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1984年の夏、日光に行く際に浅草駅で初めてDRCを見た時の威容は今もって忘れられません。しっかりしたリクライニングシート、サロンにはソファやジュークボックスまでありました。ビュッフェの方が注文を取りに来てくれたのも良き思い出です。DRCが30年持ったことも凄いですが、その後継のスペーシアも今年で34年。どちらも色褪せること無く長年名特急として稼働。スペーシアXも代々の特急車両が築いてきた伝統を受け継ぎつつ新たな東武特急として人々を運ぶことでしょう。
検札も アテンダントさんと車掌さんのペアでやっていましたね。サロンルームの椅子は 長居されないように 敢えて座り心地を固くしたそうです。(まぁそれでも長居しちゃうお客さんは居たそうですが。)因みに アルミで縁取られた窓枠は 東武がお得意先の『ナニワ工機(→アルナ工機→アルナ車両)』のデザインで 親会社の『阪急電車』に通ずるものがあります。
DRCが20年経過して古臭いと言われる一方、スペーシアは35年経ってもまだいけるという雰囲気。それだけ、経済成長が鈍くなったのだろう。
@@toriri-serviceさん東武の窓枠のRは9000系〜30000系まで引き継がれた感じですね……
内装が良いのに外観がダサくて台無し
お疲れ様です。DRCですね。歴史が語られておもしろかったです。DRCもいささか誇張された平衡速度165km/hは、より低く実際は平坦線釣り合い速度は155km/hとグラフで表記されてます。しかし加速力、100キロでも1km//sの加速力は大したものです。旧1700系は計算すると130キロは出る車両でそんなに悪くないです。
現在のスペーシアのJR線乗り入れや国鉄車が東武線を走行しているのを見て「あの競争は何だったのだろう」と思ってしまいます...
敵がお互いの速度と、自動車と高規格道路だったんでしょうね。電車好き自動車嫌いのわたくしには、今のほうが幸せ感が高く感じます。老人なのでIT予約・決済の充実も非常に助けになります。蒸気と在来特急はほとんど乗りそびれてしまったけど列車が好き。
一切東武路線を走らない「スペーシア那須野」なんてよくわからない臨時特急もあったな
@@doli747伊豆急行の「2100系(リゾート21)」を使用したJR完結の臨時列車がありましたね。
デラの車内には、ジュークボックスが設置され、音楽を楽しむことができました。 詰まり、列車の振動が無くレコードの針が飛ばないということです。
ワシが初めて乗ったのは平成元年。サロンは一般座席に…
ワシも引退間際の1990年に乗ったが、ジュークボックスは時代遅れのアイテムになってたのだろう。
今は、スペーシア✖️になり豪華な車内で人気となっている
日光のよかったところは、東武とJRが共に1067㎜軌間の直流電化であったため、相互乗り入れによる共存ができるようになったこと。伊勢志摩は近鉄とJRの規格が違い過ぎるので、日光のようにはいきませんね。
日光鬼怒川は今市市の住民のころは近所だったので、忘新年会・親睦会用で飽きてしまいました。伊勢志摩や南紀とかは遠いので憧れていましたが、ブームも去っていまは静かな保養療養地となってんでしょうか、今でも憧れてます。
在来線同士でこそフリーゲージを活用して近鉄線(標準軌)ーJR線(狭軌)間を跨いで周遊する観光旅行が成り立っていくと良いのですが
1991年に東武1720系が引退して、ロマンスカーの名称は小田急のみが使用する状態になりましたね
『DRC』引退を機に 小田急は『ロマンスカー』を商標登録しましたね。
今は小田急が「ロマンスカー」の商標登録をしているので、小田急に使用許諾を取らないと使えないですね。
以前は東武も名鉄も…旧5000系やパノラマカーなどは別名SR(スーパーロマンス)車と名付けていたし京急も古い広告では堂々「ロマンスカー」を名乗っていましたから…
これ、1974年頃に石立鉄男が主演のドラマ『みずもれコースケ』で浅草から東武日光まで乗車して女性を追いかける下りがあって、当時30分ドラマの殆どが車内利用の映像になってた事に、子供ながら驚いて見てたのを思い出した😮
女性というか 日光へスキーに行く妹のチャーミーですね。忘れ物を届けに行くか何かの理由で 浅草駅で『けごん』車内に入ったらドアが閉まって「あっ!次で降りなきゃ!」と慌てる孝介に対して「でもこの列車 下今市まで停まらないですよ。 」「全部指定席で満員だから サロンルームに行ったらどうですか?」という 妹の仲間の台詞もあり そのサロンルームの出るシーンもあって あれは完全に 東武鉄道とのタイアップでしたね。
@@toriri-service くっ、詳しい…
@@用宗東田子の浦-w8p さままた 褒めていただき恐縮です🙇💦
アレ、改札で制止されたんだ。そしたら、「敬礼!」と鶴の一声(?)で強行突破したんだ。確か、あのとき、浅草駅前で車を停めてたから「駐車違反」で…?
@@toriri-serviceさま。そう、当時は「ほぼ直結」でした。「けごん」の中にゃ、下今どころか「次は終点:東武日光です」なんて…今なら北千住、春日部で引き返せるが…
昔、運転席に入れてもらったことがあります。興奮したな。
東武1720系懐かしすぎ迫真の匠最高
男の子が好きそうなわかりやすい成金感とでもいうべき豪華な外見がいいよね。いい意味でアメ車っぽい
時代背景を鑑みるとDRCの登場以外にも国鉄側の事情として東北本線の線路需要(秋田や山形まで向かう多層建て列車も含まれる)が逼迫してコスパの悪い日光線のサービス競争にかまけていられなくなった(或いは日光線を捨ててもなおまかない切れないほどの程の需要が当時の東北本線宇都宮以北には有った?)って側面もあったかも。
もちろんそれもあるし、そもそも日光観光は 車>>>>>>>電車になってしまったので力を入れる意味がなくなったんです。
むしろ対北海道連絡需要でしょう
DRCの全車M車、平坦均衡速度165㎞も凄いが、この意志はスペーシアにも引き継がれ、平坦均衡速度210㎞という化け物性能である。ちなみにJR東日本に乗り入れの際、JRの運転士が習熟運転でスペーシアの性能に驚いたらしい。東武は特急車両には惜しみなく最新の技術を投入する傾向がある。その分、通勤車両は・・・・。
東武は昔から『格差社会』 1961年からの7300系の車体更新も 既に軽量車体の2000系が出ていたのにも拘わらず 在来工法の半鋼製車体で行われましたね。同じ『ロクサン』由来の 小田急1800形(東急車輌で 全金属車体に更新)よりも車体は新しいのに 木部の傷みが早く 引退したのはそちらよりも先でした。
昭和50年代末ですら特急券の取れなかった乗客は有料なのに夏でも冷房の無い快速急行か無料快速、臨時快速や林間学校用の団体列車には8000系すら使用。
通勤車両でも他所行き(地下鉄乗り入れ)第一世代(2000系、9000系、30000系)は、乗り入れ他社車両と並べても恥ずかしく無い様にコストをかけて作る。
日比谷線直通の2000系電車は、床下過熱で旅客を焼き◯すところでした。
@@toriri-serviceさん 昭和30年代半ばまで吊りかけ駆動車を新製していたのは東武と西武でしたが、西武の場合、客の目に見えるところは他の私鉄と見劣りしない様にしていましたね。ただ付随車の台車が大正時代のイコライザー台車と言うアンバランスさ。。。現在でも両社はVVVF化車両の割合が低いですね。旧大東急系(東急、小田急、京急、京王、相鉄)は100%ですが、西武が約70%、東武の場合は60%程度。さすがに西武は焦り始めて、かつての宿敵の東急と小田急から中古車を購入してまでVVVF車率を引き上げようと躍起になっていますが、東武はどこ吹く風状態。お約束の補修部品の入手が難しくなった段階であたふたと慌てるのでしょう。JRでも東京近郊区間の通勤形直流モーター営業車は、南武支線の予備車である205系2両のみとなりますからね。
この電車 1960年当時に 初めから冷房付きで登場。しかし 乗務員室には冷房がなかった。最終編成には 夏季は客室からの冷気を採り入れる送風機が付けられたが 外人さんの乗客でいっぱいの車内からは独特の臭いのする冷気が入って来て 運転士さんからの評判は良くなかったそう。昭和の終わり頃に 乗務員室専用の冷房装置が付いたが これは 社内での発言力の強い 労働組合が付けさせたと言われる。(同じく 乗務員室の冷房がなかった1800系にも付けられた)
昭和時代の関東大手私鉄で昼間でも遮光幕を下ろしていたのは東武と京成のみでした。東武の場合、駅ホームの屋根が車掌の所のみ設置されていたり、非冷房車が多かった真夏の拠点駅では、ホームの端で待ち構えているバイトのお姉さんが、乗務員にクーラーボックスから取り出した冷たいおしぼりを渡していたりしました。
@@takana4381 さまもっと酷いのは 助士側と真ん中の扉の遮光幕は開けてあるが 運転士は 先頭車が中間に入った時に貫通路として運転台を仕切る時の扉を閉め『片隅運転台』状態とし 背後と右サイドの仕切り扉の幕も下ろして運転していたケースを見た事があります。夏のおしぼりは 東上線の成増や川越市で渡していましたね。
@@toriri-serviceさん 片隅運転台状態ですが、国鉄でも113系などの近郊形でやっている乗務員がいましたね。
@@takana4381 さまDRCのスタイル特急・急行・快速・通勤形と 明確に分けられた車両の用途と 厳密に分けられた料金体系そして職員の質の悪さ昭和の東武鉄道は 全てにおいて『国鉄に倣う』ところがありましたね。
@@toriri-serviceさん 度々の返信すみません。昭和時代の東武は、北関東の閑散区間ですと8000系の様な通勤形車両でも車内喫煙可能だったり、業務移動中の制服姿の職員が、客室内で咥えタバコしながらスポーツ新聞や漫画雑誌を読んでいたり、ロングシートに横になって寝ていたりしていましたね。乗り合わせた乗客もごく当たり前の光景として受け入れていたので、北関東民の大らかさなのか諦めの境地だったのかな?
色が暗いとかデザインが武骨だと言われるけど設備は関東では最高クラスだったデラさん。当時は停車駅も特別でした。東武博物館で一本くらい残して欲しかった。東武と東急は自社の名車を短くしてしまう不思議な会社。
♪行こうよ日光鬼怒川へ ノンストップで突っ走る。レッツゴー!というCMソングもありました。確かに貴重な車体を縮めてしまう 不思議な会社かもしれません。
西のどこかの会社では何度もお別れ運転が行われた名車といえども保存されることなく廃車。それよりはまだ良いですが、1両まるまる保存して欲しかったとは思います。
岩槻でまるまる1両残ってる。あと、中間車もレストランとして活用されている。会社が保存してはいないが、皆保存状態は良好みたいだよ。
@@にーに-v9f さま岩槻のは ヘッドマークが盗難に遭ったりはしたそうだけど 神戸駅の中間車(レストラン清流)共々全体的な状態は良好なようですね。共に台車を 一旦2000系に譲ったアルストム台車に戻してあります。
@toriri-service 歌っていたのは坂本九さんでしたね。
やはり宇都宮駅でのスイッチバックが響いているのでは?小山駅みたいに、短絡線作って直通させていたら違ったかも。シート向き変えるの面倒ですよね。
デルタパスの小山と違って、さすがに宇都宮はパスできません。戦前から戸祭町方面への軌道改変計画はあったらしいけど、いかんせん時代が鉄道のものではありませんでした。
鉄道伝説でこの車両と157系が採り上げられていましたねその番組によると、国鉄側は東海道特急などへの需要増加にたいおうするため日光方面への対策まで手が回らなくなっていったという要素も解説されていたと思います
鬼怒川温泉の親戚宅へ行くのに家族で乗りましたが、冷房があり貫通扉が自動でおまけに洗面台で手を洗ったあと乾かすのにエアータオルが付いていてまさに豪華な車輛でしたね。買ってもらった乗車記念キーホルダー(車内販売品)は大切に保管しています。
東武1720系は修学旅行先で日光鬼怒川近くのバスの車窓から上下線で見れました😊胸熱でした😅ヘッドマークは「けごん」でした😊乗ってみたかった😅その後大人になりオレンジのラインのスペーシアには乗れました😊
引退間際に乗車したがシートサービス(☕🥪)は有難い🎶
何があるの?
1720系、製造初年は1960年だけど、最終増備車は1973年でしたね……古臭いと言われながらも9編成中4編成(1700系からの改造含む)の車体は新造から20年以内で役目を終えている。
157系ではなく165系をいれた時点で勝負ありだったな。
車両と言うより、速さとダイヤが良くないと勝てないね。
183系はどうかな?
国鉄新性能電車なんて所詮私鉄の吊り掛け駆動車止まりの性能しかないので、どのみち負けてました。私鉄の新性能電車は国鉄の電機子チョッパ制御車並みの性能を誇っていたので、1980年代の車両なんか国鉄型特急を通勤電車がパワーで勝るなんてことが平然とあったそうですよ。私鉄は高度経済成長期時代に既に140㎞/hで走れる通勤型電車の開発に着手していました(無論狭軌用ですよ)。あとダイヤが悪いし線路状況も私鉄の方が遥かに上なので、国鉄が勝てる所は新幹線ぐらいしかありません。
国鉄が本気で日光線で東武鉄道のDRCに勝とうと思うなら151系の内装を全車パーラーカーとした編成を投入するしかなかった。それが不可能であった時点で勝負は見えていた。
スチュワーデスさんの英語放送は長めでした。1720系DRCの鬼怒川温泉行き「きぬ」に乗車して、下今市駅で吊りかけ式の古い日光駅行普通電車に乗り換えると、スチュワーデスさんと一緒になりました。彼女は日光駅発「けごん」に乗務するために下今市駅で「きぬ」を降りたようでした。普通電車内ではスチュワーデスさんと自分だけしかいなく、すごく恥ずかしかった思い出があります。日光市内や中禅寺湖畔には外国人向けのホテルや大使館保養所もあり、独特なリゾートでしたね。キリスト教宣教師によって開かれた軽井沢には禁欲的雰囲気がありましたが、日光には少し開放的なイメージがありましたね。外国人男性が愛人女性を同伴して遊びに行くというような光景を見たことがありました。1720系DRCの英語の車内放送でも、レンタカーの案内を詳しくおこなっていましたから、東武もそのような使い方を意識していたのかもしれません。
DRCによる「けごん」、国鉄民営化直前のダイヤでは、朝の浅草〜東武日光ノンストップが所要時間101分、表定速度は当時の私鉄特急では、近鉄の名阪ノンストップ特急に次ぐ速さだった。実は1991年頃から東武を使う機会が増えたが、残念な事に既にスペーシアに置き換わっていた。
1980年頃 東武では更に2分縮めて 99分にしたかったそうです。結局は 叶いませんでしたが。
DRCの後を継いだスペーシアも、ついに姿を消す運命となった。リバティ、スペーシアXが後を継ぐことになった。
わたらせ渓谷鐵道の 神戸(ごうど)駅にDRCの車両を活用したレストランがあります。
その後東武と国鉄から生まれ変わったJR東日本は、競争から協調路線となり、栗橋に連絡線を作り新宿へ乗り入れる様になった。
とは言え列車本数はかつてに比べて減少。再び東武は浅草にシフト。
今やC11だ、客車マニアにとっては国宝級の14系ハザのトップナンバーだ、を運用するなど、良好な関係を築いてますとさ😂ちゃんちゃん🎉😊
1988年春にフジテレビ深夜枠で放送された「春の楽しい電車」でも浅草~日光間の側面展望の映像がオンエアされました。現在は「スペーシア」「リバティ」「スペーシアX」ですね。
東武鉄道もフジテレビも同じ芙蓉グループ財閥
懐かしい映像ありがとうセイジさん?谷塚で華麗に通過してました。東急8500今まで動けてたんだからDRCもうごかせなかったのかとおもう。西武Rアローは富山でまだ走っとるし😂
まだ日本人が元気だった時代の車両だな……
子供のころ、うちの目の前をターッと走るデラックスロマンスカーに、やがて自分のゼニで乗れるようになった感慨は大きかった。国鉄の一等グリーン車とは違い、着席保証ではなく座席指定席というのもしびれた。 むかし、近所の踏切で自動車に当たってしまい、火事による一編成損失のための5700代走特急(古い分安い価格が用意)には、わざわざ新栃木駅まで浅草行きの切符買いにいったけど、マニアと物好きがで一杯でぜんぜん乗れなかった。
1720系は今、岩槻の公園に置いてありまして、土日祝日は中に入れます。運が良ければ車掌さんボランティアが来て切符切りのパフォーマンスしたり、列車のお話しをしてくれます。その車掌はオ〜レだオレだオレだ!!!
関西人にしたら、(高島屋が内装デザインした)南海20000系と並んで「クイーン」の名前に相応しい車両だと思いますよ。豪華さが(当時としては)破格も破格だったという意味で。ただ、DRCはスペーシアという正当な後継車が現われても、こうやはリバティさながらにビジネス特急化が進む一方ですから........その意味では「クイーン」ながらも対照的すぎる同士ですよね。
DRC乗ってみたかったな~一応岩月城址公園にある展示車両の中には入ったこと有るけどw
この電車は東武の自信作で 当時『鉄道友の会』への試乗会を開催したりと アピールにも余念がなかったものの1961年の『ブルーリボン賞』は『国鉄キハ81系』にさらわれ「あんな故障の多い車両にくれてやる方もやる方だが 貰う方も貰う方だ。」と 東武関係者が嘆いたとか😮💨
スペーシアでは同時期にJR東日本の251系(スーパービュー踊り子)がとブルーリボン賞を争うこととなり、東武は盛んにPR作戦を行ったが、得票では2位となってしまったが、日本初の在来線特急専用車両として、VVVFインバーター制御をはじめとする最新の機器を採用したことが評価され、念願のブルーリボン賞を獲得。
ブルーリボン賞=鉄オタの好き嫌いなので国鉄車両の方が有利になる。
@@N--jv3go さま当時は 友の会会員に国鉄ファンが多かったとも言われてましたね。1974年に メカニズム的には特段真新しさのなかった『京成AE車』が世界初の振り子式電車『国鉄381系』を抑えて 受賞した時は 事情も変わってはいたのでしょうけど。
動画内でも出てきた「外観は徹底的に151系を意識したようで」がマイナスに作用したような気がする。あと、「鉄道ファン」300号で吉村光夫さんは、「日産セドリックに似ていたのが・・・」と記事に書いてるね。
@@まじんはひまじん-n1y さま40年ほど前に 花上嘉成さんが『鉄道ジャーナル』で そのボンネットスタイルを「女性的な『こだま型』に対して『DRC』は 男性的な顔つき。」と述べられていました。Wikipedia等にも示されていますが 似ていると言われる初代『セドリック』が世に出る前に 東武鉄道は メーカーに『DRC』の発注をしているので 真似ではないそうですね。私は『セドリック』以外に同じ日産のピックアップトラック『ジュニア(3代目)』も なんとなく似ているように思います。
名車
置き換えたスペーシアと200系もそろそろ引退なんですよね
鬼怒川温泉が時代の流れに負けてしまいました。
さすが舘智幸をその気にさせたマシン
古き良き時代の昔話だな😊
キハ55系気動車に関わらず戦前阪神急行のインターアーバン神戸線の920形も表定速度78km/h 所要時間25分
東武鉄道の本格的な特急専用車両として登場した1720系DRC、浅草を起点に鬼怒川温泉、日光方面の特急運用で活躍した車両、当時の国鉄の特急車両顔負けの車内設備、サービスで一時代を走り抜けた車両、後のスペーシア、スペーシアX、の設計にも大きな影響を与えた車両でもある、
1700系の足回りが現在も現役なんだよね。
なぜ島鉄の車両が
日光線が何故か電化されず止むなくキハ55が冷房化され、DRCに対抗してキハ82を導入。民営化後にキハ85並のハイパワーディーゼルが宇都宮線を疾走…なんかロマンあるなあ😅
今なお現役である()
結局浅草発という不便さが致命的で外人観光客の日光へのメインルートは宇都宮まで新幹線で行くパターンになっちまった。外人だけでなく日本人にとっても不便だったし
格調高い(?)「豪華でデラックスかつ印象的」なのは間違いないが、あの顔つきが上品かというと疑問が残る(笑。高速試験までやっていたのは驚き。浅草<>日光はモロニ外国人観光客(主に米国人)を意識したルートですね。下回りの機器類がまだ現役だというのも驚きました
日産セドリック😂でも大好き。マイクロエース初ロッド発売の際は予約したなあ。
セドリックはたまに現役なのがいる。
カトーがレジェンドコレクションでDRCを発売してくれることを期待。
DRCは死ぬほどカッコいい。有井マイクロのDRC後A-0877があるとフルコンプ。
国鉄末期の状況を考えたら、国鉄日光線自体が廃止になってもおかしくなかったんだよなぁ・・・・・
今思うとパーラーカー組み込みの151系を準急日光に使ってもよかったかと(新幹線開通後に転用で。ちなみに151系は海外VIP輸送か何かで日光線に入線したことがあります)。そうなると東武も根津さんと古くから付き合いのあった佐伯さんに頼み込んで10100系ビスタカーの狭軌版を投入したかと・・・
まあ、実際には国鉄にとって日光は距離が近すぎ、準急として運行するのが精いっぱいであったというオチがあるおまけに上野から直通しようにも日光線は宇都宮に向かって線路が敷かれているので、上野からだとどうしてもスイッチバックしなくてはいけないので運用上も不利であった
なんかスヌーピーに似てると思っていた…
いやいや1720系こそ恰好いいのだよ!
何しろJR沿線にも影響を与え、ついに特急「北近畿」にまで使われた車両ですからね(笑)
ドリフトしてそう
1編成まるまる保存してほしかった
女性スチュワーデス・・。男性だとスチュワードですので、ちょいとダブった表現かと。
社長、こいつでぶっ飛ばせるなら、答えなんてどうでもいいや!!日光も箱根も、本当の上得意客が来ていたのは昔の話…
しかしこれ東京、あるいは以南から日光にアクセスする層には訴求したろうけど、日光以北、東北方面からアプローチする層にはあんまり意味なかったんじゃねーの?まあそれはスペーシアになっても同じことだったろうけど。それだけ東京方面からの需要が圧倒的だったってことか。
国鉄は東武に負けたんじゃなくて車に負けたんですよ。浅草みたいな不便なところから出る特急なんて利用する人が限られていますし。
日光に用がないから乗ったことはないけど、「けごん」や「きぬ」は知ってたし、西新井のカーブで写真も撮ったけど、色がダサかったね。
名車なの?珍車じゃなくて?子どもの頃から写真とかで見てたけどクソだっせぇ顔やなと思っててそれは今も変わらない。スペーシアの顔もあんまり好きじゃない。東武って変なデザインの車多いですよね。
1984年の夏、日光に行く際に浅草駅で初めてDRCを見た時の威容は今もって忘れられません。しっかりしたリクライニングシート、サロンにはソファやジュークボックスまでありました。ビュッフェの方が注文を取りに来てくれたのも良き思い出です。
DRCが30年持ったことも凄いですが、その後継のスペーシアも今年で34年。どちらも色褪せること無く長年名特急として稼働。
スペーシアXも代々の特急車両が築いてきた伝統を受け継ぎつつ新たな東武特急として人々を運ぶことでしょう。
検札も アテンダントさんと車掌さんのペアでやっていましたね。
サロンルームの椅子は 長居されないように 敢えて座り心地を固くしたそうです。(まぁそれでも長居しちゃうお客さんは居たそうですが。)
因みに アルミで縁取られた窓枠は 東武がお得意先の『ナニワ工機(→アルナ工機→アルナ車両)』のデザインで 親会社の『阪急電車』に通ずるものがあります。
DRCが20年経過して古臭いと言われる一方、スペーシアは35年経ってもまだいけるという雰囲気。
それだけ、経済成長が鈍くなったのだろう。
@@toriri-serviceさん
東武の窓枠のRは9000系〜30000系まで引き継がれた感じですね……
内装が良いのに外観がダサくて台無し
お疲れ様です。DRCですね。歴史が語られておもしろかったです。DRCもいささか誇張された平衡速度165km/hは、より低く実際は平坦線釣り合い速度は155km/hとグラフで表記されてます。しかし加速力、100キロでも1km//sの加速力は大したものです。旧1700系は計算すると130キロは出る車両でそんなに悪くないです。
現在のスペーシアのJR線乗り入れや国鉄車が東武線を走行しているのを見て「あの競争は何だったのだろう」と思ってしまいます...
敵がお互いの速度と、自動車と高規格道路だったんでしょうね。電車好き自動車嫌いのわたくしには、今のほうが幸せ感が高く感じます。老人なのでIT予約・決済の充実も非常に助けになります。蒸気と在来特急はほとんど乗りそびれてしまったけど列車が好き。
一切東武路線を走らない「スペーシア那須野」なんてよくわからない臨時特急もあったな
@@doli747伊豆急行の「2100系(リゾート21)」を使用したJR完結の臨時列車がありましたね。
デラの車内には、ジュークボックスが設置され、音楽を楽しむことができました。
詰まり、列車の振動が無くレコードの針が飛ばないということです。
ワシが初めて乗ったのは
平成元年。
サロンは一般座席に…
ワシも引退間際の1990年に乗ったが、ジュークボックスは時代遅れのアイテムになってたのだろう。
今は、
スペーシア✖️になり
豪華な車内で
人気となっている
日光のよかったところは、東武とJRが共に1067㎜軌間の直流電化であったため、相互乗り入れによる共存ができるようになったこと。
伊勢志摩は近鉄とJRの規格が違い過ぎるので、日光のようにはいきませんね。
日光鬼怒川は今市市の住民のころは近所だったので、忘新年会・親睦会用で飽きてしまいました。伊勢志摩や南紀とかは遠いので憧れていましたが、ブームも去っていまは静かな保養療養地となってんでしょうか、今でも憧れてます。
在来線同士でこそフリーゲージを活用して近鉄線(標準軌)ーJR線(狭軌)間を跨いで周遊する観光旅行が成り立っていくと良いのですが
1991年に東武1720系が引退して、ロマンスカーの名称は小田急のみが使用する状態になりましたね
『DRC』引退を機に 小田急は『ロマンスカー』を商標登録しましたね。
今は小田急が「ロマンスカー」の商標登録をしているので、小田急に使用許諾を取らないと使えないですね。
以前は東武も名鉄も…旧5000系やパノラマカーなどは別名SR(スーパーロマンス)車と名付けていたし京急も古い広告では堂々「ロマンスカー」を名乗っていましたから…
これ、1974年頃に石立鉄男が主演のドラマ『みずもれコースケ』で浅草から東武日光まで乗車して女性を追いかける下りがあって、当時30分ドラマの殆どが車内利用の映像になってた事に、子供ながら驚いて見てたのを思い出した😮
女性というか 日光へスキーに行く妹のチャーミーですね。
忘れ物を届けに行くか何かの理由で 浅草駅で『けごん』車内に入ったらドアが閉まって「あっ!次で降りなきゃ!」と慌てる孝介に対して
「でもこの列車 下今市まで停まらないですよ。 」
「全部指定席で満員だから サロンルームに行ったらどうですか?」という 妹の仲間の台詞もあり そのサロンルームの出るシーンもあって あれは完全に 東武鉄道とのタイアップでしたね。
@@toriri-service くっ、詳しい…
@@用宗東田子の浦-w8p さま
また 褒めていただき恐縮です🙇💦
アレ、改札で制止されたんだ。
そしたら、「敬礼!」と鶴の一声(?)で強行突破したんだ。
確か、あのとき、浅草駅前で車を停めてたから「駐車違反」で…?
@@toriri-serviceさま。
そう、当時は「ほぼ直結」でした。
「けごん」の中にゃ、下今どころか「次は終点:東武日光です」なんて…
今なら北千住、春日部で引き返せるが…
昔、運転席に入れてもらったことがあります。
興奮したな。
東武1720系懐かしすぎ
迫真の匠最高
男の子が好きそうなわかりやすい成金感とでもいうべき豪華な外見がいいよね。
いい意味でアメ車っぽい
時代背景を鑑みるとDRCの登場以外にも国鉄側の事情として東北本線の線路需要(秋田や山形まで向かう多層建て列車も含まれる)が逼迫してコスパの悪い日光線のサービス競争にかまけていられなくなった(或いは日光線を捨ててもなおまかない切れないほどの程の需要が当時の東北本線宇都宮以北には有った?)って側面もあったかも。
もちろんそれもあるし、そもそも日光観光は 車>>>>>>>電車になってしまったので力を入れる意味がなくなったんです。
むしろ対北海道連絡需要でしょう
DRCの全車M車、平坦均衡速度165㎞も凄いが、この意志はスペーシアにも引き継がれ、平坦均衡速度210㎞という化け物性能である。
ちなみにJR東日本に乗り入れの際、JRの運転士が習熟運転でスペーシアの性能に驚いたらしい。
東武は特急車両には惜しみなく最新の技術を投入する傾向がある。
その分、通勤車両は・・・・。
東武は昔から『格差社会』
1961年からの7300系の車体更新も 既に軽量車体の2000系が出ていたのにも拘わらず 在来工法の半鋼製車体で行われましたね。
同じ『ロクサン』由来の 小田急1800形(東急車輌で 全金属車体に更新)よりも車体は新しいのに 木部の傷みが早く 引退したのはそちらよりも先でした。
昭和50年代末ですら特急券の取れなかった乗客は有料なのに夏でも冷房の無い快速急行か無料快速、臨時快速や林間学校用の団体列車には8000系すら使用。
通勤車両でも他所行き(地下鉄乗り入れ)第一世代(2000系、9000系、30000系)は、乗り入れ他社車両と並べても恥ずかしく無い様にコストをかけて作る。
日比谷線直通の2000系電車は、床下過熱で旅客を焼き◯すところでした。
@@toriri-serviceさん 昭和30年代半ばまで吊りかけ駆動車を新製していたのは東武と西武でしたが、西武の場合、客の目に見えるところは他の私鉄と見劣りしない様にしていましたね。ただ付随車の台車が大正時代のイコライザー台車と言うアンバランスさ。。。現在でも両社はVVVF化車両の割合が低いですね。旧大東急系(東急、小田急、京急、京王、相鉄)は100%ですが、西武が約70%、東武の場合は60%程度。さすがに西武は焦り始めて、かつての宿敵の東急と小田急から中古車を購入してまでVVVF車率を引き上げようと躍起になっていますが、東武はどこ吹く風状態。お約束の補修部品の入手が難しくなった段階であたふたと慌てるのでしょう。JRでも東京近郊区間の通勤形直流モーター営業車は、南武支線の予備車である205系2両のみとなりますからね。
この電車 1960年当時に 初めから冷房付きで登場。
しかし 乗務員室には冷房がなかった。
最終編成には 夏季は客室からの冷気を採り入れる送風機が付けられたが 外人さんの乗客でいっぱいの車内からは独特の臭いのする冷気が入って来て 運転士さんからの評判は良くなかったそう。
昭和の終わり頃に 乗務員室専用の冷房装置が付いたが これは 社内での発言力の強い 労働組合が付けさせたと言われる。(同じく 乗務員室の冷房がなかった1800系にも付けられた)
昭和時代の関東大手私鉄で昼間でも遮光幕を下ろしていたのは東武と京成のみでした。東武の場合、駅ホームの屋根が車掌の所のみ設置されていたり、非冷房車が多かった真夏の拠点駅では、ホームの端で待ち構えているバイトのお姉さんが、乗務員にクーラーボックスから取り出した冷たいおしぼりを渡していたりしました。
@@takana4381 さま
もっと酷いのは 助士側と真ん中の扉の遮光幕は開けてあるが 運転士は 先頭車が中間に入った時に貫通路として運転台を仕切る時の扉を閉め『片隅運転台』状態とし 背後と右サイドの仕切り扉の幕も下ろして運転していたケースを見た事があります。
夏のおしぼりは 東上線の成増や川越市で渡していましたね。
@@toriri-serviceさん 片隅運転台状態ですが、国鉄でも113系などの近郊形でやっている乗務員がいましたね。
@@takana4381 さま
DRCのスタイル
特急・急行・快速・通勤形と 明確に分けられた車両の用途と 厳密に分けられた料金体系
そして職員の質の悪さ
昭和の東武鉄道は 全てにおいて『国鉄に倣う』ところがありましたね。
@@toriri-serviceさん 度々の返信すみません。昭和時代の東武は、北関東の閑散区間ですと8000系の様な通勤形車両でも車内喫煙可能だったり、業務移動中の制服姿の職員が、客室内で咥えタバコしながらスポーツ新聞や漫画雑誌を読んでいたり、ロングシートに横になって寝ていたりしていましたね。乗り合わせた乗客もごく当たり前の光景として受け入れていたので、北関東民の大らかさなのか諦めの境地だったのかな?
色が暗いとかデザインが武骨だと言われるけど設備は関東では最高クラスだったデラさん。当時は停車駅も特別でした。東武博物館で一本くらい残して欲しかった。東武と東急は自社の名車を短くしてしまう不思議な会社。
♪行こうよ日光鬼怒川へ ノンストップで突っ走る。レッツゴー!
というCMソングもありました。
確かに貴重な車体を縮めてしまう 不思議な会社かもしれません。
西のどこかの会社では何度もお別れ運転が行われた名車といえども保存されることなく廃車。
それよりはまだ良いですが、1両まるまる保存して欲しかったとは思います。
岩槻でまるまる1両残ってる。あと、中間車もレストランとして活用されている。会社が保存してはいないが、皆保存状態は良好みたいだよ。
@@にーに-v9f さま
岩槻のは ヘッドマークが盗難に遭ったりはしたそうだけど 神戸駅の中間車(レストラン清流)共々全体的な状態は良好なようですね。
共に台車を 一旦2000系に譲ったアルストム台車に戻してあります。
@toriri-service 歌っていたのは坂本九さんでしたね。
やはり宇都宮駅でのスイッチバックが響いているのでは?小山駅みたいに、短絡線作って直通させていたら違ったかも。シート向き変えるの面倒ですよね。
デルタパスの小山と違って、さすがに宇都宮はパスできません。戦前から戸祭町方面への軌道改変計画はあったらしいけど、いかんせん時代が鉄道のものではありませんでした。
鉄道伝説でこの車両と157系が採り上げられていましたね
その番組によると、国鉄側は東海道特急などへの需要増加にたいおうするため日光方面への対策まで手が回らなくなっていった
という要素も解説されていたと思います
鬼怒川温泉の親戚宅へ行くのに家族で乗りましたが、冷房があり貫通扉が自動で
おまけに洗面台で手を洗ったあと乾かすのにエアータオルが付いていてまさに豪華な車輛でしたね。
買ってもらった乗車記念キーホルダー(車内販売品)は大切に保管しています。
東武1720系は修学旅行先で日光鬼怒川近くのバスの車窓から上下線で見れました😊胸熱でした😅ヘッドマークは「けごん」でした😊乗ってみたかった😅その後大人になりオレンジのラインのスペーシアには乗れました😊
引退間際に乗車したがシートサービス(☕🥪)は有難い🎶
何があるの?
1720系、製造初年は1960年だけど、最終増備車は1973年でしたね……
古臭いと言われながらも9編成中4編成(1700系からの改造含む)の車体は新造から20年以内で役目を終えている。
157系ではなく165系をいれた時点で勝負ありだったな。
車両と言うより、速さとダイヤが良くないと勝てないね。
183系はどうかな?
国鉄新性能電車なんて所詮私鉄の吊り掛け駆動車止まりの性能しかないので、どのみち負けてました。私鉄の新性能電車は国鉄の電機子チョッパ制御車並みの性能を誇っていたので、1980年代の車両なんか国鉄型特急を通勤電車がパワーで勝るなんてことが平然とあったそうですよ。私鉄は高度経済成長期時代に既に140㎞/hで走れる通勤型電車の開発に着手していました(無論狭軌用ですよ)。あとダイヤが悪いし線路状況も私鉄の方が遥かに上なので、国鉄が勝てる所は新幹線ぐらいしかありません。
国鉄が本気で日光線で東武鉄道のDRCに勝とうと思うなら151系の内装を全車パーラーカーとした編成を投入するしかなかった。
それが不可能であった時点で勝負は見えていた。
スチュワーデスさんの英語放送は長めでした。1720系DRCの鬼怒川温泉行き「きぬ」に乗車して、
下今市駅で吊りかけ式の古い日光駅行普通電車に乗り換えると、スチュワーデスさんと一緒になりました。
彼女は日光駅発「けごん」に乗務するために下今市駅で「きぬ」を降りたようでした。
普通電車内ではスチュワーデスさんと自分だけしかいなく、すごく恥ずかしかった思い出があります。
日光市内や中禅寺湖畔には外国人向けのホテルや大使館保養所もあり、独特なリゾートでしたね。
キリスト教宣教師によって開かれた軽井沢には禁欲的雰囲気がありましたが、日光には少し開放的なイメージがありましたね。
外国人男性が愛人女性を同伴して遊びに行くというような光景を見たことがありました。
1720系DRCの英語の車内放送でも、レンタカーの案内を詳しくおこなっていましたから、
東武もそのような使い方を意識していたのかもしれません。
DRCによる「けごん」、国鉄民営化直前のダイヤでは、朝の浅草〜東武日光ノンストップが所要時間101分、表定速度は当時の私鉄特急では、近鉄の名阪ノンストップ特急に次ぐ速さだった。実は1991年頃から東武を使う機会が増えたが、残念な事に既にスペーシアに置き換わっていた。
1980年頃 東武では更に2分縮めて 99分にしたかったそうです。
結局は 叶いませんでしたが。
DRCの後を継いだスペーシアも、ついに姿を消す運命となった。
リバティ、スペーシアXが後を継ぐことになった。
わたらせ渓谷鐵道の 神戸(ごうど)駅にDRCの車両を活用したレストランがあります。
その後東武と国鉄から生まれ変わったJR東日本は、競争から協調路線となり、栗橋に連絡線を作り新宿へ乗り入れる様になった。
とは言え列車本数はかつてに比べて減少。再び東武は浅草にシフト。
今やC11だ、客車マニアにとっては国宝級の14系ハザのトップナンバーだ、を運用するなど、良好な関係を築いてますとさ😂ちゃんちゃん🎉😊
1988年春にフジテレビ深夜枠で放送された「春の楽しい電車」でも浅草~日光間の側面展望の映像がオンエアされました。
現在は「スペーシア」「リバティ」「スペーシアX」ですね。
東武鉄道もフジテレビも同じ芙蓉グループ財閥
懐かしい映像ありがとうセイジさん?谷塚で華麗に通過してました。東急8500今まで動けてたんだからDRCもうごかせなかったのかとおもう。西武Rアローは富山でまだ走っとるし😂
まだ日本人が元気だった時代の車両だな……
子供のころ、うちの目の前をターッと走るデラックスロマンスカーに、やがて自分のゼニで乗れるようになった感慨は大きかった。国鉄の一等グリーン車とは違い、着席保証ではなく座席指定席というのもしびれた。
むかし、近所の踏切で自動車に当たってしまい、火事による一編成損失のための5700代走特急(古い分安い価格が用意)には、わざわざ新栃木駅まで浅草行きの切符買いにいったけど、マニアと物好きがで一杯でぜんぜん乗れなかった。
1720系は今、岩槻の公園に置いてありまして、土日祝日は中に入れます。運が良ければ車掌さんボランティアが来て切符切りのパフォーマンスしたり、列車のお話しをしてくれます。その車掌はオ〜レだオレだオレだ!!!
関西人にしたら、(高島屋が内装デザインした)南海20000系と並んで「クイーン」の名前に相応しい車両だと思いますよ。豪華さが(当時としては)破格も破格だったという意味で。
ただ、DRCはスペーシアという正当な後継車が現われても、こうやはリバティさながらにビジネス特急化が進む一方ですから........その意味では「クイーン」ながらも対照的すぎる同士ですよね。
DRC乗ってみたかったな~
一応岩月城址公園にある展示車両の中には入ったこと有るけどw
この電車は東武の自信作で 当時『鉄道友の会』への試乗会を開催したりと アピールにも余念がなかったものの
1961年の『ブルーリボン賞』は『国鉄キハ81系』にさらわれ
「あんな故障の多い車両にくれてやる方もやる方だが 貰う方も貰う方だ。」と 東武関係者が嘆いたとか😮💨
スペーシアでは同時期にJR東日本の251系(スーパービュー踊り子)がとブルーリボン賞を争うこととなり、
東武は盛んにPR作戦を行ったが、得票では2位となってしまったが、日本初の在来線特急専用車両として、
VVVFインバーター制御をはじめとする最新の機器を採用したことが評価され、念願のブルーリボン賞を獲得。
ブルーリボン賞=鉄オタの好き嫌いなので国鉄車両の方が有利になる。
@@N--jv3go さま
当時は 友の会会員に国鉄ファンが多かったとも言われてましたね。
1974年に メカニズム的には特段真新しさのなかった『京成AE車』が世界初の振り子式電車『国鉄381系』を抑えて 受賞した時は 事情も変わってはいたのでしょうけど。
動画内でも出てきた「外観は徹底的に151系を意識したようで」がマイナスに作用したような気がする。
あと、「鉄道ファン」300号で吉村光夫さんは、「日産セドリックに似ていたのが・・・」と記事に書いてるね。
@@まじんはひまじん-n1y さま
40年ほど前に 花上嘉成さんが『鉄道ジャーナル』で そのボンネットスタイルを「女性的な『こだま型』に対して『DRC』は 男性的な顔つき。」と述べられていました。
Wikipedia等にも示されていますが 似ていると言われる初代『セドリック』が世に出る前に 東武鉄道は メーカーに『DRC』の発注をしているので 真似ではないそうですね。
私は『セドリック』以外に同じ日産のピックアップトラック『ジュニア(3代目)』も なんとなく似ているように思います。
名車
置き換えたスペーシアと200系もそろそろ引退なんですよね
鬼怒川温泉が時代の流れに負けてしまいました。
さすが舘智幸をその気にさせたマシン
古き良き時代の昔話だな😊
キハ55系気動車に関わらず戦前阪神急行のインターアーバン神戸線の920形も
表定速度78km/h 所要時間25分
東武鉄道の本格的な特急専用車両として登場した1720系DRC、浅草を起点に鬼怒川温泉、日光方面の特急運用で活躍した車両、当時の国鉄の特急車両顔負けの車内設備、サービスで一時代を走り抜けた車両、後のスペーシア、スペーシアX、の設計にも大きな影響を与えた車両でもある、
1700系の足回りが現在も現役なんだよね。
なぜ島鉄の車両が
日光線が何故か電化されず止むなくキハ55が冷房化され、DRCに対抗してキハ82を導入。民営化後にキハ85並のハイパワーディーゼルが宇都宮線を疾走…なんかロマンあるなあ😅
今なお現役である()
結局浅草発という不便さが致命的で外人観光客の日光へのメインルートは宇都宮まで新幹線で行くパターンになっちまった。外人だけでなく日本人にとっても不便だったし
格調高い(?)「豪華でデラックスかつ印象的」なのは間違いないが、あの顔つきが上品かというと疑問が残る(笑。高速試験までやっていたのは驚き。浅草<>日光はモロニ外国人観光客(主に米国人)を意識したルートですね。下回りの機器類がまだ現役だというのも驚きました
日産セドリック😂
でも大好き。マイクロエース初ロッド発売の際は予約したなあ。
セドリックはたまに現役なのがいる。
カトーがレジェンドコレクションでDRCを発売してくれることを期待。
DRCは死ぬほどカッコいい。有井マイクロのDRC後A-0877があるとフルコンプ。
国鉄末期の状況を考えたら、国鉄日光線自体が廃止になってもおかしくなかったんだよなぁ・・・・・
今思うとパーラーカー組み込みの151系を準急日光に使ってもよかったかと(新幹線開通後に転用で。ちなみに151系は海外VIP輸送か何かで日光線に入線したことがあります)。そうなると東武も根津さんと古くから付き合いのあった佐伯さんに頼み込んで10100系ビスタカーの狭軌版を投入したかと・・・
まあ、実際には国鉄にとって日光は距離が近すぎ、準急として運行するのが精いっぱいであったというオチがある
おまけに上野から直通しようにも日光線は宇都宮に向かって線路が敷かれているので、上野からだとどうしてもスイッチバックしなくてはいけないので運用上も不利であった
なんかスヌーピーに似てると思っていた…
いやいや
1720系こそ恰好いいのだよ!
何しろJR沿線にも影響を与え、ついに特急「北近畿」にまで使われた車両ですからね(笑)
ドリフトしてそう
1編成まるまる保存してほしかった
女性スチュワーデス・・。男性だとスチュワードですので、ちょいとダブった表現かと。
社長、こいつでぶっ飛ばせるなら、答えなんてどうでもいいや!!
日光も箱根も、本当の上得意客が来ていたのは昔の話…
しかしこれ東京、あるいは以南から日光にアクセスする層には訴求したろうけど、日光以北、東北方面からアプローチする層にはあんまり意味なかったんじゃねーの?
まあそれはスペーシアになっても同じことだったろうけど。それだけ東京方面からの需要が圧倒的だったってことか。
国鉄は東武に負けたんじゃなくて車に負けたんですよ。
浅草みたいな不便なところから出る特急なんて利用する人が限られていますし。
日光に用がないから乗ったことはないけど、「けごん」や「きぬ」は知ってたし、西新井のカーブで写真も撮ったけど、色がダサかったね。
名車なの?珍車じゃなくて?
子どもの頃から写真とかで見てたけどクソだっせぇ顔やなと思っててそれは今も変わらない。
スペーシアの顔もあんまり好きじゃない。東武って変なデザインの車多いですよね。