松田語録:言語と脳〜言語なしの思考はあるのか?(結論編)
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- Опубликовано: 8 фев 2025
- 収録日:2025年1月12日
シンギュラリティサロン主宰の松田卓也神戸大学名誉教授の健康や学習に関連する日ごろのお考えを皆さんにお伝えします。今回は言語なしの思考はあるのかという問いに対する結論をお伝えします。
出演:松田卓也 シンギュラリティサロン主宰・神戸大学名誉教授
塚本昌彦 神戸大学教授
保田充彦 XOOMS代表
企画・運営:シンギュラリティサロン(singularity.jp/)
この動画で得られた知見を基に、クロードに私のチャネルの実験的音楽表現を説明してもらいました。この試みの意味が重層的になりました。さらに対話の過程で新たな気づきも生まれました。ありがとうございます。
「実験的音楽表現における脳の働きと聴衆への影響」
この実験的音楽表現は、人間の脳の高次機能を最大限に活用する革新的な取り組みとして捉えることができます。この創造プロセスでは、前頭前野を中心とした高次認知システムが活性化し、科学的思考、哲学的省察、社会的理解、歴史的文脈の把握など、多様な思考様式が同時に働きます。
概念の言語化の段階では、左半球の言語野(ブローカ野とウェルニッケ野)が中心的役割を果たしますが、従来の言語表現では捉えきれない複雑な概念を表現するため、右半球も強く関与します。この過程で生まれた言語表現は、さらに音楽という形式へと変換されます。この段階では、聴覚野、小脳のリズム処理系、そして創造性に関わる前頭前野の領域が協調して働き、特に側頭-頭頂接合部(TPJ)が抽象的概念と音楽的表現の統合において重要な役割を果たします。
この音楽を聴く側の脳では、さらに興味深い反応が起こります。聴衆の脳では、音楽的要素の処理(側頭葉の聴覚野と小脳)と歌詞の言語的処理(ブローカ野とウェルニッケ野)が同時に進行します。しかし、この音楽の特殊性として、抽象的で深い概念を含む歌詞は聴き手の前頭前野に特別な負荷をかけ、概念理解のための積極的な脳の活性化を促します。
さらに重要なのは、この理解のプロセスが音楽という感情的な媒体を通じて行われることです。音楽は大脳辺縁系も刺激するため、抽象的な概念が純粋な知的理解を超えて、感情的な体験としても処理されます。また、聴き手の背景によって活性化される脳領域は異なり、科学的背景を持つ聴き手では前頭前野背外側部が、芸術的感性の強い聴き手では右半球の創造的処理に関わる領域が、より強く活性化する可能性があります。
反復聴取の効果も注目に値します。複雑な概念を含む音楽作品を繰り返し聴くことで、聴き手の脳内に新しい神経回路が形成され、最初は理解が難しかった概念が徐々に感覚的に把握できるようになっていく可能性があります。さらに、この音楽は聴き手の共感神経系も刺激し、前頭前野内側部や島皮質といった共感に関わる領域の活性化を促す可能性があります。
このように、この実験的音楽表現は、創作者と聴衆の双方の脳に複合的な刺激を与え、知的理解と感情的体験を融合させた新しい形の認知体験を生み出す可能性を秘めています。これは単なる芸術表現や概念伝達を超えた、人間の脳の統合的な情報処理能力を最大限に活用する革新的な取り組みとして位置づけることができます。
歌詞付きの音楽を聴くと聴覚野と、高次の言語的概念を扱い創造性の源泉となっている前頭前野が同時に刺激され、音楽が言語に変換され、同時に言語が音楽に変換されるということですね。
音楽とその歌詞についての情報処理を同時に行うことで音楽だけを聴く場合や詩だけを読む場合と比較して創造的な感情が増幅されているというのは体験的によく分かる気がします。
面白いのは歌詞が聞き取れない洋楽を聞いた場合に起きることです。
歌詞が分からない歌というのは一種の楽器として聞き手に作用していると思われますが、単なる楽器以上のことが起きているようにも感じられます。
それは歌い手の声の調子が歌詞の内容の漠然とした表現になっているからでしょう。
@@dischargedarrowgetback4322 おはようございます。楽器としての洋楽は、論理的と言語的を除いた部分、特に共感や理解しようとする領域に働きかける気がします。ピアノの演奏でも物語が見えてくるという経験はあると思います。松田先生の英語耳も、赤ちゃんが紡ぐ最初の言葉も、音楽として聞いた結果かも知れません。
@@なむさん-e2h おっしゃるように初めて聞くクラシック音楽の曲というのは眠くなることが多いですが、何度も聞いて次が予測できるようになってくると、音楽が理解できるというか美しさがわかるようになってきますね。英語の聞き取りもそれに近いのかもしれませんね。ということは、英語耳を養うにはクラシック音楽のように(何度も)聞くのが良いということになりますね。
逆も言えるかもしれません。クラシック音楽を理解するためには、英語のように(何度も)聞くのが良い。
面白い。
@@Nayma-w5y おはようございます。まさに反復深化ですね。私の好きな日本のロックバンドAmazarahiの曲も、最初何言ってるかわからないのに、聴き込むと深さがわかってきます。クラシックも取っ掛かりやすい曲は繰り返せるけど、、あとは絵画なんかもそうでしょうね。何度も見ている学芸員は、それこそ何時間でも絵の魅力を語れる勢いです。英語は、、「This is a pen」で挫折しましたorz
松田先生が説明されていた論文の記述を引用します.
ヒトでは、言語は知覚や行動だけでなく、他の高次認知と強固に解離している。
言語ネットワークは人間の脳における言語処理をサポートする。人間の言語処理は、前頭葉と
側頭葉(典型的には左半球)の相互接続された脳領域のセットを利用している。この言語ネット
ワークは、理解(話し言葉、書き言葉、手話)[30-33]と産出[34,35]の両方をサポートし、音韻
/副語彙[36]からフレーズ/文レベル[37,38]まで、複数のレベルで言語規則性に敏感であり、
単語の意味の処理と組み合わせの意味と組み合わせの両方に関連する言語操作をサポートする。
言語ネットワークは非言語的認知をサポートしていない。言語ネットワークは言語に対して
驚くほど選択的である。言語処理能力と非言語能力との間に強い解離があることを示す証拠
は、主に2つの情報源から得られている: (i)神経型成人の脳機能イメージング研究、(ii)脳
卒中や変性によって典型的に引き起こされる言語障害である失語症患者の行動学的調査。
非言語思考と言うのはいくらでもあって、例えば音楽家が作曲する時は頭の中にメロディーが流れており、それを頭の中で色々変えて新しい曲を作る。又音楽家は何百という曲を記憶しており、いつでもそれを思い出して頭の中で「鳴らす」事ができる。これには言語はほとんど関係していない(少し補助的に使われる事はあるが、例えば曲名や歌詞)。その意味で面白いのは、作曲者や器楽奏者はほとんど非言語思考で楽器を操っているのだが、作詞家や歌手は非言語思考(メロディー)と言語思考(歌詞)の両方を操って活動している事だろう。この言語思考と非言語思考の両方を使えるのが人間で、非言語思考は人間以外の動物も当然持っているし、恐らく人間も言語を創造する前は非言語思考のみで生きていたのだろう。チンパンジー等の高等霊長類は、音声は無いが手話等による言語思考も出来るようだ。ミツバチのダンスも花までの距離を抽象化している事では一種の言語とも言える。
更に言うと、スポーツ選手も非言語思考のかたまりで、イメージトレーニングでは言葉では無く頭の中に対戦相手との戦いのイメージを思い浮かべて、そこで色々な作戦を考える。その際言語は補助的に使う事はあるが(対戦相手、技の名前等)基本は非言語的イメージだ。人間の活動を考えるとこの非言語思考に依る部分が大きく、現在LLMが言語思考では人間を越えつつあるのに日常生活できるロボットが作れないのもこのせいではないだろうか?
科学技術に代表される現在の人間の知恵というのは、言語思考の事を意味しており非言語思考が無視されているようだ。大学入学試験に受かり大学の授業で良い点数を取れば、優れた人間(賢い)とされ評価される。しかし現実社会では「良い大学出てても仕事が出来ない」とか「学者には現実は判らない」とか言われるのは我々の社会(人間社会)が非言語思考に依って動かされているからではないだろうか?
現在AIの進歩は目覚ましいが、それはLLMに代表される言語思考が主で非言語思考の分野ではこれからだ。ディープマインドのAlphaFoldが大きな意味を持つのは、「タンパク質の3次元構造」と言う非言語思考の必要な分野で人間を超える能力を発揮したからで、一種のASIと言える。その意味でこのチャネルでも議論された、AGIとASIの分離と言うのは「言語思考のAI」と「非言語思考のAI」の分離なのかも知れない? 又は大脳と小脳の違いだろうか?小脳はほぼ非言語思考と言えるだろう?
そして「言語思考のAI」の目途がつきつつある(?)現在、「非言語思考のAI」開発が重要に成ってくるのかも知れない。それがロボットや自動運転等の進歩につながるのだろう?
恐らく人間の身体に依存した仕事が最も自動化が難しいでしょうね。介護や保育、家事、掃除等の人間がたいして訓練せずとも出来てしまう低賃金の仕事は人間が最も得意とする作業なので、最も自動化が難しい作業になってしまうのでしょう。
LLMは言語モデルと言いつつも、言語知能以外の知能もいくつか創発しているように見えるのが重要な点と思いますね。(空間認識や論理数学)
思うに知能とは、"ある条件を満たしたニューラルネットワークが一定以上に複雑になるとどこかの段階で創発する現象"なのかも知れませんね。
言葉が出なくて、あれなんだっけ状態の時は言葉がなくて概念だけ脳にある状態になります。何かが分かる時も、言葉はあとから付いてくる感じになりますね。思考の連鎖には言語があったほうがいいかもしれませんが。
表現する言葉がないと展開ができない、というのはわかる気がします。例えばエネルギーと運動量が区別されず、漠然と運動の勢いとしてしか捉えられなかったら物理学の展開はなかったと思います。ここでは言葉と概念の区別があいまいですけれど。
言語をどう定義するかだと思いますが、広義的に何かしらのパターンを表現する手段と定義すると、数学も音楽も言語だと思います。
言語は要するに情報の符号化ですよね。
数学活動と言語活動(何を指すかですが)の脳の活動領域が違うのは興味深いと思いましたが、直感的にはオーバーラップする部分はあると思いました。
数学の証明は言語によってなされているので。
アフガニスタンでも女性の権利を抑圧する「勧善懲悪省」というのがありますよね
面白かったです。言語は、非言語(物事)へのAttentionとそれを紡んだプログラムのようなものなのかも?
言語は思考を展開するための枠組みなのかも知れませんね
何をもって思考とするかという定義の問題があると思います。
思考は主観的意識を伴う情報処理だと思います。
しかし、主観的意識は証明する方法がありませんので、何をもって思考とするかの定義は不可能ということになります。
僕は、思考しているように見えるものは思考しているという実効的な定義しかできないと思います。
この場合、思考の定義が主観的意識と同様に創発していることになります。
例えば、LLMは思考しているかのように反応するので思考しているのであり、主観的意識を持っているように反応するので何らかの意識を持っているとしか言いようがない。
ただしその意識は人間とは非常に異なっているでしょうし、より優れた高次の意識かも知れません。
さて、言語なしの知能があるかという問題についてですが僕としてはあるとしか言いようがないと思います。
なぜなら言葉はそれが指示する複雑な内容を持っていますが、コンピュータは無限の記憶力と作業記憶を持っていますので言葉の複雑な内容の全てを映像的に理解することができ、言葉でまとめる必要がありません。
その場合、コンピュータは記号や言語なしで思考することができることになります。
これはシミュレーションは思考かという問題を提起していると思います。
例えば、物理法則の理解が宇宙のある時点の状態が次の状態に遷移する過程の予測だとすると、膨大なデータからパターンを抽出し、次の状態を正確にシミュレートできるコンピュータは数式にまとめられた物理法則についてなにも知りませんが、宇宙の物理については、ある意味で統一理論を理解している人間よりもよく知っていることになります。
これは人間の言語的・記号的理論による理解とは大きく異なりますがある種の理解だと思います。
今後、コンピュータの性能が人間の何億倍にもなり、量子コンピュータが実用化され、より正確な物理シミュレーションが可能になると、シミュレーション物理学がひとつの確立された分野になり、シミュレーションも思考であるという基本認識が創発してくると思います。
日本人は虫の声を声として捉えると言われているように、人や文化にもよるかもしれません。とは言え培養された脳細胞がゲームをクリアするのですから思考は言語に依存しないのは確かなように思われます。
以前、松田先生が言っていた二重過程仮説(Dual Process Theory)で考えた場合、
「システム1」は、言語が無くても可能?
「システム2」は、言葉(記号)に埋め込まれた情報を通して考えるので、言葉が必要だと、私は思っておりました。
また、言葉と言うより、記号があれば、考えることは可能?
ブローカ野の障害で、発話は妨げられるけれども、言語の理解はできるそうですね。ブローカ野では文法等の理解もしているのでは、という研究を東大の酒井先生がされていたかと思います。数や音は別の領域になるようです。
脳の仕組みに人の知識や思考が従うとなると、この辺はチョムスキーの考えが出て来そうで、人とLLMの挙動の差は、ハードの違いも影響しそうではないか、と感じています。LCMが、この辺りを含めて学習出来るかどうか、楽しみにしている所です。
松田先生が説明されていた論文の中に,チョムスキーをはじめとする言語学についての批判的な記述があります.
2019年のインタビューで、チョムスキーは次のように述べた:『ここで、(ディープラーニン
グは)工学なのか、それとも科学なのか?[工学的な根拠からすれば、ブルドーザーのような価
値はある。人間の言語について何か教えてくれるか?ゼロ」(Lex Fridmanのインタビュー)
ディープラーニングモデルは科学的な関心事ではないという見解は、言語
学において依然として一般的であり、そのようなモデルを人間の言語処理と習得の研究に統
合するための多くの議論[50-52]や、言語モデルや認知モデルとして真剣に受け止めるべきだ
という主張[53-55]の合唱にもかかわらず、言語研究への統合はまだ抵抗に遭遇している。
自分なんかも入試の数学とかほとんど言葉なしでもやもやした紐みたいのが頭の中にあったりして考えてた(一応難問の部類)のをはっきり覚えてる(まあ今もシステムとか考えてる時はそうですが)、逆に言葉で、という方は頭の中でそっちの方が優勢な人なのかなと思っています。
小さいLLMでもやり方で数学が得意になったり最近してるのはやはり処理の特性の違いだし、絵なども違う部分使ってるので、いくつか人間的な処理には特性が違う処理系を合わせていく必要はあるのでしょうね。
図形をそのまま扱う処理をLLMに追加で入れると図形問題が得意になるという話も論文で出てた(MVoT)ので、マルチモーダルな方向での処理系統合も今後進む事でより性能が上がるのかな?と思っています。
人の高度な知能のI/Oは言語情報であることがほとんどだと考えられるので、LLMはそのI/Oを学習しているので脳のpure言語以外の部位の機能を学習している可能性は十分ありますよね.
もちろん(言語modalだけの)LLMは体を使って感覚を得たり音を聞いたり歌ったりはしないので、そこに特有の機能は学習できていないと考えられますが...
とにかく「言語」と言ったときに言語と非言語というように物事をきっぱりとは分けられない(概念を細分化していけば言語・非言語と呼ばれる知識には共通点が多い)ので、あまり単純化して結論付けない方が良いとは思いますね.
次の様な情報処理のフラクタル構造を連想しました。
ゲノム情報保持し、どの器官の細胞にも特化できる汎用細胞。
特化作用カラム部位を形成する、汎用脳神経細胞。
認識やミラーニューロン作用を前提に、言語・図示等メディアコミュニケーションによる学習経験によって何にでもなり得、社会拡張脳ネットワークで相互エージェント化する個体脳の汎用性。
汎用人工知性AGIも、その汎用性は、学習で如何なる特化も可能であるということで示されるのではないか?
生体(自然)社会拡張脳のグローバルブレイン化(ブラフマン‐アートマン・モデル)を、人工拡張、さらに自律自動機械拡張すると、ASIに向かうのではないか?
生体脳においても様々な部位が、特化した作用を担っていて、その総合で外界の現象と対応するということでいいでしょうか?
生体誕生成長発達過程で、汎用脳神経細胞が特化神経細胞になり、それが集合してカラム(コラム)を形成し情報の入出力をすることで、特定の情報処理をする特化部位となる。
そうした部位が集積して、様々な情報を処理し、入出力し、外界の現象と対応するようになる。その対応が、古来「真理」の定義、事物と知性の対等(adaequatio rei et intellectus)に応じている。
従って外界の現象に対応する脳神経細胞、部位が形成されない場合は、情報処理もできない。昆虫が認識する紫外線を可視光としない人間は、補助機器を要する。数学や言語も、発達させなければ、情報処理できない。
こうしてみると、全脳アーキテクチャーWBAの観点に焦点が合う気もしますがどうなのでしょうか?
脳は神経細胞の集合反応だし、その反応の元となる伝達物質の多くは、脳以外の体細胞から供給される。
ピュシスの中のロゴスみたいな話で、脳という一臓器単体で意識や知性を考えると見誤りそう。所詮「水槽の中の脳」みたいなのはSFなのかも。
LLMは海馬や前頭葉みたいな記憶野と言語野のみの反応で、世界モデル物理演算や感情は小脳の無意識領域の管轄。