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ご覧頂きありがとうございます。戦国時代を代表する名軍師、竹中半兵衛の戦略の数々、いかがだったでしょうか。皆さんの知る、竹中半兵衛の偉業も、ぜひ教えてください。本日も暑い中、名古屋城に登城頂きありがとうございます。お盆期間中も多くの視聴者さんに声掛け頂き、励みになっています。ぜひ、皆様、武将隊に会いに名古屋城でお待ちしています。
最後、官兵衛様にかわってましたよ。半兵衛様の間違いでは?
竹中半兵衛は優れた戦術家であったと、同時に優れた治政家でもありました。三木城攻囲中に、半兵衛が三木周辺の村民の生活を助けるため山林や田畑を寄進し、三木城を攻め落とした秀吉が農民に対し年貢等を免除したが、これもその半年前に病没した半兵衛の献策でした。現在に至っても竹中田とか竹中山の名前が残り、三木市にあるお墓には、今だに線香が絶えないのです。😢
半兵衛が秀吉に半兵衛「信長様はお一人で全部決めてしまわれる方で、私が仕えても何の意味も無いでしょう」秀吉「むぅ…」半兵衛「ですが…貴方になら仕えても良い」と名門出のエリートの半兵衛が、農民出の叩き上げの秀吉に仕える事を選んだエピソードマジで好き秀吉にとって無二の親友ともいえる関係の始まりのお話
とても分かりやすくて良かった
上月城支援の失敗の後、秀吉は一時的に播磨攻めの責任者を外され、休暇名目で信長に1月ほど但馬に飛ばされているが、病身の半兵衛は療養のためか秀吉と同行している。初期の三木城攻めの指揮は信長が取っており、半兵衛の策をどれだけ参考にしたのかも不明だし、半兵衛は継続して戦に出れる健康状態で無かったうえ途中で死去したので、長期化した事などを半兵衛の責任にするのはさすがに酷。
戦術ではないけど、松寿丸(後の黒田長政)を匿った話も印象的。長政は後年の関ヶ原の戦い等でも活躍するので、まさに歴史を変えた話。
竹中半兵衛でなければ出来なかった事でした。他の者には匿うという発想すら浮かばないし、浮かんだとしても信長の家来だからこそ出来ない。よく黒田官兵衛はつきが無かったと言われますが、なんの❗竹中半兵衛がいたことが大きな幸運でした。
官兵衛と半兵衛が優秀だったから秀吉が天下を取れたのかもしれないなぁ
秀吉から加増するとの書状を貰ったのに一向に約束が果たされぬと愚痴る官兵衛に、証拠の書状に目を通した後いきなり焼き捨てた半兵衛。「何をなさるか」と目の色を変える官兵衛に「こんなものがあるから不満を抱く。持っていても、そこもとの為にならん」と諭した話が好き。
大樹に例えた秀吉には「華(か) よりも葉(は)が必要であった」とは「か」んべえが「は」んべえに言った本音でしょう。
友の子を護り隠して友を待ち知恵第一の日の本男児
石山合戦から学んだ兵站システムをさらに洗練構築して大規模包囲戦、大規模土木工事とかシスティマチックな戦略を完成。ある意味、三成の師匠。彼無くしては長期に渡る朝鮮の役も不可能だった。
土木工事うんぬんは、別人の事ですよ。竹中藤兵衛正高の事だと思います。このRUclipsでも混乱して投稿しているのをよく観ます。
面白いネ❣
小谷城で淀君死んでたら秀吉死後の流れがまた変わったかもね。
淀君がいなくなれば秀頼も生まれていなかったことになり、おそらく秀次が関白として秀吉の後継を全うしたことになる。秀次は格別優秀な人物ではなかったが、家臣に支えられれば政務をこなせる能力は持ち合わせていたと考えられ、秀吉死後、家康がおとなしくしていれば、豊臣の天下はしばらく続いたのではないか。逆に家康が史実のように豊臣をないがしろにして勝手なことを始めると、史実のようになんらかの戦が起き、徳川政権になる可能性が高い。
竹中半兵衛が生きてたら歴史は変わったよね~
秋になったら名古屋城でも行こかな。
戦国武将最強天才軍師竹中半兵衛公の出生地は岐阜県の大野町にありますけどとても質素な案内板だけで私的には不満です。もっと大野町と垂井町とで竹中半兵衛公を盛り上げて頂きたく思っています。ありがとう御座いました。
半兵衛さん御本人が、控えめな方だったから・・・
重元は「しげちか」と読みます。
今孔明
それじゃ官兵衛が今司馬懿?必要なら味方をも欺く半兵衛が今孔明。野心はあるものの現実的な策で敵を嵌める官兵衛が今司馬懿ってか?
上月城戦って見せしめの殺戮に恐怖するどころかその後すぐに宇喜多が少勢で城を奪い返しています。結果的に毛利と宇喜多のほうの勝利に終わってる。この戦い、尼子勢は見捨てられてるし羽柴勢も結構損害出してますよ。あと明石は黒田官兵衛の親戚でもあるから調略はさほど難しくなかったのでは。
官兵衛の親戚の明石は、播磨枝吉城の明石則実です。宇喜多配下の明石ではありません。ウソは言わないように。
福原城の福原則尚も秀吉とはすでに知友の間柄だったんだけど父親が宇喜多•毛利と交わしてた誓約のせいで無理やり戦ってた。
動画とはぜんぜん関係ない話で投稿主の方には悪いけど、半兵衛が現代に生きてたら将棋、囲碁、麻雀で凄い作戦を立案して名人の名を欲しいままにしてたのでは?後、アーケードゲームの「英傑大戦」でも日本トップのプレイヤーになっていたと思う。これだけ人を使いこなす人物だし。駒や碁石等をも使いこなせるかと。
戦国無双5では碁や将棋のシーンがおまけでありましたね
竹中半兵衛の出生の地岐阜県垂井町で散策しお隣関ケ原町で関ヶ原合戦の陣地巡りなどなかなか楽しめる西濃地方浪漫あります
失礼だが半兵衛の出生地は垂井町では無く大野町。垂井町は半兵衛出生後、父重元が奪った土地。
確かに垂井町の看板には、「竹中半兵衛ゆかりの地」と書いてありますから出生地とは言ってませんね。
黒田官兵衛の息子を匿った所ですかね。
ナレーションの女性、昔聴いてた『三国志研究室』チャンネルの方と声が似てる🤔
ナレーション なつ(名古屋おもてなし武将隊)AIやと思ってたw番組概要欄から見られる。
日本の諸葛亮孔明
天才な事は間違いない。後にも先にもたった16人で城を乗っ取った武将がいたか?💦💦主君の命令を無視して人質である子供を救って…半兵衛死後に(官兵衛が)無実だと判明し主君に感謝された武将がいたか?💦💦💦
おお❗ 同士よ‼️
稲葉山が堅城かどうかは関係ないかな…たしか半兵衛は美濃三人衆の誰だったかと縁故があって乗っ取りは16人で鮮やかに成功させ、そのタイミングで縁者率いる2000人で城下制圧するまでプロデュースして自ら実行、そして半年以上信長に侵攻を許さない完璧な作戦したのは事実で…この件だけでも楠木正成に比肩する名将です……そしてあっさり城を返してスカウトにきた朝倉の客臣として隠居するのが張良に通じるから別名が今張良、歌にすれば「昔楠木、今半兵衛」。
竹中半兵衛様は凄いですねそれをビビらせた殿下はまた凄い岐阜城を乗っ取ったの成り行きはオシッコをかけられたからとは殿下は半兵衛様を敵に回さなくって良かったですね
軍略ではないですが『小便』つながりで…軍談の席の最中に息子の左京(後の竹中重門)小用に厠へ立とうとすると半兵衛は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったらしい。信頼度の低い『武辺咄聞書』での記述なので眉唾モノですが。。。
その逸話の他、安い馬を乗り替えろ!感状なんて重宝するな!と、現実主義を突き詰めた戦闘マシーンか何かのように思えてきます
講談しかそんな話はないですけどね
一部は、その通りです。だからといって全てを懐疑的に捉えると正しい判断が出来ません。ここの話、真実もあります。真実から伺える戦国一の軍略家である事は間違いありません。
飛騨の国から仮面の忍者を呼んだのも竹中半兵衛です。
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎だった頃琵琶湖のほとりに・・・
マスク・ザ・レッドですな。
半兵衛は余りにも優秀すぎて、斉藤龍興のような凡人にはその優秀さが分からなかったのだろう。戦国でもトップクラスに優秀な人物が家臣としていても、それを見抜く眼力がなく、斎藤飛騨守ごとき奸臣と戯れていることしかできなかった情けない人物。これでは稲葉山城を追われても仕方がない。似たような話は現代でも会社やプロ野球でよく聞くように思う。
竹中半兵衛は、戦国時代で最もIQが高かったと言われてますね^^IQが違い過ぎると低い人と会話が成立しないそうなので、当時お子ちゃまでおつむてんてんな斎藤竜興(でも人生最後頑張った!)には何言ってるか分からなくてつまらなく映ったのかもしれませんねwww普通の人とも意思疎通が難しいから、その前半生は世捨て人のような状態だったんじゃないかと想像しています。同じように知能が高い秀吉や官兵衛に出会えてからは「水を得た魚」のような気分だったのではないでしょうか^^?
義龍殿なら理解できなくてもすげえこと考えてるのは分かるんで重用したでしょうね。道三なら理解できたので傍らから離さなかったしょう。龍興は阿呆。半兵衛は張良や元就みたいにはかりごともできれば、用兵家としてもかなり優秀なんでそこが魅力的ですね。張良は凡将ではないですがそんな凄い指揮官ではないです。
@@魯智深和尚 張良子房は指揮官ではなく軍師です。つまり、戦術家でなく戦略家ということですね。三国時代で言えば、曹操に対する荀彧文若ですね。
しかし、信長は良く謀反されてるよね!最後、謀反で死んでるし!その点、秀吉や家康は謀反があまり無いよね~
それだけ信長が周囲から反感を買っていたという証拠かと。本能寺の変で光秀以外の黒幕が朝廷、秀吉、家康、義昭、堺衆、キリスト教会だとの説が囁かれてるのはこれらの勢力も信長に反感を買っていたからでは?
最初の十面埋伏は眉唾だと思う。竹中家の動員兵力なんて100〜200人程度だろうし、そもそもそんな武功があったのなら、その後小姓におしっこ引っ掛けられないよね😅
あなたの思いは正しい。絵本太閤記にしか書かれていない、江戸時代の創作です。ただ創作はこれのみで、戦国一の軍略家である事は間違いありません。
ただ、このあと1563年 新加納の戦いでも、半兵衛の戦術により斎藤軍は織田軍に勝利している。すなわち、信長は1560年 今川軍25000人の軍勢に対し、桶狭間の戦いに勝ち、のりにのってはいたが半兵衛には勝てなかった。斉藤飛騨守におしっこをかけられたのはその後。
@@745yop6半兵衛は戦略にたけていたのは、紛れもない事実ですがかといって斎藤軍の作戦を任せられるはずはありません。その戦い全て江戸時代での創作です。西美濃三人衆がいるのに若輩者半兵衛に任せる筈が無い。もし、本当ならそれほど頼りにしている者に小便などかけるのはおかしいと思いませんか?全く辻褄が合わない話です。誤解しないで頂きたいのは竹中半兵衛は、このように事実と創作が混在してますが、事実の稲葉山城乗っ取りと松寿丸の救命だけから伺うことが出来る戦国一の優秀な武将である事には間違いありません。
しょーもない子はいつの時代にもいるね…
芝居は臭いけどめっちゃオモシロいね。
テスト
稲葉山城は堅固ではない。
いや 堅固でしょ
堅固だけど何度か落ちてますね。正攻法では難しいかと。織田信秀は大敗してますしね。
岩山の城なので水の確保が難しいんですよ。溜め井戸しかない。
@@浜野高伸-t9t堅固では無いかと…城の間道、抜け道等による城攻めでは、城側の兵の量も必要だし、縄張りを熟知されたら終わり。結論、山城全体で言える所の山頂に向かって攻めずらいだけで、要害というのも適当でない様な気がします。小谷城程度でしょうか
@@明石則実 それな。水の手に弱点があって5回ぐらい落城してるよね。ただ相手がそれを知って無いと落とせないけどさ
ご覧頂きありがとうございます。
戦国時代を代表する名軍師、竹中半兵衛の戦略の数々、いかがだったでしょうか。
皆さんの知る、竹中半兵衛の偉業も、ぜひ教えてください。
本日も暑い中、名古屋城に登城頂きありがとうございます。お盆期間中も多くの視聴者さんに声掛け頂き、励みになっています。
ぜひ、皆様、武将隊に会いに名古屋城でお待ちしています。
最後、官兵衛様にかわってましたよ。
半兵衛様の間違いでは?
竹中半兵衛は優れた戦術家であった
と、同時に優れた治政家でもありました。三木城攻囲中に、半兵衛が三木周辺の村民の生活を助けるため山林や田畑を寄進し、三木城を攻め落とした秀吉が農民に対し年貢等を免除したが、これもその半年前に病没した半兵衛の献策でした。現在に至っても竹中田とか竹中山の名前が残り、三木市にあるお墓には、今だに線香が絶えないのです。😢
半兵衛が秀吉に
半兵衛「信長様はお一人で全部決めてしまわれる方で、私が仕えても何の意味も無いでしょう」
秀吉「むぅ…」
半兵衛「ですが…貴方になら仕えても良い」
と名門出のエリートの半兵衛が、農民出の叩き上げの秀吉に仕える事を選んだエピソードマジで好き
秀吉にとって無二の親友ともいえる関係の始まりのお話
とても分かりやすくて良かった
上月城支援の失敗の後、秀吉は一時的に播磨攻めの責任者を外され、休暇名目で信長に1月ほど但馬に飛ばされているが、病身の半兵衛は療養のためか秀吉と同行している。
初期の三木城攻めの指揮は信長が取っており、半兵衛の策をどれだけ参考にしたのかも不明だし、半兵衛は継続して戦に出れる健康状態で無かったうえ途中で死去したので、長期化した事などを半兵衛の責任にするのはさすがに酷。
戦術ではないけど、松寿丸(後の黒田長政)を匿った話も印象的。長政は後年の関ヶ原の戦い等でも活躍するので、まさに歴史を変えた話。
竹中半兵衛でなければ出来なかった事でした。他の者には匿うという発想すら浮かばないし、浮かんだとしても信長の家来だからこそ出来ない。よく黒田官兵衛はつきが無かったと言われますが、なんの❗
竹中半兵衛がいたことが大きな幸運でした。
官兵衛と半兵衛が優秀だったから秀吉が天下を取れたのかもしれないなぁ
秀吉から加増するとの書状を貰ったのに一向に約束が果たされぬと愚痴る官兵衛に、証拠の書状に目を通した後いきなり焼き捨てた半兵衛。
「何をなさるか」と目の色を変える官兵衛に「こんなものがあるから不満を抱く。持っていても、そこもとの為にならん」と諭した話が好き。
大樹に例えた秀吉には「華(か) よりも葉(は)が必要であった」
とは
「か」んべえ
が
「は」んべえに言った本音でしょう。
友の子を
護り隠して
友を待ち
知恵第一の
日の本男児
石山合戦から学んだ兵站システムをさらに洗練構築して大規模包囲戦、大規模土木工事とかシスティマチックな戦略を完成。ある意味、三成の師匠。彼無くしては長期に渡る朝鮮の役も不可能だった。
土木工事うんぬんは、別人の事ですよ。
竹中藤兵衛正高
の事だと思います。
このRUclipsでも混乱して投稿しているのをよく観ます。
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淀君がいなくなれば秀頼も生まれていなかったことになり、おそらく秀次が関白として秀吉の後継を全うしたことになる。秀次は格別優秀な人物ではなかったが、家臣に支えられれば政務をこなせる能力は持ち合わせていたと考えられ、秀吉死後、家康がおとなしくしていれば、豊臣の天下はしばらく続いたのではないか。逆に家康が史実のように豊臣をないがしろにして勝手なことを始めると、史実のようになんらかの戦が起き、徳川政権になる可能性が高い。
竹中半兵衛が生きてたら歴史は変わったよね~
秋になったら名古屋城でも行こかな。
戦国武将最強天才軍師竹中半兵衛公の出生地は岐阜県の大野町にありますけどとても質素な案内板だけで私的には不満です。もっと大野町と垂井町とで竹中半兵衛公を盛り上げて頂きたく思っています。ありがとう御座いました。
半兵衛さん御本人が、控えめな方だったから・・・
重元は「しげちか」
と読みます。
今孔明
それじゃ官兵衛が今司馬懿?
必要なら味方をも欺く半兵衛が今孔明。
野心はあるものの現実的な策で敵を嵌める
官兵衛が今司馬懿ってか?
上月城戦って見せしめの殺戮に恐怖するどころかその後すぐに宇喜多が少勢で城を奪い返しています。結果的に毛利と宇喜多のほうの勝利に終わってる。この戦い、尼子勢は見捨てられてるし羽柴勢も結構損害出してますよ。あと明石は黒田官兵衛の親戚でもあるから調略はさほど難しくなかったのでは。
官兵衛の親戚の明石は、播磨枝吉城の明石則実です。宇喜多配下の明石ではありません。
ウソは言わないように。
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動画とはぜんぜん関係ない話で投稿主の方には悪いけど、半兵衛が現代に生きてたら将棋、囲碁、麻雀で凄い作戦を立案して名人の名を欲しいままにしてたのでは?後、アーケードゲームの「英傑大戦」でも日本トップのプレイヤーになっていたと思う。これだけ人を使いこなす人物だし。駒や碁石等をも使いこなせるかと。
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失礼だが半兵衛の出生地は垂井町では無く大野町。垂井町は半兵衛出生後、父重元が奪った土地。
確かに
垂井町の看板には、
「竹中半兵衛ゆかりの地」
と書いてありますから出生地とは言ってませんね。
黒田官兵衛の息子を匿った所ですかね。
ナレーションの女性、昔聴いてた『三国志研究室』チャンネルの方と声が似てる🤔
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後にも先にもたった16人で城を乗っ取った武将がいたか?💦💦
主君の命令を無視して人質である子供を救って…半兵衛死後に(官兵衛が)無実だと判明し主君に感謝された武将がいたか?💦💦💦
おお❗ 同士よ‼️
稲葉山が堅城かどうかは関係ないかな…たしか半兵衛は美濃三人衆の誰だったかと縁故があって乗っ取りは16人で鮮やかに成功させ、そのタイミングで縁者率いる2000人で城下制圧するまでプロデュースして自ら実行、そして半年以上信長に侵攻を許さない完璧な作戦したのは事実で…この件だけでも楠木正成に比肩する名将です……そしてあっさり城を返してスカウトにきた朝倉の客臣として隠居するのが張良に通じるから別名が今張良、歌にすれば「昔楠木、今半兵衛」。
竹中半兵衛様は凄いですねそれをビビらせた殿下はまた凄い岐阜城を乗っ取ったの成り行きはオシッコをかけられたからとは殿下は半兵衛様を敵に回さなくって良かったですね
軍略ではないですが『小便』つながりで…
軍談の席の最中に息子の左京(後の竹中重門)小用に厠へ立とうとすると半兵衛は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、立ってはならない。竹中の子が軍談に聞き入って座敷を汚したと言われれば、竹中家の面目であろう」と言ったらしい。
信頼度の低い『武辺咄聞書』での記述なので眉唾モノですが。。。
その逸話の他、安い馬を乗り替えろ!感状なんて重宝するな!と、現実主義を突き詰めた戦闘マシーンか何かのように思えてきます
講談しかそんな話はないですけどね
一部は、その通りです。だからといって全てを懐疑的に捉えると正しい判断が出来ません。ここの話、真実もあります。真実から伺える戦国一の軍略家である事は間違いありません。
飛騨の国から仮面の忍者を呼んだのも竹中半兵衛です。
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎だった頃
琵琶湖のほとりに・・・
マスク・ザ・レッドですな。
半兵衛は余りにも優秀すぎて、斉藤龍興のような凡人にはその優秀さが分からなかったのだろう。戦国でもトップクラスに優秀な人物が家臣としていても、それを見抜く眼力がなく、斎藤飛騨守ごとき奸臣と戯れていることしかできなかった情けない人物。これでは稲葉山城を追われても仕方がない。似たような話は現代でも会社やプロ野球でよく聞くように思う。
竹中半兵衛は、戦国時代で最もIQが高かったと言われてますね^^
IQが違い過ぎると低い人と会話が成立しないそうなので、当時お子ちゃまでおつむてんてんな斎藤竜興(でも人生最後頑張った!)には何言ってるか分からなくてつまらなく映ったのかもしれませんねwww
普通の人とも意思疎通が難しいから、その前半生は世捨て人のような状態だったんじゃないかと想像しています。同じように知能が高い秀吉や官兵衛に出会えてからは「水を得た魚」のような気分だったのではないでしょうか^^?
義龍殿なら理解できなくてもすげえこと考えてるのは分かるんで重用したでしょうね。道三なら理解できたので傍らから離さなかったしょう。
龍興は阿呆。
半兵衛は張良や元就みたいにはかりごともできれば、用兵家としてもかなり優秀なんでそこが魅力的ですね。張良は凡将ではないですがそんな凄い指揮官ではないです。
@@魯智深和尚 張良子房は指揮官ではなく軍師です。つまり、戦術家でなく戦略家ということですね。
三国時代で言えば、曹操に対する荀彧文若ですね。
しかし、信長は良く謀反されてるよね!
最後、謀反で死んでるし!
その点、秀吉や家康は謀反があまり無いよね~
それだけ信長が周囲から反感を買っていたという証拠かと。本能寺の変で光秀以外の黒幕が朝廷、秀吉、家康、義昭、堺衆、キリスト教会だとの説が囁かれてるのはこれらの勢力も信長に反感を買っていたからでは?
最初の十面埋伏は眉唾だと思う。竹中家の動員兵力なんて100〜200人程度だろうし、そもそもそんな武功があったのなら、その後小姓におしっこ引っ掛けられないよね😅
あなたの思いは正しい。
絵本太閤記にしか書かれていない、江戸時代の創作です。
ただ創作はこれのみで、戦国一の軍略家である事は間違いありません。
ただ、このあと1563年 新加納の戦いでも、半兵衛の戦術により斎藤軍は織田軍に勝利している。すなわち、信長は1560年 今川軍25000人の軍勢に対し、桶狭間の戦いに勝ち、のりにのってはいたが半兵衛には勝てなかった。
斉藤飛騨守におしっこをかけられたのはその後。
@@745yop6
半兵衛は戦略にたけていたのは、紛れもない事実ですが
かといって斎藤軍の作戦を任せられるはずはありません。
その戦い全て江戸時代での創作です。
西美濃三人衆がいるのに若輩者半兵衛に任せる筈が無い。
もし、本当ならそれほど頼りにしている者に小便などかけるのはおかしいと思いませんか?
全く辻褄が合わない話です。
誤解しないで頂きたいのは竹中半兵衛は、このように事実と創作が混在してますが、事実の稲葉山城乗っ取りと松寿丸の救命だけから伺うことが出来る戦国一の優秀な武将である事には間違いありません。
しょーもない子はいつの時代にもいるね…
芝居は臭いけどめっちゃオモシロいね。
テスト
稲葉山城は堅固ではない。
いや 堅固でしょ
堅固だけど何度か落ちてますね。正攻法では難しいかと。織田信秀は大敗してますしね。
岩山の城なので水の確保が難しいんですよ。溜め井戸しかない。
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堅固では無いかと…
城の間道、抜け道等による城攻めでは、城側の兵の量も必要だし、縄張りを熟知されたら終わり。
結論、山城全体で言える所の山頂に向かって攻めずらいだけで、要害というのも適当でない様な気がします。
小谷城程度でしょうか
@@明石則実 それな。水の手に弱点があって5回ぐらい落城してるよね。ただ相手がそれを知って無いと落とせないけどさ