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幼い頃その美しいテールマークに一目ぼれした列車でした。大きくなったら乗りたいとの希望もむなしく廃止されてしまいましたが今でも好きな特急です
2003年大学生の時、日向〜三ノ宮まで乗車しました。宮崎の自動車教習所に合宿で行ってて、実技試験に合格した後明石の運転免許試験場で筆記試験を受けるために、親にわがままを言って帰省の新幹線代に上乗せして送金してもらい彗星に乗りました。1番安い車両に乗りましたがガラガラで独占状態でした。でもブルートレインに乗れることが嬉しくて厚狭まで起きてました。それが最初で最後のブルートレインの旅です。あの時わがままを言ったことは後悔していません。
延岡ー大阪間は、旭化成社員御用達だったんでしょうなぁ。
延岡は旭化成の企業城下町です。
佐伯→造船・業務用冷蔵庫津久見→セメント臼杵→造船・製薬・調味料メーカー御用達でした末期には利用客は減ってましたが、社長たちはよく使ってました
自我のないistjて怖いね
高速バスは支社経由。
京阪神~大分や宮崎では関西汽船などのフェリーとの競合がありましたね。それでも年間を通じて需要が多かったのは驚きです。ただ、彗星と競合していたフェリーは夜行列車と似た時間帯であっても安いだけでなく自家用車を積んで現地で運転できるメリットがあり、今でも人気はあります。鉄道の夜行は飛行機や新幹線には速度で敵わず、かつフェリーのように多様なニーズに応えられなかったことが敗因かと思います。
フェリー🚢は物流メインだが😉
関西と九州、特に大分、宮崎方面のフェリーは夜行高速バスも駆逐してしまいましたからね。開設ブームの時に、大分、宮崎方面路線もいくつか開設されましたが多くが短命でした。
寝台特急『彗星』懐かしいです。子供のころに読んでいた電車図鑑に、彗星やその他寝台特急が紹介されており、大人になったら乗りたいと思っていました。
5往復時代の彗星は、うち大分発着の1往復は新大阪~門司間「あかつき」との併結運転でした
民営化後でも宮崎都城から大阪や山陽方面に行くならば夜行があたりまえの選択肢のひとつで、彗星や日南+新幹線を使ってましたもんねえ。都城駅の裏側の今では太陽光パネルになっているところで客車の整備をしてたのを思い出します。
機関車牽引の寝台特急は起動加速度が遅い。従って小倉〜大分間の特急20分ヘッド化の邪魔になった。寝台特急が昼行特急に抜かれていたもんなぁ…
富士はそのとおりだが、JR時代の彗星はダイヤ的に特急20分ヘッド化の影響はなさそうだけど。
都城行きに渋さを感じます。
大分は新幹線が無いのはもちろんだけど、空港が日本一不便だから、ライバルは自ずとさんふらわぁになるから、大分からも増結したりして需要高かったと思う。
明星、あかつき、彗星は山陽九州に咲き誇ってましたね
月光もね
東海道ブルトレは新幹線に転生したのも結構いますが、それらは無理っぽい名前ですね…なはも含めて
「きりしま」にいたっては、なんと博多通過扱い(実際には運停)。
2003年、小4の時に京都〜宮崎で乗りました😊子供ながらにワクワクしてたせいか、ようやく眠りについたのは広島(深夜1時過ぎ)を過ぎたあたりという(笑)
90年代前半の頃に都城発の彗星を見送った頃が懐かしい。Nゲージの彗星あかつきのセットを購入して、九州から関西を結んでいた時代を懐かしむ。
やっぱり彗星といえば583系のイメージ。
寝台特急彗星が2往復583系化されたのは随分あとのゴウマルサンダイヤ改正からです。その後はいろいろあり結局1往復になったが編成も短く90%の乗車率といっても4両編成では話しにならない。
鉄道で、始めて九州へ行ったときに、乗ったブルトレが、都城行きの彗星でした。EF65・EF81・ED76の時代で、まだEF66ではありませんでした。九州ワイド周遊券という切符で、九州をグルグルした記憶があります。良い時代でした。
子供の頃、向日町からの送り込みを、阪急正雀工場への引き込み線のところの金網にへばりついて眺めていました。日本海と同じく、憧れの存在でしたが、残念ながら乗車する機会は皆無でした。
東のゆうづる、西の彗星。
あかつきやなはと違ってレガートシートも無かったしヤル気無かったですね
あかつきのレガートシートは利用しました。確かにちょっと夜行バスっぽいです。
彗星はそれほど利用率は良くなくて、だからわずか4両しか南宮崎へは行かなかった。大分折返しも4両だった。彗星の全盛期は新幹線博多開業までであとは衰退の道を辿ることになる。2段寝台になるということはそれだけ定員が減るわけだ。
東京発九州行や上野発東北行のブルートレインに比べると若干地味だけど、京阪神発九州行はの「彗星」だけじゃなく「明星」「あかつき」「なは」!名前がかっこよかったな!大分から宮崎、結構時間かかったんだなあ!もちろん当時食堂車はあったんだよね?
食堂車は新大阪〜都城の1往復だけ設定。583系は食堂車連結してたけど営業休止状態で運転。
ショクは昭和49年末には休止になったり、連結していなかったりしていた。そもそも24系の食堂車はわずか5両しか新製されておらず品川客車区に転属するときには足らないので、14系の食堂車を改造してオシ24型100番台になった。それでも足らず博多あさかぜの224系25型のときには基本編成から付属編成へ移ったのははやぶさや、富士は、基本編成だと3編成必要が付属編成だと2編成で済むためだ。
こう見ると宮崎ー大分だけで4時間かかるわけで大分⇆関西で使いやすい時間と宮崎⇆関西で使いやすい時間の両方を1本で賄うのは結構無理があるよなあ75年当時のダイヤの上り分見ても時間帯によって宮崎便と大分便で大別されてる感じだし
急行くにさき号登場までの日豊本線の優等列車の変遷日豊本線に初めて優等列車が登場したのは、1936年(昭和11年)12月改正でした。また、これの原型となった列車は、1917年(大正6年)頃に門司~佐伯で走り始めた801・802列車でした。この列車は門司~大分で通過運転を行いました。当時の時刻表では、門司1115→小倉1137→大分1501・1511→佐伯1715と佐伯1247→大分1445・1450→小倉1813→門司1831でした。1923年(大正12年)頃には、和食堂車の連結が開始され、列車番号も201・202列車に変更されました。当時の時刻表では、門司1005→小倉1021・1025→大分1354・1411→重岡1725と重岡1120→大分1447・1501→小倉1828・1831→門司1847でした。1923年(大正12年)12月頃に日豊本線が全通した(全通前まではそれぞれ別々の路線名で呼ばれており、小倉~重岡は豊州本線、市棚~吉松は宮崎本線と呼ばれていました。また当時は現在の吉都線が日豊本線の一部となっており、本線の区間も小倉~鹿児島ではなく小倉~吉松でした。)際には、運行区間が都城まで延伸されました。当時の時刻表では、門司1005→小倉1021・1025→大分1354・1402→都城2245と都城615→大分1453・1501→小倉1828・1831→門司1847でした。1930年(昭和5年)頃には、運行区間が吉松まで延伸されました。当時の時刻表では、門司1000→小倉1018→大分1325・1337→宮崎1931・1937→吉松2239と吉松707→宮崎958・1005→大分1600・1610→小倉1920→門司1935でした。1932年(昭和7年)12月頃には、現在の日豊本線の一部である都城~隼人の海岸ルートが完成し、これにより都城~吉松は吉都線として分離されました。この影響で、運行区間が吉松から鹿児島に変更されました。当時の時刻表では、門司1000→小倉1015・1018→大分1325・1332→宮崎1853・1857→鹿児島2222と鹿児島713→宮崎1040・1044→大分1549・1555→小倉1920→門司1935でした。1934年(昭和9年)12月改正では、列車番号が201・202列車から203・204列車に変更されました。当時の時刻表では、門司845→小倉901→大分1151・1200→宮崎1727・1732→鹿児島2104と鹿児島900→宮崎1228・1235→大分1804・1810→小倉2100→門司2115でした。1936年(昭和11年)12月改正では、急行列車に格上げされたことで全区間で通過運転を行うようになりました。当時の時刻表では、門司845→小倉858・900→大分1138・1145→宮崎1613・1618→鹿児島1913と鹿児島1050→宮崎1345・1350→大分1821・1827→小倉2059・2101→門司2115でした。1938年(昭和13年)頃には、運行区間が宮崎までに短縮されました。当時の時刻表では、門司845→小倉858・900→大分1138・1145→宮崎1613と宮崎1350→大分1821・1827→小倉2059・2101→門司2115でした。1941年(昭和16年)頃には、運行区間が鹿児島まで再び延伸されました。当時の時刻表では、門司900→小倉916→大分1154・1201→宮崎1630・1635→鹿児島1938と鹿児島1005→宮崎1315・1325→大分1758・1805→小倉2041→門司2055でした。1942年(昭和17年)11月改正では、運行区間が宮崎までに再び短縮され、始発駅も門司港駅に変更されました。また、列車番号も203・204列車から205・206列車に変更されました。当時の時刻表では、門司港833→門司910→小倉921→大分1205・1212→宮崎1637と宮崎1324→大分1749・1757→小倉2046→門司2055→門司港2132でした。1943年(昭和18年)春頃には、戦時体制強化の影響で急行列車が廃止されました。その後しばらくは戦争や戦後の混乱などで運行されませんでしたが、1946年(昭和21年)11月改正で門司港~鹿児島の準急501・502列車として復活しました。(門司港~宮崎は資材不足などの影響で運行休止状態でした。また、宮崎~鹿児島は普通列車として運行されました。)当時の時刻表では、門司港936→門司954→小倉1009→大分1315・1324→宮崎1805・1841→鹿児島2242と鹿児島450→宮崎857・913→大分1315・1424→小倉1748→門司1758→門司港1815でした。
1947年(昭和22年)11月改正で門司港~宮崎の準急501・502列車として本格的に復活しました。また、宮崎~鹿児島は鹿児島→宮崎のみ普通列車(鹿児島455→宮崎859の532列車)として分離されました。宮崎→鹿児島は宮崎駅で延岡発都城行きの普通列車に接続する形態に改められました。当時の時刻表では、門司港955→門司1009→小倉1030→大分1338・1348→宮崎1833と宮崎937→大分1423・1433→小倉1755→門司1812→門司港1820でした。1948年(昭和23年)7月改正で運行区間が都城までに延伸されました。当時の時刻表では、門司港1045→門司1102→小倉1123→大分1434・1450→宮崎1952・2003→都城2129と都城714→宮崎817・824→大分1317・1334→小倉1708→門司1718→門司港1739でした。1950年(昭和25年)10月改正で運行区間が京都までに延伸されました。(そのため門司港には行かなくなりました。また、京都~門司は準急205・206列車で、門司駅で博多行と併結もしくは解結しました。)また列車番号も準急501・502列車から準急505・506列車に変更されました。そして門司港~大分で準急507・508列車が新設されました。当時の時刻表では、前者は京都1755→門司翌日の737→小倉748→大分1046・1059→宮崎1537・1542→都城1656と都城1210→宮崎1316・1322→大分1800・1812→小倉2123→門司2131→京都翌日の1222でした。一方で、後者は門司港1258→門司1307→小倉1318→大分1618と大分1110→小倉1423→門司1431→門司港1444でした。1952年(昭和27年)頃には、運行区間が東京までに延伸されました。また、準急列車から急行列車に格上げされました。(東京~門司は急行31・32列車として運行され、門司駅で熊本発着の急行阿蘇号と併結または解結しました。)そして、列車番号も準急505・506列車から急行501・502列車に変更されました。当時の時刻表では、東京800→門司翌日の720→小倉736→大分1026・1034→宮崎1500・1506→都城1615と都城1320→宮崎1422・1428→大分1857・1905→小倉2201→門司2210→東京翌日の2008でした。※準急507・508列車に大きな変化はありませんでした。1953年(昭和28年)頃には、急行列車にたかちほ号の愛称が付与されました。また、準急507・508列車の列車番号が準急505・508列車変更され、また門司港~大分で不定期の準急3506・3507列車が運行を開始しました。当時の時刻表では、東京930→門司翌日の720→小倉737→大分1031・1044→宮崎1511・1517→都城1625と都城1335→宮崎1435・1440→大分1907・1922→小倉2224→門司2232→東京翌日の2008でした。また準急505・508列車は、門司港1340→門司1350→小倉1405→大分1704と大分1210→小倉1521→門司1530→門司港1540で、不定期の準急3506・3507列車は、門司港1752→門司1802→小倉1813→大分2100と大分800→小倉1058→門司1107→門司港1118でした。1954年(昭和29年)10月改正では、急行たかちほ号の併結相手が東京~博多の急行げんかい号に変更されました。そして、特別2等車も連結されるようになりました。また、不定期の準急3506・3507列車が定期列車化されました。そのため、列車番号も準急3506・3507列車から準急506・507列車に変更されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉800→大分1050・1102→宮崎1526・1533→都城1641と都城1315→宮崎1416・1422→大分1845・1858→小倉2158・2201→門司2210→東京翌日の1912でした。また、準急506・507列車は門司港1752→門司1802→小倉1813→大分2107と大分800→小倉1058→門司1107→門司港1118でした。※準急505・508列車に大きな変化はありませんでした。1955年(昭和30年)頃には、急行たかちほ号にC寝台車が連結されるようになりました。また、準急505・508列車の運行区間が宮崎まで延伸されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉755・800→大分1050・1102→宮崎1526・1533→都城1641と都城1315→宮崎1416・1422→大分1845・1858→小倉2158・2201→門司2210→東京翌日の1912でした。また準急505・508列車は、門司港1340→門司1349→小倉1358・1401→大分1701・1716→宮崎2135と宮崎720→大分1148・1210→小倉1518・1521→門司1530→門司港1540でした。※準急506・507列車に大きな変化はありませんでした。1956年(昭和31年)頃には、急行たかちほ号が急行高千穂号に変更されました。また、C寝台→2等寝台車と3等寝台車と食堂車(2・3等寝台車と食堂車は東京~大分で連結しました。)が新たに連結されるようになりました。また、東京~門司は単独で運行するようになり、運行区間自体も西鹿児島まで延伸されました。そしれ列車番号も急行501・502列車から急行35・36列車に変更されました。そして準急505・508列車と準急506・507列車の列車番号が、準急505・506列車と準急507・508列車に整理されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉755・800→大分101・1105→宮崎1527・1532→西鹿児島1828と西鹿児島1050→宮崎1350・1355→大分1811・1826→小倉2130・2132→門司2140→東京翌日の1753でした。また、準急505・506列車は、門司港1350→門司1400→小倉1407・1410→大分1711・1725→宮崎2147と宮崎724→大分1149・1204→小倉1505・1507→門司1515→門司港1523でした。準急507・508列車は、門司港1755→門司1805→小倉1813・1815→大分2103と大分800→小倉1052・1053→門司1101→門司港1112でした。1958年(昭和33年)11月改正では、博多・門司港~熊本を日豊本線・豊肥本線経由で結んだ準急ひかり号(列車番号は準急905・906列車で、門司港発着は準急907・908列車でした。)が新設されました。当時の時刻表では、博多1210・門司港1250→大分1522・1523→熊本1815と熊本1200→大分1449・1450→博多1810・門司港1724でした。※ほかの急行列車・準急列車に大きな変化はありませんでした。1959年(昭和34年)頃には、京都~都城で急行くにさき号(列車番号は急行501・502列車で、京都~門司は急行205・206列車でした。また、京都~門司では熊本発着の急行天草号と併結しまし、3等寝台車を京都~大分で連結しました。)が新たに設定されました。また、準急ひかり号に西鹿児島行が新たに設定されました。(大分~熊本は準急705・706列車に変更されました。)当時の時刻表では、急行くにさき号は京都2015→門司翌日の728・743→小倉750・753→大分1023・1057→宮崎1529・1535→都城1637と都城1230→宮崎1328・1334→大分1758・1810→小倉2030・2031→門司2039・2052→京都翌日の808でした。また、準急ひかり号は博多1210・門司港1250→小倉1303・1311→熊本1504・1508と1517→熊本1818・宮崎1851・1856→西鹿児島2117と西鹿児島905→宮崎1128・1130・熊本1200→大分1501と1508・1515→小倉1708・1710→博多1810・門司港1724でした。※急行たかちほ号は、東京1100→門司翌日の703・710→小倉717・719→大分1001・1017→宮崎1421・1426→西鹿児島1715と西鹿児島1145→宮崎1435・1440→大分1848・1902→小倉2154・2156→門司2204・2211→東京翌日の1752でした。準急505・506列車は、門司港1405→門司1413・1414→小倉1421・1425→大分1712・1720→宮崎2134と宮崎730→大分1139・1149→小倉1450・1452→門司1459・1501→門司港1509でした。準急507・508列車は、門司港1759→門司1802・1805→小倉1812・1814→大分2058と大分836→小倉1107・1111→門司1119・1121→門司港1129でした。また、これ以外にも1959年(昭和34年)頃には、準急えびの号(準急606・607列車・肥薩線と吉都線経由・熊本1256→宮崎1725と宮崎1329→熊本1800)や火の山号(720・725列車・豊肥本線経由・別府814→熊本1239と熊本1351→別府1815)やゆのか号(625・626列車・久大本線経由・別府1417→博多1816と博多1340→別府1834)が新たに設定されました。
ソラシドエアラインの登場の影響はでかい
2段式B寝台車が東京発着の列車を差し置いて、関西⇔九州でデビューとは、意外だったな。
一つは利用率の問題で東京発着寝台特急は当時は利用率が高かったので2段寝台にはできなかった。東京発着が2段寝台になったのは2年半後の昭和51年10月改正で、はやぶさ・富士・それに出雲の3列車です。その時から銀帯に食堂車だけは白帯だった。
彗星!僕が数ある特急の中で一番好きな列車。583系のヘッドマーク(5:43)、客車のテールマーク(ない💧)がシンプルながらカッコよかったんですよねー。対して客車のヘッドマーク(0:38)は何とも単純なデザインで、これがまたEF58やDF50によく似合ってカワイイヘッドマークでした。のちの九州内での客車ヘッドマーク(2:09)や晩年のあかつき併結時の本州でのヘッドマーク(7:57)は垢抜けてこれまたカッコよくなったんですが、それでも昔のヘッドマークは味があって、僕はこっちの方が好きでした。
58牽引の彗星が良かった
母の郷里が宮崎なので帰省の往復に利用してました。60年代は寝台列車は高嶺の花でしたので急行夕月や日南の座席に揺られてました。70年代になってから彗星を利用するようになりました。親父がこの時期、羽振りが良かったので最初で最後のA寝台に乗せてもらいました。山陽新幹線開業以後は時間的な面から飛行機を利用するようになりました成人してからも利用しましたが相次ぐ値上げで運賃面では飛行機と寝台列車もそんなに差がなかったような気がしますでも彗星というと楽しかった宮崎を思い出します
高校入学もお祝いに、初めて乗った寝台列車。わくわくして、ほとんど寝れなかったんですが、ウトウトして目が覚めたときには、大分に、、、 感動しました
東京ー宮崎間を寝台特急富士号で直通して行くより東海道新幹線🚅ひかり号で新大阪駅🚉まで行き寝台特急彗星号に乗り換えルートで宮崎まで早くたどり着く事が出来ます!新幹線🚅と寝台特急彗星号を乗り継ぎすると彗星号の特急料金が乗り継ぎ割引制度が適用されて半額になります。寝台特急富士号を利用するよりも寝台特急料金がお得🉐でした。
他の大阪発ブルートレインは三ノ宮停車。でも彗星は神戸停車だった。90年代半ばまで多客時に増便された彗星81,82号(下り宮崎行上り南宮崎発)は全車指定席の14系座席車だった(あかつき81,82号と明星は20系で後に急行雲仙と霧島に格下げされた)
臨時特急彗星81号82号には14系寝台車もついていた。
寝台急行夕月はヨンサントウダイヤ改正で寝台急行日南下り1号上り3号に改称されていて寝台特急彗星は夕月の格上げではない。さらにいうと彗星は寝台急行べっぷを格上げされて増えたのであって純粋には増えていない。強いて言えば急行べっぷが季節列車だったのが定期列車になった。それと1973年10月ダイヤ改正ですでに24系24型が新製投入されている。ついでにゴウサントウダイヤ改正では大分発着の彗星1往復が583系から24系25型に変更になっている。ちなみに彗星が初めてヨンゴウトウダイヤ改正から下関運転所のEF65型1000番台PF型に変わった。PF型が牽引するのは他に寝台特急あけぼのだけだった。
ヨンサントウで夕月と日向は日南に列車名が統一された。列車名だけで言うと同時に日向はいそかぜを改称し、なはと併結でDC特急へ、夕月はその後583系の臨時夜行特急として岡山〜宮崎でたまに運転された。
@松本治-c6l 特急夕月は早期落成した489系で1971年年末年始繁忙期から臨時特急として新大阪と大分間で夜行で運行されていた。
夕月の583系化はだいぶあとからでしかも583系でありながら寝台はセットされていない。
大阪発九州行きの寝台列車、意識して乗るようにしていました。首都圏在住なので、そうしないとなかなか乗る機会もなく……彗星は1度だけ、下りのソロだったかで利用しました。そのまま高千穂鉄道に乗り換えて、こちらも1度だけの乗車でした。懐かしいです。🛤️
急行時代は編成の1/3が1等寝台とかいうわけわからん編成だったってのをこの間知った彗星/あかつきのヘッドマーク好きだったな
2005年の夏、京都宮崎間で廃止直前の彗星に乗りました。車両の側面には錆びて大きな穴が開いていたし、たまたまその辺りに乗ったのだけど、発射するたびに「ビシッ!」っと音がして、しかも窓ガラスは茶色く曇っていました。車両的には限界だったのでしょうね。
同じ頃、最晩年のあかつきに乗ってますが同様に窓ガラスがやたらに濁ってましたね。発車のたびにミシシッと軋んでました。懐かしいw
ブルトレ全盛期 深夜の岡山駅には明星あかつき彗星等が浅い時間帯にバンバン来てたから東京発着に比べて特別感が薄かったですね。今になってみれば贅沢な時だったと思います。
新幹線博多開通直前の宗太郎越える列車ですが、彗星3往復の他、富士、高千穂、日南2往復、青島、フェニックス、日向、にちりん、しいば等活発に行き交っていました。A寝台とグリーン車だけの急行ことぶきもブライダルシーズンに設定あったようで、時刻表見るだけでよだれが出てきます。
夜行急行みやざきもありました。こどもの頃日豊線沿線に住んでたので時刻表に見る「ことぶき」が本当に走るのか見に行ったことがあります。オロネ10を連ね1両だけスハフ42を連結した堂々6両編成でした。スハフ42は車内で目のやり場に困る車掌さん避難用だったのかも?
みやざき、急行格上げしていたこと数え落としました。ことぶきは編制表記録資料では普通車連結見たことなかったですが、連結していたことがあったのですね。
@@zennygon オロネフ10が不足したのかもしれないし、なんとも言えないのですが、座席車が連結されていたのは確かです。下り日南3号が浅海井駅に停まるダイヤだったので乗ったことがありますが、浅海井駅に堂々機関車含めて11両(DF50-マニ-スハネ-オロ-オロ-普通車6)が停車していた、というのは今考えるとすごい話です。大分まではさらに3両繋がっていました。
ことぶきにはことぶき周遊券があり、料金が半額だった。
0:55西鹿児島( 現 鹿児島中央 )
1995年くらいまでは繁忙期に臨時便が走ってた記憶あと、三ノ宮と行橋を通過する貴重な列車だった
確か、SLが最後に牽引した寝台特急が彗星号だったような…定期でラストは、ゆうづる号でしたけど、ディーゼル機関車の故障による代替機としてC57が抜擢されたとか…確か彗星号だったはず…
2000年代以降は明らかに寝台列車は観光かエンタテ目的でビジネス需要はほぼなかったけど、この頃は本当に必要だから乗った層が多かったんだろうな。
彗星と言えば今でも鮮明に覚えているのが下り彗星5号。ウチの地元を朝方5時台に通過するので夏場だと朝日が昇った後。その朝日を背に浴びてやって来るのは彗星のヘッドマークも凛々しい米原のEF58P型(20系なのでMR管装備のP型限定)。47-10で折からのカマ不足、山陽本線夜間時間帯の並行ダイヤ化(高速貨Bと関西ブルトレを共にMax95km/h化、並行ダイヤにすることで増発。然しEF65Pはタマ不足、EF65F・PFも高速貨物の応援で余裕なし。関西ブルトレは山陽線内95㎞/h走行でも所要時間に大きな遅れにならずまたその速度域なら運用に余裕の出ていたEF58で間に合うからブルトレはEF58に任せEF65を捻出させた)で米原・下関のEF58がP型改造の上カムバック。彗星・あかつきの[カン]を掲げて時には当時最新鋭の銀帯24系25型編成もエスコートしていた(14系以降のCLブレーキ装備車ならカマの限定運用不要の為宮原・広島のカマも参戦、時には旧車体載せ替え組の1~31まで戦列に加わった)。然し50-3で列車群も整理されそれ以上に寂しかったのは東京~下関間のEF65P担当ブルトレ以外ヘッドマークがが無くなったこと。特急の威厳が失われた感じだった。EF58時代乗車は叶わなかったが後年学生時代複数回(博多~)小倉~新大阪間で利用する機会を得た(25型時代)のは今となっては貴重な思い出。当時の世間知らずな若造は世間知らずのまま下腹たるんで白髪頭のアラカンオジンに成り果てた(^^);
昭和50年3月10日改正で7往復になったのは、あかつきでなく、明星。ただ、これは行き先別に愛称名を概ね整理したことによるもので、全体的に減便されている。
関西〜九州ブルトレの名称は、星とか夜空に因んだ名前でしたね彗星、明星、あかつき彗星と言えばカニ25のイメージが強いです。
月光もあった
みんな東海道線の夜行急行からやってきた列車名。金星も一時北陸の夜行急行に使われたけど元々は東海道線の夜行急行の列車名。彗星は初の寝台専用列車として、全個室のマロネ49を初め今でいうA寝台車を何両も連ねていた。ヨンサントウで明星と銀河だけが残り列車名は銀河に統一された。
5往復から3往復に減便された1975年3月改正から1往復化される1984年2月改正までの間583系も彗星に投入されるが車両重量の重い583系は線路規格の低い日豊本線では試練の場となっていた。それが583系が早期に山陽九州筋からの撤退に拍車をかける要因ともなっていた。
大分以南は初入線で大分以北は初581系初入線特急みどりとして1等車(現在のグリーン車)無しの昼行で夜行は月光だった。
新八代~宮崎間に新幹線が出来きたら新大阪発宮崎行きの愛称は彗星にしてほしい。
博多ー宮崎は「大淀」がいいな、、
マンガ『カレチ』の中でも何回か登場してたな
日豊線夜行列車は特急[彗星]&急行[日南]がコンビを組んでいた.20系,583系[彗星]は[食堂車🍴]連結で高嶺の花💦
583系彗星は食堂車非営業です。1人で乗った時、弁当を食堂車で食べていると車掌さんに「お、食堂車やな」と話し掛けられました。24系彗星は昭和50年3月改正まで都城発着の1往復のみ食堂車が営業していて、小学生の頃祖母と乗って朝食を食べたことがあります。
東京発九州夜行もそうだが、斜陽になってから個室投入という的外れな戦略だったんだな。
1989年の段階で減車が常態化していたしなぁ…なはやあかつきに比べて編成が短くてそのくせに大阪駅では田端EF65がホーム端の柵の前に詰めて止まるので、渋いHMを撮影できなかった。
反対ルートが明星ですね。そちらの配信も宜しくお願いします。
明星は山陽、九州で寝台電車撤退により、なはに統合された。繁忙期に不定期で運行。
国鉄時代のハイパー値上げが一番では。大阪~大分で値段が飛行機<彗星では厳しいですな。割引きっぷあっても厳しい。時間帯は大分基準で考えると使い勝手がいいだけに惜しい列車ですね。
ほんの数年で倍になったら誰でも利用見直しを迫られますね。その時に他の交通機関が発達していたら、ずっと使っていたであろう利用者も離れていくのは当然ですね。
この中途半端な遠さが宮崎の欠点だろうね東京からも大阪からも博多からも気軽に行けない場所になってる
まぁみんな飛行機でしょうね。
日豊線はもちろん東九州道のまだら整備となれば交通面で貧弱で陸の孤島だが、本当だ✋
昨年日豊本線を乗り通したけど、佐伯ー延岡や宮崎ー国分とかは特急が運転しているとはいえ単線峠越えが続き宮崎の両側とも九州版奥の細道だなあと感じました。
あの東国原英夫がもう三年くらい早く知事になってくれてたら…もし彗星も、「どぎゃんとせんとイカン!☄️」って勢いでJR 九州&西日本にテコ入れ要請してくれてたかも…(^-^;ンナ訳ないか😅-w-w
@@ゴンタオヤジ-n6n 宮崎県は鐵道で冷淡やからなぁ〜✋🚃
あかつきとなはには乗ったけど、彗星は一度も乗れず仕舞いやった…(´;ω;`)。
寝台特急あったあった=新幹線開業前の本数が異常に多い😅
大昔は新婚旅行の定番で近年の宮崎は有名人ら行き来しても過半数が宮崎空港を介しての飛行機需要だが、その列車はハレー彗星で凋落に陥り転落したやろ✋🚃車両で客車より583系のほうが高加減速性能がよくても振動・騒音がハゲしく、忌避したが本当だ✋
幼い頃その美しいテールマークに一目ぼれした列車でした。大きくなったら乗りたいとの希望もむなしく廃止されてしまいましたが今でも好きな特急です
2003年大学生の時、日向〜三ノ宮まで乗車しました。宮崎の自動車教習所に合宿で行ってて、実技試験に合格した後明石の運転免許試験場で筆記試験を受けるために、親にわがままを言って帰省の新幹線代に上乗せして送金してもらい彗星に乗りました。
1番安い車両に乗りましたがガラガラで独占状態でした。でもブルートレインに乗れることが嬉しくて厚狭まで起きてました。それが最初で最後のブルートレインの旅です。あの時わがままを言ったことは後悔していません。
延岡ー大阪間は、旭化成社員御用達だったんでしょうなぁ。
延岡は旭化成の企業城下町です。
佐伯→造船・業務用冷蔵庫
津久見→セメント
臼杵→造船・製薬・調味料
メーカー御用達でした
末期には利用客は減ってましたが、
社長たちはよく使ってました
自我のないistjて怖いね
高速バスは支社経由。
京阪神~大分や宮崎では関西汽船などのフェリーとの競合がありましたね。それでも年間を通じて需要が多かったのは驚きです。
ただ、彗星と競合していたフェリーは夜行列車と似た時間帯であっても安いだけでなく自家用車を積んで現地で運転できるメリットがあり、今でも人気はあります。
鉄道の夜行は飛行機や新幹線には速度で敵わず、かつフェリーのように多様なニーズに応えられなかったことが敗因かと思います。
フェリー🚢は物流メインだが😉
関西と九州、特に大分、宮崎方面のフェリーは夜行高速バスも駆逐してしまいましたからね。
開設ブームの時に、大分、宮崎方面路線もいくつか開設されましたが多くが短命でした。
寝台特急『彗星』懐かしいです。子供のころに読んでいた電車図鑑に、彗星やその他寝台特急が紹介されており、大人になったら乗りたいと思っていました。
5往復時代の彗星は、うち大分発着の1往復は新大阪~門司間「あかつき」との併結運転でした
民営化後でも宮崎都城から大阪や山陽方面に行くならば夜行があたりまえの選択肢のひとつで、彗星や日南+新幹線を使ってましたもんねえ。
都城駅の裏側の今では太陽光パネルになっているところで客車の整備をしてたのを思い出します。
機関車牽引の寝台特急は起動加速度が遅い。従って小倉〜大分間の特急20分ヘッド化の邪魔になった。寝台特急が昼行特急に抜かれていたもんなぁ…
富士はそのとおりだが、JR時代の彗星はダイヤ的に特急20分ヘッド化の影響はなさそうだけど。
都城行きに渋さを感じます。
大分は新幹線が無いのはもちろんだけど、空港が日本一不便だから、ライバルは自ずとさんふらわぁになるから、大分からも増結したりして需要高かったと思う。
明星、あかつき、彗星は山陽九州に咲き誇ってましたね
月光もね
東海道ブルトレは新幹線に転生したのも結構いますが、それらは無理っぽい名前ですね…なはも含めて
「きりしま」にいたっては、なんと博多通過扱い(実際には運停)。
2003年、小4の時に京都〜宮崎で乗りました😊子供ながらにワクワクしてたせいか、ようやく眠りについたのは広島(深夜1時過ぎ)を過ぎたあたりという(笑)
90年代前半の頃に都城発の彗星を見送った頃が懐かしい。
Nゲージの彗星あかつきのセットを購入して、九州から関西を結んでいた時代を懐かしむ。
やっぱり彗星といえば583系のイメージ。
寝台特急彗星が2往復583系化されたのは随分あとのゴウマルサンダイヤ改正からです。その後はいろいろあり結局1往復になったが編成も短く90%の乗車率といっても4両編成では話しにならない。
鉄道で、始めて九州へ行ったときに、乗ったブルトレが、都城行きの彗星でした。
EF65・EF81・ED76の時代で、まだEF66ではありませんでした。
九州ワイド周遊券という切符で、九州をグルグルした記憶があります。
良い時代でした。
子供の頃、向日町からの送り込みを、阪急正雀工場への引き込み線のところの金網にへばりついて眺めていました。日本海と同じく、憧れの存在でしたが、残念ながら乗車する機会は皆無でした。
東のゆうづる、西の彗星。
あかつきやなはと違ってレガートシートも無かったしヤル気無かったですね
あかつきのレガートシートは利用しました。確かにちょっと夜行バスっぽいです。
彗星はそれほど利用率は良くなくて、だからわずか4両しか南宮崎へは行かなかった。大分折返しも4両だった。彗星の全盛期は新幹線博多開業までであとは衰退の道を辿ることになる。2段寝台になるということはそれだけ定員が減るわけだ。
東京発九州行や上野発東北行のブルートレインに比べると若干地味だけど、京阪神発九州行はの「彗星」だけじゃなく「明星」「あかつき」「なは」!名前がかっこよかったな!
大分から宮崎、結構時間かかったんだなあ!もちろん当時食堂車はあったんだよね?
食堂車は新大阪〜都城の1往復だけ設定。583系は食堂車連結してたけど営業休止状態で運転。
ショクは昭和49年末には休止になったり、連結していなかったりしていた。そもそも24系の食堂車はわずか5両しか新製されておらず品川客車区に転属するときには足らないので、14系の食堂車を改造してオシ24型100番台になった。それでも足らず博多あさかぜの224系25型のときには基本編成から付属編成へ移ったのははやぶさや、富士は、基本編成だと3編成必要が付属編成だと2編成で済むためだ。
こう見ると宮崎ー大分だけで4時間かかるわけで大分⇆関西で使いやすい時間と宮崎⇆関西で使いやすい時間の両方を1本で賄うのは結構無理があるよなあ
75年当時のダイヤの上り分見ても時間帯によって宮崎便と大分便で大別されてる感じだし
急行くにさき号登場までの日豊本線の優等列車の変遷
日豊本線に初めて優等列車が登場したのは、1936年(昭和11年)12月改正でした。また、これの原型となった列車は、1917年(大正6年)頃に門司~佐伯で走り始めた801・802列車でした。この列車は門司~大分で通過運転を行いました。当時の時刻表では、門司1115→小倉1137→大分1501・1511→佐伯1715と佐伯1247→大分1445・1450→小倉1813→門司1831でした。
1923年(大正12年)頃には、和食堂車の連結が開始され、列車番号も201・202列車に変更されました。当時の時刻表では、門司1005→小倉1021・1025→大分1354・1411→重岡1725と重岡1120→大分1447・1501→小倉1828・1831→門司1847でした。
1923年(大正12年)12月頃に日豊本線が全通した(全通前まではそれぞれ別々の路線名で呼ばれており、小倉~重岡は豊州本線、市棚~吉松は宮崎本線と呼ばれていました。また当時は現在の吉都線が日豊本線の一部となっており、本線の区間も小倉~鹿児島ではなく小倉~吉松でした。)際には、運行区間が都城まで延伸されました。当時の時刻表では、門司1005→小倉1021・1025→大分1354・1402→都城2245と都城615→大分1453・1501→小倉1828・1831→門司1847でした。
1930年(昭和5年)頃には、運行区間が吉松まで延伸されました。当時の時刻表では、門司1000→小倉1018→大分1325・1337→宮崎1931・1937→吉松2239と吉松707→宮崎958・1005→大分1600・1610→小倉1920→門司1935でした。
1932年(昭和7年)12月頃には、現在の日豊本線の一部である都城~隼人の海岸ルートが完成し、これにより都城~吉松は吉都線として分離されました。この影響で、運行区間が吉松から鹿児島に変更されました。当時の時刻表では、門司1000→小倉1015・1018→大分1325・1332→宮崎1853・1857→鹿児島2222と鹿児島713→宮崎1040・1044→大分1549・1555→小倉1920→門司1935でした。
1934年(昭和9年)12月改正では、列車番号が201・202列車から203・204列車に変更されました。当時の時刻表では、門司845→小倉901→大分1151・1200→宮崎1727・1732→鹿児島2104と鹿児島900→宮崎1228・1235→大分1804・1810→小倉2100→門司2115でした。
1936年(昭和11年)12月改正では、急行列車に格上げされたことで全区間で通過運転を行うようになりました。当時の時刻表では、門司845→小倉858・900→大分1138・1145→宮崎1613・1618→鹿児島1913と鹿児島1050→宮崎1345・1350→大分1821・1827→小倉2059・2101→門司2115でした。
1938年(昭和13年)頃には、運行区間が宮崎までに短縮されました。当時の時刻表では、門司845→小倉858・900→大分1138・1145→宮崎1613と宮崎1350→大分1821・1827→小倉2059・2101→門司2115でした。
1941年(昭和16年)頃には、運行区間が鹿児島まで再び延伸されました。当時の時刻表では、門司900→小倉916→大分1154・1201→宮崎1630・1635→鹿児島1938と鹿児島1005→宮崎1315・1325→大分1758・1805→小倉2041→門司2055でした。
1942年(昭和17年)11月改正では、運行区間が宮崎までに再び短縮され、始発駅も門司港駅に変更されました。また、列車番号も203・204列車から205・206列車に変更されました。当時の時刻表では、門司港833→門司910→小倉921→大分1205・1212→宮崎1637と宮崎1324→大分1749・1757→小倉2046→門司2055→門司港2132でした。
1943年(昭和18年)春頃には、戦時体制強化の影響で急行列車が廃止されました。その後しばらくは戦争や戦後の混乱などで運行されませんでしたが、1946年(昭和21年)11月改正で門司港~鹿児島の準急501・502列車として復活しました。(門司港~宮崎は資材不足などの影響で運行休止状態でした。また、宮崎~鹿児島は普通列車として運行されました。)当時の時刻表では、門司港936→門司954→小倉1009→大分1315・1324→宮崎1805・1841→鹿児島2242と鹿児島450→宮崎857・913→大分1315・1424→小倉1748→門司1758→門司港1815でした。
1947年(昭和22年)11月改正で門司港~宮崎の準急501・502列車として本格的に復活しました。また、宮崎~鹿児島は鹿児島→宮崎のみ普通列車(鹿児島455→宮崎859の532列車)として分離されました。宮崎→鹿児島は宮崎駅で延岡発都城行きの普通列車に接続する形態に改められました。当時の時刻表では、門司港955→門司1009→小倉1030→大分1338・1348→宮崎1833と宮崎937→大分1423・1433→小倉1755→門司1812→門司港1820でした。
1948年(昭和23年)7月改正で運行区間が都城までに延伸されました。当時の時刻表では、門司港1045→門司1102→小倉1123→大分1434・1450→宮崎1952・2003→都城2129と都城714→宮崎817・824→大分1317・1334→小倉1708→門司1718→門司港1739でした。
1950年(昭和25年)10月改正で運行区間が京都までに延伸されました。(そのため門司港には行かなくなりました。また、京都~門司は準急205・206列車で、門司駅で博多行と併結もしくは解結しました。)また列車番号も準急501・502列車から準急505・506列車に変更されました。そして門司港~大分で準急507・508列車が新設されました。当時の時刻表では、前者は京都1755→門司翌日の737→小倉748→大分1046・1059→宮崎1537・1542→都城1656と都城1210→宮崎1316・1322→大分1800・1812→小倉2123→門司2131→京都翌日の1222でした。一方で、後者は門司港1258→門司1307→小倉1318→大分1618と大分1110→小倉1423→門司1431→門司港1444でした。
1952年(昭和27年)頃には、運行区間が東京までに延伸されました。また、準急列車から急行列車に格上げされました。(東京~門司は急行31・32列車として運行され、門司駅で熊本発着の急行阿蘇号と併結または解結しました。)そして、列車番号も準急505・506列車から急行501・502列車に変更されました。当時の時刻表では、東京800→門司翌日の720→小倉736→大分1026・1034→宮崎1500・1506→都城1615と都城1320→宮崎1422・1428→大分1857・1905→小倉2201→門司2210→東京翌日の2008でした。※準急507・508列車に大きな変化はありませんでした。
1953年(昭和28年)頃には、急行列車にたかちほ号の愛称が付与されました。また、準急507・508列車の列車番号が準急505・508列車変更され、また門司港~大分で不定期の準急3506・3507列車が運行を開始しました。当時の時刻表では、東京930→門司翌日の720→小倉737→大分1031・1044→宮崎1511・1517→都城1625と都城1335→宮崎1435・1440→大分1907・1922→小倉2224→門司2232→東京翌日の2008でした。また準急505・508列車は、門司港1340→門司1350→小倉1405→大分1704と大分1210→小倉1521→門司1530→門司港1540で、不定期の準急3506・3507列車は、門司港1752→門司1802→小倉1813→大分2100と大分800→小倉1058→門司1107→門司港1118でした。
1954年(昭和29年)10月改正では、急行たかちほ号の併結相手が東京~博多の急行げんかい号に変更されました。そして、特別2等車も連結されるようになりました。また、不定期の準急3506・3507列車が定期列車化されました。そのため、列車番号も準急3506・3507列車から準急506・507列車に変更されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉800→大分1050・1102→宮崎1526・1533→都城1641と都城1315→宮崎1416・1422→大分1845・1858→小倉2158・2201→門司2210→東京翌日の1912でした。また、準急506・507列車は門司港1752→門司1802→小倉1813→大分2107と大分800→小倉1058→門司1107→門司港1118でした。※準急505・508列車に大きな変化はありませんでした。
1955年(昭和30年)頃には、急行たかちほ号にC寝台車が連結されるようになりました。また、準急505・508列車の運行区間が宮崎まで延伸されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉755・800→大分1050・1102→宮崎1526・1533→都城1641と都城1315→宮崎1416・1422→大分1845・1858→小倉2158・2201→門司2210→東京翌日の1912でした。また準急505・508列車は、門司港1340→門司1349→小倉1358・1401→大分1701・1716→宮崎2135と宮崎720→大分1148・1210→小倉1518・1521→門司1530→門司港1540でした。※準急506・507列車に大きな変化はありませんでした。
1956年(昭和31年)頃には、急行たかちほ号が急行高千穂号に変更されました。また、C寝台→2等寝台車と3等寝台車と食堂車(2・3等寝台車と食堂車は東京~大分で連結しました。)が新たに連結されるようになりました。また、東京~門司は単独で運行するようになり、運行区間自体も西鹿児島まで延伸されました。そしれ列車番号も急行501・502列車から急行35・36列車に変更されました。そして準急505・508列車と準急506・507列車の列車番号が、準急505・506列車と準急507・508列車に整理されました。当時の時刻表では、東京1000→門司翌日の745→小倉755・800→大分101・1105→宮崎1527・1532→西鹿児島1828と西鹿児島1050→宮崎1350・1355→大分1811・1826→小倉2130・2132→門司2140→東京翌日の1753でした。また、準急505・506列車は、門司港1350→門司1400→小倉1407・1410→大分1711・1725→宮崎2147と宮崎724→大分1149・1204→小倉1505・1507→門司1515→門司港1523でした。準急507・508列車は、門司港1755→門司1805→小倉1813・1815→大分2103と大分800→小倉1052・1053→門司1101→門司港1112でした。
1958年(昭和33年)11月改正では、博多・門司港~熊本を日豊本線・豊肥本線経由で結んだ準急ひかり号(列車番号は準急905・906列車で、門司港発着は準急907・908列車でした。)が新設されました。当時の時刻表では、博多1210・門司港1250→大分1522・1523→熊本1815と熊本1200→大分1449・1450→博多1810・門司港1724でした。※ほかの急行列車・準急列車に大きな変化はありませんでした。
1959年(昭和34年)頃には、京都~都城で急行くにさき号(列車番号は急行501・502列車で、京都~門司は急行205・206列車でした。また、京都~門司では熊本発着の急行天草号と併結しまし、3等寝台車を京都~大分で連結しました。)が新たに設定されました。また、準急ひかり号に西鹿児島行が新たに設定されました。(大分~熊本は準急705・706列車に変更されました。)当時の時刻表では、急行くにさき号は京都2015→門司翌日の728・743→小倉750・753→大分1023・1057→宮崎1529・1535→都城1637と都城1230→宮崎1328・1334→大分1758・1810→小倉2030・2031→門司2039・2052→京都翌日の808でした。また、準急ひかり号は博多1210・門司港1250→小倉1303・1311→熊本1504・1508と1517→熊本1818・宮崎1851・1856→西鹿児島2117と西鹿児島905→宮崎1128・1130・熊本1200→大分1501と1508・1515→小倉1708・1710→博多1810・門司港1724でした。※急行たかちほ号は、東京1100→門司翌日の703・710→小倉717・719→大分1001・1017→宮崎1421・1426→西鹿児島1715と西鹿児島1145→宮崎1435・1440→大分1848・1902→小倉2154・2156→門司2204・2211→東京翌日の1752でした。準急505・506列車は、門司港1405→門司1413・1414→小倉1421・1425→大分1712・1720→宮崎2134と宮崎730→大分1139・1149→小倉1450・1452→門司1459・1501→門司港1509でした。準急507・508列車は、門司港1759→門司1802・1805→小倉1812・1814→大分2058と大分836→小倉1107・1111→門司1119・1121→門司港1129でした。
また、これ以外にも1959年(昭和34年)頃には、準急えびの号(準急606・607列車・肥薩線と吉都線経由・熊本1256→宮崎1725と宮崎1329→熊本1800)や火の山号(720・725列車・豊肥本線経由・別府814→熊本1239と熊本1351→別府1815)やゆのか号(625・626列車・久大本線経由・別府1417→博多1816と博多1340→別府1834)が新たに設定されました。
ソラシドエアラインの登場の影響はでかい
2段式B寝台車が東京発着の列車を差し置いて、関西⇔九州でデビューとは、意外だったな。
一つは利用率の問題で東京発着寝台特急は当時は利用率が高かったので2段寝台にはできなかった。東京発着が2段寝台になったのは2年半後の昭和51年10月改正で、はやぶさ・富士・それに出雲の3列車です。その時から銀帯に食堂車だけは白帯だった。
彗星!僕が数ある特急の中で一番好きな列車。583系のヘッドマーク(5:43)、客車のテールマーク(ない💧)がシンプルながらカッコよかったんですよねー。対して客車のヘッドマーク(0:38)は何とも単純なデザインで、これがまたEF58やDF50によく似合ってカワイイヘッドマークでした。のちの九州内での客車ヘッドマーク(2:09)や晩年のあかつき併結時の本州でのヘッドマーク(7:57)は垢抜けてこれまたカッコよくなったんですが、それでも昔のヘッドマークは味があって、僕はこっちの方が好きでした。
58牽引の彗星が良かった
母の郷里が宮崎なので帰省の往復に利用してました。
60年代は寝台列車は高嶺の花でしたので急行夕月や日南の座席に揺られてました。
70年代になってから彗星を利用するようになりました。
親父がこの時期、羽振りが良かったので最初で最後のA寝台に乗せてもらいました。
山陽新幹線開業以後は時間的な面から飛行機を利用するようになりました
成人してからも利用しましたが相次ぐ値上げで運賃面では飛行機と寝台列車もそんなに差がなかったような気がします
でも彗星というと楽しかった宮崎を思い出します
高校入学もお祝いに、初めて乗った寝台列車。わくわくして、ほとんど寝れなかったんですが、ウトウトして目が覚めたときには、大分に、、、 感動しました
東京ー宮崎間を寝台特急富士号で直通して行くより東海道新幹線🚅ひかり号で新大阪駅🚉まで行き寝台特急彗星号に乗り換えルートで宮崎まで早くたどり着く事が出来ます!新幹線🚅と寝台特急彗星号を乗り継ぎすると彗星号の特急料金が乗り継ぎ割引制度が適用されて半額になります。寝台特急富士号を利用するよりも寝台特急料金がお得🉐でした。
他の大阪発ブルートレインは三ノ宮停車。でも彗星は神戸停車だった。90年代半ばまで多客時に増便された彗星81,82号(下り宮崎行上り南宮崎発)は全車指定席の14系座席車だった(あかつき81,82号と明星は20系で後に急行雲仙と霧島に格下げされた)
臨時特急彗星81号82号には14系寝台車もついていた。
寝台急行夕月はヨンサントウダイヤ改正で寝台急行日南下り1号上り3号に改称されていて寝台特急彗星は夕月の格上げではない。さらにいうと彗星は寝台急行べっぷを格上げされて増えたのであって純粋には増えていない。強いて言えば急行べっぷが季節列車だったのが定期列車になった。それと1973年10月ダイヤ改正ですでに24系24型が新製投入されている。ついでにゴウサントウダイヤ改正では大分発着の彗星1往復が583系から24系25型に変更になっている。ちなみに彗星が初めてヨンゴウトウダイヤ改正から下関運転所のEF65型1000番台PF型に変わった。PF型が牽引するのは他に寝台特急あけぼのだけだった。
ヨンサントウで夕月と日向は日南に列車名が統一された。列車名だけで言うと同時に日向はいそかぜを改称し、なはと併結でDC特急へ、夕月はその後583系の臨時夜行特急として岡山〜宮崎でたまに運転された。
@松本治-c6l 特急夕月は早期落成した489系で1971年年末年始繁忙期から臨時特急として新大阪と大分間で夜行で運行されていた。
夕月の583系化はだいぶあとからでしかも583系でありながら寝台はセットされていない。
大阪発九州行きの寝台列車、意識して乗るようにしていました。首都圏在住なので、そうしないとなかなか乗る機会もなく……彗星は1度だけ、下りのソロだったかで利用しました。そのまま高千穂鉄道に乗り換えて、こちらも1度だけの乗車でした。懐かしいです。🛤️
急行時代は編成の1/3が1等寝台とかいうわけわからん編成だったってのをこの間知った
彗星/あかつきのヘッドマーク好きだったな
2005年の夏、京都宮崎間で廃止直前の彗星に乗りました。車両の側面には錆びて大きな穴が開いていたし、たまたまその辺りに乗ったのだけど、発射するたびに「ビシッ!」っと音がして、しかも窓ガラスは茶色く曇っていました。車両的には限界だったのでしょうね。
同じ頃、最晩年のあかつきに乗ってますが同様に窓ガラスがやたらに濁ってましたね。
発車のたびにミシシッと軋んでました。懐かしいw
ブルトレ全盛期 深夜の岡山駅には明星あかつき彗星等が浅い時間帯にバンバン来てたから東京発着に比べて特別感が薄かったですね。
今になってみれば贅沢な時だったと思います。
新幹線博多開通直前の宗太郎越える列車ですが、彗星3往復の他、富士、高千穂、日南2往復、青島、フェニックス、日向、にちりん、しいば等活発に行き交っていました。A寝台とグリーン車だけの急行ことぶきもブライダルシーズンに設定あったようで、時刻表見るだけでよだれが出てきます。
夜行急行みやざきもありました。
こどもの頃日豊線沿線に住んでたので時刻表に見る「ことぶき」が本当に走るのか見に行ったことがあります。オロネ10を連ね1両だけスハフ42を連結した堂々6両編成でした。
スハフ42は車内で目のやり場に困る車掌さん避難用だったのかも?
みやざき、急行格上げしていたこと数え落としました。
ことぶきは編制表記録資料では普通車連結見たことなかったですが、連結していたことがあったのですね。
@@zennygon オロネフ10が不足したのかもしれないし、なんとも言えないのですが、座席車が連結されていたのは確かです。
下り日南3号が浅海井駅に停まるダイヤだったので乗ったことがありますが、浅海井駅に堂々機関車含めて11両(DF50-マニ-スハネ-オロ-オロ-普通車6)が停車していた、というのは今考えるとすごい話です。大分まではさらに3両繋がっていました。
ことぶきにはことぶき周遊券があり、料金が半額だった。
0:55
西鹿児島( 現 鹿児島中央 )
1995年くらいまでは繁忙期に臨時便が走ってた記憶
あと、三ノ宮と行橋を通過する貴重な列車だった
確か、SLが最後に牽引した寝台特急が彗星号だったような…定期でラストは、ゆうづる号でしたけど、ディーゼル機関車の故障による代替機としてC57が抜擢されたとか…確か彗星号だったはず…
2000年代以降は明らかに寝台列車は観光かエンタテ目的でビジネス需要はほぼなかったけど、この頃は本当に必要だから乗った層が多かったんだろうな。
彗星と言えば今でも鮮明に覚えているのが下り彗星5号。ウチの地元を朝方5時台に通過するので夏場だと朝日が昇った後。その朝日を背に浴びてやって来るのは彗星のヘッドマークも凛々しい米原のEF58P型(20系なのでMR管装備のP型限定)。47-10で折からのカマ不足、山陽本線夜間時間帯の並行ダイヤ化(高速貨Bと関西ブルトレを共にMax95km/h化、並行ダイヤにすることで増発。然しEF65Pはタマ不足、EF65F・PFも高速貨物の応援で余裕なし。関西ブルトレは山陽線内95㎞/h走行でも所要時間に大きな遅れにならずまたその速度域なら運用に余裕の出ていたEF58で間に合うからブルトレはEF58に任せEF65を捻出させた)で米原・下関のEF58がP型改造の上カムバック。
彗星・あかつきの[カン]を掲げて時には当時最新鋭の銀帯24系25型編成もエスコートしていた(14系以降のCLブレーキ装備車ならカマの限定運用不要の為宮原・広島のカマも参戦、時には旧車体載せ替え組の1~31まで戦列に加わった)。
然し50-3で列車群も整理されそれ以上に寂しかったのは東京~下関間のEF65P担当ブルトレ以外ヘッドマークがが無くなったこと。特急の威厳が失われた感じだった。
EF58時代乗車は叶わなかったが後年学生時代複数回(博多~)小倉~新大阪間で利用する機会を得た(25型時代)のは今となっては貴重な思い出。当時の世間知らずな若造は世間知らずのまま下腹たるんで白髪頭のアラカンオジンに成り果てた(^^);
昭和50年3月10日改正で7往復になったのは、あかつきでなく、明星。ただ、これは行き先別に愛称名を概ね整理したことによるもので、全体的に減便されている。
関西〜九州ブルトレの名称は、星とか夜空に因んだ名前でしたね
彗星、明星、あかつき
彗星と言えばカニ25のイメージが強いです。
月光もあった
みんな東海道線の夜行急行からやってきた列車名。金星も一時北陸の夜行急行に使われたけど元々は東海道線の夜行急行の列車名。
彗星は初の寝台専用列車として、全個室のマロネ49を初め今でいうA寝台車を何両も連ねていた。ヨンサントウで明星と銀河だけが残り列車名は銀河に統一された。
5往復から3往復に減便された1975年3月改正から1往復化される1984年2月改正までの間583系も彗星に投入されるが車両重量の重い583系は線路規格の低い日豊本線では試練の場となっていた。それが583系が早期に山陽九州筋からの撤退に拍車をかける要因ともなっていた。
大分以南は初入線で大分以北は初581系初入線特急みどりとして1等車(現在のグリーン車)無しの昼行で夜行は月光だった。
新八代~宮崎間に新幹線が出来きたら
新大阪発宮崎行きの愛称は彗星にしてほしい。
博多ー宮崎は「大淀」がいいな、、
マンガ『カレチ』の中でも何回か登場してたな
日豊線夜行列車は特急[彗星]&急行[日南]がコンビを組んでいた.20系,583系[彗星]は[食堂車🍴]連結で高嶺の花💦
583系彗星は食堂車非営業です。
1人で乗った時、弁当を食堂車で食べていると車掌さんに「お、食堂車やな」と話し掛けられました。
24系彗星は昭和50年3月改正まで都城発着の1往復のみ食堂車が営業していて、小学生の頃祖母と乗って朝食を食べたことがあります。
東京発九州夜行もそうだが、斜陽になってから個室投入という的外れな戦略だったんだな。
1989年の段階で減車が常態化していたしなぁ…
なはやあかつきに比べて編成が短くて
そのくせに大阪駅では田端EF65がホーム端の柵の前に詰めて止まるので、渋いHMを撮影できなかった。
反対ルートが明星ですね。そちらの配信も宜しくお願いします。
明星は山陽、九州で寝台電車撤退により、なはに統合された。
繁忙期に不定期で運行。
国鉄時代のハイパー値上げが一番では。大阪~大分で値段が飛行機<彗星では厳しいですな。割引きっぷあっても厳しい。
時間帯は大分基準で考えると使い勝手がいいだけに惜しい列車ですね。
ほんの数年で倍になったら誰でも利用見直しを迫られますね。
その時に他の交通機関が発達していたら、ずっと使っていたであろう利用者も離れていくのは当然ですね。
この中途半端な遠さが宮崎の欠点だろうね
東京からも大阪からも博多からも
気軽に行けない場所になってる
まぁみんな飛行機でしょうね。
日豊線はもちろん東九州道のまだら整備となれば交通面で貧弱で陸の孤島だが、本当だ✋
昨年日豊本線を乗り通したけど、佐伯ー延岡や宮崎ー国分とかは特急が運転しているとはいえ単線峠越えが続き宮崎の両側とも九州版奥の細道だなあと感じました。
あの東国原英夫がもう三年くらい早く知事になってくれてたら…もし彗星も、
「どぎゃんとせんとイカン!☄️」って勢いでJR 九州&西日本にテコ入れ要請してくれてたかも…(^-^;ンナ訳ないか😅-w-w
@@ゴンタオヤジ-n6n 宮崎県は鐵道で冷淡やからなぁ〜✋🚃
あかつきとなはには乗ったけど、彗星は一度も乗れず仕舞いやった…(´;ω;`)。
寝台特急あったあった=新幹線開業前の本数が異常に多い😅
大昔は新婚旅行の定番で近年の宮崎は有名人ら行き来しても過半数が宮崎空港を介しての飛行機需要だが、その列車はハレー彗星で凋落に陥り転落したやろ✋🚃
車両で客車より583系のほうが高加減速性能がよくても振動・騒音がハゲしく、忌避したが本当だ✋