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「数学は自分一人で全部作るわけではない」は至言
「ちなみにここまでの定理は選択公理なしでも証明できます」と言うのは「ちなみにこの定理はより一般の場合に拡張できます」と言うのと同じことだと思う。文脈によっては(例えば一般化自体を目的にしている場合)意味はあるだろうけど、文脈の中で不要ならそれはあくまで余談ということ。同様に「それって選択公理使わなくても証明できますよね?」という指摘は「その定理ってもっと一般的に成り立ちますよね?」と同じと思う。今の文脈で使いもしないのに不要な一般論を持ち出す必要はないだろう。
最近排中律と選択公理を仮定しない数学ばっかしてます(まあ無限集合の存在も仮定してないので、そんなに難しくないんですけど)。
十進法表記された任意の無限小数を実数と認めるのも、半ば選択公理を使っているようなものですよね。0~9の入った箱の無限の列から1個ずつ取り出すようなものですから。
単純な興味として選択公理なしで証明できるかは気になる。
議論全体を通して選択公理が一切使われていないことを示せないのでない限り、いちいち気にする必要はないと思う
そうですね。
それは思うわw
選択公理を使うような証明は激ムズなものが多い
個人的にはZFで示せるのとZFCで示せることでは大分価値が違ってくると思うので選択公理を意識するのは悪いことではないと思う。基礎論をやる人にとっては「実際に正しい」という条件を用いた議論をしなきゃいけない場面があって(例:逆数学(二階算術)のβモデルなど)、その「正しい」に選択公理が含まれるのかは人によるのかなぁと思ってます。(この部分は自分理解が曖昧なだけかもしれませんが...)選択公理の利用にいちいち気にする必要が無いは確かにそうだと思ってて、例えば物理でπ≒√10とかの近似を使って議論が分かりやすくなるなら使っていいと思う。要は有意義な議論でありさえすればいい。でも「選択公理中途半端に気にする必要なんてない,イランイラン」ってスタンスも自分は違うと思ってます...笑 証明の本質を理解することはどの数学の分野でも必要なことで、部分的に選択公理の使用に注目するだけでも見えてくるものがあるときはあると思うのでやりたくなったらすればいいと思う。
意識できるならした方がいいと思いますけど、この動画で言及されてるのはいわゆる「選択公理警察」とよばれる人種だと思います。彼らが指摘するのは大抵教科書でも触れられるような有名な使い所だけで、選択公理そのものへの興味から動いているわけではない気がします。私の身の回りにもこういう人がいますけど、例えば幾何や代数の演習の時間にいきなりこういう指摘をしてくるのでイラっとします。問題の文脈を大きく逸れるような根本の命題まで遡って選択公理が使われてることを指摘してくるからです。そういう場面を見ると、この人たちはマウンティングがしたいだけなんじゃないかと思います。別に数学をやる人全員が選択公理だけを気にしてるわけではないのに、いちいち指摘してくる人はどうなんだろう…というのが正直な感想です。後半の部分は私の恨み節全開ですけど、指摘するならきちんと自分の言葉で語れるような面白い話題までセットにするか、さもなくば黙っていて欲しいです。だってやってることは自分の知識をひけらかしてるだけなんだから。
選択公理を毎回気にするのがかなり難易度は高いというのは動画で仰った通りです。ただ、選択公理を使わない方が良いは明らかに正しいです。それに関して、選択公理を指摘した人をひっくるめて悪く言うのは違うのでは?選択公理を指摘するなら全て指摘するべきだという思考回路もよくわからない、、、指摘した人は気づいたところだけ指摘したまでだというのに、、、おそらく思考の整理がつかないまま動画を投稿されたと思うんですけど、「選択公理を指摘することの是非」と「指摘の仕方(人を不快にさせる発言など)」をごちゃ混ぜにしている気がするので、そこら辺を考えてみるのがいいかと、、
「気づいたところだけ」では最早, 意味がないという話ではないでしょうか.例えるなら, 海老アレルギーの人に対して, 様々な海老料理がある中で, ある幾つかだけを指して「あ, これは海老使ってます」と言っても, 「いや, 海老使ってる料理はどれか全部言えよ」となりますよね.また動画内でも発言していますが, これは “選択公理について考えるのが目的でない” という場合の話です.
@@user-zq1hu2zh5eそうでしょうか、、 貴方が用いた例えだと、海老アレルギーの人にどれが海老料理か分かる範囲で教えるというのは意味があるのではないでしょうか。(海老入りの料理を先に除外して候補を絞れるとか) “選択公理について考えるのが目的でない場合”というのは、主のニュアンスを汲み取ると、ほとんどの数学 定理の証明でその場合に当てはまると思います。(定理の証明に少し使われるだけなので) 目的でないとしても、選択公理を考えるのは、行間を埋める作業なので、するしないでは思考の深さが違うはずです。それを以ってしても選択公理の使用を指摘した人は悪いでしょうか、、逆に感謝するべきだと思うのですが、、、(指摘の仕方が悪いのは別ですが) 選択公理を一切考えないのであればそれを言って謝るぐらいの気持ちは持った方が良いと思います。 筋を通すとしたらこんな感じかと思います。
動画とzq1huさんは発表者が自分でremarkすることの要否について言っている。スレ主は発表者に対して指摘することの是非について言っている。
「数学は自分一人で全部作るわけではない」は至言
「ちなみにここまでの定理は選択公理なしでも証明できます」
と言うのは
「ちなみにこの定理はより一般の場合に拡張できます」
と言うのと同じことだと思う。
文脈によっては(例えば一般化自体を目的にしている場合)意味はあるだろうけど、文脈の中で不要ならそれはあくまで余談ということ。
同様に
「それって選択公理使わなくても証明できますよね?」
という指摘は
「その定理ってもっと一般的に成り立ちますよね?」
と同じと思う。
今の文脈で使いもしないのに不要な一般論を持ち出す必要はないだろう。
最近排中律と選択公理を仮定しない数学ばっかしてます(まあ無限集合の存在も仮定してないので、そんなに難しくないんですけど)。
十進法表記された任意の無限小数を実数と認めるのも、半ば選択公理を使っているようなものですよね。0~9の入った箱の無限の列から1個ずつ取り出すようなものですから。
単純な興味として選択公理なしで証明できるかは気になる。
議論全体を通して選択公理が一切使われていないことを示せないのでない限り、いちいち気にする必要はないと思う
そうですね。
それは思うわw
選択公理を使うような証明は激ムズなものが多い
個人的にはZFで示せるのとZFCで示せることでは大分価値が違ってくると思うので選択公理を意識するのは悪いことではないと思う。
基礎論をやる人にとっては「実際に正しい」という条件を用いた議論をしなきゃいけない場面があって(例:逆数学(二階算術)のβモデルなど)、その「正しい」に選択公理が含まれるのかは人によるのかなぁと思ってます。(この部分は自分理解が曖昧なだけかもしれませんが...)
選択公理の利用にいちいち気にする必要が無いは確かにそうだと思ってて、例えば物理でπ≒√10とかの近似を使って議論が分かりやすくなるなら使っていいと思う。要は有意義な議論でありさえすればいい。
でも「選択公理中途半端に気にする必要なんてない,イランイラン」ってスタンスも自分は違うと思ってます...笑 証明の本質を理解することはどの数学の分野でも必要なことで、部分的に選択公理の使用に注目するだけでも見えてくるものがあるときはあると思うのでやりたくなったらすればいいと思う。
意識できるならした方がいいと思いますけど、この動画で言及されてるのはいわゆる「選択公理警察」とよばれる人種だと思います。彼らが指摘するのは大抵教科書でも触れられるような有名な使い所だけで、選択公理そのものへの興味から動いているわけではない気がします。
私の身の回りにもこういう人がいますけど、例えば幾何や代数の演習の時間にいきなりこういう指摘をしてくるのでイラっとします。問題の文脈を大きく逸れるような根本の命題まで遡って選択公理が使われてることを指摘してくるからです。そういう場面を見ると、この人たちはマウンティングがしたいだけなんじゃないかと思います。別に数学をやる人全員が選択公理だけを気にしてるわけではないのに、いちいち指摘してくる人はどうなんだろう…というのが正直な感想です。
後半の部分は私の恨み節全開ですけど、指摘するならきちんと自分の言葉で語れるような面白い話題までセットにするか、さもなくば黙っていて欲しいです。だってやってることは自分の知識をひけらかしてるだけなんだから。
選択公理を毎回気にするのがかなり難易度は高いというのは動画で仰った通りです。
ただ、選択公理を使わない方が良いは明らかに正しいです。
それに関して、選択公理を指摘した人をひっくるめて悪く言うのは違うのでは?
選択公理を指摘するなら全て指摘するべきだという思考回路もよくわからない、、、指摘した人は気づいたところだけ指摘したまでだというのに、、、
おそらく思考の整理がつかないまま動画を投稿されたと思うんですけど、「選択公理を指摘することの是非」と「指摘の仕方(人を不快にさせる発言など)」をごちゃ混ぜにしている気がするので、そこら辺を考えてみるのがいいかと、、
「気づいたところだけ」では最早, 意味がないという話ではないでしょうか.
例えるなら, 海老アレルギーの人に対して, 様々な海老料理がある中で, ある幾つかだけを指して「あ, これは海老使ってます」と言っても, 「いや, 海老使ってる料理はどれか全部言えよ」となりますよね.
また動画内でも発言していますが, これは “選択公理について考えるのが目的でない” という場合の話です.
@@user-zq1hu2zh5eそうでしょうか、、
貴方が用いた例えだと、海老アレルギーの人にどれが海老料理か分かる範囲で教えるというのは意味があるのではないでしょうか。(海老入りの料理を先に除外して候補を絞れるとか)
“選択公理について考えるのが目的でない場合”というのは、主のニュアンスを汲み取ると、ほとんどの数学 定理の証明でその場合に当てはまると思います。(定理の証明に少し使われるだけなので)
目的でないとしても、選択公理を考えるのは、行間を埋める作業なので、するしないでは思考の深さが違うはずです。それを以ってしても選択公理の使用を指摘した人は悪いでしょうか、、逆に感謝するべきだと思うのですが、、、(指摘の仕方が悪いのは別ですが)
選択公理を一切考えないのであればそれを言って謝るぐらいの気持ちは持った方が良いと思います。
筋を通すとしたらこんな感じかと思います。
動画とzq1huさんは発表者が自分でremarkすることの要否について言っている。
スレ主は発表者に対して指摘することの是非について言っている。