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元軍を完全に撃破したベトナムの戦いは映画化して欲しいレベルで凄い。潮の満ち引きで水位が変動する事を利用して、川底に大小の杭を打ち込んで元寇の反省を生かしちゃんと支援艦隊も整備した元軍を、潮の満ち引きを計算した上で小舟で川に誘い込んで、水位が下がって元軍の船が動けなくなった所をベトナム軍軽装備の兵士と小舟で殲滅とか凄いよ。
韓国と同じように首都を何回も蹂躙されてます。そのたびにジャングルに逃げてる。韓国は沖合の島に逃げてますね。反撃できた点が韓国と違いますが。ベトナム最強説がありますが、過剰かなと思ってます。簡単にフランスに植民地化されましたし、タイやクメール方面に領土拡張できたこともありませんし、韓国より少し強い程度かと
カッケェ
元軍は博多周辺に防備が敷かれてるとの情報から長門への上陸作戦も決行した。軍船300双で襲来を掛けたが、手薄と思われていた長門にも兵が配備されてて返り討ちにされてる。
戦術戦力系RUclipsrで今一番クオリティ高いな。内容が濃い!
ペリー艦隊来航より半世紀も前の18世紀末に『海国兵談』を著して海防の重要さを説いた林子平の慧眼たるや、ほんと大したものだと思う。
最強の素人童貞
日本と大陸の距離はマジで理想的だった。これ以上近すぎれば、イギリスみたいに民族アプデが頻繁に入ってたし、遠すぎれば中華文化が入らずに独自文化の土台そのものが無くなってた。
もうちょっと離れていても良かったのにな
@@柴犬神 いまとなっては、だね
黄砂 PM2.5「お邪魔しまーすwwww」
元寇を歴史の授業一回で済ませるほど単純な話ではなかった。なぜ元軍が博多にしか上陸できなかったかという学生の悩みを解決させたこの動画は伸びてほしい。
博多の西側の唐津が対朝鮮半島の貿易港でそこに行く海路しか知らなかった。博多自体は当時は遠浅で大型船は入れない
大軍ゆえだな。万単位の軍隊は船に積める物資では養えないから、大都市を占領するしかない。少数の海賊なら適当な村を襲っても何とかなるが。
ありがとうございました。ようやく長年の疑問の答えが見えました。なぜ元軍は強引に博多に上陸しようとしたのか、鎌倉幕府は延々と長い日本の海岸線の中で博多湾だけを重点的に守ったのか?こういった解説は初めてでした。これを機にこちらの動画をすべて見せていただきます。感謝、感謝!
実に面白い。勉強になるなー!博多だけ守る理由が丸分かり。歴史の先生がこれくらい説明してくれていたら日本史好きになったかも
兵站と制海権から博多に強襲上陸するしか選択肢がなかったというのが学べてものすごく有用だった海が防壁 ある時以降180度逆転というのが頭に入っていないとこれはわからない
制海圏を押さえられて勝ち続けたハンニバルは化物だな。
いまでもわからないなら、陸戦特化のハーンさんは尚更わからない。
公開されたばかりだというのにもう次の動画が楽しみで仕方がない…!
日本もすごいが陸続きなのに元を撃退できたベトナムはほんとすごい
現代最強国アメリカ追い出した国ですから
14:50のような地点を地政学ではチョークポイントって言います。ここを取ったら相手国の海運を停止させる事ができます。例としてはジブラルタル海峡、スエズ運河、喜望峰、パナマ運河などがあります。
上陸戦の難しさを考えると朝鮮出兵とか、よく秀吉軍が無事に帰還出来たと思うわホント包囲殲滅される危険もあったハズなのに
(上陸地点を中心として)北が敵の領土で、西から敵の援軍が来る。南が味方の兵站線で、東は敵味方共に塞がれている。と考えると、攻めるのに比べれば、引くのは容易だったのではないだろうか。
殿軍…
どらやきさん実際に慶長の役の際に、蔚山城の戦いや順天城の戦いで包囲殲滅の危機に瀕したからね。加藤清正が鬼の強さを発揮し、日本水軍が優勢出なかったら、包囲殲滅させられた可能性はあったと思う。
この観点からも李舜臣が日本海軍を苦しめた、大活躍した、という某国側の言い分は嘘とわかるわけだw日本は制海権を得ていた、補給線は問題なく確保していた。これが事実ということだろう。まぁ当時の朝鮮兵は紙で出来た鎧とか着てたらしいし、日本刀や鉄砲を大量に持っていた日本軍の敵ではなかったということ。
@@musashino_103hi た
このあとの足利政権下では日元貿易をはじめ経済・文化交流が発生するとかこの件にも関係がありそうねあと日本は最終的に モンゴル帝国の交易圏に組み込まれてるみたいモンゴルの目的が海路開発や棄民政策だったと言われる理由も考慮してみると面白いかも
本物で草
紙幣、銀が貨幣として主に使われた元において必要が無くなった『銅銭』が日本に流入したことで日本でも貨幣経済がこのころから発展するんですよね
足利政権下になる前から、日元貿易は鎌倉時代にもしてますね。文永の役後の1277年にも、日本の商人が金と銅銭の交換を許可されていたりします。
本物で草 面白い動画拝見してます!
博多って橋頭堡として恐ろしいぐらい重要な土地なんだってこの動画で理解できました、現在だってかなり立派な港湾施設も有るし道路網もしっかりしてる関門海峡は橋落としてトンネル埋めて、機雷で封鎖しても本州侵攻を防ぐのは辛い気がする
長崎が大きくなったんで、守備としては悩ましいところ。そのための佐世保なのでしょうけど。
日本は地理的にこうだったからこそ日本であったし、あり続ける事が出来た訳ですな勉強になります。兵站と海軍の視点は大事それはそれとして北条時宗は偉い
もし、現代に北条時宗が存在していて、しかも我が国の指導者だったら、中国の領海侵犯にどう対処していたでしょうなぁ‼️(笑)
@@五十嵐真一-h6v 色々と価値観が変わりすぎて無理やなもし戦争になっても動員力じゃ絶対勝てないしそもそも技術力が全然違うから一瞬で負ける
前回他とは違うと言っていましたが海軍のことよりもむしろ戦略レベルの話がメインってのがすごかったです
今にして思うと、小中で習った元寇の内容の余りの薄さよ……近現代戦にも通ずる戦訓がいっぱいなのになぁ……
ありがとう、今まであまり見ない考察で面白かったです
インドもベトナムも日本もとれずに海路を完全に取れなかったためにモンゴルは海路交易に破れることになる
地の利補正強すぎる
動画では触れられてなっかたけど、季節的なものも大きいと個人的に思う。冬季攻勢が難しいのは世界史をみればわかるけど、冬の玄界灘を当時の技術で超えるのがどれ程困難か、兵站線の維持が成しえないかを考えれば防衛側の有利さが一層際立つと思う。
壱岐対馬がある玄界灘ってやっぱ重要なチョークポイントなんやな
UPおつかれさまです。補給ガン無視でアルプス超えたハンニバルや、現地到着後に船全部沈められたナポレオンのエジプト遠征での苦労を見ると、大軍が補給を失うことの怖さがよくわかります。だからこそ元は最短ルートでもあり、日本の海軍基地を先に潰せる博多を攻撃先に選んだわけですね。今日も勉強になりました。
ハンニバルさんには、相次ぐ敗戦にビビった一部のローマの都市(主に南部)が協力してたからな。
空の軌跡のBGMいいなあ。
海軍の重要さを改めて知りました、孫権も長江を重視するのも頷けます
攻めるにしても守るにしても、日本においては海が起点になるって言うことが勉強になりました。
対馬って地理上ホント隣国と有事の際は大変だよね。個人的には李氏朝鮮軍の不甲斐なさで助かったけど、応永の外寇も何気に元寇並みの大ピンチだったと思う。
そもそも神風というのも夏季の九州に滞在してたら最低でも一回は台風の被害を受けて当たり前なんですよねいつ来るかがわかっている現代でも死者が出るのに当時はそれ以上にひどい有様だったのは容易に想像できます
当時の日本の予備兵力から行って、15万では攻略不可能とされていて、かつ軽騎兵の機動力が活かせない地勢だし…と思っていましたが、なるほど門司を抑えられたら九州に策源地を作られてしまうわけですね、そうなると後背があまりにも巨大な元相手の消耗戦…ヤバかったですね、地形や海の存在だけでなく、博多での陸戦こそが無敵モンゴルの伝説を止めた戦いだったんですね。
平戸のある北松浦半島は山がちな地形で大軍を動かすには不向きだし、本州の下関辺りを狙えば博多から海上路封鎖の横槍が入る。軍兵・兵糧・武器を海上輸送し、軍を駐屯させた上に、その後の動員に適当な場所が博多だけ。こうなると元軍としては、網張って待たれていても博多に進軍するしかない、ということなんですね。
なるほど。以前から元軍がなんでわざわざ防備の堅い博多湾に来たのか不思議でした。そんな事情があったのねえ。
いつかやるさんの動画でも元寇を扱っていたがそれでは山口県の方でも上陸作戦敢行しようとしたが、予備戦力・後詰めの戦力に阻まれたらしい。
7回目の使者が長門から上陸したためか、幕府も中国地方からの上陸は予想しており、事前に防衛準備の命令が出ていました。
大陸側は玄界灘を越えなきゃならんが、日本側は穏やかな瀬戸内を利していくらでも補給できるからね仮に馬関が落ちても四国周りで豊後(別府)に上陸できる巨大な水軍の港を抱えているようなものだから九州を取るには博多を落として、大宰府、馬関~豊後までを一気に確保しないとならないが大宰府から豊後までも筑後川沿いの狭いところを通る必要があるし、門司を確保できても瀬戸内の水軍と競り合わないとならないし
大河ドラマで一番の名作は伊達政宗に譲るけど、一番ハマったのは北条時宗なんだよな。兄弟の確執とピーターがグイグイ来る。
このドラマ、北条時宗に対して、やいやい言うアホいましたね。
弘安の役のとき、長門方面に別動隊が上陸しようとした(勝敗は書いてないが、たぶん撃退された)って記録あったけど、目的は海峡封鎖・海軍力遮断だったのね。腑に落ちた。
待ってたぞ
モンゴルの樺太遠征も取り上げて欲しい‼️
第二次大戦末期のソ連侵攻で、もし根室港、釧路港を制圧され、北海道に上陸された場合、北海道からソ連軍を追い出すのはほぼ不可能だったわけですね。
それもあって米は一撃講和を敢行したわけで。
「海軍に関する一考察」シリーズを見る度に、北九州が近世まで日本の玄関だったのだと理解できます。大東亜戦争の時に、海軍の発言力に押されて陸軍が海軍の意見に折れて作戦決定をしてしまうことが多々ありましたが、これも海軍が兵站を担っている事が一因なのかと思えてきました。
よくよく考えれば元寇以前に古代の「防人」のシステムの頃から国防が目的なのは九州北部だけで、同じ「遠くに行かされる」でも東国や奥州等に国防目的は存在しなかったわけですよね。それが突然「沿岸部は全部国防必要やで」って言われたらそりゃ普通「海軍拠点どんだけ追加要るねん!」って慌てるに決まってる。
ようやく観れた。ホンマになるほど〜って感じです。それにしても、こんなに面白く勉強できるのに登録者が2.5万しかおらん事が不可解やなぁ。
ホントそれ。
弘安の役では日本軍は九州に35000、山口方面に25000、京都付近には60000の主力、鎌倉には総予備を配置してたらしいですね。それを考えると日本軍を破る為に元軍が15万の兵力を注ぎ込んできたのは的を得ていたと。
合計12万以上か・・・。冷静に考えるとそんなに戦闘要員が居て、しかも動員できる島国ってどうなってるんだ
@@onheaddrill5900 江戸時代になりますが、武士の割合は人口の7%だそうです。人口3000万で武士210万人。女性、老人、子供も含んでますから、戦えるのは50万人くらい?職業軍人が50万人もいたら強いですね。鎌倉時代の人口は知りませんが、12万人くらいはいたのでは?
今回も勉強&楽しく視聴させて頂きました。次回は遂にペリー来航!そして神奈子様の明日はどっちだ⁉
都市の人口は物流で支えられている。江戸も2週間海運が途絶えると飢餓が来たといわれる。ペリーが浦賀に居座ると困るのはそのため。
元寇の不思議なのは、撤退に際して壱岐や対馬の占領維持は考えなかったのかな?第3次の足がかりになるし、侵攻しなくても国境警備上必要だったと思うんだがな。元軍がやらなくても高麗とか属国兵に守らせれば大した手間じゃ無いと思うんだけどね。そうすれば今の対馬は日本領じゃ無かったかもしれんが、何万もの兵を見捨てて逃げてるから船が足らなかったというのもあるのかな~
食料もだけど水の確保にも問題があったのでは?
@@スリーリングス 大陸ではモンゴル流「死にたくなければ逆らうな」が通用してたから。
前半で元寇が元彌にしか見えなくなってしまったw
すばらしい内容
元が事前の情報収集をしっかりやることは最近知りましたが、山陰に適切な上陸地点が存在しないことや必要な兵数計算など、かなり元に掴まれていたらしいことに驚きました。日本も、大陸から見た侵攻点をよく絞り込んで備えているし、日元双方よく戦えりですね。元は日本の広い海岸線を自由に上陸点として設定できるんじゃないかと思ってたので理解できて良かったです。敦賀あたりに上陸すれば現地調達しやすく京を直撃しやすいようにも思いますが、食糧に余裕がない合浦軍にはそもそも取れない航路なんですね。
若狭に上陸したら、京都周辺に集結してる本軍(九州への援軍兼ねる)がお相手するだけだな。九州にいた部隊よりもっと多いし精鋭だが。
丁寧にかけてはこの野心家さんが2020年のナンバーワンかもしれない
教科書の太字でしかなかった元寇、深掘りするとクソおもろいやん
この動画を見て改めて思ったんだけど、双方の指導者達が当時何を考えて歴史的事件に挑んだのを考えるのって面白い。
独ソ戦とかね
他の動画で説明されてるから端折る。という所、俺は浸透襲撃さんしか観てないが、製作者は他の類似動画も確認しとかないといけないんだよなぁ毎度ありがとうございます。
入り口が一か所しかないのに攻めるなんて無理よなぁ…
11:18 そのための15万ですな
BGMなついなーちょうど軌跡シリーズの最新作やってるので感慨深い
マムルーク朝とかはともかくベトナムはよく元に勝てたよな地続きで近いのに何故だろう?
ベトナムは熱帯林だらけで騎兵の機動が難しい事とそもそも馬は高温多湿な環境が苦手という事が理由で戦いやすい環境だったと思います。ベトナムもすごいですが平地で乾燥した中東で元軍を撃破した事は物凄いことだと思います。
確か、ジャングルが多くて騎兵を上手く活用出来なかったというのを聞いたことがあります。ベトナム戦争と同じような感じかと。
すき
たつた四杯で夜も眠れず。Civでも天文学開いて外海に入れるようになると島国の防衛きつくなるんだよなぁ。
もし元軍の中に、かつて渤海と言われた国の人たちがいて、渤海の使者が日本海を横断して若狭湾から京都に入ったルートを元軍が知っていたら・・・また違った展開になったかもしれないね。京都が元軍に落とされてしまったら、元軍に寝返る武士も出たかもしれない。まあそれでも兵站線が伸びすぎて、現地で略奪でもしない限り、大軍を養うのは難しいけどね。
大軍を渡航させるにはリスクが高い、と考えたのかも。
@@peppertaro2224 さん外交の使者を送るくらいなら、日本海横断という選択は有りだけど、10万単位の大軍を一度に、日本海横断というリスクは負えなかったのかもね。
手柄をたてるのが九州の武士じゃなくて、京都付近に終結していた幕府の本軍(援軍)に変わるだけだな。
当時の日中の海軍兵力及び軍船の能力や戦闘力等を知りたいですね😄😄😄😄😄
海軍で船自体の戦闘力が意味を持つのは、船に大砲を積む大航海時代あたりになってからだな。それまでの海戦は、乗っている兵士による弓矢戦→白兵戦の繰り返しでしかない。
秀吉の朝鮮征伐バージョンで、兵站と海軍について考察して欲しいです。天下取るまではあれほど兵站に気を使ってた秀吉が、天下取った後は何で朝鮮征伐で杜撰な結果に陥ったのか?
痴呆はいってから出征に思い至ったので、そもそも計画から無茶苦茶で全てが無理だったんじゃないかと。兵站担うはずの石田小西宗あたりが猛烈に反対し、交渉をグダグダにして朝鮮入りを引き伸ばしていたのを見るとどうやってもうまく行くはずなかったんでしょう。
あれはシチュエーションは三国志の北伐と似ていると個人的に思いますね
はえーすごく勉強になった。博多はキルゾーン!
あとは鎌倉武士達が世界に類を見ない重装弓騎兵だったのもある。騎兵の機動力と重装兵の防御力を兼ね備えた鎌倉武士を相手に騎兵の運用を封じられて軽装下馬歩兵で戦わざるを得なかったモンゴル軍、負けるのも分かる気がする。
日本の一番長い日。戦前の陸軍が本土決戦を唱えながら、最終的に終戦を受け入れたのは其の為だったんですね。
レーダーも海図もない時代、島伝いに航海する以外は危険すぎるから、数隻ならともかく、大艦隊ではとても無理だな。
ある呪いの伝説がこの時から始まった・・・
BGMが空の軌跡
鎌倉時代ではまだ平戸、唐津を占領しても軍を維持できないってことか
日本は自分から攻めなければかなり安全な国だと理解しました。
まあ、明治以降はそれが逆転しますね。明治政府が海外に侵攻したのも根本は島国に引きこもっても安全ではなくなったからですし。
@@mastsu379 ほんとこれ日本の外交の下手さを表してるよな、島国なんだからそれ相応の外交力があれば永遠に引きこもっても問題なかったのに外交力がgmすぎて外に領土を広げなければ行けなくなった結果はご覧の通りそして日本の外交の無能さは改善する気配0
@@花玉友輔偽物 半島を組み込んだのが悪手だった 半島の領土を守るために満州を支配せねばならず利権ぶつかりまくり、陸軍に力を割くことになり負担も増えた。島国らしくウルップ~台湾といった島を取って半島は傀儡にするくらいで良かった
事実樺太アイヌを屈服させた後に樺太南端に元軍が城築いてましたね。
防備を固めた博多湾を避けて隣の唐津あたりから上陸して博多に進行というのはダメなのでしょうか?
博多にあった「平野部への連絡が用意で大軍を養える」を満たせないので唐津を奪うメリットはあまりないんじゃないかなと思いますね唐津湾は三方を山に囲まれてて平地自体少ないですからそれに唐津から博多まで進軍するのも一苦労です。唐津から糸島までは海岸まで山が迫るような地形なので、大軍を展開出来ず長蛇の列で進軍することになりますこれだと地の利に長けた在地の武士団には「首(褒賞の証)がとり放題!」としか見えません。海からも山側からも襲われ放題で対応すら出来ません橋頭堡として唐津を取るためのリスクに対してリターンが見合わないので、そのまま真っすぐ博多を奪う方が低リスク高リターンと思われたのでしょうまあ結果的にそれでもダメだったわけですが
大泥棒が最も気を使うのは逃走経路、ってルパンだったっけ?
北条時宗はモンゴル帝国との戦争のために歴史に登場したため戦争が終わったためお役御免になったかのように亡くなった悲運な摂政だったね
当時の元軍が日本の地形深く知ってたのがびっくり。外国人とか意外に来てたのかな…?
味ぽんさん元寇の前に外交交渉があって、確か6回くらい交渉が行われたはず。元からは、モンゴル人や漢人、高麗人、女真人、それに元に居た日本人も、元の外交の使者として来ています。元は日本の大まかな地図を知っていたと思うし、博多や大宰府が、日本の大陸の玄関口だということも知っていましたね。
@@musashino_103hi 元寇の前に使者が送られたのは6回ですが、1回目は高麗で、3回目は対馬で引き返しているので、九州まできたのは4回ですね。ただし日本はその使者を九州に留めて先に行かせなかったので、九州は偵察できても、そこから先の地形については偵察できなかったかと。文永の役後には、南宋に留学していた日本人僧侶も、8回目の宋人の使者に同行していました。
4:40これは考えたことなかった。成程。
ジオンの地球侵攻作戦みたいだぁ。
元軍が、何故に博多を目指したかは、納得だわ、守り切れたのが奇跡?、
南北朝でもさすがに外患誘致はしなかったんじゃ? 特に南朝はガチの国粋だし。15万ではもともと無理ゲーです。日本側の動員能力の倍はいないと無理です。博多侵攻後に戦線拡大に投入する兵隊さんまで現地調達が無理だから。日本側が九州で一時動員できる戦力の見積もりからして甘く見たんでしょうね。
人間が兵糧になりえる所から来るから、食料は現地でも調達出来たでしょうな。
中国から来る方の部隊は、戦術的には真っ直ぐに熊本や鹿児島に上陸するのもありなんだが、やはり博多を取れないといずれは補給切れ待ったなしではある。
神奈子様が信仰を失っていた(透明になってた)のは、「神風による勝利」が覆されたからだとおもってた。
南北朝のときならむしろ一体となって戦ったって気がしますねw
動画の中で元寇が早くor遅かったらといってるけどモンゴル国内のゴタゴタがあるのでモンケ中期からフビライの時代にしか攻めてこれないと思うけどそれくらいの時だと日本はかなり纏まってるから結局モンゴルに日本を滅ぼすチャンスはなっかたと思う
大量の船と船員がなければ日本への遠征はできませんし、特に弘安の役の規模の船団を用意するのは南宋征服前には難しいでしょうね。
ruclips.net/video/jNJLMecx2aA/видео.html長崎県の海底で元寇「沈没船」の船体を初発見(11/10/24)
今回の話を見ていると稲作等、文化の渡来が東シナ海からあっても、渡来系の異なる部族(所謂弥生)は、朝鮮半島南部から来たのが有力と思いました。元寇前での白村江の後にも水城が博多に作られますし、大陸から日本征服という際、重要なのだと感じます。
投稿お疲れ様です。しかしフビライ=ハンってこちらの神奈子様みたいな陸戦極振りだったろうによくこれだけ海戦の考え方できましたよね。三回目を臣下に『やめとけ』って言われてやめたそうですし、人の話をちゃんと聞く人だったんでしょうかね?
一回目の文永の役も、二回目の弘安の役も臣下からの反対はあったのにしていますし、三回目もベトナムなど他との戦争で無理になるまでは反対があっても準備していたので、元寇の強行に関しては結構臣下の反対を聴いてないですね。
目的は南宋への援軍を防ぐことでもあるしそっちは成功してる
日本に参戦させるとなると恩賞のカタがいるけど、明朝のように通商権でも与えるんだろうか。
fategoの魔神柱狩りみたいな感覚の鎌倉武士に対応したのが元軍の不幸でした。敵の首=恩賞たくさんでひゃはーだから仕方ないですね!!
マジで地面つながって無くてよかったぁ、、、、
弘安の役では長門や平戸も攻めたそうだけど本命はやっぱり福岡ですよね、ここを落とせないと先がないかな?
【悲報】元軍、日本攻略無理ゲーだった
そろそろ【真説元冦】で映像化したら大ヒットするんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
イングランドは大陸と近かったからアングロ・サクソン終わっちゃったんだな。今の王家もノルマン系だし。
山口の下関を抑えてそこから宇部、防府を短期間で取るってのはどうや?もちろん博多にも援軍を出せない程度の兵をまわしつつ。
元相手の動員は長門にもかかっていて常にある程度の軍勢が張り付いてたし、攻めてくるのが解れば、万近い軍勢が配置されてたが。
元寇は歴史の授業でスルーしてましたがとても勉強になりました(・∀・)
むしろ15万もの海軍を派遣できる陸軍国の元すごくね?レパントの海戦でもアルマダの海戦でも双方合わせても10万いくかいかないかだぜ?15万もの兵員の乗る船舶の作成、運用なんて近代入ってからじゃね?
大部分は上陸してからの陸兵専門で、海軍は全体の1割から2割ぐらいか。それでも当時の世界最大の海軍は間違いないが。
「たった四盃で夜も寝られず」ってやつですね。
博多が無理なら同時上陸すればいいと思ってたけどそうもいかないんだな
北回りルートはサハリンまで来ていたって話があるんだよねえ。それで大陸アイヌが北海道に逃げてきて、幕府の命令で奥州藤原氏が派遣した安東氏と共同戦線を張っていたとかなんとか。ただ、もしも北海道に上陸されていても、北海道アイヌがゲリラ戦では武士より強かったという話もあって、そこで止まっていた可能性が高いという。
それ以前はアイヌの記録が無く、その後から歴史上記録が記載されるようになったので、それはあると思います。(アイヌ語は日本語の粘着言語とは違う形式であり、寧ろ大陸に近い)
関係ないけど北条時宗が海外でゼルダBoyと呼ばれてるのはウケるw
元軍を完全に撃破したベトナムの戦いは映画化して欲しいレベルで凄い。
潮の満ち引きで水位が変動する事を利用して、川底に大小の杭を打ち込んで
元寇の反省を生かしちゃんと支援艦隊も整備した元軍を、潮の満ち引きを計算した上で小舟で
川に誘い込んで、水位が下がって元軍の船が動けなくなった所をベトナム軍軽装備の兵士と小舟で殲滅とか凄いよ。
韓国と同じように首都を何回も蹂躙されてます。そのたびにジャングルに逃げてる。韓国は沖合の島に逃げてますね。反撃できた点が韓国と違いますが。ベトナム最強説がありますが、過剰かなと思ってます。簡単にフランスに植民地化されましたし、タイやクメール方面に領土拡張できたこともありませんし、韓国より少し強い程度かと
カッケェ
元軍は博多周辺に防備が敷かれてるとの情報から長門への上陸作戦も決行した。軍船300双で襲来を掛けたが、手薄と思われていた長門にも兵が配備されてて返り討ちにされてる。
戦術戦力系RUclipsrで今一番クオリティ高いな。内容が濃い!
ペリー艦隊来航より半世紀も前の18世紀末に『海国兵談』を著して海防の重要さを説いた林子平の慧眼たるや、ほんと大したものだと思う。
最強の素人童貞
日本と大陸の距離はマジで理想的だった。
これ以上近すぎれば、イギリスみたいに民族アプデが頻繁に入ってたし、遠すぎれば中華文化が入らずに独自文化の土台そのものが無くなってた。
もうちょっと離れていても良かったのにな
@@柴犬神
いまとなっては、だね
黄砂 PM2.5「お邪魔しまーすwwww」
元寇を歴史の授業一回で済ませるほど単純な話ではなかった。なぜ元軍が博多にしか上陸できなかったかという学生の悩みを解決させたこの動画は伸びてほしい。
博多の西側の唐津が対朝鮮半島の貿易港でそこに行く海路しか知らなかった。博多自体は当時は遠浅で大型船は入れない
大軍ゆえだな。万単位の軍隊は船に積める物資では養えないから、大都市を占領するしかない。少数の海賊なら適当な村を襲っても何とかなるが。
ありがとうございました。ようやく長年の疑問の答えが見えました。
なぜ元軍は強引に博多に上陸しようとしたのか、鎌倉幕府は延々と長い日本の海岸線の中で博多湾だけを重点的に守ったのか?
こういった解説は初めてでした。
これを機にこちらの動画をすべて見せていただきます。
感謝、感謝!
実に面白い。勉強になるなー!博多だけ守る理由が丸分かり。歴史の先生がこれくらい説明してくれていたら日本史好きになったかも
兵站と制海権から博多に強襲上陸するしか選択肢がなかった
というのが学べてものすごく有用だった
海が防壁 ある時以降180度逆転というのが頭に入っていないとこれはわからない
制海圏を押さえられて勝ち続けたハンニバルは化物だな。
いまでもわからないなら、陸戦特化のハーンさんは尚更わからない。
公開されたばかりだというのにもう次の動画が楽しみで仕方がない…!
日本もすごいが陸続きなのに元を撃退できたベトナムはほんとすごい
現代最強国アメリカ追い出した国ですから
14:50のような地点を地政学ではチョークポイントって言います。
ここを取ったら相手国の海運を停止させる事ができます。
例としてはジブラルタル海峡、スエズ運河、喜望峰、パナマ運河などがあります。
上陸戦の難しさを考えると
朝鮮出兵とか、よく秀吉軍が無事に帰還出来たと思うわホント
包囲殲滅される危険もあったハズなのに
(上陸地点を中心として)
北が敵の領土で、西から敵の援軍が来る。南が味方の兵站線で、東は敵味方共に塞がれている。
と考えると、攻めるのに比べれば、引くのは容易だったのではないだろうか。
殿軍…
どらやきさん
実際に慶長の役の際に、蔚山城の戦いや順天城の戦いで包囲殲滅の危機に瀕したからね。
加藤清正が鬼の強さを発揮し、日本水軍が優勢出なかったら、包囲殲滅させられた可能性はあったと思う。
この観点からも李舜臣が日本海軍を苦しめた、大活躍した、という某国側の言い分は嘘とわかるわけだw
日本は制海権を得ていた、補給線は問題なく確保していた。これが事実ということだろう。
まぁ当時の朝鮮兵は紙で出来た鎧とか着てたらしいし、日本刀や鉄砲を大量に持っていた日本軍の敵ではなかったということ。
@@musashino_103hi た
このあとの足利政権下では日元貿易をはじめ
経済・文化交流が発生するとか
この件にも関係がありそうね
あと日本は最終的に モンゴル帝国の交易圏に組み込まれてるみたい
モンゴルの目的が海路開発や棄民政策だったと言われる理由も考慮してみると面白いかも
本物で草
紙幣、銀が貨幣として主に使われた元において必要が無くなった『銅銭』が日本に流入したことで日本でも貨幣経済がこのころから発展するんですよね
足利政権下になる前から、日元貿易は鎌倉時代にもしてますね。文永の役後の1277年にも、日本の商人が金と銅銭の交換を許可されていたりします。
本物で草 面白い動画拝見してます!
博多って橋頭堡として恐ろしいぐらい重要な土地なんだってこの動画で理解できました、現在だってかなり立派な港湾施設も有るし道路網もしっかりしてる関門海峡は橋落としてトンネル埋めて、機雷で封鎖しても本州侵攻を防ぐのは辛い気がする
長崎が大きくなったんで、守備としては悩ましいところ。
そのための佐世保なのでしょうけど。
日本は地理的にこうだったからこそ日本であったし、あり続ける事が出来た訳ですな勉強になります。
兵站と海軍の視点は大事
それはそれとして北条時宗は偉い
もし、現代に北条時宗が存在していて、しかも我が国の指導者だったら、中国の領海侵犯にどう対処していたでしょうなぁ‼️(笑)
@@五十嵐真一-h6v 色々と価値観が変わりすぎて無理やな
もし戦争になっても動員力じゃ絶対勝てないしそもそも技術力が全然違うから一瞬で負ける
前回他とは違うと言っていましたが海軍のことよりもむしろ戦略レベルの話がメインってのがすごかったです
今にして思うと、小中で習った元寇の内容の余りの薄さよ……近現代戦にも通ずる戦訓がいっぱいなのになぁ……
ありがとう、今まであまり見ない考察で面白かったです
インドもベトナムも日本もとれずに海路を完全に取れなかったためにモンゴルは海路交易に破れることになる
地の利補正強すぎる
動画では触れられてなっかたけど、季節的なものも大きいと個人的に思う。
冬季攻勢が難しいのは世界史をみればわかるけど、冬の玄界灘を当時の技術で超えるのがどれ程困難か、兵站線の維持が成しえないかを考えれば防衛側の有利さが一層際立つと思う。
壱岐対馬がある玄界灘ってやっぱ重要なチョークポイントなんやな
UPおつかれさまです。
補給ガン無視でアルプス超えたハンニバルや、現地到着後に船全部沈められたナポレオンのエジプト遠征での苦労を見ると、大軍が補給を失うことの怖さがよくわかります。だからこそ元は最短ルートでもあり、日本の海軍基地を先に潰せる博多を攻撃先に選んだわけですね。今日も勉強になりました。
ハンニバルさんには、相次ぐ敗戦にビビった一部のローマの都市(主に南部)が協力してたからな。
空の軌跡のBGMいいなあ。
海軍の重要さを改めて知りました、孫権も長江を重視するのも
頷けます
攻めるにしても守るにしても、日本においては海が起点になるって言うことが勉強になりました。
対馬って地理上ホント隣国と有事の際は大変だよね。
個人的には李氏朝鮮軍の不甲斐なさで助かったけど、応永の外寇も何気に元寇並みの大ピンチだったと思う。
そもそも神風というのも夏季の九州に滞在してたら最低でも一回は台風の被害を受けて当たり前なんですよね
いつ来るかがわかっている現代でも死者が出るのに当時はそれ以上にひどい有様だったのは容易に想像できます
当時の日本の予備兵力から行って、15万では攻略不可能とされていて、かつ軽騎兵の機動力が活かせない地勢だし…
と思っていましたが、なるほど門司を抑えられたら九州に策源地を作られてしまうわけですね、そうなると後背があまりにも巨大な元相手の消耗戦…
ヤバかったですね、地形や海の存在だけでなく、博多での陸戦こそが無敵モンゴルの伝説を止めた戦いだったんですね。
平戸のある北松浦半島は山がちな地形で大軍を動かすには不向きだし、本州の下関辺りを狙えば博多から海上路封鎖の横槍が入る。
軍兵・兵糧・武器を海上輸送し、軍を駐屯させた上に、その後の動員に適当な場所が博多だけ。こうなると元軍としては、網張って待たれていても博多に進軍するしかない、ということなんですね。
なるほど。以前から元軍がなんでわざわざ防備の堅い博多湾に来たのか不思議でした。そんな事情があったのねえ。
いつかやるさんの動画でも元寇を扱っていたがそれでは山口県の方でも上陸作戦敢行しようとしたが、予備戦力・後詰めの戦力に阻まれたらしい。
7回目の使者が長門から上陸したためか、幕府も中国地方からの上陸は予想しており、事前に防衛準備の命令が出ていました。
大陸側は玄界灘を越えなきゃならんが、日本側は穏やかな瀬戸内を利していくらでも補給できるからね
仮に馬関が落ちても四国周りで豊後(別府)に上陸できる
巨大な水軍の港を抱えているようなものだから
九州を取るには博多を落として、大宰府、馬関~豊後までを一気に確保しないとならないが
大宰府から豊後までも筑後川沿いの狭いところを通る必要があるし、
門司を確保できても瀬戸内の水軍と競り合わないとならないし
大河ドラマで一番の名作は伊達政宗に譲るけど、一番ハマったのは北条時宗なんだよな。兄弟の確執とピーターがグイグイ来る。
このドラマ、北条時宗に対して、やいやい言うアホいましたね。
弘安の役のとき、長門方面に別動隊が上陸しようとした(勝敗は書いてないが、たぶん撃退された)って記録あったけど、目的は海峡封鎖・海軍力遮断だったのね。腑に落ちた。
待ってたぞ
モンゴルの樺太遠征も取り上げて欲しい‼️
第二次大戦末期のソ連侵攻で、もし根室港、釧路港を制圧され、北海道に上陸された場合、北海道からソ連軍を追い出すのはほぼ不可能だったわけですね。
それもあって米は一撃講和を敢行したわけで。
「海軍に関する一考察」シリーズを見る度に、北九州が近世まで日本の玄関だったのだと理解できます。大東亜戦争の時に、海軍の発言力に押されて陸軍が海軍の意見に折れて作戦決定をしてしまうことが多々ありましたが、これも海軍が兵站を担っている事が一因なのかと思えてきました。
よくよく考えれば元寇以前に古代の「防人」のシステムの頃から国防が目的なのは九州北部だけで、同じ「遠くに行かされる」でも東国や奥州等に国防目的は存在しなかったわけですよね。
それが突然「沿岸部は全部国防必要やで」って言われたらそりゃ普通「海軍拠点どんだけ追加要るねん!」って慌てるに決まってる。
ようやく観れた。ホンマになるほど〜って感じです。
それにしても、こんなに面白く勉強できるのに登録者が2.5万しかおらん事が不可解やなぁ。
ホントそれ。
弘安の役では日本軍は九州に35000、山口方面に25000、京都付近には60000の主力、鎌倉には総予備を配置してたらしいですね。
それを考えると日本軍を破る為に元軍が15万の兵力を注ぎ込んできたのは的を得ていたと。
合計12万以上か・・・。冷静に考えるとそんなに戦闘要員が居て、しかも動員できる島国ってどうなってるんだ
@@onheaddrill5900 江戸時代になりますが、武士の割合は人口の7%だそうです。人口3000万で武士210万人。女性、老人、子供も含んでますから、戦えるのは50万人くらい?職業軍人が50万人もいたら強いですね。鎌倉時代の人口は知りませんが、12万人くらいはいたのでは?
今回も勉強&楽しく視聴させて頂きました。
次回は遂にペリー来航!
そして神奈子様の明日はどっちだ⁉
都市の人口は物流で支えられている。江戸も2週間海運が途絶えると飢餓が来たといわれる。
ペリーが浦賀に居座ると困るのはそのため。
元寇の不思議なのは、撤退に際して壱岐や対馬の占領維持は考えなかったのかな?第3次の足がかりになるし、侵攻しなくても国境警備上必要だったと思うんだがな。元軍がやらなくても高麗とか属国兵に守らせれば大した手間じゃ無いと思うんだけどね。そうすれば今の対馬は日本領じゃ無かったかもしれんが、何万もの兵を見捨てて逃げてるから船が足らなかったというのもあるのかな~
食料もだけど水の確保にも問題があったのでは?
@@スリーリングス 大陸ではモンゴル流「死にたくなければ逆らうな」が通用してたから。
前半で元寇が元彌にしか見えなくなってしまったw
すばらしい内容
元が事前の情報収集をしっかりやることは最近知りましたが、山陰に適切な上陸地点が存在しないことや必要な兵数計算など、かなり元に掴まれていたらしいことに驚きました。
日本も、大陸から見た侵攻点をよく絞り込んで備えているし、日元双方よく戦えりですね。
元は日本の広い海岸線を自由に上陸点として設定できるんじゃないかと思ってたので理解できて良かったです。
敦賀あたりに上陸すれば現地調達しやすく京を直撃しやすいようにも思いますが、食糧に余裕がない合浦軍にはそもそも取れない航路なんですね。
若狭に上陸したら、京都周辺に集結してる本軍(九州への援軍兼ねる)がお相手するだけだな。九州にいた部隊よりもっと多いし精鋭だが。
丁寧にかけてはこの野心家さんが2020年のナンバーワンかもしれない
教科書の太字でしかなかった元寇、深掘りするとクソおもろいやん
この動画を見て改めて思ったんだけど、双方の指導者達が当時何を考えて歴史的事件に挑んだのを考えるのって面白い。
独ソ戦とかね
他の動画で説明されてるから端折る。という所、
俺は浸透襲撃さんしか観てないが、製作者は他の類似動画も確認しとかないといけないんだよなぁ
毎度ありがとうございます。
入り口が一か所しかないのに攻めるなんて無理よなぁ…
11:18 そのための15万ですな
BGMなついなー
ちょうど軌跡シリーズの最新作やってるので感慨深い
マムルーク朝とかはともかくベトナムはよく元に勝てたよな
地続きで近いのに何故だろう?
ベトナムは熱帯林だらけで騎兵の機動が難しい事とそもそも馬は高温多湿な環境が苦手という事が理由で戦いやすい環境だったと思います。
ベトナムもすごいですが平地で乾燥した中東で元軍を撃破した事は物凄いことだと思います。
確か、ジャングルが多くて騎兵を上手く活用出来なかったというのを聞いたことがあります。ベトナム戦争と同じような感じかと。
すき
たつた四杯で夜も眠れず。
Civでも天文学開いて外海に入れるようになると島国の防衛きつくなるんだよなぁ。
もし元軍の中に、かつて渤海と言われた国の人たちがいて、渤海の使者が日本海を横断して若狭湾から京都に入ったルートを元軍が知っていたら・・・また違った展開になったかもしれないね。
京都が元軍に落とされてしまったら、元軍に寝返る武士も出たかもしれない。
まあそれでも兵站線が伸びすぎて、現地で略奪でもしない限り、大軍を養うのは難しいけどね。
大軍を渡航させるにはリスクが高い、と考えたのかも。
@@peppertaro2224 さん
外交の使者を送るくらいなら、日本海横断という選択は有りだけど、10万単位の大軍を一度に、日本海横断というリスクは負えなかったのかもね。
手柄をたてるのが九州の武士じゃなくて、京都付近に終結していた幕府の本軍(援軍)に変わるだけだな。
当時の日中の海軍兵力及び軍船の能力や戦闘力等を知りたいですね😄😄😄😄😄
海軍で船自体の戦闘力が意味を持つのは、船に大砲を積む大航海時代あたりになってからだな。それまでの海戦は、乗っている兵士による弓矢戦→白兵戦の繰り返しでしかない。
秀吉の朝鮮征伐バージョンで、兵站と海軍について考察して欲しいです。
天下取るまではあれほど兵站に気を使ってた秀吉が、天下取った後は何で朝鮮征伐で杜撰な結果に陥ったのか?
痴呆はいってから出征に思い至ったので、そもそも計画から無茶苦茶で全てが無理だったんじゃないかと。
兵站担うはずの石田小西宗あたりが猛烈に反対し、交渉をグダグダにして朝鮮入りを引き伸ばしていたのを見るとどうやってもうまく行くはずなかったんでしょう。
あれはシチュエーションは三国志の北伐と似ていると
個人的に思いますね
はえーすごく勉強になった。博多はキルゾーン!
あとは鎌倉武士達が世界に類を見ない重装弓騎兵だったのもある。騎兵の機動力と重装兵の防御力を兼ね備えた鎌倉武士を相手に騎兵の運用を封じられて軽装下馬歩兵で戦わざるを得なかったモンゴル軍、負けるのも分かる気がする。
日本の一番長い日。
戦前の陸軍が本土決戦を
唱えながら、最終的に
終戦を受け入れたのは
其の為だったんですね。
レーダーも海図もない時代、島伝いに航海する以外は危険すぎるから、数隻ならともかく、大艦隊ではとても無理だな。
ある呪いの伝説がこの時から始まった・・・
BGMが空の軌跡
鎌倉時代ではまだ平戸、唐津を占領しても軍を維持できないってことか
日本は自分から攻めなければかなり安全な国だと理解しました。
まあ、明治以降はそれが逆転しますね。明治政府が海外に侵攻したのも根本は島国に引きこもっても安全ではなくなったからですし。
@@mastsu379
ほんとこれ日本の外交の下手さを表してるよな、島国なんだからそれ相応の外交力があれば永遠に引きこもっても問題なかったのに
外交力がgmすぎて外に領土を広げなければ行けなくなった
結果はご覧の通り
そして日本の外交の無能さは改善する気配0
@@花玉友輔偽物 半島を組み込んだのが悪手だった 半島の領土を守るために満州を支配せねばならず利権ぶつかりまくり、陸軍に力を割くことになり負担も増えた。島国らしくウルップ~台湾といった島を取って半島は傀儡にするくらいで良かった
事実樺太アイヌを屈服させた後に樺太南端に元軍が城築いてましたね。
防備を固めた博多湾を避けて隣の唐津あたりから上陸して博多に進行というのはダメなのでしょうか?
博多にあった「平野部への連絡が用意で大軍を養える」を満たせないので唐津を奪うメリットはあまりないんじゃないかなと思いますね
唐津湾は三方を山に囲まれてて平地自体少ないですから
それに唐津から博多まで進軍するのも一苦労です。
唐津から糸島までは海岸まで山が迫るような地形なので、大軍を展開出来ず長蛇の列で進軍することになります
これだと地の利に長けた在地の武士団には「首(褒賞の証)がとり放題!」としか見えません。海からも山側からも襲われ放題で対応すら出来ません
橋頭堡として唐津を取るためのリスクに対してリターンが見合わないので、そのまま真っすぐ博多を奪う方が低リスク高リターンと思われたのでしょう
まあ結果的にそれでもダメだったわけですが
大泥棒が最も気を使うのは逃走経路、ってルパンだったっけ?
北条時宗はモンゴル帝国との戦争のために歴史に登場したため戦争が終わったためお役御免になったかのように亡くなった悲運な摂政だったね
当時の元軍が日本の地形深く知ってたのがびっくり。外国人とか意外に来てたのかな…?
味ぽんさん
元寇の前に外交交渉があって、確か6回くらい交渉が行われたはず。
元からは、モンゴル人や漢人、高麗人、女真人、それに元に居た日本人も、元の外交の使者として来ています。
元は日本の大まかな地図を知っていたと思うし、博多や大宰府が、日本の大陸の玄関口だということも知っていましたね。
@@musashino_103hi 元寇の前に使者が送られたのは6回ですが、1回目は高麗で、3回目は対馬で引き返しているので、九州まできたのは4回ですね。
ただし日本はその使者を九州に留めて先に行かせなかったので、九州は偵察できても、そこから先の地形については偵察できなかったかと。
文永の役後には、南宋に留学していた日本人僧侶も、8回目の宋人の使者に同行していました。
4:40
これは考えたことなかった。成程。
ジオンの地球侵攻作戦みたいだぁ。
元軍が、何故に博多を目指したかは、納得だわ、守り切れたのが奇跡?、
南北朝でもさすがに外患誘致はしなかったんじゃ? 特に南朝はガチの国粋だし。
15万ではもともと無理ゲーです。
日本側の動員能力の倍はいないと無理です。博多侵攻後に戦線拡大に投入する兵隊さんまで現地調達が無理だから。日本側が九州で一時動員できる戦力の見積もりからして甘く見たんでしょうね。
人間が兵糧になりえる所から来るから、食料は現地でも調達出来たでしょうな。
中国から来る方の部隊は、戦術的には真っ直ぐに熊本や鹿児島に上陸するのもありなんだが、やはり博多を取れないといずれは補給切れ待ったなしではある。
神奈子様が信仰を失っていた(透明になってた)のは、
「神風による勝利」が覆されたからだとおもってた。
南北朝のときならむしろ一体となって戦ったって気がしますねw
動画の中で元寇が早くor遅かったらといってるけどモンゴル国内のゴタゴタがあるのでモンケ中期からフビライの時代にしか攻めてこれないと思うけどそれくらいの時だと日本はかなり纏まってるから結局モンゴルに日本を滅ぼすチャンスはなっかたと思う
大量の船と船員がなければ日本への遠征はできませんし、特に弘安の役の規模の船団を用意するのは南宋征服前には難しいでしょうね。
ruclips.net/video/jNJLMecx2aA/видео.html
長崎県の海底で元寇「沈没船」の船体を初発見(11/10/24)
今回の話を見ていると稲作等、文化の渡来が東シナ海からあっても、渡来系の異なる部族(所謂弥生)は、朝鮮半島南部から来たのが有力と思いました。
元寇前での白村江の後にも水城が博多に作られますし、大陸から日本征服という際、重要なのだと感じます。
投稿お疲れ様です。
しかしフビライ=ハンってこちらの神奈子様みたいな陸戦極振りだったろうによくこれだけ海戦の考え方できましたよね。
三回目を臣下に『やめとけ』って言われてやめたそうですし、人の話をちゃんと聞く人だったんでしょうかね?
一回目の文永の役も、二回目の弘安の役も臣下からの反対はあったのにしていますし、三回目もベトナムなど他との戦争で無理になるまでは反対があっても準備していたので、元寇の強行に関しては結構臣下の反対を聴いてないですね。
目的は南宋への援軍を防ぐことでもあるしそっちは成功してる
日本に参戦させるとなると恩賞のカタがいるけど、明朝のように通商権でも与えるんだろうか。
fategoの魔神柱狩りみたいな感覚の鎌倉武士に対応したのが元軍の不幸でした。敵の首=恩賞たくさんでひゃはーだから仕方ないですね!!
マジで地面つながって無くてよかったぁ、、、、
弘安の役では長門や平戸も攻めたそうだけど本命はやっぱり福岡ですよね、ここを落とせないと先がないかな?
【悲報】元軍、日本攻略無理ゲーだった
そろそろ【真説元冦】で映像化したら大ヒットするんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
イングランドは大陸と近かったからアングロ・サクソン終わっちゃったんだな。今の王家もノルマン系だし。
山口の下関を抑えてそこから宇部、防府を短期間で取るってのはどうや?
もちろん博多にも援軍を出せない程度の兵をまわしつつ。
元相手の動員は長門にもかかっていて常にある程度の軍勢が張り付いてたし、攻めてくるのが解れば、万近い軍勢が配置されてたが。
元寇は歴史の授業でスルーしてましたが
とても勉強になりました(・∀・)
むしろ15万もの海軍を派遣できる陸軍国の元すごくね?レパントの海戦でもアルマダの海戦でも双方合わせても10万いくかいかないかだぜ?15万もの兵員の乗る船舶の作成、運用なんて近代入ってからじゃね?
大部分は上陸してからの陸兵専門で、海軍は全体の1割から2割ぐらいか。それでも当時の世界最大の海軍は間違いないが。
「たった四盃で夜も寝られず」ってやつですね。
博多が無理なら同時上陸すればいいと思ってたけどそうもいかないんだな
北回りルートはサハリンまで来ていたって話があるんだよねえ。
それで大陸アイヌが北海道に逃げてきて、幕府の命令で奥州藤原氏が派遣した安東氏と共同戦線を張っていたとかなんとか。
ただ、もしも北海道に上陸されていても、北海道アイヌがゲリラ戦では武士より強かったという話もあって、そこで止まっていた可能性が高いという。
それ以前はアイヌの記録が無く、その後から歴史上記録が記載されるようになったので、それはあると思います。
(アイヌ語は日本語の粘着言語とは違う形式であり、寧ろ大陸に近い)
関係ないけど北条時宗が海外でゼルダBoyと呼ばれてるのはウケるw