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確か小学生時代に、のりました。EF16に、牽かれた普通列車!東北本線の、赤い電機と違い渋さが、目立ちました。勿論斜め上を、睨むツララ切りは、めだちました。そして冬季でしたので、次位の暖房車!冬場の、山小屋の親爺が小さ目なボイラーに、石炭を焚べていました。職務上は機関助士だったのでしょうか?大変な仕事ですね。電化後71年!現在は、標準軌のつばさや、足湯新幹線が、軽快に山登りしています。まさに隔世の感有りですね。感動の一本でした。
とても貴重な映像をありがとうございますそして先人の方たちへの感謝の念を改めて深く持ちました
単線で列車を止めずにこれだけの工事をするのは、本当に大変だったでしょうね!
本当に貴重な動画。今は山形新幹線でささっと通り抜けられる福島・米沢間。この区間を往来する際は、鉄道建設に従事した全ての方々に感謝しながら過ごしたい。
電車に乗ると、やっぱり子どもたちも喜ぶ表情がいいですね。
素晴らしい映像をありがとうございます。これよりも画質の悪い、短縮版を視た事があったので驚いています。より良い明日を目指して汗した方が居たからこそ、今日があるのだと思い知らされる映像です。
最初15歳の時行きました電機はF64です、その後、急行津軽で峠越えD78です、つばさは181系でも環金トンネルで火災事故を起こしそれから電機サポート181系はこの板谷峠を補機なしで越えるのが売りでしたが、最後はF71が僅か2両のロングシート改造の旧客を牽いていました、かって東海道の花形スロ41(戦闘機の残材を貼り)の成れの果て、峠の力餅を買って食べました。
先人の苦労と努力に脱帽!
険しい山中の電化工事が如何に大変で過酷であることを初めて目の当たりにして、工事に携わった皆さんの努力に頭が下がります。4110型が活躍していた映像は本当に貴重ですが、運転士や乗客はさぞかし黒煙に悩まされたのでしょうね。そして、当時は本当に子供が多かったことが映像からもよく分かりました。
2:55に出て来る赤岩駅は、今は休止扱いになりましたが、当時はあんなに乗降客がいたのですね。時の流れを感じて寂しくなります。
もともと人口が無かったが北側の大笹生(字地名)などに戦後外地帰りの入植があり、動画の頃はちょうど子弟が学齢期を迎えたと考えられる。グーグルマップを見ての推測です。
今が有るのはこの様な苦労お陰ですね。
昭和25年当時、「電気機関車が来たよー!」という感激、今とは比較にならないものがあったであろうことは想像に難くありませんね!!
昔の男達は本当に働き者だな。
福米の4110型やEF15が動いている貴重な映像をありがとうございます。山の中の電化工事、特に冬場は過酷な工事だったのですね。電化でスピードアップした結果、下り勾配でブレーキが過熱する問題が発生して、色々対策しても抜本的な解決に至らずEF15を回生ブレーキ付きに改造したEF16が投入されました。
こどもの頃、鏡付きの洗面所が主要駅のホームにありました。あれは煤だらけになった顔を洗うためだったんですね。レモン石鹸があると香り嗅いだりして嬉しかったなぁ。
赤岩駅を利用していた人が想像以上に多かった。
板谷峠は新幹線の完成前後に何回か通りました。最近久しぶりに山形新幹線のつばさ号で乗車しております。冬の雪山の中を走り抜けるのは快適ですが、このような工事があったからこそと思います。3年かけて完成した年が昭和24年と言うことは終戦からすぐに工事を始めたと言うことですね。物資もない中よくこのような電化工事をされたものと思います。本当に工事に携わられた皆様、さらには撮影された皆様お疲れさまでした。アップされた方には感謝します。永久に記録として残ってほしいですね。
終戦直ぐに工事は始められません。戦時中、機関車の工場は輸送潜水艦の製造に利用され資材は戦車に流用され、機関車の新造が無いだけでは無く、部品がまったく欠乏し、戦争が終わって1年半してから輸送の途絶が発生し国民の食料が危機に瀕しました。このときは輸送不足から東北では品質の低い石炭(常磐炭である)が使用され一層の輸送低下が発生したのです。当時、戦争で工場が無くなるか販路が無くなったために電気は余剰を示しており石炭はまったく不足していたので、国鉄は電化の進展を望みました。ですが占領軍総司令部(GHQ)は内部に電気式ディーゼル機関車を推進する人物が居た影響があるのか無いのか、日本の鉄道電化は時期尚早(時代錯誤?)としたのです。1947を中心とした同時期、米の大陸鉄道ではディーゼル化が大ブームだったのです。電気を使っているのはグレート・ノーザンだけでした(後1956に電化廃止)。注:米では架線の維持管理費用が問題視されていた。GHQをなんとか説得して承認を受けた後の工事は突貫で進められ1年ほどで完成したはずです。トンネルは盤下げをしたはずですが、どのように行なったか、鉄道ピクトリアルにあるはずですが探してもわからなかったです。戦前から電化の構想があり復員者を多く抱えた国鉄の動きは速かったのです。同時に全列車スイッチバックだった各駅に通過線が設けられ急行は運転停止をする必要が無くなっています。奥羽本線も新庄以北では電化廃止の話が出てきて70年前のアメリカみたいになってきましたね。
8:24 トンネル内の盤下げ工事がフィルムに残ります。間合いの少し長い時間に活線工事(列車を休止させない)を行なっていた模様。
昭和24年から19年間の直流電化時代。
SLから電車に替えてからは、貨物の輸送力だ大幅に運べるようになったのは、嬉しいと思います。
インドから日本への愛。
新幹線が開業するまではスイッチバック式の、のんびりした旅だったんですけどね。峠駅では「峠の力餅」を必ず買って、ジャングルみたいな山の風景を楽しんだものでした。今じゃどこも高速輸送時代で、旅の本来の楽しみがどんどん失われていきます....寂しい限りです。
当時の工事の仕方は今とは比べ物にならないほど過酷高所作業車などなくハシゴと胴綱一本で電車線をかける
佐久間ダムのでも見たけどこの頃の人達は命綱無しなんだよなあ
ちなみにこれほど問題のない映像を、どのような保存保管方法で所有されていてどのようにデジタルデータ化されたのかお伺いできたらなおうれしいです
この険しい峠をフル規格の新幹線で抜けようとしたら、莫大な工事費になるはず。青森より20年早く新幹線直通列車を通したことも考え合わせると、ミニ新幹線はある意味正解だったのかもしれません。(速度や輸送力など問題はありますが)
今だったら費用はかかりますが、高速道路と同じ様にトンネル通すんでしょうね・・・。
新庄始発の電車はつばさなのですが、厳冬期の暗やみのなかを豪快に雪を飛ばして進むさまを見るとしみじみと動力分散方式(車で言えば4WD)の力強さを思うのです。速度だけではないメリットが新幹線にはあるのです
直流電化だったんですね
交流電化の技術ができたのは昭和30年代ですからね日本では仙山線も最初は直流電化で、この交流電化の試験路線となりそのまんま交流へ切り替え(なお交直デッドセクションを試す目的もあったため交直混在期間もあった)
山形新幹線が走る現在ですが、当時は蒸気機関車から電気機関車に代わって煙に悩まされなくなったんですね(* ゚∀゚)
Goood all video.
30年程前まで板谷付近の線路沿いにたくさんの廃墟があったけど、作業員の寄宿舎だったのかなあ。
カネヨンの工場の社宅じゃないかと😊
赤岩駅も廃止されてしまいましたね。
赤岩駅で降りる人がいたという事実が新鮮ですね
暑い時期は、顔や白物衣類が真っ黒になったものです。工事関係者の皆さまのお陰で快適になりました。ありがとうございました。
おそらく、この頃は今と違って建設機械も揃っていないでしょうから、あらゆる作業を人力でやっていたんじゃないでしょうか? たとえば、建材を高所に持ち上げるのもクレーンでなく、櫓を組んで滑車ロープで引き上げていたのでは? そのことを考えると、(作業場所の環境の過酷さに加えて)当時の人たちの努力と技術力には、ただただ頭が下がります。
わたしわ峠駅から大沢駅まで大沢小学校に通学してました懐かしいです
17.06を見ると客車の窓ガラスが割れています。電化工事は昭和24年に完了したはずですので多分その年に撮影されたものと思いますが、戦後の客車の状況はまだこの時点でも窓ガラスが割れたまま運用されるほど悪いものだったのでしょうか?
朝鮮特需前は悲惨なモノですよ。明治生まれの祖父母や大正生まれの叔父叔母曰く戦時中よりも敗戦後の方が遥かにキツかったみたいです。
5軸動輪機関車が動く姿を初めて見ました
昭和の時代は、まだ不便さがのこっていて、それが良かったね。
E10型❗️
4110もあります
最後に押している機関車、スピード合わせるの大変だろうな。早すぎると脱線するし、遅すぎると負荷がかかるし今みたいに電子制御してないし
今じゃ新幹線がかっ飛ばしてるんだもんなあ…
やっぱり電化はいいですね、
20世紀半ば。まだ占領下。
奥羽本線も最初は直流電化だったのよね😂
動画に出てくる4140形は非常に動画が少ないです
Toward Electrification!
いやな煙に苦しめられる事もなくなり・・・・・、ヌから大量の黒煙が出ていたような・・・。
暖房車の煙は結構ある、中央線のEF13、冬はトンネルが煙だらけ、牽引は電機だけど、ただ板谷と碓氷、柳ケ瀬はただの煙ではなく、まさに死を呼ぶ煙!
蒸気機関車から電車ではなく電気機関車+客車なのはコストの関係かな?
昭和25年ではようやく東京〜沼津で80系湘南電車が登場した頃ですね。短距離用の電車はありましたけど。
輸送需要旺盛なら機関車と客車の方が安上がり。鉄道輸送が旺盛な中国乗った在来線はまだまだ機関車と長大編成客車。電車は短編成高頻度運転には向いていますからね
😊
徳島はまだですか?
わーー(棒読み)
凄い
確か小学生時代に、のりました。EF16に、牽かれた普通列車!東北本線の、赤い電機と違い渋さが、目立ちました。勿論斜め上を、睨むツララ切りは、めだちました。そして冬季でしたので、次位の暖房車!冬場の、山小屋の親爺が小さ目なボイラーに、石炭を焚べていました。職務上は機関助士だったのでしょうか?大変な仕事ですね。電化後71年!現在は、標準軌のつばさや、足湯新幹線が、軽快に山登りしています。まさに隔世の感有りですね。感動の一本でした。
とても貴重な映像をありがとうございます
そして先人の方たちへの感謝の念を改めて深く持ちました
単線で列車を止めずにこれだけの工事をするのは、本当に大変だったでしょうね!
本当に貴重な動画。今は山形新幹線でささっと通り抜けられる福島・米沢間。
この区間を往来する際は、鉄道建設に従事した全ての方々に感謝しながら過ごしたい。
電車に乗ると、やっぱり子どもたちも喜ぶ表情がいいですね。
素晴らしい映像をありがとうございます。
これよりも画質の悪い、短縮版を視た事があったので驚いています。
より良い明日を目指して汗した方が居たからこそ、今日があるのだと
思い知らされる映像です。
最初15歳の時行きました電機はF64です、その後、急行津軽で峠越えD78です、つばさは181系でも環金トンネルで火災事故を起こしそれから電機サポート181系はこの板谷峠を補機なしで越えるのが売りでしたが、最後はF71が僅か2両のロングシート改造の旧客を牽いていました、かって東海道の花形スロ41(戦闘機の残材を貼り)の成れの果て、峠の力餅を買って食べました。
先人の苦労と努力に脱帽!
険しい山中の電化工事が如何に大変で過酷であることを初めて目の当たりにして、工事に携わった皆さんの努力に頭が下がります。
4110型が活躍していた映像は本当に貴重ですが、運転士や乗客はさぞかし黒煙に悩まされたのでしょうね。
そして、当時は本当に子供が多かったことが映像からもよく分かりました。
2:55に出て来る赤岩駅は、今は休止扱いになりましたが、当時はあんなに乗降客がいたのですね。時の流れを感じて寂しくなります。
もともと人口が無かったが北側の大笹生(字地名)などに戦後外地帰りの入植があり、動画の頃はちょうど子弟が学齢期を迎えたと考えられる。グーグルマップを見ての推測です。
今が有るのはこの様な苦労お陰ですね。
昭和25年当時、「電気機関車が来たよー!」という感激、今とは比較にならないものがあったであろうことは想像に難くありませんね!!
昔の男達は本当に働き者だな。
福米の4110型やEF15が動いている貴重な映像をありがとうございます。山の中の電化工事、特に冬場は過酷な工事だったのですね。
電化でスピードアップした結果、下り勾配でブレーキが過熱する問題が発生して、色々対策しても抜本的な解決に至らずEF15を回生ブレーキ付きに改造したEF16が投入されました。
こどもの頃、鏡付きの洗面所が主要駅のホームにありました。あれは煤だらけになった顔を洗うためだったんですね。レモン石鹸があると香り嗅いだりして嬉しかったなぁ。
赤岩駅を利用していた人が想像以上に多かった。
板谷峠は新幹線の完成前後に何回か通りました。最近久しぶりに山形新幹線のつばさ号で乗車しております。冬の雪山の中を走り抜けるのは快適ですが、このような工事があったからこそと思います。
3年かけて完成した年が昭和24年と言うことは終戦からすぐに工事を始めたと言うことですね。
物資もない中よくこのような電化工事をされたものと思います。本当に工事に携わられた皆様、さらには撮影された皆様お疲れさまでした。アップされた方には感謝します。永久に記録として残ってほしいですね。
終戦直ぐに工事は始められません。戦時中、機関車の工場は輸送潜水艦の製造に利用され資材は戦車に流用され、機関車の新造が無いだけでは無く、部品がまったく欠乏し、戦争が終わって1年半してから輸送の途絶が発生し国民の食料が危機に瀕しました。このときは輸送不足から東北では品質の低い石炭(常磐炭である)が使用され一層の輸送低下が発生したのです。当時、戦争で工場が無くなるか販路が無くなったために電気は余剰を示しており石炭はまったく不足していたので、国鉄は電化の進展を望みました。ですが占領軍総司令部(GHQ)は内部に電気式ディーゼル機関車を推進する人物が居た影響があるのか無いのか、日本の鉄道電化は時期尚早(時代錯誤?)としたのです。1947を中心とした同時期、米の大陸鉄道ではディーゼル化が大ブームだったのです。電気を使っているのはグレート・ノーザンだけでした(後1956に電化廃止)。注:米では架線の維持管理費用が問題視されていた。
GHQをなんとか説得して承認を受けた後の工事は突貫で進められ1年ほどで完成したはずです。トンネルは盤下げをしたはずですが、どのように行なったか、鉄道ピクトリアルにあるはずですが探してもわからなかったです。戦前から電化の構想があり復員者を多く抱えた国鉄の動きは速かったのです。同時に全列車スイッチバックだった各駅に通過線が設けられ急行は運転停止をする必要が無くなっています。
奥羽本線も新庄以北では電化廃止の話が出てきて70年前のアメリカみたいになってきましたね。
8:24 トンネル内の盤下げ工事がフィルムに残ります。間合いの少し長い時間に活線工事(列車を休止させない)を行なっていた模様。
昭和24年から19年間の直流電化時代。
SLから電車に替えてからは、貨物の輸送力だ大幅に運べるようになったのは、嬉しいと思います。
インドから日本への愛。
新幹線が開業するまではスイッチバック式の、のんびりした旅だったんですけどね。
峠駅では「峠の力餅」を必ず買って、ジャングルみたいな山の風景を楽しんだものでした。
今じゃどこも高速輸送時代で、旅の本来の楽しみがどんどん失われていきます....寂しい限りです。
当時の工事の仕方は今とは比べ物にならないほど過酷
高所作業車などなくハシゴと胴綱一本で電車線をかける
佐久間ダムのでも見たけどこの頃の人達は命綱無しなんだよなあ
ちなみにこれほど問題のない映像を、どのような保存保管方法で所有されていてどのようにデジタルデータ化されたのかお伺いできたらなおうれしいです
この険しい峠をフル規格の新幹線で抜けようとしたら、莫大な工事費になるはず。
青森より20年早く新幹線直通列車を通したことも考え合わせると、ミニ新幹線はある意味正解だったのかもしれません。(速度や輸送力など問題はありますが)
今だったら費用はかかりますが、高速道路と同じ様にトンネル通すんでしょうね・・・。
新庄始発の電車はつばさなのですが、厳冬期の暗やみのなかを豪快に雪を飛ばして進むさまを見るとしみじみと動力分散方式(車で言えば4WD)の力強さを思うのです。速度だけではないメリットが新幹線にはあるのです
直流電化だったんですね
交流電化の技術ができたのは昭和30年代ですからね日本では
仙山線も最初は直流電化で、この交流電化の試験路線となりそのまんま交流へ切り替え(なお交直デッドセクションを試す目的もあったため交直混在期間もあった)
山形新幹線が走る現在ですが、当時は蒸気機関車から電気機関車に代わって煙に悩まされなくなったんですね(* ゚∀゚)
Goood all video.
30年程前まで板谷付近の線路沿いにたくさんの廃墟があったけど、
作業員の寄宿舎だったのかなあ。
カネヨンの工場の社宅じゃないかと😊
赤岩駅も廃止されてしまいましたね。
赤岩駅で降りる人がいたという事実が新鮮ですね
暑い時期は、顔や白物衣類が真っ黒になったものです。
工事関係者の皆さまのお陰で快適になりました。
ありがとうございました。
おそらく、この頃は今と違って建設機械も揃っていないでしょうから、あらゆる作業を人力でやっていたんじゃないでしょうか? たとえば、建材を高所に持ち上げるのもクレーンでなく、櫓を組んで滑車ロープで引き上げていたのでは? そのことを考えると、(作業場所の環境の過酷さに加えて)当時の人たちの努力と技術力には、ただただ頭が下がります。
わたしわ峠駅から大沢駅まで大沢小学校に
通学してました懐かしいです
17.06を見ると客車の窓ガラスが割れています。電化工事は昭和24年に完了したはずですので多分その年に撮影されたものと思いますが、戦後の客車の状況はまだこの時点でも窓ガラスが割れたまま運用されるほど悪いものだったのでしょうか?
朝鮮特需前は悲惨なモノですよ。明治生まれの祖父母や大正生まれの叔父叔母曰く戦時中よりも敗戦後の方が遥かにキツかったみたいです。
5軸動輪機関車が動く姿を初めて見ました
昭和の時代は、まだ不便さがのこっていて、それが良かったね。
E10型❗️
4110もあります
最後に押している機関車、スピード合わせるの大変だろうな。
早すぎると脱線するし、遅すぎると負荷がかかるし
今みたいに電子制御してないし
今じゃ新幹線がかっ飛ばしてるんだもんなあ…
やっぱり電化はいいですね、
20世紀半ば。まだ占領下。
奥羽本線も最初は直流電化だったのよね😂
動画に出てくる4140形は非常に動画が少ないです
Toward Electrification!
いやな煙に苦しめられる事もなくなり・・・・・、ヌから大量の黒煙が出ていたような・・・。
暖房車の煙は結構ある、中央線のEF13、冬はトンネルが煙だらけ、牽引は電機だけど、ただ板谷と碓氷、柳ケ瀬はただの煙ではなく、まさに死を呼ぶ煙!
蒸気機関車から電車ではなく電気機関車+客車なのはコストの関係かな?
昭和25年ではようやく東京〜沼津で80系湘南電車が登場した頃ですね。
短距離用の電車はありましたけど。
輸送需要旺盛なら機関車と客車の方が安上がり。鉄道輸送が旺盛な中国乗った在来線はまだまだ機関車と長大編成客車。電車は短編成高頻度運転には向いていますからね
😊
徳島はまだですか?
わーー(棒読み)
凄い