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車齢が高くなっても通勤車などに格下げもされずに最後まで優等列車に用いられたこの車両は、幸せ者と行って良いだろう。
荒川土手で野球やっているとたまに対岸の土手の向うを走っているのが見えたんですよね。一回東武日光でけごんに乗ろうとしていたら臨時快速で次発だったみたいで同行者がいなければ乗ってましたね。その後廃車になってしまい吊り掛け駆動は5000系で堪能してました。古き良き時代ですよね。
登場した車両、全部レトロでかっこいい!
日光への修学旅行で乗りました。「なんだよこのボロ電車!」と嫌がる同級生達を横目に喜ぶ自分がいました笑1985年のことなので引退3年前になるんですかね。貴重な体験ができたと今でも思います。
非冷房を避ける為、夏場は通勤用ロングシートの8000系や10000系が登板することがありましたね。
末期の数年間、沿線に住むようになったのでよく覚えています。「たびじ」のヘッドマークをつけた臨時運用中心だった。引退までのごく短期間、5700系と1720系、デビューしたばかりのスペーシアが同時に拝めた、今となれば夢のような時代もありました。
5700系の座席の背もたれのカバーには鬼怒川のあさやホテルの広告が印刷されていたのをおぼえてます。
車体が旧型車仕様に見えるのに、台車が洗練された形に見えるのがアンバランスで面白く感じます。
1956年生まれで、この列車に、鎌ケ谷駅から春日部経由して、初の修学旅行に行った。日光一泊、釜屋旅館だった記憶があり硫黄臭い布団。しかし素晴らしい修学旅行お土産が、500円まで、家族全員で亡くなった😂
この車両は東武博物館で見たことがありますが、このような歴史があったのですね。日光特急としての活躍は短かったものの、戦後短期間の間にスピードアップやサービス面での向上が大きく図られた証でもあります。その後も伊勢崎線の急行として、さらには次々に出てくる新型車両の助っ人として八面六臂の活躍もされていたことが良く分かりました。5700系が作り上げた東武特急の伝統はリバティ、さらにはスペーシアXに引き継がれました。また東武で日光に行きたくなりました。
下今市で分割・併合する5700系(とそのあとの1700系)時代のスタイルは 現在の『リバティ』に受け継がれていますね。
都内23区の小学校の日光修学旅行は多くが東武の臨時列車利用で、80年代は5700系がほとんどだった。小学生だった私も窓全開で吊りかけ爆走する5700系で夏の修学旅行に行けたことはいい思い出。
あれ 窓もロールカーテンじゃなくて『鎧戸』だったんですよね。
私鉄で修学旅行というのは東武と近鉄くらいですね。林間学校の臨時電車では5700のあとの時代は8000と言うこともあったそうです。
貸し切りではないが、大学通う際に、東武東上線で遠足の小学生は良く見かけた😉
東京23区出身なので、小学校の林間学校は日光。東武5700系のお世話になったなぁ。
浅草始発快速の座席獲得合戦は座席目掛けて帽子が飛ぶ、鞄が飛ぶ、リックサックが飛ぶなどして凄かった。
これ…たびじ号として日光への修学旅行で乗った!柏駅から東武日光まで一直線!ボロボロでクソ味噌言われたけど、今となればもう一度乗りたいわ!
東武鉄道良き迫真の匠最高
旧車体普通車両だった7800系は自分が小学生だった1985年頃に早々引退してしまいましたが末期まで主に快速運行していた5700系は90年代までと結構息が長かった印象があります。木張りの床の真下からくる吊り掛けモ-タ-のバイブレーションが足首にとても心地良かった記憶があります。
マスターシードでパスタ食べてきました。ご馳走様でした。
他の動画で見た90年代に幹線の運用に就いている光景が衝撃的だった。
わずかな間だったが、DRC、スペーシアと一緒に走っていた時期があった。東武の最長老だった。そのスペーシアも、リバティ、スペーシアXの登場で姿を消していく運命になった。今の最長老は、8000系。
JRに乗り入れるのはどの形式になるんでしょうね。🤔
@@By-Gaeshiスペーシア消滅で止めるんちゃう?😵
東武博物館に現在展示しているモハ5701は非貫通構造(猫ひげ)に復元されていますね車体の側面に東武鉄道の標記があるのも味があってかっこいいです!
行田市に、半流線型顔も保存されており、レストランとして活用されています!味もグッド!オススメです😊
とある鉄道模型雑誌の主催する。5700系の貸し切り運行の抽選にもれて歯痒い気持ちしてなりました。 高速域の吊り掛けの音色は、京王5100系のそれとは違っていただろうと思える。 戦後製の電車ですから、室内は蛍光灯で塗り潰しであったにせよ、優雅な空間であることが推察されます。
自分が幼少の頃の記憶として残っているのは浅草13時50分発快速急行おじか193号で、土曜日の運転だったかな。浅草06時00分発の早朝臨時快速(北千住〜杉戸は準急と同停車駅)にもよく充当されていました。
東武日光線は国鉄とバチバチやりあってたから、スピードアップに余念がなかったんだなあ。もし上毛電気鉄道を買収して前橋市から都内までの輸送で国鉄とやり合うようになってたら、少なくとも東武伊勢崎線の館林~太田間の複線化くらいはやってたんだろうか?
桐生、伊勢崎、前橋はかつては絹織物などの繊維産業で栄えた街でしたね。東武が高度成長期にビジネスや東京への買い物などにテコ入れしていればかなりの集客を集められたものと思います。しかし箱根並みの集客力のある日光への注力、さらには東上線を含めて都心部のラッシュ対策でそこまで手が回らず、上越新幹線の開業や自家用車の普及が止めを指したことでしょう。
戦後間も無くから、高度経済成長期を支えてきた優等列車。北関東の発展を支えた車両と言っても過言ではないのではないかな...😊あと、動画のリクエストって可能ですか?
もちろんできますよ!
館林や太田あたりでの自動車などの産業の発達、さらには桐生などの都市があったからこそこの車両は活躍でき、さらに1800へとバトンを渡せたものと思います。
@@hakusinnotakumi 青函連絡の歴史についての動画をお願いします。船、トンネルと変わってきたものをできれば2回ほどに分けて作っていただけたらなと思います
5:29 ここではC編成を全て吊り掛け駆動に改造したとありますが6:30 ここではC編成がカルダン駆動のため後継車が登場しても運用に残ったという記載になっています。そもそも時系列として逆で1700系が出たあとに吊りかけ駆動化されたこと、動画中の改造年度と新形式のデビューがその歴史通り正しく記載されているのは理解しておりますが、編集の都合でそれが逆に見えるような形になるのはちょっと悪手な気もします。参考までに。
昭和末期たまに清水公園駅に停車してあるのを眺めていました。まさしく古き良き車内でした。それと東上線から野田線に入れるのか、なんてのも知ったものです。
>二等車としても十分通用する。その後のDRCやスペーシアも同じように思います。
東武博物館にいるネコひげ😺5700形は、あれは実車じゃなくて製造元のアルナ工機の、車輌製造第1号記念で残されてた先頭部を、博物館開館に合わせて譲渡して貰ったんだって?😮
アルナから引き取ったのはネコヒゲではなく建物内にある貫通顔です。この前頭部も元は引退した5703号のもので、アルナ解散後の2004年から展示されています。屋外保存のネコヒゲは2009年の東武博物館リニューアル時に杉戸工場跡地より輸送、現在保存されている場所に設置された後に博物館敷地内で前面の復元工事を行なったものです。
こんばんわ❗️うあ!5700ときましたか!5700て110kwでつりかけですが結構速いんですね。95キロ運転でした。直角カルダンは不調つづきでしたね。加速度は1.6km/h/s。お疲れ様でした。よろしければSpacia100系のいん張力解析をしましたのでご覧ください。(*^^*)
東洋電機TDK-528モーターで これは名鉄3800系や 東急3700系と同じものです。
ギヤ比が同じTDK528系のモーターの名鉄AL車よりギヤ比が高いからな。待てよ?もしかして(ry
1979年の日光遠足の復路がコレだった。もうこのころは既に定期運用は外れていたと思うな~。なので、当時でも貴重な現役乗車体験をさせてもらったよ。
東武東上線、昭和中期まで高校までの通学に乗った覚えがあるw床が木の板でガタガタいいながら騒がしく走ってたな~。
ん?5700系は2ドアだが、東上線は4ドアだから7800系とかじゃないのかなぁ?床が木の車両はわいも沿線に住んで小学校から大学まで通って乗っていたが。
早いもので「3世代前」の「東武顔」ですね。廃車間際まで優等列車で稼働してましたね。直接の沿線ではなかったけど、時々見かけました
大学鉄研の有志で乗りに行きました。その際、浅草駅で、見た目がスーパー鉄ヲタの若い男性に、「モーター車ってどっち向きですかね~?」と声をかけられ、「ここの真ん中の入り口から乗ればどちらでも行けるけど、東武は基本浅草方がモーター車」と即答したのはワイ😁
快速急行が急行より格下なのは、さすがにTOBUダケカナァ😅
江戸川区の小学生でした。小学6年生の、日光の移動教室に行く際、この車両に乗りました。
5700型は、国電タイプの8000型よりも先輩でしたね。林間学校や移動教室でお世話になりました。
もしかして小岩の小学校!?
あれ?5700系に発電ブレーキは無かったと思いましたが。あと『快速急行』設定時 運用に就いていたのは 本来快速用の6000系です。A・B・Cの編成があるところは 同じ大私鉄の『近鉄 10100系』との共通点。実際は AのクハとBのモハ BのクハとAのモハに組み替えて両方の先頭車が湘南顔の4連を組んだ事。野田線の急行『きりふり・りゅうおう』に用いられた事にも触れて欲しかった。
日光線の急行がりょうもう号と比べてレベルが低かった(1800のレベルが高すぎた)こと、さらには当時快速電車に一部指定席があったものを快速を全車自由席にして逆に全車指定席のものを快速急行としたものかもしれませんね。当時は6000系も冷房がなく、夏ともなれば5700も快速急行や臨時快速のたびじ号として稼働していました。私事ではありますが、1984年の夏に日光に行く際にDRCは全て満席だったにもかかわらず快速急行の指定席は空席が見られたほど人気の差がありましたね。8000系ですら冷房完備の車両が多かった時代、猛暑に冷房がないと言うのは口コミで知れわたっていたものと思います。
@@TSUYOS185 さま6000系は 夏に乗る電車じゃなかったですね。乗り心地や シートの座り心地(背摺りは腰から上が板だったが)は 凄く良くて 足も速い電車だったんだけど。6050系に更新されて やっとその良さが十二分に発揮された印象でした。
今から40年前、小学6年の日光林間学校でお世話になりました
家内郵政がいる大宮の高校に近い大宮駅を出発して、東武野田線から春日部駅を経由して、東武伊勢崎線、東武日光線を経由して日光へ向かう臨時特急があればいいのに。
猫ヒゲ🐱と呼ばれた初期の5700系、カッコええやん✨このA編成は最期迄猫ヒゲのままで好かったのに…
【6:37】右の車両、、顔が「京急旧1000形」にソックリ
❌足元がおぼつく⭕️足元がおぼつかない「おぼつかない(覚束無い)で心許ない、頼りない様を表す一つの形容詞であり、「おぼつく➕ない」ではない。
昭和50年代に(有料)快速急行(吊り掛け駆動)(非冷房🥵)の5700系😲趣味的にはともかく東武鉄道の評価を下げた😢
車齢が高くなっても通勤車などに格下げもされずに最後まで優等列車に用いられたこの車両は、幸せ者と行って良いだろう。
荒川土手で野球やっているとたまに対岸の土手の向うを走っているのが見えたんですよね。一回東武日光でけごんに乗ろうとしていたら臨時快速で次発だったみたいで同行者がいなければ乗ってましたね。その後廃車になってしまい吊り掛け駆動は5000系で堪能してました。
古き良き時代ですよね。
登場した車両、全部レトロでかっこいい!
日光への修学旅行で乗りました。
「なんだよこのボロ電車!」と嫌がる同級生達を横目に喜ぶ自分がいました笑
1985年のことなので引退3年前になるんですかね。
貴重な体験ができたと今でも思います。
非冷房を避ける為、夏場は通勤用ロングシートの8000系や10000系が登板することがありましたね。
末期の数年間、沿線に住むようになったのでよく覚えています。「たびじ」のヘッドマークをつけた臨時運用中心だった。引退までのごく短期間、5700系と1720系、デビューしたばかりのスペーシアが同時に拝めた、今となれば夢のような時代もありました。
5700系の座席の背もたれのカバーには鬼怒川のあさやホテルの広告が印刷されていたのをおぼえてます。
車体が旧型車仕様に見えるのに、台車が洗練された形に見えるのがアンバランスで面白く感じます。
1956年生まれで、この列車に、鎌ケ谷駅から春日部経由して、初の修学旅行に行った。日光一泊、釜屋旅館だった記憶があり硫黄臭い布団。しかし素晴らしい修学旅行お土産が、500円まで、家族全員で亡くなった😂
この車両は東武博物館で見たことがありますが、このような歴史があったのですね。
日光特急としての活躍は短かったものの、戦後短期間の間にスピードアップやサービス面での向上が大きく図られた証でもあります。
その後も伊勢崎線の急行として、さらには次々に出てくる新型車両の助っ人として八面六臂の活躍もされていたことが良く分かりました。
5700系が作り上げた東武特急の伝統はリバティ、さらにはスペーシアXに引き継がれました。また東武で日光に行きたくなりました。
下今市で分割・併合する5700系(とそのあとの1700系)時代のスタイルは 現在の『リバティ』に受け継がれていますね。
都内23区の小学校の日光修学旅行は多くが東武の臨時列車利用で、80年代は5700系がほとんどだった。
小学生だった私も窓全開で吊りかけ爆走する5700系で夏の修学旅行に行けたことはいい思い出。
あれ 窓もロールカーテンじゃなくて『鎧戸』だったんですよね。
私鉄で修学旅行というのは東武と近鉄くらいですね。
林間学校の臨時電車では5700のあとの時代は8000と言うこともあったそうです。
貸し切りではないが、大学通う際に、東武東上線で遠足の小学生は良く見かけた😉
東京23区出身なので、小学校の林間学校は日光。
東武5700系のお世話になったなぁ。
浅草始発快速の座席獲得合戦は座席目掛けて帽子が飛ぶ、鞄が飛ぶ、リックサックが飛ぶなどして凄かった。
これ…たびじ号として日光への修学旅行で乗った!
柏駅から東武日光まで一直線!
ボロボロでクソ味噌言われたけど、今となればもう一度乗りたいわ!
東武鉄道良き
迫真の匠最高
旧車体普通車両だった7800系は自分が小学生だった1985年頃に早々引退してしまいましたが末期まで主に快速運行していた5700系は90年代までと結構息が長かった印象があります。
木張りの床の真下からくる吊り掛けモ-タ-のバイブレーションが足首にとても心地良かった記憶があります。
マスターシードでパスタ食べてきました。ご馳走様でした。
他の動画で見た90年代に幹線の運用に就いている光景が衝撃的だった。
わずかな間だったが、DRC、スペーシアと一緒に走っていた時期があった。
東武の最長老だった。
そのスペーシアも、リバティ、スペーシアXの登場で姿を消していく運命になった。
今の最長老は、8000系。
JRに乗り入れるのはどの形式になるんでしょうね。🤔
@@By-Gaeshiスペーシア消滅で止めるんちゃう?😵
東武博物館に現在展示しているモハ5701は非貫通構造(猫ひげ)に復元されていますね
車体の側面に東武鉄道の標記があるのも味があってかっこいいです!
行田市に、半流線型顔も保存されており、レストランとして活用されています!味もグッド!オススメです😊
とある鉄道模型雑誌の主催する。5700系の貸し切り運行の抽選にもれて歯痒い気持ちしてなりました。
高速域の吊り掛けの音色は、京王5100系のそれとは違っていただろうと思える。 戦後製の電車ですから、室内は蛍光灯で塗り潰しであったにせよ、優雅な空間であることが推察されます。
自分が幼少の頃の記憶として残っているのは浅草13時50分発快速急行おじか193号で、土曜日の運転だったかな。
浅草06時00分発の早朝臨時快速(北千住〜杉戸は準急と同停車駅)にもよく充当されていました。
東武日光線は国鉄とバチバチやりあってたから、スピードアップに余念がなかったんだなあ。もし上毛電気鉄道を買収して前橋市から都内までの輸送で国鉄とやり合うようになってたら、少なくとも東武伊勢崎線の館林~太田間の複線化くらいはやってたんだろうか?
桐生、伊勢崎、前橋はかつては絹織物などの繊維産業で栄えた街でしたね。東武が高度成長期にビジネスや東京への買い物などにテコ入れしていればかなりの集客を集められたものと思います。
しかし箱根並みの集客力のある日光への注力、さらには東上線を含めて都心部のラッシュ対策でそこまで手が回らず、上越新幹線の開業や自家用車の普及が止めを指したことでしょう。
戦後間も無くから、高度経済成長期を支えてきた優等列車。
北関東の発展を支えた車両と言っても過言ではないのではないかな...😊
あと、動画のリクエストって可能ですか?
もちろんできますよ!
館林や太田あたりでの自動車などの産業の発達、さらには桐生などの都市があったからこそこの車両は活躍でき、さらに1800へとバトンを渡せたものと思います。
@@hakusinnotakumi
青函連絡の歴史についての動画をお願いします。
船、トンネルと変わってきたものをできれば2回ほどに分けて作っていただけたらなと思います
5:29 ここではC編成を全て吊り掛け駆動に改造したとありますが
6:30 ここではC編成がカルダン駆動のため後継車が登場しても運用に残ったという記載になっています。
そもそも時系列として逆で1700系が出たあとに吊りかけ駆動化されたこと、動画中の改造年度と新形式のデビューがその歴史通り正しく記載されているのは理解しておりますが、編集の都合でそれが逆に見えるような形になるのはちょっと悪手な気もします。参考までに。
昭和末期たまに清水公園駅に停車してあるのを眺めていました。まさしく古き良き車内でした。それと東上線から野田線に入れるのか、なんてのも知ったものです。
>二等車としても十分通用する。
その後のDRCやスペーシアも同じように思います。
東武博物館にいるネコひげ😺5700形は、あれは実車じゃなくて製造元のアルナ工機の、車輌製造第1号記念で残されてた先頭部を、博物館開館に合わせて譲渡して貰ったんだって?😮
アルナから引き取ったのはネコヒゲではなく建物内にある貫通顔です。この前頭部も元は引退した5703号のもので、アルナ解散後の2004年から展示されています。
屋外保存のネコヒゲは2009年の東武博物館リニューアル時に杉戸工場跡地より輸送、現在保存されている場所に設置された後に博物館敷地内で前面の復元工事を行なったものです。
こんばんわ❗️うあ!5700ときましたか!5700て110kwでつりかけですが結構速いんですね。95キロ運転でした。直角カルダンは不調つづきでしたね。加速度は1.6km/h/s。お疲れ様でした。よろしければSpacia100系のいん張力解析をしましたのでご覧ください。(*^^*)
東洋電機TDK-528モーターで これは名鉄3800系や 東急3700系と同じものです。
ギヤ比が同じTDK528系のモーターの
名鉄AL車よりギヤ比が高いからな。
待てよ?もしかして(ry
1979年の日光遠足の復路がコレだった。
もうこのころは既に定期運用は外れていたと思うな~。
なので、当時でも貴重な現役乗車体験をさせてもらったよ。
東武東上線、昭和中期まで高校までの通学に乗った覚えがあるw
床が木の板でガタガタいいながら騒がしく走ってたな~。
ん?5700系は2ドアだが、東上線は4ドアだから7800系とかじゃないのかなぁ?床が木の車両はわいも沿線に住んで小学校から大学まで通って乗っていたが。
早いもので「3世代前」の「東武顔」ですね。廃車間際まで優等列車で稼働してましたね。直接の沿線ではなかったけど、時々見かけました
大学鉄研の有志で乗りに行きました。その際、浅草駅で、見た目がスーパー鉄ヲタの若い男性に、「モーター車ってどっち向きですかね~?」と声をかけられ、「ここの真ん中の入り口から乗ればどちらでも行けるけど、東武は基本浅草方がモーター車」と即答したのはワイ😁
快速急行が急行より格下なのは、さすがにTOBUダケカナァ😅
江戸川区の小学生でした。小学6年生の、日光の移動教室に行く際、この車両に乗りました。
5700型は、国電タイプの8000型よりも先輩でしたね。
林間学校や移動教室でお世話になりました。
もしかして小岩の小学校!?
あれ?5700系に発電ブレーキは無かったと思いましたが。
あと『快速急行』設定時 運用に就いていたのは 本来快速用の6000系です。
A・B・Cの編成があるところは 同じ大私鉄の『近鉄 10100系』との共通点。
実際は AのクハとBのモハ BのクハとAのモハに組み替えて両方の先頭車が湘南顔の4連を組んだ事。
野田線の急行『きりふり・りゅうおう』に用いられた事にも触れて欲しかった。
日光線の急行がりょうもう号と比べてレベルが低かった(1800のレベルが高すぎた)こと、さらには当時快速電車に一部指定席があったものを快速を全車自由席にして逆に全車指定席のものを快速急行としたものかもしれませんね。
当時は6000系も冷房がなく、夏ともなれば5700も快速急行や臨時快速のたびじ号として稼働していました。
私事ではありますが、1984年の夏に日光に行く際にDRCは全て満席だったにもかかわらず快速急行の指定席は空席が見られたほど人気の差がありましたね。8000系ですら冷房完備の車両が多かった時代、猛暑に冷房がないと言うのは口コミで知れわたっていたものと思います。
@@TSUYOS185 さま
6000系は 夏に乗る電車じゃなかったですね。
乗り心地や シートの座り心地(背摺りは腰から上が板だったが)は 凄く良くて 足も速い電車だったんだけど。
6050系に更新されて やっとその良さが十二分に発揮された印象でした。
今から40年前、小学6年の日光林間学校でお世話になりました
家内郵政がいる大宮の高校に近い大宮駅を出発して、東武野田線から春日部駅を経由して、東武伊勢崎線、東武日光線を経由して日光へ向かう臨時特急があればいいのに。
猫ヒゲ🐱と呼ばれた初期の5700系、カッコええやん✨このA編成は最期迄猫ヒゲのままで好かったのに…
【6:37】
右の車両、、
顔が「京急旧1000形」にソックリ
❌足元がおぼつく
⭕️足元がおぼつかない
「おぼつかない(覚束無い)で心許ない、頼りない様を表す一つの形容詞であり、「おぼつく➕ない」ではない。
昭和50年代に(有料)快速急行(吊り掛け駆動)(非冷房🥵)の5700系😲趣味的にはともかく東武鉄道の評価を下げた😢