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その昔、大垣夜行の床で寝てました。懐かしく楽しい思い出です。
長岡夜行で谷川岳登山、何回か行きました。熊谷あたりまでは通勤客も多数乗車していたので、115系の吊り革に捕まって乗車という恐ろしい夜行列車でした。ろくに眠れるはずもないのですが、土合駅の登り階段では山行の期待に胸が膨らみ、周囲の登山者をライバルのように睨みながら登山口を目指したものです。登山中も睡眠不足でフラフラ。帰路は水上の駅前で鍋焼きうどんを食べるのが通とされてました。
大垣行きなど皆わかってて それが「イベント」だった
何も知らず名古屋から大垣夜行乗ったら座れず次からは大垣まで戻って乗ってました懐かしいですね〜
中央東線長野夜行、のち上諏訪夜行もスカ色115系でしたね
新宿を23時55分発の通称「山男列車」として有名でしたね!新宿出発時は中央線の最終列車、長野県内は早朝の始発として利便性も良かったようです。
【乗客を床で寝かせる夜行列車】というのは、誤解を招きますね。あくまでも、普通列車が深夜に運転しているのであって、決して寝台列車ではありませんでした。床に寝たり、座席を外す(本来はやってはいけないこと)などは乗客が、知恵を絞って睡眠をとる方法を考えた結果ですしね。
よくある手法じゃん動画を見れば分かるんだからそこまで言わなくても
@@hamatetsu_Phone 網棚の上で寝ていた猛者もいたよ。
昔、多客期には、夜行急行の指定席車両でも、床に新聞紙を敷いて寝ている人を見たことがあります。
寝台車とか会社の出張とか特別な旅行でしか乗れ無かったんだろうね庶民は
@@guyatoneo そんなことはありません。繁忙期に座席車で床に寝ていた人達には、貧乏学生もいましたが、昭和30年代ならいざ知らず、大抵の場合は寝台券が取れなかった人達です。繁忙期は特急・急行問わず長距離列車の寝台は大人気で中々予約が取れ須ず、特に東京・九州間のブルトレなんかは、販売開始で即瞬サツ状態で、プラチナチケット化していたのが実態です。
ムーンライト以前の昔の大垣夜行もそう。席に座れない場合には、床に新聞紙引いて寝そべる人が一杯いましたよ。懐かしい。
大垣夜行 座れれば良い方で、混雑が酷いと座る余地がなく立って寝たことも有りました
90年代初め、夜行アルプスに乗車した時、座席に座れず、座席にもたれながら立ったままでした。
そんな状況では、却って座席が邪魔!?
@@ib4950 サハ204を復活させて走らせてみたい。(←どーやって自走するんだ)
@@blueberrymascarpone2786 自走しなくても、電車か機関車で曳けばいい
@@ib4950 リアル家畜車で草
登山に行くとき、座席のとれない夜行列車(115系)の車内で新聞を敷いて、リュックを枕に寝ていたことはあります。確かに網棚で寝ている人もいました。やっぱり夜行列車は山小屋の雰囲気にも近い旧型客車に限るなんて思いました。変わったところだと、中央線の昼行急行「アルプス」で、一時ビュッフェ車(サハシ165)を連結していたことがあり、その後閉鎖されたので、これが連結されたまま走っていて、そのビュッフェカウンターの上で寝ている人もいました。また、登山は確かに疲れるので、飯田線等の旧型電車などでは、夜、ロングシート車の座席などにリュックを枕にたくさんの登山客が横たわり、いびきをかいて寝ていた光景にも出くわしたことがあります。乗客が勝手につくった寝台車でした。昭和の頃は、そこら辺がルーズで、自由な空気がありました。
新津発青森行に乗る為に長岡夜行乗りました。宮内で乗換が必要でしたが833レに乗るには便利のいい列車でした。私が高校生の時です。
長岡夜行下りが『籠ハラ』になっていたのは知りませんでした。郵便車含め 12両フルで走っていた頃は、高崎で 50分ほど停車し、後続の急行『佐渡』寝台急行『天の川』と貨物列車を先に行かせていました。座席を確保出来ない人は、ホームに出て駅そば/うどんを食べていたな〜。長岡夜行、米原行に乗れるだけでなく、小出から只見線,越後川口から飯山線に乗って全線走破して、郡山や長野から帰って来れました。あと、四国の土讃線の夜行の普通列車、急行型車輌を使い、グリーン車開放だったので、フットレストもあり、快適な一夜でした。
私が学生のころは夜行普通なんて当たり前にありました。大垣夜行は165系の急行型なので良かったですが、上野発長岡行き夜行普通は115系だったのでセミクロスでした。高崎からはガラガラになるので私はロングシートに横になって寝てました。ちょっと狭い寝台車でした。それ以外にも上野から奥羽本線経由青森行きに乗ったことがあります。変わり種は門司港から長崎まで普通なかさき号のB寝台に乗ったことがあります。寝台車なので乗客専務車掌が乗っていました。最近は夜行もなくなり淋しくなりました。今は東海汽船の特2等寝台で懐かしい夜行旅をしてます。
懐かしい、中学生の時、寒川支線、清水港線と乗り東京に戻り、上野から、これに乗って長沢支線、赤谷線、小千谷線と乗って、18切符で充実した2日間を過ごせました
この列車に昔乗ったけど、向かいに座ってた50代くらいの男が、寝てるのかと思いきや、連れの人が声をかけても起きず、車掌とよく見たら死んでた上野駅で警察官が多数乗り込んできて、鑑識をするためなのかそのまま回送されていったなぜか俺と隣に座ってた知らない人も、駅の事務室で事情聴取された
連れは死ぬほど疲れている、起こさないでいくれ
@ ダイ・ハードのセリフね
夜行鈍行電車として他にも有名なのが、新宿発長野行きの441Mですね。横須賀色の115系がいわゆる「山屋」さん達をD寝台(笑)で運んでいました。当時は夜行急行のアルプスもあったのに、ものすごい需要ですよね。
大菩薩峠を目指す人が、塩山でごそっと降りるので、そこからはボックスシート独り占め。翌朝、塩尻当たりたら、高校生が次から次へと乗り込ん出来て、南松本で降りていく…。
新宿駅0:01発の系譜ですかね一部の方からは「ゼロゼロワン」と呼ばれていました
土曜日の夜に上野を出発し、日曜の明け方に仙台に停まる急行「いわて2号」。座席は普通のクロスシート。東北学院大学で羽球部の対抗戦が行なわれる日には、貧乏学生の分際でよく利用させていただきました。学割で「仙台松島ミニ周遊券」を買って。1979年頃のこと。
急行八甲田。混雑期でなければ座席でC寝台。混雑期は床に新聞紙でD寝台。懐かしいものです。
青森まで12時間、EF57からED71盛岡からSLなつかし
通勤型115系電車を利用した普通夜行列車といえば上野駅から長岡駅まで片道運行の733Mや新宿駅と長野駅を往復結んでいた441M・442Mが懐かしいです。普通定期列車の夜行列車は上記以外に からまつ、43レ・44レ、347M・344M、はやたま、山陰、731D・762D、ながさき がありましたが学生時代に全て乗りました。ただし青春18きっぷは学生時代にはまだ発売されてなかったので安く行く事が出来なかった。18きっぷは僕が24歳だった1982年から発売。733Mは宮内駅で522レ米原行き旧客鈍行に乗るのに丁度よかったけど小出駅で只見線始発の会津若松行きやそのまま新発田駅まで乗り継いで赤谷線への足としても便利でした。
当初夜行普通列車は新聞·郵便輸送も担っていたからねぇ親父から聞いた話だと、客車時代車内がガラガラだった時は座面クッション外して床に2個並べて寝てたとか😅
修学旅行の集約臨で、先生は慣れているのでボックスシートにちょうどハマる寝板を持ってきていた写真が某雑誌にあったなぁ。
乗ったことありました。入線から20分間ありまた夜行で混むのは理解されてるので、通勤客は「一本前に乗れなかったから仕方なく長岡行きに乗るか」の人らが5分前に駆け込みで乗ってきたので、最初からこの列車に乗る人は全員座ることはできました。仮に座れなくても上尾から下車客で減り、高崎には空席もある状態でしたよ。
網棚で寝ている人昔いたなぁ😊
昔の列車は真の”網棚”でしたからね。急行アルプス(165or169系だったかと)に乗った時にハンモックみたいに寝れるか?と思って寝た事がありましたけど棚を支えている支柱間隔が微妙に邪魔で寝れたもんじゃなかったですwww
阪神電車の日常風景
いいなぁ夜行列車😭 乗り鉄からしたらこんなに平和な夜遊びはない…
ベッタベタですよ。翌日仕事に出たら臭いって言われます。あと長岡夜行でカメラ盗まれました。蒲田のカメラ屋から警察を経て故買の連絡がありました。内蓋裏に名前を書いておいてよかったです。盗難の多い列車だったみたいです。
平成の時代になっても臨時の「大垣夜行」が113系で運行されていた時期もあったからなぁ。
165系廃車された時期ですね
乗ったことあるけど地獄だった4列シートの夜行バスが天国に思えるくらい床に新聞紙敷いて寝てる奴がいるから、運よく座席に座れてもトイレに行けない
@@hiromuta1小田原で空くからそこまで立っていて、そっから2人用ロングシートで寝たことあるわ。
昭和の時代は、皆床に寝ている人を平然と跨いでトイレへ行きましたね。当然自分は床に寝ていた側でした。
21世紀に入ったばかりの頃ですね。373系MLながら>165/167系臨時大垣夜行>>>113系臨時列車だと思っておりました。最近ではほぼ同型の115系でさえ、ツアー専用の夜行急行鷲羽に使用されて料金がウン万円という驚きの価格ですね。国鉄型の貴重さもあるが、時代の変化を感じます。
40年前、横浜行くのに仕事早退させて貰えず最終の新幹線を逃し、何とか大垣夜行乗ったら、通勤列車顔負けの超満員。鮨詰めの車内で六時間立ったままトイレにも行けず小田原で倒れて救急搬送された。
大垣夜行で直角イスに耐えきれず友だちと一緒に床に寝ました大学生のときのことだけど今となっては良い思い出です
着席者の許可をもらって肘掛(167系ボックス席)に座っとるツワモノも居たな。
座席の上で、履物と荷物を抱いてうずくまる!
四等寝台、C寝台、懐かしいですな。網棚で横になるとか、通路挟んで網棚間にハンモックを吊るとか諸先輩方はいろいろ工夫されたようです。
乗客を床で寝かせる夜行列車か(笑)ムーンライト九州の「C寝台」とも称された、展望車のカオスっぷりが懐かしい。また特殊塗装の臨時大垣夜行に乗ったこと有るけど、ギュウギュウの車内で座席を確保して優越感に浸った事も。今回はムーンライトえちごの紹介だったが、2010年頃まではこの手の車両が有って、懐かしく動画を視聴させていただきました。
懐かしいですね。高崎まできっぷ買って以降18きっぷで日本海経由で北海道まで夏休みにみんなで行ってました。
こんな事当時は普通でしたね、床に新聞紙敷いたりして、乗るまでに上野駅に2時間前くらいまでにゆき並んで乗るとか今では考えられない光景ですが懐かしい思い出でもあります。
その通りですね。上野駅でもホ~ムに新聞を敷いて列車を待ったものです。確実に座るには3時間位前から待つ必要が有りました。若い時とはいえ結構苦痛でした。
函館→札幌41列車 札幌→函館46列車いわゆる山線夜行荷物がメインで旅客はオマケ国鉄最後のダイヤ改正で荷物取り扱いをやめたと同時に消えた列車だったよなぁ…
下りの小樽~札幌間が全駅通過だった時期があったかとあと末期にはカーペットカーを連結していた事もあったか
「全部D寝台」と言えば新宿発長野行きの夜行普通列車が有名で、じつは臨時急行の「アルプス」も「D寝台」で113系の電車を使用したことがありましたが。
115系でなくて113系だったのですね。
@@さゆり-f9n 中央西線はもちろん115系ですよ。「臨時急行、アルプス」などで検索して下さい。一般人なら車内アコモで類推判断するし、趣味人でも勘違いするものです。こういうときは正面から問い直すべきです。臨時急行アルプスは113系風の電車なのです。
@@TheBikkuri D寝台とか通みたいな事書いてる人だからさ、信じちゃうじゃんね。私は115系だろと思っていても。
@@さゆり-f9n まあね。若い人は間違わないからそうかもしれないけど、年寄りは自分が良く間違うので疑心暗鬼だよ。そしてネットで確認しようとしても場合によっては難しい。JR西日本は踏切事故などはほぼ隠蔽していて検索にかからないようになっている。1978百舌鳥駅踏切事故は3人死んでいるけどヒットないな。私以外にも探している人が居て、wikiの「ノート:阪和線」で探している人が居る。こんど堺の図書館で調べてみる予定だったりする。
1979でした。
ゆかどころか、網棚に寝た猛者もいたようで…。
「長岡夜行」は何回か利用しました。下りは土合駅まで通勤電車なみの混雑でした。多数の登山客が下りた後ロングシートに寝ていました。上りはガラガラでシートを4つはずして床に並べて寝ることもできました。45年前のことです。
115系の“長岡夜行”は郵便・荷物輸送も兼ねた列車でしたが、同様にクモユ141がぶら下がった下り列車を19〜20時ころに大宮駅で見かけたことがよくありました。高崎か新前橋行きだったと思われますが、真の終着駅はどこだったのかな…と謎は謎のまま40年が過ぎようとしていますw前半に出てきた米原夜行611レは信越本線を通りますが、1963年9月30日未明にアプト式旧線最後の列車となりましたね。元職員さんの回顧録では横川4時少し前の発車でしたから、上野発車からここまでもえらく時間が掛かっています。
D寝台は草
今現在では、バス運転手不足になっているため、高速バス減便や廃止になっております。今、夜行列車が復活じゃないかと期待しております。
無理だろうね…JRはまったくやる気ないだろうし😁
@@kenken-c2w イベント列車でバカ高い料金出せば可能だよ。
@@Chu2007pae 鉄ヲタが求めているのは「ムーンライト」みたいな18キップで乗れるやつだろ?どっちにしろ復活するどころか「サンライズ」の存続すら危ういぜ😆
@@kenken-c2w バカ高いイベント列車は九州で成功例があるので各JRが作り始めたけどね。
大垣夜行、品川発の臨時、八甲田自由席、床で寝てる方、酒盛りしてる方、裂きイカの匂いとワンカップ大関で酒宴を開いてる方、、色々いたなぁ・・
上野の常磐線ホームでは東京直通開始間際のわりと最近まで酒盛りしてましたよ。始発の上野から乗り込むなり裂きイカの匂いが充満してるとか日常でした
@@se.v4809 常磐線は夜のくだりはイカとアルコール、朝の上りは行商のおばさんが定番でしたよね。
向かいのボックスがライブ帰りの女の子達で、寝るのを諦めたことがあったwちなみに翌日は奈良で学会の大会初日www
夜行普通といえば新宿発松本行きだなぁ115系80年代でも走ってたし登山もブームだったから山登り客が多く荷物がデカいので場所を食ってしまいD寝台は当たり前3段寝台上段も(つまり網棚)使ってる奴もいた
乗車待ちの列が新宿駅のアルプス広場に指定されていて並んだ記憶が、、、
この列車はゴウマルサンダイヤ改正までは客車列車でヨンサントウの時点では客車暖房用に暖房車が用いられていて新宿から甲府までしかもたなかった。甲府から先はロクヨンが牽引していて電気暖房だったそうだ。またゴウマルサンダイヤ改正でこの列車が廃止される噂があり実際は115系電車化だった。
網棚はC寝台やで
旧型客車から485系快速[🌃ムーンライト]は驚異的な進歩.
所要時間があまりにも長いのは、規制緩和前のバスよりさらに短めの義務休憩なので・・・・上野秋田位、昔も今も普通に通し乗務ですよ。。。。急行きたぐにでさえも向日町始業点検から、新潟新津入庫出庫で向日町まで通し乗務です 乗り継ぎ乗り継ぎ乗務員交代で時間短縮は超が付くほどの大都会にかぎられます停車駅の駅員を起こしておく現状7、無人駅の深夜開放禁止、乗り継ぎ乗務員交代ではなくて終点まで往復乗務では、夜行列車は一生無理かと残ってる列車は、営業時間外駅全部通過か乗務員休憩停車で客扱いはさせられませんから させれたとしても駅が開くまで缶詰ですが,ロシアみたいに勝手に駅舎経由しないで乗降したら不法侵入で前歴か前科なりますのでみんな貧乏か成金の老極端だからな・・・・お金もちに特化して貧乏人切り捨ててたらコレイルとか他のアジアと同じ結果なるよ 優等しかない、それなのに保線悪くて持ち上がり脱線する、乗務員教育する費用無くてオーバーランする交通機関が客を選び出したら、それは乗合事業じゃなくて、特定異業か貸切事業
18キッパーにとっては必需列車でもありました。
今の夜行バスの位置づけだったんだね。それに新聞を載せた荷物車や郵便車を繋げてたから合理性を保ててたんだろうけど、マイカー普及や系統分離が進んだ今となっては効率悪いし需要がないし時代に合わないね。
夜行列車がなくなって、夜行バスばかりになったことを、発展途上国化したと思っていた時期がありました…運賃が安い、寝台設備は贅沢だ、との印象があり、それだけ貧しくなっているのだなと感じたので…そういえば昔々、夜行大垣行は混雑リスクがあるので、中央線周りで行く方法があったような気がします…新宿↔松本の夜行普通(途中飛ばす駅があるので、実質快速)と、長野(松本、塩尻経由)↔名古屋の夜行急行(千曲)だったか、うろ覚えなので確かではないですが… 急行千曲は客車を引っ張る形だったような、そうでないような…(周遊券を使うと、同じ料金で行けた?) あまりに昔で…
当時のちくまは長野-大阪だったので多分急行きそでしょう復刻版1978年10月号だと441Mが新宿23:55-松本8:02で、きそ2号が松本8:14-名古屋11:29自分は当時だと東京ミニ周遊券とグリーン券で大垣夜行使うか、臨時の銀河指定席使ってました当時だとシーズンまっただ中の当日でも臨時銀河なら空いてましたからバッタンシートさえ我慢すれば大垣夜行よりは快適でした
「準夜行+夜行」ですね。本命の夜行の発車が遅いときに使う手です。
動画中のマイカー移行の説明で、初期型レガシー・ツーリングワゴン(それもターボ)のお写真を使われるとは・・・なかなかマニアですな(笑)
115系は近郊型なのである程度の距離(東京ー静岡、上野ー長岡)は想定内の使用法といえます。本当の通勤型4ドアロングシートなら問題だったでしょう
空いてさえいれば、窮屈な直角背もたれクロスシートよりも、足を延ばせるロングシートの方が楽ですよ。
@@竹内克-l7r オイルサーディンみたいな利用法が無いかと夢想します。
ぎゅうぎゅう詰め4人相席状態の165系のボックスシートよりも113系のロングシートの方が快適かもですね!
全員着席状態で足が伸ばせるのは3×8+2×4だったかな。記憶が怪しい。
今日見、夜の移動は夜行高速バス💤 ベッドではなく シートだもん😫 せや 中国に寝台バスがアルよ😄 左右中1列ずつにベッドがアルらしい😀
学生時代によくこの長岡行きの夜行に乗りました実際のところ、このような夜行の普通電車が残ったのは人のために走らせるよりは全国紙の新聞輸送がメインでした今では現地印刷や高速道路で新聞を運んでいますが当時はこのような電車で東京の印刷所から新潟の各地に運んでいました締切時間が早いのでナイターが終わる前に刷った新聞だったので途中経過まで載っていませんでしたそのためY新聞の販売店では速報版を差し込んで配達していました
私も大垣夜行利用していました。早くから東京駅ホームて場所取りやりましたし。また、洗面所などで座ったり寝たりしたお客さんもいましたね。約七時間の旅は疲れますが、寝なくても楽しい時間でしたね。
急行だけど上野発青森方面の、津軽とか八甲田は座席車の12時間コース。盆暮正月や学生が休みの時期は猛烈に混んでいた。もちろん床で寝たことあります。連結の上も一度あったが、揺れて死ぬかと思った。
733M長岡行は何回か利用しました。新聞紙ひいて床に座って乗りました。115系11両編成で4両切り離しで7両が長岡までだったと思います。懐かしい
12:15 カゴハラ16:06 寝過ごすと大阪環状線の御坊行きよりも地獄
45年以上前の小学生の頃に初めて上り大垣夜行を清水から乗った時、こんな時間に誰も乗っていないだろうと親と話していたら床でごろ寝がゾロゾロいたのがカルチャーショックでした。
懐かしいですね、長岡夜行は良く乗りました。深夜帯の走行なのに減光せずに車内放送も継続。高崎と新前橋で長時間の停車。上野を1時間後に出る高崎行きの接続を取り更に新前橋でも停車。当時はコンビニなどもなくて深夜に駅周囲をうろついてたら警官に職質されました(笑)。宮内で米原行きに接続し廃止近い魚沼線に乗るにはピッタリでした。また車端のロングシートで唯一真横になれましたが、揺れや騒音で寝付けなかったです。
夜行普通列車って殆どが郵便や荷物列車を連結していて、旅客は寧ろおまけだったのではと思っている。国鉄末期に郵便、荷物輸送が廃止されたら積極的に残す理由は失われていたのでは。平成初期にムーンライトえちご、大垣夜行を普通の日に乗ったことあるけど、乗車率2〜3割位と18切符非発売時期は芳しいとは言えなかった。
あーゆのくにですね。金沢までのがゆのくにで、富山までが立山でした。全部雷鳥に格上げされ、消えてしまいました。日豊線でも同じ型の急行電車が走っていました。北陸線では、北陸トンネルの中で火災事故を起こした「きたぐに」が米原経由で青森(のちに新潟)まで走っていました。
これは4等車だな。
北アルプス、八ヶ岳に登山するために新宿発の最終普通列車を利用してましたまともに座席にありつくことなどめったに無く、新聞紙強いて敷いて床に寝るのが当たり前時々トイレ通いの女性が跨いで通ったりして目のやり場に困った(ウソ)ことも・・・
青春18のびのびきっぷ(最初に発売された、のびのびが名前に入った)で旅行しました。金沢から大垣へ、大垣から大垣夜行で初めて東京に行き、新橋の鉄ヲタビルや神保町の鉄ヲタ書店などを巡り、長岡夜行で長岡へ、長岡から金沢に普通列車で帰りました。長岡夜行はドア横の2人掛けシートに横になって寝た記憶があります。
90年代頃まで週末のみ、終電近くの新前橋行115系が越後湯沢まで延長運転されていました。何度か乗りましたが、末期はオールロングシート車が来ることが多かったです。今となっては床に寝そべる経験もできなくなりました。
今やるなら、1946Eの最終高崎行き(東京23:19発高崎1:14着)を延長運転だろうなァ?後は単純計算で新津5:26・新潟5:43のみの停車かな?逆は468M(新潟23:16発長岡0:31着)そこから大宮4:35でそこから各駅停車【運転停車は除く】
俺ら底辺は大垣から東京への普通夜行でディズニーランドへ家族で行ったんやでぇ~。帰りもディズニーの花火を見てから東京から大垣行きへの普通夜行で帰ったんや。しかも親は青春18切符で。友達にも自慢したでぇ「2泊3日でディズニーランドに行ったんや」って。
藤原拓海がエンペラーへのリベンジ戦で東海道を移動したときもD寝台だったなぁ。
上野発の急行羽黒号は途中の長岡駅で電気機関車から蒸気機関車に取り換えていた。
学生時代を新潟で過ごしたので、この長岡夜行には乗りました周遊券で行きは佐渡を利用して東京に行き、半日過ごした後、長岡夜行と長岡~新潟の普通を乗り継いで帰ってきました末期だったので、楽々座れたように覚えています
長岡夜行やムーンライト越後にはお世話になりました。長岡夜行には、沿線(特に新潟県内)の朝刊を運ぶという使命もありました。そのため下りのみの設定だったのかな?と考えていましたが、真実はどうなんでしょうか?
急行津軽が583だった頃は簡単に寝台に出来たものでしたね、
その通りでメインは新聞輸送。
普通列車の床に寝かせる夜行列車が日本にもあったんですね。カネの無い学生時代の昭和末平成初に、夜行特急列車に乗ったことがあるが、乗車席が激安高速バスより多少まし、揺れが激安高速バスより多少マシな代物でした。ただ、特急列車をそのまま夜行運行したものなので、今の激安高速バスにあるような、乗車席の間を仕切る布なんて贅沢なものはございません🤣
D寝台って「網棚を利用」という意味なのですね。ラッシュ時間にはやりたくなりますが…周囲の視線が気になりますね。
長岡夜行もムーンライトえちごも何回か乗ったな。でも関越道経由の夜行バスならグリーン車以上の3列独立シートな上に安い…そりゃ夜行普通列車が廃止されるよ。
165系の大垣夜行には乗ることが出来ましたが、その他の夜行普通列車は話に聞いた事がある程度で全く経験がありません。子供の頃の自分には夜行の普通列車より特急や急行列車の方が輝いて見えていて、チャンスがあったとしても乗っていなかったと思います。今走っていれば絶対に乗りますけどね😅
他にも、「ムーンライトながら」にて113系の使われたことありました。いまや113系そのものが貴重なので、今考えれば貴重な存在と思います。これが今だったらE231系での夜行列車ですか。通勤電車ならぬプレハブ小屋列車ですね。グリーン車ならまだ雰囲気あるかもですが。
レガシィツーリングワゴンwww
気づいてくれましたかwありがとうございます
@@TohokuRailwayMovies何か思い出のあるクルマですか?
9:10頃からの改札前に5・6番線がある駅の写真は、どこの駅かご存じの方がいましたら教えてください。
高松発高知行きは50系つかってましたロングシート案が人気でしたよ
そのスジ、昭和末期では急行形気動車を使った中村行きでした。編成内に1両だけリクライニングシートの車両が入っててこれが大人気でした。
その昔、九州から東京へ向かう夜行普通列車があったのではと思います。わたしは中学生時代に、これに乗って九州から京都へ修学旅行に行った記憶が有ります。寝るときは床に新聞紙を敷いて雑魚寝でしたが楽しい思い出でした。現在では考えられない運行ですが、こういう夜行列車もあるのだなぁと納得していましたっけ。今現在こんな修学旅行を強行したら生徒虐待を疑われかねませんね。それでも誰も文句を言わなかったのは良い時代だったとしか言い様がありません。遠い昔の懐かしい記憶を呼び起こされました。ありがとうございました~(^^)/
普通列車は下関発東京行き。宮崎発京都行きがあったが、、、
修学旅行向けの専用電車があったのと同時期の列車なのかな?宿泊費用を抑えるため列車内で寝かせる(通常のボックスシート)のが当たり前だった時代の名残りなんでしょうな……。高速道路の延伸開通で高速バスが当たり前になり(いわゆる『ツアーバス』の前)、さらに荷物列車・郵便列車の廃止もあって夜行列車は無くなっていきました。今では修学旅行に新幹線を使うのも定番(車両貸切がしやすい)だし、航空機で海外に出るのも一般化しちゃった現代では、いわゆる『夜汽車』は、はるかに昔のことになってしまいましたね。
昔の客車で座席を設計した人が、空いているときにも客が横になって寝られないようにしたことを自慢にしていたらしい。
特別料金を支払わないから当たり前という感覚でしたね。かつてのブルートレインや夜行列車を懐かしみ復活を望むけど、開放寝台や直角シート・床で寝るというのは敬遠される。仕方なく利用していた身としては、無責任な希望だなぁと思う。今やりたいか?と聞かれたら年齢的なこともあるけど、遠慮します笑
大垣行き 懐かしいな 。乗り継いだJR西日本の米原駅からは、発車のベルが鳴らないので、乗り遅れる人が多かった。 1万円で乗り放題だったJR東日本のEEキップ、またやってくれんかな
時代を感じます。今では考えられませんし注告ものです。我儘が通用したのですね。
東京~大垣の夜行列車が抜けてない?
座席をはずし、床に置き、ベッドがわりにしてたら、車掌さんに怒られて、もとに戻した覚えがあります。すきすきなのに大目に見てくれなかったのが残念でした。
最初から座席の無い客車で良かろう?30年前の快速「ムーンライト高知」にそういうのがあった。枕と毛布を借りる定員20名のグリーン指定席扱い絨毯だけの軽い客車なら、テーブルと座布団を追加して昼行にも応用できそうな気がする。
椅子を持ち上げて缶を挟んで「C寝台w」は知ってるけどD寝台は知らなかったwwてか165系、115系のボックスより115系にあるロングシ-トの方が寝やすいと思うけどなあ
現在はモラルの問題で現在はいませんね😊昔は我儘な輩が多い気がしました。
113系のボックスシートの座面は持ち上げれば動かせるので、空いていて独り占め可能時か、友達と座っているときなど、少し前にずらして靴を脱いで前の座席に足を投げ出すと、とても楽でした。
昔、ブルートレインに乗って上京したけど、「寝れない」んだよね・・・ 意外と、踏切のあのカンカンと言う音も耳に飛び込んで来るしレールの継ぎ目の振動と音。 設計と製造が昭和だから仕方無かったのだろうけど・・・だな。サンライズはハウスメーカーが入ってるから密閉性もあり静音性も高いだろうし、線路に対して進行方向に寝るから安定してんだよね。JRはなぜもっと早くここに気付かなかったのだろう? 所詮元国鉄だったからかな。
気がついていなかったのではなくて、平成初期にはほとんどの寝台列車が既存の車両を使わないと利益が出ない・赤字が許容できない状態になっていたので、新型客車(電車)を作れなかったという話なんじゃないかと思います。サンライズにしても当時は新型寝台のモデルケースになるといっていたのに、あとが続かなかった訳ですし。夜行列車復活の糸口としては、快適な新型寝台特急よりも、仙台乗り鉄さんが言っているように登山客なんかを運ぶ普通列車(比較的静かな昼行向け車両使用)のほうなのかもという気がします。
さらに床下に発電機用のディーゼルエンジンなんか積んでたスハネフ14/15なんてのもありまして。
583系寝台特急の、クハネやサハネは超静かでしたよ。
@@竹内克-l7r 自分の住む地方では583系は関西発着の寝台列車なので乗るタイミングが無かった。「なは」「彗星」だったかな。 真夜中の2~4時だったので近隣の駅でも乗降が無かった。
線路に対して平行方向に寝台を設置すると定員が減るからだよ。
昔、天王寺から串本か新宮だったか、普通がありましたね。夜遅くに天王寺を出発。夜中から早朝に紀伊半島。釣り列車とも呼ばれて夜釣り、早朝釣りをする方が利用してたそうで。
その名残が、大阪環状線に深夜に設定されている御坊行きです。
@ヘリリバース さんそうなんですね。ありがとうございました。
新宮行『はやたま』で、途中の印南だったか南部だったかで降りると、反対側、天王寺行の『はやたま』に乗れました。
1970年代後半は名古屋と紀勢本線回りの天王寺間で1往復の普通列車が走っていて全線を1回、部分も1回だったか利用したことがあります。名古屋から亀山間はDD51、亀山から新宮間はDF50、新宮から天王寺間はEF58。新宮から天王寺間にはB寝台(たしか10系)2両連結でした。名古屋発が15時位で天王寺が多分朝6時位だったような・・・。名古屋行きの新宮発は6時位だったかな。尾鷲、紀伊長島あたりからは、名古屋で鮮魚の行商をしてその日に帰る婆さま達が沢山乗ってきたような気がします。すいません、記憶が曖昧な昔話でした。
天王寺から紀勢線経由で名古屋迄。その後亀山までに短縮。922列車。
611は後の急行能登の前身ですね
若い頃、静岡に出張に行かされ深夜まで残業しそのまま翌日の業務のため夜行で帰京という(めちゃめちゃな)事が何度も…😢その際、上り大垣夜行をいつも利用しましたもちろん(途中の静岡からでは)座れる筈もなく、たまに横浜辺りで降りる方がいたらそこに座るという過酷な事を…ただひたすら若かったあの頃〜(-_-;)
青春18なんかとうじあったんか
D寝台は笑う。 しかし何故名古屋行きではなく大垣行きなのか未だにわからない
車輛運用の都合だよ。名古屋止まりで空車にしても大垣車庫まで回送になるので客扱いしていただけ。
3時10分に終着駅に付くような列車を夜行列車と呼んでいいものだろうか?
サムネのかぼちゃ電車も夜行列車だったのですか?
かぼちゃ色で2枚扉が設定されてましたよ。
大垣夜行の救済臨がまさにコレだった
735Mなの? 733Mなの?どっち?
それをいうならZ寝台(笑)最低最悪ランクならアルファベットの最後のZを用いるのがしっくり来るな…zzzはしづらいが(笑)
長岡夜行、乗った事はないけど、尾久に住んでいたので停車している所は見ました。
その昔、大垣夜行の床で寝てました。懐かしく楽しい思い出です。
長岡夜行で谷川岳登山、何回か行きました。熊谷あたりまでは通勤客も多数乗車していたので、115系の吊り革に捕まって乗車という恐ろしい夜行列車でした。ろくに眠れるはずもないのですが、土合駅の登り階段では山行の期待に胸が膨らみ、周囲の登山者をライバルのように睨みながら登山口を目指したものです。登山中も睡眠不足でフラフラ。帰路は水上の駅前で鍋焼きうどんを食べるのが通とされてました。
大垣行きなど皆わかってて それが「イベント」だった
何も知らず名古屋から大垣夜行乗ったら座れず
次からは大垣まで戻って乗ってました
懐かしいですね〜
中央東線長野夜行、のち上諏訪夜行もスカ色115系でしたね
新宿を23時55分発の通称「山男列車」として有名でしたね!
新宿出発時は中央線の最終列車、長野県内は早朝の始発として利便性も良かったようです。
【乗客を床で寝かせる夜行列車】というのは、誤解を招きますね。あくまでも、普通列車が深夜に運転しているのであって、決して寝台列車ではありませんでした。床に寝たり、座席を外す(本来はやってはいけないこと)などは乗客が、知恵を絞って睡眠をとる方法を考えた結果ですしね。
よくある手法じゃん
動画を見れば分かるんだからそこまで言わなくても
@@hamatetsu_Phone 網棚の上で寝ていた猛者もいたよ。
昔、多客期には、夜行急行の指定席車両でも、床に新聞紙を敷いて寝ている人を見たことがあります。
寝台車とか会社の出張とか特別な旅行でしか乗れ無かったんだろうね庶民は
@@guyatoneo
そんなことはありません。
繁忙期に座席車で床に寝ていた人達には、貧乏学生もいましたが、昭和30年代ならいざ知らず、大抵の場合は寝台券が取れなかった人達です。繁忙期は特急・急行問わず長距離列車の寝台は大人気で中々予約が取れ須ず、特に東京・九州間のブルトレなんかは、販売開始で即瞬サツ状態で、プラチナチケット化していたのが実態です。
ムーンライト以前の昔の大垣夜行もそう。席に座れない場合には、
床に新聞紙引いて寝そべる人が一杯いましたよ。懐かしい。
大垣夜行 座れれば良い方で、混雑が酷いと座る余地がなく
立って寝たことも有りました
90年代初め、夜行アルプスに乗車した時、座席に座れず、座席にもたれながら立ったままでした。
そんな状況では、却って座席が邪魔!?
@@ib4950 サハ204を復活させて走らせてみたい。(←どーやって自走するんだ)
@@blueberrymascarpone2786 自走しなくても、電車か機関車で曳けばいい
@@ib4950 リアル家畜車で草
登山に行くとき、座席のとれない夜行列車(115系)の車内で新聞を敷いて、リュックを枕に寝ていたことはあります。確かに網棚で寝ている人もいました。やっぱり夜行列車は山小屋の雰囲気にも近い旧型客車に限るなんて思いました。
変わったところだと、中央線の昼行急行「アルプス」で、一時ビュッフェ車(サハシ165)を連結していたことがあり、その後閉鎖されたので、これが連結されたまま走っていて、そのビュッフェカウンターの上で寝ている人もいました。
また、登山は確かに疲れるので、飯田線等の旧型電車などでは、夜、ロングシート車の座席などにリュックを枕にたくさんの登山客が横たわり、いびきをかいて寝ていた光景にも出くわしたことがあります。乗客が勝手につくった寝台車でした。
昭和の頃は、そこら辺がルーズで、自由な空気がありました。
新津発青森行に乗る為に長岡夜行乗りました。宮内で乗換が必要でしたが833レに乗るには便利のいい列車でした。私が高校生の時です。
長岡夜行下りが『籠ハラ』になっていたのは知りませんでした。
郵便車含め 12両フルで走っていた頃は、高崎で 50分ほど停車し、後続の急行『佐渡』寝台急行『天の川』と貨物列車を先に行かせていました。
座席を確保出来ない人は、ホームに出て駅そば/うどんを食べていたな〜。
長岡夜行、米原行に乗れるだけでなく、小出から只見線,越後川口から飯山線に乗って全線走破して、郡山や長野から帰って来れました。
あと、四国の土讃線の夜行の普通列車、急行型車輌を使い、グリーン車開放だったので、フットレストもあり、快適な一夜でした。
私が学生のころは夜行普通なんて当たり前にありました。大垣夜行は165系の急行型なので良かったですが、上野発長岡行き夜行普通は115系だったのでセミクロスでした。高崎からはガラガラになるので私はロングシートに横になって寝てました。ちょっと狭い寝台車でした。それ以外にも上野から奥羽本線経由青森行きに乗ったことがあります。変わり種は門司港から長崎まで普通なかさき号のB寝台に乗ったことがあります。寝台車なので乗客専務車掌が乗っていました。最近は夜行もなくなり淋しくなりました。今は東海汽船の特2等寝台で懐かしい夜行旅をしてます。
懐かしい、中学生の時、寒川支線、清水港線と乗り東京に戻り、上野から、これに乗って長沢支線、赤谷線、小千谷線と乗って、18切符で充実した2日間を過ごせました
この列車に昔乗ったけど、向かいに座ってた50代くらいの男が、寝てるのかと思いきや、連れの人が声をかけても起きず、車掌とよく見たら死んでた
上野駅で警察官が多数乗り込んできて、鑑識をするためなのかそのまま回送されていった
なぜか俺と隣に座ってた知らない人も、駅の事務室で事情聴取された
連れは死ぬほど疲れている、起こさないでいくれ
@
ダイ・ハードのセリフね
夜行鈍行電車として他にも有名なのが、新宿発長野行きの441Mですね。
横須賀色の115系がいわゆる「山屋」さん達をD寝台(笑)で運んでいました。
当時は夜行急行のアルプスもあったのに、ものすごい需要ですよね。
大菩薩峠を目指す人が、塩山でごそっと降りるので、そこからはボックスシート独り占め。
翌朝、塩尻当たりたら、高校生が次から次へと乗り込ん出来て、南松本で降りていく…。
新宿駅0:01発の系譜ですかね
一部の方からは「ゼロゼロワン」と呼ばれていました
土曜日の夜に上野を出発し、日曜の明け方に仙台に停まる急行「いわて2号」。座席は普通のクロスシート。東北学院大学で羽球部の対抗戦が行なわれる日には、貧乏学生の分際でよく利用させていただきました。学割で「仙台松島ミニ周遊券」を買って。1979年頃のこと。
急行八甲田。
混雑期でなければ座席でC寝台。
混雑期は床に新聞紙でD寝台。
懐かしいものです。
青森まで12時間、EF57からED71盛岡からSLなつかし
通勤型115系電車を利用した普通夜行列車といえば上野駅から長岡駅まで片道運行の733Mや
新宿駅と長野駅を往復結んでいた441M・442Mが懐かしいです。普通定期列車の夜行列車は
上記以外に からまつ、43レ・44レ、347M・344M、はやたま、山陰、731D・762D、ながさき が
ありましたが学生時代に全て乗りました。ただし青春18きっぷは学生時代にはまだ発売され
てなかったので安く行く事が出来なかった。18きっぷは僕が24歳だった1982年から発売。
733Mは宮内駅で522レ米原行き旧客鈍行に乗るのに丁度よかったけど小出駅で只見線始発の
会津若松行きやそのまま新発田駅まで乗り継いで赤谷線への足としても便利でした。
当初夜行普通列車は新聞·郵便輸送も担っていたからねぇ
親父から聞いた話だと、客車時代車内がガラガラだった時は座面クッション外して床に2個並べて寝てたとか😅
修学旅行の集約臨で、先生は慣れているのでボックスシートにちょうどハマる寝板を持ってきていた写真が某雑誌にあったなぁ。
乗ったことありました。
入線から20分間ありまた夜行で混むのは理解されてるので、通勤客は「一本前に乗れなかったから仕方なく長岡行きに乗るか」の人らが5分前に駆け込みで乗ってきたので、
最初からこの列車に乗る人は全員座ることはできました。
仮に座れなくても上尾から下車客で減り、高崎には空席もある状態でしたよ。
網棚で寝ている人昔いたなぁ😊
昔の列車は真の”網棚”でしたからね。
急行アルプス(165or169系だったかと)に乗った時にハンモックみたいに寝れるか?
と思って寝た事がありましたけど棚を支えている支柱間隔が微妙に邪魔で寝れたもんじゃなかったですwww
阪神電車の日常風景
いいなぁ夜行列車😭 乗り鉄からしたらこんなに平和な夜遊びはない…
ベッタベタですよ。翌日仕事に出たら臭いって言われます。あと長岡夜行でカメラ盗まれました。蒲田のカメラ屋から警察を経て故買の連絡がありました。内蓋裏に名前を書いておいてよかったです。盗難の多い列車だったみたいです。
平成の時代になっても臨時の「大垣夜行」が113系で運行されていた時期もあったからなぁ。
165系廃車された時期ですね
乗ったことあるけど地獄だった
4列シートの夜行バスが天国に思えるくらい
床に新聞紙敷いて寝てる奴がいるから、運よく座席に座れてもトイレに行けない
@@hiromuta1小田原で空くからそこまで立っていて、そっから2人用ロングシートで寝たことあるわ。
昭和の時代は、皆床に寝ている人を平然と跨いでトイレへ行きましたね。
当然自分は床に寝ていた側でした。
21世紀に入ったばかりの頃ですね。373系MLながら>165/167系臨時大垣夜行>>>113系臨時列車だと思っておりました。
最近ではほぼ同型の115系でさえ、ツアー専用の夜行急行鷲羽に使用されて料金がウン万円という驚きの価格ですね。国鉄型の貴重さもあるが、時代の変化を感じます。
40年前、横浜行くのに仕事早退させて貰えず最終の新幹線を逃し、何とか大垣夜行乗ったら、通勤列車顔負けの超満員。鮨詰めの車内で六時間立ったままトイレにも行けず小田原で倒れて救急搬送された。
大垣夜行で直角イスに耐えきれず
友だちと一緒に床に寝ました
大学生のときのことだけど今となっては良い思い出です
着席者の許可をもらって肘掛(167系ボックス席)に座っとるツワモノも居たな。
座席の上で、履物と荷物を抱いてうずくまる!
四等寝台、C寝台、懐かしいですな。
網棚で横になるとか、通路挟んで網棚間にハンモックを吊るとか諸先輩方はいろいろ工夫されたようです。
乗客を床で寝かせる夜行列車か(笑)
ムーンライト九州の「C寝台」とも称された、展望車のカオスっぷりが懐かしい。
また特殊塗装の臨時大垣夜行に乗ったこと有るけど、ギュウギュウの車内で座席を確保して優越感に浸った事も。
今回はムーンライトえちごの紹介だったが、2010年頃まではこの手の車両が有って、懐かしく動画を視聴させていただきました。
懐かしいですね。高崎まできっぷ買って以降18きっぷで日本海経由で北海道まで夏休みにみんなで行ってました。
こんな事当時は普通でしたね、床に新聞紙敷いたりして、乗るまでに上野駅に2時間前くらいまでにゆき並んで乗るとか今では考えられない光景ですが懐かしい思い出でもあります。
その通りですね。上野駅でもホ~ムに新聞を敷いて列車を待ったものです。確実に座るには3時間位前から待つ必要が有りました。若い時とはいえ結構苦痛でした。
函館→札幌41列車 札幌→函館46列車
いわゆる山線夜行
荷物がメインで旅客はオマケ
国鉄最後のダイヤ改正で荷物取り扱いをやめたと同時に消えた列車だったよなぁ…
下りの小樽~札幌間が全駅通過だった時期があったかと
あと末期にはカーペットカーを連結していた事もあったか
「全部D寝台」と言えば新宿発長野行きの夜行普通列車が有名で、じつは臨時急行の「アルプス」も「D寝台」で113系の電車を使用したことがありましたが。
115系でなくて113系だったのですね。
@@さゆり-f9n 中央西線はもちろん115系ですよ。「臨時急行、アルプス」などで検索して下さい。
一般人なら車内アコモで類推判断するし、趣味人でも勘違いするものです。こういうときは正面から問い直すべきです。臨時急行アルプスは113系風の電車なのです。
@@TheBikkuri
D寝台とか通みたいな事書いてる人だからさ、信じちゃうじゃんね。
私は115系だろと思っていても。
@@さゆり-f9n まあね。若い人は間違わないからそうかもしれないけど、年寄りは自分が良く間違うので疑心暗鬼だよ。そしてネットで確認しようとしても場合によっては難しい。JR西日本は踏切事故などはほぼ隠蔽していて検索にかからないようになっている。1978百舌鳥駅踏切事故は3人死んでいるけどヒットないな。私以外にも探している人が居て、wikiの「ノート:阪和線」で探している人が居る。こんど堺の図書館で調べてみる予定だったりする。
1979でした。
ゆかどころか、網棚に寝た猛者もいたようで…。
「長岡夜行」は何回か利用しました。下りは土合駅まで通勤電車なみの混雑でした。多数の登山客が下りた後ロングシートに寝ていました。上りはガラガラでシートを4つはずして床に並べて寝ることもできました。45年前のことです。
115系の“長岡夜行”は郵便・荷物輸送も兼ねた列車でしたが、同様にクモユ141がぶら下がった下り列車を19〜20時ころに大宮駅で見かけたことがよくありました。
高崎か新前橋行きだったと思われますが、真の終着駅はどこだったのかな…と謎は謎のまま40年が過ぎようとしていますw
前半に出てきた米原夜行611レは信越本線を通りますが、1963年9月30日未明にアプト式旧線最後の列車となりましたね。
元職員さんの回顧録では横川4時少し前の発車でしたから、上野発車からここまでもえらく時間が掛かっています。
D寝台は草
今現在では、バス運転手不足になっているため、高速バス減便や廃止になっております。
今、夜行列車が復活じゃないかと期待しております。
無理だろうね…JRはまったくやる気ないだろうし😁
@@kenken-c2w イベント列車でバカ高い料金出せば可能だよ。
@@Chu2007pae 鉄ヲタが求めているのは「ムーンライト」みたいな18キップで乗れるやつだろ?
どっちにしろ復活するどころか「サンライズ」の存続すら危ういぜ😆
@@kenken-c2w バカ高いイベント列車は九州で成功例があるので各JRが作り始めたけどね。
大垣夜行、品川発の臨時、八甲田自由席、
床で寝てる方、酒盛りしてる方、裂きイカの匂いとワンカップ大関で酒宴を開いてる方、、
色々いたなぁ・・
上野の常磐線ホームでは東京直通開始間際のわりと最近まで酒盛りしてましたよ。
始発の上野から乗り込むなり裂きイカの匂いが充満してるとか日常でした
@@se.v4809 常磐線は夜のくだりはイカとアルコール、朝の上りは行商のおばさんが定番でしたよね。
向かいのボックスがライブ帰りの女の子達で、寝るのを諦めたことがあったw
ちなみに翌日は奈良で学会の大会初日www
夜行普通といえば新宿発松本行きだなぁ
115系80年代でも走ってたし登山もブームだったから山登り客が多く荷物がデカいので
場所を食ってしまいD寝台は当たり前
3段寝台上段も(つまり網棚)使ってる奴もいた
乗車待ちの列が新宿駅のアルプス広場に指定されていて並んだ記憶が、、、
この列車はゴウマルサンダイヤ改正までは客車列車でヨンサントウの時点では客車暖房用に暖房車が用いられていて新宿から甲府までしかもたなかった。甲府から先はロクヨンが牽引していて電気暖房だったそうだ。またゴウマルサンダイヤ改正でこの列車が廃止される噂があり実際は115系電車化だった。
網棚はC寝台やで
旧型客車から485系快速[🌃ムーンライト]は驚異的な進歩.
所要時間があまりにも長いのは、規制緩和前のバスよりさらに短めの義務休憩なので・・・・
上野秋田位、昔も今も普通に通し乗務ですよ。。。。急行きたぐにでさえも向日町始業点検から、新潟新津入庫出庫で向日町まで通し乗務です 乗り継ぎ乗り継ぎ乗務員交代で時間短縮は超が付くほどの大都会にかぎられます
停車駅の駅員を起こしておく現状7、無人駅の深夜開放禁止、乗り継ぎ乗務員交代ではなくて終点まで往復乗務では、夜行列車は一生無理かと
残ってる列車は、営業時間外駅全部通過か乗務員休憩停車で客扱いはさせられませんから させれたとしても駅が開くまで缶詰ですが,
ロシアみたいに勝手に駅舎経由しないで乗降したら不法侵入で前歴か前科なりますので
みんな貧乏か成金の老極端だからな・・・・お金もちに特化して貧乏人切り捨ててたらコレイルとか他のアジアと同じ結果なるよ 優等しかない、それなのに保線悪くて持ち上がり脱線する、乗務員教育する費用無くてオーバーランする
交通機関が客を選び出したら、それは乗合事業じゃなくて、特定異業か貸切事業
18キッパーにとっては必需列車でもありました。
今の夜行バスの位置づけだったんだね。それに新聞を載せた荷物車や郵便車を繋げてたから合理性を保ててたんだろうけど、マイカー普及や系統分離が進んだ今となっては効率悪いし需要がないし時代に合わないね。
夜行列車がなくなって、夜行バスばかりになったことを、発展途上国化したと思っていた時期がありました…
運賃が安い、寝台設備は贅沢だ、との印象があり、それだけ貧しくなっているのだなと感じたので…
そういえば昔々、夜行大垣行は混雑リスクがあるので、中央線周りで行く方法があったような気がします…
新宿↔松本の夜行普通(途中飛ばす駅があるので、実質快速)と、長野(松本、塩尻経由)↔名古屋の夜行急行(千曲)だったか、うろ覚えなので確かではないですが… 急行千曲は客車を引っ張る形だったような、そうでないような…(周遊券を使うと、同じ料金で行けた?) あまりに昔で…
当時のちくまは長野-大阪だったので多分急行きそでしょう
復刻版1978年10月号だと441Mが新宿23:55-松本8:02で、きそ2号が松本8:14-名古屋11:29
自分は当時だと東京ミニ周遊券とグリーン券で大垣夜行使うか、臨時の銀河指定席使ってました
当時だとシーズンまっただ中の当日でも臨時銀河なら空いてましたからバッタンシートさえ我慢すれば大垣夜行よりは快適でした
「準夜行+夜行」ですね。本命の夜行の発車が遅いときに使う手です。
動画中のマイカー移行の説明で、初期型レガシー・ツーリングワゴン(それもターボ)のお写真を使われるとは・・・なかなかマニアですな(笑)
115系は近郊型なのである程度の距離(東京ー静岡、上野ー長岡)は想定内の使用法といえます。本当の通勤型4ドアロングシートなら問題だったでしょう
空いてさえいれば、窮屈な直角背もたれクロスシートよりも、足を延ばせるロングシートの方が楽ですよ。
@@竹内克-l7r オイルサーディンみたいな利用法が無いかと夢想します。
ぎゅうぎゅう詰め4人相席状態の165系のボックスシートよりも
113系のロングシートの方が快適かもですね!
全員着席状態で足が伸ばせるのは3×8+2×4だったかな。記憶が怪しい。
今日見、夜の移動は夜行高速バス💤 ベッドではなく シートだもん😫
せや 中国に寝台バスがアルよ😄 左右中1列ずつにベッドがアルらしい😀
学生時代によくこの長岡行きの夜行に乗りました
実際のところ、このような夜行の普通電車が残ったのは
人のために走らせるよりは全国紙の新聞輸送がメインでした
今では現地印刷や高速道路で新聞を運んでいますが
当時はこのような電車で東京の印刷所から新潟の各地に
運んでいました
締切時間が早いのでナイターが終わる前に刷った新聞だったので
途中経過まで載っていませんでした
そのためY新聞の販売店では速報版を差し込んで配達していました
私も大垣夜行利用していました。早くから東京駅ホームて場所取りやりましたし。
また、洗面所などで座ったり寝たりしたお客さんもいましたね。
約七時間の旅は疲れますが、寝なくても楽しい時間でしたね。
急行だけど上野発青森方面の、津軽とか八甲田は座席車の12時間コース。盆暮正月や学生が休みの時期は猛烈に混んでいた。
もちろん床で寝たことあります。
連結の上も一度あったが、揺れて死ぬかと思った。
733M長岡行は何回か利用しました。
新聞紙ひいて床に座って乗りました。
115系11両編成で4両切り離しで
7両が長岡までだったと思います。
懐かしい
12:15 カゴハラ
16:06 寝過ごすと大阪環状線の御坊行きよりも地獄
45年以上前の小学生の頃に初めて上り大垣夜行を清水から乗った時、こんな時間に誰も乗っていないだろうと親と話していたら床でごろ寝がゾロゾロいたのがカルチャーショックでした。
懐かしいですね、長岡夜行は良く乗りました。深夜帯の走行なのに減光せずに車内放送も継続。高崎と新前橋で長時間の停車。上野を1時間後に出る高崎行きの接続を取り更に新前橋でも停車。当時はコンビニなどもなくて深夜に駅周囲をうろついてたら警官に職質されました(笑)。宮内で米原行きに接続し廃止近い魚沼線に乗るにはピッタリでした。また車端のロングシートで唯一真横になれましたが、揺れや騒音で寝付けなかったです。
夜行普通列車って殆どが郵便や荷物列車を連結していて、旅客は寧ろおまけだったのではと思っている。国鉄末期に郵便、荷物輸送が廃止されたら積極的に残す理由は失われていたのでは。
平成初期にムーンライトえちご、大垣夜行を普通の日に乗ったことあるけど、乗車率2〜3割位と18切符非発売時期は芳しいとは言えなかった。
あーゆのくにですね。金沢までのがゆのくにで、富山までが立山でした。全部雷鳥に格上げされ、消えてしまいました。
日豊線でも同じ型の急行電車が走っていました。北陸線では、北陸トンネルの中で火災事故を起こした「きたぐに」
が米原経由で青森(のちに新潟)まで走っていました。
これは4等車だな。
北アルプス、八ヶ岳に登山するために新宿発の最終普通列車を利用してました
まともに座席にありつくことなどめったに無く、新聞紙強いて敷いて床に寝るのが当たり前
時々トイレ通いの女性が跨いで通ったりして目のやり場に困った(ウソ)ことも・・・
青春18のびのびきっぷ(最初に発売された、のびのびが名前に入った)で旅行しました。金沢から大垣へ、大垣から大垣夜行で初めて東京に行き、新橋の鉄ヲタビルや神保町の鉄ヲタ書店などを巡り、長岡夜行で長岡へ、長岡から金沢に普通列車で帰りました。長岡夜行はドア横の2人掛けシートに横になって寝た記憶があります。
90年代頃まで週末のみ、終電近くの新前橋行115系が越後湯沢まで延長運転されていました。
何度か乗りましたが、末期はオールロングシート車が来ることが多かったです。
今となっては床に寝そべる経験もできなくなりました。
今やるなら、1946Eの最終高崎行き(東京23:19発高崎1:14着)を延長運転だろうなァ?
後は単純計算で新津5:26・新潟5:43のみの停車かな?
逆は468M(新潟23:16発長岡0:31着)そこから大宮4:35でそこから各駅停車
【運転停車は除く】
俺ら底辺は大垣から東京への普通夜行でディズニーランドへ家族で行ったんやでぇ~。
帰りもディズニーの花火を見てから東京から大垣行きへの普通夜行で帰ったんや。しかも親は青春18切符で。
友達にも自慢したでぇ「2泊3日でディズニーランドに行ったんや」って。
藤原拓海がエンペラーへのリベンジ戦で東海道を移動したときもD寝台だったなぁ。
上野発の急行羽黒号は途中の長岡駅で電気機関車から蒸気機関車に取り換えていた。
学生時代を新潟で過ごしたので、この長岡夜行には乗りました
周遊券で行きは佐渡を利用して東京に行き、半日過ごした後、長岡夜行と長岡~新潟の普通を乗り継いで帰ってきました
末期だったので、楽々座れたように覚えています
長岡夜行やムーンライト越後にはお世話になりました。
長岡夜行には、沿線(特に新潟県内)の朝刊を運ぶという使命もありました。そのため下りのみの設定だったのかな?と考えていましたが、真実はどうなんでしょうか?
急行津軽が583だった頃は簡単に寝台に出来たものでしたね、
その通りでメインは新聞輸送。
普通列車の床に寝かせる夜行列車が日本にもあったんですね。
カネの無い学生時代の昭和末平成初に、夜行特急列車に乗ったことがあるが、乗車席が激安高速バスより多少まし、揺れが激安高速バスより多少マシな代物でした。
ただ、特急列車をそのまま夜行運行したものなので、今の激安高速バスにあるような、乗車席の間を仕切る布なんて贅沢なものはございません🤣
D寝台って「網棚を利用」という意味なのですね。
ラッシュ時間にはやりたくなりますが…
周囲の視線が気になりますね。
長岡夜行もムーンライトえちごも何回か乗ったな。でも関越道経由の夜行バスならグリーン車以上の3列独立シートな上に安い…そりゃ夜行普通列車が廃止されるよ。
165系の大垣夜行には乗ることが出来ましたが、その他の夜行普通列車は話に聞いた事がある程度で全く経験がありません。
子供の頃の自分には夜行の普通列車より特急や急行列車の方が輝いて見えていて、チャンスがあったとしても乗っていなかったと思います。
今走っていれば絶対に乗りますけどね😅
他にも、「ムーンライトながら」にて113系の使われたことありました。
いまや113系そのものが貴重なので、今考えれば貴重な存在と思います。
これが今だったらE231系での夜行列車ですか。
通勤電車ならぬプレハブ小屋列車ですね。グリーン車ならまだ雰囲気あるかもですが。
レガシィツーリングワゴンwww
気づいてくれましたかw
ありがとうございます
@@TohokuRailwayMovies
何か思い出のあるクルマですか?
9:10頃からの改札前に5・6番線がある駅の写真は、どこの駅かご存じの方がいましたら教えてください。
高松発高知行きは50系つかってました
ロングシート案が人気でしたよ
そのスジ、昭和末期では急行形気動車を使った中村行きでした。
編成内に1両だけリクライニングシートの車両が入っててこれが大人気でした。
その昔、九州から東京へ向かう夜行普通列車があったのではと思います。わたしは中学生時代に、これに乗って九州から京都へ修学旅行に行った記憶が有ります。
寝るときは床に新聞紙を敷いて雑魚寝でしたが楽しい思い出でした。
現在では考えられない運行ですが、こういう夜行列車もあるのだなぁと納得していましたっけ。
今現在こんな修学旅行を強行したら生徒虐待を疑われかねませんね。それでも誰も文句を言わなかったのは良い時代だったとしか言い様がありません。
遠い昔の懐かしい記憶を呼び起こされました。ありがとうございました~(^^)/
普通列車は下関発東京行き。宮崎発京都行きがあったが、、、
修学旅行向けの専用電車があったのと同時期の列車なのかな?
宿泊費用を抑えるため列車内で寝かせる(通常のボックスシート)のが当たり前だった時代の名残りなんでしょうな……。
高速道路の延伸開通で高速バスが当たり前になり(いわゆる『ツアーバス』の前)、さらに荷物列車・郵便列車の廃止もあって夜行列車は無くなっていきました。
今では修学旅行に新幹線を使うのも定番(車両貸切がしやすい)だし、航空機で海外に出るのも一般化しちゃった現代では、いわゆる『夜汽車』は、はるかに昔のことになってしまいましたね。
昔の客車で座席を設計した人が、空いているときにも客が横になって寝られないようにしたことを自慢にしていたらしい。
特別料金を支払わないから当たり前という感覚でしたね。
かつてのブルートレインや夜行列車を懐かしみ復活を望むけど、開放寝台や直角シート・床で寝るというのは敬遠される。仕方なく利用していた身としては、無責任な希望だなぁと思う。今やりたいか?と聞かれたら年齢的なこともあるけど、遠慮します笑
大垣行き 懐かしいな 。乗り継いだJR西日本の米原駅からは、発車のベルが鳴らないので、乗り遅れる人が多かった。 1万円で乗り放題だったJR東日本のEEキップ、またやってくれんかな
時代を感じます。今では考えられませんし注告ものです。我儘が通用したのですね。
東京~大垣の夜行列車が抜けてない?
座席をはずし、床に置き、ベッドがわりにしてたら、車掌さんに怒られて、もとに戻した覚えがあります。すきすきなのに大目に見てくれなかったのが残念でした。
最初から座席の無い客車で良かろう?
30年前の快速「ムーンライト高知」にそういうのがあった。枕と毛布を借りる定員20名のグリーン指定席扱い
絨毯だけの軽い客車なら、テーブルと座布団を追加して昼行にも応用できそうな気がする。
椅子を持ち上げて缶を挟んで「C寝台w」は知ってるけど
D寝台は知らなかったww
てか165系、115系のボックスより115系にあるロングシ-トの方が寝やすいと思うけどなあ
現在はモラルの問題で現在はいませんね😊昔は我儘な輩が多い気がしました。
113系のボックスシートの座面は持ち上げれば動かせるので、空いていて独り占め可能時か、友達と座っているときなど、少し前にずらして靴を脱いで前の座席に足を投げ出すと、とても楽でした。
昔、ブルートレインに乗って上京したけど、「寝れない」んだよね・・・ 意外と、踏切のあのカンカンと言う音も耳に飛び込んで来るし
レールの継ぎ目の振動と音。 設計と製造が昭和だから仕方無かったのだろうけど・・・だな。サンライズはハウスメーカーが入ってる
から密閉性もあり静音性も高いだろうし、線路に対して進行方向に寝るから安定してんだよね。JRはなぜもっと早くここに気付かなかった
のだろう? 所詮元国鉄だったからかな。
気がついていなかったのではなくて、平成初期にはほとんどの寝台列車が既存の車両を使わないと利益が出ない・赤字が許容できない状態になっていたので、新型客車(電車)を作れなかったという話なんじゃないかと思います。サンライズにしても当時は新型寝台のモデルケースになるといっていたのに、あとが続かなかった訳ですし。
夜行列車復活の糸口としては、快適な新型寝台特急よりも、仙台乗り鉄さんが言っているように登山客なんかを運ぶ普通列車(比較的静かな昼行向け車両使用)のほうなのかもという気がします。
さらに床下に発電機用のディーゼルエンジンなんか積んでたスハネフ14/15なんてのもありまして。
583系寝台特急の、クハネやサハネは超静かでしたよ。
@@竹内克-l7r 自分の住む地方では583系は関西発着の寝台列車なので乗るタイミングが無かった。「なは」「彗星」だったかな。 真夜中の2~4時だったので近隣の駅でも乗降が無かった。
線路に対して平行方向に寝台を設置すると定員が減るからだよ。
昔、天王寺から串本か新宮だったか、普通がありましたね。
夜遅くに天王寺を出発。夜中から早朝に紀伊半島。
釣り列車とも呼ばれて夜釣り、早朝釣りをする方が利用してたそうで。
その名残が、大阪環状線に深夜に設定されている御坊行きです。
@ヘリリバース さん
そうなんですね。
ありがとうございました。
新宮行『はやたま』で、途中の印南だったか南部だったかで降りると、反対側、天王寺行の『はやたま』に乗れました。
1970年代後半は名古屋と紀勢本線回りの天王寺間で1往復の普通列車が走っていて全線を1回、部分も1回だったか利用したことがあります。名古屋から亀山間はDD51、亀山から新宮間はDF50、新宮から天王寺間はEF58。新宮から天王寺間にはB寝台(たしか10系)2両連結でした。名古屋発が15時位で天王寺が多分朝6時位だったような・・・。名古屋行きの新宮発は6時位だったかな。尾鷲、紀伊長島あたりからは、名古屋で鮮魚の行商をしてその日に帰る婆さま達が沢山乗ってきたような気がします。
すいません、記憶が曖昧な昔話でした。
天王寺から紀勢線経由で名古屋迄。その後亀山までに短縮。922列車。
611は後の急行能登の前身ですね
若い頃、静岡に出張に行かされ深夜まで残業しそのまま翌日の業務のため夜行で帰京という(めちゃめちゃな)事が何度も…😢
その際、上り大垣夜行をいつも利用しました
もちろん(途中の静岡からでは)座れる筈もなく、たまに横浜辺りで降りる方がいたらそこに座るという過酷な事を…
ただひたすら若かったあの頃〜(-_-;)
青春18なんかとうじあったんか
D寝台は笑う。 しかし何故名古屋行きではなく大垣行きなのか未だにわからない
車輛運用の都合だよ。名古屋止まりで空車にしても大垣車庫まで回送になるので客扱いしていただけ。
3時10分に終着駅に付くような列車を夜行列車と呼んでいいものだろうか?
サムネのかぼちゃ電車も夜行列車だったのですか?
かぼちゃ色で2枚扉が設定されてましたよ。
大垣夜行の救済臨がまさにコレだった
735Mなの? 733Mなの?
どっち?
それをいうならZ寝台(笑)
最低最悪ランクならアルファベットの最後のZを用いるのがしっくり来るな…zzzはしづらいが(笑)
長岡夜行、乗った事はないけど、尾久に住んでいたので停車している所は見ました。