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東のゆうづる、西の明星ですな。あの頃は時刻表を眺めているだけでも賑やかで楽しかった。
そうですね、当時の時刻表の復刻版いま見ても、妄想ですらありえなくて面白い。
本数から「夜のL特」と云われた。ただし!自由席は無かった…
@@雅夫大場 そら、夜をとおして走るから自由席はないやろ。🤣
ゆうづるも最後の一本が経由地変更ではくつるになり本数が減り消滅した。
昭和50年3月まで「あかつき」が7往復でしたね。「彗星」も5往復。「明星」4往復、「きりしま」1往復。そこに急行が多数走るんだからすごいとしか…
「明星」のこの頃は私は小学生でした。いろいろと興味あるものです。1号は早朝過ぎて下りは唯一で博多無停車(運転停車)。583系使用の1号(もう1本もかも)と彗星1号は寝台組み立て要員不足で一部が座席運用(時刻表にも「全」マークあり)。24系25型使用で「あかつき」併結分は付属編成の電源車対策のためにカニ22を改造したカニ25を使用。筑豊本線経由の6号は門司で「あかつき」と切り離してDD51牽引で筑豊本線突入。原田で鹿児島本線に合流しても機関車交換なくて熊本まで運行。筑豊本線経由は「あかつき」にその後変わりましたが、長年続いた優等列車の経由がなくなるので、当時地元では騒ぎになったようです。その結果、あの推理小説ができたわけですが。
話が逸れますが、一時期は「あかつき」の車両は「日本海」と共通運用で583系「金星」の車両は「しらさぎ」と共通運用でした。国鉄ならではとも言える広域運用ですよね。
電車寝台は『月光号』でデビューし〝月光型〟とまで呼ばれていたにもかかわらず、50・3の改正でアッサリ廃止されてしまったのが、なんとも寂しいですね!子供ながらに「なんで月光が残らなかったの?」と、当時は思っていました。
ガキの頃、『明星』が消えて『なは』が残った事に関しては、「新大阪〜西鹿児島の列車なのに、なんで『なは』なん?」という思いはあった。
「なは」という愛称の列車が初めて登場したのは沖縄が未だアメリカ統治下にあった1965年のことで、沖縄の新聞社「琉球新報」が「本土に沖縄由来の愛称の列車を走らせよう」というキャンペーンを(国鉄の同意なしで)行って沖縄住民から公募し、提案されたものでした。沖縄サイドからの一方的な提案ではあったものの、国鉄もそれを無視できず、「沖縄の早期日本復帰を祈念する」ということで協議の結果「なは」という愛称の列車が誕生した、と何かの本に書いてありました。
金星には名古屋から乗車した事がある、良い想い出
「明星」のヘッドマーク、カッコイイですよね🤩🌠
ゴレンジャーみたいだなと思ったおじさん
関西の経済が隆盛の頃は九州と関西の結びつきが強く、鹿児島や熊本から多くの人々が関西エリアに就職されて人の移動も多かったからね。大阪の各県人会も人が多くて盛り上がってた。大阪が地盤沈下して飛行機利用が一般的になって九州の人たちも大阪すっとばして東京目指してしまいますね。大阪九州間は夜行列車だけでなくフェリーもたくさん出てた。
明星も金星も同じ天体なんだよな。
🤣🤣🤣
確かにそうなんだよなぁ🤔
そして列車名の「日本での」ルーツでは、首都圏対関西間の夜行急行列車(と私は考えている。大陸には「あかつき」もあったらしい)。東海道新幹線開業前の時刻表では「あかつき」の他「月光」「彗星」もあった。他には、記憶に新しい「銀河」、あと「すばる」なんてのもあったようだが、名称の特急格上げならず…
↑同じ変態😁
@@psychedelicraspberry517 さま。ソレってワシの事か?w
明星、なは、あかつき、彗星懐かしいです。子供の頃早起きして写真撮りに行ってたのを思い出します。
明星は一番思い入れがある列車。幼少の頃山口県の祖父母の家から関西に戻る時よく乗せてもらいました。山口県を23時頃、大阪は朝6時頃で父はそのまま仕事に行きました。電車大好き少年時代は楽しみでしかたなかったなぁ~
小学生の時、大阪のいとこと3人で、3階寝台列車に乗って西鹿児島まで行ったのが、たぶん「明星」だと思います。子供3人のみでなんて当時の世相ではありますが、親達もよく行かせたと思うし、私達も冒険気分で、到着後のお迎えの心配くらいしかせず、楽しい思い出です。
1976年秋、修学旅行で明星2号(?)に乗りました。熊本止まりと西鹿児島行きが併結されていて、ほかのクラスは西鹿児島行編成でしたが、私のクラスは熊本止まりの編成でした。熊本からは急行「かいもん」で西鹿児島へ向かいました。
熊本切り離しの車両でしたか。急行「かいもん」も今はセピア色のかなたへ。八代〜川内は右側車窓からの八代海、東シナ海は今も肥薩おれんじ鉄道でご覧いただけます。
関西在住者にとって🌃[明星][彗星][あかつき]は九州への旅情を感じさせる名列車だった
なはをお忘れなく。
明星号といえば583系と、筑豊本線経由熊本行の14系寝台車の列車が印象深いですね筑豊本線内は非電化のためDD51牽引というのが特徴的でしたね明星号とは関係ありませんが、門司-博多間で架線下ディーゼルでDD51が牽引機に充当された20系+12系の夜行急行さんべも思い出深いですね九州内の前部ナンバープレートが赤地のDD51が牽引するブルトレに、少年ファンの私は痺れたものでした今も所有しているDD51のNゲージは前部ナンバーは赤地にしてあります😊
日豊線の彗星には583充当されてます。ホントにマルチな車両。下段ならかなり快適ですし、座席でも対面ポックスですが足元が広く、当時の485系より私は快適でした。
飛行機の最終が出たあとに発車、翌朝最初の飛行機が着く前に到着、という当時は画期的なダイヤでした。
現在では、そのコンセプを継ぐのは「サンライズ瀬戸」だけ。西村京太郎氏(だった、と思う)のドラマで知った。
82年11月ダイヤ改正で明星が新大阪-西鹿児島の1往復になったけど名古屋発着の金星が廃止になった。ヘッドマークができた矢先なのに。新幹線連絡の夜行特急より飛行機で九州に行くのが定番になった。JRになって昼間特急が高速化したら鈍足寝台特急は邪険な扱いになった。区間短縮やむなし。
新幹線で広島に行く時、大阪あたりで必ずといっていい程、車窓で「明星」に出会った印象がある。それだけ本数が多かったということですね。当時子供ながら興奮したことを思い出したわ。
京都 大阪から九州方面への夜行列車が1便もないとは本当に寂しいですね😢
明星の寝台は、パンタグラフの真下は2段寝台で、この席は快適でした。
頭上空間は広かったけど、うるさかった。
ゆうづる1号・3号・5号・10号・12号・14号が583系。7号・9号・11号・13号・2号・4号・6号・8号がブルートレイン。上野19時50分発ゆうづる1号と上野19時53分発ゆうづる3号は今でも発車時刻を覚えています。青森着もゆうづる1号が5時03分。ゆうづる3号が5時08分。ゆうづるが一番最後まで7往復(季節含む)で走っていました。
ゆうづるは電車と客車で1時間以上も所要時間が違った(西村京太郎の小説の題材になったこともあった)明星はほとんど差がない
@@patapata2259祖父母が三戸に住んでいたのでゆうづる号やはくつる号、はつかり号やみちのく号の583系運用が大好きでした。ブルートレインゆうづる号は10時間半位かかっていた記憶があります。
ゆうづるは常磐線経由で単線区間もあるから、加減速が電車より劣る客車にとって運転停車のある単線区間は表定速度が電車に比べて下がります。
関西と南九州と結ぶのには夜行列車は丁度いいと思うのだが、寂しいなあ。
大阪ー鹿児島でもみずほで4時間もかからないのに??
利用者としては希望するが、JR九州が承知するか…?あと、八代〜川内間は…
今では飛行機格安のLCCがあるからな・・・。
安い日は関空ー鹿児島5000円だからね。なんでそれで利益出るのか不思議だけど
@@情弱ホイホイ さん、LCCは満員を前提としているから以外と利益はでている。5000円はそう滅多にないし。それでも7500~9000円台が多いけど。コロナのときが悲惨だった。ソーシャルスペースを強要されたので赤字だった。コロナの時にLCCがバンバン潰れて、今頃には元の高額な運賃に戻ってしまうのではないかと懸念していた。
明星は1往復は、季節列車ですが、あかつきと、ゆうづるは全て定期列車である。しかもゆうづるは、寝台電車と、ブルートレインの両方がありました。またゆうづる下り3号と、上り7号ばゴウマルサンダイヤ改正からゴウイチトウダイヤ改正までは、583系だったが全車指定席で運転されていた。それと、あかつきは、行き先がバラバラでした。
因みに、あかつきはブルトレしか経験していません。新幹線博多開業前年、ブルトレだけで7往復も設定されていたのは凄い!
1往復、筑豊本線経由が含まれていたことがおもしろい。特に上りは熊本を先発した3号が筑豊本線を通っている間に、後発の2号(西鹿児島始発)が追い抜くダイヤになっていた。
確か筑豊本線経由が明星で鹿児島本線経由がなはだったっけ?
@@bemanimania75年3月改正から、明星1往復が筑豊本線経由に。78年10月改正であかつきになり、85年3月改正で明星との併結化により筑豊本線経由廃止。なはも75年3月改正より583系による寝台特急になり、その後24系化からあかつきと併結するようになり、2008年廃止だよ。
筑豊本線経由は『明星』だったり『あかつき』だったり、色々と変遷がありましたね!
じつは「明星」と「金星」は同じ星を指してたりする。より長距離を走る581系「金星」に遠慮した命名だったのかもしれない。ちな、元祖581系寝台特急の「月光」は寝台急行「海星」の格上げで設定されたけど「海星」は「金星」の別名。※「海星」は海王星ちゃうよ
ヒトデも「海星」と書きますね。
金星は「なすび」。海王星はネプチュン。
北方領土をかいせ~!😋
@@雅夫大場セーラーヴィーナスは愛野美奈子。
なら『彗星』は?流星かな?『あけぼの』は?夜明けかな?
1日7往復といえば…昭和49年4月改正時の「あかつき」も7往復ありました。しかも、当時の特急客車4形式をすべて使用していた最強の客車寝台特急でしたよ。
15型も『あかつき』でのデビューでした。
583系の明星は博多駅まで運行していました。西鹿児島までは運行しておりませんでした。
小さい頃所持していたブルートレインの本で、明星 / あかつき の併結列車として紹介されていたので、そのイメージが強いのですが、明星 / あかつき として活躍していた期間は、結構短かったんですね。2年程度?らしかったので改めて調べてみてびっくりしました。
小学生の頃だったかな?岡山駅を6時代に通る7号を見に行きました。生まれて初めて見た寝台特急、感激して今でもハッキリと覚えてます。なのでNゲージの何編成かある583系の1編成は明星にしましたねぇ。
臨時化されて初めて20系客車が充当されるとは...
かつて“寝台街道”とも呼ばれていた山陽本線も今は普通列車や貨物列車ばかり。
同じ平行在来線でも東海道本線東京口と大阪口は特急たくさんありますね
山陽新幹線開業前の時代懐かし…14系「さくら」20系「はやぶさ」583系「つばめ」は思い出。いつか乗りに行きたい「W-Exp銀河」…
そんなに火葬場が沢山あったのか・・・
明星は新幹線博多開業時のダイヤ改正で確かに7往復に大増発されたが鹿児島本線系統を明星に整理した結果であり関西対九州全体で見ると減便されています。その後のダイヤ改正の度に明星は減便され1982年11月改正で創設以来14年間使用されていた583系が撤退し3往復から24系1往復に削減されたのはショッキングでした。更に1984年2月改正であかつきとの併結を経て国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正であえなく廃止されてしまいました。
廃止というかなは(583廃止)に名称変更ですね。
@@maruhiroya417 1984年2月改正で583系なはが廃止された時にそれまでの24系明星がなはに振り替えられていますね。
583系は最後は 急行寝台「きたぐに」 が最後の活躍の場でしたね北海道には よく行ったけど 九州には 行かなかったのが 残念でしょうがない
乗り鉄なら北海道が良かったよ。僕は九州から北海道行ってましたモン
九州での583系の定期運用が終了したのは昭和50年代のなかば。他の地区より早かった。
本来は急行用として計画されたのが急行ダイヤだと車輌基地に戻れないので特急用になったとかは皆んなが知ってる事。
けど、政治的な理由で運行区間が被る「なは」の存続が優先されて(本土復帰運動の一環で誕生した愛称なので消すに消せなかった)全廃されてしまうという悲劇的な結末を迎えてしまいましたが・・・
彗星にも乗ってたな🤗
生まれて初めて乗ったブルトレがデビュー間もない24系25型彗星2号(新大阪20:30~都城11:54)でした。その帰路に西鹿児島から明星で帰りました。中学2年、一人旅。乗る事だけが目的だった為、都城から急行かいもんで移動。西鹿児島駅で7時間待つのがつらかった思い出。
乗りたい、昔の電車に…😢
おっと、7往復の寝台特急なら「あかつき」も忘れないで。
最末期は鳥栖まであかつきと併結1往復だった。20系の臨時特急はあかつき81,82号もあったがやはり急行雲仙に格下げに(博多までの玄海や西鹿児島までの桜島もあった)。宮崎行(上りは南宮崎発)彗星81,82号と名古屋から西鹿児島までの金星は14系座席車だった
昭和50年3月号の鉄道ジャーナル誌に月光の乗車ルポが載っていて、レールウェイライターだった故種村直樹さんが明星は野暮ったいし、彗星はつめたい!月光が一番だといっておられました。今にして思えば岡山発着にされたときに運命は決まっていたのでは?もし新幹線に夜行が運転されれば月光を採用してほしい。っていっておられました。残念ながら新幹線に夜行が運行されることは、ありませんでした。また、ゴウマルサン白紙ダイヤ改正からは、寝台電車の明星は、583系でありながら一部は普通車の指定席のままで運転されていました。これは、彗星も同様でした。さらにゆうづるも1往復だけでしたが、ゴウマルサン白紙ダイヤ改正からゴウイチトウダイヤ改正までは、583系でしたが寝台ではなくて、全車指定席でした。
明星が選ばれたのは、月光を新幹線の夜行で使うためだと言われています。ただ、新幹線の夜行はご存知の通り実現せずに終わってしまい、月光はオクラ入りになっでしまった。また明星が2往復になったときは、変わった時期になり下りは、木曜日で上りは水曜日運休だったと思います。これは利用者の少ない曜日に運休して583系の検査をしたためだと言われています。せっかく明星を取り上げるならば、これぐらいは調べてから動画に上げてください。また、定期列車の終了のときには、24系25型ではなくて、14系15型であかつきと新大阪鳥栖間を併結されていて、ヘッドマークもあかつきと明星の合併マークでした。
なぜ月光?夜行新幹線なら彗星のほうがよくね?速そうだし
どうして鹿児島行きなのに「なは」って言うのか疑問だった。沖縄返還を願って名付けられた。
返還を祈念…沖縄は返還されたが、その昔、反対に道東にあった急行(準急だったか?)は難しい?「くなしり」…
明星の他に大阪エリアでは あかつき(全て客車寝台 20・24系等)も7往復有りました‼️
山陽新幹線博多延伸以前は、あかつきが7往復。すべて客車で、西鹿児島・熊本・長崎・佐世保と行き先がバラバラでした。
『あかつき』は、関西⇔九州の寝台特急で、唯一581・583系を経験しなかったですね!
新幹線以前の1列車1名称だったら、とんでもないことに東海道夜行急行より凄い事になってたろうなぁ
水星金星地球火星木星土星天王星海王星とかで良いんじゃない 笑
懐かしい寝台特急明星号。山陽新幹線博多延伸前に年末年始の帰省時期に3段寝台に一家で小倉~新大阪間を乗車。朝6時発のお新大阪で東海道新幹線に乗り継いで東京まで向かった。
常磐線の「ゆうづる」も本数多かったですよね♪
ゆうづるは、続行する特急だったのもあるね。
船は大きいですからね
583系は一度出庫すると次に車庫へ戻るのは3日後って運用もあったなぁ…昼行特急でも「有明」「雷鳥」「ひばり」「はつかり」は一部列車を583系で運用してたし、「みちのく」も583系使ってた。昼夜兼行が583系の特徴でもありました。
当たり前
「しらさぎ」もあった。
583系が定期運用されたのは、東海道本線の名古屋以西・山陽本線・鹿児島本線・日豊本線・北陸本線・湖西線・東北本線・常磐線ぐらい。交直両用だったのに運行された路線は限られていた。
実際は、583系は長距離の割にあまりあちこち行かないから485系よりも運用は楽だったらしい😁
@@政義大山 一応、仙山線奥羽本線と信越本線日本海区間もよろしく(急行だけど)。
1号で、大学同期で、鹿児島に赴任していた友達のところに行った時に使いました。他にも、九州1周特急で走ったり、なはで西鹿児島まで行ったりしました。日豊線の急行で、小倉から、西鹿児島まで行ったこともありました。
瀬戸内海沿岸は重工各社がひしめいていたから生産拠点が日本国内にあった頃は需要が旺盛だった。しかし高度経済成長が終わり、通過が変動相場になると構造的不況に陥り海外へ生産拠点を移したり統廃合が進んだ。需要が減り始めた頃に山陽新幹線が開通してさらに需要が矮小化した。そして行き場を喪った581/583系が食パンへ改造される…
南九州方面はやはり明星、彗星、なは!子どもながらに名前がかっこいいと思った!末期のなは&あかつき乗りたかったな・・・・。
寝台特急が新幹線開業した後も残ったのは新幹線の終電の時間が早かったことや初電の目的地に着く時間が遅かったこともあるね
のちの食パン列車である・・・
1978年10月から1985年3月まであかつきの佐世保編成一往復が門司で分割併合のうえ筑豊本線経由と本で見ましたが、明星にもこれがあったのですね。
筑豊「あかつき」は、十津川警部ドラマで拝見スしました。佐賀駅を通る日本の下リ「あかつき3号(だったと思う)」がキーポイント。
4号は季節列車だし、5、6号は熊本止め、7号は博多までと考えると、ゆうづるの方が圧倒的にすごい
そんなことはないと思いますけれどねえ。熊本「止め」や博多「まで」などの表現で短距離列車が多いイメージにしようとしているようですが、1日当たりの走行距離は 明星 11823.0km ゆうづる 10298.4kmなので、明星のほうが長いです。
前提として僕は明星の方が地元の列車なので推したいところです。ただ七往復とはいえ、性格の異なる(出自の異なる)列車を一つの列車名にまとめたから大所帯になったということが言いたいのです。
@@user-tabiichiroそもそも、連絡船の定員に合わせるため「2本の列車を続行させるのが基本スタイル」の路線の列車本数を、多いと捉えることには、疑問が残りますね。
当時キャンディーズばりに働いた……😮
最盛期は1日7往復を走行した関西発九州行きの夜行特急のエースピーク過ぎたら一気に廃れていき、あっという間に廃止された
チャルメラ。子供の頃までだからね。24で運行されていたのは懐かしい。
ゆうづる「ワシも7往復走っとった時代あったんだがなあ」
あんたは7往復っても、青函輸送用に2本続行した寝台特急やろ。
今回はメンバーシップの広告は無かったですね
50.3改正でそれまでの急行天草に代わり、関西〜熊本を筑豊線経由で結んだ特急「下り明星6号・上り明星3号」ですが、普通車指定席・自由席・グリーン車・A寝台・B寝台を組んだ11両編成の天草と比べて、B寝台のみモノクラス6両の明星は当時の沿線民からしても大きく格が下がった感じでした。せめてB寝台がヒルネ利用でもできれば九州内の需要も拾えたかもしれませんがそれもなかったので大阪に行くときに一度使ったきりでした。
明星6号って、たしか急行「天草」の特急格上げとなったのでは?だからこその筑豊線経由。
そう、3年ほどであかつきになったが。
1950年10月改正東京~熊本の急行阿蘇号→1961年10月改正京都~熊本の急行天草号→1975年10月改正新大阪・大阪~熊本の特急明星3・6号→1978年10月改正新大阪・大阪~佐世保の特急あかつき2・3号→1984年2月改正新大阪~佐世保の特急あかつき2・3号→1985年3月改正廃止でしたね。又昭和40年代までの繁忙期には、東京~熊本の臨時急行しらぬい号や名古屋・大阪~飯塚・佐世保の臨時急行筑豊号や新大阪・大阪~熊本・三角・八代の臨時急行天草51号・52号や佐世保→新大阪の臨時急行西海51号なども筑豊本線経由で運転されましたね。(臨時列車は時期によって始発駅や終着駅が異なります。)
4:13過去にはあの博多駅を通過する電車なんてあったんだね。今では考えられないけど。
有効時間帯でなければ意味ないでしょ。
そりゃ~深夜は大阪駅でも通過していましたから(東京~九州のブルトレなど)。これは利用者が少ないのもあるけど車掌の業務の軽減や他のお客さんへの配慮もあったと思います。
@@政義大山 しかも、博多は知らんが大阪は「停車」はしている(運転停車)😁
@@psychedelicraspberry517 さま。博多は乗務員交代の運停だったようです。
なんか復活して欲しいな
これを使って九州に行きたい人はいないはずはないと思うだけどな
九州旅客が首をタテに振らないと…
寝台とはいえ博多新大阪10時間近い時間かかってたらそら飛行機でいいってなる
昭和時代の飛行機は高かったからね。子供の頃は飛行機が高いで親と帰省でも寝台やら新幹線でした。食堂車ある頃は好んで列車乗ってましたけど。今はノーサービスなら飛行機の方が荷物持たなくて良いラウンジがあるって点で飛行機が上
昭和は今よりのんびりしていた。
今は移動時間が短いので、滞在先でのんびり出来るが。
0:18動画とは関係無いけど、苗穂工場に廃車解体待ちの711が銀塗装されていた、カシオペアの塗装試験なのかな?
711で塗装試験やるんですね!まあ魔改造で知られる苗穂工場ですし、何をしても驚きませんが…笑
関西ー九州間の夜行列車は、新幹線博多開業ダイヤ改正で寝台特急と全車指定席の急行だけになり気軽に乗れなくなった、あれが衰退の原因になったと思う
新幹線あればそっち誘導は自然かと思う。使う客も速い方好みますから。その新幹線も速達便に好んで乗りますからね。日本人の多くは移動時間は無駄時間と考える人多いのも一因かと思う
@@user-ve5rr9bl4i 50.3改正後の急行阿蘇、雲仙、西海、くにさきは14系12両編成で全車指定席だったのですほとんど乗客乗ってなかった後に自由席にしたけどダメでした
東で言えば「ゆうづる」。西の「明星」。
当初は明星→電車あかつき→客車だったんだね。
てか、当初「明星」は熊本止まりで、西鹿児島方面は、電車は「きりしま」でした。「あかつき」は客車で、西鹿児島だけでなく熊本往復があったと記憶しております。
@@雅夫大場 同一系統でも電車と客車で名前変えたりしてましたね。寝台料金が違うとこの方が分かりやすいかも。
まさに向日町の優等列車全盛期とリンクする列車!稀少感なくてL特急みたいだったがw
早岐配備の14系もあかつき~日本海の広域運用がありました。1977年の鉄道ジャーナルのニュース欄にあかつきの車輪が欠けたニュースがありました。あかつきとして九州に向かう時、床下から異音が発生。緊急停車して調べたところ、車輪が欠けていたそうです。寒冷地と温暖な土地を跨いで走るので、金属疲労が進んだのが原因だとか。大惨事にならなくてよかったです。
日本特急旅行ゲームでよく使った
寝台に乗りたい!
4:20 博多通過???
前身の「きりしま」の名残りでしたか…コレ、当時は話題になったようです。ただ時間帯の問題だったらしく(超早朝?)実際には乗務員交代の為の運停だったようで…私が覚えている限りでは、くだり「きりしま」は徳山から大牟田まで「レ」が並ぶビックリトレインでした。
高速道路が延びてない時代だったからこその寝台多発でしたね、JR化された頃には高速バスの増加でここまで寝台が増える事はありませんでした。
新幹線と飛行機
@@tydeentetuota5514 言い方が悪かったようで、自分が挙げたのは新幹線が東海道&山陽しか無かった時代ですね。飛行機も今のようなLCCなど考えられない時代でしたので。自分の故郷の長崎なんて空港移転前にやっと東京便の飛行機が就航したぐらいですから。
明星で山陽の話してるんだけどここ。
@@tydeentetuota5514 ソレ言ったらゆうづるの事をコメしてる人もいるから、それこそだから何だよ。
高速道路で上野〜青森約800キロ、東京〜西鹿児島約1500キロ、どれだけの人がバスや自家用車で移動しますかね笑笑。
曖昧な記憶で申し訳ありませんが昔、昭和の頃に寝台特急「金星」ってのがあった記憶がありますその特集をお願いしますたしか「金星」だったと思います間違いでしたらごめんなさい😱😱😱
名古屋発着で東京から名古屋まで新幹線できて金星に接続する客が多かった。そして581系のカラーも新幹線のアイボリーとブルートレインの青の組み合わせだった。
調査のうえ、動画化できそうでしたら特集いたします!リクエストありがとうございます◎
安芸は?
明星というと7往復で普通だという感覚がすでにおっさん。(自分のことらしい)
ゆうづる+はくつる合算ではもっと走ってたような
じゃ、明星と、あかつきと、彗星と合算したら良い。
@@tydeentetuota5514 行き先違うじゃないですか、ゆうづるとはくつるは実質同一列車
はくつる何往復
@@tydeentetuota5514運転開始以来、1か2往復。2往復時代は82〜88、93〜94年の7年間のみ。
「彗星」だけは日豊線系統だとすぐ分かるところながら「明星」「なは」「あかつき」「月光」の運行系統が今一度釈然としなかった。
正に【電車版モーレツ社員】😂 >月光型PS:寝床も満足に用意されないとは⁉️😭
ムーンライトながら帰ってきてえ
昭和51年の50%値上げが関西⇔九州の夜行列車の凋落の一因と言えそうか?
50年の新幹線博多開業がもっと大きいかと思う。平成初期までは博多〜東京も新幹線使ってましたけど、飛行機のサービス向上で大阪までしか新幹線使わなくなった。新幹線ってグリーン車使ってもラウンジやら荷物預けも無いし乗るまでは自由席も一緒って新幹線のその点が嫌。
何で「銀河」の画像ばっかり出すんや
飛行機が安くならなかったら残っていただろうね
九州新幹線と夜行高速バスで変わらないよ。
明星は本来大阪⇔熊本だったろうに・・。明星の方向幕「熊本」あり。貴重か?
父が明星に乗ってた写真があった。
ピットイン無しで、1日7往復?車輪が偏摩耗してガタガタするわけだ。
同じ車輌で走ってるワケないじゃん笑笑
一平ちゃん。
カプセルホテル以下の設備なくせに値段は航空機より高いというクソさ
カプセルホテルでは移動出来ないし、飛行機では横になって寝れない。
日本でカプセルホテルを始めたのは1979年大阪が最初。
ついたち ではなく、いちにち が正しい。アップする前にチェックしないんですかね?
細け〜きめぇー🤣
「ゆっくりVOICE」には難しいんですよ。
脳内変換で我慢して下さいw😅
まあ、正しい言い方が忘れられていく恐れはあるのかも
ご指摘の通り、「一日」をついたちと読む読み違いはゆっくり音声において頻発します…確認はしていますが、内容に特に関係しないこと、意味が伝わることから逐次の訂正は行わない方針でおります。ご理解いただけると幸いです🙇♀
7「往復」だと14号までないといけないが?
1978年10月のダイヤ改正までは、上下列車がそれぞれ1〜から名のってまして(往年のヒット曲「あずさ2号」も新宿からの旅立ちですし)
ぷっ
@@けん-o4y ちょうど、下り奇数・上り偶数になったと同時に、明星は減便されたのですね。
@@HopStepJunk すま
一番?
一蘭😁
東のゆうづる、西の明星ですな。
あの頃は時刻表を眺めているだけでも賑やかで楽しかった。
そうですね、当時の時刻表の復刻版いま見ても、妄想ですらありえなくて面白い。
本数から「夜のL特」と云われた。
ただし!
自由席は無かった…
@@雅夫大場 そら、夜をとおして走るから自由席はないやろ。🤣
ゆうづるも最後の一本が経由地変更ではくつるになり本数が減り消滅した。
昭和50年3月まで「あかつき」が7往復でしたね。「彗星」も5往復。
「明星」4往復、「きりしま」1往復。そこに急行が多数走るんだからすごいとしか…
「明星」のこの頃は私は小学生でした。いろいろと興味あるものです。
1号は早朝過ぎて下りは唯一で博多無停車(運転停車)。
583系使用の1号(もう1本もかも)と彗星1号は寝台組み立て要員不足で一部が座席運用(時刻表にも「全」マークあり)。
24系25型使用で「あかつき」併結分は付属編成の電源車対策のためにカニ22を改造したカニ25を使用。
筑豊本線経由の6号は門司で「あかつき」と切り離してDD51牽引で筑豊本線突入。原田で鹿児島本線に合流しても機関車交換なくて熊本まで運行。
筑豊本線経由は「あかつき」にその後変わりましたが、長年続いた優等列車の経由がなくなるので、当時地元では騒ぎになったようです。
その結果、あの推理小説ができたわけですが。
話が逸れますが、
一時期は「あかつき」の車両は「日本海」と共通運用で583系「金星」の車両は「しらさぎ」と共通運用でした。
国鉄ならではとも言える広域運用ですよね。
電車寝台は『月光号』でデビューし〝月光型〟とまで呼ばれていたにもかかわらず、50・3の改正でアッサリ廃止されてしまったのが、なんとも寂しいですね!
子供ながらに「なんで月光が残らなかったの?」と、当時は思っていました。
ガキの頃、『明星』が消えて『なは』が残った事に関しては、「新大阪〜西鹿児島の列車なのに、なんで『なは』なん?」という思いはあった。
「なは」という愛称の列車が初めて登場したのは沖縄が未だアメリカ統治下にあった1965年のことで、沖縄の新聞社「琉球新報」が「本土に沖縄由来の愛称の列車を走らせよう」というキャンペーンを(国鉄の同意なしで)行って沖縄住民から公募し、提案されたものでした。
沖縄サイドからの一方的な提案ではあったものの、国鉄もそれを無視できず、「沖縄の早期日本復帰を祈念する」ということで協議の結果「なは」という愛称の列車が誕生した、と何かの本に書いてありました。
金星には名古屋から乗車した事がある、良い想い出
「明星」のヘッドマーク、カッコイイですよね🤩🌠
ゴレンジャーみたいだなと思ったおじさん
関西の経済が隆盛の頃は九州と関西の結びつきが強く、鹿児島や熊本から多くの人々が関西エリアに就職されて人の移動も多かったからね。大阪の各県人会も人が多くて盛り上がってた。大阪が地盤沈下して飛行機利用が一般的になって九州の人たちも大阪すっとばして東京目指してしまいますね。大阪九州間は夜行列車だけでなくフェリーもたくさん出てた。
明星も金星も同じ天体なんだよな。
🤣🤣🤣
確かにそうなんだよなぁ🤔
そして列車名の「日本での」ルーツでは、首都圏対関西間の夜行急行列車(と私は考えている。大陸には「あかつき」もあったらしい)。
東海道新幹線開業前の時刻表では「あかつき」の他「月光」「彗星」もあった。
他には、記憶に新しい「銀河」、あと「すばる」なんてのもあったようだが、名称の特急格上げならず…
↑同じ変態😁
@@psychedelicraspberry517 さま。
ソレってワシの事か?w
明星、なは、あかつき、彗星懐かしいです。
子供の頃早起きして写真撮りに行ってたのを思い出します。
明星は一番思い入れがある列車。幼少の頃山口県の祖父母の家から関西に戻る時よく乗せてもらいました。山口県を23時頃、大阪は朝6時頃で父はそのまま仕事に行きました。
電車大好き少年時代は楽しみでしかたなかったなぁ~
小学生の時、大阪のいとこと3人で、3階寝台列車に乗って西鹿児島まで行ったのが、たぶん「明星」だと思います。
子供3人のみでなんて当時の世相ではありますが、親達もよく行かせたと思うし、私達も冒険気分で、到着後のお迎えの心配くらいしかせず、楽しい思い出です。
1976年秋、修学旅行で明星2号(?)に乗りました。熊本止まりと西鹿児島行きが併結されていて、ほかのクラスは西鹿児島行編成でしたが、私のクラスは熊本止まりの編成でした。熊本からは急行「かいもん」で西鹿児島へ向かいました。
熊本切り離しの車両でしたか。
急行「かいもん」も今はセピア色のかなたへ。
八代〜川内は右側車窓からの八代海、東シナ海は今も肥薩おれんじ鉄道でご覧いただけます。
関西在住者にとって🌃[明星][彗星][あかつき]は九州への旅情を感じさせる名列車だった
なはをお忘れなく。
明星号といえば583系と、筑豊本線経由熊本行の14系寝台車の列車が印象深いですね
筑豊本線内は非電化のためDD51牽引というのが特徴的でしたね
明星号とは関係ありませんが、門司-博多間で架線下ディーゼルでDD51が牽引機に充当された20系+12系の夜行急行さんべも思い出深いですね
九州内の前部ナンバープレートが赤地のDD51が牽引するブルトレに、少年ファンの私は痺れたものでした
今も所有しているDD51のNゲージは前部ナンバーは赤地にしてあります😊
日豊線の彗星には583充当されてます。
ホントにマルチな車両。
下段ならかなり快適ですし、座席でも対面ポックスですが足元が広く、当時の485系より私は快適でした。
飛行機の最終が出たあとに発車、翌朝最初の飛行機が着く前に到着、という当時は画期的なダイヤでした。
現在では、そのコンセプを継ぐのは「サンライズ瀬戸」だけ。
西村京太郎氏(だった、と思う)のドラマで知った。
82年11月ダイヤ改正で明星が新大阪-西鹿児島の1往復になったけど名古屋発着の金星が廃止になった。
ヘッドマークができた矢先なのに。
新幹線連絡の夜行特急より飛行機で九州に行くのが定番になった。
JRになって昼間特急が高速化したら鈍足寝台特急は邪険な扱いになった。区間短縮やむなし。
新幹線で広島に行く時、大阪あたりで必ずといっていい程、車窓で「明星」に出会った印象がある。それだけ本数が多かったということですね。当時子供ながら興奮したことを思い出したわ。
京都 大阪から九州方面への夜行列車が1便もないとは本当に寂しいですね😢
明星の寝台は、パンタグラフの真下は2段寝台で、この席は快適でした。
頭上空間は広かったけど、うるさかった。
ゆうづる1号・3号・5号・10号・12号・14号が583系。7号・9号・11号・13号・2号・4号・6号・8号がブルートレイン。上野19時50分発ゆうづる1号と上野19時53分発ゆうづる3号は今でも発車時刻を覚えています。青森着もゆうづる1号が5時03分。ゆうづる3号が5時08分。ゆうづるが一番最後まで7往復(季節含む)で走っていました。
ゆうづるは電車と客車で1時間以上も所要時間が違った(西村京太郎の小説の題材になったこともあった)
明星はほとんど差がない
@@patapata2259祖父母が三戸に住んでいたのでゆうづる号やはくつる号、はつかり号やみちのく号の583系運用が大好きでした。ブルートレインゆうづる号は10時間半位かかっていた記憶があります。
ゆうづるは常磐線経由で単線区間もあるから、加減速が電車より劣る客車にとって運転停車のある単線区間は表定速度が電車に比べて下がります。
関西と南九州と結ぶのには夜行列車は丁度いいと思うのだが、寂しいなあ。
大阪ー鹿児島でもみずほで4時間もかからないのに??
利用者としては希望するが、JR九州が承知するか…?
あと、八代〜川内間は…
今では飛行機格安のLCCがあるからな・・・。
安い日は関空ー鹿児島5000円だからね。
なんでそれで利益出るのか不思議だけど
@@情弱ホイホイ さん、LCCは満員を前提としているから以外と利益はでている。
5000円はそう滅多にないし。
それでも7500~9000円台が多いけど。
コロナのときが悲惨だった。
ソーシャルスペースを強要されたので赤字だった。
コロナの時にLCCがバンバン潰れて、今頃には元の高額な運賃に戻ってしまうのではないかと懸念していた。
明星は1往復は、季節列車ですが、あかつきと、ゆうづるは全て定期列車である。しかもゆうづるは、寝台電車と、ブルートレインの両方がありました。またゆうづる下り3号と、上り7号ばゴウマルサンダイヤ改正からゴウイチトウダイヤ改正までは、583系だったが全車指定席で運転されていた。それと、あかつきは、行き先がバラバラでした。
因みに、あかつきはブルトレしか経験していません。新幹線博多開業前年、ブルトレだけで7往復も設定されていたのは凄い!
1往復、筑豊本線経由が含まれていたことがおもしろい。
特に上りは熊本を先発した3号が筑豊本線を通っている間に、後発の2号(西鹿児島始発)が追い抜くダイヤになっていた。
確か筑豊本線経由が明星で鹿児島本線経由がなはだったっけ?
@@bemanimania
75年3月改正から、明星1往復が筑豊本線経由に。
78年10月改正であかつきになり、85年3月改正で明星との併結化により筑豊本線経由廃止。
なはも75年3月改正より583系による寝台特急になり、その後24系化からあかつきと併結するようになり、2008年廃止だよ。
筑豊本線経由は『明星』だったり『あかつき』だったり、色々と変遷がありましたね!
じつは「明星」と「金星」は同じ星を指してたりする。
より長距離を走る581系「金星」に遠慮した命名だったのかもしれない。
ちな、元祖581系寝台特急の「月光」は寝台急行「海星」の格上げで設定されたけど「海星」は「金星」の別名。
※「海星」は海王星ちゃうよ
ヒトデも「海星」と書きますね。
金星は「なすび」。
海王星はネプチュン。
北方領土をかいせ~!😋
@@雅夫大場
セーラーヴィーナスは愛野美奈子。
なら『彗星』は?流星かな?
『あけぼの』は?夜明けかな?
1日7往復といえば…昭和49年4月改正時の「あかつき」も7往復ありました。しかも、当時の特急客車4形式をすべて使用していた最強の客車寝台特急でしたよ。
15型も『あかつき』でのデビューでした。
583系の明星は博多駅まで運行していました。西鹿児島までは運行しておりませんでした。
小さい頃所持していたブルートレインの本で、明星 / あかつき の併結列車として紹介されていたので、そのイメージが強いのですが、明星 / あかつき として活躍していた期間は、結構短かったんですね。2年程度?らしかったので改めて調べてみてびっくりしました。
小学生の頃だったかな?岡山駅を6時代に通る7号を見に行きました。
生まれて初めて見た寝台特急、感激して今でもハッキリと覚えてます。
なのでNゲージの何編成かある583系の1編成は明星にしましたねぇ。
臨時化されて初めて20系客車が充当されるとは...
かつて“寝台街道”とも呼ばれていた山陽本線も今は普通列車や貨物列車ばかり。
同じ平行在来線でも東海道本線東京口と大阪口は特急たくさんありますね
山陽新幹線開業前の時代懐かし…
14系「さくら」20系「はやぶさ」583系「つばめ」は思い出。
いつか乗りに行きたい「W-Exp銀河」…
そんなに火葬場が沢山あったのか・・・
明星は新幹線博多開業時のダイヤ改正で確かに7往復に大増発されたが鹿児島本線系統を明星に整理した結果であり関西対九州全体で見ると減便されています。その後のダイヤ改正の度に明星は減便され1982年11月改正で創設以来14年間使用されていた583系が撤退し3往復から24系1往復に削減されたのはショッキングでした。更に1984年2月改正であかつきとの併結を経て国鉄最後の1986年11月ダイヤ改正であえなく廃止されてしまいました。
廃止というかなは(583廃止)に名称変更ですね。
@@maruhiroya417 1984年2月改正で583系なはが廃止された時にそれまでの24系明星がなはに振り替えられていますね。
583系は最後は 急行寝台「きたぐに」 が最後の活躍の場でしたね
北海道には よく行ったけど 九州には 行かなかったのが 残念でしょうがない
乗り鉄なら北海道が良かったよ。僕は九州から北海道行ってましたモン
九州での583系の定期運用が終了したのは昭和50年代のなかば。他の地区より早かった。
本来は急行用として計画されたのが急行ダイヤだと車輌基地に戻れないので特急用になったとかは皆んなが知ってる事。
けど、政治的な理由で運行区間が被る「なは」の存続が優先されて(本土復帰運動の一環で誕生した愛称なので消すに消せなかった)全廃されてしまうという悲劇的な結末を迎えてしまいましたが・・・
彗星にも乗ってたな🤗
生まれて初めて乗ったブルトレがデビュー間もない24系25型彗星2号(新大阪20:30~都城11:54)でした。その帰路に西鹿児島から明星で帰りました。
中学2年、一人旅。乗る事だけが目的だった為、都城から急行かいもんで移動。西鹿児島駅で7時間待つのがつらかった思い出。
乗りたい、昔の電車に…😢
おっと、7往復の寝台特急なら「あかつき」も忘れないで。
最末期は鳥栖まであかつきと併結1往復だった。20系の臨時特急はあかつき81,82号もあったがやはり急行雲仙に格下げに(博多までの玄海や西鹿児島までの桜島もあった)。宮崎行(上りは南宮崎発)彗星81,82号と名古屋から西鹿児島までの金星は14系座席車だった
昭和50年3月号の鉄道ジャーナル誌に月光の乗車ルポが載っていて、レールウェイライターだった故種村直樹さんが明星は野暮ったいし、彗星はつめたい!月光が一番だといっておられました。今にして思えば岡山発着にされたときに運命は決まっていたのでは?もし新幹線に夜行が運転されれば月光を採用してほしい。っていっておられました。残念ながら新幹線に夜行が運行されることは、ありませんでした。また、ゴウマルサン白紙ダイヤ改正からは、寝台電車の明星は、583系でありながら一部は普通車の指定席のままで運転されていました。これは、彗星も同様でした。さらにゆうづるも1往復だけでしたが、ゴウマルサン白紙ダイヤ改正からゴウイチトウダイヤ改正までは、583系でしたが寝台ではなくて、全車指定席でした。
明星が選ばれたのは、月光を新幹線の夜行で使うためだと言われています。ただ、新幹線の夜行はご存知の通り実現せずに終わってしまい、月光はオクラ入りになっでしまった。また明星が2往復になったときは、変わった時期になり下りは、木曜日で上りは水曜日運休だったと思います。これは利用者の少ない曜日に運休して583系の検査をしたためだと言われています。せっかく明星を取り上げるならば、これぐらいは調べてから動画に上げてください。また、定期列車の終了のときには、24系25型ではなくて、14系15型であかつきと新大阪鳥栖間を併結されていて、ヘッドマークもあかつきと明星の合併マークでした。
なぜ月光?
夜行新幹線なら彗星のほうがよくね?速そうだし
どうして鹿児島行きなのに「なは」って言うのか疑問だった。沖縄返還を願って名付けられた。
返還を祈念…
沖縄は返還されたが、その昔、反対に道東にあった急行(準急だったか?)は難しい?
「くなしり」…
明星の他に大阪エリアでは あかつき(全て客車寝台 20・24系等)も7往復有りました‼️
山陽新幹線博多延伸以前は、あかつきが7往復。
すべて客車で、西鹿児島・熊本・長崎・佐世保と行き先がバラバラでした。
『あかつき』は、関西⇔九州の寝台特急で、唯一581・583系を経験しなかったですね!
新幹線以前の1列車1名称だったら、とんでもないことに
東海道夜行急行より凄い事になってたろうなぁ
水星
金星
地球
火星
木星
土星
天王星
海王星
とかで良いんじゃない 笑
懐かしい寝台特急明星号。山陽新幹線博多延伸前に年末年始の帰省時期に3段寝台に一家で小倉~新大阪間を乗車。朝6時発のお新大阪で東海道新幹線に乗り継いで東京まで向かった。
常磐線の「ゆうづる」も本数多かったですよね♪
ゆうづるは、続行する特急だったのもあるね。
船は大きいですからね
583系は一度出庫すると次に車庫へ戻るのは3日後って運用もあったなぁ…昼行特急でも「有明」「雷鳥」「ひばり」「はつかり」は一部列車を583系で運用してたし、「みちのく」も583系使ってた。昼夜兼行が583系の特徴でもありました。
当たり前
「しらさぎ」もあった。
583系が定期運用されたのは、東海道本線の名古屋以西・山陽本線・鹿児島本線・日豊本線・北陸本線・湖西線・東北本線・常磐線ぐらい。
交直両用だったのに運行された路線は限られていた。
実際は、583系は長距離の割にあまりあちこち行かないから485系よりも運用は楽だったらしい😁
@@政義大山
一応、仙山線奥羽本線と信越本線日本海区間もよろしく(急行だけど)。
1号で、大学同期で、鹿児島に赴任していた友達のところに行った時に使いました。
他にも、九州1周特急で走ったり、なはで西鹿児島まで行ったりしました。
日豊線の急行で、小倉から、西鹿児島まで行ったこともありました。
瀬戸内海沿岸は重工各社がひしめいていたから生産拠点が日本国内にあった頃は需要が旺盛だった。
しかし高度経済成長が終わり、通過が変動相場になると構造的不況に陥り海外へ生産拠点を移したり統廃合が進んだ。
需要が減り始めた頃に山陽新幹線が開通してさらに需要が矮小化した。
そして行き場を喪った581/583系が食パンへ改造される…
南九州方面はやはり明星、彗星、なは!
子どもながらに名前がかっこいいと思った!
末期のなは&あかつき乗りたかったな・・・・。
寝台特急が新幹線開業した後も残ったのは新幹線の終電の時間が早かったことや初電の目的地に着く時間が遅かったこともあるね
のちの食パン列車である・・・
1978年10月から1985年3月まであかつきの佐世保編成一往復が門司で分割併合のうえ筑豊本線経由と本で見ましたが、明星にもこれがあったのですね。
筑豊「あかつき」は、十津川警部ドラマで拝見スしました。
佐賀駅を通る日本の下リ「あかつき3号(だったと思う)」がキーポイント。
4号は季節列車だし、5、6号は熊本止め、7号は博多までと考えると、ゆうづるの方が圧倒的にすごい
そんなことはないと思いますけれどねえ。
熊本「止め」や博多「まで」などの表現で短距離列車が多いイメージにしようとしているようですが、
1日当たりの走行距離は
明星 11823.0km
ゆうづる 10298.4km
なので、明星のほうが長いです。
前提として僕は明星の方が地元の列車なので推したいところです。
ただ七往復とはいえ、性格の異なる(出自の異なる)列車を一つの列車名にまとめたから大所帯になったということが言いたいのです。
@@user-tabiichiro
そもそも、連絡船の定員に合わせるため「2本の列車を続行させるのが基本スタイル」の路線の列車本数を、多いと捉えることには、疑問が残りますね。
当時キャンディーズばりに働いた……😮
最盛期は1日7往復を走行した関西発九州行きの夜行特急のエース
ピーク過ぎたら一気に廃れていき、あっという間に廃止された
チャルメラ。
子供の頃までだからね。
24で運行されていたのは懐かしい。
ゆうづる「ワシも7往復走っとった時代あったんだがなあ」
あんたは7往復っても、青函輸送用に2本続行した寝台特急やろ。
今回はメンバーシップの広告は無かったですね
50.3改正でそれまでの急行天草に代わり、関西〜熊本を筑豊線経由で結んだ特急「下り明星6号・上り明星3号」ですが、普通車指定席・自由席・グリーン車・A寝台・B寝台を組んだ11両編成の天草と比べて、B寝台のみモノクラス6両の明星は当時の沿線民からしても大きく格が下がった感じでした。せめてB寝台がヒルネ利用でもできれば九州内の需要も拾えたかもしれませんがそれもなかったので大阪に行くときに一度使ったきりでした。
明星6号って、たしか急行「天草」の特急格上げとなったのでは?
だからこその筑豊線経由。
そう、3年ほどであかつきになったが。
1950年10月改正東京~熊本の急行阿蘇号→1961年10月改正京都~熊本の急行天草号→1975年10月改正新大阪・大阪~熊本の特急明星3・6号→1978年10月改正新大阪・大阪~佐世保の特急あかつき2・3号→1984年2月改正新大阪~佐世保の特急あかつき2・3号→1985年3月改正廃止でしたね。又昭和40年代までの繁忙期には、東京~熊本の臨時急行しらぬい号や名古屋・大阪~飯塚・佐世保の臨時急行筑豊号や新大阪・大阪~熊本・三角・八代の臨時急行天草51号・52号や佐世保→新大阪の臨時急行西海51号なども筑豊本線経由で運転されましたね。(臨時列車は時期によって始発駅や終着駅が異なります。)
4:13過去にはあの博多駅を通過する電車なんてあったんだね。今では考えられないけど。
有効時間帯でなければ意味ないでしょ。
そりゃ~深夜は大阪駅でも通過していましたから(東京~九州のブルトレなど)。
これは利用者が少ないのもあるけど車掌の業務の軽減や他のお客さんへの配慮もあったと思います。
@@政義大山 しかも、博多は知らんが大阪は「停車」はしている(運転停車)😁
@@psychedelicraspberry517 さま。
博多は乗務員交代の運停だったようです。
なんか復活して欲しいな
これを使って九州に行きたい人はいないはずはないと思うだけどな
九州旅客が首をタテに振らないと…
寝台とはいえ博多新大阪10時間近い時間かかってたらそら飛行機でいいってなる
昭和時代の飛行機は高かったからね。子供の頃は飛行機が高いで親と帰省でも寝台やら新幹線でした。食堂車ある頃は好んで列車乗ってましたけど。今はノーサービスなら飛行機の方が荷物持たなくて良いラウンジがあるって点で飛行機が上
昭和は今よりのんびりしていた。
今は移動時間が短いので、滞在先でのんびり出来るが。
0:18動画とは関係無いけど、苗穂工場に廃車解体待ちの711が銀塗装されていた、カシオペアの塗装試験なのかな?
711で塗装試験やるんですね!
まあ魔改造で知られる苗穂工場ですし、何をしても驚きませんが…笑
関西ー九州間の夜行列車は、新幹線博多開業ダイヤ改正で寝台特急と全車指定席の急行だけになり
気軽に乗れなくなった、あれが衰退の原因になったと思う
新幹線あればそっち誘導は自然かと思う。使う客も速い方好みますから。その新幹線も速達便に好んで乗りますからね。日本人の多くは移動時間は無駄時間と考える人多いのも一因かと思う
@@user-ve5rr9bl4i
50.3改正後の急行阿蘇、雲仙、西海、くにさきは
14系12両編成で全車指定席だったのです
ほとんど乗客乗ってなかった
後に自由席にしたけどダメでした
東で言えば「ゆうづる」。西の「明星」。
当初は
明星→電車
あかつき→客車
だったんだね。
てか、当初「明星」は熊本止まりで、西鹿児島方面は、電車は「きりしま」でした。
「あかつき」は客車で、西鹿児島だけでなく熊本往復があったと記憶しております。
@@雅夫大場
同一系統でも電車と客車で名前変えたりしてましたね。寝台料金が違うとこの方が分かりやすいかも。
まさに向日町の優等列車全盛期とリンクする列車!稀少感なくてL特急みたいだったがw
早岐配備の14系もあかつき~日本海の広域運用がありました。
1977年の鉄道ジャーナルのニュース欄にあかつきの車輪が欠けたニュースがありました。あかつきとして九州に向かう時、床下から異音が発生。緊急停車して調べたところ、車輪が欠けていたそうです。寒冷地と温暖な土地を跨いで走るので、金属疲労が進んだのが原因だとか。
大惨事にならなくてよかったです。
日本特急旅行ゲームでよく使った
寝台に乗りたい!
4:20 博多通過???
前身の「きりしま」の名残りでしたか…
コレ、当時は話題になったようです。
ただ時間帯の問題だったらしく(超早朝?)実際には乗務員交代の為の運停だったようで…
私が覚えている限りでは、くだり「きりしま」は徳山から大牟田まで「レ」が並ぶビックリトレインでした。
高速道路が延びてない時代だったからこその寝台多発でしたね、JR化された頃には高速バスの増加でここまで寝台が増える事はありませんでした。
新幹線と飛行機
@@tydeentetuota5514
言い方が悪かったようで、自分が挙げたのは新幹線が東海道&山陽しか無かった時代ですね。飛行機も今のようなLCCなど考えられない時代でしたので。
自分の故郷の長崎なんて空港移転前にやっと東京便の飛行機が就航したぐらいですから。
明星で山陽の話してるんだけどここ。
@@tydeentetuota5514
ソレ言ったらゆうづるの事をコメしてる人もいるから、それこそだから何だよ。
高速道路で上野〜青森約800キロ、東京〜西鹿児島約1500キロ、どれだけの人がバスや自家用車で移動しますかね笑笑。
曖昧な記憶で申し訳ありませんが
昔、昭和の頃に寝台特急「金星」ってのが
あった記憶があります
その特集をお願いします
たしか「金星」だったと思います
間違いでしたらごめんなさい😱😱😱
名古屋発着で東京から名古屋まで新幹線できて金星に接続する客が多かった。
そして581系のカラーも新幹線のアイボリーとブルートレインの青の組み合わせだった。
調査のうえ、動画化できそうでしたら特集いたします!リクエストありがとうございます◎
安芸は?
明星というと7往復で普通だという感覚がすでにおっさん。(自分のことらしい)
ゆうづる+はくつる合算ではもっと走ってたような
じゃ、明星と、あかつきと、彗星と合算したら良い。
@@tydeentetuota5514 行き先違うじゃないですか、ゆうづるとはくつるは実質同一列車
はくつる何往復
@@tydeentetuota5514
運転開始以来、1か2往復。
2往復時代は82〜88、93〜94年の7年間のみ。
「彗星」だけは日豊線系統だとすぐ分かるところながら
「明星」「なは」「あかつき」「月光」の運行系統が今一度釈然としなかった。
正に【電車版モーレツ社員】😂 >月光型
PS:寝床も満足に用意されないとは⁉️😭
ムーンライトながら帰ってきてえ
昭和51年の50%値上げが関西⇔九州の夜行列車の凋落の一因と言えそうか?
50年の新幹線博多開業がもっと大きいかと思う。平成初期までは博多〜東京も新幹線使ってましたけど、飛行機のサービス向上で大阪までしか新幹線使わなくなった。新幹線ってグリーン車使ってもラウンジやら荷物預けも無いし乗るまでは自由席も一緒って新幹線のその点が嫌。
何で「銀河」の画像ばっかり出すんや
飛行機が安くならなかったら残っていただろうね
九州新幹線と夜行高速バスで変わらないよ。
明星は本来大阪⇔熊本だったろうに・・。明星の方向幕「熊本」あり。貴重か?
父が明星に乗ってた写真があった。
ピットイン無しで、1日7往復?
車輪が偏摩耗してガタガタするわけだ。
同じ車輌で走ってるワケないじゃん笑笑
一平ちゃん。
カプセルホテル以下の設備なくせに値段は航空機より高いというクソさ
カプセルホテルでは移動出来ないし、飛行機では横になって寝れない。
日本でカプセルホテルを始めたのは1979年大阪が最初。
ついたち ではなく、
いちにち が正しい。
アップする前にチェックしないんですかね?
細け〜きめぇー🤣
「ゆっくりVOICE」には難しいんですよ。
脳内変換で我慢して下さいw😅
まあ、正しい言い方が忘れられていく恐れはあるのかも
ご指摘の通り、「一日」をついたちと読む読み違いはゆっくり音声において頻発します…確認はしていますが、内容に特に関係しないこと、意味が伝わることから逐次の訂正は行わない方針でおります。ご理解いただけると幸いです🙇♀
7「往復」だと14号までないといけないが?
1978年10月のダイヤ改正までは、上下列車がそれぞれ1〜から名のってまして(往年のヒット曲「あずさ2号」も新宿からの旅立ちですし)
ぷっ
@@けん-o4y ちょうど、下り奇数・上り偶数になったと同時に、明星は減便されたのですね。
@@HopStepJunk すま
一番?
一蘭😁
一平ちゃん。