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旧客の頃に体験した印南折り返しが懐かしい。記憶の片隅に残る車内の様子や深夜の印南ホームのカーブと段差が映像で残っているのに感動です。草津線直通の50系が映るあたりからの車窓も懐かしい、守山・近江八幡・米原界隈の姿や彦根のがちゃこん車両の雰囲気が今と全く違いますもの。タイムマシンに乗った感覚になりました、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。拙動画が少しはお役に立てたようで何よりです。
1:52 この頃の雷鳥にボンネットクハが多かったのは基本編成が長いひたちと雷鳥の485系に定員数が少ないボンネットクハを集約するためだったんだよな。
6:22 4×3の12連は珍しいなと思ったけど、よく見たら4両はサハだった
懐かしい。ちょうど電車通学始めた年ですね。まだ非冷房の113系が朝晩には運用にいたり、原型の117系とか。まだ113系に灰皿がついていた記憶があります。貨物列車もワムのみのがまだいたし、寝台列車あかつきとは毎朝外側車線と競争してました。こっちは103系でしたね
紀勢本線はef58が無くなってから行かなくなりましたが、客れ夜行はやはりいいですね。当時見ていた景色が再度見れて感動です
コメントありがとうございます。拙動画がお役に立てたようで何よりです。
国鉄末期は昭和という時代の終わりも近づいており、何とも言えない空気感がありましたそしてバブル期でもありました
こんにちは!いつも楽しく見せていただいております。この頃は若さにまかせてハードな旅を楽しむ事が出来ましたね。😅今は残念ながらこのような芸当が出来なくなってしまいました。😢どの駅を見ても“国鉄”を感じさせる駅ばかりですね。😊次の動画を楽しみにしております。🤗
コメントありがとうございます。とりりサービスさんのコメント内にあった「キックターン」は、夜行列車有りきのことなので、国鉄時代だから簡単に出来たことなのかもしれませんね。
近江鉄道との接続駅では 貫通型の500系や モハ1形等のオリジナルボディを載せた電車に混じって 11:30 元小田急1600形のボディを再利用した『モハ200』の姿が。近江八幡では 2軸『トム』。彦根では 西武E61と顔がよく似た元国鉄の『ED14』も留め置かれ 貨物輸送がまだあった事を伺わせます。転車台も残る米原駅北陸線ホームで客待ちの交直流急行形電車は やはりワインレッドよりも オリジナルカラーですね。
当時、スチールカメラは、リバーサルフィルムを入れていました。現在のデジタルカメラのように、失敗したら消すなんてことは考えられませんでした。その点、ビデオカメラはテープに記録するので、現像のコストなど掛からず、乗継撮影などが行えた分けです。民生用ビデオカメラの開発で世に出たCCDやCMOSが、デジタルカメラの始祖になり、当時のメインストリームであったフィルムカメラは、風前の灯火になってしまいました。ところが、件の清水さんは、デジタルカメラよりもフィルムカメラを愛しているようで、アサヒペンタックス6x7(通称デカペン)をなんと3台保有し、未だにそちらで撮影されているようです。
@ZIPANG1067 さま6x7って 67の初期タイプ📷️でしょうか?何れにしても名機ですね。3台持ちとは凄い。未だ現役なのも凄い!
@@ZIPANG1067私奴も、一丁前にバケペン(ペンタ67)を持っていますが、ブローニーのフィルム価格を見て卒倒してしまいました!情けない!今日日、若い子達にフィルムカメラが大人気なんだとか。35㎜でも現像・同時プリントで相当高額になる。お金を自由に使える若者が羨ましい。富嶽撮影をライフワークとしていますが、バケペンでリバーサル撮影したいものです。
僕も現役と聞いてビックリしました。ブローニー版のフィルムを使用するカメラですね。何でもフィルムが数本あって、それが無くなったら撮影を止めるようなことでした。
@利-y8w さま僕も今となっては持っているだけですが、ゼンザブロニカS2を保有しています。ミラーショックが凄いのと、ウエストレベルの流し取りは映像が逆になるので難しかったですね。ブローニー版のフィルムと現像代を考えると、撮影は二の足を踏みますよね。
この頃、滋賀県に引っ越したんやけど京都まで通院した帰りに草津線直通の亀山行きレッドトレインに乗るのが楽しみやったな機関車次位のオハフ50の乗務員室の鍵が開いてる事が多かったからいつもそこにこっそり座って逢坂山を登るDML61の唸り声を聞くのが楽しみやった改めて考えたら守山、石山、膳所と滋賀県内もけっこう貨物扱いがJR化後も残ってたけどことごとく消えてしまった事に時の移ろいを感じてしまう米原機関区なんか跡形もないし、、、
紀勢線の夜行列車、遠い昔に[南紀]と云う愛称がついていた時代に乗りました。天王寺を22時40分?23時00分?もう覚えていませんが、そんな時間発の、太公望御用達の列車でしたね。当時は旧型でしたが、普通列車(結構通過駅があった)のくせに、寝台車も連結、愛称もあると云う変わった列車でした。奥義、夜行列車が宿がわり。あるあるでしたね~!昔は夜行がバンバン走っていたから出来たこと。まして冬は列車に乗っていないと凍え死ぬ!夜行列車は生命線でした!今年も、懐かしい動画をありがとうございました。来年もよろしくおねがいいたします。
コメントありがとうございます。皆さん、その当時は夜行列車を宿代わりにしていたのですね。こちらこそ、お付き合いをいただきありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。
当初は所謂『電気釜』タイプにしかなかった『絵入りトレインマーク』は 寧ろ『ボンネット』タイプの方が 迫力があって凛々しさを感じますね。末期の頃は 塗装もひび割れだらけで惨めだった485系や急行形のボディにも この頃はまだ艶がありました。夜行を宿代わりは 当時周遊券ユーザーが良く使った手で 下り夜行急行を降りて 上り急行に乗り換えて戻る『キックターン』を使う強者も多かった。
コメントありがとうございます。当時、青春18きっぷで「キックターン」を実践した訳ですね。その頃は、清水さんに青春18きっぷを利用して、色々な所へ連れて行って貰いました。映像を見ると、色々と良い思い出が蘇ります。
長時間だろうけどめちゃくちゃ楽しそうだよね〜
とても良い思い出になりました。
羨ましいよ、
旧客の頃に体験した印南折り返しが懐かしい。
記憶の片隅に残る車内の様子や深夜の印南ホームのカーブと段差が映像で残っているのに感動です。
草津線直通の50系が映るあたりからの車窓も懐かしい、守山・近江八幡・米原界隈の姿や彦根のがちゃこん車両の雰囲気が今と全く違いますもの。
タイムマシンに乗った感覚になりました、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
拙動画が少しはお役に立てたようで何よりです。
1:52 この頃の雷鳥にボンネットクハが多かったのは基本編成が長いひたちと雷鳥の485系に定員数が少ないボンネットクハを集約するためだったんだよな。
6:22 4×3の12連は珍しいなと思ったけど、よく見たら4両はサハだった
懐かしい。ちょうど電車通学始めた年ですね。まだ非冷房の113系が朝晩には運用にいたり、原型の117系とか。まだ113系に灰皿がついていた記憶があります。貨物列車もワムのみのがまだいたし、寝台列車あかつきとは毎朝外側車線と競争してました。こっちは103系でしたね
紀勢本線はef58が無くなってから行かなくなりましたが、客れ夜行はやはりいいですね。
当時見ていた景色が再度見れて感動です
コメントありがとうございます。
拙動画がお役に立てたようで何よりです。
国鉄末期は昭和という時代の終わりも近づいており、何とも言えない空気感がありました
そしてバブル期でもありました
こんにちは!
いつも楽しく見せていただいております。
この頃は若さにまかせてハードな旅を楽しむ事が出来ましたね。😅
今は残念ながらこのような芸当が出来なくなってしまいました。😢
どの駅を見ても“国鉄”を感じさせる駅ばかりですね。😊
次の動画を楽しみにしております。🤗
コメントありがとうございます。
とりりサービスさんのコメント内にあった「キックターン」は、夜行列車有りきのことなので、国鉄時代だから簡単に出来たことなのかもしれませんね。
近江鉄道との接続駅では 貫通型の500系や モハ1形等のオリジナルボディを載せた電車に混じって 11:30 元小田急1600形のボディを再利用した『モハ200』の姿が。
近江八幡では 2軸『トム』。彦根では 西武E61と顔がよく似た元国鉄の『ED14』も留め置かれ 貨物輸送がまだあった事を伺わせます。
転車台も残る米原駅北陸線ホームで客待ちの交直流急行形電車は やはりワインレッドよりも オリジナルカラーですね。
当時、スチールカメラは、リバーサルフィルムを入れていました。
現在のデジタルカメラのように、失敗したら消すなんてことは考えられませんでした。
その点、ビデオカメラはテープに記録するので、現像のコストなど掛からず、乗継撮影などが行えた分けです。
民生用ビデオカメラの開発で世に出たCCDやCMOSが、デジタルカメラの始祖になり、当時のメインストリームであったフィルムカメラは、風前の灯火になってしまいました。
ところが、件の清水さんは、デジタルカメラよりもフィルムカメラを愛しているようで、アサヒペンタックス6x7(通称デカペン)をなんと3台保有し、未だにそちらで撮影されているようです。
@ZIPANG1067 さま
6x7って 67の初期タイプ📷️でしょうか?何れにしても名機ですね。
3台持ちとは凄い。未だ現役なのも凄い!
@@ZIPANG1067
私奴も、一丁前にバケペン(ペンタ67)を持っていますが、ブローニーのフィルム価格を見て卒倒してしまいました!情けない!
今日日、若い子達にフィルムカメラが大人気なんだとか。35㎜でも現像・同時プリントで相当高額になる。お金を自由に使える若者が羨ましい。
富嶽撮影をライフワークとしていますが、バケペンでリバーサル撮影したいものです。
僕も現役と聞いてビックリしました。
ブローニー版のフィルムを使用するカメラですね。
何でもフィルムが数本あって、それが無くなったら撮影を止めるようなことでした。
@利-y8w さま
僕も今となっては持っているだけですが、ゼンザブロニカS2を保有しています。
ミラーショックが凄いのと、ウエストレベルの流し取りは映像が逆になるので難しかったですね。
ブローニー版のフィルムと現像代を考えると、撮影は二の足を踏みますよね。
この頃、滋賀県に引っ越したんやけど京都まで通院した帰りに草津線直通の亀山行きレッドトレインに乗るのが楽しみやったな
機関車次位のオハフ50の乗務員室の鍵が開いてる事が多かったからいつもそこにこっそり座って逢坂山を登るDML61の唸り声を聞くのが楽しみやった
改めて考えたら守山、石山、膳所と滋賀県内もけっこう貨物扱いがJR化後も残ってたけどことごとく消えてしまった事に時の移ろいを感じてしまう
米原機関区なんか跡形もないし、、、
紀勢線の夜行列車、遠い昔に[南紀]と云う愛称がついていた時代に乗りました。天王寺を22時40分?23時00分?もう覚えていませんが、そんな時間発の、太公望御用達の列車でしたね。当時は旧型でしたが、普通列車(結構通過駅があった)のくせに、寝台車も連結、愛称もあると云う変わった列車でした。
奥義、夜行列車が宿がわり。あるあるでしたね~!昔は夜行がバンバン走っていたから出来たこと。まして冬は列車に乗っていないと凍え死ぬ!夜行列車は生命線でした!
今年も、懐かしい動画をありがとうございました。来年もよろしくおねがいいたします。
コメントありがとうございます。
皆さん、その当時は夜行列車を宿代わりにしていたのですね。
こちらこそ、お付き合いをいただきありがとうございました。
来年もまたよろしくお願いいたします。
当初は所謂『電気釜』タイプにしかなかった『絵入りトレインマーク』は 寧ろ『ボンネット』タイプの方が 迫力があって凛々しさを感じますね。
末期の頃は 塗装もひび割れだらけで惨めだった485系や急行形のボディにも この頃はまだ艶がありました。
夜行を宿代わりは 当時周遊券ユーザーが良く使った手で 下り夜行急行を降りて 上り急行に乗り換えて戻る『キックターン』を使う強者も多かった。
コメントありがとうございます。
当時、青春18きっぷで「キックターン」を実践した訳ですね。
その頃は、清水さんに青春18きっぷを利用して、色々な所へ連れて行って貰いました。
映像を見ると、色々と良い思い出が蘇ります。
長時間だろうけどめちゃくちゃ楽しそうだよね〜
とても良い思い出になりました。
羨ましいよ、