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視聴者の皆様、今回もご視聴くださりありがとうございます。最近、コメント欄での誹謗中傷・理解不能な発言が見受けられます。今後、これらのコメントには法的措置を含め厳粛に対応させていただきます。皆さんが気持ちよく利用できるよう、今後も努めて参ります。
津軽海峡冬景色は「八甲田」と昔聞いた事あります。当時はまだ「寝台」は庶民には高嶺の花。歌の歌詞に「北へ帰る人の群れは誰も無口で」は乗車定員が多いオール座席車で青森駅を一斉に降りた客が連絡船接続口に殺到しているシーンが思い浮かばれる。寝台で余裕のある帰省を阿久悠先生は描かないでしょうね。
面白いのはこの曲が出た頃はまさに寝台特急がウジャウジャ走る頃なのでそれより昔の事を歌った曲という事なんでしょうね
1977年・・・自分は小学生でしたがその当時の夜の上野駅の地平ホームは壮観そのものでしたブルトレ等の寝台列車を含め、ズラッと並んだ長大編成の列車群、行き交う沢山の人々や赤帽のターレー・・・残念ながら現代みたいに気軽に写真や映像に撮れなかった時代ですが、その光景は未だ目にしっかり焼き付いてます
夜の上野駅の出発列車表示板も、北に向かう優等列車が大量に表示されていて壮観でしたね。今、たまに上野辺りで飲んだ帰りに上野駅を利用すると、優等列車の表示は1本も無く、近郊へ向かう通勤電車ばかりの表示なので、何だか寂しい気分になります。自分は横浜なので、長距離列車の旅行は、横浜駅から乗車できる東海道線の寝台特急が多く、東北方面へ行くことは多くはなかったですが、それでも現在の、夜の上野駅の出発列車の電光掲示板を見ると、上野駅の凋落を見るようで悲しくなります。
カラオケで津軽海峡・冬景色選曲すると、ゆうづるやはくつるの懐かしい映像が流れます。
いかに上野・青森・北海道方面への輸送需要が高かったのかを物語っています。今でこそ飛行機で北海道へ渡る方が多いですが、当時は鉄道と連絡船の利用者が比べ物にならないほど多かった…現在は新幹線で新青森まで最速3時間強です。隔世の感があります。
上り急行のいわて4号と新星も途中駅で追いついたり追い越されたりをしていましたね。当時の東北本線は夜でも線路容量に余裕がなかったことがうかがい知れます。ゆうづるとあけぼのは廃止される前に乘っておきたかった。
函館出身です。昭和時代の高校の修学旅行では、片道または往復で『ゆうづる』利用が基本的なルートで、新幹線乗継で京都・奈良方面まで行きました。青函トンネル開通後も、『北斗星』利用の時期もありました。
上野から東北、奥羽、常磐線方面の夜行は殆ど乗ったんじゃないかなぁ。一番印象に残っているのは奥さんと新婚旅行で乗った北斗星1号、81-81が牽引してくれた。(撮りてぇ〜)
客車ゆうづるは70年代前半は十和田の不定期便を格上げすることで本数増やしてましたね。客車ゆうづるは速度面で電車に及びませんが、対北東北を主眼において北東北での停車駅を増やし到着時刻を調整していたのではと推察します。
今の青森駅の驚くほど長いホームが、当時いかに多くの人が列車に乗ったり降りたりしていたかを忍ばせます。
東北出身の人としては産まれる前の時代の列車としては特に憧れているゆうづる号。色んな動画を漁っていましたが迷エピソードも含めこれが一番よくまとまっていると思います。
初めて乗った夜行列車が末期の583系ゆうづるでした。他の方もご指摘されていますが、上り列車の客車、電車が逆になっていますね。当初から俊足の583系は北海道連絡、客車は北東北連絡と位置付けられていたのでしょう。ちなみに583系ゆうづると上野同時発車の客レはくつる51号が運転されていた時代もありました。距離の短い東北本線経由とはいえさすがに電車に勝てるはずがなく、青森の時点では2時間近くの遅れを取っていました。また583系同士でも30分ぐらい後発のはくつるにゆうづるが追い抜かれる時代もありました。それと設定当初の北斗星2号は、583系はくつる4号のダイヤをほぼ引き継いだもの。しかもはくつる4号より所要時間が若干短い。客レも本気を出せば電車に近い評定速度を叩き出せた、ということでしょうか。太宰治の『津軽』にも上野初の夜行列車に乗る記述がありますが、あれも当時の時刻表を見ると常磐線経由だったことがわかります。『津軽』だけど「津軽」じゃなくて「十和田」だったわけですね。当時はまだそんな名称はなかったけど。
牽引機がED75からEF81に変更され、パワーUPされたこともが大きいでしょうね。それと黒磯での機関車交換の必要もなくなり、上野ー青森間のロングラン運用が可能になったこともありますね。因みに九州ブルトレも、牽引機がEF66に変わったことで高速性能上がり、最も速達性の高かった国鉄末期からJR初期の頃は、東京ー下関間でEF65時代と比べて約1時間の短縮を達成し、大阪に停車する1レ、3レ、5レの大阪ー下関間はかつての昼行電車特急群と同じ7時間16分で走破していました。中でも停車駅数の少なかった頃の5レ特急みずほは最速で、東京ー大阪間で見れば、所要時間が6時間40分でした。
@ どうもありがとうございます。最末期の富士はやぶさに乗車しましたが、確かに東京から姫路あたりまでは結構飛ばしていましたね。走り出すと速いけど、停車に伴う加速と減速に時間がかかっている感じでした。
ギリギリでゆうづる3往復時代を知ってる。東北新幹線が出来た後だったけど、ゆうづるが3往復、曙も2往復(その中の1往復は秋田止まり)走ってた。あけぼのと同じルートで急行津軽も走ってた。
1980年~東北新幹線開業前は華やかでした。下りのゆうづる1・3・5号が583系。ゆうづる7・9・11・13号が客車ブルトレ。上りがゆうづる2・4・6・8号が客車ブルトレ。ゆうづる10・12・14号が583系でした。
電光化前、看板下がっていた上野駅もすごかった。あの華やかさは今では想像できない。上野駅の歴史を見てみたいです
当時の上野の繁栄ぶりはさぞすごかったでしょうね。北の玄関の地位は今は大宮に移ってしまいました。
上りのゆうづるは5号以降が583系電車です。またゆうづるの下り3号と上りの7号が583系にも関わらず座席車で運転されたのは、はくつるの人気が高く青森で同じ青函連絡船に接続するので。その代替手段とも、寝台をセットする時間がなかったとも言われています。もっとも上りゆうづる7号は、はくつるよりも青森を早く出発しており北海道からの完全連絡とはいきませんでした。例えば特急おおぞら2号からは接続していません。はくつるが一番人気なのは函館駅で札幌は勿論釧路・網走・稚内まで全て一本の列車に連絡していたからです。具体的には釧路だと特急おおぞら3号網走は特急おおとり・稚内だと急行宗谷です。
北海道出身の私は1980年頃 東京の大学に学んでおりました。 当時ゆうづる はくつる 急行十和田のB寝台 は利用させて頂きました。😅
話は逸れるが、昔、「博多~東京」往復割引切符を利用していた。特急・新幹線・寝台車・・乗り放題で、グリーン車も乗り放題のタイプもあった。往復で1万円くらい安かった。この切符を使って、20時頃に博多発の新幹線に乗り、17時博多発の寝台車を追いかけて、22時頃に岡山で追いついて乗り込んでいたのを思い出した。
私は青森市出身なのではつかり、みちのく、ゆうづる、はくつる、あけぼの、十和田、八甲田、津軽、ついでに北斗星、エルム、以上すべて利用経験があります😁
特急ゆうづる51号。12系ボックス座席。特急料金100円引きのなんちゃってブルートレインが一番懐かしい。
特急日本海51号にも12系座席車が使用されていましたが、やがて14系座席車に変わっていった。
ゆうづるには47年年始に14系寝台車が使用されている。これはそれまで急行瀬戸下り2号上り1号に使用されていたものをひとまとめにして10両編成で運用されたもので、下りは年末にはくつる51号として運転されています。なおこの14系に限って蒸気暖房が引き通されていて旧型客車に機関車からの蒸気供給されていますが、14系自体は自車スハネフ14型のディーゼル発電機です。なお蒸気暖房は後日北海道用の500番台までありません。
@@もりわききくお なかなか苦心の変態編成だったのですね。見てみたかった。
今日見、🎵東京発の夜行高速バスを降りたらコケた。青森の地面はアイスバーンだ🎵
もうアイスバーンの季節ですか…お気をつけて
はくつる ゆうづる共に乗車機会がありませんでしたが、東北地方を夜間に走る醍醐味は、北斗星ロイヤルA個室で楽しめました
夜には一人用のワイン、朝には朝刊とモーニングコーヒーのサービス。ちょっとした優越感を味わえましたね。北海道で散財してロイヤルに乗車しているのに夕朝食抜きになってしまいましたが(八甲田に切り替えてお弁当買おうか迷ったw)
ゆうづるなどを利用して北海道に行ったことないですが、いつぞやゆうづるが仙台の車庫に誤って侵入→脱線事故起こしたのは覚えてる。
17:30 の所。登りの4号までが客車で、5~7号までが583系では?でなければ、下りと編成のつり合いが取れないし、583系をそんなに遅く走らせるはずがないと思うのですが。
失礼しました。
その推測だと連絡船が竜飛岬付近を通過するのが冬だと真っ暗だから、もう少し後の「ゆうづる」だと思う。
真っ暗で見えない、とは言い切れないと思います。青函連絡船は青森を出発してから40キロ地点まで行かないと竜飛岬は見えません。この地点まで行くと3航路では7時台に突入していますので、本動画上のダイヤでも1月下旬以降は見える可能性があります。暴風雪だと日中すら見えるかわかりませんが...
@TohokuRailwayMovies 1982年の年末だったかと思いますが、札幌の祖父の法事でこの便に乗ったことがあります。その時は真っ暗で景色が見えず、母と何も見えないと会話していた記憶があります。
字数が足りないから竜飛岬って歌詞だけど、津軽·下北共に ○○崎、北海道は○○岬ってのが多い。
初代はつかりが戦前の急行より遅かったのと、電車のゆうづるがやけに遅い便があったというお話が新鮮でした。コメに客車の臨時はくつるが電車のゆうづるにかなうはずもなく…とか、所要時間の考察もいろいろありますが、北斗星は上野と青森を九時間すこしで結んでたんですね〜これは、九時間すこしは、昼行の電車はつかりより数十分よけいなだけですし、25系と20系がそこまで高速走行性能に違いがあるとは聞いてないので、どう考えたらいいのだろう、と思ってます。
まさにゆうづる黄金期に常磐線沿線に住んでいました。583系のゆうづると(加速に優れる)常磐緩行線の営団(メトロ)6000系が競争していたのも懐かしい思い出ですね。
上野発ならぬ上野着の夜行列車だったのだが、583系「はくつる」のB寝台中段が余りにも窮屈で全然寝付けなかったことを今も思い出す。
同じ区間を走る急行より特急の方が遅いのは,立山と北陸も同じ関係にありました。ただ,座席車だけの電車急行より牽引機の必要な寝台特急の方が快適であるため,納得の上で遅い特急に乗りました。
北海道56水害で散々な目にあったローカル線乗り潰しサイクリング旅行の帰り、12系八甲田の洗面所の窓を開けたら鉄粉が目に入り、大阪まで泣く泣く帰りました。冷房進んで誰も窓を開けない時代に入っていたのね。この間のコロナで久しぶりに窓を開ける光景に出会いました。
32歳です!上野からは北斗星、カシオペア、あけぼのと座席車ですが能登の4列車しか乗った事がありません、、恥ずかしくなってきた
最近は、上りが奇数号、下りが偶数号になっていたと思います。ただ、この動画の時期は、すべて同じ列車号数だったので、走っていた号数がそのままの数になります。ゆうづるは、最盛期は上下7本くらい走っていたでしょうか。
9:50テロップは「C62」ですが「ろくじゅういち」って言ってますよ
失礼いたしました。ご指摘ありがとうございます。
ブルートレインの最後尾車両って色んな種類ありましたよね実際乗ったことあるのは多分1つか2つだけ出来た直後の北斗星と、2006年に西日本あたりから上野?まで走ってたやつ愛媛から翌日朝千葉に行かなきゃいけなくなって、いしづち?で本州まで移動したあと乗りました飛行機で帰るよりも遅くまで愛媛に居られたんです
上野駅で眺めた🌃寝台特急(🍴連結)は多いに旅情を感じたが新幹線開業以降は人間を運ぶ荷物列車然になった.
今の新幹線は、典型的な輸送力列車って感じの編成ですよね。100系の時代は、新幹線でも移動すること自体を楽しめたのに。
「上野初の夜行列車」と言えば寝台特急の「ゆうずる」が常磐線・東北線が大半で急行夜行列車の「十和田」が補完列車として運用し、東北線では寝台電車特急の「はくつる」と夜行急行の「八甲田」そして東北線・奥羽線の寝台特急の「あけぼの」と夜行急行の「津軽」とそれぞれ本数が多かった夜行列車でしたが。
今では夜間は高速バスですね。ちなみに♫津軽海峡・冬景色のモデルは急行列車のはずです。
すみません、津軽海峡冬景色のモデルが急行列車であるソースを教えてください。
@@TohokuRailwayMovies外部リンク(証拠)が貼れないとこういう事書く輩が増えるから外部リンクを解禁してほしいですよね。
(引用はじめ)情緒的な観点からのみでいえば、・昭和50年前後では、すでに上野から青森に直通する普通列車はないから、特急か、急行であろう・とはいえ車内設備が整った寝台特急ではなかろう=「ゆうづる」「はくつる」ではない・男と別れ、北へ帰る女性が、20系、24系の寝台や583系の寝台、グリーン車から降り立つ姿は颯爽としすぎて、想像しがたいし、特急は連絡船との接続が良すぎて(降車から乗船まで20分)、無口ではあろうが息せききった小走りになってしまう。、当然海鳴りを聞いている余裕はない。・臨時、季節列車は繁忙期の運転だから、駅や連絡船は混雑している時期で、歌詞からもそういうシチュエーションは想起しにくいよって、急行「八甲田」、「十和田」のいずれかであろう。 候補 八甲田 6:15着 十和田2号 9:07着では、そのどちらか?・八甲田説・・・夜行列車を降りた時・・・イメージとしては、遅い冬の夜とはいえ、少し は明るくなっている早朝~朝の時間帯の到着であるはず。十和田2号では少々遅い。・十和田2号説・・・八甲田と連絡船5便の接続が、1時間15分もあって、「北へ帰る」に は流れが良くない。十和田2号と7便は43分接続でしっくりしている。(引用終わり)…という論拠で急行八甲田説を唱える「個人ブログ」はありますね。
完全廃止3日前の北斗星に乗った。最終日は、切符取れなかった😢
夜行列車が盛況だった頃は、各地の車両基地において運行後の車内の清掃、583系の車内転換、リネン類のクリーニング等を請け負う、今でいうところの「〇〇鉄道サービス」各社も現在の比ではないくらい多くの従業員を雇用していたものと思われます。
動画上で説明した「全車座席車のゆうづる号」は、寝台を解体する車掌補の人員不足が原因でした。その後、外部委託によって全車寝台が復活しています。
夜行列車と言えば、八甲田か津軽。ゆうづるは、寝台列車。しかし、ゴロが悪いから夜行列車となったのかな。
急行八甲田がモデルだと聞きました。あの歌の絶望しか感じない背景からすると、全てを捨てて傷心を抱いたまま、夜行急行(夜汽車)の自由席に飛び乗り、北国に帰るって感じがします。寝台特急ゆうづるだとイメージ的に安定感があり、恋人捨てられて夜汽車で一人寂しく旅立った悲壮感とか、絶望感とかは余り感じないですね。
下りなのに2号なんだ。下り列車は奇数だと思ってた、
下り奇数、上り偶数になったのは1978年以降です
西村京太郎のミステリーもありますねブルートレインより583系の方が早い
『終着駅殺人事件』
夜行列車あったあった=新幹線開業直前には異常に増発されてた
この時代に鉄道と連絡船使って北海道行くと特に函館〜札幌間がクネクネ曲がっているのとそもそも今に比べて鉄道そのものが遅いからフェリーでダイレクトに行くのと時間変わらないんだよな
ゆうづる、はくつる、八甲田、十和田。色々あったよな。
津軽もありました。新潟廻りの鳥海、出羽も。
鳥海は新潟駅には寄りませんですし、出刃は当時は奥羽本線・陸羽西線経由の夜行気動車急行で寝台特急になったのはずっとのちのことです。
@@hiroshia5789 昭和50年代の津軽は、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車連結の豪華編成だった記憶がある。
本当に関東は便利ですね?新幹線のお陰で
私ははつかりは乗りましたが、今回紹介された夜行列車は乗った事ありません。今更何事いっても不可能です😢
黄金ダイヤは寝台特急はくつるでしょう。なにしろ釧路・網走・稚内まですべて一本の列車でその日のうちに行けますから!しかも青森も、函館も無駄なく乗り換えられて待ち時間も適量です。
ゆうづるは東海道山陽ブルトレから普通(昔なら3等→2等)座席車がなくなった後も連結していた。これは昼行の東北特急の輸送力が不足していたというのもあると思う。
ナハ20型とナハフ21型型で、後年十和田に連結されていたナハ21型とは違い回転クロスシートだった。座席が通路よりも一段高い位置にあったけどシートピッチは151系電車と変わらず910ミリで広くはなかった。しかしヨンゴウトウダイヤ改正でB寝台車に改造されて消えた。今は1両も保存されていない。
20系といえば新星が最高です。
東北本線には、南福島ー金谷川付近と越河峠(今の白石市の国見峠)など急勾配がありましたから、蒸気機関車では補機をつける必要が遭ったのでしょうね。常磐線経由が多かったのもうなづけます。今は土木技術や動力系をはじめ鉄道技術が発展して、山陽本線瀬野八を通る貨物を除いて補機はつけられていません。
大阪駅うめきた地下線経由の貨物列車に補機を連結しています。
@@tatsuohimunful ありがとうございます。やはりそうだったのですね。
鉄道ファンなのに国鉄に苦情って…
鉄道ファンも国民ですから、税金を支払っているならば意見を述べる権利はあると思いますよ(無論、誹謗中傷は論外ですけどね...)
D51·なめくじですね。
そんないい時代でも無かったよ😅
ネタ上の夜行列車が逆立ちしても、現在の東北新幹線が運ぶ旅客人口に適いませんよね。速達性は別にしても。東北新幹線は、ギリギリのタイミングで、旅客機から客足を奪い返したんですよ。
若い女性が都会から逃げるようにふるさとへ帰るのにはグランクラスを使うんだよ 今は
新宿バスタから高速バスだろw
@@あっきぃ88 確かに。高速バス利用だと、「津軽海峡冬景色」ではなくてフラワーカンパニーの「深夜高速」あたりがしっくりくる。
夜行列車というのは、寝台車の存在しない急行客車列車もしくは普通客車列車を指します。
夜行列車の中で寝台車を連結するのが寝台列車と言いますので、まとめて「夜行列車」と表現するのは間違っていないと思いますが?
視聴者の皆様、今回もご視聴くださりありがとうございます。
最近、コメント欄での誹謗中傷・理解不能な発言が見受けられます。
今後、これらのコメントには法的措置を含め厳粛に対応させていただきます。
皆さんが気持ちよく利用できるよう、今後も努めて参ります。
津軽海峡冬景色は「八甲田」と昔聞いた事あります。
当時はまだ「寝台」は庶民には高嶺の花。
歌の歌詞に「北へ帰る人の群れは誰も無口で」は乗車定員が多いオール座席車で青森駅を一斉に降りた客が連絡船接続口に殺到しているシーンが思い浮かばれる。
寝台で余裕のある帰省を阿久悠先生は描かないでしょうね。
面白いのはこの曲が出た頃はまさに寝台特急がウジャウジャ走る頃なのでそれより昔の事を歌った曲という事なんでしょうね
1977年・・・自分は小学生でしたがその当時の夜の上野駅の地平ホームは壮観そのものでした
ブルトレ等の寝台列車を含め、ズラッと並んだ長大編成の列車群、行き交う沢山の人々や赤帽のターレー・・・
残念ながら現代みたいに気軽に写真や映像に撮れなかった時代ですが、その光景は未だ目にしっかり焼き付いてます
夜の上野駅の出発列車表示板も、北に向かう優等列車が大量に表示されていて壮観でしたね。今、たまに上野辺りで飲んだ帰りに上野駅を利用すると、優等列車の表示は1本も無く、近郊へ向かう通勤電車ばかりの表示なので、何だか寂しい気分になります。
自分は横浜なので、長距離列車の旅行は、横浜駅から乗車できる東海道線の寝台特急が多く、東北方面へ行くことは多くはなかったですが、それでも現在の、夜の上野駅の出発列車の電光掲示板を見ると、上野駅の凋落を見るようで悲しくなります。
カラオケで津軽海峡・冬景色選曲すると、ゆうづるやはくつるの懐かしい映像が流れます。
いかに上野・青森・北海道方面への輸送需要が高かったのかを物語っています。今でこそ飛行機で北海道へ渡る方が多いですが、当時は鉄道と連絡船の利用者が比べ物にならないほど多かった…
現在は新幹線で新青森まで最速3時間強です。隔世の感があります。
上り急行のいわて4号と新星も途中駅で追いついたり追い越されたりをしていましたね。当時の東北本線は夜でも線路容量に余裕がなかったことがうかがい知れます。
ゆうづるとあけぼのは廃止される前に乘っておきたかった。
函館出身です。昭和時代の高校の修学旅行では、片道または往復で『ゆうづる』利用が基本的なルートで、新幹線乗継で京都・奈良方面まで行きました。
青函トンネル開通後も、『北斗星』利用の時期もありました。
上野から東北、奥羽、常磐線方面の夜行は殆ど乗ったんじゃないかなぁ。一番印象に残っているのは奥さんと新婚旅行で乗った北斗星1号、81-81が牽引してくれた。(撮りてぇ〜)
客車ゆうづるは70年代前半は十和田の不定期便を格上げすることで本数増やしてましたね。客車ゆうづるは速度面で電車に及びませんが、対北東北を主眼において北東北での停車駅を増やし到着時刻を調整していたのではと推察します。
今の青森駅の驚くほど長いホームが、当時いかに多くの人が列車に乗ったり降りたりしていたかを忍ばせます。
東北出身の人としては産まれる前の時代の列車としては特に憧れているゆうづる号。
色んな動画を漁っていましたが迷エピソードも含めこれが一番よくまとまっていると思います。
初めて乗った夜行列車が末期の583系ゆうづるでした。他の方もご指摘されていますが、上り列車の客車、電車が逆になっていますね。当初から俊足の583系は北海道連絡、客車は北東北連絡と位置付けられていたのでしょう。ちなみに583系ゆうづると上野同時発車の客レはくつる51号が運転されていた時代もありました。距離の短い東北本線経由とはいえさすがに電車に勝てるはずがなく、青森の時点では2時間近くの遅れを取っていました。また583系同士でも30分ぐらい後発のはくつるにゆうづるが追い抜かれる時代もありました。それと設定当初の北斗星2号は、583系はくつる4号のダイヤをほぼ引き継いだもの。しかもはくつる4号より所要時間が若干短い。客レも本気を出せば電車に近い評定速度を叩き出せた、ということでしょうか。
太宰治の『津軽』にも上野初の夜行列車に乗る記述がありますが、あれも当時の時刻表を見ると常磐線経由だったことがわかります。『津軽』だけど「津軽」じゃなくて「十和田」だったわけですね。当時はまだそんな名称はなかったけど。
牽引機がED75からEF81に変更され、パワーUPされたこともが大きいでしょうね。それと黒磯での機関車交換の必要もなくなり、上野ー青森間のロングラン運用が可能になったこともありますね。因みに九州ブルトレも、牽引機がEF66に変わったことで高速性能上がり、最も速達性の高かった国鉄末期からJR初期の頃は、東京ー下関間でEF65時代と比べて約1時間の短縮を達成し、大阪に停車する1レ、3レ、5レの大阪ー下関間はかつての昼行電車特急群と同じ7時間16分で走破していました。中でも停車駅数の少なかった頃の5レ特急みずほは最速で、東京ー大阪間で見れば、所要時間が6時間40分でした。
@ どうもありがとうございます。最末期の富士はやぶさに乗車しましたが、確かに東京から姫路あたりまでは結構飛ばしていましたね。走り出すと速いけど、停車に伴う加速と減速に時間がかかっている感じでした。
ギリギリでゆうづる3往復時代を知ってる。東北新幹線が出来た後だったけど、ゆうづるが3往復、曙も2往復(その中の1往復は秋田止まり)走ってた。あけぼのと同じルートで急行津軽も走ってた。
1980年~東北新幹線開業前は華やかでした。下りのゆうづる1・3・5号が583系。ゆうづる7・9・11・13号が客車ブルトレ。上りがゆうづる2・4・6・8号が客車ブルトレ。ゆうづる10・12・14号が583系でした。
電光化前、看板下がっていた上野駅もすごかった。あの華やかさは今では想像できない。上野駅の歴史を見てみたいです
当時の上野の繁栄ぶりはさぞすごかったでしょうね。
北の玄関の地位は今は大宮に移ってしまいました。
上りのゆうづるは5号以降が583系電車です。またゆうづるの下り3号と上りの7号が583系にも関わらず座席車で運転されたのは、はくつるの人気が高く青森で同じ青函連絡船に接続するので。その代替手段とも、寝台をセットする時間がなかったとも言われています。もっとも上りゆうづる7号は、はくつるよりも青森を早く出発しており北海道からの完全連絡とはいきませんでした。例えば特急おおぞら2号からは接続していません。はくつるが一番人気なのは函館駅で札幌は勿論釧路・網走・稚内まで全て一本の列車に連絡していたからです。具体的には釧路だと特急おおぞら3号網走は特急おおとり・稚内だと急行宗谷です。
北海道出身の私は1980年頃 東京の大学に学んでおりました。 当時ゆうづる はくつる 急行十和田のB寝台 は利用させて頂きました。😅
話は逸れるが、昔、「博多~東京」往復割引切符を利用していた。特急・新幹線・寝台車・・乗り放題で、グリーン車も乗り放題のタイプもあった。往復で1万円くらい安かった。この切符を使って、20時頃に博多発の新幹線に乗り、17時博多発の寝台車を追いかけて、22時頃に岡山で追いついて乗り込んでいたのを思い出した。
私は青森市出身なのではつかり、みちのく、ゆうづる、はくつる、あけぼの、十和田、八甲田、津軽、ついでに北斗星、エルム、以上すべて利用経験があります😁
特急ゆうづる51号。12系ボックス座席。特急料金100円引きのなんちゃってブルートレインが一番懐かしい。
特急日本海51号にも12系座席車が使用されていましたが、やがて14系座席車に変わっていった。
ゆうづるには47年年始に14系寝台車が使用されている。これはそれまで急行瀬戸下り2号上り1号に使用されていたものをひとまとめにして10両編成で運用されたもので、下りは年末にはくつる51号として運転されています。なおこの14系に限って蒸気暖房が引き通されていて旧型客車に機関車からの蒸気供給されていますが、14系自体は自車スハネフ14型のディーゼル発電機です。なお蒸気暖房は後日北海道用の500番台までありません。
@@もりわききくお なかなか苦心の変態編成だったのですね。見てみたかった。
@@もりわききくお なかなか苦心の変態編成だったのですね。見てみたかった。
今日見、🎵東京発の夜行高速バスを降りたらコケた。青森の地面はアイスバーンだ🎵
もうアイスバーンの季節ですか…
お気をつけて
はくつる ゆうづる共に乗車機会がありませんでしたが、東北地方を夜間に走る醍醐味は、北斗星ロイヤルA個室で楽しめました
夜には一人用のワイン、朝には朝刊とモーニングコーヒーのサービス。ちょっとした優越感を味わえましたね。北海道で散財してロイヤルに乗車しているのに夕朝食抜きになってしまいましたが(八甲田に切り替えてお弁当買おうか迷ったw)
ゆうづるなどを利用して北海道に行ったことないですが、いつぞやゆうづるが仙台の車庫に誤って侵入→脱線事故起こしたのは覚えてる。
17:30 の所。登りの4号までが客車で、5~7号までが583系では?でなければ、下りと編成のつり合いが取れないし、583系をそんなに遅く走らせるはずがないと思うのですが。
失礼しました。
その推測だと連絡船が竜飛岬付近を通過するのが冬だと真っ暗だから、もう少し後の「ゆうづる」だと思う。
真っ暗で見えない、とは言い切れないと思います。
青函連絡船は青森を出発してから40キロ地点まで行かないと竜飛岬は見えません。
この地点まで行くと3航路では7時台に突入していますので、本動画上のダイヤでも1月下旬以降は見える可能性があります。
暴風雪だと日中すら見えるかわかりませんが...
@TohokuRailwayMovies 1982年の年末だったかと思いますが、札幌の祖父の法事でこの便に乗ったことがあります。
その時は真っ暗で景色が見えず、母と何も見えないと会話していた記憶があります。
字数が足りないから竜飛岬って歌詞だけど、津軽·下北共に ○○崎、北海道は○○岬ってのが多い。
初代はつかりが戦前の急行より遅かったのと、
電車のゆうづるがやけに遅い便があったというお話が新鮮でした。
コメに客車の臨時はくつるが電車のゆうづるにかなうはずもなく…とか、所要時間の考察もいろいろありますが、
北斗星は上野と青森を九時間すこしで結んでたんですね〜
これは、九時間すこしは、昼行の電車はつかりより数十分よけいなだけですし、25系と20系がそこまで高速走行性能に違いがあるとは聞いてないので、
どう考えたらいいのだろう、と思ってます。
まさにゆうづる黄金期に常磐線沿線に住んでいました。
583系のゆうづると(加速に優れる)常磐緩行線の営団(メトロ)6000系が競争していたのも懐かしい思い出ですね。
上野発ならぬ上野着の夜行列車だったのだが、583系「はくつる」のB寝台中段が余りにも窮屈で全然寝付けなかったことを今も思い出す。
同じ区間を走る急行より特急の方が遅いのは,立山と北陸も同じ関係にありました。
ただ,座席車だけの電車急行より牽引機の必要な寝台特急の方が快適であるため,
納得の上で遅い特急に乗りました。
北海道56水害で散々な目にあったローカル線乗り潰しサイクリング旅行の帰り、12系八甲田の洗面所の窓を開けたら鉄粉が目に入り、大阪まで泣く泣く帰りました。冷房進んで誰も窓を開けない時代に入っていたのね。この間のコロナで久しぶりに窓を開ける光景に出会いました。
32歳です!上野からは北斗星、カシオペア、あけぼのと座席車ですが能登の4列車しか乗った事がありません、、恥ずかしくなってきた
最近は、上りが奇数号、下りが偶数号になっていたと思います。ただ、この動画の時期は、すべて
同じ列車号数だったので、走っていた号数がそのままの数になります。ゆうづるは、最盛期は
上下7本くらい走っていたでしょうか。
9:50
テロップは「C62」ですが「ろくじゅういち」って言ってますよ
失礼いたしました。ご指摘ありがとうございます。
ブルートレインの最後尾車両って色んな種類ありましたよね
実際乗ったことあるのは多分1つか2つだけ
出来た直後の北斗星と、2006年に西日本あたりから上野?まで走ってたやつ
愛媛から翌日朝千葉に行かなきゃいけなくなって、いしづち?で本州まで移動したあと乗りました
飛行機で帰るよりも遅くまで愛媛に居られたんです
上野駅で眺めた🌃寝台特急(🍴連結)は多いに旅情を感じたが新幹線開業以降は人間を運ぶ荷物列車然になった.
今の新幹線は、典型的な輸送力列車って感じの編成ですよね。
100系の時代は、新幹線でも移動すること自体を楽しめたのに。
「上野初の夜行列車」と言えば寝台特急の「ゆうずる」が常磐線・東北線が大半で急行夜行列車の「十和田」が補完列車として運用し、
東北線では寝台電車特急の「はくつる」と夜行急行の「八甲田」そして東北線・奥羽線の寝台特急の「あけぼの」と夜行急行の「津軽」とそれぞれ本数が多かった夜行列車でしたが。
今では夜間は高速バスですね。ちなみに♫津軽海峡・冬景色のモデルは急行列車のはずです。
すみません、津軽海峡冬景色のモデルが急行列車であるソースを教えてください。
@@TohokuRailwayMovies
外部リンク(証拠)が貼れないとこういう事書く輩が増えるから外部リンクを解禁してほしいですよね。
(引用はじめ)情緒的な観点からのみでいえば、
・昭和50年前後では、すでに上野から青森に直通する普通列車はないから、特急か、急行であろう
・とはいえ車内設備が整った寝台特急ではなかろう=「ゆうづる」「はくつる」ではない
・男と別れ、北へ帰る女性が、20系、24系の寝台や583系の寝台、グリーン車から降り立つ姿は颯爽としすぎて、想像しがたいし、特急は連絡船との接続が良すぎて(降車から乗船まで20分)、無口ではあろうが息せききった小走りになってしまう。、当然海鳴りを聞いている余裕はない。
・臨時、季節列車は繁忙期の運転だから、駅や連絡船は混雑している時期で、歌詞からもそういうシチュエーションは想起しにくい
よって、急行「八甲田」、「十和田」のいずれかであろう。
候補 八甲田 6:15着
十和田2号 9:07着
では、そのどちらか?
・八甲田説・・・夜行列車を降りた時・・・イメージとしては、遅い冬の夜とはいえ、少し
は明るくなっている早朝~朝の時間帯の到着であるはず。十和田2号では少々遅い。
・十和田2号説・・・八甲田と連絡船5便の接続が、1時間15分もあって、「北へ帰る」に
は流れが良くない。十和田2号と7便は43分接続でしっくりしている。(引用終わり)
…という論拠で急行八甲田説を唱える「個人ブログ」はありますね。
完全廃止3日前の北斗星に乗った。最終日は、切符取れなかった😢
夜行列車が盛況だった頃は、各地の車両基地において運行後の車内の清掃、583系の車内転換、リネン類のクリーニング等を請け負う、今でいうところの「〇〇鉄道サービス」各社も現在の比ではないくらい多くの従業員を雇用していたものと思われます。
動画上で説明した「全車座席車のゆうづる号」は、寝台を解体する車掌補の人員不足が原因でした。その後、外部委託によって全車寝台が復活しています。
夜行列車と言えば、八甲田か津軽。
ゆうづるは、寝台列車。
しかし、ゴロが悪いから夜行列車となったのかな。
急行八甲田がモデルだと聞きました。
あの歌の絶望しか感じない背景からすると、全てを捨てて傷心を抱いたまま、夜行急行(夜汽車)の自由席に飛び乗り、北国に帰るって感じがします。寝台特急ゆうづるだとイメージ的に安定感があり、恋人捨てられて夜汽車で一人寂しく旅立った悲壮感とか、絶望感とかは余り感じないですね。
下りなのに2号なんだ。下り列車は奇数だと思ってた、
下り奇数、上り偶数になったのは1978年以降です
西村京太郎のミステリーもありますね
ブルートレインより583系の方が早い
『終着駅殺人事件』
夜行列車あったあった=新幹線開業直前には異常に増発されてた
この時代に鉄道と連絡船使って北海道行くと特に函館〜札幌間がクネクネ曲がっているのとそもそも今に比べて鉄道そのものが遅いからフェリーでダイレクトに行くのと時間変わらないんだよな
ゆうづる、はくつる、八甲田、十和田。色々あったよな。
津軽もありました。新潟廻りの鳥海、出羽も。
鳥海は新潟駅には寄りませんですし、出刃は当時は奥羽本線・陸羽西線経由の夜行気動車急行で寝台特急になったのはずっとのちのことです。
@@hiroshia5789 昭和50年代の津軽は、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車連結の豪華編成だった記憶がある。
本当に関東は便利ですね?新幹線のお陰で
私ははつかりは乗りましたが、今回紹介された夜行列車は乗った事ありません。今更何事いっても不可能です😢
黄金ダイヤは寝台特急はくつるでしょう。なにしろ釧路・網走・稚内まですべて一本の列車でその日のうちに行けますから!しかも青森も、函館も無駄なく乗り換えられて待ち時間も適量です。
ゆうづるは東海道山陽ブルトレから普通(昔なら3等→2等)座席車がなくなった後も連結していた。
これは昼行の東北特急の輸送力が不足していたというのもあると思う。
ナハ20型とナハフ21型型で、後年十和田に連結されていたナハ21型とは違い回転クロスシートだった。座席が通路よりも一段高い位置にあったけどシートピッチは151系電車と変わらず910ミリで広くはなかった。しかしヨンゴウトウダイヤ改正でB寝台車に改造されて消えた。今は1両も保存されていない。
20系といえば新星が最高です。
東北本線には、南福島ー金谷川付近と越河峠(今の白石市の国見峠)など急勾配がありましたから、蒸気機関車では補機をつける必要が遭ったのでしょうね。常磐線経由が多かったのもうなづけます。
今は土木技術や動力系をはじめ鉄道技術が発展して、山陽本線瀬野八を通る貨物を除いて補機はつけられていません。
大阪駅うめきた地下線経由の貨物列車に補機を連結しています。
@@tatsuohimunful ありがとうございます。やはりそうだったのですね。
鉄道ファンなのに国鉄に苦情って…
鉄道ファンも国民ですから、税金を支払っているならば意見を述べる権利はあると思いますよ
(無論、誹謗中傷は論外ですけどね...)
D51·なめくじですね。
そんないい時代でも無かったよ😅
ネタ上の夜行列車が逆立ちしても、現在の東北新幹線が運ぶ旅客人口に適いませんよね。
速達性は別にしても。
東北新幹線は、ギリギリのタイミングで、旅客機から客足を奪い返したんですよ。
若い女性が都会から逃げるようにふるさとへ帰るのにはグランクラスを使うんだよ 今は
新宿バスタから高速バスだろw
@@あっきぃ88 確かに。高速バス利用だと、「津軽海峡冬景色」ではなくてフラワーカンパニーの「深夜高速」あたりがしっくりくる。
夜行列車というのは、寝台車の存在しない急行客車列車もしくは普通客車列車を指します。
夜行列車の中で寝台車を連結するのが寝台列車と言いますので、まとめて「夜行列車」と表現するのは間違っていないと思いますが?