたことがあったそうな。シーズン中は。
ド平日に大垣夜行を横浜から乗ったらスーツの人だらけでメチャ混みだったなぁ。小田原あたりでボックス占領出来たけど(笑)
@@續賢治 👔さんいたの?😋
つい最近では、JR根室本線を走る滝川~釧路間の普通列車もありましたね。
ソレも同線が災害→不通で分断。ゆくゆくは不通区間廃止で物理的分断に…健さんの「鉄道員」の舞台だった幾寅も廃駅に…
滝川を朝の5時台でしたね。なんと楽々終点釧路の観光可能と言うすごい普通列車。残念なから災害工事放棄で富良野←→新得がそのまま廃止が決定。あの鉄道員の幌舞(幾寅)も廃止に。留萌線の増毛、恵比島(あしもい)に続いてで残念です。かなり前には上砂川(悲別)の廃止もありました。
訂正・恵比島(あしもい)→恵比島(明日萌)です。朝ドラすずらんにあやかり明日萌観光バスなんて言う観光バス会社も。今も経営会社としてあるのかなあ。
まぁ普通列車は都市圏輸送に重きを置いて短編成でも良いから本数走らせるようにしないと地方じゃ車に勝てるわけ無いんよね。長距離大編成で本数少ないんじゃ往復ともに時間が合う人しか使わない。大阪局なんかはライバル私鉄がいたから早い段階で切り替わっていたけど、国鉄全体としてはそのことに気が付くのが遅すぎた。
ムーライトながらが373系を使っていた時に折り返し静岡行きの普通列車の時はよく使ったなぁ
30年位前に大阪→新宮まで走ってた普通列車(夜行)に乗って新宮まで乗り鉄した事があります。夜行なので酔っぱらいに絡まれたのが懐かしい😊和歌山に入ると車内はガラガラで釣り客と自分だけになりましな😅
50年近く前の高校生の頃、門司-福知山に乗りました。その後、米原まで出て、この動画では触れられていない米原-長岡に乗車。でも朝寝坊して米原に間に合わず、しかたなく、開館したばかりの梅小路で1日つぶして米原泊。楽しかったなぁ。でも飽きた。。(笑)
京都を早朝に出発した益田行き(後に浜田行き)の客車列車がありましたね。子供の頃、親戚の家に行く時に利用したりしました。
からまつ号は、シンガーソングライターの松山千春さんがまだ足寄の実家に住んでいた頃、仕事で札幌に行くときに利用していたそうです。
松山千春さんが札幌から足寄の実家に帰る時に、からまつ号と池北線を利用した動画がRUclipsにありますよruclips.net/video/zF-iy9gPOSs/видео.html
確かSTVラジオの「アタックヤング」のパーソナリティをされていた頃ですね。
大阪ー出雲市間に寝台車付き普通列車がありますね。「山陰」
昔、青春18のびのびきっぷで手荷物別送で旅をした事があります。1~2日前に荷物を最寄り駅に持って行き発送すると、きっぷに〇手のハンコが押され別に手荷物切符を渡されます。目的地の駅の荷物窓口で手荷物切符と引き換えに荷物を受け取ったものです。なつかしいなあ・・・!!
昭和40年前後の小学生のころの記憶(京都在住)ですが、山陰線下り始発は浜田行、夜十時過ぎは下関行だったと思います。大阪から来た列車の後ろ2両を切り離して下関行に連結していました。お昼過ぎには京都発鳥栖行もEF58牽引だった記憶があります。北陸本線には長岡発米原行があり全区間乗車しました。金沢過ぎたあたりで米原行の電車に抜かれますが、その電車が3時間早く米原に着きますがそのまま乗車していました。田村でELからSLへの付け替えも見ごたえありました。
一度乗ってみたい長距離鈍行は、飯田線の豊橋〜下諏訪行のですね!夜行列車の空気を味わいたいです。
大垣夜行は一度だけ乗ったことがあります。二人掛けの席に横になって寝てしまいました。😅普通列車ではありませんが、浜松~姫路間を走る新快速がありましたよね? これもかなりの長距離列車だなとの印象があります。
”大垣夜行”…大阪に住んでいた頃、何度も利用したな…当時は既に夜間高速バスも走っていたけれどバス特有の揺れが苦手で、熟睡出来なくても165系のボックスシートの方が安心できたっけ…今では地元の長野行き441M列車も長距離普通列車としてはいい線いってるんじゃないのかな?
昔中学校の修学旅行の帰りに、東京発23時30分の普通列車に米原まで乗った思い出があります。行きは、修学旅行専用のきぼう号に乗り沼津まで行きました。新幹線はもう開通していたけれど当時は、新幹線には、乗れなかった。
確かに定期列車では東京⇔門司の列車かも知れませんが、終戦直後に東京⇔早岐とか東京⇔南風原を走った普通列車がありました。復員列車の関係列車で東京22時発早岐13時着。意外と速いと早合点してはいけません。何と2晩走ってあさっての到着、らしいです。宮脇俊三氏の本に書いてありました。
多分理解してないと思うんだよまず列車というのは普通列車から始まってそこから急行や特急が派生したということをね
40年ほど前には、旭川発網走行きの普通列車(客車)があって、遠軽には1時間以上停車するのもありました。
あとは旭川駅発6時30分前後発函館行の普通列車を覚えて覚えています。
青春18きっぷを使って大垣夜行と門司発福知山行き824列車に乗った。
こういう長距離普通列車があるのは、ある意味では「寝台特急全盛期」に近い時代に運行されている印象がある。
高校生の時に18切符旅行で仙台発・黒磯行に乗りました。走行距離199kmと紹介された列車に比べたら遥かに短い距離ですが、現在の視点で見ると長距離列車になりますね。
大分まで行くのにムーンライト九州を使って小倉から大分まで通しの普通が有ったので使ってました。安定したバイトが見つかってからは、デビューしたてののぞみとハイパーにちりん使ってました。今から思えばこの時にグランドひかりのグリーン乗っとけばよかったと後悔してます。
ながらの東京からの折り返し静岡行き普通はちょくちょくお世話になりました、ちょっと得した気がして。
横浜を過ぎると通勤客が増えて立つ人も。短距離客はドアの近くに立つので混む要因に拍車をかけていました。青春18が使える時期の送り込みの上りは混んでいて座れないので私自身は1本遅らせていました。
確か長崎から門司までの普通列車があったと思いますその上に寝台が、ついてたと記憶してます。
はやたまで名古屋から天王寺に行ったいい思い出です。こういう大回りも面白いですが、最近は楽しめないですね。
ムーンライトえちごは、新宿から新潟、村上まで。ミッドナイトは、函館から札幌。ムーンライト九州は、京都から博多まで走っていた夜行快速でした。青春18切符で乗れる夜行列車でした。いつの日かまた、乗ってみたいです。
大垣夜行懐かしい。昔々の青春18きっぷで安く東京へ行く手段として使ってました。京都ー出雲市の寝台普通「山陰」にも乗って出雲大社お参りしました。
なお敦賀~米原間と姫路~播州赤穂間は4両での運転。12両での運転区間はそれ以外で。
米原増結の8両が播州赤穂まで行く
中学生の頃、仲間と関西へ鉄道旅行に行き、天王寺→新宮の夜行普通列車に乗り、寝台車が連結されていて興奮していたら、車掌さんに注意されました(汗)
『大垣夜行(ムーンライトながら)』は、散々お世話になったなぁ青春18きっぷを片手に、名古屋とかよく行ったものだあとは、『ムーンライトえちご』も新潟や村上などへ行くのに、よく行ったよ懐かしいな…
夜行列車や長距離移動が無くのは悲しいですね。長距離だと18きっぷだけで安く行けるので楽しかったです。学生さんとかだとお金もないので1日で地元に帰れると考えるとかなり助かったと思います。やはり今でも、ムーンライトか夜行列車のどちらかは復活してほしいですね。夜行バスは座って寝るというシステムですが、ムーンライトも寝台列車のように横になれるようになって、安く行けるとなったら変わるかもしれないですが中々現実的には難しいですね。ムーンライトながらに乗って気づきますとベットみたいにするといいなと思ってました。
カネの無い奴ぁ夜行バスの時代!
個人的にはミチミチで座席も遠慮して倒せない4列シートの夜行バスよりながらとかの座席の方がいいな。
山陰本線の、門司発福知山行き824レに、一度乗ったことがあるが、「旅をした!」という充実感と達成感があった。車窓風景もさることながら、旧型客車だったこともいい思い出。車掌さんがいい人で、「ご乗車記念に、車内補充券をさしあげましょう。」と、わざわざ車補を切ってくれたことも、忘れられない。
それそれ、乗ったなぁ…!
「からまつ」取り上げてくれてありがとうございます。釧路発19時00分に(2駅の間ですが)良く乗りました。
これから一晩かけて小樽に行くことに、いつも感心してました。
最長距離普通列車
戦時中の34レ
鹿児島⇒東京となります
(鹿児島本線経由)
下りは東京⇒八代31レ
東京~門司は5本の指にも入りません
鹿児島2100発、41時間25分かけて東京に到着します
何よりも通過駅の少なさ
南瀬高、西牟田、醒ケ井、柏原、関ケ原、垂井、穂積、木曽川
8駅しか通過しません
二等や寝台もありません
824列車(門司~福知山)、乗った。懐かしいなあ。あの駅をゆっくりと走り出す、機関車牽引が懐かしい。あと、はやたま号も。
大垣まで2本、定期と臨時運転されていた時代が懐かしい。18きっぷ、周遊券、普通乗車券で乗車したことがない人はいないと思います。様々な客層の人がいる列車はもうないことに一抹の寂しさを感じます。
京都から博多を結んでいた「ムーンライト九州」は長距離の快速神列車だった。岡山を出ると、厚狭までノンストップ。
小倉まで出かけるのに張り切って京都駅でお昼から席取り(いけませんね)していたがバチが当たって取れた席のリクライニングが壊れていた…まあどちらにしてもドキドキで寝られやしなかったろうけど…下関での機関車付け替えもしっかり見れたしね!
客扱いしていないだけで機関車牽引列車は主要駅で機関士が交代していた
民営化後は境界駅での交代も生じた
日が明けて、車内アナウンスで「まもなくアサです」と聞いた時、「朝?」とこの列車はモーニングコール的なことをやるんだと、勘違い、駅について納得したのを思い出しました。
一時期、展望車が連結されていたため、夜景鑑賞することができた。糸崎で運転停車した時、「ここはどこ?」と一瞬パニックになったことがある。
朝に厚狭に着くってな
寝台車連結されていたのは「からまつ」だけではなく…
■南紀→はやたま:天王寺~名古屋(紀勢線経由・寝台車は天王寺~新宮)
■山陰:京都~出雲市(山陰本線経由)
■ながさき:門司港~長崎(佐世保・大村・旧線経由)
上記が運行
昭和39年4月時点では
■門司港~西鹿児島(日豊本線経由):2等寝台 昭和47年のダイヤ改正で「急行みやざき」に格上げ
■大阪~浜田・大社(福知山線経由):1等寝台B連結 昭和39年10月のダイヤ改正で「急行しまね」に格上げ
■小樽~釧路:2等寝台・1等車連結 後の「からまつ」
■門司港~長崎(佐世保・大村線経由):2等寝台連結 後の「ながさき」
寝台車連結の普通列車は4列車。
「山陰」に関しては結構複雑で、京都~下関(山陰本線経由)の京都~出雲市が夜行部分の普通列車と京都~門司(山陰本線経由)の江津~門司が夜行になる普通列車があり、前者は上記の出雲市行が急行に格上げした時に時間調整をし「しまね」に連絡できるような普通列車になるが、この時点で寝台車は連結されず、後者は40年10月に米子~博多「急行しまね」に格上げ(昭和39年に格上げになった「しまね」は「おき」に改称)
昭和43年10月のダイヤ改正で残った普通列車は京都~出雲市になって、この時にB寝台車連結され、後の山陰になっていきます
「南紀」→「はやたま」もこの昭和39年時点では往路は天王寺発は1等車連結の客車列車の名古屋行き、復路は新宮始発の1等車連結の気動車と全く別物になっていました、往復とも客車になって寝台車連結されたのは昭和43年10月改正です
1968年に東京〜大垣間の普通列車が廃止される予定だったとき、存続を主張したのが、当時旅客局課長だったのちのJR東海社長の須田寛氏だったそうです。須田さんの大英断のおかげで平成の世まで存続したんですね。
人民列車と呼ばれ今は長距離夜行バスに代わられたね。1週間使える周遊券が定番、大垣を出て暫く普通各駅停車だが途中から快速になって早朝東京につく。
座面が外せるのでベッド代わりに重宝した、なお夏場は冷房無し車両を選ばないと寒くて寝られない、懐かしい。
須田寛さんは「青春18きっぷ」を考案された方でもありますね。
平成初期には大垣夜行、大垣発網干行と岡山発下関行の3本の長距離普通を組み合わせて福岡まで行く人が一定数いました。途中で適度な休憩を挟むことができましたし青春18ユーザーに重宝されたと思います。
そのもう少し前になると、大垣夜行で小田原発が00:05発、そのまま乗り継ぐと、熊本に23:59着でした。その後、九州内を2~3日分使って周遊したものです。
当時のルールでは「時刻表上のダイヤで」カウントするので、遅延して日付を跨ぐことになってしまっても、確実にw熊本まで行けました。
大垣夜行がなくなった現在、東京の始発に乗ると新下関まで行けるか微妙みたいですね。山陰地方に目を向けると、なんとか出雲大社までは行けるみたいですが…。(京都から山陰線に入って。)
国鉄時代は長距離普通列車が数多くあったがその中でも東京~門司間や大阪~青森間のような1000キロを超える普通列車は想像を絶するほどすごいですね。
戦中戦後ならば「2泊3日」もいくつか事例がありましたからねえ…
1942年11月から1943年10月までの
鹿児島発東京行きが最長記録のハズ
所要時間41時間25分
私は数年前から鉄道グッズの店で1970~1990年代の時刻表を、また一昨年あたりからおもに大手書店で販売されている復刻時刻表を購入して暇な時に読むことがありますが、1964年の時刻表には八代発大阪行き(700km台)というのがありました。偶然にも父が八代の出身で、帰省からの戻りで利用したかもしれないので機会があれば聞いてみようかと思います。
道民なので、北海道東日本フリーパスを利用して本州に行った時に、帰りの「はまなす」からの滝川まで普通列車に乗り、滝川から2429Dに乗って釧路まで行ったのは(辛かったが)いい思い出でした。
夏の暑い日で冷房の無いキハ40で、帯広の停車時間が30分位あって窓を開けても熱風しか入って来ず、溶けそうになったらのは覚えてます。駅で豚丼買って車内で食べたけど、汗をダラダラ流してました。
国有時代は郵便小荷物輸送をしていたからソチラがメインで旅客はついでだった。
だから旅客需要を無視した客車列車が多数存在していた。
高速道路網整備が本格化したのが1970年代末〜1990年代初頭なので、
民営化を見越したダイヤ改正になるまで郵便小荷物輸送を兼ねた長距離客レが残存していた。
伝説になっている824レや荷41レが最たるもの。
昔、飲んで東海道線を使ってた人が大垣行きに乗ったのだけど寝ちゃって大垣迄行ってしまい、翌日「今日は休む」て連絡がありましたね。以降、酔っ払ってるときは、長距離普通は止めようって事になったみたい。
それから、70年代に東北線で早朝に上野から郡山行きの鈍行が走っていて、ちょうど通学時間にその列車?が来るのだけど、客車が二つドアの全部ボックス席で通路も狭かったので、中に入ると乗り換えが大変だから入口で固まるので、中はスカスカで入口周辺が大混雑でした。
友達がその列車で忘れ物して、問い合わせたら郡山にあるとかで、諦めたって言ってました。
昔あった上野発長岡行きの夜行で寝過ごして、長岡まで行ってしまった話を聞いたこともありました。
寝過ごしといえば急行「能登」も有名ですね.ゴールデンウイークに上野から乗って奇跡的に座れたものの,立ってる人で死ぬほど混雑してました.このときは北陸に旅行したので寝過ごしではないですが,朝起きたらガラガラになっていてちょっとびっくりしました.
大垣夜行は165系時代、373系のムーライトながら時代ともに乗りました
長距離運行の普通列車と言えば子供のころに運行していた阪和線、紀勢本線を全通して天王寺-名古屋間を結んだ「はやたま」と、京都-出雲市間を結んだ「山陰」が印象的深いですね
壮行距離的には1000キロ超えるというわけではありませんが、動画中でも紹介された「からまつ」同様、寝台車付きの普通列車ということで子供心に乗りたかった列車でした
リクエストで恐縮なのですが、キハ58の活躍と歴史の特集動画または「しらゆき」「出羽」のような架線下DC急行の歴史的背景を動画で解説していただけると嬉しいです
今後とも興味深く、わかりやすい鉄道動画を期待しております
当時の国鉄は国民の福祉と移動の自由から低価格な長距離普通列車を走らせていたけど、1975年頃になると旅客の特急志向等出てきて運賃も上がっていきましたよね、
農家の出稼ぎの人たちがモンペ着て普通列車に乗り込むと通路の床に新聞敷いて寝てましたからね。前日の夜間に出発すると朝に上野、そんな時代も遠い過去。
当時子供で驚いた思い出。
国鉄時代の長距離普通列車の主力は機関車牽引の客車列車だったが、旧型客車の老朽化そして合理化で電車やディーゼルカーへの置き換え、国鉄末期から地方路線の普通列車の短編成短距離高頻度運転ダイヤに変更されて更にJR化後はワンマン運転区間の拡大も普通列車短距離化ですね。
JR化前に民営化されても会社を跨ぐ列車は廃止しません的なポスター貼ってあったけど、大嘘でした
@@sunami808 嘘もへったくれもね~だろ!JTB時刻表1999年7月号には東京~静岡の普通列車が何本も載ってるぞ!そりゃJR化から30年以上経てば変わって当たり前!単に東京~静岡を普通列車で行く客がほぼほぼいないだけ。いても18きっぱー😵
大垣夜行は我々学生のために合ったような列車でした。特に夏休みには乗り切れないため大垣夜行の臨時続行便に113系の応援もありました。またその他乗ったことがある鈍行では上野発長岡の115系、上野から田舎の大石田まで青森行夜行鈍行、門司港から長崎までながさき号B寝台にも乗ったことがあります。懐かしい!
大垣夜行は35年ほど前までは
345M、340Mだった。
青春18シーズンに発車の3時間ほど前に東京駅10番線ホームに行くとすでに100人ぐらいは待っていた(笑)
貧乏人だらけの人民列車
今あったら愛用してるな。
夜行バス4列より楽だもん。
旭川6時台発・函館20時台着122列車
ED76(DD51)+旧型客車
函館23時台発・札幌6時台着41列車(客扱いもする夜行荷物列車)
DD51+旧型客車と荷物車と郵便車
旭川6時台発・稚内12時台着321列車
DE15+オハフ51(1両のみw)
自分が全区間乗った事がある長距離普通列車です。
愛知北部民です。東京発浜松行111系非冷房車編成が懐かしい。
1942年に関門海峡が開通した時に、東京→八代と鹿児島→東京が設定されました。これが歴代最長の普通列車と思います。(この時同時に東京〜長崎の普通列車も設定されました。しかし戦局の悪化に伴って、1944年頃には廃止されました。又これ以外にも明治44年頃〜大正4年頃には、東京〜泊や直江津を東海道本線・北陸本線経由で結んだ普通列車や上野〜明石を信越本線・北陸本線経由で結んだ普通列車が設定されていました。1940年頃には、上野〜川西池田を信越本線・北陸本線で結んだ普通列車や大阪→三次・広島→大阪を芸備線・姫新線経由で結んだ普通列車がありました。又1950年代には、糸魚川〜掛川や静岡まで行く普通列車も設定されていました。)
大垣夜行のグリーン車に乗れたのは、いい思い出。165系の匂い(笑)が好きだった
所要時間だけで言えば、現在なら飯田線の豊橋〜岡谷や上諏訪間の約7時間がすごいと思ってたましたが、1日以上かかる列車があったんですね!😮
70年代は常磐線にも普通に仙台行きが複数走っていました
旧客でした。
東海道線は電車になっても
静岡行き浜松行きが結構ありました。
長距離列車とか夜行列車とか臨時列車って独特の雰囲気あるよね。
敦賀発播州赤穂行新快速は、敦賀からの車両は姫路までで、播州赤穂まで行くのは米原で増結される車両なので、全区間通しで乗る場合には、米原〜姫路のどこかで車両を乗り移る必要があります。増解結部分には貫通路がないため、乗り移りは停車駅で一度ホームに出る必要があります。
熱海と黒磯を結ぶ列車でもかなり長いなと思っていましたが、それ以上の長距離列車がいくつも出てきて驚きました。
今では想像が付かない旅が当時は楽しめたでしょうね
青春18旅行で熱海から高崎行き・宇都宮行きの列車(またはその逆)に終着まで乗り通すことがあります。グリーン車を利用することが多いのですが、最近はお尻や腰が疲れるようになり、熱海駅前の温泉で下半身をほぐすこともあります。歳かな😅
松本零士先生が111・112列車に乗って上京したという。まさに銀河鉄道999のモデルだな
この時座席の向かいに座っていた女性がメーテルのヒントになったと聞いたことがあります。
長距離を走る普通列車の乗り通しはやりたくなる。
言わずと知れた922列車(敦賀16:31~19:52綾部20:10~22:14京都)の乗り通しをやりたかっただけに結局実走シーンを見ただけにとどまって実現せずじまい。残念!
私の仕事上のお客様が現役時代に、釧路までの出張がある時には小樽からこのからまつ号の寝台列車を利用していたと言っていました。寝台と言っても粗末なベットだったよと言っていましたが、今にして思えば、旅情あふれる魅力的な列車だと思います。
子供の頃小樽駅のホームで見た事がありますが、普通列車でも長い編成でで寝台車もある為、子供心にもとても風格を感じたのを思い出します。
生鮮品や精密機器の輸送に、大量に速く運べてトラックより揺れが少ない新幹線が注目されているというニュースを最近見かけました。
今後、鉄道の荷物輸送が見直されるかもしれませんね。
国鉄時代に肝入りで一等地に整備した貨物ヤードは手放しました。
回帰したくても出来ません。
現在想定しているのは発泡スチロールケースに梱包された生鮮食料品を駅ナカ店舗へ少量輸送する程度。
次はきたぐに、ちくま、など電車夜行急行など取り上げて欲しいです。
今回上げられませんでしたが、紀勢本線の通称「大公望列車」も印象的でした。
寝台車もあった時期もありましたね。
その寝台車に乗ったことはありますが、程なくして寝台車廃止、区間短縮を得て消えちゃいましたが。。。
「はやたま」乗車経験は羨ましい
@@b-verstheartist6051
特急料金はかかりますけどMT54(D)のサウンドと共に国鉄型の味わいが楽しめる今のうちにぜひその趣を。
「はやたま」廃止後の新宮発天王寺行き夜行の乗車経験はあります。亀山から50系客車で日中を延々と移動した後の冷房付き12系客車でしたので快適でした。
2Fセンセイが道路整備するまでは鉄道は夜釣りに便利だった
釣り目的で最後に乗ったのは165系時代
クーラーボックスをオットマン替わりにして空いたワンボックスを占有
贅沢な時代
今や紀勢本線は電化区間ですら存廃議論
今じゃ京橋発御坊行の紀州路快速だしなw>はやたま
1990年代に東京駅の新幹線ホームの増設工事が行われていた時期、繁忙期下りの大垣夜行は混雑対策のため、品川駅始発でした。
乗車前は品川駅の臨時ホームに並んでいました。
1970年ころ,周遊券(例えば,北海道周遊券)を利用すると,急行まで乗れたので学生としては良く利用していました(例,2週間の間に宿に泊まったのは3日,あとは夜行列車で車中泊)。大垣夜行も,急行が運行されていない時間に何回か利用した記憶がありますが,普通列車の寝台は京都-鳥取で利用した記憶があります(切符が残っています)。なお,ボックス席の夜間利用時は,床に新聞紙を敷いて寝たり(自分も記憶あり),つわものは網棚で寝ていたのを見たことがあります。
追記,当時は各駅に小荷物(チッキ)の取り扱いがありました。
トラックはブラック労働すぎて働く人も減り、荷物輸送は崩壊し始めてますから、過疎化で客がいないと嘆く鉄道の出番ですね。
貨客混合列車はアリやと思います。
大垣夜行からそのまま乗り継ぎ、門司からまた夜行普通列車「ながさき」に乗り継いで翌朝長崎まで、行くということをしたことがあります。
あの頃は若かった。
ながさき、乗りましたねぇ。それほど長い距離でないのに夜行だったのはありがたかった。
「ながさき」ありましたね。昔は夜行の普通列車多くて、時刻表見ては夢ふくらませてました。
ちなみに帰りは山陰本線経由で出雲市から「山陰」に乗りました。
長崎に着く頃には悟りが開けてそう・・・
私もそれやった。ちなみに、大垣夜行→下り「ながさき」→上り「ながさき」→下り土讃夜行→上り土讃夜行→上り「はやたま」😁
懐かしいな、15才の頃に18
キップで駅のベンチで寝る旅にて、原ノ町ー青森、函館ー札幌、滝川ー釧路の旧型客車が一番の思い出。夏は暑いし、長かった〰️
1985年夏、50系客車で旭川から網走の列車が遠軽で1時間20分の大停車してました。
長距離普通列車が走っていた時代は、深夜でもホームで立売がいたり、駅そばが営業していたりして、今のようにコンビニがなくても、食料が確保できたりした。【ムーンライトながら】になった頃もまだ深夜の「静岡」駅で駅弁売っていたような気がするが、記憶違いかな?
あったらしい。
静岡の駅弁は幕の内だけだったが
、ホカホカだったらしい。まさに、大垣夜行の為「だけ」の調製。
また、829レ「山陰」。
福知山の待合室にはキオスクが営業していた上、駅弁も販売だが何とリヤカーで運んでいた。
上野発(22:07)→長岡行き(04:45着)733M列車。
高崎で40分停車中に急行「天の川」を退避するが、駅麺屋が営業していた、との事。
大垣夜行利用した時に、弁当を買いましたよ。
ただその時ボックスシートで出逢った子が買えなかったから、あげちゃって自分はロング缶のビールで我慢したのは良い想い出(笑)
大垣夜行、ながらからの接続で高山線美濃太田で幕ノ内を売っていたの思い出しますね。
最初の頃はスタンプでなく1日券4枚と2日間1枚と記憶しています。
京都から出雲市の山陰も懐かしい。
一両だけB寝台をつないでた。
そういった流れなのか、「ムーンライト八重垣」にはBネ1両連結されてたが、ほどなくしてハズされた。→青春18切符は使えず、別途乗車券が必要の為トラブルが絶えなかったらしく、普通座席のみになりましたとさ。
確か「ながさき」にも寝台がありましたね。
乗客と乗務員のトラブルは大垣夜行のグリーン車に乗った時に毎回のように見かけて、またやっとるわ、アンポンタンが…と思ったものです。
1984年、京都ー出雲市の普通夜行寝台の「山陰」とか最終の頃が懐かしいです。
@@Yoshin-Sashizume さま。
夜行列車内の乗務員トラブルてな事で今更ながら思い出したのですが、大垣夜行がムーンライト化した後なんぢゃが、臨時便の91号に乗車中、横浜あたりから乗り込んだ乗客、乗り間違いをしたらしい。ぶっちゃけた話、毎日運転であった「ながら」号に乗るべきところ、臨時便に乗ってしまったらしい。
また、乗車券が必要にもかかわらず、icカード乗車もいたようであります。
夜行の事とて早々に寝入ってしまったので、どういった顛末になったか不明ですが、
前者の件については、とりあえず開いている席に案内し、浜松だか豊橋あたりで「本家」へ乗り継がせたか?別途指定席料金を取ったかは不明。
後者については、東京駅からの運賃を徴収した、と思われます。→同様の件に関しては、鉄道ジャーナル社「旅と鉄道」(号数失念)に記されておりました。
一度乗りましたね。懐かしい。
青森→上野行きが廃止になった前後、NHKでは特番を組みました(歳がバレる・・(^_^;)。青森で商品を仕入れて、上野(東京)で売るオバチャンが、泣く泣く急行券(八甲田だったと思う)を買わされているのは、さすがに涙した。。。。
書き忘れ。大垣夜行は何度か乗りました。ムーライトながらの名前が付く前。大垣駅に1時間以上前に着き、グリーン券を先に確保。その時のグリーン券や周遊券を残しています。帰りは普通を乗り継いで京都まで。乗り継いで帰るのもたのしかったです。
大垣夜行に高校生の時に、1回だけ乗った事があるですね
豊橋から東京までですが、つくば万博に行く為に春休みの時に、乗ったですね。
乗客の何割かが、万博に行くためみたいでしたね。
東京駅に着いても、また普通列車で移動で…
流石に帰りは、東京からは新幹線でしたけど(豊橋に止まる最終列車で)
万博会場で新幹線とかの列車の検索?みたいの機械があって、何時まで会場にいれるか調べて
本来ならば、弟と横浜の友達と一緒に行くはずだったけど、行く当日に2人が都合が悪くなって一人でに
(私は、その日以外だと部活動の都合で無理になるから仕方なく)
まあ、母親が横浜に墓参りに行くのと同じ日にしてたので、大垣夜行に乗っている時はトイレにも行けたけども
大垣夜行の静岡の駅弁争奪戦は懐かしい。
参考で出した敦賀発播州赤穂行きの新快速ですが、敦賀発車の場面では4両で行き、米原で前に8両繋げて12両で姫路まで行き、姫路で敦賀から来た4両を切り離し、姫路から先播州赤穂まで行くのは米原で繋げた8両が行きます。
115系全盛時代の山陽本線にも似たような普通列車が在りました。
115系4連(広島車)で広島を早朝にして糸崎で115系4連(岡山車)を増結。
岡山で広島発の4連を切り離して終点の姫路へと向かっていました。
広島車と岡山車の間は貫通幌を繋いでいなかったので、糸崎で一旦ホームに降りて車輌を移動した記憶があります。
20年くらいまであった上野を18時頃にで出る原町行とか
熱海を8時頃出る米原行きとか 1日数本あった岡山発下関行きとか
1976年 京都駅5時19分発山陰線浜田行きで松江まで行きましたが、5時19分発車1分前の5時18分に「山陰」と、言う列車名の普通寝台列車が下関から到着しました。
その他九州では、門司発日豊本線西鹿児島行き普通とか、門司発長崎佐世保行きのふつあなんかもあったようですな?
165系時代の夜行東京行きをよく利用していた、新橋2分ちょいダッシュで山手線か京浜東北線に乗り換えて上野まで行けば各線の一番電車に乗ることが出来た。
今でも高尾〜長野の普通列車が残ってるのに昔はもっと長い普通列車があったのか…
戦前なら上野発長野経由新潟行きがあったのは
宮脇俊三の著作に出てきます
わりと最近まで立川〜松本でしたね。
宗谷本線の旭川ー稚内(全線完走)普通ってなかったっけ?
@@月見草-y1y
あることはあるが、列車番号が途中で2回変わる
(なお走行距離は高尾発長野行の方が長かった覚え)
国鉄時代には新宿〜長野間を運行する普通列車も下り2本・上り3本在りましたよ。
しかもそのうちの1往復は夜行(笑)
トラック輸送自体が将来形を変えた結果、再び長距離普通列車が生まれる可能性も
ソレをさせないための分割民営化なので
ある訳がない!乗るのは乗り鉄だけ!
大垣夜行は、貨物郵便車を併結していました。
急行東海と共通運用されていて、ムーンライトながらは、特急東海と共通運用されていました。
取り上げるなら、『山陰』『長崎』『はやたま』や名前の無い列車なら、東北本線や常磐線、奥羽本線、羽越本線、北陸本線などにも、長距離普通列車が、走っていましたね!?
『山陰』『長崎』『はやたま』にも触れてほしいですね。各駅停車なのに名前がある!(寝台車をつないでるからでしたか?)
@@potasy
全部、乗りました!?
旧型客車に、旧型の10系寝台車。
のんびり走る夜行列車で、便利でした。
寝台車には、乗らなかったけど、面白かったですね!?
『はやたま』には、何度か乗りました。
新宮駅まで寝台車を併結して、新宮駅から座席車のみで運転されていました。
名古屋駅から、亀山駅〜新宮駅に、短縮されましたが、紀伊半島一周には外せない列車でした!?
確かにありました。
奥羽本線 横手発福島行き
など、今は言うまでもなく、山形新幹線のからみで新庄までですが・・😅
大垣夜行、実は名古屋で快速に乗り換えると大垣ダッシュをしなくて済むし、若干早く米原に着く
6:00ジャストに名古屋駅到着だった頃に、里帰りでよく使いましたw
「からまつ」は、宮脇俊三さんの「最長片道切符の旅」で、スタート地点の広尾に向かうのに使われてました
え〜そおなんでしたたけ…猛ダッシュして損した気分です でもそれもまた楽し です!
私は、岡崎で降りて駅前のコンビニで朝食を調達し、岡崎始発の117系普通列車で朝食を取り、米原まで寝て行きました。名古屋で近鉄特急に乗り換えて大阪へ向かうこともありました。とにかく大垣マラソンはしたくなかったので(笑)。
私が乗った国鉄末期~JR初期は大垣から113系7連だったのでダッシュしなくても全然座れた😁
時刻表片手に旅してましたがムーンライトながらの方が断然早いのでそんな裏技調べようとは思いつきませんでした😅
@@DMH17-x5y
今でも朝に岡崎発米原行きの電車ってありますよね?普段は浜松から一番電車に乗っても追いつけないのですが、稀に追いつく時があってその時はダッシュで乗り換えた憶えがあります。
あと「山陰」と言う普通寝台車付列車もあったのを覚えている。
乗りたかったわ。
乗ったわ。18きっぱーだからB寝台じゃないけど…😁
山陰・北近畿エリアの国鉄線乗りつぶしに重宝したな>山陰
1990年高校2年生の夏に、本家の福井に行くのに、0時1分頃発の新宿〜上諏訪の普通列車に乗りました。
5時頃に上諏訪に到着後、上諏訪〜松本〜南小谷〜糸魚川〜金沢〜福井と乗り継いで福井に16時頃に着きました。
(途中、金沢で3時間程観光)
朝の大糸線の景色は最高でした😂
良い想い出です✨
「大垣夜行」は、1982〜1996年3月ダイヤ改正前までは、JR東海の165系急行形電車のグリーン車のサロ165形の2両を含む11両編成で、運転されていた。(東京〜静岡の急行東海と共通運用されていたね⁉️💕︎笑)
青春18きっぷが始まる前はグリーン車から先に埋まって行きましたね。
その当時春休みの繁忙期、上りに京阪神ミニ周遊券使ってグリーン車に乗ったけど、知らずに18きっぷでグリーン券買ってグリーン車に並んで検札で追い出されている人多発してたなぁ。当時は18きっぷでグリーン車乗れなかったし。(グリーン券に通行税がかかっていた時代w)
ただ、グリーン車でもまともに寝れず翌日辛すぎて二度と乗らないって心に誓ったw
373系になっても165系時代と同じ運用形態でしたね。上り「ながら」の折返し普通
静岡行が乗り得列車でした!
臨時になってからは167系アコモ車(リクライニングシート装備)183系、113系グリーン車付き(グリーン車は指定席)というのもあった。
山陰本線の824列車は1970年代後半、鉄道雑誌や書籍に多数紹介されました。宮脇俊三氏のエッセイ集は現在でも入手できるのかも。
宮脇俊三先生の著書
「旅の終わりは個室寝台車」
に824列車が登場してますね。
北海道に住んでいた頃、からまつに乗ったことがあります。
1950年代の蒸気機関車がまだまだ現役の頃に24時間以上走り続ける各停の客車列車って今からは想像もつかないですね。
夜勤担当の機関士と機関助士、どんだけきつかったんだろう…
東海道、夜移動なら大垣夜行、朝昼移動なら米原7時58発→熱海13時46分着の普通列車。どちらもよく利用しました。そして熱海からは2階建て快速アクティー。
山陰本線沿線住民ですが、昔は京都行きとか門司行き、東舞鶴行き(岸壁の母時代の名残かな?)なんかが走っていましたけど本数少なくて不便でした。いろいろな要素を天秤にかけて今の短い普通列車になったんですね。京都行きの夜行列車も山陰号と名付けられていました。
その浜田発東舞鶴行き544列車。綾部で牽引機材を交代させるという変わった運用で、敦賀から小浜・舞鶴・山陰線経由京都行き922列車(綾部で1回進行方向が変わるだけ)を牽引してきたDE10が長時間停車中に544列車の牽引に回り、544列車を永らく牽引してきたDD51は引き続き922列車の牽引に回り、最終的に京都には22時14分に到着するという、いかにもカオスな運用でした。
@@rhscm989 様
そういうわけのわからない運用でしたんですね。子供ながら謎でした。
大垣夜行は特に165系時代、急行「東海」と共通運用だったから、編成が同じでしたね。だから大垣夜行のグリーン車は人気だったけど、同じ車両ながら急行「東海」だと料金が爆上げするので、ボッタクリ感が否めなかったなw
補足すると、大垣夜行が東京~大垣に短縮されたころは名古屋~大阪の急行「比叡」がなかったか。だから名古屋で乗り継げて、安価で東海道本線を走破できたはず。
名古屋から大阪への出張にも便利で、まだ繊維産業が元気だった時代は、名古屋圏の中小の繊維企業などが大阪の取引先へ出張する際、経費と時間の両面を天秤にかけた結果、新幹線や近鉄特急ではなく、急行「比叡」利用を推奨していたという話をよく聞いたよ。まぁ、繊維産業の衰退とともに急行「比叡」も廃止された感じがする。
急行「東海」って確か晩年期は2往復で、3・2号は普通車9〜12号車を抜いた『8両』、大垣夜行間合いの1・4号は『12両』でしたね。
旧国鉄時代の頃には、東海4号の間合いで、浜松→静岡の普通列車に乗車した事が有ります。その時は忘れてならない販売車『サハ164』が連結してましたからね。
門司発福知山行き824レは有名ではあるけど、さらに昔をさかのぼると、動画にも一部出ていますが、上野発青森行き、大阪発青森行き(一時期2泊3日の列車も存在)、東京発門司行き、京都発鹿児島行き、函館発山線経由釧路行きなどがありました。真の最長普通列車は、関門トンネルができた直後は鹿児島発東京行き34レがありました。こちらは戦後にはなくなっていました。
今JR神戸線沿線に住んでるけど、夕方になると姫路駅には岡山行き、福山行き、三原行きと関西エリアでは見かけないような電車(黄色の115系)と共に姿を現すようになるんよね。
そういうのを見ると無性に旅行(それも18きっぷで行く格安小旅行)に行きたくなる。
『山陰』、『はやたま』はよく乗りました。
大垣夜行は345M時代はよく乗りました。
あとは長野夜行とか。
話にあった福知山行きの普通列車は『山陰』に乗っていて交換した時に写真撮ったなぁ。
昔長距離の普通列車があったなんて驚きです。
ムーンライトながらより大垣夜行派です。
東京駅のホームに新聞紙を敷いて何時間も待ち、急行型車両のボックスシートで出逢った方達と色々話をしたり。。。
何度も何度も利用して貧乏旅行をしたのは若い頃の素晴らしい思い出です。
ムーンライト時代になってから大垣夜行時代の良さが無くなったのが需要低下に繋がったと思います。
何しろ指定券が手に入らないし、車内は殺伐として、ボックスシートじゃないからただひたすら乗ってるだけ。
本当につまらなくなりました。
わかる。
僕は大阪から新幹線で名古屋へ行って名古屋からデッキに新聞紙引いて座るパターンだった。
373系のムーンライトも乗ったけどアレなら高速バスの方が安くて快適。
MT54モーターが眠りを誘う音でしたね。
隣り合う2席分の指定席券を購入して1人で独占する輩、大量に指定席券を買って転売する輩も問題視されましたね。
大垣行きは大垣到着後に陸橋渡って乗り換えダッシュがあるのでちゃんと睡眠取って体力温存しとかないと大垣から先また寝ようとしても席がないぞ!あと静岡で買った駅弁のわさび漬けにハマってそれまで食べず嫌いだったのが大好きになってしまった!懐かしい…
静岡駅・東海軒の『幕の内弁当』にハマったそうですが(あのワサビ漬けは私も大好きです!)、大垣夜行でこの弁当が買えた深夜、需要はあったと察します。なお『ムーンライトながら』になった時は、深夜販売を撤退したそうですよ。
@@松本政行-x2f そうですか残念だな…
1986年3月3日の国鉄全国ダイヤ改正から付属編成4両の一部にステンレス製車体の415系1500番台が連結を開始しました。鋼鉄製車体の401・403系の老朽取替用としてステンレス製車体の415夜1500番台が常磐線・水戸線系統に導入されて来ました。
なんの話やw
あと、昔はSLが牽引する客車列車だったから、一度火を入れたSLをなるべく長く走らせたいなどの理由もあったんじゃないかなー、方向転換も大変だし
逆!SL時代は、特に水の関係で要所要所で機関車交換してた。電化したら東京~下関が機関車無交換!😋
まあ、最初の東北特急はつかりは、上野を出て、平で、給水。仙台で機関車付け替えしていましたね。
1990年に16時42分発「長岡発、高崎行き」の165系電車乗ったなぁ。
上越線のループ線をかぶりつきで見たいから乗りました。走行距離はたぶん180kmくらいかな?
懐かしいです。
大垣夜行は終電の様なあつかいで、結構混雑していたようです。ほぼ立ち席だったようですよ。窓から乗り降りしていたことがあったそうな。シーズン中は。
ド平日に大垣夜行を横浜から乗ったらスーツの人だらけでメチャ混みだったなぁ。小田原あたりでボックス占領出来たけど(笑)
@@續賢治 👔さんいたの?😋
つい最近では、JR根室本線を走る滝川~釧路間の普通列車もありましたね。
ソレも同線が災害→不通で分断。
ゆくゆくは不通区間廃止で物理的分断に…
健さんの「鉄道員」の舞台だった幾寅も廃駅に…
滝川を朝の5時台でしたね。なんと楽々終点釧路の観光可能と言うすごい普通列車。
残念なから災害工事放棄で富良野←→新得がそのまま廃止が決定。あの鉄道員の幌舞(幾寅)も廃止に。留萌線の増毛、恵比島(あしもい)に続いてで残念です。かなり前には上砂川(悲別)の廃止もありました。
訂正・恵比島(あしもい)→恵比島(明日萌)です。
朝ドラすずらんにあやかり明日萌観光バスなんて言う観光バス会社も。今も経営会社としてあるのかなあ。
まぁ普通列車は都市圏輸送に重きを置いて短編成でも良いから本数走らせるようにしないと地方じゃ車に勝てるわけ無いんよね。
長距離大編成で本数少ないんじゃ往復ともに時間が合う人しか使わない。
大阪局なんかはライバル私鉄がいたから早い段階で切り替わっていたけど、国鉄全体としてはそのことに気が付くのが遅すぎた。
ムーライトながらが373系を使っていた時に折り返し静岡行きの普通列車の時はよく使ったなぁ
30年位前に大阪→新宮まで走ってた普通列車(夜行)に乗って新宮まで乗り鉄した事があります。夜行なので酔っぱらいに絡まれたのが懐かしい😊和歌山に入ると車内はガラガラで釣り客と自分だけになりましな😅
50年近く前の高校生の頃、門司-福知山に乗りました。その後、米原まで出て、この動画では触れられていない米原-長岡に乗車。でも朝寝坊して米原に間に合わず、しかたなく、開館したばかりの梅小路で1日つぶして米原泊。楽しかったなぁ。でも飽きた。。(笑)
京都を早朝に出発した益田行き(後に浜田行き)の客車列車がありましたね。
子供の頃、親戚の家に行く時に利用したりしました。
からまつ号は、シンガーソングライターの松山千春さんがまだ足寄の実家に住んでいた頃、仕事で札幌に行くときに利用していたそうです。
松山千春さんが札幌から足寄の実家に帰る時に、からまつ号と池北線を利用した動画がRUclipsにありますよ
ruclips.net/video/zF-iy9gPOSs/видео.html
確かSTVラジオの「アタックヤング」のパーソナリティをされていた頃ですね。
大阪ー出雲市間に寝台車付き普通列車がありますね。「山陰」
昔、青春18のびのびきっぷで手荷物別送で旅をした事があります。
1~2日前に荷物を最寄り駅に持って行き発送すると、きっぷに〇手のハンコが押され別に手荷物切符を渡されます。
目的地の駅の荷物窓口で手荷物切符と引き換えに荷物を受け取ったものです。
なつかしいなあ・・・!!
昭和40年前後の小学生のころの記憶(京都在住)ですが、山陰線下り始発は浜田行、夜十時過ぎは下関行だったと思います。
大阪から来た列車の後ろ2両を切り離して下関行に連結していました。
お昼過ぎには京都発鳥栖行もEF58牽引だった記憶があります。
北陸本線には長岡発米原行があり全区間乗車しました。金沢過ぎたあたりで米原行の電車に抜かれますが、その電車が3時間早く
米原に着きますがそのまま乗車していました。田村でELからSLへの付け替えも見ごたえありました。
一度乗ってみたい長距離鈍行は、飯田線の豊橋〜下諏訪行のですね!
夜行列車の空気を味わいたいです。
大垣夜行は一度だけ乗ったことがあります。二人掛けの席に横になって寝てしまいました。😅
普通列車ではありませんが、浜松~姫路間を走る新快速がありましたよね? これもかなりの長距離列車だなとの印象があります。
”大垣夜行”…大阪に住んでいた頃、何度も利用したな…
当時は既に夜間高速バスも走っていたけれどバス特有の揺れが苦手で、熟睡出来なくても165系のボックスシートの方が安心できたっけ…
今では地元の長野行き441M列車も長距離普通列車としてはいい線いってるんじゃないのかな?
昔中学校の修学旅行の帰りに、東京発23時30分の普通列車に米原まで乗った思い出があります。行きは、修学旅行専用のきぼう号に乗り沼津まで行きました。新幹線はもう開通していたけれど当時は、新幹線には、乗れなかった。
確かに定期列車では東京⇔門司の列車かも知れませんが、終戦直後に東京⇔早岐とか東京⇔南風原を走った普通列車がありました。復員列車の関係列車で東京22時発早岐13時着。意外と速いと早合点してはいけません。何と2晩走ってあさっての到着、らしいです。宮脇俊三氏の本に書いてありました。
多分理解してないと思うんだよ
まず列車というのは普通列車から始まって
そこから急行や特急が派生したということをね
40年ほど前には、旭川発網走行きの普通列車(客車)があって、遠軽には1時間以上停車するのもありました。
あとは旭川駅発6時30分前後発函館行の普通列車を覚えて覚えています。
青春18きっぷを使って大垣夜行と門司発福知山行き824列車に乗った。
こういう長距離普通列車があるのは、ある意味では「寝台特急全盛期」に近い時代に運行されている印象がある。
高校生の時に18切符旅行で仙台発・黒磯行に乗りました。走行距離199kmと紹介された列車に比べたら遥かに短い距離ですが、現在の視点で見ると長距離列車になりますね。
大分まで行くのにムーンライト九州を使って小倉から大分まで通しの普通が有ったので使ってました。
安定したバイトが見つかってからは、デビューしたてののぞみとハイパーにちりん使ってました。今から思えばこの時にグランドひかりのグリーン乗っとけばよかったと後悔してます。
ながらの東京からの折り返し静岡行き普通はちょくちょくお世話になりました、ちょっと得した気がして。
横浜を過ぎると通勤客が増えて立つ人も。短距離客はドアの近くに立つので混む要因に拍車をかけていました。
青春18が使える時期の送り込みの上りは混んでいて座れないので私自身は1本遅らせていました。
確か長崎から門司までの普通列車があったと思いますその上に寝台が、ついてたと記憶してます。
はやたまで名古屋から天王寺に行ったいい思い出です。こういう大回りも面白いですが、最近は楽しめないですね。
ムーンライトえちごは、新宿から新潟、村上まで。ミッドナイトは、函館から札幌。ムーンライト九州は、京都から博多まで走っていた夜行快速でした。青春18切符で乗れる夜行列車でした。いつの日かまた、乗ってみたいです。
大垣夜行懐かしい。昔々の青春18きっぷで安く東京へ行く手段として使ってました。京都ー出雲市の寝台普通「山陰」にも乗って出雲大社お参りしました。
なお敦賀~米原間と姫路~播州赤穂間は4両での運転。12両での運転区間はそれ以外で。
米原増結の8両が播州赤穂まで行く
中学生の頃、仲間と関西へ鉄道旅行に行き、天王寺→新宮の夜行普通列車に乗り、寝台車が連結されていて興奮していたら、車掌さんに注意されました(汗)
『大垣夜行(ムーンライトながら)』は、散々お世話になったなぁ
青春18きっぷを片手に、名古屋とかよく行ったものだ
あとは、『ムーンライトえちご』も新潟や村上などへ行くのに、よく行ったよ
懐かしいな…
夜行列車や長距離移動が無くのは悲しいですね。長距離だと18きっぷだけで安く行けるので楽しかったです。学生さんとかだとお金もないので1日で地元に帰れると考えるとかなり助かったと思います。
やはり今でも、ムーンライトか夜行列車のどちらかは復活してほしいですね。夜行バスは座って寝るというシステムですが、ムーンライトも寝台列車のように横になれるようになって、安く行けるとなったら変わるかもしれないですが中々現実的には難しいですね。ムーンライトながらに乗って気づきますとベットみたいにするといいなと思ってました。
カネの無い奴ぁ夜行バスの時代!
個人的にはミチミチで座席も遠慮して倒せない4列シートの夜行バスよりながらとかの座席の方がいいな。