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日本国の為に、子孫の為にやむを得ず戦地に赴いて兵士の方々に心から感謝の意を表しますと共に戦死された方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。この歌の由来を聞いた時に涙が溢れ出て止まりませんでした。日本の兵士を開放し祖国へ帰して頂いたフィリピン大統領に最大の敬意をはらいます。本当に本当にありがとうございます。
31歳で戦争も全く経験してないですが、歌を聴いて泣いたのはこの曲だけです
はま子は真夏なのに振袖を着こんで慰問した、荒城の月も歌わしてもらった、昔の歌手は偉かったと思う、住所も公にしていたし。この方は国民栄誉賞をもらって当然の方だ。
私は戦後生まれです。始めはこの歌の背景、意味が判りませんでした。皆さんのコメントを見させて頂き理解でき、改めて聞きますと戦争に行かれた方々の大変さが判りました。今の平和で繁栄のある日本があるのは先人のみなさんの苦労があればこそだと再認識されました。
ほモッコウバラ
最後まで諦めず、日本の土を踏めてよかったです!涙が出ます。
ものすごく心に響く歌いかた聞いてたら自然と涙がでてきた……
この曲は、いつ聴いても何度聞いても泣いちゃいます。
この唄を聞く度に自然に涙が浮かんでくる。終戦後約10年も抑留されていたのだ。
素晴らしい!涙なくしては歌えない!
渡辺はま子さん、本当の愛国の士であられました。
@Françoise Arneur そうでした(^o^)
この映像、涙でかすんで見えなかったです。もう一度、二度、三度見ても、復員した兵士を出向えた割烹着姿の母、妹らしい女学生の再会の涙にくれる姿に、やはり涙でかすんで見えませんでした。
戦った徴集兵には何の罪はなかったろう。一部参謀の暴走と一部兵士の暴走があったことは事実であろうが、山下大将か一身に背負ったと思われる。この歌を聴いたフィリピンが動いてくれた。大部分の兵士に罪はない。総力戦の戦争であったのであるから。
渡辺はま子さんはこの歌は歌うと泣けてしまうのでテレビでは歌えないといっていました、それでも意を決して歌ったのを思い出します。
OKS ガイド クーポン券
戦犯として、収監された、方々の無念さと共に唯一の支えとなった、神の唄です。
涙が出る。本当に本当にご苦労さんでした。よく耐えてくださいました。感謝です。ひたすら感謝です。
何度聞いても、本当に素晴らしいです。
この歌は戦後間もない頃ですが幼いながらもラジオから流れてくるのを何回聴いてことがあります。この歌に心をうたれた時のフィリピン大統領が特別の処置で捕虜を解放されたのは後から知りました。
いつもながら、この唄を歌う時のはま子さんの気合の入れ方が素晴らしい。この歌唱力が、世の中を動かした一因であっただろう。この方の婦人従軍歌はおすすめです。明治の日本人が作った歌の格調の高さに驚きました。
この歌を聴くと涙出ます🇯🇵渡辺はま子先生🇯🇵
余裕たっぷりの声量ですね。これが、日本の流行歌の原点ですね。ありがとう!
父は満州に行かされたみたい!兵隊さんお疲れさまでした。涙なしでは聴いておれません😢
志村けんさんの訃報からドリフのコント経由で来ました。涙が出ました。シベリア抑留された叔父の話を思い出しました。
日本兵を釈放してくれたキリノ大統領に心から感謝致します。同胞が帰って来れた事はフィリピン国民にお礼申し上げます。
博士ちゃんみてこの曲を知りました。いわゆるB,C級戦犯で死刑判決になり収監されたのでしょう。遠くない昔に祖国の未来のために戦い、犠牲になろうとしていた方々がいたことを忘れてはいけない。戦争のいい悪いは別としてありがとうございます
平成生まれですが、なんか、引き込まれますね戦争は反対ですが自国は守らないと、友人は助けます無ぬふりはできません!
数年前、フジテレビで同名のドラマが放送されたが、ここで初めてこうした悲しい事実があったことを知りました。無念の強制的な死に追いやられた若者たちを思うと、胸が張り裂けんばかりですが、同時に今のわれわれの幸せは彼らの尊い犠牲の上にある、とも思うのです。その気持ちは武井さんと同じです。このごろまた時代がおかしくなってきました。再び、このような惨禍をつくらないために、世論に訴えていくのも自分の務め、と思っております。
本当に効いていると胸にしみて涙腺が~~ 自分は1947年生まれだけど感動を致します。
当時の軍部の意向が如何あったにしても、ひたすら お国のため、故郷のため家族のためと信じきって つらい戦いに心身を捧げた 先人のおもいを、偲ぶとき現在の満ち足りた暮らしに 申し訳なく そして感謝の気持ちをささげたいまた 先人の尽くしがたいご苦労を 決して忘れてはならないとおもいます
正に同感です。
感謝なんかせえへんで!
教誨師がキリノ大統領にこの歌のオルゴールを聞かせたらじっと聞いていた大統領がこの悲しい歌は何ですかと聞いてモンテンルパの死刑囚の歌と説明したら大統領は自分の妻と娘が日米軍の戦闘の犠牲となり死んだと云いました。そのあと少しして全員死刑囚が釈放されたのです。唄の力のすごさを物語る悲しい話です。
MrSss333hhh
MrSss333hhh 。。。 とドリゴーセレナーで
ドリゴーセレナーで
ドゥテルテ大統領も良く言ってるじゃん。私の息子達、私の娘達。大統領がそういう時、それは多くの国民の事なんだよ。
当時の歌手は戦地慰問とかして身の危険に晒された事もあったそうですからね。その中でも彼女は戦争が終わって7年経っても未だフィリピンで戦犯拘束されていた日本軍兵士の釈放に一役買ったそうですから凄い人ですよ。
ぴかぽん 映画~大日本帝国本当だったんですね~創作かと思っていた
@Françoise Arneur 東京裁判の戦犯は戦勝国に対する戦犯であり本当の意味での戦犯ではありません。日本人を無謀な戦争に徴兵した罪であれば当然東條などは裁かれるでしょうけどね。
@Mein Führer 意味合いとして、マニラのBC級戦犯は現地の告発を基として犯罪行為の実行者が中心に裁かれた。東京裁判は、戦勝国と戦争をしたという意味で指導者を裁いたと思っているのですが、違うのでしょうか。詳しそうなので、教えてほしいです。
@Mein Führer ごめんなさい、聞く相手を間違えたみたいです。一面だけを見ていると思っていませんでした。
この歌のエピソードを聞いて涙が出ました。
素晴らしい歌声ですね。フィリピンにも、何度も慰問に訪れたとか。立派でしたね。
作曲者伊藤さんの後輩です。聞くたびに涙がねあふれてくるんです。異国の丘と双璧。もうこのような歌が無いよう明照殿で・・・。
泣けます🎵すごいじわありがなちとあらありがと
昨日は、渡辺はま子さんの命日でお墓参りに行きました、若いファンの方が来てました、とても嬉しいです
若い方がねぇー、良かったですね。このような歌手・歌・その背景を次の世代に繋いでくださると思うと、心休まります。
有難う御座います、実は私霊感が強く昨年の3月に初めてお墓に行きました、やっと探して、日本橋きみ栄えさんの紹介でした、初めてお墓参りに行った平井に亡くなられた、はま子さんが私も家に来たのです紺色がイヤリングを付けていました、ずっとハンカで涙拭っていました夜中まで昔の話しをして、いい思い出になりました、現在も毎日亡くなられた方々が来ます子供のころは怖かったが現在はもう平気になりました
日本に生還でき、家族と抱き合い涙を流すのが本当の気持ちだったんだなと改めて思います。私の父の世代はいやおうなく戦地に送られ、送り出す側の両親や兄弟姉妹たちも勇ましく見せなければならなかったそうです。本音は真反対だった人のほうが多かったと祖母は言っていました。マニラ郊外のモンテンルパ「現在のニュービリビッド」刑務所に収監されて死刑判決を受けた日本兵のほとんどが無事に日本に帰還できたのは、当時の刑務所長アルフレド・ブニエ氏のヒューマニズムとキリノ大統領の決断だったことを忘れてはならないと思います。
この歌の作詞は私の縁戚に当たる方で捕虜になりながらも無事帰国出来た方だと聞いてます。私もうたい続けて行きます。
残念ながら亡くなった方々がいるそうです3月31日に渡辺はま子のお墓参り行った時にはま子さんが家に来てくれました、子供の頃より亡くなった人が見えます、その時モンテンルパに行く約束しました、親戚の方によろしく言って下さい
申し上げにくいことですが、モンテンルパに収容されていたのは、捕虜でなく裁判で戦争犯罪者とされた方々です。あの間違いを二度と起こすまい、という気持ちで書かせてもらいました。
@@井手由多加 >渡辺はま子のお墓参り行った時にはま子さんが家に来てくれました、・・・・・・って失礼ながら、はまこさんの幽霊ですか?
今、サンドイッチマンの博士ちゃんで昭和の泣ける歌で紹介してました。泣けます。
小さい子供の頃から、この歌を聞くと何故か心に込み上げて来る物が有る。何故なんだろう。
すばらしい声量ですね!
渡辺はま子は偉い人でした。「この歌のヒットや渡辺はま子を始め、加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、すでに同曲をおさめたオルゴールを加賀尾から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が計られ、実現した。(Wikipediaより)」
あたたかい言葉身にしみます私は井手と申します50年前に、渡邊はま子に必ず養子にと言われたのに、行かなかったのです私が行ってたら焼身自殺を、しなかったと思います、やっとお墓参りをして、お詫びが出来ました、3月31日に行って来たら何と、その夜に私の前に立って居ました、ビックリしました明け方まで昔の話しをして、ユーチューブで昔の曲を、流してあげました、昔から亡くなった人が視えるので、来年は意志を、ついでモンテンルパに供養に行く約束を、しました、現在お坊さんなので、振り返れば私の旅行はすべて日本兵の供養でした、グアムがかなりつらかったのです、左側の肘を怪我して亡くなった兵士が身体に入ってウジがわいているのが感じかなり私も痛かったのです教会の隣の芝生に十人並べられて銃殺されるのも視えました、こんなこと、今の方はわからないですね私はそう言う方々を、日本に送ってやる活動を、ずっとやって来ました、もちろん奉仕です、もう老人です今度が最後かな、勝手にすいません、私もすぐ泣くのです、
自分の近い祖先代田銀太郎さんの思いを思うと、なんか泣けてきます。
母がよく歌った。けれど母の最初旦那さんが、戦争に行って戦死です。中国で、たぶん?そんな母も、亡くなった。
私はコロナが落ち着いたら亡くなった方々の供養に行きます、20代からはじめた供養の旅もいよいよ最後です、私ももうもう72歳になります、まだまだ、浮遊霊がいます霊感があるので、犠牲者の兵隊さんの供養に行きます、
戦犯として、モンテンルパの強制収容所に入れられ死刑を待つ気持ちは計り知れないものだと思いますでも、この歌がフィリピンの大統領の気持ちを動かした凄い歌です
キリノ大統領は家族を日本軍に殺されているにも拘わらず戦犯を日本に送還してくれたのです。
@@芦川正夫 人そのものが悪いのではなく、戦争と言うものが悪い昔は苦労人がいて人情もあった
背景に映し出される復員兵の家族との再会・・・・よく聞かされました。聞かされる度にに、語りながらもまた、思い起こしては涙するかつての銃後の皇国皇民たちの姿が思い出されて、泣けて仕方ないです。 まだ子供だった私には終戦記念日と昭和大帝陛下のご臨席する戦没者慰霊のお言葉がなぜかよみがえってきました。 「耐えがたきをたえ、忍び難きをしのび・・・・」その終戦の御詔勅を畏くも昭和大帝より発せられまするに、わが父叔父と銃後の国防の愛国夫人や遺族の母となった、一族の在りし日の戦後間もない時が、堰を切ったようにめぐりました。 戦争を終わらせれば平和になる・・・・ 狂ったように、心にもない、確信のない自信を植え付けられて、名をも罵倒されてきた日本人が、よくぞここまで、世界随一の経済大国へとなしえたか? とりもなおさず、日本の一番、世界に胸を張れた戦前と、戦中戦後と一番不幸を味わったかつての皇国皇民たち、お父さんお母さんおじいさんおばあさん。おじさんおばさんのお兄さんお姉さんたちの、極貧と屈辱怒号と罵声の中を、堂々たる日本人の振舞を忘れずに正直にそしてつつましやかに、毅然として生き抜いてこられたからこその今があります。 かつて、悪しく敬うために、現人神と戦意高揚のために利用され、現人神すなわち、神と祭られたる聖上陛下ではありましたが、私にしてまいりますれば、「現人神」とは、昭和大帝陛下に及ばず、まさに、あの靖国神社にまつられた戦没の英霊たち幾百万の御柱、命霊たる、昭和の現人神の命を的として神上がられましたる姿によって、なをも、奇しくも命を長らえて故国に帰参したる皇軍兵士たちの、戦後の振舞は、まことに聖上陛下ともに、御国の復興と再建に尽くされたその御威光にあります。 まことに、昭和の現人神とともに、素晴らしき戦後の経済復興、高度成長。ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた奇跡の日本の交流は、そのカギとなるものが、この映像に深く深くしまわれておるのであります。 戦後いかなる国において、日本国ほどに、不死鳥がごとくよみがえるはおろか戦前の一等国以上のその振る舞いと在り様は、もはや日本が神国であると考えなければ答えを見出せない奇跡を積み重ねてまいりました。 まさにメシア国日本となった今、日本が世界に進歩と向上そして、世界平和に貢献してまいったその証が、特定アジアによる、いまだ終わらぬ大戦の遺恨と恩讐を受けてあることにつけ、また、今や世界から日本のお出ましを待ち望まれる姿を鑑みまするに、まさに、今や日本国は神州不滅のメシア国であるという確信を得ました。 私が昭和の三十年に生まれてよりこの方、つぶさにこれを見聞し、確信したことのその答えをご披露させていただきました。 言いたいことはあろう、ご批判もあろうが、これこそが、まさに、日本そのものなのだと思います。 日本国弥栄!
+yasaka Keiji とりもなおさず、日本の一番、世界に胸を張れた戦前と、戦中戦後と一番不幸を味わったかつての皇国皇民たち、お父さんお母さんおじいさんおばあさん。おじさんおばさんのお兄さんお姉さんたちの、極貧と屈辱怒号と罵声の中を、堂々たる日本人の振舞を忘れずに正直にそしてつつましやかに、毅然として生き抜いてこられたからこその今があります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・yasaka Keiji さんの 上の お言葉 まさに同感 感銘を受けました今の 日本国民 先人たちのご苦労の上に 成り立っています感謝の心と共に 誇りとしていきたいもんです
+武井健二 殿 こちらこそ、恐縮の限りです。昭和人としての、平成の世に伝えなければならないものは、まだまだあります。友の、日本の再建国の道案内人として頑張っていきたいですね。 ヨロシク。
ー
フィリピン遺族会「曙光会」の動画で歌詞の経緯を知りました。燕は季節を伝えてくれます。音楽は季節や情景を、歌は人の心を運んでくれます。日本の歌謡界も再び日本人の心を取り戻すべきではないでしょうか。
来年コロナが落ち着いたら意志を継いでフィリピンモンテンルパに供養の旅に行きます
白人の植民地支配を打ち破った日本の偉業を評価してほしいと思います。先人たちの苦行に思いを寄せる日々です。
アホ!ドアホ!!
まごこころは、必ず伝わる。心は、ここにあると信じています。
渡辺はま子の1981年の歌謡祭で歌ってたのを少し見て、もっと聞きたくなったのよ!日本の土を踏むまで。
いやぁ、凄い心が動かされます。僕の亡き祖父母、曽祖父母は、苦労人でした。僕の亡き祖父は、戦地に行き、無事に帰ってきて、4人の子を産みました。その一人が、僕の父です。
今日地元民放ラジオでこの曲がリクエストされた。音源を大切にする局なので、こんな曲があったんだ…という思いとNHK・R1の日曜午前の番組でもかけるべきと感じた。
吉村昭の「プリズンの満月」を読んで、ここに来ました。すごい人なんですね。『歴史』にしてはいけないですよね。
私も今プリズンの満月を読んでここに来ました。
最後のシーンが泣けます。息子が母ちゃんの肩を抱くシーンです。
涙で画像が曇る。作曲は私の先輩。もうこんな風景は見たくないね。真実そう思います。あぁ、。
今更ながらですが、素晴らしい! これぞ、原点。
戦争は多くの人が犠牲になりました。言葉では言い表せないです。
モンテンルパは高崎市の友好年ですこの歌を知ったのは小学四年生のときです21歳男性
日本人の魂の歌です。
日本の土を踏むまでは。我慢してたけどこらえきれなかった。絶望の中の希望の言葉だったのかと思うと、もう…
涙がでる。
ドリフの映像見てきました。これは本当に『ダメです、唄えませ~ん』です。
我が家の息子も ドリフのコント覚えてました。きっと 印象的だったんでしょね!この話 親の私が知らなかったです。それを 加藤ちゃんが 言ったんですね。それも 感銘です。
加藤茶がこんとで泣きながら歌っていたシーンは知らないですから!
( ≧∀≦)ノ知っとるやん。てか私はそれで知ったでー。
歌えませんっ
👓 ダメでッす....歌えッません...
今パソコン💻聞いています、心が痛いです。
この曲とほぼ同じ年に、やはり、戦犯解放の歌がありました。『とどけよ麦笛』という曲で、コロンビアから出ています。血書にしたためた乙女の思いが込められています。ぜひ、RUclipsにて『とどけよ麦笛』で検索してみてください。
oyfkkkad570-2 Osamu 美 い
oyfkkkad570-2 Osamu 美
母方の祖母が歌って居ました。祖父はフィリピンで任を勤め、戦局末期サイパンに向かう途中に撃沈され亡くなったと云う話しです。遺骨も何も在りません。祖母はそんな祖父を偲んでモンテンルパの夜は更けてを口ずさんで居たのかも知れません。
ラグナ州ムンテンルパの刑務所は未だにあります。。20数年前に嫁の父親が所長でいたので、行きましたが、日本人が収監されてました。聞けば裁判も無く外務省役人も面会すら来てもらってないと。故に、日本人皆さん覚せい剤など手を出さない事、難儀しますよ。
子供や婦人を殺されたフィリピンの大統領は日本人を処刑はしたが解放もした、慈悲深い!なかなかできることではない!
それが戦争です。赤紙1枚で戦場に駆り出された普通の人がほとんど、死刑にされ無ければならない人はほとんどいなかった。命令され殺した人もいたでしょう。戦争は悲しいですねしてはいけない。でも自分の国は町は故郷は自分で守らなければならない。能天気では守れない。
優しい歌
∮ 良い楽曲ですねー (^^♪
実にすべて良いですね🎵
時代が遷っても親子の絆は変わらない
何だたんですかねこの戦争悲しい唄です😤
博士ちゃんみて来たけどいい曲すぎて泣ける
昭和27年の渡辺浜子さんの歌です。フィリピンのもんてんるぱ
続きです。モンテンルパの刑務所で死刑囚となった元日本兵、100名を救った歌です。裁判無しで、指先という行動だけで、死刑囚となりました。この人たちによって作詞されました。奇跡的に、生還を果たした日本兵を救った歌です。
戦争はしてはいけません。ウクライナにもロシアにもこのような思いをしてる人がいるはず。
大きい戦争を回避するために小さい戦争をするそれもまた平和思考
この曲は、秋田歩兵第十七連隊の伊藤中尉が作曲してます、
祖父が良く歌ってました。
平成生まれ昭和、どんな時代だったのか
やっぱり先人たちは素晴らしい
私が生まれる2年前の曲です
郷愁ですね
今こそ、日本のヤンママ達にこの曲を聞いてもらいたい。
渡辺はま子先生は国土です日本人の鏡です🇯🇵
今の日本があるのはこの人がおられたからで、す
心の叫び。。母は強し、涙無しでは聞けません。
この当時こんな大きな船が有ったんですね、満州の関東軍指令部の今も有るがその立派な事…先輩達の立派な事、やっぱり力が付くと他国を攻めたく成るのかなー、今の日本は平和ボケだが周辺国は脅威、将来有事にどう対処したら良いか!
1952年に歌われていたこの歌の背景が失われ、それ以上に自虐史観で歴史を教えている。この長い年月の日本教育は正解だったのか、どこを向いての教育かと嘆じえない。
法人会を通して、国?税の納付、納付意識の高揚に関われたのは社会人としての誇りと義務であると日々の活動に 遣り甲斐を感じ、またオピニオンリーダーてしての自己確立に充実感を感じている。
昭和二十一年頃朝の尋ね人時間に音楽の春の曲がかかっていたのを思い出した
世界へ経済進出する今~一切の甘えは許されない~経済戦士とした徴兵制の真っ只中である~其れでも幸せである~
平和ボケした21世紀の若者は、どんな感情を抱くんだろう・・・。君らの先人たちは、断腸の思いの中で過ごして来たんだよ。
最早戦後では無い昭和30年に私は生まれました
直に朝鮮動乱となりまして 再びその地へお伺いを (往年寳ジェンヌ)
戦争はいけない。人格を踏みにじる行為だからだ。
うーむうまい
博士ちゃんでリスペクト✨✨
加茂さくら姉妹の暴言はダメだ あの姉妹は酷い
皆さんは指差し裁判をしってるだろうか?
いま調べて勉強しました。 敗戦国は悲しいアメリカは卑しい
【モンテンルパ刑務所】冤罪の悲劇無実の叫びより(フィリピン戦犯)Philippine Manila→ruclips.net/video/am_zoW1xi5k/видео.html
夜も更けたのでそのようにします
日本国の為に、子孫の為にやむを得ず戦地に赴いて兵士の方々に心から感謝の意を表しますと共に戦死された方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
この歌の由来を聞いた時に涙が溢れ出て止まりませんでした。
日本の兵士を開放し祖国へ帰して頂いたフィリピン大統領に最大の敬意をはらいます。本当に本当にありがとうございます。
31歳で戦争も全く経験してないですが、歌を聴いて泣いたのはこの曲だけです
はま子は真夏なのに振袖を着こんで慰問した、荒城の月も歌わしてもらった、昔の歌手は偉かったと思う、住所も公にしていたし。この方は国民栄誉賞をもらって当然の方だ。
私は戦後生まれです。始めはこの歌の背景、意味が判りませんでした。皆さんのコメントを見させて頂き理解でき、改めて聞きますと戦争に行かれた方々の大変さが判りました。今の平和で繁栄のある日本があるのは先人のみなさんの苦労があればこそだと再認識されました。
ほモッコウバラ
最後まで諦めず、日本の土を踏めてよかったです!涙が出ます。
ものすごく心に響く歌いかた
聞いてたら自然と涙がでてきた……
この曲は、いつ聴いても何度聞いても泣いちゃいます。
この唄を聞く度に自然に涙が浮かんでくる。終戦後約10年も抑留されていたのだ。
素晴らしい!涙なくしては歌えない!
渡辺はま子さん、本当の愛国の士であられました。
@Françoise Arneur そうでした(^o^)
この映像、涙でかすんで見えなかったです。もう一度、二度、三度見ても、復員した兵士を出向えた割烹着姿の母、妹らしい女学生の再会の涙にくれる姿に、やはり涙でかすんで見えませんでした。
戦った徴集兵には何の罪はなかったろう。
一部参謀の暴走と一部兵士の暴走があったことは事実であろうが、山下大将か一身に背負ったと思われる。この歌を聴いたフィリピンが動いてくれた。大部分の兵士に罪はない。総力戦の戦争であったのであるから。
渡辺はま子さんはこの歌は歌うと泣けてしまうのでテレビでは歌えないといっていました、それでも意を決して歌ったのを思い出します。
OKS ガイド クーポン券
戦犯として、収監された、方々の無念さと共に唯一の支えとなった、神の唄です。
涙が出る。本当に本当にご苦労さんでした。よく耐えてくださいました。感謝です。ひたすら感謝です。
何度聞いても、本当に素晴らしいです。
この歌は戦後間もない頃ですが幼いながらもラジオから流れてくるのを何回聴いてことがあります。この歌に心をうたれた時のフィリピン大統領が特別の処置で捕虜を解放されたのは後から知りました。
いつもながら、この唄を歌う時のはま子さんの気合の入れ方が素晴らしい。この歌唱力が、世の中を動かした一因であっただろう。
この方の婦人従軍歌はおすすめです。明治の日本人が作った歌の格調の高さに驚きました。
この歌を聴くと涙出ます🇯🇵渡辺はま子先生🇯🇵
余裕たっぷりの声量ですね。これが、日本の流行歌の原点ですね。ありがとう!
父は満州に行かされたみたい!兵隊さんお疲れさまでした。
涙なしでは聴いておれません😢
志村けんさんの訃報からドリフのコント経由で来ました。涙が出ました。シベリア抑留された叔父の話を思い出しました。
日本兵を釈放してくれたキリノ大統領に心から感謝致します。同胞が帰って来れた事はフィリピン国民にお礼申し上げます。
博士ちゃんみてこの曲を知りました。
いわゆるB,C級戦犯で死刑判決になり収監されたのでしょう。遠くない昔に祖国の未来のために戦い、犠牲になろうとしていた方々がいたことを忘れてはいけない。戦争のいい悪いは別としてありがとうございます
平成生まれですが、なんか、引き込まれますね
戦争は反対ですが自国は守らないと、友人は助けます
無ぬふりはできません!
数年前、フジテレビで同名のドラマが放送されたが、ここで初めてこうした悲しい事実があったことを知りました。無念の強制的な死に追いやられた若者たちを思うと、胸が張り裂けんばかりですが、同時に今のわれわれの幸せは彼らの尊い犠牲の上にある、とも思うのです。その気持ちは武井さんと同じです。このごろまた時代がおかしくなってきました。再び、このような惨禍をつくらないために、世論に訴えていくのも自分の務め、と思っております。
本当に効いていると胸にしみて涙腺が~~ 自分は1947年生まれだけど感動を致します。
当時の軍部の意向が如何あったにしても、ひたすら お国のため、故郷のため家族のため
と信じきって つらい戦いに心身を捧げた 先人のおもいを、偲ぶとき
現在の満ち足りた暮らしに 申し訳なく そして感謝の気持ちをささげたい
また 先人の尽くしがたいご苦労を 決して忘れてはならないとおもいます
正に同感です。
感謝なんかせえへんで!
教誨師がキリノ大統領にこの歌のオルゴールを聞かせたらじっと聞いていた大統領がこの悲しい歌は何ですかと聞いてモンテンルパの死刑囚の歌と説明したら大統領は自分の妻と娘が日米軍の戦闘の犠牲となり死んだと云いました。そのあと少しして全員死刑囚が釈放されたのです。唄の力のすごさを物語る悲しい話です。
MrSss333hhh
MrSss333hhh 。。。
とドリゴーセレナーで
ドリゴーセレナーで
ドゥテルテ大統領も良く言ってるじゃん。
私の息子達、私の娘達。
大統領がそういう時、それは多くの国民の事なんだよ。
当時の歌手は戦地慰問とかして身の危険に晒された事もあったそうですからね。その中でも彼女は戦争が終わって7年経っても未だフィリピンで戦犯拘束されていた日本軍兵士の釈放に一役買ったそうですから凄い人ですよ。
ぴかぽん 映画~大日本帝国本当だったんですね~創作かと思っていた
@Françoise Arneur 東京裁判の戦犯は戦勝国に対する戦犯であり本当の意味での戦犯ではありません。
日本人を無謀な戦争に徴兵した罪であれば当然東條などは裁かれるでしょうけどね。
@Mein Führer
意味合いとして、マニラのBC級戦犯は現地の告発を基として犯罪行為の実行者が中心に裁かれた。
東京裁判は、戦勝国と戦争をしたという意味で指導者を裁いたと思っているのですが、違うのでしょうか。詳しそうなので、教えてほしいです。
@Mein Führer
ごめんなさい、聞く相手を間違えたみたいです。一面だけを見ていると思っていませんでした。
この歌のエピソードを聞いて涙が出ました。
素晴らしい歌声ですね。フィリピンにも、何度も慰問に訪れたとか。
立派でしたね。
作曲者伊藤さんの後輩です。聞くたびに涙がねあふれてくるんです。異国の丘と双璧。もうこのような歌が無いよう明照殿で・・・。
泣けます🎵すごいじわありがなちとあらありがと
昨日は、渡辺はま子さんの命日でお墓参りに行きました、若いファンの方が来てました、とても嬉しいです
若い方がねぇー、良かったですね。
このような歌手・歌・その背景を次の世代に繋いでくださると思うと、心休まります。
有難う御座います、実は私霊感が強く昨年の3月に初めてお墓に行きました、やっと探して、日本橋きみ栄えさんの紹介でした、初めてお墓参りに行った平井に亡くなられた、はま子さんが私も家に来たのです紺色がイヤリングを付けていました、ずっとハンカで涙拭っていました夜中まで昔の話しをして、いい思い出になりました、現在も毎日亡くなられた方々が来ます子供のころは怖かったが現在はもう平気になりました
日本に生還でき、家族と抱き合い涙を流すのが本当の気持ちだったんだなと改めて思います。私の父の世代はいやおうなく戦地に送られ、送り出す側の両親や兄弟姉妹たちも勇ましく見せなければならなかったそうです。本音は真反対だった人のほうが多かったと祖母は言っていました。マニラ郊外のモンテンルパ「現在のニュービリビッド」刑務所に収監されて死刑判決を受けた日本兵のほとんどが無事に日本に帰還できたのは、当時の刑務所長アルフレド・ブニエ氏のヒューマニズムとキリノ大統領の決断だったことを忘れてはならないと思います。
この歌の作詞は私の縁戚に当たる方で捕虜になりながらも無事帰国出来た方だと聞いてます。私もうたい続けて行きます。
残念ながら亡くなった方々がいるそうです3月31日に渡辺はま子のお墓参り行った時にはま子さんが家に来てくれました、子供の頃より亡くなった人が見えます、その時モンテンルパに行く約束しました、親戚の方によろしく言って下さい
申し上げにくいことですが、モンテンルパに収容されていたのは、捕虜でなく裁判で戦争犯罪者とされた方々です。あの間違いを二度と起こすまい、という気持ちで書かせてもらいました。
@@井手由多加
>渡辺はま子のお墓参り行った時にはま子さんが家に来てくれました、・・・
・・・って失礼ながら、はまこさんの幽霊ですか?
今、サンドイッチマンの博士ちゃんで昭和の泣ける歌で紹介してました。泣けます。
小さい子供の頃から、この歌を聞くと何故か心に込み上げて来る物が有る。何故なんだろう。
すばらしい声量ですね!
渡辺はま子は偉い人でした。「この歌のヒットや渡辺はま子を始め、加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、すでに同曲をおさめたオルゴールを加賀尾から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が計られ、実現した。(Wikipediaより)」
あたたかい言葉身にしみます私は井手と申します50年前に、
渡邊はま子に必ず養子にと言われたのに、行かなかったのです私が行ってたら焼身自殺を、しなかったと思います、やっとお墓参りをして、お詫びが出来ました、3月31日に行って来たら何と、その夜に私の前に立って居ました、ビックリしました明け方まで昔の話しをして、
ユーチューブで昔の曲を、流してあげました、昔から亡くなった人が視えるので、来年は意志を、ついでモンテンルパに供養に行く約束を、しました、現在お坊さんなので、振り返れば私の旅行はすべて日本兵の供養でした、グアムがかなりつらかったのです、左側の肘を怪我して亡くなった兵士が身体に入ってウジがわいているのが感じかなり私も痛かったのです教会の隣の芝生に十人並べられて銃殺されるのも視えました、こんなこと、今の方はわからないですね私はそう言う方々を、日本に送ってやる活動を、ずっとやって来ました、もちろん奉仕です、
もう老人です今度が最後かな、勝手にすいません、私もすぐ泣くのです、
自分の近い祖先代田銀太郎さんの思いを思うと、なんか泣けてきます。
母がよく歌った。けれど母の最初旦那さんが、戦争に行って戦死です。中国で、たぶん?そんな母も、亡くなった。
私はコロナが落ち着いたら亡くなった方々の供養に行きます、
20代からはじめた供養の旅も
いよいよ最後です、私ももう
もう72歳になります、まだまだ、浮遊霊がいます霊感があるので、犠牲者の兵隊さんの供養に行きます、
戦犯として、モンテンルパの強制収容所に入れられ死刑を待つ気持ちは
計り知れないものだと思います
でも、この歌がフィリピンの大統領の気持ちを動かした
凄い歌です
キリノ大統領は家族を日本軍に殺されているにも拘わらず戦犯を日本に送還してくれたのです。
@@芦川正夫
人そのものが悪いのではなく、
戦争と言うものが悪い
昔は苦労人がいて人情もあった
背景に映し出される復員兵の家族との再会・・・・よく聞かされました。聞かされる度にに、語りながらもまた、思い起こしては涙するかつての銃後の皇国皇民たちの姿が思い出されて、泣けて仕方ないです。
まだ子供だった私には終戦記念日と昭和大帝陛下のご臨席する戦没者慰霊のお言葉がなぜかよみがえってきました。
「耐えがたきをたえ、忍び難きをしのび・・・・」その終戦の御詔勅を畏くも昭和大帝より発せられまするに、わが父叔父と銃後の国防の愛国夫人や遺族の母となった、一族の在りし日の戦後間もない時が、堰を切ったようにめぐりました。
戦争を終わらせれば平和になる・・・・
狂ったように、心にもない、確信のない自信を植え付けられて、名をも罵倒されてきた日本人が、よくぞここまで、世界随一の経済大国へとなしえたか?
とりもなおさず、日本の一番、世界に胸を張れた戦前と、戦中戦後と一番不幸を味わったかつての皇国皇民たち、お父さんお母さんおじいさんおばあさん。おじさんおばさんのお兄さんお姉さんたちの、極貧と屈辱怒号と罵声の中を、堂々たる日本人の振舞を忘れずに正直にそしてつつましやかに、毅然として生き抜いてこられたからこその今があります。
かつて、悪しく敬うために、現人神と戦意高揚のために利用され、現人神すなわち、神と祭られたる聖上陛下ではありましたが、私にしてまいりますれば、「現人神」とは、昭和大帝陛下に及ばず、まさに、あの靖国神社にまつられた戦没の英霊たち幾百万の御柱、命霊たる、昭和の現人神の命を的として神上がられましたる姿によって、なをも、奇しくも命を長らえて故国に帰参したる皇軍兵士たちの、戦後の振舞は、まことに聖上陛下ともに、御国の復興と再建に尽くされたその御威光にあります。
まことに、昭和の現人神とともに、素晴らしき戦後の経済復興、高度成長。ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた奇跡の日本の交流は、そのカギとなるものが、この映像に深く深くしまわれておるのであります。
戦後いかなる国において、日本国ほどに、不死鳥がごとくよみがえるはおろか戦前の一等国以上のその振る舞いと在り様は、もはや日本が神国であると考えなければ答えを見出せない奇跡を積み重ねてまいりました。
まさにメシア国日本となった今、日本が世界に進歩と向上そして、世界平和に貢献してまいったその証が、特定アジアによる、いまだ終わらぬ大戦の遺恨と恩讐を受けてあることにつけ、また、今や世界から日本のお出ましを待ち望まれる姿を鑑みまするに、まさに、今や日本国は神州不滅のメシア国であるという確信を得ました。
私が昭和の三十年に生まれてよりこの方、つぶさにこれを見聞し、確信したことのその答えをご披露させていただきました。
言いたいことはあろう、ご批判もあろうが、これこそが、まさに、日本そのものなのだと思います。
日本国弥栄!
+yasaka Keiji とりもなおさず、日本の一番、世界に胸を張れた戦前と、戦中戦後と一番不幸を味わったかつての皇国皇民たち、お父さんお母さんおじいさんおばあさん。おじさんおばさんのお兄さんお姉さんたちの、極貧と屈辱怒号と罵声の中を、堂々たる日本人の振舞を忘れずに正直にそしてつつましやかに、毅然として生き抜いてこられたからこその今があります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・yasaka Keiji さんの 上の お言葉 まさに同感 感銘を受けました今の 日本国民 先人たちのご苦労の上に 成り立っています感謝の心と共に 誇りとしていきたいもんです
+武井健二 殿
こちらこそ、恐縮の限りです。昭和人としての、平成の世に伝えなければならないものは、まだまだあります。友の、日本の再建国の道案内人として頑張っていきたいですね。
ヨロシク。
ー
フィリピン遺族会「曙光会」の動画で歌詞の経緯を知りました。
燕は季節を伝えてくれます。音楽は季節や情景を、歌は人の心を運んでくれます。
日本の歌謡界も再び日本人の心を取り戻すべきではないでしょうか。
来年コロナが落ち着いたら意志を継いでフィリピンモンテンルパに供養の旅に行きます
白人の植民地支配を打ち破った日本の偉業を評価してほしいと思います。
先人たちの苦行に思いを寄せる日々です。
アホ!ドアホ!!
まごこころは、必ず伝わる。心は、ここにあると信じています。
渡辺はま子の1981年の歌謡祭で歌ってたのを少し見て、もっと聞きたくなったのよ!日本の土を踏むまで。
いやぁ、凄い心が動かされます。僕の亡き祖父母、曽祖父母は、苦労人でした。僕の亡き祖父は、戦地に行き、無事に帰ってきて、4人の子を産みました。その一人が、僕の父です。
今日地元民放ラジオでこの曲がリクエストされた。音源を大切にする局なので、こんな曲があったんだ…という思いとNHK・R1の日曜午前の番組でもかけるべきと感じた。
吉村昭の「プリズンの満月」を読んで、ここに来ました。すごい人なんですね。
『歴史』にしてはいけないですよね。
私も今プリズンの満月を読んでここに来ました。
最後のシーンが泣けます。息子が母ちゃんの肩を抱くシーンです。
涙で画像が曇る。作曲は私の先輩。もうこんな風景は見たくないね。真実そう思います。あぁ、。
今更ながらですが、素晴らしい! これぞ、原点。
戦争は多くの人が犠牲になりました。言葉では言い表せないです。
モンテンルパは高崎市の友好年です
この歌を知ったのは小学四年生のときです
21歳男性
日本人の魂の歌です。
日本の土を踏むまでは。我慢してたけどこらえきれなかった。絶望の中の希望の言葉だったのかと思うと、もう…
涙がでる。
ドリフの映像見てきました。
これは本当に『ダメです、唄えませ~ん』です。
我が家の息子も ドリフのコント
覚えてました。
きっと 印象的だったんでしょね!
この話 親の私が知らなかったです。
それを 加藤ちゃんが 言ったんですね。
それも 感銘です。
加藤茶がこんとで泣きながら歌っていたシーンは知らないですから!
( ≧∀≦)ノ知っとるやん。てか私はそれで知ったでー。
歌えませんっ
👓 ダメでッす....歌えッません...
今パソコン💻聞いています、心が痛いです。
この曲とほぼ同じ年に、やはり、戦犯解放の歌がありました。『とどけよ麦笛』という曲で、コロンビアから出ています。血書にしたためた乙女の思いが込められています。ぜひ、RUclipsにて『とどけよ麦笛』で検索してみてください。
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母方の祖母が歌って居ました。祖父はフィリピンで任を勤め、戦局末期サイパンに向かう途中に撃沈され亡くなったと云う話しです。遺骨も何も在りません。祖母はそんな祖父を偲んでモンテンルパの夜は更けてを口ずさんで居たのかも知れません。
ラグナ州ムンテンルパの刑務所は未だにあります。。20数年前に嫁の父親が所長でいたので、行きましたが、日本人が収監されてました。聞けば裁判も無く外務省役人も面会すら来てもらってないと。故に、日本人皆さん覚せい剤など手を出さない事、難儀しますよ。
子供や婦人を殺されたフィリピンの大統領は日本人を処刑はしたが解放もした、慈悲深い!なかなかできることではない!
それが戦争です。赤紙1枚で戦場に駆り出された普通の人がほとんど、死刑にされ無ければならない人はほとんどいなかった。命令され殺した人もいたでしょう。戦争は悲しいですねしてはいけない。でも自分の国は町は故郷は自分で守らなければならない。能天気では守れない。
優しい歌
∮ 良い楽曲ですねー (^^♪
実にすべて良いですね🎵
時代が遷っても親子の絆は変わらない
何だたんですかねこの戦争悲しい唄です😤
博士ちゃんみて来たけどいい曲すぎて泣ける
昭和27年の渡辺浜子さんの歌です。フィリピンのもんてんるぱ
続きです。モンテンルパの刑務所で死刑囚となった元日本兵、100名を救った歌です。裁判無しで、指先という行動だけで、死刑囚となりました。この人たちによって作詞されました。奇跡的に、生還を果たした日本兵を救った歌です。
戦争はしてはいけません。
ウクライナにもロシアにも
このような思いをしてる人がいるはず。
大きい戦争を回避するために小さい戦争をする
それもまた平和思考
この曲は、秋田歩兵第十七連隊の伊藤中尉が作曲してます、
祖父が良く歌ってました。
平成生まれ昭和、どんな時代だったのか
やっぱり先人たちは素晴らしい
私が生まれる2年前の曲です
郷愁ですね
今こそ、日本のヤンママ達にこの曲を聞いてもらいたい。
渡辺はま子先生は国土です日本人の鏡です🇯🇵
今の日本があるのはこの人がおられたからで、す
心の叫び。。母は強し、涙無しでは聞けません。
この当時こんな大きな船が有ったんですね、満州の関東軍指令部の今も有るがその立派な事…先輩達の立派な事、やっぱり力が付くと他国を攻めたく成るのかなー、今の日本は平和ボケだが周辺国は脅威、将来有事にどう対処したら良いか!
1952年に歌われていたこの歌の背景が失われ、それ以上に自虐史観で歴史を教えている。この長い年月の日本教育は正解だったのか、どこを向いての教育かと嘆じえない。
法人会を通して、国?税の納付、納付意識の高揚に関われたのは
社会人としての誇りと義務であると日々の活動に 遣り甲斐を感じ
、またオピニオンリーダーてしての自己確立に充実感を感じている。
昭和二十一年頃朝の尋ね人時間に音楽の春の曲がかかっていたのを思い出した
世界へ経済進出する今~一切の甘えは許されない~経済戦士とした徴兵制の真っ只中である~其れでも幸せである~
平和ボケした21世紀の若者は、どんな感情を抱くんだろう・・・。
君らの先人たちは、断腸の思いの中で過ごして来たんだよ。
最早戦後では無い昭和30年に私は生まれました
直に朝鮮動乱となりまして 再びその地へお伺いを (往年寳ジェンヌ)
戦争はいけない。人格を踏みにじる行為だからだ。
うーむうまい
博士ちゃんでリスペクト✨✨
加茂さくら姉妹の暴言はダメだ あの姉妹は酷い
皆さんは指差し裁判をしってるだろうか?
いま調べて勉強しました。
敗戦国は悲しい
アメリカは卑しい
【モンテンルパ刑務所】冤罪の悲劇無実の叫びより(フィリピン戦犯)Philippine Manila→ruclips.net/video/am_zoW1xi5k/видео.html
夜も更けたのでそのようにします