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※訂正❌かまぼご→⭕かまぼこ旅籠の食事について、夕食の平付が「かまぼご」という表記になっていますが、正しくは「かまぼこ」になります。大変失礼いたしました。
オラ、かまぼごでぇすきだで😋
つまらん指摘。おらかまぼごすきだ。😊
方言使う奴は日本人じゃない?
動画内の当時の宿場写真を見ると、少し前に観光で行った大内宿は本当そのまま宿場の形が残ってるんだなって感心しました
学校では学べない歴史を学べて感謝してますこれからも頑張ってください
宿場が何故生まれどのような社会的機能を持ち地域社会がどう関わり、どのような人々が暮らし往来したかという存立基盤の基礎からの解説で面白かったです。
自分は中山道の和田宿の生まれなのですが、幼少期だった40年ほど前には、街道沿いに茅葺き屋根の古民家が残っていたりして、幼心ながら、歴史を感じる街並みだと思っていました。しかしながら、世の中は高度経済成長の後のバブルの名残で、新しいものに価値がある時代、ほとんどの古民家や街並みは保存されることなく、近代的な住宅に建て替えられてしまいました。それでも、近年、その価値を見直す動きがあるのか、中山道歩きの人たちとても増えています。ツアー以外でも、個人的に歩く人々、海外からのインバウンドなど、珍しい旅人と出くわす機会が多いです。また、本陣を始めとして、保存された旅籠などはカフェや宿泊施設として復活しています。全ての宿場が、木曽のように、伝統的な街並みを復元するのは難しいことですし、そもそもこうした地方では過疎化で厳しいですが、モータリゼーションのなかった時代、人々が人馬だけで江戸と京都を行き交ったことを想像して現在の宿場町を歩いてまわるのは面白いです。私の妻は数年かけて、休み休み、中山道を旧道を通って走破しましたが、実質、ひと月もあれば東京から京都まで歩いて行けました。私は長野県内しか走破できていませんが、車移動とは全く違った良い経験でした。
和田や長久保はアクセスは悪いものの、宿場の規模や伝統的な区割は素晴らしいもので、多くの人に知られれば魅力と感じる人も少なくないと思います。和田沿道の最後の旅籠も随分前に閉じられてしまったし、行政が対策を講じてインバウンドを呼び込んで欲しいですね…
浮世絵って良いな。当時の人々の生活や息遣いまで伝わって来るようだ。
RUclipsでこんなに有意義な時間を過ごせるとは!江戸時代の成熟した宿場町文化に驚嘆しました。
最近一番楽しみにしているチャンネルです
AIでない画像、それを多く使っていてわかりやすい。良い動画😊
現在はAI絵で歴史考証・日・中・朝鮮ごちゃ混ぜの出鱈目絵で解説するチャンネルも多いので現存する絵巻でそのシーンの解説をされているこちらの製作者様の努力には、頭の下がる思いです今後も頑張ってください
以前にこちらのチャンネルで紹介された参勤交代の番組内容と併せて、江戸時代の運送業や宿泊業などが発展していく様子が伝わってきました。番組後半の様々な職業の解説も、知らないことばかりで勉強になりました。
チャンネル登録しました。全体の組み立てや内容の精査も丁寧ですし、使われている図版や写真も話の内容に合致した適切なものばかりです。話の内容に合致しないいい加減な図版や写真が使われているチャンネルが溢れかえっているので、余計にここの内容の緻密さが際立ちました。これからも丁寧な作品を期待しております。
ひどいのずいぶん減りました。いぜんは全世界的に黒画面に白文字で軍歌だの、偏った政治の訛ったトークだのでめちゃくちゃでした。やがてユーチューブに規制されて、AFPやゲッティのタダ画像や動画のうえに、フリーニュース原稿をアクエストークに読ませるだけのやつが現在もまだまだはびこってます。イイネも返しコメもないのですぐ分かります。 チューブへアップ用のエンコード込みで、1本5分3800円くらい。暇なプロダクションの若い衆に制作してもらう。もうちょっとマシなチャンネルの原稿校正と、トークソフトの標準語訂正の手伝いを少しだけしたけど安くてすぐ辞めました。
先祖が本陣を経営してました。とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
実際の宿場の様子の写真がすごい!🤓
タイムマシンがあったら真っ先に行きたい時代が江戸時代中期。当時の東海道を歩いて箱根の関所手前まで行ってみたい。
美しい発音の日本語で、最後まで安心して視聴できました。ありがとう。
最高動画内容が好みなのもあるけど非常に解りやすく聞きやすい解説
鉄道ユーチューバーのスーツさんが自転車で東海道を走破した時の平塚宿の話で、次の大磯宿まで1キロちょっとしかなく平塚宿に泊まる旅人が少なくて何とか客を増やそうとした結果、西側にこんもりと土を盛ったような高さがある高麗山を指さして旅人に言いました「これからあの山を越えていくのは大変ですし道も悪いので安全にどうぞここでお泊りなさい」わざわざ山の頂上まで上り下りしなくても脇によけて平地を歩けばいいだけなのにこう嘘を言い客をとっていたとこの話が面白くてそれから宿場町に興味が出て木曽路を訪問しています
学生時代に東海道を歩いて踏破したとき気付いたのが「当時主要な輸送経路として栄えた宿場町や旧街道は、旧来の建物が密集して道幅も狭いためか現近代の主要な輸送経路(高規格の国道や線路)にはならずに衰退してる&それらを通す余地があった少し離れたエリアや経路が発展してることが多い」ってこと 栄枯盛衰ってやつですね
同じく東海道踏破しましたが、朝方は国道の混雑を避けた車の交通量が多かったように感じます。江戸時代の幹線道路が脇道として使われているのがまさに栄枯盛衰ですね。
なるほどそうですねでも未だに残る旧街道あとは開発されずに味わいが残っています全国同じ景色のバイバスよりよほど好きです
@@tan5900 旧東海道より旧中山道に当時の面影を残すところが多いですね。今でも「売らない・貸さない・こわさない」の三原則を守っている妻籠宿は大変でしょうが。
何とも言えない浪漫がありましたねぇ。
先祖が伊勢参りをした時の日記が残っていて、こういう実態を知ってからまた読み直したいと思った。
中山道を自転車で踏破した時に実際に見たものなのですが、某宿場の本陣を代々営んできた家の跡地がありまして、そこには「本陣を運営するのは経済的に負担だった、ご先祖は辞めたかったが辞められなくて窮乏していた」的な事情を吐露した張り紙が残されておりました場所や時代にも拠るのでしょうが、宿場町も栄えていただけではないんだなーと思ったのを覚えています
私は東海道を自転車踏破しましたが、同じように苦慮している本陣や伝馬役の資料や映像が歴史資料館で必ずと言っていいほど展示されていました。城下町系では儲けが多く助け郷も多いのでなんとかなる様子ですが、山間や小さな宿場ではかなり大変だったようですね
内容を非常に興味深く感じました。とても面白かったです。できればこの時代を旅してみたいな(もちろん服装は当時に合わせて。。。)
久々知識欲を満足させてくれるチャンネルに出会えた信長も秀吉も家康も武将としての側面だけじゃなく為政者としてもすげーんだなー
江戸時代の宿場町の活気がとても感じられます🐈今でも安宿の事を俗に木賃宿と言ったりしますが、当時も自炊の格安宿があったり🐒、旅籠で旅飯を楽しんだり、かなり安心して旅を出来るシステムがあったのは、とても良いなと思いました🦔街道が整備されるまでの旅は命懸けでしたからね🌚
木賃宿。今ならさしずめ、ネットカフェやカプセルホテルって所ですね
『街道筋の女は(心が)荒れる』と言う言葉が有ると、昔、地域の編纂された資料で読みました。確かにその日限りの付き合いの人々が行き交う場所では、後腐れ無い関係しか結べ無いですしね😢その様な中でも、心根の優しい女性は居たそうで、その人の名は都にまで届いていたとの事です情報が張り巡らされている時代とは違い、人づてに伝えられる話は、想像を掻き立てられるのでしょうね
自分が住んでる所も宿場町で、歴史に興味を持てばすごく面白いなと思いました
今の時代とあまり変わりない江戸時代、歴史は紡がれているということがわかりました。日本人の考え方ってあまり変わらないですね。
島崎藤村の「夜明け前」、中山道の宿場町経営者の視点で幕末期が描かれていた。和宮さんや水戸藩士の通過の場面などが興味深い。分かりやすい動画でますますイメージ湧きました。
「夜明け前」は妻籠宿、馬籠宿へ行く方への必読書でしょうね。
宿場町の事はよく知らなかったけれどすごく合理的な仕組みで出来上がっていて驚きました。底辺で生きる人々のことはあまり触れられることがないけれどとても重要な役割を担っていた事がわかりました。どの立場の人の事も冷静で優しい言葉で表され安心して見ることができて嬉しいです。
永谷園のお茶漬けに付いてる東海道五十三次カードで御油宿の飯盛女が描かれたカード出たな~。旅人が飯盛女に引っ張られとる表情が面白い😊
吉田→御油→赤坂は宿場が近いので客の取り合いで、特に御油の飯盛女は濃厚サービスで有名だったみたいですね。新居は関所が厳しく足止めくらうんで、新居宿の飯盛女はガードが厳しかったそうな。
尋常じゃ無いくらい勉強になりましたし分かりやすかったです。圧倒的感謝
とても勉強になります。通勤時間に時代小説を読んでいるので、想像力が膨らみます。もしタイムスリップができるのなら、この時代の蕎麦が食べたいです。
千住・板橋・新宿・品川の江戸四宿は実際に宿泊する旅人はほとんどおらずやってくるのは遊郭としての利用客江戸市内では遊郭が禁止されていたし江戸郊外でも浅草吉原しか許可されていなかったので非公認の遊郭として機能していました
よく集めましたね。🎉有難う。ご先祖様を伺えます。旧東海道の箱根八里や中仙道、旧甲州街道小仏峠などご先祖様はさぞ御苦労されたのかと、旧東海道箱根八里を歩いたとき思いました。
歴史はこの動画のような当時の風俗が一番おもしろい
人間国宝 五街道雲助師匠‼️ 😅 何枚もの当時の写真は貴重な財産です。
私が住む街の隣りの市は昔宿場町として栄えたそうですが、今は商店街にも活気が無く寂れてます。かつてのプライドがジャマをして平成の大合併も上手くいかず、今やライフラインを近隣の自治体に頼っているありさまです。
身分の差はあっただろうが、皆、頑張って生きていたんだな。 その中に、西欧の様に支配されたものを奴隷にするのでなく、共生する日本的な愛を感じます。
色々、知らなかったことがわかり、大変面白かったです。今年、神戸から名古屋まで歩き旅をし、途中関宿にもよって来ましたので感慨深いです🎉
高札場の閲覧義務化や、棒示杭に道案内の文章が書いてあったなら、識字率も一定の高さが有ったのですね。🤔
高札の文字が読める江戸時代の識字率の高さは世界一
大変楽しく拝見しましな。又新しい動画楽しみまってるよ🎉
日本はすごいなぁと再認識した動画です。素晴らしい
現代のスポーツとしての『駅伝』の元となったものですね。当時の飛脚達が重要文書を、それこそ命がけでつないでいった姿は、現代の『タスキ』に心をこめる駅伝の選手達に重なります。だから感動を生むのですね。
街道では宿屋の女の人が袖を引いたりして、自分の宿屋に泊めるように仕向けていたそうですね。特に宿場町の間隔が狭いところは宿屋の女の人も必死で、団体客の気の弱そうな人をタックルして自分の宿屋に留め置くこともままあり、手口が荒いこともあったようです。
勉強になります。投稿頂きありがとうございました。
宿屋の客人の草鞋の汚れ具合で値段を決めていた事が現代の価格交渉で金額を上げる場合・足元を見る・の言い草になっています
江戸時代の交通要所を整備して現在の幹線道路が出来たんですね。昔は舗装されてない道を歩いて移動していた事を思えば生まれてきたのが現在で良かったのかな。歩きと車では見える風景違いますよねぇ。
画像もすばらしくてワクワクしますね🙌
とても為になりました。ありがとうございました😄
めちゃくちゃ面白い!
江戸時代末期に来日したドイツ人医師・シーボルトが旅人でごった返す宿場町を見て、「こんなに旅行の盛んな国は世界中何処にも無い」と言ったとか。
宿場町跡は廓(?)跡や昔の投げ込み寺をよく見る 飯盛女の心中跡とか
勉強ににゃります🤓
もしや箱根"駅"伝もこの江戸時代の駅から来てるのですね、謎が解けました。
歴史の話に触れると、日本でも世界でも古くは紀元前からのあらゆる時代で、「駅伝制」やそれに類する用語が繰り返し登場しますよ☺️
いつか五街道を全部探索したいな栃木県宇都宮市から日光市は少し自転車で走りましたが、ゆっくり走りませんでした私は栃木県日光市市民です😊
映画の雨あがるで宿泊してるのが木賃宿か。なるほどなぁ
品川宿だと助郷は世田谷の深沢(日体大あたり)からも人を出していました。
道の駅、なんて言いますけど、元々駅は道なんですよね。
驛はうまやと訓じます。
それぞれ仕事がある時代ですね。
笹沢左保の時代小説である木枯し紋次郎にも関八州の事情が書かれており五街道や問屋場や宿場も興味深いものがあります。
実に面白い興味深い。
明治時代に鉄道が導入されたが乗降場はそのままステーションと称したが当時の日本人では巧く発音できずスッテンショと発音してたので暫くして停車場と呼ばせたが結局、律令制時代の「駅」と称すことにしました。
懐かしい🤭「ステーション」って言ってましたね。 私が大人になるまで聞きましたよ😊昭和の40年頃までは、確かに「ステーション」と言っていた人達が居られた事が思い出されます。
@ 駅もステーションも鉄道誕生以前から存在した言葉ですからね
宿場というと栄えたイメージがあるけど、伝馬役というのは非常に負担が重く貧乏宿場町も多かった
江戸時代の飛脚制度は世界的に見ても最も進んだシステムだった、と日本史の先生が言っていた。
最高!
この動画のように史実をしっかり説明してくれる動画はありがたい。TVのようなわざとらしいピン芸人も、ゆっくり解説のようなしょーもないギャグもいらない。落ち着いて視聴できました!
人々の思いを運ぶ交通にかかわる仕事の人たち暮らしが見えていい感じ。レギュラー宿の旅籠と安宿の木賃宿の価格差も妥当で選択しやすい。雲助はウンスケと読んでたがクモスケなのか。いつだったか裁判官が判決でタクシー運転手を雲助よばわりした件を思い出した。
美しい画像の豊富さに感動しました。思わずチャンネル登録してしまいました。
大変勉強させて頂きました ありがとうございます🙏記録が残ってるのがスゴイ⤴⤴ 記録して保管て大事なことですね
宿泊する宿場の本陣をおさえるのに、旅行代理店のような業務を行なっていた商人もいたようですね。吉田藩では三河屋と言われる商人が主にその業務を行なっていたようです。たまにダブルブッキングみたいなものもあったようです。藩の記録が残っていたようで、博物館の学芸員の方が本にして出してくださっています。
和泉元彌さんみたいな係員が出てきて、『ダブルブッキングではござらん〜!』とか、言ってたりして…😅
大内宿にも行きましたし、東海道では、いくつかの宿場にも行きました。 柏屋さん、二川宿、藤川宿とか、、。で、疑問なんですが、参勤交代時には、藩によっては1000人以上の人間が移動すると思うのですが、、、各宿場には、近隣の民家も含めて、これだけの人数を収容する設備は、有ったのでしょうか?加賀藩は、大変な規模のようだったらしいですし、、、。 親知らず子知らずは、どのように越えたのでしょうか?とても不思議です。どなたか、教えていただけると助かります。それにしても、、浮世絵はすばらしいですね! さながら、現代のカラー写真! 絵師、彫り師、擦り師による分業でしたが、各職人が素晴らしい腕前であることが分かります。版画によって作られた、昔の書物も素晴らしいですね! 版木の細かな加工に驚きます!ご先祖の方々の技術の高さに、脱帽です!(浮世絵以外に、城郭・寺社建築、城の石垣、、、等々、。 シミュレーションなどという技術も無い時代に、よくぞあのような建築物を作ったものです! これらの技術が継承されているのかナ? 残したい技術だと思います。)
旅籠は今のビジネスホテルやないかい?宿泊代もご飯の構成も。
母親の実家は五街道ではないが、「問屋」と言われ、街道の中継所をやっていたんだな。
飯盛女という名前が好き
私の地元静岡県の遠州掛塚は天竜川に挟まれた輪中の中で栄えた湊町で掛塚に行くには主に海の東海道を使わないと行けなくて掛塚の町には本町と中町に宿場があったようで祭りの法被を見ると本町(元宿)、中町(中宿)と描かれてます。
🍚旅籠の朝食は、お茶も味噌汁も口を付けられないぐらい熱々にして、更に従業員が急き立てて、客に飯を沢山食わせないようにしてました。‥‥セコい
素晴らしい蘊蓄のある動画だ!!
殿!利息でござると言う(歴史家磯田道史さん)映画は、仙台藩の宿場の窮地を描いた作品なのですが人足?伝馬?と、目新しい用語がでてき無知の私はついていけなかったのですがこの動画のお陰で理解することができました😊ありがとうございます♪
システム化された街道といえばローマ街道が思い浮かびますが、日本の街道も同等のものだったんですね
家康が5街道の制定と整備を達したが…東海道は53次ではなく 57次ですよね…❗
当時と今の時代、楽しく生活出来たのは何方だろう?それぞれにメリットデメリットが有るからな。
冒頭に関してですが、要所ではなく要衝かと
2:11この画像をみても分かる通り、昔は単純労働が多かった。これは今で言う、発達障害やグレーゾーンなどの方々でも仕事が分かりやすく、しやすいと思う。逆に現代社会の仕事はバイトでも決められたマニュアルを100%こなす仕事をする必要があるので、単純労働向きの「脳」をしている人間たちからするとかなり働きづらい環境になっていると思う。
訳ありの人でも番太、村外れの警備員みたいな役を与えられて養ってた例もありますね。番太は村からの給金の他に、サービスエリアのように通行人に売店みたいな商売を許されてたようです。東海地方の話です。
@@灰色山猫 そうなんですね。情報ありがとうございます。
「是より北 木曽路」…地元は、今も昔も交通の要衝なんだわーー
こういった事は家康やその後の将軍か考え指示をし造られてきたのか?それとも将軍の側近(老中)と呼ばれる方々やその他の方々に依って発案され将軍はその書面を見て『良きに計らえ』と言って実行させたのか?
「交通の要衝」という言葉がありますね。「要所」でも通じるっぽいですが
これはとても面白い!その時代のリアルな生活がよく分かる。チャンネル登録しました
タイムトラベルできるなら文化文政年間に戻り東海道を旅行したい。
うっかり八兵衛おすすめの団子屋は?
日本史とかもこいうやって教えてくれると成績がUPしていたと思います。
駅…なるほど
勉強になるなあ随分文化水準高いなあと思ったが案外江戸時代ってまだ100〜300年ぐらい前の出来事なんだよな
じゃ道の駅が本来の駅で、電車の駅の方が(鉄)道の駅になるわけか…
伝馬制度は北条家が構築した制度
街道と海道が区別出来てない様子。海道は南海道、西海道、東海道とあり平安時代の行政区分ですね🖐️
良いね~スマホと新幹線、人間おかしくなるわ!素朴な自然と融合や!便利になり過ぎてるわ!
俺の前世は雲助だったようだ
一番飯盛女が印象的だった。
当時のサービスエリア
※訂正
❌かまぼご→⭕かまぼこ
旅籠の食事について、夕食の平付が「かまぼご」という表記になっていますが、正しくは「かまぼこ」になります。
大変失礼いたしました。
オラ、かまぼごでぇすきだで😋
つまらん指摘。おらかまぼごすきだ。😊
方言使う奴は
日本人じゃない
?
動画内の当時の宿場写真を見ると、少し前に観光で行った大内宿は本当そのまま宿場の形が残ってるんだなって感心しました
学校では学べない歴史を学べて感謝してます
これからも頑張ってください
宿場が何故生まれどのような社会的機能を持ち地域社会がどう関わり、どのような人々が暮らし往来したかという存立基盤の基礎からの解説で面白かったです。
自分は中山道の和田宿の生まれなのですが、幼少期だった40年ほど前には、街道沿いに茅葺き屋根の古民家が残っていたりして、幼心ながら、歴史を感じる街並みだと思っていました。しかしながら、世の中は高度経済成長の後のバブルの名残で、新しいものに価値がある時代、ほとんどの古民家や街並みは保存されることなく、近代的な住宅に建て替えられてしまいました。それでも、近年、その価値を見直す動きがあるのか、中山道歩きの人たちとても増えています。ツアー以外でも、個人的に歩く人々、海外からのインバウンドなど、珍しい旅人と出くわす機会が多いです。また、本陣を始めとして、保存された旅籠などはカフェや宿泊施設として復活しています。
全ての宿場が、木曽のように、伝統的な街並みを復元するのは難しいことですし、そもそもこうした地方では過疎化で厳しいですが、モータリゼーションのなかった時代、人々が人馬だけで江戸と京都を行き交ったことを想像して現在の宿場町を歩いてまわるのは面白いです。
私の妻は数年かけて、休み休み、中山道を旧道を通って走破しましたが、実質、ひと月もあれば東京から京都まで歩いて行けました。私は長野県内しか走破できていませんが、車移動とは全く違った良い経験でした。
和田や長久保はアクセスは悪いものの、宿場の規模や伝統的な区割は素晴らしいもので、多くの人に知られれば魅力と感じる人も少なくないと思います。
和田沿道の最後の旅籠も随分前に閉じられてしまったし、行政が対策を講じてインバウンドを呼び込んで欲しいですね…
浮世絵って良いな。当時の人々の生活や息遣いまで伝わって来るようだ。
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現存する絵巻でそのシーンの解説をされているこちらの製作者様の努力には、頭の下がる思いです
今後も頑張ってください
以前にこちらのチャンネルで紹介された参勤交代の番組内容と併せて、江戸時代の運送業や宿泊業などが発展していく様子が伝わってきました。
番組後半の様々な職業の解説も、知らないことばかりで勉強になりました。
チャンネル登録しました。
全体の組み立てや内容の精査も丁寧ですし、使われている図版や写真も話の内容に合致した適切なものばかりです。
話の内容に合致しないいい加減な図版や写真が使われているチャンネルが溢れかえっているので、余計にここの内容の緻密さが際立ちました。
これからも丁寧な作品を期待しております。
ひどいのずいぶん減りました。いぜんは全世界的に黒画面に白文字で軍歌だの、偏った政治の訛ったトークだのでめちゃくちゃでした。やがてユーチューブに規制されて、AFPやゲッティのタダ画像や動画のうえに、フリーニュース原稿をアクエストークに読ませるだけのやつが現在もまだまだはびこってます。イイネも返しコメもないのですぐ分かります。
チューブへアップ用のエンコード込みで、1本5分3800円くらい。暇なプロダクションの若い衆に制作してもらう。もうちょっとマシなチャンネルの原稿校正と、トークソフトの標準語訂正の手伝いを少しだけしたけど安くてすぐ辞めました。
先祖が本陣を経営してました。とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
実際の宿場の様子の写真がすごい!🤓
タイムマシンがあったら真っ先に行きたい時代が江戸時代中期。当時の東海道を歩いて箱根の関所手前まで行ってみたい。
美しい発音の日本語で、最後まで安心して視聴できました。ありがとう。
最高
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わざわざ山の頂上まで上り下りしなくても脇によけて平地を歩けばいいだけなのにこう嘘を言い客をとっていたと
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同じく東海道踏破しましたが、朝方は国道の混雑を避けた車の交通量が多かったように感じます。
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そうですね
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先祖が伊勢参りをした時の日記が残っていて、こういう実態を知ってからまた読み直したいと思った。
中山道を自転車で踏破した時に実際に見たものなのですが、
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私は東海道を自転車踏破しましたが、同じように苦慮している本陣や伝馬役の資料や映像が歴史資料館で必ずと言っていいほど展示されていました。
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できればこの時代を旅してみたいな(もちろん服装は当時に合わせて。。。)
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今でも安宿の事を俗に木賃宿と言ったりしますが、当時も自炊の格安宿があったり🐒、旅籠で旅飯を楽しんだり、かなり安心して旅を出来るシステムがあったのは、とても良いなと思いました🦔
街道が整備されるまでの旅は命懸けでしたからね🌚
木賃宿。今ならさしずめ、ネットカフェやカプセルホテルって所ですね
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自分が住んでる所も宿場町で、歴史に興味を持てばすごく面白いなと思いました
今の時代とあまり変わりない江戸時代、歴史は紡がれているということがわかりました。
日本人の考え方ってあまり変わらないですね。
島崎藤村の「夜明け前」、中山道の宿場町経営者の視点で幕末期が描かれていた。和宮さんや水戸藩士の通過の場面などが興味深い。分かりやすい動画でますますイメージ湧きました。
「夜明け前」は妻籠宿、馬籠宿へ行く方への必読書でしょうね。
宿場町の事はよく知らなかったけれどすごく合理的な仕組みで出来上がっていて驚きました。
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永谷園のお茶漬けに付いてる東海道五十三次カードで御油宿の飯盛女が描かれたカード出たな~。旅人が飯盛女に引っ張られとる表情が面白い😊
吉田→御油→赤坂は宿場が近いので客の取り合いで、特に御油の飯盛女は濃厚サービスで有名だったみたいですね。
新居は関所が厳しく足止めくらうんで、新居宿の飯盛女はガードが厳しかったそうな。
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江戸市内では遊郭が禁止されていたし江戸郊外でも浅草吉原しか許可されていなかったので非公認の遊郭として機能していました
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旧東海道の箱根八里や中仙道、旧甲州街道小仏峠などご先祖様はさぞ御苦労されたのかと、旧東海道箱根八里を歩いたとき思いました。
歴史はこの動画のような当時の風俗が一番おもしろい
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高札場の閲覧義務化や、棒示杭に道案内の文章が書いてあったなら、識字率も一定の高さが有ったのですね。🤔
高札の文字が読める
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大変楽しく拝見しましな。又新しい動画楽しみまってるよ🎉
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現代のスポーツとしての『駅伝』の元となったものですね。当時の飛脚達が重要文書を、それこそ命がけでつないでいった姿は、現代の『タスキ』に心をこめる駅伝の選手達に重なります。だから感動を生むのですね。
街道では宿屋の女の人が袖を引いたりして、自分の宿屋に泊めるように仕向けていたそうですね。
特に宿場町の間隔が狭いところは宿屋の女の人も必死で、団体客の気の弱そうな人をタックルして自分の宿屋に留め置くこともままあり、手口が荒いこともあったようです。
勉強になります。投稿頂きありがとうございました。
宿屋の客人の草鞋の汚れ具合で値段を決めていた事が現代の価格交渉で金額を上げる場合・足元を見る・の言い草になっています
江戸時代の交通要所を整備して現在の幹線道路が出来たんですね。
昔は舗装されてない道を歩いて移動していた事を思えば生まれてきたのが現在で良かったのかな。
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とても為になりました。ありがとうございました😄
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江戸時代末期に来日したドイツ人医師・シーボルトが旅人でごった返す宿場町を見て、「こんなに旅行の盛んな国は世界中何処にも無い」と言ったとか。
宿場町跡は廓(?)跡や昔の投げ込み寺をよく見る 飯盛女の心中跡とか
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もしや箱根"駅"伝もこの江戸時代の駅から来てるのですね、謎が解けました。
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映画の雨あがるで宿泊してるのが木賃宿か。なるほどなぁ
品川宿だと助郷は世田谷の深沢(日体大あたり)からも人を出していました。
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驛はうまやと訓じます。
それぞれ仕事がある時代ですね。
笹沢左保の時代小説である木枯し紋次郎にも関八州の事情が書かれており五街道や問屋場や宿場も興味深いものがあります。
実に面白い興味深い。
明治時代に鉄道が導入されたが乗降場はそのままステーションと称したが当時の日本人では巧く発音できずスッテンショと
発音してたので暫くして停車場と呼ばせたが結局、律令制時代の「駅」と称すことにしました。
懐かしい🤭
「ステーション」って言ってましたね。
私が大人になるまで聞きましたよ😊
昭和の40年頃までは、確かに「ステーション」と言っていた人達が居られた事が思い出されます。
@
駅もステーションも鉄道誕生以前から
存在した言葉ですからね
宿場というと栄えたイメージがあるけど、伝馬役というのは非常に負担が重く貧乏宿場町も多かった
江戸時代の飛脚制度は世界的に見ても最も進んだシステムだった、と日本史の先生が言っていた。
最高!
この動画のように史実をしっかり説明してくれる動画はありがたい。TVのようなわざとらしいピン芸人も、ゆっくり解説のようなしょーもないギャグもいらない。
落ち着いて視聴できました!
人々の思いを運ぶ交通にかかわる仕事の人たち暮らしが見えていい感じ。
レギュラー宿の旅籠と安宿の木賃宿の価格差も妥当で選択しやすい。
雲助はウンスケと読んでたがクモスケなのか。
いつだったか裁判官が判決でタクシー運転手を雲助よばわりした件を思い出した。
美しい画像の豊富さに感動しました。思わずチャンネル登録してしまいました。
大変勉強させて頂きました ありがとうございます🙏
記録が残ってるのがスゴイ⤴⤴ 記録して保管て大事なことですね
宿泊する宿場の本陣をおさえるのに、旅行代理店のような業務を行なっていた商人もいたようですね。
吉田藩では三河屋と言われる商人が主にその業務を行なっていたようです。たまにダブルブッキングみたいなものもあったようです。
藩の記録が残っていたようで、博物館の学芸員の方が本にして出してくださっています。
和泉元彌さんみたいな係員が出てきて、『ダブルブッキングではござらん〜!』
とか、言ってたりして…😅
大内宿にも行きましたし、東海道では、いくつかの宿場にも行きました。 柏屋さん、二川宿、藤川宿とか、、。
で、疑問なんですが、参勤交代時には、藩によっては1000人以上の人間が移動すると思うのですが、、、各宿場には、近隣の民家も含めて、これだけの人数を収容する設備は、有ったのでしょうか?
加賀藩は、大変な規模のようだったらしいですし、、、。 親知らず子知らずは、どのように越えたのでしょうか?
とても不思議です。
どなたか、教えていただけると助かります。
それにしても、、浮世絵はすばらしいですね! さながら、現代のカラー写真!
絵師、彫り師、擦り師による分業でしたが、各職人が素晴らしい腕前であることが分かります。
版画によって作られた、昔の書物も素晴らしいですね! 版木の細かな加工に驚きます!
ご先祖の方々の技術の高さに、脱帽です!
(浮世絵以外に、城郭・寺社建築、城の石垣、、、等々、。 シミュレーションなどという技術も無い時代に、よくぞあのような建築物を作ったものです! これらの技術が継承されているのかナ? 残したい技術だと思います。)
旅籠は今のビジネスホテルやないかい?
宿泊代もご飯の構成も。
母親の実家は五街道ではないが、「問屋」と言われ、街道の中継所をやっていたんだな。
飯盛女という名前が好き
私の地元静岡県の遠州掛塚は天竜川に挟まれた輪中の中で栄えた湊町で掛塚に行くには主に海の東海道を使わないと行けなくて掛塚の町には本町と中町に宿場があったようで祭りの法被を見ると本町(元宿)、中町(中宿)と描かれてます。
🍚旅籠の朝食は、お茶も味噌汁も口を付けられないぐらい熱々にして、
更に従業員が急き立てて、客に飯を沢山食わせないようにしてました。
‥‥セコい
素晴らしい蘊蓄のある動画だ!!
殿!利息でござる
と言う(歴史家磯田道史さん)映画は、仙台藩の宿場の窮地を描いた作品なのですが
人足?伝馬?
と、目新しい用語がでてき
無知の私はついていけなかったのですが
この動画のお陰で理解することが
できました😊
ありがとうございます♪
システム化された街道といえばローマ街道が思い浮かびますが、日本の街道も同等のものだったんですね
家康が5街道の制定と整備を達したが…東海道は53次ではなく 57次ですよね…❗
当時と今の時代、楽しく生活出来たのは何方だろう?
それぞれにメリットデメリットが有るからな。
冒頭に関してですが、要所ではなく要衝かと
2:11
この画像をみても分かる通り、
昔は単純労働が多かった。
これは今で言う、発達障害やグレーゾーンなどの
方々でも仕事が分かりやすく、しやすいと思う。
逆に現代社会の仕事はバイトでも決められたマニュアルを100%
こなす仕事をする必要があるので、
単純労働向きの「脳」をしている人間たちからすると
かなり働きづらい環境になっていると思う。
訳ありの人でも番太、村外れの警備員みたいな役を与えられて養ってた例もありますね。
番太は村からの給金の他に、サービスエリアのように通行人に売店みたいな商売を許されてたようです。
東海地方の話です。
@@灰色山猫 そうなんですね。
情報ありがとうございます。
「是より北 木曽路」…地元は、今も昔も交通の要衝なんだわーー
こういった事は家康やその後の将軍か考え指示をし造られてきたのか?それとも将軍の側近(老中)と呼ばれる方々やその他の方々に依って発案され将軍はその書面を見て『良きに計らえ』と言って実行させたのか?
「交通の要衝」という言葉がありますね。「要所」でも通じるっぽいですが
これはとても面白い!
その時代のリアルな生活がよく分かる。チャンネル登録しました
タイムトラベルできるなら文化文政年間に戻り東海道を旅行したい。
うっかり八兵衛おすすめの団子屋は?
日本史とかもこいうやって教えてくれると成績がUPしていたと思います。
駅…なるほど
勉強になるなあ
随分文化水準高いなあと思ったが案外江戸時代ってまだ100〜300年ぐらい前の出来事なんだよな
じゃ道の駅が本来の駅で、電車の駅の方が(鉄)道の駅になるわけか…
伝馬制度は北条家が構築した制度
街道と海道が区別出来てない様子。海道は南海道、西海道、東海道とあり平安時代の行政区分ですね🖐️
良いね~
スマホと新幹線、人間おかしくなるわ!
素朴な自然と融合や!
便利になり過ぎてるわ!
俺の前世は雲助だったようだ
一番飯盛女が印象的だった。
当時のサービスエリア