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当時の人たちは自分が貧しいと思っていない。普通だと思っている。周りが同じだから。私の小さい頃は、寿司、刺身は祭りの時ぐらいしか食べたことがない。今から思えば貧しかったと思うが、当時自分が貧しいと思ったことがない。比較する者がいないから。
貧しい=不幸では無いという事ですね。僕も子供の時は貧乏だったけど毎日楽しかった記憶しかないです。
昭和の中頃だけど祖母から「もうお前の世代の最後だから良く見とけ」と言われて本当の農家の家屋や牛小屋を見せられた記憶がある。いきなり出くわした牛さん怖かった。土間とか竈とか記憶がある。
トヨタの豊田家の様に地主で米作る傍ら、織物機を製造し、機織りもやってそれらを販売して収益を上げたり、千住大橋を作った石出家の様に地主でありながら土木をやったり、実は工業を企業体として担っていた側面も大きいことには余り触れられていないのは不思議。トヨタ自動車は急に出たのではなく、農村の工業力の蓄積があったから。
今でも田舎の百姓のお年寄りは自分達で土木工事したり簡単な小屋を作ったりほとんど何でもできる まさに百姓が出来る人がいる
>米と雑穀を混ぜて食べる生活。白米食が普及した、江戸時代中頃。白米多食によるカッケ(江戸/大坂患い)が増えたといいます。栄養面では、当時の都会より農村の方がバランスが取れていたと感じます。一粒の米にかけられる、無数の手間。改めて、農業に就く人への感謝を忘れてはいけないと思いました。
食と国家というものは結構重要で、日本みたいに食糧完全自給すると3000万人程度しか養えない国は、不足分を海外の輸入で調達するしか無い。かつでの米作推進はそういった安全保障のひとつでした。今は国際協調で自由貿易が出来ますが将来は分からない。そういう文脈で農業と農業従事者の歴史を見てみると、食糧自給が安定して来たのは戦後なのですよ。昭和後半までは輸入が不安定になると食糧は高騰した、そして外国米を輸入し始めたのが1993年です、冷夏による記録的不作が原因でした。
@@user-xe9dq1cj9g 1993年の米不作。長い間なかった、コメ泥棒が出たと聞きました。
私はいい歳の爺さんですが、SNSの普及と戦後80年も経過したという事も相まって長い間信じていた事が実は必ずしも真実でなかったという例を多く見る様になりましたね。戦後のわずか7年間の米軍による占領期間に形作られたさまざまな仕組み(いわゆるWGIPやアメリカに不都合な書籍の焚書、及び情報の検閲等)とそれらを引き継いだ日本人の教育者、政治家、マスメディアに依る影響が長く日本人の精神を歪めていた様な気がします。戦前の日本をネガティブに映像化するテレビの影響は絶大だったと思います。それがSNSという新しいシステムの出現で様変わりしてきました。全てが嘘だったとは思いませんが、情報に偏りがあったのは事実だと思います。このチャンネルのコメントには相応しくないかも知れませんが、そんな事を思いました。
そのとうりだと思います。やっと真実を知る事ができる時代になったなと強く感じます。このインターネットの出現は今まで騙され続けていた無知な私たちを救い出してくれました。正しい歴史認識を獲得して日本を正しく後世に伝えて行けると思います。
ここのコメントをまとめると「信じたいものしか信じない」となる。実に安直で危険な結論
@@user-xi6zg6mf9cどこからその結論導き出した?
@@rika8290 user-xi6zg6mf9c なる人は「自分がこういう輩です」と自己紹介してるだけですよ。
冗談抜きに歴史系の出来の良いチャンネルはNHK越えてきてますねNHKは冗長的だったり、いらん芸能人入れたり、制作者の主張強すぎたりの多くてコンパクトに事実を伝えることが出来なくなってますし
ほんまそれですね彼らが「うわーーっ!!」とかいって無駄に進行妨げるのが不快で、NHKの歴史系はシャットアウトしました教養人なら芸能人でも出てくれて構わんですけど
@@TheSugar510 「歴史への招待」の時代が懐かしい。
質の良い番組には質の良い視聴者がいないとね....
NHKが正って概念は終わり。GHQ監視の元、大日本帝国こき下ろす政策の工作メディアですから。自由は最高だよね。植民地はお金貢いでね政策の一環。
@@TheSugar510バラエティ番組にも通じて言えてるわw
「贅沢禁止」「質素倹約」百姓学んだけど、本では「お伊勢参り」とか「日光詣で」で近くにお楽しみ場所あったらしいので、不思議って思ってた。この配信見て納得。
戦後の占領洗脳
江戸期は幾度も質素倹約が叫ばれますが、それだけ裕福に暮らす人も多かったのでしょう。みな質素なら一々お触れを出さなくて良いので
私の地元は幕府領で「減税してるんだから蕎麦食うな、藩で江戸に売るから」って感じの御触れが回ってたみたいで。割と食生活が豊かだったみたいですよ。
いつの時代でも、庶民は案外たくましく生きてるもんですね江戸時代の百姓も現代の私たちも同じ人間ですからね
江戸時代も「コメが何キロとれたか」は自己申告だったので、正直に申告する人はいなかったそうです。いまのサラリーマンはガラス張りだからなあ。
@@user-qu1cw6rt3c他人から手伝ってもらって、かわりにお金を払っても、すぐにバレるらしいとかなんとか。支給についてはごねるくせにね😒
@@user-qu1cw6rt3cちゃんと検知がされていたから、あまり誤魔化しは出来なかったよ。天領は徳川吉宗以降、年貢は固定になった。なので年貢に含まれない野菜や特産物を副業で稼いでいた。
子供のころ、母に「一粒のお米でも作るのに1年かかるんやで。」と食べ物の大切さをいつも聞かされていました。ある日うんざりして、「ほな、100粒のお米やと100年かかるんかいな?その言い方、おかしいんちゃう?」と口答えしたら、頭をしばかれたのを思い出しました。
私の実家は米作りと米の販売、肥料の販売、竹林がありますので竹製品の販売、養蚕もしていましたので手機で着物を織ってこれは叔母たちの現金収入でした。昔のことだが意外と生活は豊かだったと思う。
本当に日照りや水害などで飢饉が続いたり、家族に病人が出た場合は村人は畑は手伝ってくれても薬代が嵩んだ場合などを除けば、農家の方々は忙しい中にあっても豊かな暮らしをしていたみたいです。江戸も中期以降の財政難になったお殿様のためにと酷い年貢の取り立てする、ドラマに出てくる悪徳代官もいたのは事実ですが、農家さんが年貢を納めてくれている立場なのでそれなりに大事にされてもいたそうです。やはり江戸や大阪は物価がそれなりに高かったので貧困層も多数いたことを考えると、自然災害や病気がなければ概ね農家さんたちは気持ちも豊かだったと思うと幸せそうに感じます。
勉強になる動画です!都市部の庶民の薄っぺらい布団より藁を敷き布団にもかけ布団に惜しみなく使っていたので冬はめっちゃ暖かかったみたいだし暖房も薪がタダ同然と手に入ったので都市の長屋より快適に冬は過ごせたと本で読んだことがあります。
暖かく過ごした?フカフカやでー
長屋の方が住環境が悪そう
冷静に考えると百姓が食うや食わずの生活をしていたら民衆の文化が発展するはずないんだな。
日本人のご先祖さまのほとんどはこっち側なんだから、江戸とか大坂の町民文化だけしか書かれてない教科書って明らかにおかしいよなあ。本来はこっち側に焦点を当てるべきなのに。
歴史的に最重要な事柄すら精々が目の前のテストの数字に反映させる程度で基礎教養として身に付けすらしないのが大半の人間なのにそんなものまで教える余裕はないよそんな人間に風俗史を教えた所で何の肥やしにもならないから肥やしにできる側の人間はそもそも自ら学んでしまいますし
@@KusuhARIA ほんまそれいい大学の文系でさえ、歴史のうわべを丸暗記しているだけで、歴史からは何一つ学んでいない人ばっかりやで記憶力や作業能力はそれなりだけど、教養はすっからかん。なので目先のこと以外への判断力は、マジ乏しいんよね🤗
いい大学?学歴なんて親が作った環境でガリ勉や~😂
@@KusuhARIA単なる政府プロパガンダを教養とか笑える。
まぁ確かに政府のプロパガンダw今の生活は昔よりずっといいんですよ〜っていう洗脳w実は昔の方が自由度が高くて豊かで今の方がずっと奴隷笑。
庄屋と小作とか住宅の格差と言われますが、実態は村全体で機能したようで、庄屋は公民館的機能もあったようで、資本主義的貧富の差ベースに理解しようとすると、誤解につながる。
江戸時代は暗黒の時代と言いたい人がいますが 実際はそれぞれ 人として楽しみも悲しみもあり また 遊び日を求めたなんて 本当に素晴らしい👏👏👏 人間らしい生活をしていたということですねとてもいい動画配信ありがとうございます
ワイは百姓しとるから思うんやが、年間の米消費重量の単位が江戸時代と現代では違うんではなかろうかと思うゎ😮昔は籾で保管したり運搬するしかなかったろうが、現代では一部の地域を除いて籾殻を除去した玄米で低温保管しとるがな。いや、白米として算出して数字を出してあるならまあええんやが、細かく言えば精米の純度も違うやろ。具体的には籾で25Kgを白米にすると18Kg位になるんやで😂 玄米なら19Kg位かの😊多分米をスーパーで買ってる人は白米での事しか思い付かんやろな😂
階級闘争史観で育った僕たち戦後世代は、百姓のくらしは文字通り「食うや食わず」だったと教えられました。特に不作の年などは、餓死者が続出したと習いました。「慶安の御触書」という「明確な文献」まで示して教えられました。また、江戸幕府による分断統治のため、士農工商穢多非人という惨い身分差別が貫徹していたとも習いました。これらが全て出鱈目だと知ったのは、自分で勉強してからでした。
だけど、日本の教科書を作ったりそれを支持してる人たちに喧嘩を売っては決していけない。こういう教科書の記述の件のような嘘のことを本当のことにするようなことを堂々とやらかしているなら、下手に突っかかったら何をされるか分からないから。
大阪の郊外だけど、40年ほど前まで田の字型家屋だったし、母の実家は未だに古いままなのでイメージはわきやすい。蔵の中からいろんなモノが出てきて、少なくとも富農は相当に豊かで文化的な生活を送っていたと思う。
畿内は 比較的 裕福。
@@user-sy8gb1kh2g うん、ボクもそう思う。農業も商業も発達していたから。
長野県も養蚕で豊かだったと聞いてます。庭にはリンゴや葡萄を植えて畑で自宅で食べる野菜を作り田んぼの近くには池で鯉やドジョウを飼って祭の料理にしていたとか
実家が約20年前までは、江戸時代からの家でしたが間取りは近い感じでした。江戸時代は農家か蚕か宿か酒屋か諸説あるらしいが今で言う従業員がいて曾祖父さんは何もしなかったと親から聞きました。ちなみに親の幼少期は農家と蚕だったと聞きました。蚕は相当稼げたんでしょうね。
私の生家は終戦でGHQ命令で、手まき衆7軒に田畑を分配した。江戸中期には作り酒屋を営み養蚕も副業で行い、常時10人程の奉公人を差配してた。明治期からは作り酒屋への重税政策に懲り、酒造業をやめ、営農の他、発酵種を斡旋販売する「糀屋」を営んでいた。つまり、農業と商業を生業の2本柱にして代々営んでいた。農民も色々です。時代劇の様なイメージでは無いですね。
6対4で百姓の取り分が多いのだよ。当時の領主も無為徒食ということを理解していた。飢饉がたまにあると領主の良し悪しが分かれる。畜米を放出して領民に配った領主は慕われた。飢饉の時年貢を増やしたりしたら恨まれるどころか田畑捨ててしまう百姓もいたのでますます困窮した。
江戸時代の百姓の生活についての私の知識は白土三平の漫画からのものぐらいしか無く、百姓は厳しい年貢に喘ぎ、極貧に耐え兼ね一揆を起すが鎮圧され生きたまま土中に埋められ虐殺されるのが普通で、楽し気な笑いとは無縁の苦しみだけの生活だった様に漫画の中では描かれていますが、実際はそうでも無かったんですね。 何故彼はそんな穿ったように描いたのだろう?
>何故彼はそんな穿ったように描いたのだろう?明治以降、特に昭和の疲弊した農村部を時代劇に表したのではないですか。五・一五事件(昭和7年)も、二・二六事件(昭和11年)も、農村部出身の青年将校が起こした事件でした。
白土さんの出自をお調べください。恐らく一定の思想的偏りがあったのではないかと推察されます。カムイの花巻村の若者たちはある理想郷を作ろうとしていますよね。この辺りが如何にもな感じかと思っています。(個人の感想です)漫画ですし、エンタメですし、フィクションです。権力者が悪辣で強欲で残虐なのもエンタメです。私は白土さんの作品の大好きです。
すごく わかりやすい動画でした広い土間で湯気が立つ かまどを見るのっていいですね僕は 遊郭の淋しい朝より農家の朝の方がきっと好きだな
昔、聞いた話。中国や韓国にも、百性という言葉はあるが、使われ方意味は、日本と少し違う。百姓は、農民を表すのではなく、広く一般庶民を指すというものです。そうすると、昔、国民の8割が百姓だったは、8割が農民だったのではなく、8割が庶民、農民、職人、商人、林業や漁業に従事していたと、すると、なるほど納得出来た記憶があります。
ドラえもんでのび太が家出で江戸時代に戻り、百姓たちと生活する話があったのだけどその主食がアワのおかゆ。のび太が「米でも炊けばいいのに」と言ったら「祭りでもねぇのに何贅沢言ってんだ」って返したシーンがあるんだけどそこで百姓たちは自分で育てた米すら食えず貧乏な生活を送っていたという認識が強まっていたが実際はそこまで貧困ではなかったとイメージが変わってなかなか面白かった
あのお父さんの熱を治す話か、懐かしい。確かに自分もそれで勝手に百姓のイメージ持ってたわ。
米食に関しては地域差があるんでしょうね
仙台藩では藩によって定められた「百姓が働いてはならない日」が年間80日もあったそうです。その日は「働かなくてもよい日」ではなく、「働いてはならない日」なので野良に出ることは許されず、村祭りなどの定められた行事に強制参加だったようです。
そんなデータなんか信用せんで先祖からの伝えられた事を伝えてくれ
@@user-vf9mq4ed5cなんやこいつ
昭和32年生まれ。戦後まで田舎は江戸時代とさして代わりが無い生活だった。囲炉裏の周りに箱膳があり、食器は全て入っていた。食後、お茶か湯で洗って飲んだ。そのまま箱膳に入れた。ひと月に一回くらい囲炉裏の灰で洗うくらいだった。食事は朝へっついで米を炊いてそれを一日に分けて食べた。朝・昼は汁と漬物。夜はそこに一品付くくらい。着物は藍染めの木綿。履物は草鞋。草鞋の代わりにゴム草履となった。
年貢で取り上げた米は、武士も食うが売りに出す。その米を商人や職人が買って食うが人口割合からみるとまだ余る。その米は普請工事などで人夫に日当として出すがすなわち農民が人夫をやっているので結局は農民も結構コメくってる。あと農作物は売り物にはできない二級品が大変よくできるのでそれは自家消費する。米も同様
お寺にご先祖様が寄進したとされる純金の花器が現存しているので、それなりに豊かな暮らしだったんじゃないかな。
我が家でも集落の神社に石灯籠を寄進している。今でも残っている。石燈籠の脇には我が家の先祖の姓名が刻まれてるので分かった。
江戸時代は、土地を持たない小作農があるように集団農業が主流だったそうです。農機具も集団で所有する。交代で休み(休日)もとっていた。いまの日本の農業は何もかにも個人で所有し、個人で仕事するから生産性が低いのではないでしょうか。農業の株式会社化が言われていますが、そこまでいかなくても農機具を村で共同購入しているところはあるそうです。
@@NAO-wq6xe 一説によると年貢(税)は5%くらいだったとか。いまのサラリーマンは年金や社会保険を含めると、実に50%近い負担です。
大規模農業の利点は価格交渉力と効率性ですね。団体割引で農機具、種、肥料を個人で購入する時よりも安く購入し、販売する時も、企業と交渉してある程度の価格をつけれます。組合員でお金を出し合えば、少ないお金で農機具が購入出来て、少ない農機具をシェアすれば作業効率が上がるでしょう。JAが「家族営農の素晴らしいさ」を主張する理由は、個別の農家に農業関連商品を売りつける為です。また、会社であれば経営、労働、土地の所有権、場合によっては出資者等も分離出来るし、シフト制で休みがとれます。まぁ、以前働いていた農業の会社では、20億投資して、10億しか回収していませんでした。加工工場や最新の農機具等に金を使い過ぎていました。反面、30アールの農園で低コストで利益を出している農家もあります。なので、農園の規模や資本の大小では無くて、利益が出せる経営が大切なのです。
@@user-fe3cr2en6e 詳しいですね。やっぱり「農業の株式会社化」に反対しているのは農協なのかな。農業の効率化をされたら、農機具が売れなくなるものね。数年前、小泉進次郎が「農業改革(本当は、農協改革)」を仰せつかって農協に斬り込んだが、結局なにもできませんでしたね。
@@user-qu1cw6rt3c JA+現農林水産省+農林族が鉄の三角形を形作って反対していました。GHQの三大改革と言われているうちの「農地法」は3つある改革の中で一番成功していると言われています。それは戦前農村でうねりを見せていた共産主義運動が戦後、急激にしぼみ、土地を手に入れた元小作人が保守化していくからです。戦前から役人が小作開放の為に計画していたのが農地法ですが、最初GHQはそれ程関心していなかったそうです。しかし、共産主義の防波堤になる事に気付きました。池田勇人もそれに気付きました。彼は当時の役人や自由党を説得して農地法は可決されました。池田勇人やGHQの思ったとおり、農村では社会党や共産党は勢力が伸ばせず、「農村から都市を囲め無かった。」そうです。今では信じられないかもしれませんが当時の役人は大規模農業がやりたかったそうです。しかし、元小作人は経営した事が無い人達が多かったので全国に一万位の農協が出来たそうです。しかし、農協も経営感覚が無い人達が多くバタバタ潰れる所が出てきたそうです。そこで全中という組織を作って地域農協も含めて全農協に命令を出していました。かつては農協を通さない米は検査され闇米扱いされたので、力のある農家と対立する様子が当時のドキュメンタリーに見られます。小泉進次郎達の農協改革というのはこの全中の権限を剥奪して地域農協に自由闊達に経営してもらう事です。今多くの地域農協は農産物の買い取りでは無くて、農家から農産物を集荷して問屋さんに売ってもらっています。農協は物を右から左に動かすだけで手数料を取れるのでかなり美味しい商売と言えます。農協が手数料を取り、問屋さんも手数料を取る、そして、店側も手数料を取る。こうして農家は中間マージンを取られるので手元に残る金は極僅かです。中間マージンを取られている分消費者も負担が重くなります。農協は買い取りをしてしまうと、自分たちで売って利益を出さないといけないので、買い取りに反対しています。買い取りを始めた地域農協が周りから嫌がらせを受けるという事例もあります。元々、農協は農家に安く農機具、肥料、種等を卸し、企業と交渉して農産物を出来るだけ高く売り農家に還元する事を目指した組織だったはずなのに、今では農家が直接売買をする方が儲かる位です。高く農家に売りつけたい農協にとって、農家が体力をつけては困るのです。例えば売れる農機具が減ります。農協にとっては一家に一台ずつ農機具が売れる方が利益が出せるのです。戦後の農家が弱小な経営体質に陥った理由の一つが、この農協に搾取される構図になっているからでしょう。そして、農地法の原則は「自作農主義」なので土地の所有者と耕作者が=でなければなりません。株式会社は株を出資する人の物で株主は基本的に耕作しないので、自作農主義に反するのでつい最近まで禁止されていました。衰退して来たとは言えJAや農家は自民党の大切な票田なので、自民党は農協改革に長年反対していました。左派政党は建前上は資本主義に反対するので、同じく株式会社の農地所有に反対していたのです。しかし、跡継ぎがおらずこれからはどんどん耕作放棄地が増え獣害な増加や景観の悪化につながるでしょう。「株式会社反対」と言っている場合では無いのです。イオンアグリ創造が全農場をオーガニックに変えるそうですが、大企業も含めてどんどん農業の会社に来て貰わないと大変な事になりますね。小作人救済の為の「農地法」ですが、戦後78年経ったのでもう引退しているかお亡くなりになっていると思うので、「農地法」は役目を終えたと思っていいでしょう。日本は土地の7割が山林なので、基本的に田畑は中山間地域にあり、一枚一枚が小さく高さ段差があり、生産性ではアメリカやオーストラリアには勝てないでしょう。そこで、例えば耕作放棄地に草食動物を放牧させれば、放牧地になり省力化出来て、餌代も浮き、景観の保持が出来て、観光客が来るかもしれません。会員制の農園もありでしょう。月額3000円払ってくれたら、野菜収穫し放題みたいなサービスとかあるし、農園オーナー制の様に月額一区画辺り月額いくらかでオーナーになれる制度にすれば、収穫体験をしたり採れた農産物を野菜セットで送るとかもありでしょう。JA管内の農家が減れば農産物が集荷出来ないので、JAにとってもジリ貧でしょう。JA自ら作業請負で米や野菜を作って地域内外に売ったり、外国に販売する必要はあると思います。或いは地域の農家が体力をつける様なサービスをするとか。農協もグループなのでを一枚岩出はありません。ポン酢で有名な馬路村農協の様に昔からやる気のある地域農協はいいですが、全中や全農に頼りきりだった農協は慌てているでしょうね。青果市場や直売所に持っていかなくても、アプリで農産物のBtoBやBtoCが出来る様になった今、農家にとって販路拡大するチャンスかもしれません。
労働力の相互提供は今でもありますよね。少なくとも祖母の世代はそれをやってた。
食うや食わずの小作農を百姓として紹介してるHPも多いけど小作を使う自作農家はいろんな作物や養蚕なんかで結構裕福だよそうでもなければ行商なんて儲かるわけがないだろう 日々の暮らしは質素倹約だけど使うときにはちゃんと使うよ
年貢は自作農だけが納めていたと言われている。我が集落では江戸時代に自作農は5軒だったって。それを「いっちょ前」と言われていたと亡き父が言っていたっけ。小作人や水のみ百姓は自作農に使われていたのでしょう。
うちの家系は地域で一番石高高い庄屋だったらしいですが江戸時代に伊勢神宮に参ったり熊野にいったりとだいぶゆとりのある生活をしていたみたいです。庄屋でしたが位牌が色付きの自画像で残っており当時は帯刀が許可されていたようです。農民っといっても教科書通りではないこともあります。
うちの先祖は名主だったので色々記録が残っているし話も聞くことができる。それによると、名主と長男は3食米で、普通に魚もついていたようだ。名主の仕事は一年中あるが、小作人は年間半年しか働かない。他は自由時間で、その間に自分のことを色々やって、現金収入を得ていたようだ。1日の労働時間は4,5時間ほどだったようでで、現代の会社員より圧倒的に少ない。毎日田畑に行っても特にすることがないから、山の果樹とか見る訳だけど、それも数日あれば終わる。収穫は大変だが人手があればこれも2,3日だったらしい。運搬は大変だったと思うが、牛車もあったようだし、現代の我々が思うような悲惨な生活ではなかったようだ。ただ、曾祖父が子供の頃の話によれば、嵐が来ると小作人は全員名主の家に集まって一言も発さずじっと土間に座っていたそうだ。
地域で主食の割合が違うのが興味深いです。そのまま、味噌作りの材料にも通ずるのでは?と思いました。お米が採れて水が綺麗で豊富な所は米どころ、酒どころとして有名な所なのかな?と想像がふくらみました。なんか、江戸時代って今より生きやすそう。😊
3:06 これもその通りです。いまの日本でも小麦のとれる地域は限定されている。だから輸入に頼る量が多い。タバコの葉もほぼ100%輸入です。国内でも生産していますが、それは古来の品種で「わかば」や「ゴールデンバット」といった安いタバコになります。外国の品種は国内で育たないのです。
こういう情報を見るときに肝心なのは、日本が端から端まで誰もが同じ生活をしていたと思い込むことだと思う。各地で機構が違い習慣が違い、特に江戸時代は各藩がそれぞれ自治を行っていて藩が変われば決まりが変わり物のやり方がかわったのだから、一つの地域に当てはまることが日本全体に当てはまるとは限らないことを念頭に置いて見ないといけないと思う。
むしろそれ歴史教育に言ってくれw
@@666fgd9 歴史だけにあてはまることじゃないけどね。どんなことでも常に「これはどういう条件の下で真であるか」を念頭に置いて考えなくてはならないと思うよ。例えば、水が摂氏100度で沸騰するのは気圧が1気圧と言う条件のもと(というか、1気圧の時に水の沸騰する温度を摂氏100度と決めた)でなので、条件が変わったら変わるでしょ。同じことだよ。
東海から畿内、瀬戸内の天領なんかはかなり豊かでした。西日本でも大きな藩では重税で苦しかった。
おっしゃる通りで、まず大事なことは各土地による気候の違いにより栽培できる作物に大きな差があった事をかんがえないとね。当然北にいくほど米の栽培も出来ないわけだし。着るものも寒冷地で綿花栽培が出来ない地域は明治時代まで麻の着物を着てたわけだしね。
兵農分離のおかげで百姓は日々働けば良い生活になりましたが、重大な問題は飢饉です。飢饉が起きればその年で災害が終わるわけでも無く、村はどう立ち向かったのか、お願いします。
1年だけの飢饉なら乗り越えられようが、二年三年と連続して冷害があったりするから、さすがに持ちこたえられないわな
知る所によると、天明の大飢饉の際に我が藩の藩主は名君で他藩から食料を融通して一人も餓死者を出さなかったと伝えられています。
@@azumam2427 庄内藩か白川藩?
@@user-lq4ty3eu8m 白河藩です。
先ず百姓は農業生産者では無い一部の武士長人僧侶公家以外は漁師も武士でも郷士も自給しているだから色々な職業まとめて百姓
人口の9割が農民だったから生産された米の殆どを消費していたのも農民しかいないうちの田舎は今でも田の字型だな、方角が違うと配置も変わるけど基本的には同じ便所は離れた所にあり、家を出ないと行けなかった昔は厩舎も横に付いてたが、倉庫や作業場になってるな。
江戸時代は一大中古市場が活況でしたね。
昭和24年からは全国的に1俵は60kgになったが、その前は1俵75kgであった。その理由は品種改良で稲が短くなり大きい俵を作れなくなったから。その後ますます短くなり麻袋(60kg)になり紙袋(30kg)になった。だから、しめ縄など見るも無残な形になっている。農家のコメは一人当たり二俵半といわれており、それで計算すると3.4合/日になる。そうでないと体力的に間に合わない。そして昔の農家の飯椀は今の丼くらいの大きさで山盛りで食べた。3.4合/日は合致する。(敗戦までの食生活はこの通り)節目々で理由をつけて餅も食べた。酒(一升/回)も飲んだ。だからカロリーはもっと多い。どぶろくは、くず米(割れ米)・青米(未熟米)で作る。他の雑穀(主に蕎麦(稗・粟・麦は目立つので平野部では植えない))と合わせればかなりのカロリーとなる。柿、栗、胡桃、動物の肉も必需。小説や幕府記録に惑わされると大きな誤りになります。
一俵かつげないよね重くて。江戸時代は誰でも(女でも)持てる重さとして標準だったけど。
一俵は重いは現代女性の基準ですか?。農家はもちろん町家でもそんな軟弱ではなかった。私の子供のころは2俵を持つ女性がほとんどだった。筋力は男女とも今とは比べ物にならないほど強いです。@@user-pm9yi4vc7r
で、特に裕福だったのは江戸を取り囲むようにあった農家は野菜類を江戸へ売りに行き肥料は江戸に住んでいる住民のトイレからし尿を回収してたので良いサイクルがあった
江戸近郊農村部出身の母の実家は戦後まで住み込みの奉公の娘さんが3人ほどいたそうです。別に本家でもない普通の農家です。
まあ江戸時代のイメージは明治政府のネガキャンも多いでしょう
農家と言っても庄屋は結構良い暮らしをしていた。本当に大変だったのは水飲み百姓で数はそんなに多くないと思う。高知とかは郷士とかもいたので農民と武士の境界もあいまいかなあ。1日4合も食べていたのはそれだけ労働が過酷だったのかな。1日5合食べていたと言われている人足の写真がとても筋肉質だった。
相対的には「江戸」よりも農村部のほうが豊かだったと思います。「江戸」では食事が偏り、ビタミン不足で脚気になる人がいた。これは「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれ、「江戸患いになったら田舎に帰れ」と言われた。実際、田舎に帰ると治った。それだけ栄養豊富だったのでしょう。
江戸時代、まず戦争がなくなったから、武士の地位があやふやになったのではないでしょうか。それこそ、260年も平和が続いたから、ほぼ全員が戦争経験なしです。それでもいまの官僚みたいな「職業としての武士」は残ったが、残りの「農工商」は自由に行き来していたでしょうね。
今と昔の米の質が違うんだって。品種改良・選抜が進んで最近・・・と言っても戦後15年ぐらい辺りから?の粘りのある米になったらしいけど、改良の方向性としては収量増加・耐倒伏(背の低い稲に)・耐病・収穫機械の導入の為籾の落ちにくい品種へ・・・そして耐冷性、味・粘り、コシみたいな。はるか昔の米はモチモチとかモッチリよりはサラサラしてたらしいです。だから栄養成分もそれほど糖分とかカロリーが多くないんじゃないかと。あと、二期作の二期作目は年貢の対象外だったとか。
本百姓は高持百姓の事で土地を所有しそれによって生活を営む者で検地帳に登録され納税義務がある人。土地を持たない人を無高百姓といい、自作農以外で生計を立てる者、別名水飲み百姓と呼ばれてた。水飲み百姓には小作する者もいたが商人・職人・漁師や医者もそれに当たる。故に豪商で巨万の富を得た銭屋五兵衛も水飲み百姓。
@@tahajii543 ただまあ、贅沢といえるかどうか。収入が少なくて、栄養のバランスのいい食事ができなかったのでしょう。現代でも、昼に立ち食いソバやカップラーメンを食べているサラリーマンがいます。
俺んち、戦後の農地解放で大分没落したが、先祖は江戸時代に百性ながら、農産物の取引もやっててちょっとした豪商だった。明治維新後、身分制度が無くなって色んな縛りがなくなると、財力に任せて、高級武士みたいな屋敷を構えて住んでた。その末裔の俺、大学で東京に出て、実家の職業を聞かれ「百性ですよ」と答えると、よく、気の毒そうな、或いは小馬鹿にするような顔をされたものだ。都会の人が、百性=貧しい、と考えるのは、それこそ都会には田舎で食えなくて出て来た人が多いからなのかな。
先日、とある動画配信者が江戸時代以前の百姓は年貢として米を殆ど取られたから(小)麦や雑穀を食べていた、「貧乏人は麦を喰え」と言われたくらいだから・・・と捲くし立てる様に話してたので???でしかなかったwだから個人的にはタイムリーな話題で参考に成りました。
@@user-si3mk4wx8n それはそうと、「左巻き」の誤用は改めた方が良いかと言葉は意味をちゃんと調べてから使った方がいいよ
米は換金できる商品だから、生産者ができるだけ手を付けないのは当然。今でも果実の生産農家は、出荷できる品質の物は出荷して、落下した果物とか選別に漏れた物を自家消費している。
@@user-si3mk4wx8n いくらなんでも目の前の機械でググることくらい出来るでしょう?それすら出来ないなら、まあ
「貧乏人は麦を喰え」は昭和時代の話しです。池田隼人の言葉。
江戸時代の農民は以外と暮らせていたようですね確かにボロい服装を普段してたけど、いわば作業着で正月や何かのお祭りでもなけりゃきれいな着物は着る必要もなかった。それに江戸時代は大抵は米しか税金として取られないから米以外は何作っても税金かからんからねだいたい味噌も醤油や酒も自家醸造してたしタバコも自分で、作って吸えばよいのであまり現金も必要も無かったとも言われている。
めいじと昭和の農地改革で貧乏になったんやで。江戸時代は飢饉以外は裕福ですよ。
ですね。自分でお金を作らなきゃいけなくなった。
あと平成の自民の改革で貧乏になりました
名主だった 先祖さんの 所に 田植え、稲刈りに 長門の 漁業の人が 来て 手伝い 米を 代金の 代わりに 貰って帰っていたそうです 来られるとき魚の干物、ワカメなど お土産に持って来て こちら側は、小豆 大豆、野菜の干物を渡していたと 稲刈りの後は、荷車に米乗せて 長門に 帰っていたそうです
明治維新でそれまで治めていた江戸幕府体制では生活が苦しかった教育を始めたからね。実は江戸時代も悪い暮らしでは無かったことが明らかになってきている
日本社会のスタイル「村社会」は農業から派生してます。
恥ずかしながら、土間の存在意味を知りました。夜間や降雨において、荒縄を編んだり、”むしろ”を織ったりしていたことを思い出しました。
豪農から、小作人まで百姓と一口で扱えません。中には大名お金を貸している百姓もいました。酒に代表される加工品などを作っていたのも豪農でした。彼らは多数の人を使う社長でもありました。そういった豪商には家事を行う人(女中)や育児を中心に行う人(乳母)が何人もいました。小作人(田畑を持たない人が多かった)は地主から田畑を借りていました。彼らは低収入で、極貧であった人が多かったようです。戦後GHQによる農地改革があり百姓の経済格差はだいぶ解消されました。
土地を借りて農業をやる人が多かったのは、いまでいう「固定資産税」が高かったからです。江戸の町民も土地を持ちたがりませんでした。
食べ物は、耕作割合はあってるのでしょうけど、今の米どころは品種改良されたもので、冷害被害に遭いやすかったり、川の氾濫も今よりは発生しやすかったことにも注意が要りますよね。鮒やイナゴは想像以上に食べていたと思いますよ。名主は村に2軒くらいあったと思います(村落では、今でも町内会長が2軒の持ち回りだったりする)。また、水害の多い地域だと、名主の家屋跡だけかさ上げされていて、避難場所を兼ねてましたから、今でも嵩上げの土地が見られますね。地域差があると書かれていますが、村落は水はけだったりの土地の条件で、村落にランキングがあったりしたと思います。あの地域低く言う人多いな~と思って見ると、大雨で田んぼが冠水することが多かった。
水害に遭いやすい地域は下層階級の人々に割り当てられた地域だったのでは?
割り当てられたっていうよりも、余っている土地は条件の悪い土地だったっていう感じだと思う。
逆に水害があるから田んぼができやすかったって考えもあると思います。水害ある土地のほうが栄養豊富ですからね。住むには困りますが。
ほぼ父母( 大正4年と9年生まれ)から聞いた話と変わらん、全然目新しくない😮 という気で聞いていましたが途中から気が変わりました。昭和の初めまで農村は江戸時代(電気 交通は別として)と変わらん生活(共同作業 娯楽 家 など)をしていたんだと。一つ疑問に思ったのは父母が「こなに三度三度 米の飯が食べられるようになるとは思わなかった」と話していたことから江戸時代の百姓がデータほど米を口にしていたとは考えられない。おそらく反物や魚と交換してあるいは換金していたのでは? 実家は「米どころ」と言われた(過去形)地域です。
言うほど悲惨ではないが楽でも無い、地域差もある・・・なるほど
当時の農家でも家長の嫁の指定席があり、農作業でも男女の能力(力や体力の違い)に合わせた農作業の分担や家庭内での役割分担をしていて、一部のフェミや膿家の思い込んでいるような、女性や嫁というだけで虐げられ、軽んじる風潮ではなかった。
江戸時代の農村は、以外と男女公平だったんですね。
お疲れ様でした。久しぶりの動画アップありがとうございます。雑穀米の方が体には良いし、脚気にならないしでいいと思います。台所というのは今のダイニング兼リビングですね。
場所によりますな・・辺鄙だとか寒村だとかだと、戦後に入ってすら、ちょっと信じられないほど貧しい集落というのが多数あったようだ
勉強になりました。ありがとうございました。
食うや食わずの生活なら子作りなんて無理無理で、日本の人口は半減しとったでしょうなあ現代まで日本人の血筋と文化が受け継がれてるということは、貧しい時期はあっても基本はそこそこしっかり食えてたという事ですね
基本的に子だくさんの家は子どもを労働力と見ていたわけで、貧しい、貧しくないは、また別問題だと思います。
@@user-qu1cw6rt3c お金がない貧しさではなく食べ物すらない貧しさが前提なので貧乏でも農家で作物が食べられれば結婚出来ますし子も成せますが、食い物すらないところに嫁ぐ人はいませんし、子を成して労働力になるまで育てる事も出来ません多分 昔のアフリカなんかの【貧乏人の子沢山】を想定してはるのかも知れませんが、あれはだいぶ特殊です
@@娘ちゃんねる抹茶味z そうですね。江戸時代、農村部では食べるのには困らなかったかも。飢饉など例外を除いて。
ゆい?名前は知らないけどそれは昭和40年代いっぱいまでやってたよ。たいして変わらない農家の暮らし。1970年以前は、江戸時代と同じだな
農繁期には御10時と3時があってお煮しめとかおにぎり巻きずしとか炊き出しがあった でもだいたい午前中におわってたから(子供的には)3時はなかったか 衣類は江戸でも古着が普通 和服は解いて仕立て直しできるから大人から子供まで一生物(四季折々にも対応出来る) 最後には赤ん坊のおしめですね(笑)。それと村にも寺子屋があった百姓往来のような教科書もあって識字率もたかかった 幕府の御触れが読めなかったら大変なことになりますからね そのまま明治時期に小学校になっています 「講」の話が抜けてたね 伊勢参りの講があって旅行も楽しんでました 庚申様も忘れてはいけませんね 田舎には普通にありました 庚申塚と伊勢講 セットですね 講のこと話だしたらきりがないのでやめておきます
今でも集落はこの時の習慣を大事にしているから都会からきた現代風の人間とそりゃうまくいかんのだろうなあと思った。あと東北地方の寒村などはこんな生活じゃなかったと思う。子供を間引きしたり遊郭に売ったりしてたと言うしな。遊び日なんて余裕があったかどうか。
百姓って、元々一般の人って意味なんだけどねぇ…
私の住む地域(今でいう大字)は、基本的に彦根藩だけど、天領地、最上藩の飛び地もあってややこしいところでした。資料を調べると私の家は農家で1800年頃からの言い伝えなどでわかっています。蔵には江戸後期の年号が書かれた桐の入れ物に茶碗などが入っています。冠婚葬祭を家でするための茶器です。それには江戸時代なのに私が使っている性が書かれています。当時農民には性がなかったと言われますが、私の家は庄屋だったので性があったと思われます。また、明治2年、明治3年、庄屋であったためか彦根藩と書かれた近所の戸籍台帳があります。嫁は「どこどこ村から嫁いだ」と書かれ、家族構成が書かれています。その後廃藩置県で彦根藩が無くなり、我がすむところが朝日山県、長浜県、そして滋賀県になったのです。
昭和の歴史の授業では、士農工商という身分制度があった(現在では否定されています)と教えられました。別の動画でも見たことがありますが、食べるにも困るくらいの貧しい武士は多くいました。同じ農民でも、庄屋や地主は大威張りできました。
士農工商って、明治になってから「江戸時代にそういう制度があった」と言われるようになったそうですね。
武士が食事にも困るというのは不自然だが、借金返済となると節約できるのは食費ぐらいだし。
@@user-pm9yi4vc7r でも、なんとなく想像がつくよ。知り合いに区役所の職員がいるが、いつも「民間企業は給料が高くていいなあ」とこぼしている。「でも、退職金はいっぱいもらえるんでしょ?」「世間体もいいし」と返すのだが、これがまさに江戸時代の下級武士ではないか。逆に民間企業(農工商)はリスクを背負って生活している。
カムイ伝とかだと地獄みたいに描かれてる。(笑)
天候によっては百姓に金あまり現象があったのも事実。幕末の不平等条約によって農村富裕層がどうなっかには興味があります。
藤や葛の糸を使った太布は普段着というよりは衣服の保護のための上着という作業に特化した衣服だったそうですが、今となっては化繊に追いやられて絶えた技術になってしまいましたね
年貢米を徴収されて厳しい生活を強いられていたというイメージだけど、稲作自体はそんなに大変ではないよね。夏田植えをして放置し、秋に収穫するだけのことなので。江戸時代前は自分が暮らす領地の大名が戦をすれば戦場に行って戦までしていたくらいだからね。
いろりで暖まってるじいちゃんがニコニコで笑いました今の漫画の基礎は江戸時代にはもう完成していたんですね
納税の時はお代官様がお目こぼしをしてくれたらしい!
百姓でも神社⛩️お寺に 算額 を奉納。
飛騨の高山。天領と云って幕府直活地だったんですよ。
教科書では税率高すぎて厳しかったと書かれているけど、今と税率大差ないからな
農家ですが、私が物心ついた時の我が家の大きさは間口9間(16,2m)で奥行きが5間(8,1m)でした。玄関から左側は四八ならぬ四八と二十でしたね。(八帖四間と十帖二間)とっくの昔に今風の家に建て替えました。岐阜県のくびれた部分(県の中央部)では大きな家が多かった憶えです。
私は集団行動を苦にしますけどね。この時代の農民に生まれなくて良かった。
鹿児島に甘藷多いのはイメージ通りだわwww
今の機械式農法と違い人力でやっていたので、手の届く範囲を耕していた。今の科学的な合成農薬は無くても、自然由来の木酢液や灰等で害虫対策をしています。今の農家と同じく農業そのものはサラリーマンがうらやむ暇な日々だったようです。害虫大発生、飢饉でも町の人達が先に倒れて農家は食料備蓄しているため倒れる事は後です。昔の農家は安定業種ですね。
たわけ=バカと言う言葉があるように、江戸時代には長男がほとんど全ての家督を相続しました。長男以外の男は小作になりました。年貢は土地の持ち主に課されました。土地を持たない人は上方では町人と言いませんでした。面する道の幅により年貢が課されるので、ウナギの寝床の様な細長い土地が一般的でした。経済格差は非常に大きく、豪農では藩にお金を貸している人もいます。藩は借金があまり大きくなると苗字・帯刀を許すことでその額を下げてもらっています。
半円上に煮炊き出来るって、システムキッチンだな。素晴らしいな。
地域差はあると思いますが主食は米を食べてたと思います米1石は1人が1年で食べる量で、幕末は全国で3000万石で人口3000万人輸出していないため余分な米の用途は酒等だけのため、全国民が食べないと余っちゃいます
村が一つの会社だったと考えると解りやすいのかも。
新しい反物を染めたり刺繍したりをお百姓さんも楽しんでいたのは良いと思いました。やっぱり好みはあれど、オシャレするのはどんな方でもワクワクすると思うので😊休みも増えて良かった…(^_^;)
いつも楽しく拝見しています。
面白かったです。なんか町内会がこんな感じだったなあと、ふと思いました^^きっとむか~~~しから続いている村の風習の名残なのかもしれないですね。
地方によっては餓死者や人減らしなんてあるんだし領主と飢饉次第でかなり変わるんじゃないですかね
そりゃあ8割の農民が米を作ってるのに米を喰ってなければ「米を輸出してたのか?」って事になる。
「江戸時代の農民はひどい暮らしをしていた」って話は、明治時代になってから新政府が(自分たちを正当化するために)言ったってことと、第二次世界大戦後はマルクス主義にかぶれた歴史学者がそういうことを主張したってことが原因みたいですね。実際には、当時の世界において庶民の生活が世界一良かったのは日本だったと。もちろん現在と比べると物質的にも貧弱だったし、公然と幕府を批判するなんてことも出来なかったんだけど、それでも当時としては、世界一めぐまれた庶民ではあったらしいね。
ここで言われている"郷蔵"この役目を務めていたのが神社と聞いた事があります。言われてみれば確かに高床式建築で保存/倉庫としては最適かも知れません。
我が集落にも郷倉がありました。ここには種や飢饉に備えての籾を備蓄していたそうです。昭和40年頃まで使われていなかったけど建物がありました。高床式で板張りの家屋でしたよ。今でも集落の公民館にその写真が残っている。
酷い時で5公5民で、殆どは4公6民だったと言うから今の7公3民より豊かだったのではないかとさえ思っている…。
しょうもな
昭和だが金田一耕助に出てくる村はまだ裕福だよね。極貧は集落ごと貧しい。都市部近郊や港宿場町城下町以外は北へ行くと本当に悲惨。
農家だったので興味深く試聴しました。福井なので、多少違いはありましたが、大黒柱の位置には思わず膝を叩きました。田の字の配置こそ若干違いますが、大黒柱の位置はドンピシャでした😊米の収穫では、ハサがけや天日に干す部分にも触れて欲しかったなあ。昭和世代ですが子供の時は概ね江戸時代と変わらなかったようです。農業は人間のやる仕事じゃないくらい過酷でした。あと、脳溢血とか寝たきりになった高齢者の最後がどうなったのかも気になりました。紙おむつや紙パンツもなく、その苦労はいかばかりであったことか。老婆が外トイレで便ツボに落ちて死んだ話もあります。何も言えません。
江戸時代の貧しさをいつの時代と比べるかによると思うけど今の時代でも電気が無くなっただけでも貧しい生活になりそう縄文時代よりは良い暮らしかもしれないけど
ネタで「昔話盛り」という盛り方があるけど、本当にそうだったのかもしれない(笑)
エド近郊の百姓はわりかし裕福だったとか?都市近郊の百姓は割と恵まれていたのかも知れませんね。
都市部に近い農村は生産性も高く普通に米を食って豊かだったようです。寒冷地はそうもいかなかったろうけど。だから他の食材を補わないといけないので、キノコ中毒は寒冷地に多い。
船乗りの多くが百姓身分という記録がある、土地を有さない水呑みと記される場合も多い。つまり、親から引き継ぐ戸籍簿記載が百姓ならば継続し百姓と記されるわけで、有名な船乗り流通業の高田屋嘉平も百姓身分。
まあ、江戸時代の仕事って免許制の世襲制なんで、次男三男は下請け請け負いになって区分としては百姓、百の仕事をする何でも屋として扱われちゃうのね。
小作という制度がありました。小作は木を切る、トントンと~。だけじゃなかったようですよ。
当時の人たちは自分が貧しいと思っていない。普通だと思っている。
周りが同じだから。
私の小さい頃は、寿司、刺身は祭りの時ぐらいしか食べたことがない。
今から思えば貧しかったと思うが、当時自分が貧しいと思ったことがない。
比較する者がいないから。
貧しい=不幸では無いという事ですね。僕も子供の時は貧乏だったけど毎日楽しかった記憶しかないです。
昭和の中頃だけど祖母から「もうお前の世代の最後だから良く見とけ」と言われて本当の農家の家屋や牛小屋を見せられた記憶がある。いきなり出くわした牛さん怖かった。土間とか竈とか記憶がある。
トヨタの豊田家の様に地主で米作る傍ら、織物機を製造し、機織りもやってそれらを販売して収益を上げたり、千住大橋を作った石出家の様に地主でありながら土木をやったり、実は工業を企業体として担っていた側面も大きいことには余り触れられていないのは不思議。トヨタ自動車は急に出たのではなく、農村の工業力の蓄積があったから。
今でも田舎の百姓のお年寄りは自分達で土木工事したり
簡単な小屋を作ったり
ほとんど何でもできる まさに百姓が出来る人がいる
>米と雑穀を混ぜて食べる生活。
白米食が普及した、江戸時代中頃。白米多食によるカッケ(江戸/大坂患い)が増えたといいます。栄養面では、当時の都会より農村の方がバランスが取れていたと感じます。
一粒の米にかけられる、無数の手間。改めて、農業に就く人への感謝を忘れてはいけないと思いました。
食と国家というものは結構重要で、日本みたいに食糧完全自給すると3000万人程度しか養えない国は、不足分を海外の輸入で調達するしか無い。かつでの米作推進はそういった安全保障のひとつでした。今は国際協調で自由貿易が出来ますが将来は分からない。そういう文脈で農業と農業従事者の歴史を見てみると、食糧自給が安定して来たのは戦後なのですよ。昭和後半までは輸入が不安定になると食糧は高騰した、そして外国米を輸入し始めたのが1993年です、冷夏による記録的不作が原因でした。
@@user-xe9dq1cj9g 1993年の米不作。長い間なかった、コメ泥棒が出たと聞きました。
私はいい歳の爺さんですが、SNSの普及と戦後80年も経過したという事も相まって長い間信じていた事が実は必ずしも真実でなかったという例を多く見る様になりましたね。戦後のわずか7年間の米軍による占領期間に形作られたさまざまな仕組み(いわゆるWGIPやアメリカに不都合な書籍の焚書、及び情報の検閲等)とそれらを引き継いだ日本人の教育者、政治家、マスメディアに依る影響が長く日本人の精神を歪めていた様な気がします。戦前の日本をネガティブに映像化するテレビの影響は絶大だったと思います。それがSNSという新しいシステムの出現で様変わりしてきました。全てが嘘だったとは思いませんが、情報に偏りがあったのは事実だと思います。このチャンネルのコメントには相応しくないかも知れませんが、そんな事を思いました。
そのとうりだと思います。やっと真実を知る事ができる時代になったなと強く感じます。このインターネットの出現は今まで騙され続けていた無知な私たちを救い出してくれました。正しい歴史認識を獲得して日本を正しく後世に伝えて行けると思います。
ここのコメントをまとめると「信じたいものしか信じない」となる。実に安直で危険な結論
@@user-xi6zg6mf9c
どこからその結論導き出した?
@@rika8290 user-xi6zg6mf9c なる人は「自分がこういう輩です」と自己紹介してるだけですよ。
冗談抜きに歴史系の出来の良いチャンネルはNHK越えてきてますね
NHKは冗長的だったり、いらん芸能人入れたり、制作者の主張強すぎたりの多くて
コンパクトに事実を伝えることが出来なくなってますし
ほんまそれですね
彼らが「うわーーっ!!」とかいって無駄に進行妨げるのが不快で、NHKの歴史系はシャットアウトしました
教養人なら芸能人でも出てくれて構わんですけど
@@TheSugar510 「歴史への招待」の時代が懐かしい。
質の良い番組には質の良い視聴者がいないとね....
NHKが正って概念は終わり。GHQ監視の元、大日本帝国こき下ろす政策の工作メディアですから。自由は最高だよね。植民地はお金貢いでね政策の一環。
@@TheSugar510
バラエティ番組にも通じて言えてるわw
「贅沢禁止」「質素倹約」百姓学んだけど、本では「お伊勢参り」とか「日光詣で」で近くにお楽しみ場所あったらしいので、不思議って思ってた。この配信見て納得。
戦後の占領洗脳
江戸期は幾度も質素倹約が叫ばれますが、それだけ裕福に暮らす人も多かったのでしょう。
みな質素なら一々お触れを出さなくて良いので
私の地元は幕府領で「減税してるんだから蕎麦食うな、藩で江戸に売るから」って感じの御触れが回ってたみたいで。
割と食生活が豊かだったみたいですよ。
いつの時代でも、庶民は案外たくましく生きてるもんですね
江戸時代の百姓も現代の私たちも同じ人間ですからね
江戸時代も「コメが何キロとれたか」は自己申告だったので、正直に申告する人はいなかったそうです。いまのサラリーマンはガラス張りだからなあ。
@@user-qu1cw6rt3c他人から手伝ってもらって、かわりにお金を払っても、すぐにバレるらしいとかなんとか。
支給についてはごねるくせにね😒
@@user-qu1cw6rt3c
ちゃんと検知がされていたから、あまり誤魔化しは出来なかったよ。
天領は徳川吉宗以降、年貢は固定になった。
なので年貢に含まれない野菜や特産物を副業で稼いでいた。
子供のころ、母に
「一粒のお米でも作るのに1年かかるんやで。」
と食べ物の大切さをいつも聞かされていました。
ある日うんざりして、
「ほな、100粒のお米やと100年かかるんかいな?
その言い方、おかしいんちゃう?」
と口答えしたら、頭をしばかれたのを思い出しました。
私の実家は米作りと米の販売、肥料の販売、竹林がありますので竹製品の販売、養蚕もしていましたので手機で着物を織ってこれは叔母たちの現金収入でした。昔のことだが意外と生活は豊かだったと思う。
本当に日照りや水害などで飢饉が続いたり、家族に病人が出た場合は村人は畑は手伝ってくれても薬代が嵩んだ場合などを除けば、農家の方々は忙しい中にあっても豊かな暮らしをしていたみたいです。
江戸も中期以降の財政難になったお殿様のためにと酷い年貢の取り立てする、ドラマに出てくる悪徳代官もいたのは事実ですが、農家さんが年貢を納めてくれている立場なのでそれなりに大事にされてもいたそうです。
やはり江戸や大阪は物価がそれなりに高かったので貧困層も多数いたことを考えると、自然災害や病気がなければ概ね農家さんたちは気持ちも豊かだったと思うと幸せそうに感じます。
勉強になる動画です!
都市部の庶民の薄っぺらい布団より藁を敷き布団にもかけ布団に惜しみなく使っていたので冬はめっちゃ暖かかったみたいだし暖房も薪がタダ同然と手に入ったので都市の長屋より快適に冬は過ごせたと本で読んだことがあります。
暖かく過ごした?
フカフカやでー
長屋の方が住環境が悪そう
冷静に考えると百姓が食うや食わずの生活をしていたら民衆の文化が発展するはずないんだな。
日本人のご先祖さまのほとんどはこっち側なんだから、江戸とか大坂の町民文化だけしか書かれてない教科書って明らかにおかしいよなあ。本来はこっち側に焦点を当てるべきなのに。
歴史的に最重要な事柄すら精々が目の前のテストの数字に反映させる程度で基礎教養として身に付けすらしないのが大半の人間なのにそんなものまで教える余裕はないよ
そんな人間に風俗史を教えた所で何の肥やしにもならないから
肥やしにできる側の人間はそもそも自ら学んでしまいますし
@@KusuhARIA ほんまそれ
いい大学の文系でさえ、歴史のうわべを丸暗記しているだけで、歴史からは何一つ学んでいない人ばっかりやで
記憶力や作業能力はそれなりだけど、教養はすっからかん。
なので目先のこと以外への判断力は、マジ乏しいんよね🤗
いい大学?
学歴なんて親が作った環境でガリ勉や~😂
@@KusuhARIA単なる政府プロパガンダを教養とか笑える。
まぁ確かに政府のプロパガンダw今の生活は昔よりずっといいんですよ〜っていう洗脳w実は昔の方が自由度が高くて豊かで今の方がずっと奴隷笑。
庄屋と小作とか住宅の格差と言われますが、実態は村全体で機能したようで、庄屋は公民館的機能もあったようで、資本主義的貧富の差ベースに理解しようとすると、誤解につながる。
江戸時代は暗黒の時代と言いたい人がいますが
実際はそれぞれ 人として楽しみも悲しみもあり
また 遊び日を求めたなんて 本当に素晴らしい👏👏👏
人間らしい生活をしていたということですね
とてもいい動画配信ありがとうございます
ワイは百姓しとるから思うんやが、年間の米消費重量の単位が江戸時代と現代では違うんではなかろうかと思うゎ😮
昔は籾で保管したり運搬するしかなかったろうが、現代では一部の地域を除いて籾殻を除去した玄米で低温保管しとるがな。いや、白米として算出して数字を出してあるならまあええんやが、細かく言えば精米の純度も違うやろ。
具体的には籾で25Kgを白米にすると18Kg位になるんやで😂 玄米なら19Kg位かの😊
多分米をスーパーで買ってる人は白米での事しか思い付かんやろな😂
階級闘争史観で育った僕たち戦後世代は、
百姓のくらしは文字通り「食うや食わず」だったと教えられました。
特に不作の年などは、餓死者が続出したと習いました。
「慶安の御触書」という「明確な文献」まで示して教えられました。
また、江戸幕府による分断統治のため、
士農工商穢多非人という惨い身分差別が貫徹していたとも習いました。
これらが全て出鱈目だと知ったのは、自分で勉強してからでした。
だけど、日本の教科書を作ったりそれを支持してる人たちに喧嘩を売っては決していけない。
こういう教科書の記述の件のような嘘のことを本当のことにするようなことを堂々とやらかしているなら、下手に突っかかったら何をされるか分からないから。
大阪の郊外だけど、40年ほど前まで田の字型家屋だったし、母の実家は未だに古いままなのでイメージはわきやすい。蔵の中からいろんなモノが出てきて、少なくとも富農は相当に豊かで文化的な生活を送っていたと思う。
畿内は 比較的 裕福。
@@user-sy8gb1kh2g
うん、ボクもそう思う。農業も商業も発達していたから。
長野県も養蚕で豊かだったと聞いてます。庭にはリンゴや葡萄を植えて畑で自宅で食べる野菜を作り田んぼの近くには池で鯉やドジョウを飼って祭の料理にしていたとか
実家が約20年前までは、江戸時代からの家でしたが間取りは近い感じでした。
江戸時代は農家か蚕か宿か酒屋か諸説あるらしいが今で言う従業員がいて曾祖父さんは何もしなかったと親から聞きました。
ちなみに親の幼少期は農家と蚕だったと聞きました。
蚕は相当稼げたんでしょうね。
私の生家は終戦でGHQ命令で、手まき衆7軒に田畑を分配した。江戸中期には作り酒屋を営み養蚕も副業で行い、常時10人程の奉公人を差配してた。明治期からは作り酒屋への重税政策に懲り、酒造業をやめ、営農の他、発酵種を斡旋販売する「糀屋」を営んでいた。つまり、農業と商業を生業の2本柱にして代々営んでいた。農民も色々です。時代劇の様なイメージでは無いですね。
6対4で百姓の取り分が多いのだよ。当時の領主も無為徒食ということを理解していた。飢饉がたまにあると領主の良し悪しが分かれる。
畜米を放出して領民に配った領主は慕われた。飢饉の時年貢を増やしたりしたら恨まれるどころか田畑捨ててしまう百姓もいたのでますます困窮した。
江戸時代の百姓の生活についての私の知識は白土三平の漫画からのものぐらいしか無く、百姓は厳しい年貢に喘ぎ、極貧に耐え兼ね一揆を起すが鎮圧され生きたまま土中に埋められ虐殺されるのが普通で、楽し気な笑いとは無縁の苦しみだけの生活だった様に漫画の中では描かれていますが、実際はそうでも無かったんですね。
何故彼はそんな穿ったように描いたのだろう?
>何故彼はそんな穿ったように描いたのだろう?
明治以降、特に昭和の疲弊した農村部を時代劇に表したのではないですか。五・一五事件(昭和7年)も、二・二六事件(昭和11年)も、農村部出身の青年将校が起こした事件でした。
白土さんの出自をお調べください。恐らく一定の思想的偏りがあったのではないかと推察されます。カムイの花巻村の若者たちはある理想郷を作ろうとしていますよね。この辺りが如何にもな感じかと思っています。(個人の感想です)
漫画ですし、エンタメですし、フィクションです。権力者が悪辣で強欲で残虐なのもエンタメです。
私は白土さんの作品の大好きです。
すごく わかりやすい動画でした
広い土間で湯気が立つ かまどを見るのっていいですね
僕は 遊郭の淋しい朝より農家の朝の方がきっと好きだな
昔、聞いた話。
中国や韓国にも、百性という言葉はあるが、使われ方意味は、日本と少し違う。百姓は、農民を表すのではなく、広く一般庶民を指すというものです。
そうすると、昔、国民の8割が百姓だったは、8割が農民だったのではなく、8割が庶民、農民、職人、商人、林業や漁業に従事していたと、すると、なるほど納得出来た記憶があります。
ドラえもんでのび太が家出で江戸時代に戻り、百姓たちと生活する話があったのだけどその主食がアワのおかゆ。のび太が「米でも炊けばいいのに」と言ったら「祭りでもねぇのに何贅沢言ってんだ」って返したシーンがあるんだけどそこで百姓たちは自分で育てた米すら食えず貧乏な生活を送っていたという認識が強まっていたが実際はそこまで貧困ではなかったとイメージが変わってなかなか面白かった
あのお父さんの熱を治す話か、懐かしい。確かに自分もそれで勝手に百姓のイメージ持ってたわ。
米食に関しては地域差があるんでしょうね
仙台藩では藩によって定められた「百姓が働いてはならない日」が年間80日もあったそうです。その日は「働かなくてもよい日」ではなく、「働いてはならない日」なので野良に出ることは許されず、村祭りなどの定められた行事に強制参加だったようです。
そんなデータなんか信用せんで先祖からの伝えられた事を伝えてくれ
@@user-vf9mq4ed5cなんやこいつ
昭和32年生まれ。戦後まで田舎は江戸時代とさして代わりが無い生活だった。囲炉裏の周りに箱膳があり、食器は全て入っていた。食後、お茶か湯で洗って飲んだ。そのまま箱膳に入れた。ひと月に一回くらい囲炉裏の灰で洗うくらいだった。
食事は朝へっついで米を炊いてそれを一日に分けて食べた。朝・昼は汁と漬物。夜はそこに一品付くくらい。
着物は藍染めの木綿。履物は草鞋。草鞋の代わりにゴム草履となった。
年貢で取り上げた米は、武士も食うが売りに出す。その米を商人や職人が買って食うが人口割合からみるとまだ余る。その米は普請工事などで人夫に日当として出すがすなわち農民が人夫をやっているので結局は農民も結構コメくってる。あと農作物は売り物にはできない二級品が大変よくできるのでそれは自家消費する。米も同様
お寺にご先祖様が寄進したとされる純金の花器が現存しているので、それなりに豊かな暮らしだったんじゃないかな。
我が家でも集落の神社に石灯籠を寄進している。今でも残っている。石燈籠の脇には我が家の先祖の姓名が刻まれてるので分かった。
江戸時代は、土地を持たない小作農があるように集団農業が主流だったそうです。農機具も集団で所有する。交代で休み(休日)もとっていた。いまの日本の農業は何もかにも個人で所有し、個人で仕事するから生産性が低いのではないでしょうか。農業の株式会社化が言われていますが、そこまでいかなくても農機具を村で共同購入しているところはあるそうです。
@@NAO-wq6xe
一説によると年貢(税)は5%くらいだったとか。いまのサラリーマンは年金や社会保険を含めると、実に50%近い負担です。
大規模農業の利点は価格交渉力と効率性ですね。団体割引で農機具、種、肥料を個人で購入する時よりも安く購入し、販売する時も、企業と交渉してある程度の価格をつけれます。組合員でお金を出し合えば、少ないお金で農機具が購入出来て、少ない農機具をシェアすれば作業効率が上がるでしょう。JAが「家族営農の素晴らしいさ」を主張する理由は、個別の農家に農業関連商品を売りつける為です。
また、会社であれば経営、労働、土地の所有権、場合によっては出資者等も分離出来るし、シフト制で休みがとれます。
まぁ、以前働いていた農業の会社では、20億投資して、10億しか回収していませんでした。加工工場や最新の農機具等に金を使い過ぎていました。
反面、30アールの農園で低コストで利益を出している農家もあります。なので、農園の規模や資本の大小では無くて、利益が出せる経営が大切なのです。
@@user-fe3cr2en6e
詳しいですね。やっぱり「農業の株式会社化」に反対しているのは農協なのかな。農業の効率化をされたら、農機具が売れなくなるものね。数年前、小泉進次郎が「農業改革(本当は、農協改革)」を仰せつかって農協に斬り込んだが、結局なにもできませんでしたね。
@@user-qu1cw6rt3c
JA+現農林水産省+農林族が鉄の三角形を形作って反対していました。GHQの三大改革と言われているうちの「農地法」は3つある改革の中で一番成功していると言われています。それは戦前農村でうねりを見せていた共産主義運動が戦後、急激にしぼみ、土地を手に入れた元小作人が保守化していくからです。戦前から役人が小作開放の為に計画していたのが農地法ですが、最初GHQはそれ程関心していなかったそうです。しかし、共産主義の防波堤になる事に気付きました。池田勇人もそれに気付きました。彼は当時の役人や自由党を説得して農地法は可決されました。池田勇人やGHQの思ったとおり、農村では社会党や共産党は勢力が伸ばせず、「農村から都市を囲め無かった。」そうです。
今では信じられないかもしれませんが当時の役人は大規模農業がやりたかったそうです。
しかし、元小作人は経営した事が無い人達が多かったので全国に一万位の農協が出来たそうです。しかし、農協も経営感覚が無い人達が多くバタバタ潰れる所が出てきたそうです。そこで全中という組織を作って地域農協も含めて全農協に命令を出していました。かつては農協を通さない米は検査され闇米扱いされたので、力のある農家と対立する様子が当時のドキュメンタリーに見られます。
小泉進次郎達の農協改革というのはこの全中の権限を剥奪して地域農協に自由闊達に経営してもらう事です。
今多くの地域農協は農産物の買い取りでは無くて、農家から農産物を集荷して問屋さんに売ってもらっています。農協は物を右から左に動かすだけで手数料を取れるのでかなり美味しい商売と言えます。農協が手数料を取り、問屋さんも手数料を取る、そして、店側も手数料を取る。こうして農家は中間マージンを取られるので手元に残る金は極僅かです。中間マージンを取られている分消費者も負担が重くなります。農協は買い取りをしてしまうと、自分たちで売って利益を出さないといけないので、買い取りに反対しています。買い取りを始めた地域農協が周りから嫌がらせを受けるという事例もあります。
元々、農協は農家に安く農機具、肥料、種等を卸し、企業と交渉して農産物を出来るだけ高く売り農家に還元する事を目指した組織だったはずなのに、今では農家が直接売買をする方が儲かる位です。高く農家に売りつけたい農協にとって、農家が体力をつけては困るのです。例えば売れる農機具が減ります。農協にとっては一家に一台ずつ農機具が売れる方が利益が出せるのです。
戦後の農家が弱小な経営体質に陥った理由の一つが、この農協に搾取される構図になっているからでしょう。
そして、農地法の原則は「自作農主義」なので土地の所有者と耕作者が=でなければなりません。株式会社は株を出資する人の物で株主は基本的に耕作しないので、自作農主義に反するのでつい最近まで禁止されていました。
衰退して来たとは言えJAや農家は自民党の大切な票田なので、自民党は農協改革に長年反対していました。左派政党は建前上は資本主義に反対するので、同じく株式会社の農地所有に反対していたのです。
しかし、跡継ぎがおらずこれからはどんどん耕作放棄地が増え獣害な増加や景観の悪化につながるでしょう。「株式会社反対」と言っている場合では無いのです。イオンアグリ創造が全農場をオーガニックに変えるそうですが、大企業も含めてどんどん農業の会社に来て貰わないと大変な事になりますね。小作人救済の為の「農地法」ですが、戦後78年経ったのでもう引退しているかお亡くなりになっていると思うので、「農地法」は役目を終えたと思っていいでしょう。
日本は土地の7割が山林なので、基本的に田畑は中山間地域にあり、一枚一枚が小さく高さ段差があり、生産性ではアメリカやオーストラリアには勝てないでしょう。
そこで、例えば耕作放棄地に草食動物を放牧させれば、放牧地になり省力化出来て、餌代も浮き、景観の保持が出来て、観光客が来るかもしれません。
会員制の農園もありでしょう。月額3000円払ってくれたら、野菜収穫し放題みたいなサービスとかあるし、農園オーナー制の様に月額一区画辺り月額いくらかでオーナーになれる制度にすれば、収穫体験をしたり採れた農産物を野菜セットで送るとかもありでしょう。
JA管内の農家が減れば農産物が集荷出来ないので、JAにとってもジリ貧でしょう。JA自ら作業請負で米や野菜を作って地域内外に売ったり、外国に販売する必要はあると思います。或いは地域の農家が体力をつける様なサービスをするとか。
農協もグループなのでを一枚岩出はありません。ポン酢で有名な馬路村農協の様に昔からやる気のある地域農協はいいですが、全中や全農に頼りきりだった農協は慌てているでしょうね。
青果市場や直売所に持っていかなくても、アプリで農産物のBtoBやBtoCが出来る様になった今、農家にとって販路拡大するチャンスかもしれません。
労働力の相互提供は今でもありますよね。少なくとも祖母の世代はそれをやってた。
食うや食わずの小作農を百姓として紹介してるHPも多いけど小作を使う自作農家はいろんな作物や養蚕なんかで結構裕福だよ
そうでもなければ行商なんて儲かるわけがないだろう 日々の暮らしは質素倹約だけど使うときにはちゃんと使うよ
年貢は自作農だけが納めていたと言われている。我が集落では江戸時代に自作農は5軒だったって。それを「いっちょ前」と言われていたと亡き父が言っていたっけ。小作人や水のみ百姓は自作農に使われていたのでしょう。
うちの家系は地域で一番石高高い庄屋だったらしいですが江戸時代に伊勢神宮に参ったり熊野にいったりとだいぶゆとりのある生活をしていたみたいです。庄屋でしたが位牌が色付きの自画像で残っており当時は帯刀が許可されていたようです。農民っといっても教科書通りではないこともあります。
うちの先祖は名主だったので色々記録が残っているし話も聞くことができる。
それによると、名主と長男は3食米で、普通に魚もついていたようだ。
名主の仕事は一年中あるが、小作人は年間半年しか働かない。
他は自由時間で、その間に自分のことを色々やって、現金収入を得ていたようだ。
1日の労働時間は4,5時間ほどだったようでで、現代の会社員より圧倒的に少ない。
毎日田畑に行っても特にすることがないから、山の果樹とか見る訳だけど、それも数日あれば終わる。
収穫は大変だが人手があればこれも2,3日だったらしい。
運搬は大変だったと思うが、牛車もあったようだし、現代の我々が思うような悲惨な生活ではなかったようだ。
ただ、曾祖父が子供の頃の話によれば、嵐が来ると小作人は全員名主の家に集まって一言も発さずじっと土間に座っていたそうだ。
地域で主食の割合が違うのが興味深いです。そのまま、味噌作りの材料にも通ずるのでは?と思いました。
お米が採れて水が綺麗で豊富な所は米どころ、酒どころとして有名な所なのかな?と想像がふくらみました。
なんか、江戸時代って今より生きやすそう。😊
3:06 これもその通りです。いまの日本でも小麦のとれる地域は限定されている。だから輸入に頼る量が多い。タバコの葉もほぼ100%輸入です。国内でも生産していますが、それは古来の品種で「わかば」や「ゴールデンバット」といった安いタバコになります。外国の品種は国内で育たないのです。
こういう情報を見るときに肝心なのは、日本が端から端まで誰もが同じ生活をしていたと思い込むことだと思う。各地で機構が違い習慣が違い、特に江戸時代は各藩がそれぞれ自治を行っていて藩が変われば決まりが変わり物のやり方がかわったのだから、一つの地域に当てはまることが日本全体に当てはまるとは限らないことを念頭に置いて見ないといけないと思う。
むしろそれ歴史教育に言ってくれw
@@666fgd9 歴史だけにあてはまることじゃないけどね。どんなことでも常に「これはどういう条件の下で真であるか」を念頭に置いて考えなくてはならないと思うよ。例えば、水が摂氏100度で沸騰するのは気圧が1気圧と言う条件のもと(というか、1気圧の時に水の沸騰する温度を摂氏100度と決めた)でなので、条件が変わったら変わるでしょ。同じことだよ。
東海から畿内、瀬戸内の天領なんかはかなり豊かでした。西日本でも大きな藩では重税で苦しかった。
おっしゃる通りで、まず大事なことは各土地による気候の違いにより栽培できる作物に大きな差があった事をかんがえないとね。当然北にいくほど米の栽培も出来ないわけだし。
着るものも寒冷地で綿花栽培が出来ない地域は明治時代まで麻の着物を着てたわけだしね。
兵農分離のおかげで百姓は日々働けば良い生活になりましたが、重大な問題は飢饉です。飢饉が起きればその年で災害が終わるわけでも無く、村はどう立ち向かったのか、お願いします。
1年だけの飢饉なら乗り越えられようが、二年三年と連続して冷害があったりするから、さすがに持ちこたえられないわな
知る所によると、天明の大飢饉の際に我が藩の藩主は名君で他藩から食料を融通して一人も餓死者を出さなかったと伝えられています。
@@azumam2427 庄内藩か白川藩?
@@user-lq4ty3eu8m 白河藩です。
先ず百姓は農業生産者では無い
一部の武士長人僧侶公家以外は
漁師も武士でも郷士も自給している
だから色々な職業まとめて百姓
人口の9割が農民だったから生産された米の殆どを消費していたのも農民しかいない
うちの田舎は今でも田の字型だな、方角が違うと配置も変わるけど基本的には同じ
便所は離れた所にあり、家を出ないと行けなかった
昔は厩舎も横に付いてたが、倉庫や作業場になってるな。
江戸時代は一大中古市場が活況でしたね。
昭和24年からは全国的に1俵は60kgになったが、その前は1俵75kgであった。その理由は品種改良で稲が短くなり大きい俵を作れなくなったから。
その後ますます短くなり麻袋(60kg)になり紙袋(30kg)になった。だから、しめ縄など見るも無残な形になっている。
農家のコメは一人当たり二俵半といわれており、それで計算すると3.4合/日になる。そうでないと体力的に間に合わない。
そして昔の農家の飯椀は今の丼くらいの大きさで山盛りで食べた。3.4合/日は合致する。(敗戦までの食生活はこの通り)
節目々で理由をつけて餅も食べた。酒(一升/回)も飲んだ。だからカロリーはもっと多い。どぶろくは、くず米(割れ米)・青米(未熟米)で作る。
他の雑穀(主に蕎麦(稗・粟・麦は目立つので平野部では植えない))と合わせればかなりのカロリーとなる。
柿、栗、胡桃、動物の肉も必需。小説や幕府記録に惑わされると大きな誤りになります。
一俵かつげないよね重くて。江戸時代は誰でも(女でも)持てる重さとして標準だったけど。
一俵は重いは現代女性の基準ですか?。農家はもちろん町家でもそんな軟弱ではなかった。
私の子供のころは2俵を持つ女性がほとんどだった。筋力は男女とも今とは比べ物にならないほど強いです。
@@user-pm9yi4vc7r
で、特に裕福だったのは江戸を取り囲むようにあった農家は野菜類を江戸へ売りに行き肥料は江戸に住んでいる住民のトイレからし尿を回収してたので良いサイクルがあった
江戸近郊農村部出身の母の実家は戦後まで住み込みの奉公の娘さんが3人ほどいたそうです。別に本家でもない普通の農家です。
まあ江戸時代のイメージは明治政府のネガキャンも多いでしょう
農家と言っても庄屋は結構良い暮らしをしていた。
本当に大変だったのは水飲み百姓で数はそんなに多くないと思う。
高知とかは郷士とかもいたので農民と武士の境界もあいまいかなあ。
1日4合も食べていたのはそれだけ労働が過酷だったのかな。
1日5合食べていたと言われている人足の写真がとても筋肉質だった。
相対的には「江戸」よりも農村部のほうが豊かだったと思います。「江戸」では食事が偏り、ビタミン不足で脚気になる人がいた。これは「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれ、「江戸患いになったら田舎に帰れ」と言われた。実際、田舎に帰ると治った。それだけ栄養豊富だったのでしょう。
江戸時代、まず戦争がなくなったから、武士の地位があやふやになったのではないでしょうか。それこそ、260年も平和が続いたから、ほぼ全員が戦争経験なしです。それでもいまの官僚みたいな「職業としての武士」は残ったが、残りの「農工商」は自由に行き来していたでしょうね。
今と昔の米の質が違うんだって。
品種改良・選抜が進んで最近・・・と言っても戦後15年ぐらい辺りから?の粘りのある米になったらしいけど、
改良の方向性としては収量増加・耐倒伏(背の低い稲に)・耐病・収穫機械の導入の為籾の落ちにくい品種へ・・・そして耐冷性、味・粘り、コシみたいな。
はるか昔の米はモチモチとかモッチリよりはサラサラしてたらしいです。だから栄養成分もそれほど糖分とかカロリーが多くないんじゃないかと。
あと、二期作の二期作目は年貢の対象外だったとか。
本百姓は高持百姓の事で土地を所有しそれによって生活を営む者で検地帳に登録され納税義務がある人。土地を持たない人を無高百姓といい、自作農以外で生計を立てる者、別名水飲み百姓と呼ばれてた。水飲み百姓には小作する者もいたが商人・職人・漁師や医者もそれに当たる。故に豪商で巨万の富を得た銭屋五兵衛も水飲み百姓。
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ただまあ、贅沢といえるかどうか。収入が少なくて、栄養のバランスのいい食事ができなかったのでしょう。現代でも、昼に立ち食いソバやカップラーメンを食べているサラリーマンがいます。
俺んち、戦後の農地解放で大分没落したが、先祖は江戸時代に百性ながら、農産物の取引もやっててちょっとした豪商だった。
明治維新後、身分制度が無くなって色んな縛りがなくなると、財力に任せて、高級武士みたいな屋敷を構えて住んでた。
その末裔の俺、大学で東京に出て、実家の職業を聞かれ「百性ですよ」と答えると、よく、気の毒そうな、或いは小馬鹿にするような顔をされたものだ。
都会の人が、百性=貧しい、と考えるのは、それこそ都会には田舎で食えなくて出て来た人が多いからなのかな。
先日、とある動画配信者が江戸時代以前の百姓は年貢として米を殆ど取られたから(小)麦や雑穀を食べていた、「貧乏人は麦を喰え」と言われたくらいだから・・・と捲くし立てる様に話してたので???でしかなかったw
だから個人的にはタイムリーな話題で参考に成りました。
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それはそうと、「左巻き」の誤用は改めた方が良いかと
言葉は意味をちゃんと調べてから使った方がいいよ
米は換金できる商品だから、生産者ができるだけ手を付けないのは当然。
今でも果実の生産農家は、出荷できる品質の物は出荷して、落下した果物とか選別に漏れた物を自家消費している。
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いくらなんでも目の前の機械でググることくらい出来るでしょう?
それすら出来ないなら、まあ
「貧乏人は麦を喰え」は昭和時代の話しです。池田隼人の言葉。
江戸時代の農民は以外と暮らせていたようですね確かにボロい服装を普段してたけど、いわば作業着で正月や何かのお祭りでもなけりゃきれいな着物は着る必要もなかった。それに江戸時代は大抵は米しか税金として取られないから米以外は何作っても税金かからんからねだいたい味噌も醤油や酒も自家醸造してたしタバコも自分で、作って吸えばよいのであまり現金も必要も無かったとも言われている。
めいじと昭和の農地改革で貧乏になったんやで。江戸時代は飢饉以外は裕福ですよ。
ですね。自分でお金を作らなきゃいけなくなった。
あと平成の自民の改革で貧乏になりました
名主だった 先祖さんの 所に 田植え、稲刈りに 長門の 漁業の人が 来て 手伝い 米を 代金の 代わりに 貰って帰っていたそうです 来られるとき
魚の干物、ワカメなど お土産に持って来て こちら側は、小豆 大豆、野菜の干物を渡していたと 稲刈りの後は、荷車に
米乗せて 長門に 帰っていたそうです
明治維新でそれまで治めていた江戸幕府体制では生活が苦しかった教育を始めたからね。実は江戸時代も悪い暮らしでは無かったことが明らかになってきている
日本社会のスタイル「村社会」は農業から派生してます。
恥ずかしながら、土間の存在意味を知りました。
夜間や降雨において、荒縄を編んだり、”むしろ”を織ったりしていたことを思い出しました。
豪農から、小作人まで百姓と一口で扱えません。中には大名お金を貸している百姓もいました。酒に代表される加工品などを作っていたのも豪農でした。彼らは多数の人を使う社長でもありました。そういった豪商には家事を行う人(女中)や育児を中心に行う人(乳母)が何人もいました。小作人(田畑を持たない人が多かった)は地主から田畑を借りていました。彼らは低収入で、極貧であった人が多かったようです。戦後GHQによる農地改革があり百姓の経済格差はだいぶ解消されました。
土地を借りて農業をやる人が多かったのは、いまでいう「固定資産税」が高かったからです。江戸の町民も土地を持ちたがりませんでした。
食べ物は、耕作割合はあってるのでしょうけど、今の米どころは品種改良されたもので、冷害被害に遭いやすかったり、川の氾濫も今よりは発生しやすかったことにも注意が要りますよね。鮒やイナゴは想像以上に食べていたと思いますよ。名主は村に2軒くらいあったと思います(村落では、今でも町内会長が2軒の持ち回りだったりする)。また、水害の多い地域だと、名主の家屋跡だけかさ上げされていて、避難場所を兼ねてましたから、今でも嵩上げの土地が見られますね。地域差があると書かれていますが、村落は水はけだったりの土地の条件で、村落にランキングがあったりしたと思います。あの地域低く言う人多いな~と思って見ると、大雨で田んぼが冠水することが多かった。
水害に遭いやすい地域は下層階級の人々に割り当てられた地域だったのでは?
割り当てられたっていうよりも、余っている土地は条件の悪い土地だったっていう感じだと思う。
逆に水害があるから田んぼができやすかったって考えもあると思います。
水害ある土地のほうが栄養豊富ですからね。
住むには困りますが。
ほぼ父母( 大正4年と9年生まれ)から聞いた話と変わらん、全然目新しくない😮 という気で聞いていましたが途中から気が変わりました。昭和の初めまで農村は江戸時代(電気 交通は別として)と変わらん生活(共同作業 娯楽 家 など)をしていたんだと。一つ疑問に思ったのは父母が「こなに三度三度 米の飯が食べられるようになるとは思わなかった」と話していたことから江戸時代の百姓がデータほど米を口にしていたとは考えられない。おそらく反物や魚と交換してあるいは換金していたのでは? 実家は「米どころ」と言われた(過去形)地域です。
言うほど悲惨ではないが楽でも無い、地域差もある・・・なるほど
当時の農家でも家長の嫁の指定席があり、農作業でも男女の能力(力や体力の違い)に合わせた農作業の分担や家庭内での役割分担をしていて、一部のフェミや膿家の思い込んでいるような、女性や嫁というだけで虐げられ、軽んじる風潮ではなかった。
江戸時代の農村は、以外と男女公平だったんですね。
お疲れ様でした。久しぶりの動画アップありがとうございます。
雑穀米の方が体には良いし、脚気にならないしでいいと思います。
台所というのは今のダイニング兼リビングですね。
場所によりますな・・
辺鄙だとか寒村だとかだと、戦後に入ってすら、ちょっと信じられないほど貧しい集落というのが多数あったようだ
勉強になりました。ありがとうございました。
食うや食わずの生活なら子作りなんて無理無理で、日本の人口は半減しとったでしょうなあ
現代まで日本人の血筋と文化が受け継がれてるということは、貧しい時期はあっても基本はそこそこしっかり食えてたという事ですね
基本的に子だくさんの家は子どもを労働力と見ていたわけで、貧しい、貧しくないは、また別問題だと思います。
@@user-qu1cw6rt3c
お金がない貧しさではなく食べ物すらない貧しさが前提なので
貧乏でも農家で作物が食べられれば結婚出来ますし子も成せますが、食い物すらないところに嫁ぐ人はいませんし、子を成して労働力になるまで育てる事も出来ません
多分 昔のアフリカなんかの【貧乏人の子沢山】を想定してはるのかも知れませんが、あれはだいぶ特殊です
@@娘ちゃんねる抹茶味z
そうですね。江戸時代、農村部では食べるのには困らなかったかも。飢饉など例外を除いて。
ゆい?名前は知らないけどそれは昭和40年代いっぱいまでやってたよ。たいして変わらない農家の暮らし。1970年以前は、江戸時代と同じだな
農繁期には御10時と3時があってお煮しめとかおにぎり巻きずしとか炊き出しがあった でもだいたい午前中におわってたから(子供的には)3時はなかったか 衣類は江戸でも古着が普通 和服は解いて仕立て直しできるから大人から子供まで一生物(四季折々にも対応出来る) 最後には赤ん坊のおしめですね(笑)。それと村にも寺子屋があった百姓往来のような教科書もあって識字率もたかかった 幕府の御触れが読めなかったら大変なことになりますからね そのまま明治時期に小学校になっています 「講」の話が抜けてたね 伊勢参りの講があって旅行も楽しんでました 庚申様も忘れてはいけませんね 田舎には普通にありました 庚申塚と伊勢講 セットですね 講のこと話だしたらきりがないのでやめておきます
今でも集落はこの時の習慣を大事にしているから都会からきた現代風の人間とそりゃうまくいかんのだろうなあと思った。あと東北地方の寒村などはこんな生活じゃなかったと思う。子供を間引きしたり遊郭に売ったりしてたと言うしな。遊び日なんて余裕があったかどうか。
百姓って、元々一般の人って意味なんだけどねぇ…
私の住む地域(今でいう大字)は、基本的に彦根藩だけど、天領地、最上藩の飛び地もあってややこしいところでした。
資料を調べると私の家は農家で1800年頃からの言い伝えなどでわかっています。
蔵には江戸後期の年号が書かれた桐の入れ物に茶碗などが入っています。冠婚葬祭を家でするための茶器です。
それには江戸時代なのに私が使っている性が書かれています。当時農民には性がなかったと言われますが、私の家は庄屋だったので性があったと思われます。
また、明治2年、明治3年、庄屋であったためか彦根藩と書かれた近所の戸籍台帳があります。嫁は「どこどこ村から嫁いだ」と書かれ、
家族構成が書かれています。その後廃藩置県で彦根藩が無くなり、我がすむところが朝日山県、長浜県、そして滋賀県になったのです。
昭和の歴史の授業では、士農工商という身分制度があった(現在では否定されています)と教えられました。別の動画でも見たことがありますが、食べるにも困るくらいの貧しい武士は多くいました。同じ農民でも、庄屋や地主は大威張りできました。
士農工商って、明治になってから「江戸時代にそういう制度があった」と言われるようになったそうですね。
武士が食事にも困るというのは不自然だが、借金返済となると節約できるのは食費ぐらいだし。
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でも、なんとなく想像がつくよ。知り合いに区役所の職員がいるが、いつも「民間企業は給料が高くていいなあ」とこぼしている。「でも、退職金はいっぱいもらえるんでしょ?」「世間体もいいし」と返すのだが、これがまさに江戸時代の下級武士ではないか。逆に民間企業(農工商)はリスクを背負って生活している。
カムイ伝とかだと地獄みたいに
描かれてる。(笑)
天候によっては百姓に金あまり現象があったのも事実。幕末の不平等条約によって農村富裕層がどうなっかには興味があります。
藤や葛の糸を使った太布は普段着というよりは衣服の保護のための上着という作業に特化した衣服だったそうですが、今となっては化繊に追いやられて絶えた技術になってしまいましたね
年貢米を徴収されて厳しい生活を強いられていたというイメージだけど、稲作自体はそんなに大変ではないよね。夏田植えをして放置し、秋に収穫するだけのことなので。江戸時代前は自分が暮らす領地の大名が戦をすれば戦場に行って戦までしていたくらいだからね。
いろりで暖まってるじいちゃんがニコニコで笑いました
今の漫画の基礎は江戸時代にはもう完成していたんですね
納税の時はお代官様がお目こぼしをしてくれたらしい!
百姓でも神社⛩️お寺に 算額 を奉納。
飛騨の高山。天領と云って幕府直活地だったんですよ。
教科書では税率高すぎて厳しかったと書かれているけど、今と税率大差ないからな
農家ですが、私が物心ついた時の我が家の大きさは間口9間(16,2m)で奥行きが5間(8,1m)でした。
玄関から左側は四八ならぬ四八と二十でしたね。(八帖四間と十帖二間)とっくの昔に今風の家に建て替えました。
岐阜県のくびれた部分(県の中央部)では大きな家が多かった憶えです。
私は集団行動を苦にしますけどね。
この時代の農民に生まれなくて良かった。
鹿児島に甘藷多いのはイメージ通りだわwww
今の機械式農法と違い人力でやっていたので、手の届く範囲を耕していた。
今の科学的な合成農薬は無くても、自然由来の木酢液や灰等で害虫対策をしています。
今の農家と同じく農業そのものはサラリーマンがうらやむ暇な日々だったようです。
害虫大発生、飢饉でも町の人達が先に倒れて農家は食料備蓄しているため倒れる事は後です。
昔の農家は安定業種ですね。
たわけ=バカと言う言葉があるように、江戸時代には長男がほとんど全ての家督を相続しました。長男以外の男は小作になりました。年貢は土地の持ち主に課されました。
土地を持たない人は上方では町人と言いませんでした。面する道の幅により年貢が課されるので、ウナギの寝床の様な細長い土地が一般的でした。
経済格差は非常に大きく、豪農では藩にお金を貸している人もいます。藩は借金があまり大きくなると苗字・帯刀を許すことでその額を下げてもらっています。
半円上に煮炊き出来るって、システムキッチンだな。
素晴らしいな。
地域差はあると思いますが主食は米を食べてたと思います
米1石は1人が1年で食べる量で、幕末は全国で3000万石で人口3000万人
輸出していないため余分な米の用途は酒等だけのため、全国民が食べないと余っちゃいます
村が一つの会社だったと考えると解りやすいのかも。
新しい反物を染めたり刺繍したりをお百姓さんも楽しんでいたのは良いと思いました。
やっぱり好みはあれど、オシャレするのはどんな方でもワクワクすると思うので😊
休みも増えて良かった…(^_^;)
いつも楽しく拝見しています。
面白かったです。
なんか町内会がこんな感じだったなあと、ふと思いました^^
きっとむか~~~しから続いている村の風習の名残なのかもしれないですね。
地方によっては餓死者や人減らしなんてあるんだし領主と飢饉次第でかなり変わるんじゃないですかね
そりゃあ8割の農民が米を作ってるのに米を喰ってなければ「米を輸出してたのか?」って事になる。
「江戸時代の農民はひどい暮らしをしていた」
って話は、明治時代になってから新政府が(自分たちを正当化するために)言ったってことと、第二次世界大戦後はマルクス主義にかぶれた歴史学者がそういうことを主張したってことが原因みたいですね。
実際には、当時の世界において庶民の生活が世界一良かったのは日本だったと。
もちろん現在と比べると物質的にも貧弱だったし、公然と幕府を批判するなんてことも出来なかったんだけど、それでも当時としては、世界一めぐまれた庶民ではあったらしいね。
ここで言われている"郷蔵"この役目を務めていたのが神社と聞いた事があります。言われてみれば確かに高床式建築で保存/倉庫としては最適かも知れません。
我が集落にも郷倉がありました。ここには種や飢饉に備えての籾を備蓄していたそうです。昭和40年頃まで使われていなかったけど建物がありました。高床式で板張りの家屋でしたよ。今でも集落の公民館にその写真が残っている。
酷い時で5公5民で、殆どは4公6民だったと言うから今の7公3民より豊かだったのではないかとさえ思っている…。
しょうもな
昭和だが金田一耕助に出てくる村はまだ裕福だよね。
極貧は集落ごと貧しい。
都市部近郊や港宿場町城下町以外は北へ行くと本当に悲惨。
農家だったので興味深く試聴しました。福井なので、多少違いはありましたが、大黒柱の位置には思わず膝を叩きました。田の字の配置こそ若干違いますが、大黒柱の位置はドンピシャでした😊
米の収穫では、ハサがけや天日に干す部分にも触れて欲しかったなあ。
昭和世代ですが子供の時は概ね江戸時代と変わらなかったようです。農業は人間のやる仕事じゃないくらい過酷でした。
あと、脳溢血とか寝たきりになった高齢者の最後がどうなったのかも気になりました。
紙おむつや紙パンツもなく、その苦労はいかばかりであったことか。老婆が外トイレで便ツボに落ちて死んだ話もあります。
何も言えません。
江戸時代の貧しさをいつの時代と比べるかによると思うけど
今の時代でも電気が無くなっただけでも
貧しい生活になりそう
縄文時代よりは良い暮らしかもしれないけど
ネタで「昔話盛り」という盛り方があるけど、本当にそうだったのかもしれない(笑)
エド近郊の百姓はわりかし裕福だったとか?都市近郊の百姓は割と恵まれていたのかも知れませんね。
都市部に近い農村は生産性も高く普通に米を食って豊かだったようです。寒冷地はそうもいかなかったろうけど。
だから他の食材を補わないといけないので、キノコ中毒は寒冷地に多い。
船乗りの多くが百姓身分という記録がある、土地を有さない水呑みと記される場合も多い。
つまり、親から引き継ぐ戸籍簿記載が百姓ならば継続し百姓と記されるわけで、
有名な船乗り流通業の高田屋嘉平も百姓身分。
まあ、江戸時代の仕事って免許制の世襲制なんで、次男三男は下請け請け負いになって区分としては百姓、百の仕事をする何でも屋として扱われちゃうのね。
小作という制度がありました。小作は木を切る、トントンと~。だけじゃなかったようですよ。