16:48の引用はアーレントがカントの言葉を曲げています。 原典はこう: Act in such a way that you treat humanity, whether in your own person or in the person of any other, NEVER MERELY AS A MEANS TO AN END, BUT ALWAYS AT THE SAME TIME AS AN END. 手段としてダケジャナクテ、同時に目的(ト手段)として扱いなさいという意味です。 さなわち、"人間は目的と手段それ自体であって、何人も目的のための手段のみであってはならない…" になります。
面白かったです。21章は本質的な話に近づいている感じがしてスリリングでした。機械に対するアーレントの洞察は古ぼけてない、今でも通用するなと感じました。投稿者様の例示もわかりやすかったです。
投稿主さんが受験で虚無を経験していたのを聞いて意外に感じました。
衣服の消費ですら「強いられている」圧力の中では、大学合格も「強いられたもの」なのかも知れませんね。
私も「自分が仕事で頑張っていることはそれなりに面白いけど、一体何を為しているんだろう」といった疑問を感じることがあり、「ある種類の病気に罹っている」のを感じて、時々海外に行きます。その意味ではヨーロッパよりアジアが面白く、「少し治った」あるいは「別の見方でこの社会を見れるようになった」気もしています。
学生時代に行ったパキスタンが衝撃でした。今度はラオスに行ってみようかと思っています。
16:48の引用はアーレントがカントの言葉を曲げています。
原典はこう:
Act in such a way that you treat humanity, whether in your own person or in the person of any other, NEVER MERELY AS A MEANS TO AN END, BUT ALWAYS AT THE SAME TIME AS AN END.
手段としてダケジャナクテ、同時に目的(ト手段)として扱いなさいという意味です。
さなわち、"人間は目的と手段それ自体であって、何人も目的のための手段のみであってはならない…" になります。
今の当時から見れば、アーレントのこの作品での思考傾向はnaïveに見られます。時代の試しに堪えられないようです。
機械、道具の仕様が少なくとも1年周期(周期的に長い)な農業が、ある意味では救われるのか
それとも夏の草刈りみたいな、大変ともいえるのか、
目的と手段が逆転するのが日常的すぎて、あたりまえで築かないってことなんですかね?(現象学)
ある意味人格が殺されないと、機械労働?工業勤務ってやってられない感じですかね?
データ化がすすむと車輪の探し方が 難しく感じました、そして車輪がもう難しくなりすぎた感じですかね?(スマホなど)
なんかいまだにしょうかできない、何かか残ってる感じが残りつつ、勉強になりました。
また機会があれば、お元気で(挨拶が難しい。)
ある意味でスマホ(SNS youtube)全体主義 みたいに言及するのは 問としては正しいのですか? 素朴に感じました。
~途中記載
最後まで視聴、追記
目的が部分性 の特徴だけど、人間の理性では全体をとらえきれないから 妥協的産物ともいえるのかな?
なんか派遣労働解禁とかが、ふっと思い出しました。
少なくても 今の世代のためと 次世代のためだと 思考経路は違うんだなとは思いました。
ハンナ・アーレントさん 翻訳者のかた 感謝申し上げます。
19章の物価の上司の具体例に一つ疑問があるのですが、「設計図通りのもの」ができるから自分の力を実感するのでしょうかね。
アレントはこの暴力を備えた制作という活動が、「自己確証と満足」を与えると述べています。
これは設計図通りというよりも、自分の生きた証みたいなのが、仕事という活動の下で耐久性と永続性を持って残り続ける、いわば不死性に連関してることなのでは無いですかね。
方丈記を読むと住処も仕事ではなく労働の産物で耐久性は無い諸行無常ですね。
現代の仕事も、ある意味では無限に反復させてる感じがあって、アーレントが考える”仕事”も、正直なところただの労働(労苦)に見える
やっぱ奴隷制がチラホラするんだよなぁ。
私はアーレントの一貫した実存主義的な姿勢を感じます