【通説とは違う】石田三成は嫌われ者じゃなくバリバリ理系の「近江商人」で合理主義者だった!

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  • Опубликовано: 8 фев 2025

Комментарии • 45

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan
    @SMK皇帝ファントム陛下Japan 6 дней назад +3

    投稿お疲れ様です👍🇯🇵

  • @구겸정
    @구겸정 6 дней назад

    良い発言ありがとうございます

  • @abbtk14
    @abbtk14 6 дней назад +3

    財政や行政という重責を担っていた以上、文治で合理主義に徹しなかったら豊臣政権はグダグダになっていたでしょうね。当時は薩摩の島津家ほどの大藩でも簿記会計が判っておらず、三成が手ほどきして全国に広めたなんて話があるくらい。しかしそうした地味ながら大きな貢献が評価される事は無し…。

  • @グレートリング
    @グレートリング 6 дней назад +6

    石田三成は西軍の総大将でなく一武将にすぎない。本当の総大将毛利輝元が敗戦後に逃げたため総大将に祭り上げられたのだ

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад +1

      それは余りにも危険な見解
      慶長5年7月16日付蜂須賀家政書状、7月22日(だったかな)付松井康之宛長岡忠興書状を見る限りは、明らかに首謀者としか思えない

    • @グレートリング
      @グレートリング 6 дней назад

      @光幸神谷-v7l さん
      そう思った根拠は徳川家康は300万石の大大名に対して石田三成は20万石だからです。家康に比べて三成に人望がないのは当たり前でしょう

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад +2

      関ヶ原から48年後に成立した霜女覚書読んだらわかるけど、細川ガラシャを人質にしようとしたのは三成とある
      それに関ヶ原からわずか8年後に成立した「恨みの介」。これは仮名草子だけど、秀次事件の首謀者が三成だと言っている。まだ豊臣氏が健在で、必ずしも徳川史観が成立していたとは言い難い時期にこういう見方をされている、という事は、三成には人望はなかったと思う。石高とか官位とかそういうのを除いても

  • @けんちゃん-l7i
    @けんちゃん-l7i 6 дней назад +2

    文治派と武断派は結局尾張派と近江派の争い尾張派の象徴が北政所 近江派の象徴が淀殿

  • @レスター-d6t
    @レスター-d6t 7 дней назад +5

    石田三成と徳川家康は袂を分かつまで仲が良かったと言われています

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад +1

      仲が良かったのに、家康が会津征伐で佐和山城に滞留したいと申し出た際に拒否するかね?

    • @大饗進
      @大饗進 6 дней назад

      一昨年の大河ドラマ、「どうする家康」においても、松潤演じる本作の主人公の家康に対しても、同じく歌舞伎俳優の中村七之助演じる三成は、真面目に戦や政治などに加え、普通に世間話をする程仲が良かった😢シーンもあったしなぁ。

    • @レスター-d6t
      @レスター-d6t 6 дней назад +1

      @@光幸神谷-v7l 三成は上杉家の直江兼続とも仲が良く家康がその上杉家に因縁付けて征伐に向かった為二人の良好な関係に修復不能な亀裂が入った

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 5 дней назад

      単純に仲良かったとするのは危ないんじゃないかな?

  • @hisanaoshinsho5528
    @hisanaoshinsho5528 5 дней назад

    当時の豊臣政権下の各派閥勢力の中において、『嫌われ者』と『理系の合理主義者』の二つの見方は必ずしも対立する要素では無かったのでは無いかと想像しています。むしろ、『バリバリ理系の合理主義者だったからこそ(誤解されて)嫌われた』側面が強かった、悪人では無いだろうけど家康公と比べるとどうにも・・・と距離を置いた武将が多かったのかと。

  • @のら猫-h1q
    @のら猫-h1q 7 дней назад

    歴史とは常に時代時代の勝者に都合良く書かれた物が文献の中心に有るので常に懐疑的な目を向け様々な視点で研究しないと解りませんよね

  • @いわぽん-z8j
    @いわぽん-z8j 6 дней назад +2

    うーん、僕のイメージでは従来から「合理的で凄腕の官僚で、悪役にされたのは後世の脚色によるもので当時も高く評価する同僚もいたけど、武断派の加藤や福島には嫌われていた」だったけどなぁ

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 2 дня назад

      政権の主宰者がいないときにクーデターに乗っちゃうからなぁ

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 5 дней назад

    有能な官僚だけど権勢を傘にってところもあるなぁって

  • @ndsttube
    @ndsttube 2 дня назад

    人情薄かったらあのサルに気に入られるはずなかったのでは?結構贔屓にされてたし、そもそも人情味がなく計算高かったら当時の状況考えても徳川の方に間違いなく着いていたはずでしょ?

  • @抹茶ココア-p4u
    @抹茶ココア-p4u 6 дней назад +1

    こういうのを言い出すとキリがない
    あの三国志の関羽も領民には慕われ、上司には好かれながら同僚や敵国の武将を見下す
    しかし関羽は神として崇められている
    こういう人もいるってこと
    無理に良い人に仕立て上げる必要はない

  • @kazu-k1947
    @kazu-k1947 6 дней назад +1

    嫌われていたり、人望が無かったりしたら、東軍を上回る兵力は集めることは出来ないでしょう。「あまり好かれるタイプではなかった」という感じでは? 
    当時の大名としては、「二大政党制」とか「候補者が2人しかいない小選挙区」みたいなもので、家康も幼い秀頼も「どっちもどっち」の中での選択だったのではないでしょうか。
    そうすると、「成長するまで自分がどう扱われるか分からない」秀頼政権が継続するより、「今すぐ具体的に地位や領地を保証してくれる」家康政権を樹立した方がマシと思った大名が多かったと考えることも出来ます。

  • @lamai9834
    @lamai9834 5 дней назад

    ホントに嫌われてたら、『見つかればお家取り潰し』の書簡を真田信之が(家康下賜の脇差とともに)家宝にしたりはしないはず。

  • @キングダムマニア
    @キングダムマニア 6 дней назад +2

    19万石の小大名に過ぎない 石田三成が 「西軍の総大将になれる❓️🤣」というところがすでにだいぶおかしい
    よく 120万石の大大名 毛利家 が黙っていられたもんだ
    … 普通、毛利家が西軍の総大将になると思う
    石田三成は小大名 だから 敗軍の将 の責任をなすりつけられただけだと思う

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад

      少なくとも首謀者だよ
      慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状があるけど、そこには毛利輝元に島津、大谷吉継、増田長盛、長束正家、前田玄以、そして三成らが組んで挙兵します、とある

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 5 дней назад

    頭がキレた方というのは確か。ただ相手を一度こうと決めたら譲れない頑固さ…秀吉の分身になりきった目線の物言いで加藤 福島の反感を買ったことは確か…。あと秀次事件など暗躍していませんか…?

  • @y元気です
    @y元気です 7 дней назад +2

    事務所の人、現場を見下す、実務経験の乏しい人、秀吉有って人、世は戦国時代ですよ。

  • @yoshi0314kawai
    @yoshi0314kawai 6 дней назад +1

    基本的に三成さんが秀吉にお茶を渡す時の配慮は、これは素晴らしい態度ですね。素敵な武将だと思います。
    関ヶ原の戦いでも、毛利家が動けない状況もあるけど、徳川軍の本隊、秀忠軍は真田軍が上田城で押し留めたものがなければ、東軍の圧勝はたぶんなかったはずですね。

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад +1

      慶長5年9月12日付増田長盛宛石田三成書状を読んでみて。当時の西軍が最早末期的だったことがよくわかるから

    • @yoshi0314kawai
      @yoshi0314kawai 6 дней назад

      @
      そんなの五奉行の増田長盛なんて、小物の大名だし、実際、徳川秀忠本隊は何万人ですか?それを足止めする真田軍はどれだけの部隊で足止めしていたんですか?おそろしく少数精鋭で徳川秀忠を止めていたのは分かりすぎですね。徳川家康、秀忠は信州真田軍を舐めてますね。知略を通じて、毛利本隊の前方にいる吉川家を裏切らせたのが精いっぱいだったはず、毛利本隊を動かせない状況にしたから、小早川秀秋を容易に裏切らせる事ができたはず、まぁ徳川家康、秀忠の知略勝ちでしょうね。たぶん。

    • @yoshi0314kawai
      @yoshi0314kawai 5 дней назад

      @
      しかも真田軍なんて、家康に味方する軍隊と三成に味方をする軍隊に二つに分かれていて、あの真田軍はどれだけ強かったんでしょうか?歴史にタラレバはありませんけどね。実際、徳川が勝ったんだし。

    • @yoshi0314kawai
      @yoshi0314kawai 5 дней назад

      関ヶ原戦い以降を見ても、大坂の陣も、どんだけ強いんでしょうか?真田軍は。家自体は、徳川と二つに分かれたけど。

  • @門亭栗数
    @門亭栗数 6 дней назад +2

    司馬遼太郎が悪いんだよ( -_-)

  • @discovery-defender
    @discovery-defender 6 дней назад

    徳川幕府が260余年続きましたから、石田三成に対する悪い評価が与えられてきたのはやむを得ないでしょう。今後の研究により評価が変わるのでしょうか。

    • @光幸神谷-v7l
      @光幸神谷-v7l 6 дней назад

      最近の研究者は、自著を売るためにかなり異質な事いう事が多い。真に受けない方がいいよ

  • @だいもり
    @だいもり 6 дней назад +1

    近江商人か…そういや近江出身の歴史上の人物といえば大友皇子、明智光秀、井伊直弼とどういうわけか
    後世反逆者と謀反人とさんざんないわれようをしている人ばっか…

    • @k2830
      @k2830 6 дней назад +3

      大友皇子や明智光秀は近江出身じゃないし、皇子も井伊大老も反逆者ではない。単に近江ゆかりで語るなら信長や秀吉などの天下人も加わるけど?

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan
    @SMK皇帝ファントム陛下Japan 6 дней назад

    推しの官兵衛を妬みハメて
    官兵衛失脚を狙った三成は嫌いですね

  • @熊澤典子-h2v
    @熊澤典子-h2v 6 дней назад +1

    こんにちは😊

  • @福本雅之-k8g
    @福本雅之-k8g 5 дней назад

    カチカチ音がする。

  • @JZI00447
    @JZI00447 6 дней назад

    さおりさんは辞めたの?

  • @光幸神谷-v7l
    @光幸神谷-v7l 6 дней назад +1

    いや嫌われ者だよ
    西軍の挙兵が知れ渡った際に出された書状の大半が「石治」とある。毛利輝元や大谷吉継が加えられているものもあるが、石田三成だけは絶対的に入れられている
    それに加えて、慶長5年7月16日付で出された蜂須賀家政書状。宛先は毛利家臣だけど、家政は輝元に挙兵をやめるように、三成の誘いに乗らないように述べている。家政は当時大坂屋敷にいたから、ある程度の事情は知っていたはず(少なくとも、下野にいた家康たちよりは事情を知っていたはず)。
    三成が最近は首謀者ではない、という見方があるけど、余りにも危険な見解だと思います

  • @けいちゃん-y7y
    @けいちゃん-y7y 6 дней назад

    度々間違った呼称あったり、正直今日のナレーター聞き取りにくいです。
    本当に嫌われていたら、誰も西軍につかないはず。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 5 дней назад

      好き嫌いの話ではないよ
      家康派かどうかだから
      西軍諸将は三成より大身の毛利輝元を見てたでしょ

  • @sohno
    @sohno 3 дня назад

    タイトルは「~だった!」と言い切っているが内容は特に新しいものはなくがっかりだった。