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大阪万博終了後の1970年代中盤、大阪-京都の中間あたりの高槻に住んでいました。その頃から、急行きたぐにの大阪行きが、12系座席車+10系寝台車で運行されていたのですが、新型でピカピカの12系の後ろに、ボロボロで窓全開でカーテンを棚引かせながら走る10系寝台客車を見て、子供ながらになんて格差が有るんだと見ていたのを思い出しました。
オハネフ12もオロネフ10も冷房されていたですね。
12系は特急に使おうという色気が出る程度にはいい座席でしたね。シートピッチ1600mmを想定してランバーに17度の角度を付けた知的な構造は「頭のいい人が造った座席」をひしひしと感じました。個人的にはR51座席なんかよりはずっと高級(豪華ではない)だったと思います
80年代90年代乗り鉄として長距離やローカルで大変お世話になった12系と50系です。内装は電車気動車急行と変わらず。電車だとMT54の唸り、気動車だとDMH17の心地よいエンジン音が聞きたいときもあるけど、それが聞こえてこない乗り鉄鈍行旅は今や体験できない良きものでした。70年代の記憶は薄いけど、他の交通機関が整ってないから日常的に満員に近かったでしょう。でもそれ以降は長い編成のままで運用されていたから、4人ボックスに一人か二人なので一日乗っても全然苦痛ではなかったですね。
いつも楽しませて頂いています。「好き」という程度で決して詳しくない私ですが、緻密で見応えのある内容・映像のお陰で新たな知識を勉強させていただいています。特に今回は地元尾久で少年時代に親しんだ客車を見られて嬉しいです。
この後出てくる50系客車共々客車の居場所って本当に限られてましたね。
人気機関車型?創立を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様に?向け客車型等。
@@吉水寿文日本人に理解出来るよう、お願いします。
客車は機関車がないとただの倉庫だもんね。とは言うものの、10系客車の車体設計はキハ20や101系、153系に採用され、12系客車の設計がキハ65以降の車両製造に変革を促した。14系特急は183系以降の特急設計の起源であるし。
@@塩島聖一 人気にて驚き?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
大阪万博対策でもあったんだよね、12系客車は。山陽線呉線経由の臨時急行にも使用されてたのでC62にも牽引されてました。
東北本線盛岡以北の客車列車といえば12系でした。牽引機もED75の重連だったりEF81だったり面白かったですね。
意外とEF66とコンビも効果抜群ですね。特別急行さくらがその例ですかね?
ていうか誰かこの神CG突っ込もうよ
役不足とは役者の実力に対して与える役が足りない事。しかしここでの12系の場合は、ボックスシートなので花形である特急役はこなしきれない。言うならば力不足と評すべき。
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影響力の大きな動画主は言葉や、漢字を間違えず使用して欲しいですね。
@@tydeentetuota5514 私宛にて?お話?。学習部?創立にて?所属を推薦。
実は万博当時は、予備運用機である蒸気機関車が臨時の12系を牽く組み合わせも多かったのです。
万博輸送後の使い道が団体列車などに限られたのが残念。新幹線や485系電車特急など所要時間の短縮に目を奪われ、アコモデーションはなおざりにされた感がある。客車列車は青函連絡の快速海峡が路線の特性から停車駅が少なく所要時間も適正で当時の需要にこたえて役立った。
@@moto1269 客車急行列車置き換えなら北陸トンネル火災事故で何処使用停止になる食堂車は無理でもグリーン車は必要出来れば10系寝台車置き換えの寝台車も欲しいが14系寝台車24系寝台車と被るからな
丁度万博の年ナチ休み、九州へ行った帰りに佐賀駅から大阪駅まで、ピカピカの新車だった12系の急行雲仙1号に乗りました。当時は小学校低学年だったので、満席のクロスシートも苦にならず、エアコン付きで乗り心地もよく、カッコイイ車両だという印象でした。九州の駅にイラストの12系デビューのポスターが貼ってありましたが、最初それを見たときは、急行型電車かディーゼルかーかと思っていました。
私は小2だった昭和46年8月、帰省の帰りに佐賀から神戸まで臨時の雲仙2号に乗りました。初めて見る新型車両の記憶はハッキリ残ってます。因みに行きはキハ80系の特急かもめ。 在来線の黄金時代が懐かしいです。
@@takaboh0403 自分の場合、寝台特急さくらのチケットが取れなかったので、往きは新大阪から583の特急はと1号で博多まで行き、博多からは何とキハ65連結の列車でした。お陰で当時の花形車両を体験でき、良い思いが出来ました。昼行特急はと1号は、途中様々な急行・特急列車とすれ違い、楽しかったことを憶えています。
Nゲージの話で恐縮ですが、昭和50年頃はキハ65が発売されておらず、トミー香港製のオハ12を改造して運転室を取り付けてキハ65にする記事が雑誌に搭載されておりました。
山陰本線では近郊型改造が施され、ドア付近の座席がロングシート化されてました。
昭和48年夏、母方の祖父母の家に行くのに乗ったのが12系つばさ51号でした。上野駅で待っている目に入ったのは推進で入線する青い客車で、181系を待っていた自分はガッカリした思い出があります。いざ乗ってしまえば道中は見馴れた景色で小学生なので特急と急行のアコモデーションの差はさほど気になりませんでした。翌年からは14系になったので1回限りの遜色特急に乗った貴重な体験ですね
ついに西の12系も本当に終わりが始まってしまいましたね。今回の劇中の「客車列車にも再び日の目が当たることを期待した機関士も」というのは、「鉄路100万キロ(鉄道ファン誌内コラム名870000kmの軌跡)」を執筆された、動画主さんと同郷の宇田さんもそうだったのではないでしょうか。
70年代、80年代頃、旧客や50系客車の最後尾に乗っていると、停車中の列車から何の音もしませんでした。シーンと静まり返っていた。客車の印象深い思い出の一つです。海外では、客車がむしろ主役という感じですが、日本ではほぼ0になってしまいました。日本で、客車の優雅さをもう味わえないのかと思うと一抹の寂しさを覚えます。
みんな理解できるのコレ?
@@tydeentetuota5514 専門を?驚?にて、お伝えです。
その海外も、最近は動力分散方式が増えてきました。海外でも、東アジアとヨーロッパ(東の一部を除く)ですが。
12系客車、新型だけど寸法的にほぼ165系電車w
当時12系はキハとサハと呼ばれてました
理論上はキハ181とか165系電車とかに連結できるような設計思想でしたな😊
@@常夏雪ダルマ というか、キハ65のエンジン抜き。
84年2月の紀勢本線を最初に、普通列車にも使われるようになりましたね。末期には一部の座席をロングシートに改造したタイプまで現れましたが、播但や山陰でよく乗りました。
12系客車と14系客車は、ほんといろいろな線区で使われますね。紀勢線でも使われるほどですからね。
@@channelsada3849 12系は臨時列車で北海道まで乗り入れましたね。本当に全国制覇です。
最後の大窓ヒサシのEF58 66号が牽引している姿を雑誌で見てうっとりしてました。当時小学生の関東民だったから、乗りたかったなぁ。
最高の組み合わせでした。私は39号機も好きでした。
会社間を跨ぐ波動輸送には今でも12系のような汎用客車が有用だと思いますが、もはや機関車が…。
それほどの波動輸送があるのかな
@@tydeentetuota5514? 黒字列車創作です。
JR化後の九州ですが、夜行急行用にとグリーン車用の座席に換装された車両がありまして、急行かいもんや日南、それらの廃止後には一時期宮崎~西鹿児島(鹿児島中央)間の普通列車に運用されていました。
50系末期にはトイレカーの役割も果たしました。1両だけ元グリーン車のシート。乗り得でしたが、混雑を嫌い乗らない人も多かったような?
-この改造車はとても乗り心地が良かったですね。電車特急化したときにはがっかりしました。
タイ国鉄ではまだまだ客車が中心。新車の寝台車を買ってるくらいです。タイ人からわざわざ列車で行くのにはお金あるのにどうしてあんな貧民窟みたいなもの乗るの?って言われますが、あの非冷房三等車のボックスシートの雰囲気は日本じゃもう味わえない。
お疲れ様です。客車は未経験で有ります(自家用車王国グンマー帝国)世の中、落ち着いて来たので、そろそろ鉄道利用で旅行に行きたい昨今です。
グンマーあたりは逆に、12系のサンクチュアリではありませぬか。高崎あり、熊谷に出れば秩父のもあり。
初めて12系に乗ったのは、1991年運行のD51-498牽引上越線開業60周年記念号でしたSLのドラフト音と共にディーゼルエンジンの音が聞こえるという不思議な感じでしたね14系の方が好きだったんですが、いつしか長野駅付近で待機中の急行ちくま用はテールマークが付いていてカッコよく、14系寝台車と車体形状が合っていて編成全体で整っていたのも印象的でしたきたぐにのデコボコ編成も好きでしたね
臨時の特急しおじ号でも使用されましたね。客車列車にしてはとても速いスピードを出してました。
晩年はEF65牽引だったので、110Km/h運転が可能でしたね。
14系ハザでなくて12系ハザもしおじやってたんですね。
十和田、八甲田でお世話になりました。東北筋では80年代後半辺りから座席が特急用の転換クロスシートに交換されていましたが、ほどなく14系座席車に活躍の場を奪われていきました。
国鉄末期には、各鉄道管理局がこぞって12系客車ベースのお座敷車両を登場させました。それぞれの地域の特徴を反映させた車両たちで個性有って見ていても愉しいものでしたね。
12系客車は万博後上野発の臨時特急つばさ51号等に使用されていましたね。その際は特急料金は¥100引きでした。12系客車に飲料水の設備があるのはそのためと思われます。
JR初期に寝台列車がまだ数多かったり、貨物列車や入換用に旅客会社所属機が委託運用に付いていた頃は客車列車が残っていました。所属区から客車を牽き貨物ターミナルのある駅まで行く、寝台車を牽かない時間帯に50系を牽いたりしていました。九州では12系も50系の冷房改造のカバーで入りましたが、後にグリーン席シートを持つスハフ12が50系にトイレカー兼用に活躍しました。
確か門司港から筑豊線に乗り入れる客車列車で12系と50系との混結編成がありました。なぜそうしているのかと思ったら、50系のトイレが直接線路に落とす形で使用禁止にしていたため、汚物タンクのある12系を一両トイレが使えない車両として繋げていたのですね。2001年に開催された北九州博覧祭の時に乗りました。
12系客車とキハ65系をミキシングした車両を考えています。
うちの頭なら可能かもですねwww
@@channelsada3849 さんキハ65系って出自の関係でトイレが付いてないんですよね。キハ65の1形式しかないんですよ。だからキロ65とかあれば良いなと思い浮かんだんですよ。
@@vx1192 しかも、出力も出力なのでキハ65かキハ58しか連結できないという致命的な設計思想なんで、
松江で生まれ育った私は12系は、急行だいせんの3000番代普通列車の1000番代0番代は、SLやまぐち号と三江線SAIKAI号に乗れました。
まだ学生時代に上野から青森行きの十和田に乗ったのが12系の最初で最後でした。臨時しおじに乗った際に14系の特急型の座席車にも乗りましたが、乗り心地は12系のボックス座席の方が14系の簡易リクライニングシートより快適でした。懐かしいですね。
今となっては、もう客車列車の定期運用もなくなり、オリジナルの雰囲気を残している車両も少なくなりましたな
趣味型?似た機関車型も創作中、しばらく後に営業です。
12客車。子供のころ、毎年夏休みになると、青森から奥羽本線経由で行く、天理教こどもおちばかえり団臨列車のイメージが強いけど、確かこの車両って、普通の座席だけで、確かベッドに組み換えはできないんですよね。青森から奈良…苦行の旅だな…。
ムーンライト高知でスロフ12乗ったのが最初で最後かな。純12系乗ってみたかったなぁ…
12系がまだ新しい昭和50年代から早くもお座敷客車化改造が始まってましたからね~。昭和60年代になると更にジョイフルトレインに改造されまくる・・・。本来の姿で天寿を全うした12系は本当に少なかったですよね。
子供の頃、夏休みは宮城の母の実家で過ごしていました。当時の鉄道は混雑が激しく、臨時の 急行まつしま しか予約できませんでした。急行、しかも臨時に大変がっかりしましたが、12系に乗れるぞと父に言われ、当時の最新型ということで楽しみにしていました。しかし、いざ仙台駅で待ってみると入線してきたのはスハ42やオハ35などのボロ客車。激しくがっかりしたことを今でも鮮明に覚えています。12系に初めて乗れたのは、それから十年近く後の八甲田でした。私にとって12系は夢の新型車両だったため、今見ても未来的なかっこよさを感じます。
尤も国鉄末期は普通列車でも冷房化の需要は高まっていたので、冷房完備のメリットもあってか東北、山陰ではローカル転用もありました。ローカル転用された口は1990年代半ばまで活躍したっていう点も特筆できる点だと思います。
客車好きから、今回のモデルにしている12系ですがどうやら100番代で1970大阪万博活躍時の形態とは違いますね。屋根の補強が無いのが気になります。まあ12系実際団臨では走り回ってたんですよね。24系14系ほどではないですが。根本的に50系も朝夕の通勤通学時などですが需要自体はしっかりあったので結果12系は息の長い生産になってますな。あと福知山線普通に投入直後は優等列車なのかと乗車に躊躇していた人が居たと聞きましたねえ。
12系客車と14系客車は、様々な場面で活用ができるよう折戸ドアと引き戸ドアの2種類を採用した模様ですね。その中で14系、12系客車は、急行形客車と寝台特別急行形の任務を自由に遂行することが可能なため、色んな地域に使われて今も使われています。24系客車にはない汎用性は、14系と12系客車にあったんです。
万博輸送が終わった後、12系を地方ローカル線の朝夕の輸送力列車に躊躇なく使っていれば1980年頃に50系客車を製造して、わずか数年で用途が無くなる・・・という二度目の悲劇は防げたのかも知れませんね。あるいは、大幅なグレードアップ改造を施して、後のレガートシート的に寝台特急の座席車として使うという手もあったのかも。
本物と錯覚する完成度に驚きです。リアルにこの時代を経験してみたいです。…と、この時代はモーレツ社員が当たり前で、定時退社はほぼ不可能。真夏でもエアコンないことが当たり前な時代だったのでしょうか。
12系、実は北海道にも青函トンネル通って現れているという話を聞いて驚いた記憶が。大相撲の地方巡業などの団臨で90年代前半には来ていたようですね。
2016年まで急行で函館か札幌までいってました
こんばんは。「エキスポこだま」です(←12系ですらないだろっ)
すべってます
12系や14系って東海道や九州方面の臨時便には使われてたけど、東北方面は定期でも旧客ままだったのよね…
14系の特急「つばさ」とかありませんでしたっけ最後まで旧客で残った急行って北陸行きの「越前」だったような
@@asakazefuji昭和50年前後の運用みると、東北北陸方面は定期便なのに10系含む旧客が多く、かたや九州方面は悪くても12系って格差があったんですよ。。
東北、奥羽方面は昔から一世代遅れていた、はつかりも東海道、山陽、九州への特急だけだった頃から初めての特急だった。寝台特急のあけぼのも、夜明けを迎えるという意味だが、東北地方の時代の夜明けみたいな意味合いもありました。
急行十和田で12系と14系を乗る機会がありました。 旧客車は早朝過ぎて乗らず終い。
原型を一番とどめているのは秩父鉄道のパレオエクスプレス用かな...
日本の客車列車は機回し不可避ってのがネックだったよなぁ。
JR北海道の二代目ノロッコ車両を見ると、国鉄は発想の転換が出来なかったのかと疑問。当時は運転台付き客車が難しかったんですかね。
@@se.v4809 技術的な話以前に、人も機関車も余っていたので、改造せずそのままの技術で人を使って動かすという事です。
@@se.v4809 推進運転となると45km/hに速度が制限され、急行や特急では走れないと思います。45km/h制限も座屈による脱線防止からかと思います。また上野〜尾久の回送や「水前寺有明」の博多行きはツーマン(先頭運転士はブレーキのみ操作、マスコンは機関車の運転士が操作)でした。プッシュ・プルもあり得たでしょうが、ホーム長の関係(機関車の分客車を減らさないとダメ)やそれぞれの機関車に運転士が必要になり余計効率が悪くなるため、避けられたと思います。
@@se.v4809人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
臨時の快速海峡に使われたことがあったはずです。
快速「海峡」は14系だったはず。それに北海道に乗り入れる車両は全て引き戸式で折り戸式はなかったはず。
@@nanalinn 青函トンネル開業当初の夏の臨時のことです。定期は50系5000番台と14系500番台の併用。
@@salmonduke7824 それは知りませんでした。もっともあの当時は東京に住んでいたので。
八甲田編成が臨時に投入されたのは覚えてますね
0:55EH10が客車5両を牽引?と思ったが、よく見たら最後尾がマヤ38、その前がオヤ19。営業列車ではなく、何らかの試験列車のようです。
旧客現役時代というか客レ全盛時代を知らない自分としては12系=古い客レのイメージ
12系は当時の国鉄機関車であればどれが牽いても矛盾が無い、という事で模型向き客車でした。
KU弁と非常用のA弁を組み合わせて、元空気ダメ管や電磁弁無しで110km/h運転が可能になったんだっけ。どういう原理なのかは知らないが。
レジン制のブレーキシューの採用も大きかったと思います。
P型でないゴハチでも牽引できるようにしたのかな。
緩急車の貫通扉に白帯が入っていないのが残念。
貫通扉の白線が無い・・・
大昔に中央線で乗った12系は貫通路にも白線があったような…時代や場所によって塗装が違ったりしたのでしょうかね
乗降ドアや貫通扉の白線が省略されるようになったのはJR化以降だっとかと。
労使紛争で荒れていたから仕方なしに製造した印象が拭えない20系以降に製造された客車。動力分散への移行は軟弱な地盤からと機回しに必要な人員削減から不可避なのは明白なのにね。12系14系でのサービス電源搭載車は騒音と振動が酷くこんなものを夜行列車に使うなよとも。
特急に使うには✕役不足○設備不足
単純に力不足で良くね?
特急としては設備不足、つまり役不足で正解です。日本語の意味をもう少し勉強しましょうね・・・
役不足とは、役(仕事)が軽すぎる事、力不足は能力が足りない事。なので、この場合は(設備の)力不足が比較的よく表現していると思う。
@@ハヤノミキオ 役不足ってのは与えられた役目が実力不相応に軽い事を言うんですよ。日本語の勉強頑張ってください。
@@ハヤノミキオ どこでどう勉強したらそういう結論になった?
大阪万博終了後の1970年代中盤、大阪-京都の中間あたりの高槻に住んでいました。
その頃から、急行きたぐにの大阪行きが、12系座席車+10系寝台車で運行されていたのですが、新型でピカピカの12系の後ろに、ボロボロで窓全開でカーテンを棚引かせながら走る
10系寝台客車を見て、子供ながらになんて格差が有るんだと見ていたのを思い出しました。
オハネフ12もオロネフ10も冷房されていたですね。
12系は特急に使おうという色気が出る程度にはいい座席でしたね。シートピッチ1600mmを想定してランバーに17度の角度を付けた知的な構造は「頭のいい人が造った座席」をひしひしと感じました。個人的にはR51座席なんかよりはずっと高級(豪華ではない)だったと思います
80年代90年代乗り鉄として長距離やローカルで大変お世話になった12系と50系です。内装は電車気動車急行と変わらず。電車だとMT54の唸り、気動車だとDMH17の心地よいエンジン音が聞きたいときもあるけど、それが聞こえてこない乗り鉄鈍行旅は今や体験できない良きものでした。70年代の記憶は薄いけど、他の交通機関が整ってないから日常的に満員に近かったでしょう。でもそれ以降は長い編成のままで運用されていたから、4人ボックスに一人か二人なので一日乗っても全然苦痛ではなかったですね。
いつも楽しませて頂いています。「好き」という程度で決して詳しくない私ですが、緻密で見応えのある内容・映像のお陰で新たな知識を勉強させていただいています。特に今回は地元尾久で少年時代に親しんだ客車を見られて嬉しいです。
この後出てくる50系客車共々客車の居場所って本当に限られてましたね。
人気機関車型?創立を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様に?向け客車型等。
@@吉水寿文
日本人に理解出来るよう、お願いします。
客車は機関車がないとただの倉庫だもんね。とは言うものの、10系客車の車体設計はキハ20や101系、153系に採用され、12系客車の設計がキハ65以降の車両製造に変革を促した。14系特急は183系以降の特急設計の起源であるし。
@@塩島聖一 人気にて驚き?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
大阪万博対策でもあったんだよね、12系客車は。山陽線呉線経由の臨時急行にも使用されてたのでC62にも牽引されてました。
東北本線盛岡以北の客車列車といえば12系でした。牽引機もED75の重連だったりEF81だったり面白かったですね。
意外とEF66とコンビも効果抜群ですね。特別急行さくらがその例ですかね?
ていうか誰かこの神CG突っ込もうよ
役不足とは役者の実力に対して与える役が足りない事。
しかしここでの12系の場合は、ボックスシートなので花形である特急役はこなしきれない。言うならば力不足と評すべき。
人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
影響力の大きな動画主は言葉や、漢字を間違えず使用して欲しいですね。
@@tydeentetuota5514 私宛にて?お話?。学習部?創立にて?所属を推薦。
実は万博当時は、予備運用機である蒸気機関車が臨時の12系を牽く組み合わせも多かったのです。
万博輸送後の使い道が団体列車などに限られたのが残念。
新幹線や485系電車特急など所要時間の短縮に目を奪われ、アコモデーションはなおざりにされた感がある。
客車列車は青函連絡の快速海峡が路線の特性から停車駅が少なく所要時間も適正で当時の需要にこたえて役立った。
@@moto1269
客車急行列車置き換えなら
北陸トンネル火災事故で何処使用停止になる
食堂車は無理でも
グリーン車は必要
出来れば10系寝台車置き換えの寝台車も欲しいが
14系寝台車24系寝台車と被るからな
丁度万博の年ナチ休み、九州へ行った帰りに佐賀駅から大阪駅まで、ピカピカの新車だった12系の急行雲仙1号に乗りました。当時は小学校低学年だったので、満席のクロスシートも苦にならず、エアコン付きで乗り心地もよく、カッコイイ車両だという印象でした。九州の駅にイラストの12系デビューのポスターが貼ってありましたが、最初それを見たときは、急行型電車かディーゼルかーかと思っていました。
私は小2だった昭和46年8月、帰省の帰りに佐賀から神戸まで臨時の雲仙2号に乗りました。初めて見る新型車両の記憶はハッキリ残ってます。因みに行きはキハ80系の特急かもめ。 在来線の黄金時代が懐かしいです。
@@takaboh0403
自分の場合、寝台特急さくらのチケットが取れなかったので、往きは新大阪から583の特急はと1号で博多まで行き、博多からは何とキハ65連結の列車でした。お陰で当時の花形車両を体験でき、良い思いが出来ました。昼行特急はと1号は、途中様々な急行・特急列車とすれ違い、楽しかったことを憶えています。
Nゲージの話で恐縮ですが、昭和50年頃はキハ65が発売されておらず、トミー香港製のオハ12を改造して運転室を取り付けてキハ65にする記事が雑誌に搭載されておりました。
山陰本線では近郊型改造が施され、ドア付近の座席がロングシート化されてました。
昭和48年夏、母方の祖父母の家に行くのに乗ったのが12系つばさ51号でした。上野駅で待っている目に入ったのは推進で入線する青い客車で、181系を待っていた自分はガッカリした思い出があります。いざ乗ってしまえば道中は見馴れた景色で小学生なので特急と急行のアコモデーションの差はさほど気になりませんでした。翌年からは14系になったので1回限りの遜色特急に乗った貴重な体験ですね
ついに西の12系も本当に終わりが始まってしまいましたね。
今回の劇中の「客車列車にも再び日の目が当たることを期待した機関士も」というのは、「鉄路100万キロ(鉄道ファン誌内コラム名870000kmの軌跡)」を執筆された、動画主さんと同郷の宇田さんもそうだったのではないでしょうか。
70年代、80年代頃、旧客や50系客車の最後尾に乗っていると、停車中の列車から何の音もしませんでした。シーンと静まり返っていた。客車の印象深い思い出の一つです。
海外では、客車がむしろ主役という感じですが、日本ではほぼ0になってしまいました。日本で、客車の優雅さをもう味わえないのかと思うと一抹の寂しさを覚えます。
人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
みんな理解できるのコレ?
@@tydeentetuota5514 専門を?驚?にて、お伝えです。
その海外も、最近は動力分散方式が増えてきました。海外でも、東アジアとヨーロッパ(東の一部を除く)ですが。
12系客車、新型だけど寸法的にほぼ165系電車w
当時12系はキハとサハと呼ばれてました
理論上はキハ181とか165系電車とかに連結できるような設計思想でしたな😊
@@常夏雪ダルマ というか、キハ65のエンジン抜き。
84年2月の紀勢本線を最初に、普通列車にも使われるようになりましたね。末期には一部の座席をロングシートに改造したタイプまで現れましたが、播但や山陰でよく乗りました。
12系客車と14系客車は、ほんといろいろな線区で使われますね。紀勢線でも使われるほどですからね。
@@channelsada3849 12系は臨時列車で北海道まで乗り入れましたね。本当に全国制覇です。
最後の大窓ヒサシのEF58 66号が牽引している姿を雑誌で見てうっとりしてました。当時小学生の関東民だったから、乗りたかったなぁ。
最高の組み合わせでした。私は39号機も好きでした。
会社間を跨ぐ波動輸送には今でも12系のような汎用客車が有用だと思いますが、もはや機関車が…。
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趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
それほどの波動輸送があるのかな
@@tydeentetuota5514? 黒字列車創作です。
JR化後の九州ですが、夜行急行用にとグリーン車用の座席に換装された車両がありまして、急行かいもんや日南、それらの廃止後には一時期宮崎~西鹿児島(鹿児島中央)間の普通列車に運用されていました。
50系末期にはトイレカーの役割も果たしました。1両だけ元グリーン車のシート。乗り得でしたが、混雑を嫌い乗らない人も多かったような?
-この改造車はとても乗り心地が良かったですね。電車特急化したときにはがっかりしました。
人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
タイ国鉄ではまだまだ客車が中心。新車の寝台車を買ってるくらいです。タイ人からわざわざ列車で行くのにはお金あるのにどうしてあんな貧民窟みたいなもの乗るの?って言われますが、あの非冷房三等車のボックスシートの雰囲気は日本じゃもう味わえない。
お疲れ様です。客車は未経験で有ります(自家用車王国グンマー帝国)
世の中、落ち着いて来たので、そろそろ鉄道利用で旅行に行きたい昨今です。
人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
グンマーあたりは逆に、12系のサンクチュアリではありませぬか。高崎あり、熊谷に出れば秩父のもあり。
初めて12系に乗ったのは、1991年運行のD51-498牽引上越線開業60周年記念号でした
SLのドラフト音と共にディーゼルエンジンの音が聞こえるという不思議な感じでしたね
14系の方が好きだったんですが、いつしか長野駅付近で待機中の急行ちくま用はテールマークが付いていてカッコよく、
14系寝台車と車体形状が合っていて編成全体で整っていたのも印象的でした
きたぐにのデコボコ編成も好きでしたね
臨時の特急しおじ号でも使用されましたね。客車列車にしてはとても速いスピードを出してました。
晩年はEF65牽引だったので、110Km/h運転が可能でしたね。
14系ハザでなくて12系ハザもしおじやってたんですね。
十和田、八甲田でお世話になりました。東北筋では80年代後半辺りから座席が特急用の転換クロスシートに交換されていましたが、ほどなく14系座席車に活躍の場を奪われていきました。
国鉄末期には、各鉄道管理局がこぞって12系客車ベースのお座敷車両を登場させました。それぞれの地域の特徴を反映させた車両たちで個性有って見ていても愉しいものでしたね。
12系客車は万博後上野発の臨時特急つばさ51号等に使用されていましたね。その際は特急料金は¥100引きでした。12系客車に飲料水の設備があるのはそのためと思われます。
JR初期に寝台列車がまだ数多かったり、貨物列車や入換用に旅客会社所属機が委託運用に付いていた頃は客車列車が残っていました。所属区から客車を牽き貨物ターミナルのある駅まで行く、寝台車を牽かない時間帯に50系を牽いたりしていました。九州では12系も50系の冷房改造のカバーで入りましたが、後にグリーン席シートを持つスハフ12が50系にトイレカー兼用に活躍しました。
人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
趣味型?似た機関車型も創作中、ファン様向け客車型等。
確か門司港から筑豊線に乗り入れる客車列車で12系と50系との混結編成がありました。なぜそうしているのかと思ったら、50系のトイレが直接線路に落とす形で使用禁止にしていたため、汚物タンクのある12系を一両トイレが使えない車両として繋げていたのですね。2001年に開催された北九州博覧祭の時に乗りました。
12系客車とキハ65系をミキシングした車両を考えています。
うちの頭なら可能かもですねwww
@@channelsada3849 さん
キハ65系って出自の関係でトイレが付いてないんですよね。キハ65の1形式しかないんですよ。
だからキロ65とかあれば良いなと思い浮かんだんですよ。
@@vx1192 しかも、出力も出力なのでキハ65かキハ58しか連結できないという致命的な設計思想なんで、
松江で生まれ育った私は
12系は、急行だいせんの3000番代
普通列車の1000番代
0番代は、SLやまぐち号と
三江線SAIKAI号に乗れました。
まだ学生時代に上野から青森行きの十和田に乗ったのが12系の最初で最後でした。臨時しおじに乗った際に14系の特急型の座席車にも乗りましたが、乗り心地は12系のボックス座席の方が14系の簡易リクライニングシートより快適でした。懐かしいですね。
今となっては、もう客車列車の定期運用もなくなり、オリジナルの雰囲気を残している車両も少なくなりましたな
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12客車。子供のころ、毎年夏休みになると、青森から奥羽本線経由で行く、天理教こどもおちばかえり団臨列車のイメージが強いけど、確かこの車両って、普通の座席だけで、確かベッドに組み換えはできないんですよね。青森から奈良…苦行の旅だな…。
ムーンライト高知でスロフ12乗ったのが最初で最後かな。
純12系乗ってみたかったなぁ…
12系がまだ新しい昭和50年代から早くもお座敷客車化改造が始まってましたからね~。
昭和60年代になると更にジョイフルトレインに改造されまくる・・・。
本来の姿で天寿を全うした12系は本当に少なかったですよね。
子供の頃、夏休みは宮城の母の実家で過ごしていました。
当時の鉄道は混雑が激しく、臨時の 急行まつしま しか予約できませんでした。
急行、しかも臨時に大変がっかりしましたが、12系に乗れるぞと父に言われ、当時の最新型ということで楽しみにしていました。
しかし、いざ仙台駅で待ってみると入線してきたのはスハ42やオハ35などのボロ客車。
激しくがっかりしたことを今でも鮮明に覚えています。
12系に初めて乗れたのは、それから十年近く後の八甲田でした。
私にとって12系は夢の新型車両だったため、今見ても未来的なかっこよさを感じます。
尤も国鉄末期は普通列車でも冷房化の需要は高まっていたので、
冷房完備のメリットもあってか東北、山陰ではローカル転用もありました。
ローカル転用された口は1990年代半ばまで活躍したっていう点も特筆できる点だと思います。
客車好きから、今回のモデルにしている12系ですがどうやら100番代で1970大阪万博活躍時の形態とは違いますね。屋根の補強が無いのが気になります。
まあ12系実際団臨では走り回ってたんですよね。24系14系ほどではないですが。根本的に50系も朝夕の通勤通学時などですが需要自体はしっかりあったので結果12系は息の長い生産になってますな。
あと福知山線普通に投入直後は優等列車なのかと乗車に躊躇していた人が居たと聞きましたねえ。
12系客車と14系客車は、様々な場面で活用ができるよう折戸ドアと引き戸ドアの2種類を採用した模様ですね。その中で14系、12系客車は、急行形客車と寝台特別急行形の任務を自由に遂行することが可能なため、色んな地域に使われて今も使われています。24系客車にはない汎用性は、14系と12系客車にあったんです。
万博輸送が終わった後、12系を地方ローカル線の朝夕の輸送力列車に躊躇なく使っていれば1980年頃に50系客車を製造して、わずか数年で用途が無くなる・・・という二度目の悲劇は防げたのかも知れませんね。
あるいは、大幅なグレードアップ改造を施して、後のレガートシート的に寝台特急の座席車として使うという手もあったのかも。
本物と錯覚する完成度に驚きです。
リアルにこの時代を経験してみたいです。
…と、この時代はモーレツ社員が当たり前で、定時退社はほぼ不可能。
真夏でもエアコンないことが当たり前な時代だったのでしょうか。
12系、実は北海道にも青函トンネル通って現れているという話を聞いて驚いた記憶が。
大相撲の地方巡業などの団臨で90年代前半には来ていたようですね。
2016年まで急行で函館か札幌までいってました
こんばんは。「エキスポこだま」です(←12系ですらないだろっ)
すべってます
12系や14系って東海道や九州方面の臨時便には使われてたけど、東北方面は定期でも旧客ままだったのよね…
14系の特急「つばさ」とかありませんでしたっけ
最後まで旧客で残った急行って北陸行きの「越前」だったような
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@@asakazefuji昭和50年前後の運用みると、東北北陸方面は定期便なのに10系含む旧客が多く、かたや九州方面は悪くても12系って格差があったんですよ。。
東北、奥羽方面は昔から一世代遅れていた、はつかりも東海道、山陽、九州への特急だけだった頃から初めての特急だった。
寝台特急のあけぼのも、夜明けを迎えるという意味だが、東北地方の時代の夜明けみたいな意味合いもありました。
急行十和田で12系と14系を乗る機会がありました。
旧客車は早朝過ぎて乗らず終い。
原型を一番とどめているのは秩父鉄道のパレオエクスプレス用かな...
日本の客車列車は機回し不可避ってのがネックだったよなぁ。
JR北海道の二代目ノロッコ車両を見ると、国鉄は発想の転換が出来なかったのかと疑問。
当時は運転台付き客車が難しかったんですかね。
@@se.v4809 技術的な話以前に、人も機関車も余っていたので、改造せずそのままの技術で人を使って動かすという事です。
@@se.v4809
推進運転となると45km/hに速度が制限され、急行や特急では走れないと思います。45km/h制限も座屈による脱線防止からかと思います。
また上野〜尾久の回送や「水前寺有明」の博多行きはツーマン(先頭運転士はブレーキのみ操作、マスコンは機関車の運転士が操作)でした。
プッシュ・プルもあり得たでしょうが、ホーム長の関係(機関車の分客車を減らさないとダメ)やそれぞれの機関車に運転士が必要になり余計効率が悪くなるため、避けられたと思います。
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人気機関車型?創作を?審査にて黒字列車創作?四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車創作は団体型車両在る創作?、しばらく後に営業です。
臨時の快速海峡に使われたことがあったはずです。
快速「海峡」は14系だったはず。それに北海道に乗り入れる車両は全て引き戸式で折り戸式はなかったはず。
@@nanalinn 青函トンネル開業当初の夏の臨時のことです。定期は50系5000番台と14系500番台の併用。
@@salmonduke7824 それは知りませんでした。もっともあの当時は東京に住んでいたので。
八甲田編成が臨時に投入されたのは覚えてますね
0:55
EH10が客車5両を牽引?
と思ったが、よく見たら最後尾がマヤ38、その前がオヤ19。
営業列車ではなく、何らかの試験列車のようです。
旧客現役時代というか客レ全盛時代を知らない自分としては12系=古い客レのイメージ
12系は当時の国鉄機関車であればどれが牽いても矛盾が無い、という事で模型向き客車でした。
KU弁と非常用のA弁を組み合わせて、元空気ダメ管や電磁弁無しで110km/h運転が可能になったんだっけ。
どういう原理なのかは知らないが。
レジン制のブレーキシューの採用も大きかったと思います。
P型でないゴハチでも牽引できるようにしたのかな。
緩急車の貫通扉に白帯が入っていないのが残念。
貫通扉の白線が無い・・・
大昔に中央線で乗った12系は貫通路にも白線があったような…
時代や場所によって塗装が違ったりしたのでしょうかね
乗降ドアや貫通扉の白線が省略されるようになったのはJR化以降だっとかと。
労使紛争で荒れていたから仕方なしに製造した印象が拭えない20系以降に製造された客車。
動力分散への移行は軟弱な地盤からと機回しに必要な人員削減から不可避なのは明白なのにね。
12系14系でのサービス電源搭載車は騒音と振動が酷くこんなものを夜行列車に使うなよとも。
特急に使うには
✕役不足
○設備不足
単純に力不足で良くね?
特急としては設備不足、つまり役不足で正解です。日本語の意味をもう少し
勉強しましょうね・・・
役不足とは、役(仕事)が軽すぎる事、力不足は能力が足りない事。
なので、この場合は(設備の)力不足が比較的よく表現していると思う。
@@ハヤノミキオ 役不足ってのは与えられた役目が実力不相応に軽い事を言うんですよ。日本語の勉強頑張ってください。
@@ハヤノミキオ どこでどう勉強したらそういう結論になった?