Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
敵に塩を送ったのも 毛利の三本の矢も そもそも歴史書は勝ち残った方が都合の良い事を残すし殆どが後々書かれた 忠臣蔵も雪の夜中ではなく 昼間の日本晴れうちの親父が良く言ってた「誰も見た物はおらん」と
それを言ったら歴史なんて面白くも何ともない。そして嘘の歴史を学ぶ意味もない。
お兄さんの仕事を考えると歴史の嘘の暴くっていうのは随分と挑戦的だね。そこが良い
それな。
この動画の騎馬隊はいなかったという解説は嘘です。
過去最高傑作まとめ
氏政さん、良い人だったみたいよ。
馬防柵は何段か破ったようだからなかなか頑張った
どうしても武士中心になってしまうけれど、安土桃山までは公家の権威や影響力もまだまだ残っていたし、寺社勢力がもつ経済流通医療などの文化力資本力も重要であったと考えています。武家以外の視点から見た戦国時代、というのを見たいのですが世間一般には需要は無いでしょうね
0:00:30 これは執権北条の家紋で、後北条は縦につぶれた形ですよね。
面白くエンタメ化した小瀬甫庵をガチだと思ってる歴史学者もいるからな。中にはどこの資料からそういう風に読み取ったか、ソースも一切言わないのまでいるし。
秀吉は毛利征伐の時 進むにつれて 信長を呼ぶ時には街道を整備して(道を広げ)た事実があります
美濃のマムシという名で知られる斎藤道三も実はそのあだ名は昭和の小説に由来するw
謙信の車懸りって、騎馬突撃のことか!!
武田の騎馬隊の利点は、正確な情報伝達と支援部隊投入のその迅速性なのかもしれない。と思った。
関ヶ原の合戦は、各国軍人に布陣を見せたら西軍の完勝を予想するんだとか、東軍勝利を伝えても首を捻るばかりだと。
この動画の解説を鵜呑みになさらないでください。騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、知識がアップロードされていない。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
『火牛の計』伊勢宗瑞のよる小田原城奪取の約300年前の木曽義仲対平氏の倶利伽羅峠の戦いでも使われたと聞きますが、そちらも同様なのでしょうか?
木曽義仲の火牛の計は、[源平盛衰記]に登場するようです!しかし、同時代の九条兼実が書いた日記[玉葉]には登場せず、また[平家物語]にも登場しない事から、こちらの火牛の計も創作と考えられているようです!
武田の騎馬隊は『赤備え』の山県昌景隊だけでしょ🎉なんてね、🤭そう思い込みたい歴史の面白さだよね🎉🎉
あまり適当な話を広めるのはやめていただきたい。騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、知識がアップロードされていない。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
日本古来の馬はサラブレッドやアラブ種のように大柄ではないですからね。戦場で小回りを利かせる馬術もあったようですし。
言いたい事は色々ある事だけは分かり申した😂😂
本庄惣右衛門覚え書きは天理図書館蔵品。
武田騎馬隊は、おぶとらまさが作って、おぶさんが義信さん事件で切腹してから弟の山縣昌景が引き継いだんだよね。武田騎馬隊とは武田24将の彼等の事を言うんじゃないかな?
ワシもご飯に汁かけるかどうか、かけるとしてどれくらいかけるか、そもそも飯の量とか多すぎたり少なかったりとかしょっちゅう間違ってるから氏政様と同じくらいどんくさいんでしょうw
飯くらい気を使わずおいしく食べるのがいいよ(笑)あなたの食べ方は間違ってないよ。
今の大きさの馬ではないと思う。小学生5年生位の武将男子。ポニーみたいな馬に乗る小学生?想像してニヤけた。
対平氏戦の大将は義経じゃなく範頼だが?
今も昔もifは人々の心を引き付けるみたいですね。
確かに戦は長い槍を使い頭を叩いて刀で斬ると聞いたことがあるが本当なん?
講和交渉はしてたし、補給路としての、街道は整備はしてた秀吉君、
今でも兵糧関係は、大変だろうが、奴隷売買が有っただろうは想像に硬いんだが、帰りたがらないとは、意外だよな?、
両班、白丁以外はは虫けらで、いきなり◯されても当たり前の北斗の拳の世界の住民が働いたらご飯食べれて、家族持てて、頑張ったらお金も貯めれる異世界に行ったらどうですか?元の世界に戻ってハードモードの生活を選ぶ人いますかね?まぁおかげで有田焼が発展しましたが
歴史を学ぶ前に日本語どこに置いてきたん?
これも作り話
なまじっか、優秀だから秀吉に頭を下げたく無かったやろね!
本能寺の変は斎藤利三の暴発では?
いや秀吉が信長打つように全部仕組んでたと思います。家康と秀吉は信長の討伐ついでに家康があわよくば、死んでくれたらとおもってたのでは。光秀の末裔が龍馬ともささやかれるけど、龍馬の先祖は郷士株を買った商人。元々侍の身分じゃない。
秀吉には、色々な側近が居たから、難しいことは側近にやらしたんよ!
まー全く子供が出来なかったのに、淀君だけ2回も子供が出来たのか、どう考えてもおかしいんよ!
体の相性ってあるのよ(笑)若い頃いくらやっても出来なかった子供が年を取ってからできたとか結構あるよ。
何もかにも、松倉君が悪いのが、天草の乱で、
馬防柵ですよね馬房柵になってませんか?
戦国の世も同じだよな、おかんから聞いたとは言えさ、息子としては、面白くは無かろう、貧しかったが故の結果だし、多指症らしいのは、とある作家が書いてたな?、
騎兵の使い方を知らないばかりか、槍の使い道も知らないようでw見た目のイメージと違い、槍は叩くんじゃぞ。面白くはあるけど呆れますな。弓も撃ちぬくものだとか言い出しそうだな。
逸話は浪漫。嘘でも面白きゃいい。三国志も演義抜きの正史のみだと盛り上がらなかっただろうな。
眉唾
後段の何とか説は不要。説じゃなくて今の研究結果を示して欲しかった。全半は良かったです。
モンゴル・匈奴などの北方遊牧民も小柄な蒙古馬に乗り騎馬で戦ったとされますが、やはりウソなのでしょうか?もし本当ならば彼らと日本の戦国時代の技術的格差はいったい何なのだろう。
文化的な違いでしょうね。 モンゴル族などは子供の頃から馬に乗って過ごしますし、何より馬の数が圧倒的に多い上(1人に対して、馬が複数→替え馬として連れて行く)、戦術も動画にあったような槍や刀ではなく軽弓、馬上からの射撃です。 全員が馬に乗り、槍などの直接攻撃が届かない距離を(馬の機動力で)保ち、取り囲んで撃ちまくったと言われています。 歩兵側も反撃はしますが、走る騎兵に矢を当てるのは難しく、そもそも訓練された兵でないと怖がって逃げてしまいますし。ただ、それでも無敵ではなかったようで、城攻めでは結構苦戦していますし、その対処法として征服した異民族による歩兵部隊を従軍させたり、捕虜を見せしめに殺して敵が城に籠らない(=恐怖して逃げる)ように仕向けたりと、色々工夫して戦ってますね。参考までに。 ruclips.net/video/dx_tvVTY3YA/видео.htmlsi=ED5Ds25MgHtJJP4s
モンゴルは草原の国で、草原にて馬を使い日常的に狩猟を行うので[馬術][騎射]に優れているのだと。そして、狩猟は日常の事なので、皆が馬術・騎射に優れた兵士になりえるのだと。戦闘スタイルは、草原ゆえに[機動力を重視した]軽装弓騎兵が主で、優秀な騎兵の数の多さを活かした集団戦が得意なんだと。日本は山国で馬の機動力を活かしづらく、モンゴルに比べると日常的には馬を使用しないので、それゆえにモンゴルに遅れをとるのかと。しかし、日本の長弓は扱いが難しく馬上での取り回しが悪いものの、射程・貫通性能が高いらしく、名手の騎射の攻撃力は高いとされているようです。鎌倉武士のスタイルは、山国ゆえに機動力を捨て[大鎧を着用した重装弓騎兵]に高火力の長弓使用。戦国時代にもなると、長弓を使いこなす為の育成コストが悪いから長弓スタイルが廃れ、モンゴルに比べると見劣りしてしまうようになったのかもしれません。
騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、この動画主は知識がアップロードされていないです。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
@@清忠真田 いやいや武士は戦国室町以前は重装弓騎兵の集団ですよ?元寇の絵巻物でも騎乗した武士団が高麗歩兵に犬追物や流鏑馬で騎射突撃してますし、高麗軍の戦闘記録にも「倭軍の騎兵結束す」とあります。
一応言っておくとモンゴル騎兵の4割くらいは重装槍騎兵だよw 騎乗弓射一辺倒ではなく、軽装騎兵(これも槍騎兵が居た)で撹乱し敵をおびき寄せて後方に配しておいた重騎兵で粉砕する手法がとられた。
胡散臭い
ちょっとアンタ嘘でいいんだよ(笑)
広まるは誰の仕業か後の人作り話の昔語りを
家康にはおそらく?家族愛が極端になかった気がします 今見たいに子は宝のような世間の風潮が薄い気がしますだから?子供ととことん話す時間も無いし 妻に対しても同じ気がします 今見たいな 子供が学校に上がる時に記念撮影したりお祝い事もないから 子供と家臣と天秤にかけ家臣を選んでるしまた武田信玄も実子の義信に対して駿河遠江侵略で今川から実子義信に嫁にもらった経緯がありながらきちんととことん話すことをしないで粛清してるから もし義信に対して信玄がきちんと話す性格を持ち合わせ家族一致団結してれば?信玄無き後武田勝頼見たいに家臣の求心力に失敗する事無いと思う もちろん武田義信武田勝頼双方がどちらか次いでいてもあの信長は頭を悩ます存在でしたよね 家康が家族愛が薄いことをあげる理由は後一つ 結城秀康が産まれた際に顔を見てこの先露骨に会わない事を態度に表してるしなんと言うか?当時の大名は今見たいに 親父呼ばわりや息子よ❗️見たいなぶつかり合いが先ず無い時代なんですね 今見たいに 妻息子娘に対して 自分が身をこにして働き養うんだって感情や 子の成長を目を細めて時に優しく厳しくななんて?時代は思うに?戦後アメリカの文化が入って来てからなのかな? だからあまり徳川の時代は好きになれない 秀吉がもう少し節度や 周りに耳を傾ける気持ちがあれば 秀次の関白政治は磐石だし 淀なんて近づけない またこんな逸話(江戸時代に秀吉をおとしめるデマ)があります 秀吉が茶会で家康にこれでもかと財宝や今で言う何億の品をこれでもかこれでもかと見せてなあ家康 お主の宝はなんじゃ?と聴いたら 家康は殿下家康には日の本にくらぶるべきもない譜代の家臣がいます 秀吉は赤面したらしい
証拠が内から創作のし放題ですねだが足りないのです知識が豊富でなければ小水流井発想もできないよって貧乏の説は無くなる更に商売的知識が豊富な発想方法です室町時代だから寺子屋の存在が多かったのでしょうとにかく寺子屋は経営方針がバラバラで全寮制も有り年上は年下の面倒は見てたし子供を放置するは罪にと成っていた時代です気軽に他人の命を奪う事も禁じられていたのですドラマとかほとんどが時代背景迄創作だらけ真実は殆ど描かれていない売るが為の商売ですからね日本人の式記率日本書紀刊行以来日本中で勉強熱心と成っているのです 日本中が共通語となったからでしょう それまでの先代文字は止めて日本書記が教科書と成ったのでしょ平安期はひらかなの草体文字は女性専用となり男児は漢字カタカナを使用 女性優位はこの時点でも顕著に表れているのです草体文字は男性禁止ですよ日本人は日本人発生時点から女性上位が決まっていたのでしょう太陽神も女性だよね女性は守られるもの男児は女性を守る為に生かされているのです 日本仏教もお釈迦様は女性を男児は守護する為に存在させられているのです 昭和45年まで女性上位が続いていたのです サザエさんの漫画の通りです
敵に塩を送ったのも 毛利の三本の矢も そもそも歴史書は勝ち残った方が都合の良い事を残すし殆どが後々書かれた 忠臣蔵も雪の夜中ではなく 昼間の日本晴れ
うちの親父が良く言ってた「誰も見た物はおらん」と
それを言ったら歴史なんて面白くも何ともない。そして嘘の歴史を学ぶ意味もない。
お兄さんの仕事を考えると歴史の嘘の暴くっていうのは随分と挑戦的だね。そこが良い
それな。
この動画の騎馬隊はいなかったという解説は嘘です。
過去最高傑作まとめ
氏政さん、良い人だったみたいよ。
馬防柵は何段か破ったようだからなかなか頑張った
どうしても武士中心になってしまうけれど、安土桃山までは公家の権威や影響力もまだまだ残っていたし、寺社勢力がもつ経済流通医療などの文化力資本力も重要であったと考えています。
武家以外の視点から見た戦国時代、というのを見たいのですが世間一般には需要は無いでしょうね
0:00:30 これは執権北条の家紋で、後北条は縦につぶれた形ですよね。
面白くエンタメ化した小瀬甫庵をガチだと思ってる歴史学者もいるからな。
中にはどこの資料からそういう風に読み取ったか、ソースも一切言わないのまでいるし。
秀吉は毛利征伐の時 進むにつれて 信長を呼ぶ時には
街道を整備して(道を広げ)た事実があります
美濃のマムシという名で知られる斎藤道三も実はそのあだ名は昭和の小説に由来するw
謙信の車懸りって、騎馬突撃のことか!!
武田の騎馬隊の利点は、正確な情報伝達と支援部隊投入のその迅速性なのかもしれない。と思った。
関ヶ原の合戦は、各国軍人に布陣を見せたら西軍の完勝を予想するんだとか、東軍勝利を伝えても首を捻るばかりだと。
この動画の解説を鵜呑みになさらないでください。騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、知識がアップロードされていない。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
『火牛の計』伊勢宗瑞のよる小田原城奪取の約300年前の木曽義仲対平氏の倶利伽羅峠の戦いでも使われたと聞きますが、そちらも同様なのでしょうか?
木曽義仲の火牛の計は、[源平盛衰記]に登場するようです!
しかし、同時代の九条兼実が書いた日記[玉葉]には登場せず、また[平家物語]にも登場しない事から、こちらの火牛の計も創作と考えられているようです!
武田の騎馬隊は
『赤備え』の
山県昌景隊だけでしょ🎉
なんてね、🤭
そう思い込みたい歴史の面白さだよね🎉🎉
あまり適当な話を広めるのはやめていただきたい。騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、知識がアップロードされていない。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
日本古来の馬はサラブレッドやアラブ種のように大柄ではないですからね。戦場で小回りを利かせる馬術もあったようですし。
言いたい事は色々ある事だけは分かり申した😂😂
本庄惣右衛門覚え書きは天理図書館蔵品。
武田騎馬隊は、おぶとらまさが作って、おぶさんが義信さん事件で切腹してから弟の山縣昌景が引き継いだんだよね。武田騎馬隊とは武田24将の彼等の事を言うんじゃないかな?
ワシもご飯に汁かけるかどうか、かけるとしてどれくらいかけるか、そもそも飯の量とか多すぎたり少なかったりとかしょっちゅう間違ってるから氏政様と同じくらいどんくさいんでしょうw
飯くらい気を使わずおいしく食べるのがいいよ(笑)あなたの食べ方は間違ってないよ。
今の大きさの馬ではないと思う。
小学生5年生位の武将男子。
ポニーみたいな馬に乗る小学生?
想像してニヤけた。
対平氏戦の大将は義経じゃなく範頼だが?
今も昔もifは人々の心を引き付けるみたいですね。
確かに戦は長い槍を使い頭を叩いて刀で斬ると聞いたことがあるが本当なん?
講和交渉はしてたし、補給路としての、街道は整備はしてた秀吉君、
今でも兵糧関係は、大変だろうが、奴隷売買が有っただろうは想像に硬いんだが、帰りたがらないとは、意外だよな?、
両班、白丁以外はは虫けらで、いきなり◯されても当たり前の北斗の拳の世界の住民が働いたらご飯食べれて、家族持てて、頑張ったらお金も貯めれる異世界に行ったらどうですか?元の世界に戻ってハードモードの生活を選ぶ人いますかね?まぁおかげで有田焼が発展しましたが
歴史を学ぶ前に日本語どこに置いてきたん?
これも作り話
なまじっか、優秀だから秀吉に頭を下げたく無かったやろね!
本能寺の変は斎藤利三の暴発では?
いや秀吉が信長打つように全部仕組んでたと思います。家康と秀吉は信長の討伐ついでに家康があわよくば、死んでくれたらとおもってたのでは。
光秀の末裔が龍馬ともささやかれるけど、龍馬の先祖は郷士株を買った商人。元々侍の身分じゃない。
秀吉には、色々な側近が居たから、難しいことは側近にやらしたんよ!
まー全く子供が出来なかったのに、淀君だけ2回も子供が出来たのか、どう考えてもおかしいんよ!
体の相性ってあるのよ(笑)若い頃いくらやっても出来なかった子供が年を取ってからできたとか結構あるよ。
何もかにも、松倉君が悪いのが、天草の乱で、
馬防柵ですよね
馬房柵になってませんか?
戦国の世も同じだよな、おかんから聞いたとは言えさ、息子としては、面白くは無かろう、貧しかったが故の結果だし、多指症らしいのは、とある作家が書いてたな?、
騎兵の使い方を知らないばかりか、槍の使い道も知らないようでw
見た目のイメージと違い、槍は叩くんじゃぞ。
面白くはあるけど呆れますな。
弓も撃ちぬくものだとか言い出しそうだな。
逸話は浪漫。
嘘でも面白きゃいい。
三国志も演義抜きの正史のみだと盛り上がらなかっただろうな。
眉唾
後段の何とか説は不要。説じゃなくて今の研究結果を示して欲しかった。全半は良かったです。
モンゴル・匈奴などの北方遊牧民も小柄な蒙古馬に乗り騎馬で戦ったとされますが、やはりウソなのでしょうか?
もし本当ならば彼らと日本の戦国時代の技術的格差はいったい何なのだろう。
文化的な違いでしょうね。 モンゴル族などは子供の頃から馬に乗って過ごしますし、何より馬の数が圧倒的に多い上(1人に対して、馬が複数→替え馬として連れて行く)、戦術も動画にあったような槍や刀ではなく軽弓、馬上からの射撃です。 全員が馬に乗り、槍などの直接攻撃が届かない距離を(馬の機動力で)保ち、取り囲んで撃ちまくったと言われています。 歩兵側も反撃はしますが、走る騎兵に矢を当てるのは難しく、そもそも訓練された兵でないと怖がって逃げてしまいますし。
ただ、それでも無敵ではなかったようで、城攻めでは結構苦戦していますし、その対処法として征服した異民族による歩兵部隊を従軍させたり、捕虜を見せしめに殺して敵が城に籠らない(=恐怖して逃げる)ように仕向けたりと、色々工夫して戦ってますね。
参考までに。 ruclips.net/video/dx_tvVTY3YA/видео.htmlsi=ED5Ds25MgHtJJP4s
モンゴルは草原の国で、草原にて馬を使い日常的に狩猟を行うので[馬術][騎射]に優れているのだと。
そして、狩猟は日常の事なので、皆が馬術・騎射に優れた兵士になりえるのだと。
戦闘スタイルは、草原ゆえに[機動力を重視した]軽装弓騎兵が主で、優秀な騎兵の数の多さを活かした集団戦が得意なんだと。
日本は山国で馬の機動力を活かしづらく、モンゴルに比べると日常的には馬を使用しないので、それゆえにモンゴルに遅れをとるのかと。
しかし、日本の長弓は扱いが難しく馬上での取り回しが悪いものの、射程・貫通性能が高いらしく、名手の騎射の攻撃力は高いとされているようです。
鎌倉武士のスタイルは、山国ゆえに機動力を捨て[大鎧を着用した重装弓騎兵]に高火力の長弓使用。
戦国時代にもなると、長弓を使いこなす為の育成コストが悪いから長弓スタイルが廃れ、モンゴルに比べると見劣りしてしまうようになったのかもしれません。
騎馬隊が存在しない論はかなり昔(2009年くらい)に言われた間違った話で、この動画主は知識がアップロードされていないです。そもそも騎馬隊を何に定義するかにもよるが、騎乗に乗って集団で戦う編成を騎馬隊と定義するなら騎馬隊はあったよ。状況に応じて馬から降りて戦うこともあったし、騎乗突撃をすることもあっただけで、騎乗で戦うことはなかったとか、騎馬が集団で突っ込むことはなかったとかは甚だ間違った話。実際、長篠合戦に参加した徳川の家来の水野氏の記録に武田の騎馬の集団が数十騎で何度も突撃してきたと記録されているし、馬が貴重とかいうが武士が乗る軍馬に限って言ってもピンキリであり、馬が貴重というのは動画主のただの主観に過ぎず馬牧場が少ない西日本と比べて東日本は多数の馬牧場があってある程度の数の馬を生産していた。史料で言うなら「武田信玄陣立て書」や北条氏の陣立ての「備」の中に数十から100程度の「騎馬の衆」が記録されており、実際に騎乗突撃を示す「乗り込み、乗り入れ」等の記述が多々見られている。そもそも明の記録にも日本軍が鉄砲の輪番射撃(交替で射撃すること)の後に遊撃の騎兵を繰り出し進退極まるという内容が記録されており、史料から騎馬の集団が騎乗で戦うことは普通にあったといことがわかります。そして武田家は騎馬にて戦うものは身分の貴賤問わず完全装備せよと命令も出しており、一騎相と呼ばれる身分が低く従者のいない騎馬武者が多々おり、この動画の騎馬隊についての解説は完全に間違ったものだと言えます。
@@清忠真田 いやいや武士は戦国室町以前は重装弓騎兵の集団ですよ?元寇の絵巻物でも騎乗した武士団が高麗歩兵に犬追物や流鏑馬で騎射突撃してますし、高麗軍の戦闘記録にも「倭軍の騎兵結束す」とあります。
一応言っておくとモンゴル騎兵の4割くらいは重装槍騎兵だよw 騎乗弓射一辺倒ではなく、軽装騎兵(これも槍騎兵が居た)で撹乱し敵をおびき寄せて後方に配しておいた重騎兵で粉砕する手法がとられた。
胡散臭い
ちょっとアンタ嘘でいいんだよ(笑)
広まるは
誰の仕業か
後の人
作り話の
昔語りを
家康にはおそらく?家族愛が極端になかった気がします 今見たいに子は宝のような世間の風潮が薄い気がしますだから?
子供ととことん話す時間も無いし 妻に対しても同じ気がします 今見たいな 子供が学校に上がる時に記念撮影したりお祝い事もないから 子供と家臣と天秤にかけ家臣を選んでるし
また武田信玄も実子の義信に対して駿河遠江侵略で今川から実子義信に嫁にもらった経緯がありながら
きちんととことん話すことをしないで粛清してるから
もし義信に対して信玄がきちんと話す性格を持ち合わせ家族一致団結してれば?信玄無き後武田勝頼見たいに家臣の求心力に
失敗する事無いと思う もちろん武田義信武田勝頼双方がどちらか次いでいてもあの信長は
頭を悩ます存在でしたよね
家康が家族愛が薄いことをあげる理由は後一つ 結城秀康が産まれた際に
顔を見てこの先露骨に会わない事を態度に表してるし
なんと言うか?
当時の大名は今見たいに 親父呼ばわりや息子よ❗️見たいなぶつかり合いが先ず無い時代なんですね 今見たいに 妻息子娘に対して 自分が身をこにして働き養うんだ
って感情や 子の成長を目を細めて時に優しく厳しくななんて?時代は思うに?戦後アメリカの文化が入って来てからなのかな? だからあまり
徳川の時代は好きになれない 秀吉がもう少し節度や 周りに耳を傾ける気持ちがあれば 秀次の関白政治は磐石だし 淀なんて近づけない またこんな逸話(江戸時代に秀吉をおとしめるデマ)があります 秀吉が茶会で家康にこれでもかと財宝や今で言う何億の
品をこれでもかこれでもかと見せてなあ家康 お主の宝はなんじゃ?と聴いたら 家康は殿下家康には日の本にくらぶるべきもない譜代の家臣がいます 秀吉は赤面したらしい
証拠が内から創作のし放題ですねだが足りないのです知識が豊富でなければ小水流井発想もできないよって貧乏の説は無くなる更に商売的知識が豊富な発想方法です室町時代だから寺子屋の存在が多かったのでしょうとにかく寺子屋は経営方針がバラバラで全寮制も有り年上は年下の面倒は見てたし子供を放置するは罪にと成っていた時代です気軽に他人の命を奪う事も禁じられていたのですドラマとかほとんどが時代背景迄創作だらけ真実は殆ど描かれていない売るが為の商売ですからね日本人の式記率日本書紀刊行以来日本中で勉強熱心と成っているのです 日本中が共通語となったからでしょう それまでの先代文字は止めて日本書記が教科書と成ったのでしょ平安期はひらかなの草体文字は女性専用となり男児は漢字カタカナを使用 女性優位はこの時点でも顕著に表れているのです草体文字は男性禁止ですよ日本人は日本人発生時点から女性上位が決まっていたのでしょう太陽神も女性だよね女性は守られるもの男児は女性を守る為に生かされているのです 日本仏教もお釈迦様は女性を男児は守護する為に存在させられているのです 昭和45年まで女性上位が続いていたのです サザエさんの漫画の通りです