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貴重な映像を上げて頂きありがとうございます。昭和9年生まれの母親が耶馬渓出身で下郷駅が最寄り駅だったそうで小さい頃からよく耶馬渓線を利用していた話を聞かされていました。母親はもちろんの事、母親の姉弟も毎日中津までの通学や通勤の足として利用していたそうです。全盛期だった昭和30年頃は耶馬渓線と並走する国道212号線は道幅も狭くアスファルト舗装がされていなかった為、バスより鉄道の方が早く(そして快適に)耶馬渓まで多くの利用者を運んでいたと言っていました。険しい地形の中を走っていた鉄道の為自然災害には弱かったらしく台風や大雨による土砂崩れや大雪の日によく運休していたそうで、耶馬渓線を利用して中津まで通っていた学生が家に帰れなくなりクラスメイトの家に泊めてもらった事もあったそうです。長閑な風景の中をのんびりと走っていた事もあり、また沿線住民の方は全員鉄道関係者と顔なじみだったそうで、列車に乗り遅れた人を駅以外の場所で乗せてあげたり、駅以外の場所でも手を上げると列車を停めて乗せてくれるなど今の時代ではとても考えれられない様なほのぼのとした光景もよく見られたそうです。それだけ沿線住民の生活に密接し、沿線住民の生活にはなくてはならない鉄道だった様です。母親の若い頃は決して豊かな時代ではなかったみたいですが、耶馬渓線に乗って街(中津)に行くことが一番の楽しみであり、鉄道が小さな村々に街からの物資や情報を運んで来てくれる事で「豊かな時代が来る事を夢見ていた」みたいな事を語っていました。戦後復興から高度成長時代に入り全国でモータリゼーションが進むと利用者が減って末期はいつ無くなっておかしくはない様なとてもさみしい状況だったそうですが…母親が学生時代から社会人になった頃の耶馬渓線の様子を語る時、母親の表情がとても生き生きしていたのがとても印象的でした。機会があれば中津を訪れ耶馬渓線跡のサイクリングロードを利用して耶馬渓の景色を楽しんで「汽車ポッポ」で食事をしてみたいと思います。
大変びっくりしています、そして感動、涙も流しながら・・・思いにひたっております! ありがとうございます
「大分交通」といえばつい「別大線」の路面電車をイメージしてしまいましたが、訳あって最近ディーゼルカーの「耶馬渓線」「国東線」「宇佐参宮線」の資料を見る機会があり、とても興味を引いています。こんな動画が残っていて、公開されているのはありがたいです。ありがとうございました😊
子供のころ急行電車に乗って別府に向かうときに中津から右に曲がっていく線路を見て祖母に あの鉄道に乗りたいと駄々をこねていた記憶 耶馬渓線1度乗ってみたかったです 深耶馬渓に行くにも観光バスで行っていたので線路の記憶がないです 守実温泉から日田に鉄路をつなげようとしたが山を越えることができずに・・・ 動画にもありましたがもしつながっていたら現在も残っていたかもしれません残念です もし残っていれば観光列車が走ってたかも 記憶に残る路線だと思います
な活…最初は何のことかわからなかった😖。中津のことですね。
@@有松勇二 ご指摘ありがとうございます 訂正しました
中津と日田を結ぶバスがここ数年で縮小傾向(土休日は2往復のみ)なので繋がっていても厳しかったかと(守実温泉まではもっと本数ある)
故郷のお国訛懐かしきインタビューに吸い寄せられました 小学生当時は自転車で実家から羅漢寺までいきました
バス窓の気動車、和歌山の紀州鉄道で乗ったことがあります。元々大分交通の車輌で廃線後に譲渡されたのですね...
50年以上前に白地の親戚の家に1週間遊びに行きました。その時耶馬渓鉄道にも乗り、懐かしく思いました。
耶馬溪線を知ったキッカケは山国川に掛かる立派な橋梁でした。玖珠町まで抜ける素敵なドライブルートの一部ではありますが、鉄道からの車窓風景を味わってみたかったです。
大分交通の最後の鉄道線だったらしいですね😭。🚂🚈🚊🚝🚅親父が、大分生まれだったので軽便鉄道って言ってました。🚂🚈🚊🚝🚅せめて、現役で走っていた姿見たかったですね😭。🚂🚈🚊🚝🚅
・貴重な動画ありがとうございます(・∀・)・今もあればイオン三光利用者がいて少しは変わってたのかなぁ・汽車ポッポ食堂ではかつての車両を利用した宿泊施設もあるし、その数も増えた(・∀・)・中津駅のampmも懐かしい...今週行ったらホームの時計が無くなってたよ(´;ω;`)ウゥゥ
耶馬溪線は子供の頃母と羅漢寺の親戚に行くときに乗ったことがあります。😅
貴重な映像を上げて頂きありがとうございます。
昭和9年生まれの母親が耶馬渓出身で下郷駅が最寄り駅だったそうで小さい頃からよく耶馬渓線を利用していた話を聞かされていました。
母親はもちろんの事、母親の姉弟も毎日中津までの通学や通勤の足として利用していたそうです。
全盛期だった昭和30年頃は耶馬渓線と並走する国道212号線は道幅も狭くアスファルト舗装がされていなかった為、バスより鉄道の方が早く(そして快適に)耶馬渓まで多くの利用者を運んでいたと言っていました。
険しい地形の中を走っていた鉄道の為自然災害には弱かったらしく台風や大雨による土砂崩れや大雪の日によく運休していたそうで、耶馬渓線を利用して中津まで通っていた学生が家に帰れなくなりクラスメイトの家に泊めてもらった事もあったそうです。
長閑な風景の中をのんびりと走っていた事もあり、また沿線住民の方は全員鉄道関係者と顔なじみだったそうで、列車に乗り遅れた人を駅以外の場所で乗せてあげたり、駅以外の場所でも手を上げると列車を停めて乗せてくれるなど今の時代ではとても考えれられない様なほのぼのとした光景もよく見られたそうです。
それだけ沿線住民の生活に密接し、沿線住民の生活にはなくてはならない鉄道だった様です。
母親の若い頃は決して豊かな時代ではなかったみたいですが、耶馬渓線に乗って街(中津)に行くことが一番の楽しみであり、鉄道が小さな村々に街からの物資や情報を運んで来てくれる事で「豊かな時代が来る事を夢見ていた」みたいな事を語っていました。
戦後復興から高度成長時代に入り全国でモータリゼーションが進むと利用者が減って末期はいつ無くなっておかしくはない様なとてもさみしい状況だったそうですが…母親が学生時代から社会人になった頃の耶馬渓線の様子を語る時、母親の表情がとても生き生きしていたのがとても印象的でした。
機会があれば中津を訪れ耶馬渓線跡のサイクリングロードを利用して耶馬渓の景色を楽しんで「汽車ポッポ」で食事をしてみたいと思います。
大変びっくりしています、そして感動、涙も流しながら・・・思いにひたっております! ありがとうございます
「大分交通」といえばつい「別大線」の路面電車をイメージしてしまいましたが、訳あって最近ディーゼルカーの「耶馬渓線」「国東線」「宇佐参宮線」の資料を見る機会があり、とても興味を引いています。
こんな動画が残っていて、公開されているのはありがたいです。ありがとうございました😊
子供のころ急行電車に乗って別府に向かうときに中津から右に曲がっていく線路を見て祖母に あの鉄道に乗りたいと駄々をこねていた記憶 耶馬渓線1度乗ってみたかったです 深耶馬渓に行くにも観光バスで行っていたので線路の記憶がないです 守実温泉から日田に鉄路をつなげようとしたが山を越えることができずに・・・ 動画にもありましたがもしつながっていたら現在も残っていたかもしれません残念です もし残っていれば観光列車が走ってたかも 記憶に残る路線だと思います
な活…最初は何のことかわからなかった😖。
中津のことですね。
@@有松勇二 ご指摘ありがとうございます 訂正しました
中津と日田を結ぶバスがここ数年で縮小傾向(土休日は2往復のみ)なので繋がっていても厳しかったかと(守実温泉まではもっと本数ある)
故郷のお国訛懐かしきインタビューに吸い寄せられました 小学生当時は自転車で実家から羅漢寺までいきました
バス窓の気動車、和歌山の紀州鉄道で乗ったことがあります。元々大分交通の車輌で廃線後に譲渡されたのですね...
50年以上前に白地の親戚の家に1週間遊びに行きました。
その時耶馬渓鉄道にも乗り、懐かしく思いました。
耶馬溪線を知ったキッカケは山国川に掛かる立派な橋梁でした。
玖珠町まで抜ける素敵なドライブルートの一部ではありますが、鉄道からの車窓風景を味わってみたかったです。
大分交通の最後の鉄道線だったらしいですね😭。🚂🚈🚊🚝🚅親父が、大分生まれだったので軽便鉄道って言ってました。🚂🚈🚊🚝🚅せめて、現役で走っていた姿見たかったですね😭。🚂🚈🚊🚝🚅
・貴重な動画ありがとうございます(・∀・)
・今もあればイオン三光利用者がいて少しは変わってたのかなぁ
・汽車ポッポ食堂ではかつての車両を利用した宿泊施設もあるし、その数も増えた(・∀・)
・中津駅のampmも懐かしい...今週行ったらホームの時計が無くなってたよ(´;ω;`)ウゥゥ
耶馬溪線は子供の頃母と羅漢寺の親戚に行くときに乗ったことがあります。😅