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子供の頃は、網棚は荷物を置くのではなく、人が乗って寝る場所でした。同じ料金で自前の寝台車!昭和40年代まで、ものすごい混み具合でしたよw。
毎度ご視聴いただきましてありがとうございます。とりわけ、1960年代〜70年代初頭にかけては繁忙期の長距離座席夜行では眠ってしまった小さな子を網棚に寝かせて、お父さんがずっと立って支えつづける景色を見たことがあります。車掌さんが通りかかっても何にも言わない。たいへんな時代がありましたね。
1:10 上淀川橋梁1:16 網戸3:30 鉄道弘済会の売店・駅弁の売り子さん・"賣店"の文字昭和満載ですね。冷凍ミカンはまだなかった?
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この時代すでに冷凍ミカンは売られていまして、最近、ネッククーラーとゆう、クビに巻いて涼めるグッズが売られていますけど、満員列車ではすぐに食べないで、身体のあちこちに当てて、クールダウンした後、同時に解凍も進んで食べごろになるので、買った人は大事に使った,と、旅行雑誌の記事にありました。みんな食べないで体につけてるから、画面映りもないのでは無いかと、勝手に思っております。🍊
なるほど、この頃にはあったのですね。広島の祖母宅を訪ねた折に153系の窓際テーブルで溶かしながら西へ下ったことを思い出しました。昭和の末近くまでは、弘済会の売店にありましたがどこぞの親父さんが買ってすぐに頭に載せたまま大阪駅のコンコースを歩いているのに遭遇した記憶も蘇りました。
昭和51年に、高架駅になる直前のこの佐賀駅から博多行き急行に乗った。駅の入り口の、玄関みたいな作りを覚えている
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。市の玄関駅の前後には、どこも大きな踏切があったのですが、みんな開かずの踏切でしたから、駅が高架になるということは、それが解消されたわけで、出口のないほうの殺風景な野原に新しい街が誕生しています。佐賀駅は、全国でもその典型例として高架化当時、よく報道されていました。
現代から見ると苦痛にしか思えない状況ですが、この時代はこれが普通だったので、我々が思うよりも苦痛ではなかったのかもしれません。今よりも涼しかったでしょうし。今ではスマホがないと生きていけない世の中ですが、90年代前半まではスマホどころかガラケーがなくても普通に生活できました。当然、それを苦痛と感じることはありませんでした。この当時の急行列車に相当する移動手段は、現代ならLCCや高速バスでしょうか。LCCの場合、不便な空港を発着している点、旅客を詰め込んでいる点で2流感があります。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この時代の人たちは、辛抱強かったのではなく、与えられた環境のなかで どうしたら少しでも快適に過ごせるかを渇望して工夫していたのではないかと思います。こんな映像のような環境の列車が、いまなお走っている国もあって、やはり似たような車内の過ごし方をしています。ふしぎですね。
4:06 関門海峡の牽引機はEF10の時代か。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この機関車は、戦前に登場してから10年くらいは外板が鋼製だったんですね。海水はトンネルの上からも滴るのでパンタグラフとかそのあたりがやられていたわけで、よく持ちこたえていたと思います。
門司駅は九州初の電化駅なんですよ
ただし、この時代は今ほど灼熱地獄ではなく、夜はクーラーなしでも安眠できたよ……
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画の時代は、いま振り返ると「懐かしい、当たり前の暑さ」ですね。トンネル内の冷気が気持ちの良い時代でした。
@@qsht トンネルの冷気!わかります…海沿いの潮風も好きでした!
暑さ、座り心地の悪さも嫌だけどタバコの煙が耐えられそうもない良い時代になりましたね
そうですね。小生もタバコが大の苦手なので良い時代になったと思います😊
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この時代は、車内だけでなく、駅の待合室、乗務員が乗務員室内でそこらじゅうで紫煙を燻らせていました。客席は、どうぞ吸ってくださいといわんばかりに、灰受けのパッカー(しかもJNRマーク入り)が備えられていたほどです。ホームの下のバラストの上も汚かったですね。夏のクソ暑い時にしかも非冷房の車内で吸われたら、おタバコ嗜まれない方にとっては今の時代だったら狂気に違いありません。
タバコは吸えないし、ボックスシートもなくなるしで、嫌な時代になった人間で言ったら、外見良くて、内面最悪って感じこの頃のが不便だが、毎日が、楽しかった。
@@qsht 夏よりも冬の方が辛かったです夕方のラッシュ時、閉め切った車内は始発の時点で白煙がもうもう、さらにそこにワンカップとサキイカの酸っぱい臭いが立ち込め、走り出すとどんどんスチームが効いて地獄のようでした
@@gto-mr2924 さまおっしゃる通りで。そのワンカップとサキイカの臭いは、下校学生が引けて、16時過ぎるあたりからなぜか全国共通なんですよね。なんでキオスクもところかまわず売るのかと、肴にはもってこいなんでしょうね。
昭和50年代ですが、中央東線など夜行鈍行に乗車した時のことが思い起こされました。空いていれば、シートの座面を外して通路にベッド代わりにしている人などもいました。まだ、少なかったですが各地で夜行鈍行が残っていた時代でした。映画は当時のハイエンドのスペックでの映像ですので、大変貴重なものです。編集アップ、ありがとうございます🤗
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。中央線は東西両口ともに、夜行の特急が設定しにくい線区でしたが、一年中、登山客やハイカーで人気がありましたから、「ちくま」や「アルプス」「穂高」などの、若人向けの夜行急行・準急・普通などリーズナブルな客車列車が多く運転されていましたね。標高も高くトンネルも多いところですから、夏の昼間でも暑さも控えめな感じでしたね。
@@qsht返信ありがとうございます。夜行で小海線や大糸線への乗り換えに利用しました。混雑していると映像のように通路に新聞紙を敷いて、皆さんところ狭しと座っていましたネ。日頃、主要な発車駅を利用した際には、ホームの乗車位置に各地へ向かう列車名が記載されたプレートが多数吊り下げられているのが見られ、それだけで旅情が掻き立てらてワクワクしました。お目当ての列車に座って乗車する為に、そのプレートの前に発車時間のかなり前から本当に多数の人がホームに座って並んでいた光景が懐かしいです。遠方に行くんだなと思い、うらやましい気持ちでした😊
寝ている方が正確だな!
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。おっしゃる通りです。
こういう古い 客車は 窓開けても弁当を買えたんだよね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。 >窓開けても弁当そうですよね、よく考えたら通路まで混雑してても座りながら目の前に売りに来てくれるんだから、ある意味でハイドなサービスだったんですね。
50系客車時代想い出します。窓が開いてた頃の方がいろんな匂いがあって良かったなあと。トンネルの中とか。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。窓を開けて走る客車は、暑さのピークの真夏でも、快いものでした。難点は、雨の日、ハチや蛾やカナブンなどが入ってくることくらいですかね。機関車が牽っぱる客車は、静かでのんびりしていたような思い出があります。50系客車の乗り心地は、今は、真岡鉄道だけで体験できますね。
蒸気機関車だと、トンネルに入るたびに窓を閉めていました。車内に煙が入り込むと、喉がやられて咳込む人がたくさんいました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この煙害は、ディーゼル機関車(こちらは石炭ではない内燃の排気ガスそのものですから)でも同じことが言えまして、最近まで、隧道の多い線区では慣れた乗客は、長い隧道が迫って来ることを知っていてマメに開けたり閉めたりしていました。いっぽうで、蒸気機関車を観光で復活運転している近年の路線では、逆にこれを体感したいために、隧道内で開けるというお客さんも少なくないようです。石炭煙でも、排気ガスですから、体に良いわけはなく、この暑い夏の旅で隧道内は涼しいですから、「開けたいけどケムリ」「閉めたいけど暑い」の格闘が1世紀以上も続いてきた経緯があるんですね。
走行中は案外窓全開で扇風機が全力で回り思ったほど暑くなかった。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。その通りなんですね。走り出して扇風機が車内の空気をかき回してくれていると、案外涼しいんです。この当時は客車ごとに扇風機の入切スイッチがあって、お客さん自身でON/OFFできました。問題は、車内の混雑次第です。
昔は冷房の無い電車で通学しましたが、ラッシュでも走っていれば居ても立ってもいられないって程ではなかったですね。客車だと抵抗制御が無いので立ち込める熱気は無いですが、電車はドアが開くとモワッと熱気が上がって、それがキツかったですね。冬でもドアの下は陽炎が見えた位でした。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。それなんですよね。「走って入ればそれなりに涼しい」のが当時の暑さだったわけで気候の変動も大きく影響していますが、今は窓が開けられないから、空調で冷やしているんですけど、自然の風はお盆過ぎれば残暑は飛ばしてくれていたはずです。地方ですと、窓を開けておくと、予期しない虫が入って来たりしてこれはこれで大変なんですけど。抵抗器の熱が上がって来るのは、ホームの構造にも原因があって、ホーム下が桁抜けしていればいいのですが、法面があったりすると熱気の逃げ場がなくて、下からくるホットカーテンには閉口したものです。どれも懐かしいですね。
回っている扇風機には「日本国有鉄道」 自分のころは「JNR」でしたね細かいけど 監督は 野村芳太郎、脚本が 橋本忍 でしたね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そうなんですよ、つべの動画は、いちどupしてしまうと修正が困難になるので、いつも点検してるんですが、こんかいもまたやってしまいました。("また"とゆうことは、他のup作品にもあります。お暇な時にお探しください。)とくに監督さんの名前は、ほんとうに失礼なことで、ご存命なら(こうしたことに特に怖い方なので)間違いなく言われてました。フィリップと、コメントのほうは直してあります。扇風機の表記が直されたのは、この映画が封切になる前の年あたりからで、理由は簡単で、欧文3文字ロゴマークのほうが安く済むからです(全車で11万台あったといいますから)。
この映画の公開年からさらに10年後の1968年、上井(倉吉)→明石、父と急行列車(ひょっとして普通だったかも)に乗った時の事を思い出しました。ローカル線なので、古い型の客車でした。蒸気機関車が牽引、電灯は丸い形の黄色い薄暗いものでした。当時この路線にはすでに特急はまかぜがあったはずなので、たぶん特急券を買うお金がなかったんでしようね。笑
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。山陰もまた、味のある良いところでしたね。京都から「山陰」という名の夜行普通列車も走っていました。それにしても、特急券を買うお金が無かったほうが、思い出の価値は今思えばそれより上だったのかもしれません。
特急は東海道、山陽本線のみのごくわずか、20系ブルートレインや151系、客車つばめはとといった華やかな列車は高嶺の花で、大勢の庶民はクルマや旅客機がまだまだ発達しておらず映画みたいな非冷房の長距離急行客車か普通列車で旅を強いられていた時代でしょうか。しかも非電化区間ではSL牽引列車が沢山で、トンネル内など煙臭く、首都圏から九州方面に行こうとすれば当時は1日以上満員ボックス席で我慢するであろうと考えたら疲労度マックス。現代人からしてみれば耐えられない。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。便利な事象と習慣に慣れてしまうと、とてもではないけれど耐えられない体験はあるもので、それを思い出で語れるようになるにはけっこう時間がかかりますね。
車内のシーンはナハフかナハですね。走行シーンはオハ。
蛍光灯なのでナハ11ですね。当時の最新鋭車ですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。わたしたちはよく分かんないのですが、この10系客車とゆうのは、いわゆる旧型客車のカテゴリーなんでしょうかね? どなたか、詳しい方。
@@qsht さま20系のような集中電源方式、あるいは12系14系のような分散電源方式の客車以降を新系列客車とカテゴライズするのが普通なので、その点では旧型客車ですね。まあ、旧型電車の80系の300番台みたいな感じです。
@@北村顕一 さまありがとございます。なるほど、電源ね。言われてみれば、電源積んで、マだとかカだとか重い客車は10系にはあんまり聞かない😄😄ですもんね。北陸トンネルで焼けた食堂車も石炭調理の10系でしたね。電源さえ容量あれば電気調理できたのに。
@@qsht さま10系を含む旧型客車は、電気を使う冷房をつけたりするためには個々に発電用エンジンを積む羽目になりました。でナハネ→オハネとか、ナロ→オロみたいに重量アップしました。
これは急行列車ですよね。特急列車とは雲泥の差で、社会が豊かになるにつれて特急が主流になっていくのがよく分かりますね。鉄道のサービスが今日に至るまでにどれだけ改善されてきたのかがはっきり分かります。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画が撮影された時代には、すでに列車冷房は開発され、新車に使われていたのですが、通勤電車に至っては、昭和の終わり近くまで非冷房のクルマが残っていたほどで、普及しながら、一方で、窓は開けられなくなってしまいました。
冷房完備になったのは85年位からで其れ窓を開け扇風機が回っていた
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そうですね、昭和59年のR(アール/国鉄の広報誌)に、「来年度でようやく北海道以外の線区で客席の冷房化が達成される見込みで・・」という記事が見られます。50系という赤い客車がしばらく過渡的に活躍していましたが、自重が重くなってたいへんだったようです。
タイ国鉄の長距離快速や急行列車の非冷房三等車だとこうした車両体験できますが、禁煙ともかく、禁酒がキツイ。車内で酒が飲めた時代の非冷房食堂車で大騒ぎは楽しかった。でも、特急の新車のクーラーついた一等個室寝台や二等寝台車は当然快適。夜行列車の三等非冷房は日本じゃ金積んでも経験できないアトラクション感覚。三等にも車内販売バンバン来るのは楽しいですよ。昔はビール売ってたんだが今無いんが残念
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。タイの列車は都市も農村も楽しいですね。線路もう少し直してくれると嬉しいですが、20年位前までは車輪が三角形じゃないかと思うほどのたいへんなシャッフルもありました。夜行三等は、小さい子もたくさんいて楽しいですが、夜汽車になると、駅に停車中に日本では見たことのない大きな虫が入ってきてこれはこれで大変でした。ベトナムの長距離列車も、いまだに日本の高度経済成長前夜の雰囲気で海風が気持ちの良い線です。
@@qsht最近はかなりPC枕木ロングレール化されてジョイント音も減り、ボロ客車でも揺れなくなり無茶苦茶な遅延も減りました。クルンテープアピワット駅出来たのは大きいですね。新品の高架駅に古い客車新車の電車が同居と言うのもカオスです。あちこちの駅でホームを作り替えてます。タイも旧型客車消える時は突然かもですね。
国鉄時代の列車そのものです。天井に首が回る扇風機が設置されていて、窓が開閉式。当時は冷房車は特急型くらいじゃなかったのかな?急行型以下は窓は開閉式でした。今では考えられない装備ですが、今に比較したらそこまで暑く無かった事でしょう。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。その通りですね。 だんだん年を追うごとに暑くなってきたのではなく、ここ10年来から急に暑くなりましたからね。かわいくない暑さですね。
ご無沙汰します。二等車、後のグリーン車なら少し快適そうですが冷房は無しですねˆˆ;
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。元気に暮らしてますか?以前、東北取材のときに、真夏のグランクラスで停電に遭遇しまして、あとはご想像の通りです。どんなに格上の車両に乗っても、窓が開けられない今の世の中ではエアコン無し(電気停まってから送風も一時停止)は鬼気迫ります。
@@qshtお陰様でˆˆ;とんだ災難に遭いましたね💦当時の冷房車は特急の食堂車と展望車くらいでしたね
学生のころ夏休みに旧型客車の長距離鈍行乗ってたけど暑いと思ったことないなあ、今の暑さだと無理かも
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。おっしゃる通りですね。いまの可愛気のない憎たらしい暑さですよね。なんでこんなに暑くなっちゃったんでしょう?
蒸気機関車やディーゼル車の排煙・排気がなかっただけマシだとは思いますが、我が千葉県でも1990年代中盤までは房総ローカル用の113系電車に非冷房車が残っていて、当たるとなかなかの地獄旅を味わえましたよ。幼い頃に客車鈍行に乗った記憶もありますが、デッキ開放で大きく風を通せた客車に比べ、側窓の上下を開けるだけの113系の方が暑さが厳しかったような印象ですね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そのとおりで、1990年代あたりまでの千葉管内の冷房化率は決して高いほうではありませんでしたね。むかしから夏の房総は書き入れ時なのにとくに千葉以東の各線は駅に立っていても、入ってくる電車の屋根に冷房装置が載っていないのがわかるとがっかりしたものです。(幕張の113よりも津田沼の113は、ほぼ冷房がありませんでした。)内房も外房も南下すれば海が見えてくるのですが、窓を開けていてもかえって昼間はハチ、夜は蛾も飛び入って落ち着かない車内でした。
@@qsht 様動画ありがとうございました。仰る通り、見た目は1000番台でも「冷房準備車」が多数ありましたからね。快速でも準備車が走っていたし、東海道・横須賀に比べると明らかに冷遇されていましたね
客車急行列車、東京から鹿児島や宮崎まで30時間以上かけて走っていたんだよな。真夏に冷房すら無い客室内、固い椅子に或いは狭い通路に座って24時間以上も風呂に入らず過ごしてた訳か。追記、あと、当時のプロ野球選手は巨人以外は極貧尚且つ社会的地位がかなり低く、広島カープや西鉄ライオンズはシーズンを通してこんな感じの列車で遠征を余儀なくされていたんだろう。広島カープの昭和50年の初優勝は山陽新幹線が開業した年、新幹線での遠征に切り替わって当時の広島カープの選手達に大きなゆとりが出来たからこその優勝だったのかもしれない。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。セ・リーグはそうでもなかったみたいですが、パ・リーグは移動が酷だったと30年ほど前の毎日新聞に述懐が載っています。西鉄が西武に移ってからは、とくに日本シリーズが戦いやすかったようで、仰るように、広島~博多のHG間の夏移動はきつかったと思います。
今と違い関東でも最高気温は30度いったり行かなかったりだからそこまでの灼熱ではなかったはず。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。 そうですね、外気温と客車内の温度は多少違うかもしれませんが、今の暑さが異常なだけで、夏の暑さが可愛らしい時代だったのは間違いないようです。
最近は猫動画よりも このシリーズで癒されてます
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。ニャーの動画チャンネルは多いですよねー。一つとして同じシチュエーションが無いのも動物ならでは,で、つべしらべの統計ではワンちゃんよりも多いみたいです。その点、乗り物や旅モノは被写体次第で武骨になったり癒しになったりクリエイター泣かせです。
カラー化いいです。ありがとうございます。私が5つぐらいのとき、乗った列車こんな感じでした。東京から尾道でした。母は大変だったと思います。EF58全盛期です。
いつもご七曜戴きましてありがとうございます。そうですか。尾道は、いまでも決して近くない距離ですよね。子どもには楽しい旅路ですが、通路までお客さんが座っていて、トイレへ行くにしても、デッキの扉は全開でしたから、お母さまは、ハラハラして人をかき分けて付いて行ったことでしょう。モノクロ作品をカラーに変換するのは時間も調整も面倒なのですが、記憶は誰でもカラーなんですね。
確かに暑かったけど走っていると風が涼しくそんなに辛いというほどじゃなかったよね。ただし、座席は空いてれば快適だけどこれだけ混んでたらけっこう辛いかな。
撮影所のセットなら実際の車内より暑かったかも
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。映画のセット撮影にはたいへんな光量を使うので、屋内外問わずに "暑い" のではなく "熱い" のですが、この作品の野村監督はセット撮影を好まないことで有名で、なんでもロケに出て実写を繋いだと言われています。国鉄がとても協力してくれた映画なので、うまくいったのでしょう。
昭和50年代前半でも各駅停車や急行列車、東京や大阪の通勤電車でも冷房無しは珍しくなかったです。さすがに特急列車は全て冷房付きでしたが。その後冷房車の増備や急行廃止などによる旧型非冷房車の廃車などで、平成になった頃にはほぼ冷房付きになってました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。列車内の冷房普及は、窓の開閉と密接に連動した関係があって、だから現在では(或いはこれから登場する新車は)エアコン付けたら窓は開かないという流れになってしまいました。それはそれで、あんまりおもしろくないのですけど、仕方ないですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。国鉄の分割民営化を目前にして、車輛コンセプトの大胆な改革があり、おっしゃるような時期に冷房化は急いだようです。初期のころは旅客サービス優先で乗務員室まで冷気が及ばなかったみたいなのですが、ここへ回るように整えて、平成前半に冷房化は達成できたようです。
これ元々はモノクロ作品でしたよね?カラーにすると昭和30年代の鄙びた風景が よりリアルに映ります。横浜から佐賀まで。急行のボックスシートで旅をするのが当たり前だった昔の人は 根性がありました。しかも 途中駅からなら初めから座れないのは当たり前。夏の暑さも今ほどではないにしろ 通路までいっぱいなら蒸し風呂状態で 西へ進むほどに暑さは増していく。救いなのは 車体・内装が近代的な 新しい10系客車(蛍光灯照明なので ナハ11?)な事。扇風機のマークも『JNR』ではなく『日本国有鉄道』なところに時代を感じます。帰りは 多々良純さん演じる地元の刑事さんが「長崎から(の列車)なので 座れるでしょう。」と言っていたように記憶していますが 佐賀まで結構距離があるし本当に座れたのかな?と思いました。まぁ 博多でだいぶ降りたでしょうけど。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この時代の映画は、モノクロで観ていたほうが"味がある"と仰る方もいるのですが、空の青さ、木々の緑を炙り出すだけでも、多少は見易くなったかな,と感じます。
勉強になります
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。映画で残るファクトは未来の人たちに無言で教えてくれるんですね。
窓は全開で、ドアも手動開閉なのでおそらく走行中も開放していたでしょう。デッキドアも開放して、かつては二等以上にしかなかった扇風機が三等車と思われるこの車両にも付いていて、風通しはそう悪くはなかったかも知れないですが、暑くてあつくて堪らない状況をまる一日以上辛抱しようとしているこの方々の気持ちが、このシーンからまともに伝わって来ますね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。夏は昔も今も暑いのですが、この映画の時代の人たちはみんな我慢強かったんだと思います。心を落ち着かせて熱くないと観念して、それでいて長距離で自分の座席を確保し続けるのは、ひとつの術なのかもしれません。
乗客も今では考えられないほど大変でしたが乗務員も同じく過酷だったと思います。過去を知れば便利な物に甘えて要求ばかりするカスハラは消えるはず。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。どうしたら、キレないで落ち着いていられるか、みんなが考えていくとこの半世紀以上前の人間模様に辿り着くようです。辛抱強い時代の人たちで、みんなそれなりに仲良しでした。
令和の35℃超えは無いからまだマシかも😅
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。おなじ暑気でも、座席でじっとしているのと、動いて風を受けるのとでは多少の差はありますが、通路まで座り込んでいて長時間停車でもあると逃げ場も無くて地獄絵図とゆうのがこの時代は普通にあったようで、ご苦労な時代でした。
そんな気温になる日がせいぜい1週間だったこの時代は一般社会は休んでしまうのが早道だった。最低気温すらこの時代の日中最高気温といい勝負の令和とは・・・
もう今じゃ考えられない、非冷房の列車ですね?!一昔は、僕の地元の神戸電鉄も、非冷房でした。これだけの、異常な熱さだったら乗っていられませんね!!もう、当たり前のように、クーラーが着いて居ないと、ダメですね!!🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。神戸電鉄もだいぶ後年まで扇風機ぐるぐる回ってましたね。始発駅が地下なので下りは少しは凌げたと思いますが、山奥の駅からから鈴蘭台までの上りは盆地に近いところを走ってましたから、停車すると茹だるような暑さだったと思います。
三田尻、大道、四辻、小郡
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この区間で のこっている駅名は 大道・四辻 だけですね。
ジーンズを履いていませんね。しかし、ランニングを着ていなければ耐えられなかったんですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。ほんとうはランニングも脱ぎたいくらいなんでしょうね。女性客なんか、夏のこの車内はキツイと思います。ジーンズは、この映画公開の2年後に米軍横須賀から入ってきます。
福岡市民ですが爺の私でさえ見た事が無かった移転高架化される前の博多駅、しかも電化されていない貴重なホームの動画ありがとうございました。1番線の改札の向こうに駅構内が微かに見えて感動しました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。他の方からもレスポンスをいただいたのですが、地平時代の博多駅は、意外と画像記録が少ないようで、この1番線の 並び売店 は全国的にも珍しい構造だったみたいです。いっぽうで、小倉や門司港駅はたくさんお撮りになっている方が多いようです。
『黄害』で暑さで窓を開けてもトイレからの出た人間の排泄物が車内に飛び込んできた時代。(経験者です。)
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。みんな知らないで乗っていたかもしれませんが、垂れ流しの頃は、特に橋梁通過や隧道内は、窓の高さ以上に、しぶきが舞い上がるんですよね。客車デッキの手すりにくっついていたことありました。(お食事中の方、すみません)
急行さつま 東京〜鹿児島1958年昭和33年11月寝台特急はやぶさブルートレイン20系客車前はさつまの旧型客車 10系旧型客車非冷房暑さ大変 長距離列車1500キロ旅路さつまと一緒に走る列車旧博多駅凄い貴重
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画のシナリオ(台本)には、「博多で増結2両竹下の鳥栖分割2で早岐」と印刷されていて、この刑事さんたちは長崎本線で佐賀へ向かうのですが、そこらへんの映像は含まれていません。この映像には無いのですが、門モコとある客車が佐賀で出てきますからこのスジを重宝していたのがわかります。
@@qshtさん貴重なカラー映像をありがとうございます。
子供の頃は、網棚は荷物を置くのではなく、人が乗って寝る場所でした。
同じ料金で自前の寝台車!
昭和40年代まで、ものすごい混み具合でしたよw。
毎度ご視聴いただきましてありがとうございます。
とりわけ、1960年代〜70年代初頭にかけては
繁忙期の長距離座席夜行では
眠ってしまった小さな子を網棚に寝かせて、
お父さんがずっと立って支えつづける景色を
見たことがあります。
車掌さんが通りかかっても何にも言わない。
たいへんな時代がありましたね。
1:10 上淀川橋梁
1:16 網戸
3:30 鉄道弘済会の売店・駅弁の売り子さん・"賣店"の文字
昭和満載ですね。
冷凍ミカンはまだなかった?
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この時代すでに冷凍ミカンは売られていまして、
最近、ネッククーラーとゆう、
クビに巻いて涼めるグッズが売られていますけど、
満員列車ではすぐに食べないで、
身体のあちこちに当てて、クールダウンした後、
同時に解凍も進んで食べごろになるので、
買った人は大事に使った,と、旅行雑誌の記事にありました。
みんな食べないで体につけてるから、
画面映りもないのでは無いかと、勝手に思っております。🍊
なるほど、この頃にはあったのですね。
広島の祖母宅を訪ねた折に153系の窓際テーブルで溶かしながら西へ下ったことを思い出しました。
昭和の末近くまでは、弘済会の売店にありましたがどこぞの親父さんが買ってすぐに頭に載せたまま大阪駅のコンコースを歩いているのに遭遇した記憶も蘇りました。
昭和51年に、高架駅になる直前のこの佐賀駅から博多行き急行に乗った。駅の入り口の、玄関みたいな作りを覚えている
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
市の玄関駅の前後には、どこも大きな踏切があったのですが、
みんな開かずの踏切でしたから、駅が高架になるということは、
それが解消されたわけで、出口のないほうの殺風景な野原に
新しい街が誕生しています。
佐賀駅は、全国でもその典型例として高架化当時、よく報道されていました。
現代から見ると苦痛にしか思えない状況ですが、この時代はこれが普通だったので、我々が思うよりも苦痛ではなかったのかもしれません。今よりも涼しかったでしょうし。
今ではスマホがないと生きていけない世の中ですが、90年代前半まではスマホどころかガラケーがなくても普通に生活できました。当然、それを苦痛と感じることはありませんでした。
この当時の急行列車に相当する移動手段は、現代ならLCCや高速バスでしょうか。LCCの場合、不便な空港を発着している点、旅客を詰め込んでいる点で2流感があります。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この時代の人たちは、辛抱強かったのではなく、
与えられた環境のなかで どうしたら少しでも快適に過ごせるかを
渇望して工夫していたのではないかと思います。
こんな映像のような環境の列車が、いまなお走っている国もあって、
やはり似たような車内の過ごし方をしています。ふしぎですね。
4:06 関門海峡の牽引機はEF10の時代か。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この機関車は、戦前に登場してから10年くらいは外板が鋼製だったんですね。
海水はトンネルの上からも滴るのでパンタグラフとかそのあたりがやられていたわけで、
よく持ちこたえていたと思います。
門司駅は九州初の電化駅なんですよ
ただし、この時代は今ほど灼熱地獄
ではなく、夜はクーラーなしでも
安眠できたよ……
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画の時代は、いま振り返ると「懐かしい、当たり前の暑さ」ですね。
トンネル内の冷気が気持ちの良い時代でした。
@@qsht
トンネルの冷気!わかります…
海沿いの潮風も好きでした!
暑さ、座り心地の悪さも嫌だけどタバコの煙が耐えられそうもない
良い時代になりましたね
そうですね。小生もタバコが大の苦手なので良い時代になったと思います😊
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この時代は、車内だけでなく、駅の待合室、乗務員が乗務員室内で
そこらじゅうで紫煙を燻らせていました。
客席は、どうぞ吸ってくださいといわんばかりに、
灰受けのパッカー(しかもJNRマーク入り)が備えられていたほどです。
ホームの下のバラストの上も汚かったですね。
夏のクソ暑い時にしかも非冷房の車内で吸われたら、
おタバコ嗜まれない方にとっては
今の時代だったら狂気に違いありません。
タバコは吸えないし、ボックスシートもなくなるしで、嫌な時代になった
人間で言ったら、外見良くて、内面最悪って感じ
この頃のが不便だが、毎日が、楽しかった。
@@qsht 夏よりも冬の方が辛かったです
夕方のラッシュ時、閉め切った車内は始発の時点で白煙がもうもう、さらにそこにワンカップとサキイカの酸っぱい臭いが立ち込め、走り出すとどんどんスチームが効いて地獄のようでした
@@gto-mr2924 さま
おっしゃる通りで。
そのワンカップとサキイカの臭いは、
下校学生が引けて、16時過ぎるあたりから
なぜか全国共通なんですよね。
なんでキオスクも
ところかまわず売るのかと、
肴にはもってこいなんでしょうね。
昭和50年代ですが、中央東線など夜行鈍行に乗車した時のことが思い起こされました。
空いていれば、シートの座面を外して通路にベッド代わりにしている人などもいました。
まだ、少なかったですが各地で夜行鈍行が残っていた時代でした。
映画は当時のハイエンドのスペックでの映像ですので、大変貴重なものです。
編集アップ、ありがとうございます🤗
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
中央線は東西両口ともに、
夜行の特急が設定しにくい線区でしたが、
一年中、登山客やハイカーで人気がありましたから、
「ちくま」や「アルプス」「穂高」などの、若人向けの
夜行急行・準急・普通などリーズナブルな客車列車が
多く運転されていましたね。
標高も高くトンネルも多いところですから、
夏の昼間でも暑さも控えめな感じでしたね。
@@qsht
返信ありがとうございます。
夜行で小海線や大糸線への乗り換えに利用しました。
混雑していると映像のように通路に新聞紙を敷いて、皆さんところ狭しと座っていましたネ。
日頃、主要な発車駅を利用した際には、ホームの乗車位置に各地へ向かう列車名が記載されたプレートが多数吊り下げられているのが見られ、それだけで旅情が掻き立てらてワクワクしました。
お目当ての列車に座って乗車する為に、そのプレートの前に発車時間のかなり前から本当に多数の人がホームに座って並んでいた光景が懐かしいです。
遠方に行くんだなと思い、うらやましい気持ちでした😊
寝ている方が正確だな!
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
おっしゃる通りです。
こういう古い 客車は 窓開けても弁当を買えたんだよね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
>窓開けても弁当
そうですよね、よく考えたら
通路まで混雑してても
座りながら目の前に売りに来てくれるんだから、
ある意味でハイドなサービスだったんですね。
50系客車時代想い出します。窓が開いてた頃の方がいろんな匂いがあって良かったなあと。トンネルの中とか。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
窓を開けて走る客車は、暑さのピークの真夏でも、快いものでした。
難点は、雨の日、ハチや蛾やカナブンなどが入ってくることくらいですかね。
機関車が牽っぱる客車は、静かでのんびりしていたような思い出があります。
50系客車の乗り心地は、今は、真岡鉄道だけで体験できますね。
蒸気機関車だと、トンネルに入るたびに窓を閉めていました。車内に煙が入り込むと、喉がやられて咳込む人がたくさんいました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この煙害は、
ディーゼル機関車(こちらは石炭ではない内燃の排気ガスそのものですから)でも
同じことが言えまして、最近まで、隧道の多い線区では慣れた乗客は、
長い隧道が迫って来ることを知っていてマメに開けたり閉めたりしていました。
いっぽうで、蒸気機関車を観光で復活運転している近年の路線では、
逆にこれを体感したいために、隧道内で開けるというお客さんも少なくないようです。
石炭煙でも、排気ガスですから、体に良いわけはなく、
この暑い夏の旅で隧道内は涼しいですから、
「開けたいけどケムリ」「閉めたいけど暑い」の格闘が
1世紀以上も続いてきた経緯があるんですね。
走行中は案外窓全開で扇風機が全力で回り思ったほど暑くなかった。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
その通りなんですね。
走り出して扇風機が車内の空気をかき回してくれていると、
案外涼しいんです。
この当時は客車ごとに扇風機の入切スイッチがあって、
お客さん自身でON/OFFできました。
問題は、車内の混雑次第です。
昔は冷房の無い電車で通学しましたが、ラッシュでも走っていれば居ても立ってもいられないって程ではなかったですね。客車だと抵抗制御が無いので立ち込める熱気は無いですが、電車はドアが開くとモワッと熱気が上がって、それがキツかったですね。冬でもドアの下は陽炎が見えた位でした。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
それなんですよね。「走って入ればそれなりに涼しい」のが当時の暑さだったわけで
気候の変動も大きく影響していますが、
今は窓が開けられないから、空調で冷やしているんですけど、
自然の風はお盆過ぎれば残暑は飛ばしてくれていたはずです。
地方ですと、窓を開けておくと、
予期しない虫が入って来たりしてこれはこれで大変なんですけど。
抵抗器の熱が上がって来るのは、ホームの構造にも原因があって、
ホーム下が桁抜けしていればいいのですが、
法面があったりすると熱気の逃げ場がなくて、
下からくるホットカーテンには閉口したものです。
どれも懐かしいですね。
回っている扇風機には「日本国有鉄道」 自分のころは「JNR」でしたね
細かいけど 監督は 野村芳太郎、脚本が 橋本忍 でしたね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そうなんですよ、つべの動画は、いちどupしてしまうと修正が困難になるので、
いつも点検してるんですが、こんかいもまたやってしまいました。
("また"とゆうことは、他のup作品にもあります。お暇な時にお探しください。)
とくに監督さんの名前は、ほんとうに失礼なことで、
ご存命なら(こうしたことに特に怖い方なので)間違いなく言われてました。
フィリップと、コメントのほうは直してあります。
扇風機の表記が直されたのは、この映画が封切になる前の年あたりからで、理由は簡単で、
欧文3文字ロゴマークのほうが安く済むからです
(全車で11万台あったといいますから)。
この映画の公開年からさらに10年後の1968年、上井(倉吉)→明石、父と急行列車(ひょっとして普通だったかも)に乗った時の事を思い出しました。ローカル線なので、古い型の客車でした。蒸気機関車が牽引、電灯は丸い形の黄色い薄暗いものでした。
当時この路線にはすでに特急はまかぜがあったはずなので、たぶん特急券を買うお金がなかったんでしようね。笑
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
山陰もまた、味のある良いところでしたね。
京都から「山陰」という名の夜行普通列車も走っていました。
それにしても、特急券を買うお金が無かったほうが、
思い出の価値は今思えばそれより上だったのかもしれません。
特急は東海道、山陽本線のみのごくわずか、20系ブルートレインや151系、客車つばめはとといった華やかな列車は高嶺の花で、大勢の庶民はクルマや旅客機がまだまだ発達しておらず映画みたいな非冷房の長距離急行客車か普通列車で旅を強いられていた時代でしょうか。しかも非電化区間ではSL牽引列車が沢山で、トンネル内など煙臭く、首都圏から九州方面に行こうとすれば当時は1日以上満員ボックス席で我慢するであろうと考えたら疲労度マックス。現代人からしてみれば耐えられない。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
便利な事象と習慣に慣れてしまうと、
とてもではないけれど耐えられない体験はあるもので、
それを思い出で語れるようになるには
けっこう時間がかかりますね。
車内のシーンはナハフかナハですね。走行シーンはオハ。
蛍光灯なのでナハ11ですね。当時の最新鋭車ですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
わたしたちはよく分かんないのですが、この10系客車とゆうのは、
いわゆる旧型客車のカテゴリーなんでしょうかね?
どなたか、詳しい方。
@@qsht さま
20系のような集中電源方式、あるいは12系14系のような分散電源方式の客車以降を新系列客車とカテゴライズするのが普通なので、その点では旧型客車ですね。まあ、旧型電車の80系の300番台みたいな感じです。
@@北村顕一 さま
ありがとございます。
なるほど、電源ね。
言われてみれば、電源積んで、
マだとかカだとか重い客車は10系には
あんまり聞かない😄😄ですもんね。
北陸トンネルで焼けた食堂車も石炭調理の10系でしたね。
電源さえ容量あれば電気調理できたのに。
@@qsht さま
10系を含む旧型客車は、電気を使う冷房をつけたりするためには個々に発電用エンジンを積む羽目になりました。でナハネ→オハネとか、ナロ→オロみたいに重量アップしました。
これは急行列車ですよね。特急列車とは雲泥の差で、社会が豊かになるにつれて特急が主流になっていくのがよく分かりますね。鉄道のサービスが今日に至るまでにどれだけ改善されてきたのかがはっきり分かります。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画が撮影された時代には、すでに列車冷房は開発され、新車に使われていたのですが、
通勤電車に至っては、昭和の終わり近くまで非冷房のクルマが残っていたほどで、
普及しながら、一方で、窓は開けられなくなってしまいました。
冷房完備になったのは85年位からで其れ窓を開け扇風機が回っていた
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そうですね、昭和59年のR(アール/国鉄の広報誌)に、
「来年度でようやく北海道以外の線区で客席の冷房化が達成される見込みで・・」
という記事が見られます。50系という赤い客車がしばらく過渡的に活躍していましたが、
自重が重くなってたいへんだったようです。
タイ国鉄の長距離快速や急行列車の非冷房三等車だとこうした車両体験できますが、禁煙ともかく、禁酒がキツイ。車内で酒が飲めた時代の非冷房食堂車で大騒ぎは楽しかった。でも、特急の新車のクーラーついた一等個室寝台や二等寝台車は当然快適。夜行列車の三等非冷房は日本じゃ金積んでも経験できないアトラクション感覚。三等にも車内販売バンバン来るのは楽しいですよ。昔はビール売ってたんだが今無いんが残念
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
タイの列車は都市も農村も楽しいですね。線路もう少し直してくれると嬉しいですが、
20年位前までは車輪が三角形じゃないかと思うほどのたいへんなシャッフルもありました。
夜行三等は、小さい子もたくさんいて楽しいですが、
夜汽車になると、駅に停車中に日本では見たことのない大きな虫が入ってきて
これはこれで大変でした。
ベトナムの長距離列車も、
いまだに日本の高度経済成長前夜の雰囲気で海風が気持ちの良い線です。
@@qsht最近はかなりPC枕木ロングレール化されてジョイント音も減り、ボロ客車でも揺れなくなり無茶苦茶な遅延も減りました。クルンテープアピワット駅出来たのは大きいですね。新品の高架駅に古い客車新車の電車が同居と言うのもカオスです。あちこちの駅でホームを作り替えてます。タイも旧型客車消える時は突然かもですね。
国鉄時代の列車そのものです。
天井に首が回る扇風機が設置されていて、窓が開閉式。
当時は冷房車は特急型くらいじゃなかったのかな?
急行型以下は窓は開閉式でした。
今では考えられない装備ですが、今に比較したらそこまで暑く無かった事でしょう。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
その通りですね。 だんだん年を追うごとに暑くなってきたのではなく、
ここ10年来から急に暑くなりましたからね。
かわいくない暑さですね。
ご無沙汰します。二等車、後のグリーン車なら少し快適そうですが冷房は無しですねˆˆ;
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
元気に暮らしてますか?
以前、東北取材のときに、真夏のグランクラスで停電に遭遇しまして、
あとはご想像の通りです。
どんなに格上の車両に乗っても、窓が開けられない今の世の中では
エアコン無し(電気停まってから送風も一時停止)は鬼気迫ります。
@@qshtお陰様でˆˆ;
とんだ災難に遭いましたね💦当時の冷房車は特急の食堂車と展望車くらいでしたね
学生のころ夏休みに旧型客車の長距離鈍行乗ってたけど
暑いと思ったことないなあ、今の暑さだと無理かも
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
おっしゃる通りですね。
いまの可愛気のない憎たらしい暑さですよね。
なんでこんなに暑くなっちゃったんでしょう?
蒸気機関車やディーゼル車の排煙・排気がなかっただけマシだとは思いますが、我が千葉県でも1990年代中盤までは房総ローカル用の113系電車に非冷房車が残っていて、当たるとなかなかの地獄旅を味わえましたよ。幼い頃に客車鈍行に乗った記憶もありますが、デッキ開放で大きく風を通せた客車に比べ、側窓の上下を開けるだけの113系の方が暑さが厳しかったような印象ですね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そのとおりで、
1990年代あたりまでの千葉管内の冷房化率は決して高いほうではありませんでしたね。
むかしから夏の房総は書き入れ時なのに
とくに千葉以東の各線は駅に立っていても、入ってくる電車の屋根に
冷房装置が載っていないのがわかるとがっかりしたものです。
(幕張の113よりも津田沼の113は、ほぼ冷房がありませんでした。)
内房も外房も南下すれば海が見えてくるのですが、窓を開けていてもかえって
昼間はハチ、夜は蛾も飛び入って落ち着かない車内でした。
@@qsht 様
動画ありがとうございました。仰る通り、見た目は1000番台でも「冷房準備車」が多数ありましたからね。快速でも準備車が走っていたし、東海道・横須賀に比べると明らかに冷遇されていましたね
客車急行列車、東京から鹿児島や宮崎まで30時間以上かけて走っていたんだよな。真夏に冷房すら無い客室内、固い椅子に或いは狭い通路に座って24時間以上も風呂に入らず過ごしてた訳か。
追記、
あと、当時のプロ野球選手は巨人以外は極貧尚且つ社会的地位がかなり低く、広島カープや西鉄ライオンズはシーズンを通してこんな感じの列車で遠征を余儀なくされていたんだろう。
広島カープの昭和50年の初優勝は山陽新幹線が開業した年、新幹線での遠征に切り替わって当時の広島カープの選手達に大きなゆとりが出来たからこその優勝だったのかもしれない。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
セ・リーグはそうでもなかったみたいですが、
パ・リーグは移動が酷だったと30年ほど前の毎日新聞に述懐が載っています。
西鉄が西武に移ってからは、とくに日本シリーズが戦いやすかったようで、
仰るように、広島~博多のHG間の夏移動はきつかったと思います。
今と違い
関東でも最高気温は30度いったり
行かなかったりだから
そこまでの灼熱ではなかったはず。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そうですね、外気温と客車内の温度は多少違うかもしれませんが、
今の暑さが異常なだけで、
夏の暑さが可愛らしい時代だったのは間違いないようです。
最近は猫動画よりも このシリーズで癒されてます
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
ニャーの動画チャンネルは多いですよねー。
一つとして同じシチュエーションが無いのも動物ならでは,で、
つべしらべの統計ではワンちゃんよりも多いみたいです。
その点、乗り物や旅モノは被写体次第で武骨になったり癒しになったり
クリエイター泣かせです。
カラー化いいです。ありがとうございます。私が5つぐらいのとき、乗った列車こんな感じでした。東京から尾道でした。母は大変だったと思います。EF58全盛期です。
いつもご七曜戴きましてありがとうございます。
そうですか。尾道は、いまでも決して近くない距離ですよね。
子どもには楽しい旅路ですが、通路までお客さんが座っていて、
トイレへ行くにしても、デッキの扉は全開でしたから、
お母さまは、ハラハラして人をかき分けて付いて行ったことでしょう。
モノクロ作品をカラーに変換するのは時間も調整も面倒なのですが、
記憶は誰でもカラーなんですね。
確かに暑かったけど走っていると風が涼しくそんなに辛いというほどじゃなかったよね。ただし、座席は空いてれば快適だけどこれだけ混んでたらけっこう辛いかな。
撮影所のセットなら実際の車内より暑かったかも
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
映画のセット撮影にはたいへんな光量を使うので、
屋内外問わずに "暑い" のではなく "熱い" のですが、
この作品の野村監督はセット撮影を好まないことで有名で、
なんでもロケに出て実写を繋いだと言われています。
国鉄がとても協力してくれた映画なので、うまくいったのでしょう。
昭和50年代前半でも各駅停車や急行列車、東京や大阪の通勤電車でも冷房無しは珍しくなかったです。
さすがに特急列車は全て冷房付きでしたが。
その後冷房車の増備や急行廃止などによる旧型非冷房車の廃車などで、平成になった頃にはほぼ冷房付きになってました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
列車内の冷房普及は、窓の開閉と密接に連動した関係があって、
だから現在では(或いはこれから登場する新車は)
エアコン付けたら窓は開かないという流れになってしまいました。
それはそれで、あんまりおもしろくないのですけど、仕方ないですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
国鉄の分割民営化を目前にして、車輛コンセプトの大胆な改革があり、
おっしゃるような時期に冷房化は急いだようです。
初期のころは旅客サービス優先で
乗務員室まで冷気が及ばなかったみたいなのですが、
ここへ回るように整えて、平成前半に冷房化は達成できたようです。
これ元々はモノクロ作品でしたよね?カラーにすると昭和30年代の鄙びた風景が よりリアルに映ります。
横浜から佐賀まで。急行のボックスシートで旅をするのが当たり前だった昔の人は 根性がありました。
しかも 途中駅からなら初めから座れないのは当たり前。夏の暑さも今ほどではないにしろ 通路までいっぱいなら蒸し風呂状態で 西へ進むほどに暑さは増していく。
救いなのは 車体・内装が近代的な 新しい10系客車(蛍光灯照明なので ナハ11?)な事。扇風機のマークも『JNR』ではなく『日本国有鉄道』なところに時代を感じます。
帰りは 多々良純さん演じる地元の刑事さんが「長崎から(の列車)なので 座れるでしょう。」と言っていたように記憶していますが 佐賀まで結構距離があるし本当に座れたのかな?と思いました。まぁ 博多でだいぶ降りたでしょうけど。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この時代の映画は、モノクロで観ていたほうが"味がある"と仰る方もいるのですが、
空の青さ、木々の緑を炙り出すだけでも、多少は見易くなったかな,と感じます。
勉強になります
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
映画で残るファクトは未来の人たちに無言で教えてくれるんですね。
窓は全開で、ドアも手動開閉なのでおそらく走行中も開放していたでしょう。デッキドアも開放して、かつては二等以上にしかなかった扇風機が三等車と思われるこの車両にも付いていて、風通しはそう悪くはなかったかも知れないですが、暑くてあつくて堪らない状況をまる一日以上辛抱しようとしているこの方々の気持ちが、このシーンからまともに伝わって来ますね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
夏は昔も今も暑いのですが、この映画の時代の人たちはみんな我慢強かったんだと思います。
心を落ち着かせて熱くないと観念して、
それでいて長距離で自分の座席を確保し続けるのは、ひとつの術なのかもしれません。
乗客も今では考えられないほど大変でしたが乗務員も同じく過酷だったと思います。過去を知れば便利な物に甘えて要求ばかりするカスハラは消えるはず。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
どうしたら、キレないで落ち着いていられるか、みんなが考えていくと
この半世紀以上前の人間模様に辿り着くようです。
辛抱強い時代の人たちで、みんなそれなりに仲良しでした。
令和の35℃超えは無いからまだマシかも😅
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
おなじ暑気でも、座席でじっとしているのと、
動いて風を受けるのとでは多少の差はありますが、
通路まで座り込んでいて長時間停車でもあると
逃げ場も無くて地獄絵図とゆうのが
この時代は普通にあったようで、ご苦労な時代でした。
そんな気温になる日がせいぜい1週間だったこの時代は一般社会は休んでしまうのが早道だった。
最低気温すらこの時代の日中最高気温といい勝負の令和とは・・・
もう今じゃ考えられない、非冷房の列車ですね?!一昔は、僕の地元の神戸電鉄も、非冷房でした。これだけの、異常な熱さだったら乗っていられませんね!!もう、当たり前のように、クーラーが着いて居ないと、ダメですね!!🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂🚂
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
神戸電鉄もだいぶ後年まで扇風機ぐるぐる回ってましたね。
始発駅が地下なので下りは少しは凌げたと思いますが、
山奥の駅からから鈴蘭台までの上りは盆地に近いところを走ってましたから、
停車すると茹だるような暑さだったと思います。
三田尻、大道、四辻、小郡
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この区間で のこっている駅名は 大道・四辻 だけですね。
ジーンズを履いていませんね。しかし、ランニングを着ていなければ耐えられなかったんですね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
ほんとうはランニングも脱ぎたいくらいなんでしょうね。
女性客なんか、夏のこの車内はキツイと思います。
ジーンズは、この映画公開の2年後に米軍横須賀から入ってきます。
福岡市民ですが爺の私でさえ見た事が無かった移転高架化される前の博多駅、しかも電化されていない貴重なホームの動画ありがとうございました。1番線の改札の向こうに駅構内が微かに見えて感動しました。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
他の方からもレスポンスをいただいたのですが、
地平時代の博多駅は、意外と画像記録が少ないようで、
この1番線の 並び売店 は全国的にも珍しい構造だったみたいです。
いっぽうで、小倉や門司港駅はたくさんお撮りになっている方が多いようです。
『黄害』で暑さで窓を開けてもトイレからの出た人間の排泄物が車内に飛び込んできた時代。(経験者です。)
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
みんな知らないで乗っていたかもしれませんが、垂れ流しの頃は、
特に橋梁通過や隧道内は、窓の高さ以上に、しぶきが舞い上がるんですよね。
客車デッキの手すりにくっついていたことありました。(お食事中の方、すみません)
急行さつま 東京〜鹿児島
1958年昭和33年11月
寝台特急はやぶさ
ブルートレイン20系客車
前はさつまの旧型客車
10系旧型客車
非冷房暑さ大変
長距離列車1500キロ旅路
さつまと一緒に走る列車
旧博多駅凄い貴重
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画のシナリオ(台本)には、
「博多で増結2両竹下の鳥栖分割2で早岐」と印刷されていて、
この刑事さんたちは長崎本線で佐賀へ向かうのですが、
そこらへんの映像は含まれていません。
この映像には無いのですが、門モコとある客車が佐賀で出てきますから
このスジを重宝していたのがわかります。
@@qshtさん
貴重なカラー映像を
ありがとうございます。