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細かく記載されて無かったり盛ってたり結構有る事は有るものね・・この戦いがどのように書かれていても重要な転換点に成ってその先を見る上でも外す事は出来ない物でしょうね・・
呉の公明への嫉妬がすごいなw
演技の方が入ってきたと思えば皆納得・・・・三国志の凄い所は、正史がちゃんと存在して、演技と照らし合わせて楽しめる所
本当の赤壁の戦いについては想像力を働かせる必要がありますが、そこでひとつ、参考になる資料があります。それは「傷寒論」です。著者の張機(張仲景)は後漢末の荊州の公務員であり、医者でもありました。彼は建安年間(196-220)の初期、つまり赤壁の戦いの少し前に長沙太守を務めています。彼はなぜ傷寒論(今でいう内科診断学書)を執筆したのか?張姓の彼には大勢の親族がいましたが、なんとその約半数が、「傷寒」でなくなったというのです。これは三国時代の人口が少ない理由を如実に伝えています。また、勘の良い方なら、曹操軍を襲った疫病が傷寒だった可能性に思い当たると思います。なお、傷寒は現代ではチフスを意味しますが、病原体の存在が知られていなかった当時のことは正確には分かりません。え、武漢ウイルス?いくら武漢(江夏)が赤壁に近いといっても、それはないと思いますが....真相は曹孟德のみぞ知るのかもしれません。
世界ふしぎ発見で昔やってたけど東南の風は天文学か気象かしらんけど実際にあるらしい。
正史では演技みたいな赤壁の戦いは無いよ。ついでに孔明と周瑜の仲が悪いとか嘘ついているのは演技。赤壁の戦いで曹操が大敗してれば普通に曹操の領土は占領されてるじゃん。同盟は魯粛の影響がかなり強いと思う。現に魯粛が亡くなったとたん呉は同盟よりも益州攻略に力を入れている。
赤壁で戦いがあったかわからないが、曹操さんが孫呉に圧力をかける為に兵を送ったのは事実みたいっす~もしかしたら、曹操さんの胸中には袁紹さんと激戦を演じた官渡の戦いの前哨戦、白馬延津の戦いがあったのかも?知れません、袁紹さんは黄河を渡河するのに、顔良、文醜という武将を失い、その後の曹操軍の持久戦に散々苦しみましたからね~たぶん、下心を出して少しちょっかいを出したものの、思いの他強い反撃をされた為、スッパリ諦めた感じかな~ちなみに、その時の孫呉の主戦派が周瑜さんを筆頭にした武官で、文官は和平派だった為、武断派の勢力拡大のために赤壁の戦いを盛って賛美したみたいっす~そうすると、周瑜さんが殺したいほど嫌った諸葛亮さんを、なぜか孫権さんと文官筆頭の張昭さんが気に入って、孫呉にスカウトした理由は、そんな感じの政治バランスに苦慮していた打開策の為かも?知れないっすね~何だかんだ、諸葛亮さんなら上手にやってくれそうですからね~
まあベースが演技だからねえ
まぁ、三国志演義は殆どが創作なんだし、話し半分で理解した方が良いでしょうね。とは言え、三国時代を知る上での最適な入門書であるのは間違いないですから、否定なんて出来ません。
三国志も盛られてるかもしれないが、日本の戦国時代も盛られてるでしょう。50歩100歩 差ほど変わらない。大事なのは皆が楽しめる歴史 興味を持つ事 と 私は思う
演義の創作です。おとぎ話です。
曹操陣営の蒋幹が、周瑜を口説くために呉の陣営に向かって2度もまんまと騙される話もフィクション(実際に蒋幹が周瑜を訪ねたのは赤壁の戦いの後)だし、龐統の連環の計もそう。ただ、フィクションではあっても、史実のちょっとしたエピソードを両陣営の知略が飛び交うこれだけエキサイティング、スリリングな展開に仕上げた羅貫中の才能は素晴らしい!
曹操が賈詡の慎重論(呉の侵攻準備に3年はかけるべ))を採用していれば、戦わずに孫権に勝っていたでしょう。曹操、戦ってくれてありがとう。史実では曹操の敗因は疫病だし、孔明は何もしていません。つまらないけど、演義が盛ってくれたので三国志ファンになれました。羅貫中ありがとう。
そんなにあっさりしてる??あっさりでもそこから物語が色々とできるのだから。。全然許容範囲だし、三國志時代のキッカケの戦だからね!!ロマンありまっせ
赤壁の戦い虚構説のポイントは、これだけの大敗だったにも関わらず、①名だたる軍人と軍師が戦死していない ②国内外の反曹操勢力が反乱・侵攻・クーデターを起こしていない の2点。これらの事実を考慮すると曹操軍の主力はほぼ温存されていたと考えるべきで、やはり曹操軍が北方人には慣れない風土病に苦しみ士気が低下したので撤退、敵の手に渡らないよう舟を繋いで薪に油をかけ焼却処分したのを、呉軍が自分たちの手柄にするため(褒美や出世に関わるしね)戦果⁇を連環の計というエンターテインメントに脚色しただけの話。
正史の描写がアッサリしているのは良くある事で実態としては曹操伝と周瑜伝の中間といったところでしょうね。つまり、曹操が劉備を攻めたら(何故か)呉の水軍が出てきて緒戦に敗れ疫病もあって南郡に撤退した。そんなところかと。
違うそもそも史実だと劉備軍は戦闘をしてない。曹操と相見えたのは周瑜軍だけ。ちなみに風も周瑜が知ってて諸葛亮は何もしてない
私が最初に三國志を知ったのは父が三顧の礼を教えてくれたとき。その後中学で歴史や国語で三國志演義を習い、単なる小説に過ぎない事を知る。更に高校で、史実の何と味気無いことを知る。五丈原の戦いに夢馳せて諸葛亮素敵‼️とか思って赤壁の戦いの連環の計とかにワクワクしたのにね。
一番不思議なのが曹操的には呉なんていなかったかのように劉備にてこずったことを強調してる事
そうそう、劉備軍は一切曹操と闘ってないのにな。曹操軍と戦闘をしたのは周瑜軍だけなのに
近代史の天安門事件でも盛まくっているから、三國志の正史もファンタジーレベルだと思います。
赤壁で大敗したはずの曹操がその後も最大勢力であり続けてたという事実が、実際はそれほどの大敗ではなかったことの証ですね。曹操が失ったのは、獲得して間もなかった荊州だけでしたし、有名な大将も誰一人失ってません。魯粛と諸葛亮の件は、諸葛亮が魯粛の地元である呉に魯粛を連れていくというのは考えられないので、魯粛が諸葛亮を呉に連れて行ったと考えるべきでしょう。劉備を説得したのは、おそらく魯粛と諸葛亮の意見が一致したので、二人で共同して劉備を説得したのではないかと思います。
まあ、ほとんど演義のせいでしょうね。諸葛亮なんて東南や矢集めなんてしてないですし、蜀びいきのせいで赤壁が盛られたんでしょうね
実際のところがどうだったのかはわからないが、演義の方は物語としての役割を担う為に道中の話を盛り盛りしてもおかしくないし、より魅力的に描かれてる。正史のあっさりとした記載は詳細を記したものが意図的に残されなかったかも知れないし、事細かく詳細を記したとしても自分達にとって都合の良い解釈になる様にしたかもしれない。事実は曹操が負けた、劉備と孫権が勝った。ここが変わらなければ、道中は想像を膨らませて、お互いの持論を展開して話し合える。
史記とキングダムの違いみたいなものですものね。
歴史なんて書物などの文献に基づいて組み立てたフィクションだから。歴史ってそんなもん。
下敷きw
サムネで吹いたわw
諸葛亮が東南の風起こしたなんて実際誰も信じてないでしょ?演技の劉備諸葛亮の主人公補正は酷いもんな。
Rome 主人公補正はいい表現ですねw
そりゃ、そうだよ。周瑜やこうがいが知っていた。当たり前の話で地元の噂話等は地元の人間が一番熟知師てるらね。長年、あの地域で生きてきた周瑜やこうがいと違って一見さんの諸葛亮に分かるわけない
要するに曹操側が疫病が流行って帰っただけの話ですね。
タイトルにもあるけど「知りたくなかった!」 レッドクリフ面白かったのにぃ😜
新約聖書だって、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの福音書では記述に違いがありますからね。
そもそも中国嘘多いやん w
観光地化されている赤壁に行ったことあるけど、映画程川幅は広くなかった。当時はもっと広かったのか?一番驚いたのは、動画にも有ったけど、岩山を巨大な赤壁の文字でレリーフ状に削り取っていた事。これって環境破壊では?とガイドさんに聞いたら苦笑いして、美しい文字だから許されるって苦しい言い訳をしていました。
笑笑。昔、中国のある街の公園で三蔵法師由来の洞窟を発見!チケットを買って入ると~、中は人形の展示だけで、他は小さな遊園地、小さい子どもたちが遊んでいて、ガヤガヤ、ザワザワしていたのが印象に残っている。とても、損した気分だった~。
中国の環境問題は共産党も自覚して動くレベルで酷いですよ。日本の信濃川クラスの河川が蛍光色になった事もあります。また、サッカー日本代表のキルギス戦で茶色の芝を塗装していたのを見て思い出しましたが、環境問題の国際会議を北京で開催するにあたって、北京五輪前で数値も失格レベルだった為、はげ山に緑のペンキをぶちまけてお茶を濁しにかかった事もありました。アホかと思いましたが、スケールに圧倒されました。魯迅博物館では1区画が周恩来のプロパガンダコーナーになっており、越王拘銭(?臥薪嘗胆の人)の剣とか見ました。2000年以上前の物なのに、メッキしたようにキラキラでした。赤壁の場所については、ある程度確定しているようです。その場で赤壁の戦いがあったかはわかりませんが。ただ、やはり昔から混乱はあったらしく、北宋の有名な詩人である蘇軾(蘇東坡)が長江の間違ったで赤壁の賦をつくってしまい、後に正しい赤壁を訪れて、赤壁の賦(後赤壁の賦)をつくり直したってエピソードがあります。また、長江は季節によって水量に増減があり、8月が最も多いそうです。
1800年もの過去の話、あそこの赤で書かれたところで行われたかどうかは不明らしいですよ。
三国無双ですら、80万は盛ってるって言われてる
そりゃそうだろ。史実だと周瑜軍を視察に来た劉備が周瑜軍の兵の少なさに驚いて本当に勝てるのかと疑問を持ってた。周瑜は元々劉備の兵力を当てにしておらず3万人で十分です私が曹操を倒して見せますから劉備殿は見てて下さいと言って劉備は実際に参加せずに後方にいた(孔明もな)これ見て分かると思うが疫病や策が当たっとしても3万人で80万やら100万人を蹴散らすのは不可能。もし、本当周瑜軍の3万人で80万人や100万人を撃退なら周瑜こそ稀代の名将って事になる
三国志詳しくない俺でも赤壁は知ってたそして盛ってるって良く言われてたなw原典があるアニメとか漫画とかもさんざ盛ってるしエンターテイメントとしては仕方ないね
へー、知らなかった
多くの男性は、小さな胸より大きな胸を好むだろ?それと同じさ。小さくとも、寄せては上げて、形を整えたほうが寄ってくる。赤壁も似たようなもんさ。
もっともこの戦いがなければ三国志ではなく魏と呉の二国の争いになってた可能性があったからな。蜀にとって重要だったということだろ。
と言うより、何群攻防戦の末に周瑜が曹仁を撃退したけどこの時に周瑜は流矢に当たってしまい早死にしたこと。周瑜は既にこの時に蜀の攻略を考えていて万全に準備を進めて孫権の許可を得ていた。周瑜健在ならこの時に蜀は呉の配下になってた可能性が高い
やっぱ、美形対決、あたまもいいしー。でも人死んだらだめじゃね、こいつら?
細かく記載されて無かったり盛ってたり結構有る事は有るものね・・この戦いがどのように書かれていても重要な転換点に成ってその先を見る上でも外す事は出来ない物でしょうね・・
呉の公明への嫉妬がすごいなw
演技の方が入ってきたと思えば皆納得・・・・
三国志の凄い所は、正史がちゃんと存在して、演技と照らし合わせて楽しめる所
本当の赤壁の戦いについては想像力を働かせる必要がありますが、そこでひとつ、参考になる資料があります。それは「傷寒論」です。著者の張機(張仲景)は後漢末の荊州の公務員であり、医者でもありました。彼は建安年間(196-220)の初期、つまり赤壁の戦いの少し前に長沙太守を務めています。彼はなぜ傷寒論(今でいう内科診断学書)を執筆したのか?張姓の彼には大勢の親族がいましたが、なんとその約半数が、「傷寒」でなくなったというのです。これは三国時代の人口が少ない理由を如実に伝えています。また、勘の良い方なら、曹操軍を襲った疫病が傷寒だった可能性に思い当たると思います。なお、傷寒は現代ではチフスを意味しますが、病原体の存在が知られていなかった当時のことは正確には分かりません。え、武漢ウイルス?いくら武漢(江夏)が赤壁に近いといっても、それはないと思いますが....真相は曹孟德のみぞ知るのかもしれません。
世界ふしぎ発見で昔やってたけど東南の風は天文学か気象かしらんけど実際にあるらしい。
正史では演技みたいな赤壁の戦いは無いよ。
ついでに孔明と周瑜の仲が悪いとか嘘ついているのは演技。赤壁の戦いで曹操が大敗してれば普通に曹操の領土は占領されてるじゃん。同盟は魯粛の影響がかなり強いと思う。
現に魯粛が亡くなったとたん呉は同盟よりも益州攻略に力を入れている。
赤壁で戦いがあったかわからないが、曹操さんが孫呉に圧力をかける為に兵を送ったのは事実みたいっす~
もしかしたら、曹操さんの胸中には袁紹さんと激戦を演じた官渡の戦いの前哨戦、白馬延津の戦いがあったのかも?知れません、袁紹さんは黄河を渡河するのに、顔良、文醜という武将を失い、その後の曹操軍の持久戦に散々苦しみましたからね~
たぶん、下心を出して少しちょっかいを出したものの、思いの他強い反撃をされた為、スッパリ諦めた感じかな~
ちなみに、その時の孫呉の主戦派が周瑜さんを筆頭にした武官で、文官は和平派だった為、武断派の勢力拡大のために赤壁の戦いを盛って賛美したみたいっす~
そうすると、周瑜さんが殺したいほど嫌った諸葛亮さんを、なぜか孫権さんと文官筆頭の張昭さんが気に入って、孫呉にスカウトした理由は、そんな感じの政治バランスに苦慮していた打開策の為かも?知れないっすね~
何だかんだ、諸葛亮さんなら上手にやってくれそうですからね~
まあベースが演技だからねえ
まぁ、三国志演義は殆どが創作なんだし、話し半分で理解した方が良いでしょうね。とは言え、三国時代を知る上での最適な入門書であるのは間違いないですから、否定なんて出来ません。
三国志も盛られてるかもしれないが、日本の戦国時代も盛られてるでしょう。50歩100歩 差ほど変わらない。
大事なのは皆が楽しめる歴史 興味を持つ事 と 私は思う
演義の創作です。おとぎ話です。
曹操陣営の蒋幹が、周瑜を口説くために呉の陣営に向かって2度もまんまと騙される話もフィクション(実際に蒋幹が周瑜を訪ねたのは赤壁の戦いの後)だし、龐統の連環の計もそう。
ただ、フィクションではあっても、史実のちょっとしたエピソードを両陣営の知略が飛び交うこれだけエキサイティング、スリリングな展開に仕上げた羅貫中の才能は素晴らしい!
曹操が賈詡の慎重論(呉の侵攻準備に3年はかけるべ))を採用していれば、戦わずに孫権に勝っていたでしょう。曹操、戦ってくれてありがとう。史実では曹操の敗因は疫病だし、孔明は何もしていません。つまらないけど、演義が盛ってくれたので三国志ファンになれました。羅貫中ありがとう。
そんなにあっさりしてる??
あっさりでもそこから物語が色々とできるのだから。。全然許容範囲だし、三國志時代のキッカケの戦だからね!!ロマンありまっせ
赤壁の戦い虚構説のポイントは、これだけの大敗だったにも関わらず、①名だたる軍人と軍師が戦死していない ②国内外の反曹操勢力が反乱・侵攻・クーデターを起こしていない の2点。これらの事実を考慮すると曹操軍の主力はほぼ温存されていたと考えるべきで、やはり曹操軍が北方人には慣れない風土病に苦しみ士気が低下したので撤退、敵の手に渡らないよう舟を繋いで薪に油をかけ焼却処分したのを、呉軍が自分たちの手柄にするため(褒美や出世に関わるしね)戦果⁇を連環の計というエンターテインメントに脚色しただけの話。
正史の描写がアッサリしているのは良くある事で実態としては曹操伝と周瑜伝の中間といったところでしょうね。つまり、曹操が劉備を攻めたら(何故か)呉の水軍が出てきて緒戦に敗れ疫病もあって南郡に撤退した。そんなところかと。
違うそもそも史実だと劉備軍は戦闘をしてない。
曹操と相見えたのは周瑜軍だけ。
ちなみに風も周瑜が知ってて諸葛亮は何もしてない
私が最初に三國志を知ったのは父が三顧の礼を教えてくれたとき。その後中学で歴史や国語で三國志演義を習い、単なる小説に過ぎない事を知る。更に高校で、史実の何と味気無いことを知る。五丈原の戦いに夢馳せて諸葛亮素敵‼️とか思って赤壁の戦いの連環の計とかにワクワクしたのにね。
一番不思議なのが曹操的には呉なんていなかったかのように劉備にてこずったことを強調してる事
そうそう、劉備軍は一切曹操と闘ってないのにな。曹操軍と戦闘をしたのは周瑜軍だけなのに
近代史の天安門事件でも盛まくっているから、三國志の正史もファンタジーレベルだと思います。
赤壁で大敗したはずの曹操がその後も最大勢力であり続けてたという事実が、実際はそれほどの大敗ではなかったことの証ですね。曹操が失ったのは、獲得して間もなかった荊州だけでしたし、有名な大将も誰一人失ってません。魯粛と諸葛亮の件は、諸葛亮が魯粛の地元である呉に魯粛を連れていくというのは考えられないので、魯粛が諸葛亮を呉に連れて行ったと考えるべきでしょう。劉備を説得したのは、おそらく魯粛と諸葛亮の意見が一致したので、二人で共同して劉備を説得したのではないかと思います。
まあ、ほとんど演義のせいでしょうね。諸葛亮なんて東南や矢集めなんてしてないですし、蜀びいきのせいで赤壁が盛られたんでしょうね
実際のところがどうだったのかはわからないが、演義の方は物語としての役割を担う為に道中の話を盛り盛りしてもおかしくないし、より魅力的に描かれてる。正史のあっさりとした記載は詳細を記したものが意図的に残されなかったかも知れないし、事細かく詳細を記したとしても自分達にとって都合の良い解釈になる様にしたかもしれない。事実は曹操が負けた、劉備と孫権が勝った。ここが変わらなければ、道中は想像を膨らませて、お互いの持論を展開して話し合える。
史記とキングダムの違いみたいなものですものね。
歴史なんて書物などの文献に基づいて組み立てたフィクションだから。歴史ってそんなもん。
下敷きw
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諸葛亮が東南の風起こしたなんて実際誰も信じてないでしょ?
演技の劉備諸葛亮の主人公補正は酷いもんな。
Rome 主人公補正はいい表現ですねw
そりゃ、そうだよ。
周瑜やこうがいが知っていた。
当たり前の話で地元の噂話等は地元の人間が一番熟知師てるらね。
長年、あの地域で生きてきた周瑜やこうがいと違って一見さんの諸葛亮に分かるわけない
要するに曹操側が疫病が流行って帰っただけの話ですね。
タイトルにもあるけど「知りたくなかった!」 レッドクリフ面白かったのにぃ😜
新約聖書だって、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの福音書では記述に違いがありますからね。
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観光地化されている赤壁に行ったことあるけど、映画程川幅は広くなかった。
当時はもっと広かったのか?
一番驚いたのは、動画にも有ったけど、岩山を巨大な赤壁の文字でレリーフ状に削り取っていた事。
これって環境破壊では?とガイドさんに聞いたら苦笑いして、美しい文字だから許されるって苦しい言い訳をしていました。
笑笑。昔、中国のある街の公園で三蔵法師由来の洞窟を発見!チケットを買って入ると~、中は人形の展示だけで、他は小さな遊園地、小さい子どもたちが遊んでいて、ガヤガヤ、ザワザワしていたのが印象に残っている。とても、損した気分だった~。
中国の環境問題は共産党も自覚して動くレベルで酷いですよ。日本の信濃川クラスの河川が蛍光色になった事もあります。
また、サッカー日本代表のキルギス戦で茶色の芝を塗装していたのを見て思い出しましたが、環境問題の国際会議を北京で開催するにあたって、北京五輪前で数値も失格レベルだった為、はげ山に緑のペンキをぶちまけてお茶を濁しにかかった事もありました。
アホかと思いましたが、スケールに圧倒されました。
魯迅博物館では1区画が周恩来のプロパガンダコーナーになっており、越王拘銭(?臥薪嘗胆の人)の剣とか見ました。2000年以上前の物なのに、メッキしたようにキラキラでした。
赤壁の場所については、ある程度確定しているようです。その場で赤壁の戦いがあったかはわかりませんが。
ただ、やはり昔から混乱はあったらしく、北宋の有名な詩人である蘇軾(蘇東坡)が長江の間違ったで赤壁の賦をつくってしまい、後に正しい赤壁を訪れて、赤壁の賦(後赤壁の賦)をつくり直したってエピソードがあります。
また、長江は季節によって水量に増減があり、8月が最も多いそうです。
1800年もの過去の話、あそこの赤で書かれたところで行われたかどうかは不明らしいですよ。
三国無双ですら、80万は盛ってるって言われてる
そりゃそうだろ。
史実だと周瑜軍を視察に来た劉備が周瑜軍の兵の少なさに驚いて本当に勝てるのかと疑問を持ってた。
周瑜は元々劉備の兵力を当てにしておらず3万人で十分です私が曹操を倒して見せますから劉備殿は見てて下さいと言って劉備は実際に参加せずに後方にいた(孔明もな)
これ見て分かると思うが疫病や策が当たっとしても3万人で80万やら100万人を蹴散らすのは不可能。
もし、本当周瑜軍の3万人で80万人や100万人を撃退なら周瑜こそ稀代の名将って事になる
三国志詳しくない俺でも赤壁は知ってた
そして盛ってるって良く言われてたなw
原典があるアニメとか漫画とかもさんざ盛ってるしエンターテイメントとしては仕方ないね
へー、知らなかった
多くの男性は、小さな胸より大きな胸を好むだろ?
それと同じさ。
小さくとも、寄せては上げて、形を整えたほうが寄ってくる。
赤壁も似たようなもんさ。
もっともこの戦いがなければ三国志ではなく魏と呉の二国の争いになってた可能性があったからな。蜀にとって重要だったということだろ。
と言うより、何群攻防戦の末に周瑜が曹仁を撃退したけどこの時に周瑜は流矢に当たってしまい早死にしたこと。
周瑜は既にこの時に蜀の攻略を考えていて万全に準備を進めて孫権の許可を得ていた。
周瑜健在ならこの時に蜀は呉の配下になってた可能性が高い
やっぱ、美形対決、あたまもいいしー。でも人死んだらだめじゃね、こいつら?