Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
飛鳥宮跡になったんですね。遺跡は、発掘により、進化していくんだね。
理系爺ちゃんです。平城京、藤原京、飛鳥京巡って来ました。(50年ぶりの一人旅)平城京は日曜で家族ずれで賑わってた。翌日の藤原京は、私と同じ老人がただ一人でした。飛鳥京の周辺は初秋のあるこー会の元気老人がが多数いた。乙巳の変から大化の改新が、こんな田舎で起こったのか不思議だった。「夏草や兵どもが夢の跡」の毛越寺に、50年以上前の大学生時に行った時と、同じ気持ちなった。エビノコ郭を映像の駐車場・公園からヤフー地図(グーグルには公園出ていない)で特定して行ってきた。歴史看板見るの忘れた(有ったのかな?)。2日間、電動自転車で回ったが、お尻痛くなったが、膝が痛くならず良かった。地図詳細に調べて行ったが、新しい広い道と旧道とか判らず、めちゃくちゃ迷った。明日香の大枠の位置関係と道路が判ったので、次回?は迷わないと思う。
楽しい旅だったようで、何よりです。飛鳥で迷われたとのこと、飛鳥は迷うのが楽しいんです(って、負け惜しみ・笑)迷えばたくさんのことがわかりますし、その時の情景も脳裏にしっかり焼き付きます。たくさん迷って、たくさん楽しんでくださいね。(^-^)
宮が重層的に営まれた飛鳥宮跡地は、その当時(現在も?)きっと地理的地勢的方位的にとても良い土地柄だったのでしょうね❗
とてもいい場所ですよね。三方を岡に囲まれ、開けた北側には大和三山を望めます。古代の権力者たちもこんな風景を見ていたのかな、なんて想像してしまいます✨
皓月2を読み終えました。入鹿が目指した大王への執着心は、権力への思いなのか?想いを寄せる宝を自分の妃にしたいとの思いからなのか?女性は魔者かな???本を読んでいると馬子が優しい爺さんの様に思えました☺️❓。先日 請安の墓をなんの知識も無く訪ねたましたが、本を読んで少しですが請安が果たした役割が分かりました。活字を読んでいるのですが、場面が画像として入って来るので楽しく読んでいます👍。昔の出来事で確たる正解はないので 自分なりに解釈して飛鳥時代に思いを馳せています。皓月3は何処を探しても在庫なしでした。仕方がないので市の図書館に依頼して、県下の図書館から取り寄せてもらう事にしました。3巻目が楽しみにです。
読んでいただき嬉しいです。ありがとうございます。主人公もそうですが、馬子も蝦夷も入鹿も、みんなが懸命に生きているさまを描きたいと思いました。先人たちが必死に生きて、その結果として現代があることを伝えたいと思いました。第3部、在庫切れでご迷惑をおかけしています。(増刷してくれるといいんですけど! 幻冬舎さん!)図書館で取り寄せてくださるとのこと、ありがとうございます。お楽しみいただけたら嬉しいです。
方位の話…とても興味深いですね。
方位についても、もっと勉強して皆さんにお知らせしたいと思っています。
理科系のお爺ちゃんです。最近、飛鳥・古墳時代に興味持ちました。平城京の前の宮都には全く無知でした。藤原京の前がごちゃごちゃして理解不能でした。この動画でヤット少し理解出来るようになりました。 発掘が進んで、古事記・日本書紀・伝承と学者見解(バラツキ多い)との整合性が、時代とともに判って来るのが面白いです。
飛鳥時代は天皇の代替わりごとに宮を遷しているので、なかなかややこしいことになっています。飛鳥宮跡などその代表格ですが、私の動画で理解を深めていただいたとのこと、嬉しい限りです。理科系の頭脳をもって歴史の謎にたくさん挑んでください。今後ともよろしくお願いいたします。
それで飛鳥宮跡というんですね。勉強になります!
動画の中では説明しそびれたのですが「飛鳥宮」という宮はないんです。あくまで「飛鳥のあの場所に置かれた宮」の総称ということでよろしくお願いします♪
飛鳥宮跡重層イメージとても分かりやすかったです。エビノコ郭全く気が付きませんでした。ここは何回も来たんですが、めんどやで食事をすることに気を取られていたかもしれません。
めんどやさん、行ったことないんです〜! 一度行ってみたいです。
おおあんどの=>だいごくでん大極殿に呼び名が変わったということでよかったですよね?
読み方については、史料や解説書によってさまざまですので、どちらが新しい・どちらが正しいということではありません。
飛鳥宮跡…看板変わったんですね😧私は古めかしい看板が好きでした~(笑)
いい看板でしたよね。聞いた話によると、奈文研?(橿考研?)かどこかの倉庫に保存されているそうです。不確かな情報でスミマセン😅🙏
斉明が板蓋宮で重祚し宮が火災に遭ったため後飛鳥岡本宮建造時に一時期、隣の川原宮に移りますが私は、その火災がトラウマになり以降、石の建造物にのめり込んでいくのではないか?と思っています。
なるほど。火災のトラウマ、慧眼です。貴重なご教示ありがとうございました。
アッシリア方面で徘徊していた王族が渡来(帰国)して建国した地域かな
>アッシリア方面で徘徊していた王族が渡来(帰国)して建国した地域かなさまざまな説がありますね。ご教示ありがとうございます。
エビノコ郭を大極殿とするのは、日本の大極殿の機能しか見ていない解釈ですね。大極殿や太極殿は都城の南北中軸線上に南北を意識して造営されるもので、中軸線上に無い、西門だけの宮殿にはその資格はないです。。なぜか日本の考古学では、大極殿が中国の太極殿が伝来してきた建物/思想であることが忘れられています。実際には、板蓋宮や後飛鳥岡本宮の時代にもあったわけで、そう考えると、大極殿は内郭中軸線上の最南の建物ですね。
貴重なご教示ありがとうございました。
いつもありがとうございます。飛鳥浄御原宮は岡本宮の南に作ったのでは?また、天武天皇が藤原夫人に送った雪の歌では大原と飛鳥浄御原宮は相当離れていると思うのですが。。。「冷やかし」を込めて送ったという解釈もあるようですが、場所が違うのではないでしょうか?
飛鳥浄御原宮は岡本宮(舒明)飛鳥板蓋宮(皇極)後飛鳥岡本宮(斉明)とほぼ重なる位置に建てられています。(くわしくは動画をご覧ください) 岡本宮の南というのは、飛鳥浄御原宮に付属するエビノコ郭のことだと思います。エビノコ郭はのちの大極殿と同じ機能を持った建物とされ、公的な行事などを行ったと考えられています。藤原夫人と交わした歌については「近いのにそんなこと言う?(笑)」的なものだったと個人的には考えています。
アップありがとうございます飛鳥京の想像図を拝見しましたがここに通う官僚たちの住居は近くにあったのでしょうか? AM5時に出勤です条坊は出土したのでしょうか? 地方の出先機関扱いの "太宰府"の内裏や条坊の方が規模が大きいですヨ。二年前の服部氏の説明ではここより前の前期難波宮(現大阪城南側)には官僚8000人の規模の条坊あったようです。この後 飛鳥京に移った官僚は大阪から 通勤したのでしょうか?服部氏 難波宮に官僚八千人その2ruclips.net/video/TDRW1i4flhc/видео.htmlその3ruclips.net/video/7FFX9B7I8mw/видео.html京の宮域651年〜 前期難波宮656年〜 飛鳥京667年〜 近江京694年〜 藤原京710年〜 平城京
そうなんです。官僚たちがどこに住んでいたか、飛鳥の謎のひとつなんですよね。個人的には、のちの藤原京のあたりにかなりの人が住んでいたのではないかと思っています。飛鳥も近いですし。藤原京遷都にあたって条坊が整備されて、住み続けたり立ち退いたりということになったのではと想像しています。
@@umemaeSakiko 梅前さんへ服部氏のRUclips その3に説明されているように、朝5時開門に間に合うように通勤に5km 1時間くらいの距離の役宅が必要です。藤原宮から徒歩通勤できたのでしょうか? 当時街灯もなく、早朝真っ暗の中 まして女官(700人)たちも通えたのでしょうか? 信じられない!!謎ではなく、飛鳥の宮城には 8000人の官僚がいなかったと考えざるをえません。
繰り返しになりますが、飛鳥京に条坊がないのは 当時の御皇室は蘇我氏の家来で 自称天皇の邸宅を ○○宮と称していたと考えています。(飛鳥京に条坊がないのは「謎」でなく、官僚が不在で律令政治をできなかった) RUclipsで難波宮博物館を見ましたが 天子が ここで律令政治をしていたと考えます。
歴史に関係ない質問です m(__)m撮影はスマホ用ジンバルを使っておられますが自転車に乗ってる時は傘立て見たいな物に差し込んでおられるのですか?それとも首からぶら下げての撮影ですか私も真似をしたいと思っての質問です
あとのコメントでもおっしゃっているようにgo proを自転車のハンドルに固定して撮影しています。固定器具をつけたままま自転車を返却してしまい、翌日取りに行くという失態を演じました💦
@@umemaeSakiko ご返信感謝です。忘れ物迷いミチがこの動画にのめり込むきっかけです中毒性が有って朝起きたら見るし少し時間が出来たら拝見させて貰ってます
宮の場所には神社があると思うのですが、何故無いのかな🤔
そう言われてみればそうですね。
私は疑いから入ってしまうので🤣飛鳥時代ってヤマトとは、無関係な豪族だったと感じてます。色々出土品や遺跡見ましたが…何か全然違うな~って思ってます(ど素人が真っ白な知識から勉強しだして辿り着きました🙇)…大学の先生方は駄目ですね習った教授の話を鵜呑みにしているのが分かってからは信用しなくなりました🙇偏屈者ですいません…ただ、現物が出土されているのは凄く気になってます
こんにちは♪楽しく拝見させて頂ております。飛鳥宮跡は現在4つの宮が重なり合っていて、正確な「飛鳥板蓋宮跡」がよくわかりません。最大の関心事である「乙巳の変」で入鹿が暗殺された「内裏前庭の古人皇子、石川麻呂、入鹿がいたところ」がどうしても推測出来ません。梅前さんの知識でピンポイントでココ!って言う場所を動画で調べて欲しいのです。橿原考古学博物館の模型を見ても「三韓の使節団」が門外にいて、中大兄・鎌足らが潜んだ場所のある内裏前庭が分からないのです。リクエストして申し訳ございませんが数十年来の疑問を解消して下さい。
>「乙巳の変」で入鹿が暗殺された「内裏前庭の古人皇子、石川麻呂、入鹿がいたところ」がどうしても推測出来ません。コメントありがとうございます。まず、ご存知のように、飛鳥宮跡は三層四期の宮跡が重なった場所です。そのうち、乙巳の変が起こった飛鳥板蓋宮は、最下層の岡本宮の上に乗った第2層ということになり、その上に第3層となる後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮が乗っている、ということになります。第1層と第3層は、ほぼほぼ同じ場所(第1層は西に振れていますが)に存在するのですが、第2層の飛鳥板蓋宮だけは、宮の幅の半分ほど東にずれています。その東限は、現在バスが通っている道の向こう側に天理教の教会がありますが、教会とバス通りを隔てる壁のさらに向こう側になるようです。つまり、バス通りを含んだ領域が板蓋宮の宮域だったということになり、宮の中心部は現在「飛鳥宮跡」の説明板が立っている場所より東側ということになります。なので、ピンポイントでは指定できませんが、中大兄や鎌足が潜んだという前庭は、あの説明板より東(現在田んぼが広がっているあたり)の、もう少しだけ南寄りのあたりになるかと思います。わかりづらい説明で申し訳ありません。飛鳥宮跡については、またあらためて動画を作ってみたいと思っております。
@@umemaeSakiko ご回答頂き誠に恐縮でございます。ご丁寧な解説ありがとうございます。そして誠に申し訳ございません💦「飛鳥DE迷子 2日目⑦」で既にご紹介されていますね💦今日、初めて上記動画を視聴させて頂きました💦この回を見ていなかったもので、誠に申し訳ございませんでした💦
飛鳥宮跡になったんですね。遺跡は、発掘により、進化していくんだね。
理系爺ちゃんです。平城京、藤原京、飛鳥京巡って来ました。(50年ぶりの一人旅)
平城京は日曜で家族ずれで賑わってた。翌日の藤原京は、私と同じ老人がただ一人でした。飛鳥京の周辺は初秋のあるこー会の元気老人がが多数いた。
乙巳の変から大化の改新が、こんな田舎で起こったのか不思議だった。「夏草や兵どもが夢の跡」の毛越寺に、50年以上前の大学生時に行った時と、同じ気持ちなった。
エビノコ郭を映像の駐車場・公園からヤフー地図(グーグルには公園出ていない)で特定して行ってきた。歴史看板見るの忘れた(有ったのかな?)。
2日間、電動自転車で回ったが、お尻痛くなったが、膝が痛くならず良かった。
地図詳細に調べて行ったが、新しい広い道と旧道とか判らず、めちゃくちゃ迷った。
明日香の大枠の位置関係と道路が判ったので、次回?は迷わないと思う。
楽しい旅だったようで、何よりです。
飛鳥で迷われたとのこと、飛鳥は迷うのが楽しいんです(って、負け惜しみ・笑)
迷えばたくさんのことがわかりますし、その時の情景も脳裏にしっかり焼き付きます。たくさん迷って、たくさん楽しんでくださいね。(^-^)
宮が重層的に営まれた飛鳥宮跡地は、その当時(現在も?)きっと地理的地勢的方位的にとても良い土地柄だったのでしょうね❗
とてもいい場所ですよね。三方を岡に囲まれ、開けた北側には大和三山を望めます。古代の権力者たちもこんな風景を見ていたのかな、なんて想像してしまいます✨
皓月2を読み終えました。入鹿が目指した大王への執着心は、権力への思いなのか?想いを寄せる宝を自分の妃にしたいとの思いからなのか?女性は魔者かな???
本を読んでいると馬子が優しい爺さんの様に思えました☺️❓。先日 請安の墓をなんの知識も無く訪ねたましたが、本を読んで少しですが請安が果たした役割が分かりました。活字を読んでいるのですが、場面が画像として入って来るので楽しく読んでいます👍。昔の出来事で確たる正解はないので 自分なりに解釈して飛鳥時代に思いを馳せています。皓月3は何処を探しても在庫なしでした。仕方がないので市の図書館に依頼して、県下の図書館から取り寄せてもらう事にしました。3巻目が楽しみにです。
読んでいただき嬉しいです。ありがとうございます。
主人公もそうですが、馬子も蝦夷も入鹿も、みんなが懸命に生きているさまを描きたいと思いました。先人たちが必死に生きて、その結果として現代があることを伝えたいと思いました。
第3部、在庫切れでご迷惑をおかけしています。(増刷してくれるといいんですけど! 幻冬舎さん!)
図書館で取り寄せてくださるとのこと、ありがとうございます。お楽しみいただけたら嬉しいです。
方位の話…とても興味深いですね。
方位についても、もっと勉強して皆さんにお知らせしたいと思っています。
理科系のお爺ちゃんです。最近、飛鳥・古墳時代に興味持ちました。平城京の前の宮都には全く無知でした。藤原京の前がごちゃごちゃして理解不能でした。この動画でヤット
少し理解出来るようになりました。
発掘が進んで、古事記・日本書紀・伝承と学者見解(バラツキ多い)との整合性が、時代とともに判って来るのが面白いです。
飛鳥時代は天皇の代替わりごとに宮を遷しているので、なかなかややこしいことになっています。飛鳥宮跡などその代表格ですが、私の動画で理解を深めていただいたとのこと、嬉しい限りです。
理科系の頭脳をもって歴史の謎にたくさん挑んでください。今後ともよろしくお願いいたします。
それで飛鳥宮跡というんですね。
勉強になります!
動画の中では説明しそびれたのですが「飛鳥宮」という宮はないんです。あくまで「飛鳥のあの場所に置かれた宮」の総称ということでよろしくお願いします♪
飛鳥宮跡重層イメージとても分かりやすかったです。エビノコ郭全く気が付きませんでした。ここは何回も来たんですが、めんどやで食事をすることに気を取られていたかもしれません。
めんどやさん、行ったことないんです〜! 一度行ってみたいです。
おおあんどの=>だいごくでん
大極殿に呼び名が変わったということでよかったですよね?
読み方については、史料や解説書によってさまざまですので、どちらが新しい・どちらが正しいということではありません。
飛鳥宮跡…看板変わったんですね😧
私は古めかしい看板が好きでした~(笑)
いい看板でしたよね。聞いた話によると、奈文研?(橿考研?)かどこかの倉庫に保存されているそうです。不確かな情報でスミマセン😅🙏
斉明が板蓋宮で重祚し宮が火災に遭ったため後飛鳥岡本宮建造時に一時期、隣の川原宮に移りますが私は、その火災がトラウマになり以降、石の建造物にのめり込んでいくのではないか?と思っています。
なるほど。火災のトラウマ、慧眼です。貴重なご教示ありがとうございました。
アッシリア方面で徘徊していた王族が渡来(帰国)して建国した地域かな
>アッシリア方面で徘徊していた王族が渡来(帰国)して建国した地域かな
さまざまな説がありますね。ご教示ありがとうございます。
エビノコ郭を大極殿とするのは、日本の大極殿の機能しか見ていない解釈ですね。
大極殿や太極殿は都城の南北中軸線上に南北を意識して造営されるもので、
中軸線上に無い、西門だけの宮殿にはその資格はないです。。
なぜか日本の考古学では、大極殿が中国の太極殿が伝来してきた建物/思想で
あることが忘れられています。実際には、板蓋宮や後飛鳥岡本宮の時代
にもあったわけで、そう考えると、大極殿は内郭中軸線上の最南の建物ですね。
貴重なご教示ありがとうございました。
いつもありがとうございます。
飛鳥浄御原宮は岡本宮の南に作ったのでは?
また、天武天皇が藤原夫人に送った雪の歌では大原と飛鳥浄御原宮は相当離れていると思うのですが。。。
「冷やかし」を込めて送ったという解釈もあるようですが、場所が違うのではないでしょうか?
飛鳥浄御原宮は岡本宮(舒明)飛鳥板蓋宮(皇極)後飛鳥岡本宮(斉明)とほぼ重なる位置に建てられています。(くわしくは動画をご覧ください) 岡本宮の南というのは、飛鳥浄御原宮に付属するエビノコ郭のことだと思います。エビノコ郭はのちの大極殿と同じ機能を持った建物とされ、公的な行事などを行ったと考えられています。
藤原夫人と交わした歌については「近いのにそんなこと言う?(笑)」的なものだったと個人的には考えています。
アップありがとうございます
飛鳥京の想像図を拝見しましたが
ここに通う官僚たちの住居は近くにあったのでしょうか? AM5時に出勤です
条坊は出土したのでしょうか?
地方の出先機関扱いの "太宰府"の内裏や条坊の方が規模が大きいですヨ。
二年前の服部氏の説明では
ここより前の前期難波宮(現大阪城南側)
には官僚8000人の規模の条坊あったようです。この後 飛鳥京に移った官僚は大阪から 通勤したのでしょうか?
服部氏 難波宮に官僚八千人
その2
ruclips.net/video/TDRW1i4flhc/видео.html
その3
ruclips.net/video/7FFX9B7I8mw/видео.html
京の宮域
651年〜 前期難波宮
656年〜 飛鳥京
667年〜 近江京
694年〜 藤原京
710年〜 平城京
そうなんです。官僚たちがどこに住んでいたか、飛鳥の謎のひとつなんですよね。
個人的には、のちの藤原京のあたりにかなりの人が住んでいたのではないかと思っています。飛鳥も近いですし。藤原京遷都にあたって条坊が整備されて、住み続けたり立ち退いたりということになったのではと想像しています。
@@umemaeSakiko 梅前さんへ
服部氏のRUclips その3に説明されているように、朝5時開門に間に合うように
通勤に5km 1時間くらいの距離の役宅が必要です。藤原宮から徒歩通勤できたのでしょうか? 当時街灯もなく、早朝真っ暗の中 まして女官(700人)たちも通えたのでしょうか?
信じられない!!
謎ではなく、飛鳥の宮城には 8000人の官僚がいなかったと考えざるをえません。
繰り返しになりますが、飛鳥京に条坊がないのは 当時の御皇室は蘇我氏の家来で 自称天皇の邸宅を ○○宮と称していたと考えています。(飛鳥京に条坊がないのは「謎」でなく、官僚が不在で律令政治をできなかった) RUclipsで難波宮博物館を見ましたが 天子が ここで律令政治をしていたと考えます。
貴重なご教示ありがとうございました。
歴史に関係ない質問です m(__)m
撮影はスマホ用ジンバルを使っておられますが
自転車に乗ってる時は傘立て見たいな物に差し込んで
おられるのですか?それとも首からぶら下げての撮影ですか
私も真似をしたいと思っての質問です
あとのコメントでもおっしゃっているようにgo proを自転車のハンドルに固定して撮影しています。固定器具をつけたままま自転車を返却してしまい、翌日取りに行くという失態を演じました💦
@@umemaeSakiko
ご返信感謝です。忘れ物迷いミチが
この動画にのめり込むきっかけです
中毒性が有って朝起きたら見るし
少し時間が出来たら拝見させて貰ってます
宮の場所には神社があると思うのですが、何故無いのかな🤔
そう言われてみればそうですね。
私は疑いから入ってしまうので🤣飛鳥時代ってヤマトとは、無関係な豪族だったと感じてます。色々出土品や遺跡見ましたが…何か全然違うな~って思ってます(ど素人が真っ白な知識から勉強しだして辿り着きました🙇)…大学の先生方は駄目ですね習った教授の話を鵜呑みにしているのが分かってからは信用しなくなりました🙇偏屈者ですいません…ただ、現物が出土されているのは凄く気になってます
こんにちは♪楽しく拝見させて頂ております。飛鳥宮跡は現在4つの宮が重なり合っていて、正確な「飛鳥板蓋宮跡」がよくわかりません。最大の関心事である「乙巳の変」で入鹿が暗殺された「内裏前庭
の古人皇子、石川麻呂、入鹿がいたところ」がどうしても推測出来ません。梅前さんの知識でピンポイントでココ!って言う場所を動画で調べて欲しいのです。橿原考古学博物館の模型を見ても「三韓の使節団」が門外にいて、中大兄・鎌足らが潜んだ場所のある内裏前庭が分からないのです。リクエストして申し訳ございませんが数十年来の疑問を解消して下さい。
>「乙巳の変」で入鹿が暗殺された「内裏前庭の古人皇子、石川麻呂、入鹿がいたところ」がどうしても推測出来ません。
コメントありがとうございます。
まず、ご存知のように、飛鳥宮跡は三層四期の宮跡が重なった場所です。そのうち、乙巳の変が起こった飛鳥板蓋宮は、最下層の岡本宮の上に乗った第2層ということになり、その上に第3層となる後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮が乗っている、ということになります。
第1層と第3層は、ほぼほぼ同じ場所(第1層は西に振れていますが)に存在するのですが、第2層の飛鳥板蓋宮だけは、宮の幅の半分ほど東にずれています。その東限は、現在バスが通っている道の向こう側に天理教の教会がありますが、教会とバス通りを隔てる壁のさらに向こう側になるようです。つまり、バス通りを含んだ領域が板蓋宮の宮域だったということになり、宮の中心部は現在「飛鳥宮跡」の説明板が立っている場所より東側ということになります。なので、ピンポイントでは指定できませんが、中大兄や鎌足が潜んだという前庭は、あの説明板より東(現在田んぼが広がっているあたり)の、もう少しだけ南寄りのあたりになるかと思います。
わかりづらい説明で申し訳ありません。飛鳥宮跡については、またあらためて動画を作ってみたいと思っております。
@@umemaeSakiko
ご回答頂き誠に恐縮でございます。
ご丁寧な解説ありがとうございます。
そして誠に申し訳ございません💦
「飛鳥DE迷子 2日目⑦」で既にご紹介されていますね💦
今日、初めて上記動画を視聴させて頂きました💦この回を見ていなかったもので、誠に申し訳ございませんでした💦