結城秀康の生涯 秀吉に鍛えられ家康の天下取りのキーマンとなった庶子【どうする家康】
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- Опубликовано: 5 окт 2024
- 参考文献
小楠和正『結城秀康の研究』
iss.ndl.go.jp/...
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』
amzn.to/3VTVT8A
黒田基樹『結城秀康文書の基礎的研究』
(駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会『駒沢史学』第48号)
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結城秀康は、当初は家康の子として認知されなかったものの、信康事件後に実子と認められます。
その後、秀吉の元へ人質に出されるも、若い頃から朝廷対応など貴重な経験を積み、秀吉死後には石田三成の護送や伏見城の留守居役など、家康の政治を支える役割を果たしました。
関ヶ原の戦いでも、上杉景勝の抑えとなり、戦後は越前67万石を与えられ、制外の家として幕府に尊重されることとなりました。
今回は、家康の子の中では最も経験豊富な息子として、徳川家で貴重な役割を果たした結城秀康の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/...
#どうする家康 #日本史 #歴史
結城秀康が築城した福井城址も立派ですね
養浩館庭園、北ノ庄城趾(柴田神社)、一乗谷朝倉氏遺跡も行ってみたいです
関ケ原の戦い時に、家康と秀忠がいない関東の留守を任されただけで下総結城10万石から越前北ノ庄68万石と、東軍についた諸将のなかでは最大の石高加増を得たのは、やはり秀康が家康の嫡男・秀忠の兄だったからでしょうね。家康としては「次男を差し置いて三男を後継者にした後ろめたさ」があって、堪忍料として大幅な加増をしたのでしょう。
実際に秀康が越前から江戸に参勤する際は、将軍・秀忠が自ら江戸城を出て品川まで迎えに行っていたそう。参勤する大名をここまで厚遇したのは後にも先にも秀康しかいません。
漫画「花の慶次」にも出るが、秀康を「いくさ人の素質をも持ちながら生涯戦場で戦えなかった男」として描いていますね。慶次と友人になり、上杉討伐で上杉家に味方する慶次と戦場で再会する事を約束する秀康ですが、秀康は上杉との戦いを家康と部下に止められ、「ワシは前田殿と戦うんじゃ!」と慟哭するシーンが印象的でした。
松平春嶽さんの出自を今知りました、田安家からなんですね。御三卿を作った吉宗すげぇ
初めは秀吉の養子となり、高い官位を得て天皇にまで拝謁するも、秀吉の実子誕生で結城家へと変化の多い人生ですね。秀吉が生きている間は良かったでしょうが、この結城家への養子入りが結局豊臣家の後継ぎ争いに
巻き込まれない結果となり、その後の家康の天下ではかえって好都合でしたね。豊臣家の継承問題の轍を踏まず、徳川家は互いに支え合い兄弟が盛り立て合う体制にしたのが、長期政権存続の理由であり平和を謳歌できた背景ですね。関ヶ原の戦い勃発で、上杉征伐を止め戻る家康にとって、彼を残し上杉の抑えとする方策が取れたことも心強かったでしょう。しっかり父の願いを叶え、上杉降伏を仲介する働きもできたのはさすがです。彼が33歳で没していたとは、知りませんでした。彼の死が秀忠にとっては痛手だったのか、それともかえって目の上のたんこぶ消滅で喜んだのか、興味があります。ただ、両者の関係が、品川まで出迎えたり、駕籠で本丸まで入るのを許可していた逸話からも、兄に対する相応の配慮があったと思いたいです。福井藩は秀康の血は絶えてもその後も雄藩として残り、松平春嶽を生む下地は、既にこの頃からあったように感じられます。
家康は、長生きした分子供達を見送ってる。
子どもらが早死にしすぎなのか
家康が長生きし過ぎなのか どっちや
秀吉死後〜関ヶ原の秀康の動きは明らかになっていないことが多いですが、秀康がいなかったら相当苦労していただろうなとは思います。
😢
@@Mituyoshiはははは
秀康さんは確か あまり外聞の良くない病で亡くなられたんですよね?それでも 素敵な方だったんだろうと思います。築山殿は凛気と言われてましたから、ムカついたんでしょうね。築山殿と元康があんなことになったのも築山殿にだいぶ原因があったのではないでしょうか?どんなに 夫の地位が上がっても 結婚したときのまま人質の子だったのでしょう。
女性でも男性でも 伴侶との関係も含めてちゃんとその地位にあうように自分も成長していかないと、と思います。お万の方は良く堪えてなかなかの母だったと思います。
立派な兄だったのでしょうね、家督を継いだ秀忠にもしっかり兄として敬意も受けています。もう少し生きていたれたら、家門も落ち着いたかもしれませんね。
領国が越前ってのがポイントだよな。現在の福井県だから前田、京都の両方に睨みが効き、
西国の外様が攻めてきた時は紀伊、尾張の御三家と挟撃が出来る。
よほど信頼していたのが分かる。
家康の後継者にはなれなかったものの、越前松平家の初代藩主として明治維新まで続きました。
大河ドラマとして秀康はグーです😽
東京大空襲にて天下三名槍の一つにして結城家伝来の御手杵が焼失したのは残念で仕方がない。
当主が埋めるよう指示したのに家人がそんな失礼なことはできないと従わなかった結果みたいですね。。
レキショック様
大河ドラマ葵徳川三代では秀忠に対して秀康には気を遣えと家康が話してました。実際秀忠も秀康には気を遣ってました。秀康も決して秀忠に対して威張ったりしませんでした。
秀康公の頃は60万石超えだったのに
春嶽公の頃には30万石程度まで減らされるのは辛いなぁ。
秀康公のタヒ因は梅毒ですかね?
石高が減少したのは、兄弟に領地を分けたりお家騒動や跡継ぎに恵まれなかったからですね。このような理由は越前松平家に限ったことではありませんが。
実際は25万石まで減らされています。それが幕末に32万石まで加増されたのは、11代将軍・家斉の子を養子として迎え入れたからです。(同様の理由で、越前松平宗家というべき津山藩が5万石から10万石に加増されました。)
春嶽自身も、父が徳川斉匡(徳川家斉の弟)ですので、家斉の甥に当たります。
オー❗将に若きいぶし銀のダークホースですな…天晴れ❗
ライダーマンの結城丈二は秀康の子孫でしょうか?
結城秀康は何故か家康に冷遇された、一説では顔貌が気に入らないとの説もあった。
待遇の差は母親の出自なのか定かではないが、秀忠も側室の子であったはずだし疑問が残る。
紀州尾張水戸の藩主とも別格扱い、養子に出して姓が変わっても三男が将軍て何だか理不尽ですね。
秀忠の母「西郷局」は三河の名家出身ですから側室と言っても殆ど正室扱いでしたから、その西郷局との子である秀忠が信康亡き後の家康の後継者になるのは自然の流れでした。
一方の秀康の母は家康の正室であった「築山殿」の奥侍女「於万の方」でしたし、正室の預かり知らぬ間に夫の子を孕んだ彼女を側室として歓迎する筈もありませんし、そもそも秀吉の下に養子として出ているので将軍の兄と言っても初めから後継者の資格はありませんでした。
秀吉の養子で最も有能だったのが家康の子だったのは皮肉。鶴松が生まれた時に結城家に養子に出したのは大失敗。甥の秀次や小早川秀秋よりもずっと豊臣家の為に尽くしていたと思う。
もしも石田三成が豊臣とも誼がある秀康を懐柔できていたら、関ケ原の結果も変わってたのかな
武略に優れながら能力を充分発揮できずに生涯を終えてしまったのは惜しい。
前に NHKの解説で秀康の越前と忠輝の高田で加賀 前田 挟み込んだと説明していましたが この解釈でも間違いはないんでしょうが 加賀藩と彦根藩で 逆に 越前藩をサンドしたとも 言えるのでは?
どうする家康(1542~1616)の結城秀康(1574~1607)は役者的にはヨッシャアンラッキーだな♌😅
秀康は将軍にはなれなかったが、武勇に優れ、人望もあった。直系は絶えたが、分家で血筋は続いていると思う。徳川家康、秀忠に恐れられた男。豊臣秀吉が長生きしていれば、秀頼の兄として影響力があったろう。石田三成も認めた男だから、家康の天下はなかったかな。惜しいですね、若死には。
関ヶ原の戦いの折り 家康の命で上杉景勝の挙兵に備え江戸で留守居をしてました。
嫡子の秀忠は徳川主力を率いて中山道を
進軍してたけど寄り道して本戦に間に合わずでした。
秀康が滞在したのは宇都宮じゃなかったでしたっけ?
私も宇都宮だと思っておりましたが。
優秀すぎると潰されるから、家康ぬんはあえて重用しなかったのかな〜と妄想してます。ぬん?
秀康の異母弟に徳川秀忠
秀吉 家康に翻弄された人生だと思います。ホントの彼の居場所はどこだったのだろうという気がします。
秀◯の偏諱を賜ったものの翻弄された若い宰相たち、結城秀康、毛利秀元、小早川秀秋、宇喜多秀家、織田秀信...が手を組んで、関ヶ原で徳川勢でも三成勢でもない第三勢力を作って両者とやりあえばおもしろかったかも。立花宗茂や伊達政宗、佐竹義宣に島津忠恒、前田利政なんかも仲間になってくれそう。
関ヶ原の後にそう時をおかずと立たずに秀康、忠吉が亡くなり、四天王もしかりで幕府創成期にピンチがありましたね。越前家本体は秀康の血筋は途絶えましたが十万石を越える藩を複数輩出したのは幕府としてもそれなりに遠慮があったと推察します。
秀忠が宇都宮の抑えで、秀康が38000率いて中山道進んでたらどうなってたのかは気になる
秀忠江戸出発は8月24日
8月28日岐阜城陥落で家康が急遽、美濃赤坂着 (期限9月9日)書状出す
(9月10日朝、赤坂着は無理)
急いで、家康江戸出発は9月1日
第2次上田合戦、初戦の小諸城戦が9月2日、上田城戦が9月5日から1週間囲んでとして
家康さん10日で美濃大垣付近着。(すごすぎ、鬼神の速さだ)
関ケ原は9月15日
佐和山城陥落が9月17日←この頃でも秀忠合流は厳しいかもね。
誰がやっても、何も変わらんよ。
うちらの殿様😊
代ゼミで日本史を担当された結城先生のご先祖でしょうか?
結城家は秀康の子供が全員松平の名乗りになっので断絶しました。ただ鎌倉時代に別れた白河結城家は結城姓のまま(仙台藩に支えた一族は白川姓に改姓)だったそうなので、ひょっとしたらその末裔かも。
ん? 家康に毛嫌いされてたってのが割と定説じゃないの?
松井玲奈さんのお万の方、もっと出てほしかったな。
ですよね
自分の子供じゃないかもしれないってことで後継にしなかったんでしょ?
動画ありがとうございました。結城秀康好き!
秀吉の養子で(秀次のことを考えると、殺されそうで)ドキドキだけど、徳川ではできない、いい経験もされてたんですね!母親の位が高ければ、2代将軍だったんですね。悔しい思いも色々あったでしょう。家康め!
梅毒で亡くなったんですか。
でも、息子の忠直がろくでなし…。
でも越前松平家分家の当主のほとんどは直○という名前ですから、分家筋からは秀康よりも忠直のほうが宗家の初代として扱われてたのかな?と思います。