その話はGP Car Stoyのティレルホンダ編のジョージ・ライトン氏のインタビューでハッキリ証言されてますよ。決してホンダの面々は認めないだろうが、マクラーレンに忖度してパワーが意図的に下げられていてその時のポストレスウェイト氏が激怒していたと話されてますよ。しかも、編集員がその話を当時の責任者の白井裕氏に話すなり驚いた表情で完全否定されてましたが。ティレルからフットワークにかけては実質無限主導のV10エンジンは使い廻し同然なので92~93シーズンは総合面での重量過多のハンデが目立って苦労してたそうです。そもそもこのエンジン自体が89年シーズンマクラーレン仕様のRA109Eベースで信頼性重視で開発されたので大きく重いというハンデが付き纏ってました。特にロータスに供給した新仕様のZA5Cエンジンでジョニー・ハーバート氏の予選4位(1994年イタリアGP)に押し上げてから一気に優勝を狙えるエンジンになったと思ってます。この辺りの苦労もティレルホンダ時代からモデナ選手担当として派遣されていた坂井典次氏が述懐してましたね。
恐らくHBエンジンは当時から牛耳っていたブリアトーレ氏&ウォーキンショー氏が独占供給を盾に許さなかったのでは。使いたければもっと金払えって恫喝まがいに言われそうですね。ただ、新参ジョーダンがHBエンジン獲得できたのか未だもって謎なので、また機会求めてジョーダンフォード(GP Car Story)の項で調べてみようかな(笑)
中嶋さん引退ホンダが去った後も片山右京×ヤマハのタッグまでスポンサーを勤めたカルビーはえらいな❗
92年は1年落ちにも関わらずエンジンとタイヤが変わったことによってあれだけ活躍出来たのだから、素性は悪くないマシンだったんでしょうね。
昔は雑な時代だったのだろうと思いました
それを言っちゃあ、
93年の右京が悲惨過ぎた、
91年の020にマクラーレン開発済のリヤセクション一式を譲受けたならば、少なくともミッショントラブルのリタイヤがなくなり、バットマンディフューザーの玉石も自前で可能だったから、相当上位に食い込めただろう。
とは言え、ホンダ内のお家事情が一番痛かった。
(V12絶対崇拝の価値観でV10が抜きん出る事はまかりならない、セナもV10優位性に気付いていて当初はエンジンを元に戻そうとロンデニス共々圧力を掛けていた)
90年の日本GP、亜久里選手の表彰台を見て中嶋悟さんが「来年はオレが有利になる!」と話してましたが、そうはなりませんでしたネ…。当時、ティレルホンダにはワタシも期待していましたし、87年のイギリスGPのホンダ1234の再来を夢見てましたネ…。
日本車らしい故障感
そうでしたね💦でも、020は見た目が最高にかっこよかったです。
ティレルのハイノーズがグランプリデビューした時は、そのかっこよさに衝撃を受けました。
おまけにHONDAエンジンで中嶋がドライブ。スポンサーがEPSON、日本信販、PIAA。。。個人的には勝手に日本代表のF-1だと思って応援していました。
懐かしい・・・。
キビキビとした走りがウリの019の発展型である020、ハイパワーなHONDAエンジン。この組み合わせに1991年シーズン前はワクワクしたものでした。中嶋悟の初表彰台も見れる期待感もハンパなかった。
しかしこれほどマシンバランスが崩れてしまうものなのか、またマシンバランスの重要性が初めて分かったシーズンでもありました。
よくよく考えたら、軽量V8エンジンで作ったシャシーの020、パワーにモノを言わせてたHONDAエンジン。そのエンジンを搭載していたマクラーレンはノウハウがあったが、ティレルにはなかったってことか。輪をかけてピレリータイヤも足を引っ張っていたのはレースを見て明らかでした。
こう言っては何ですが、マクラーレンとの提携とはいえ、中嶋選手がいなければ、、、、、フォードHBエンジンを搭載してトップ5圏内には入れていた可能性も考えてしまいます。
ちなみに1991年のベストバランスマシンはやっぱりFW14だと思います。HONDAエンジンほどパワーはないけどシャシーとの相性がよくエンジンパフォーマンスを最大に出していたと思います。
この年のモナコ予選モデナには痺れたが94年の右京もかっこよかったぜ!
90年の日本Pで、亜久里選手が3位表彰台に立った時、中島選手が「来年は俺の方が良いエンジン来るから」と言ってたことを覚えてます。しかし、エンジンだけ良くてもトータルパッケージが良くなければダメなことを証明してしまいましたね。特にピレリタイヤがひどくて、中島選手が1レースで、何回もタイヤ交換をしていたように記憶しています。
個人的には今のF1と昔のF1が全く別物だということを嫌でもわからせてくれたマシンだと思ってる。この頃はかなりのチームがハイパワーエンジンを積んで死ぬか、コスワースのまま資金難で死ぬかの二択を迫られた。軽量安価なDFVキットカーで中堅・弱小チームが夢を見た時代は終わって、メーカー系ワークスの総力戦に変わっていくんだなって。
この頃からフォードコスワースのDFRでは全く勝負にならなくなり、翌年92年から94年までHBエンジンのカスタマーチームが増えることに(新規参入チームジョーダングランプリの大活躍がDFR供給終了に導く)当時のジョーダンに供給されたエンジンが90年ワークスチームベネトンのワンスペック落ちのシリーズⅢ~シリーズⅣ、それに対してベネトンはシリーズⅤ~シリーズⅥでした。ティレルホンダ誕生の裏で、門外不出のフォードコスワースHBシリーズがカスタマー供給されたのは話題になってましたね。
ブラウンカラーのティレルは当時のF1マシンの中でもかなりカッコいい部類だったと思う。
とにかく年中ピレリタイヤに足を引っ張られてた印象があった。
昔からティレルは金欠状態の時に、もちろん第一線級のマシンではないが何となくそこそこのポテンシャルを発揮するマシンを登場させてるイメージがある。
余談だがブラウンカラーのティレルはホンダエンジン搭載車で戦績こそ悪いがタミヤが1/20のプラモデルを発売した様に「模型映え」するマシンでもあった。
パワーだけじゃ駄目なんだと、本当に思い知らされた一年だった。
今宮純さんも当時シーズンの途中でこの020を酷評していました。
やはり019は非力なDFRとはいえトータルバランスが優れていたんですね。
僕も同じく見てましたね。この辺りからトータルパッケージ有利のウイリアムズルノー&マンセルが台頭して来ますね。改めてエンジン・シャシー・ドライバーが三位一体とならなければF1を制する事は出来ないと実感する年でもありました。
ティレル020ホンダはタラレバでしたね。
タイヤはピレリじゃなくグッドイヤー。
エンジンはホンダV10じゃなく無限V8。
中嶋悟も一度は表彰台に立てたかもしれません。
メインスポンサーのブラウンももう1年残留したかも。
私は深夜観ていました。
懐かしい思い出です。
前年90年の日本GPで亜久里が先に表彰台に上がったとき、中嶋が『でも来年はたぶん俺のほうが可能性上がるから』と悔しさの中に希望を見出だしていたのに、91年は本当に残念でした。
きっと中嶋本人より、ファンのほうが悔しかったですよね。
せっかくそのチャンス(=ホンダエンジン)をゲットしたのに、それを活かしきれず残念至極でした・・・(結局開幕戦の5位1回だけ)
これがもしうまく行ってれば、中嶋さんも表彰台ゲットできたはず・・・!
第3戦のサンマリノの途中セナ、ベルガー、モデナ、中嶋のHONDA勢で1~4位独占してた時は中嶋ファンとして夢を見させてもらいました。
ギアボックスさえ…。
あの亜久里は、たなぼた3位だと今も思ってます。
このレース、鈴鹿サーキットの西デグナー前スタンドで観てました❤️
@@noriakinakayama9894 さん
上位がバタバタ潰れましたから、、、
セナとプロストは一周すらしてない😅
ベルガーも2周目早々に。
マンセルもアレジも前半に、中嶋も中盤に。😿
前年からの飛躍が期待されたにも関わらず、期待外れに終わった91年のティレル。見ていて思ったのはエンジンが良くても、シャシーが良くても、タイヤが良くても、どれかが悪ければ結果が出ない事を痛感してました。
その中では、タイヤが良ければ他が悪くても誤魔化せる。予選用タイヤがあった日本のF3000の鈴鹿でのタイムは、予選用タイヤがない時代のF-1なら中団に入れるレベルになってた。
一説にはマクラーレン(ワークス扱い)仕様のRA100Eは必要最低限の耐久性(当時は1レースで何回もエンジンを交換していたし、常に新品を使用できた。またワークス仕様だから高価な材料も使えたって話も)で良いから軽く出来た(一説にはルノー並の140キロ台って話も…)が、ティレルのは『無限メンテのカスタマー仕様』だからリビルド前提の設計になったが故に重くなったって話もありましたね。
動画にあった『シーズン序盤のマクラーレンのV12(可変吸気システム投入以前はトルク特性上V10の方がコースによって速かった)を追い回したが故に途中からパワーを落とされた』説もありますが、前途のリビルド前提が故にパワーが落ちたって話もありましたよね。
詳細は関係者のみ知る話なんでしょうが…
その話はGP Car Stoyのティレルホンダ編のジョージ・ライトン氏のインタビューでハッキリ証言されてますよ。決してホンダの面々は認めないだろうが、マクラーレンに忖度してパワーが意図的に下げられていてその時のポストレスウェイト氏が激怒していたと話されてますよ。しかも、編集員がその話を当時の責任者の白井裕氏に話すなり驚いた表情で完全否定されてましたが。ティレルからフットワークにかけては実質無限主導のV10エンジンは使い廻し同然なので92~93シーズンは総合面での重量過多のハンデが目立って苦労してたそうです。そもそもこのエンジン自体が89年シーズンマクラーレン仕様のRA109Eベースで信頼性重視で開発されたので大きく重いというハンデが付き纏ってました。特にロータスに供給した新仕様のZA5Cエンジンでジョニー・ハーバート氏の予選4位(1994年イタリアGP)に押し上げてから一気に優勝を狙えるエンジンになったと思ってます。この辺りの苦労もティレルホンダ時代からモデナ選手担当として派遣されていた坂井典次氏が述懐してましたね。
古豪プライベーターである事もさる事ながら、
6輪たいれるに中嶋悟に片山右京、
それに伴い日本信販カルビーホンダにヤマハと
我々に色々馴染み深くて嫌いになれる要素が無いんですよねティレルって。
チャンピオンエンジンのホンダを搭載できるとなると、いくらマシンがフォードにあったものであっても夢見たくなるよなあ・・・まあそういう所を冷静に判断しないといけなかったんだろうけど・・・
お疲れ様です
アンヘドラルウィング、日本スポンサー、ホンダV10エンジン、そして日本人ドライバーの中嶋悟…
F1好きの日本人には馴染み深いマシンなんですけどね~…
ティレルって聞くと、1990年開幕戦でアレジがセナにくらいついた時のインパクトが凄すぎて。
1991年12月18日~19日、鈴鹿サーキットでの無限 ホンダ V10エンジン搭載用に改造された真っ白なティレル・020においては中嶋悟さんや片山右京さんではなく、フットワークへの移籍が決まった鈴木亜久里さんが無限 ホンダ V10エンジンのテスト走行を行っていたとか…。
亜久里さんがF1浪人中の94年にもう一度その車に乗ったとき「古い車だけど安心してコーナーに入って行ける良い車だね」とコメントしていたので素性は良いのかなと思いました。それともその時履いてたブリヂストンタイヤの効果だったのか…。
同じ90年代のティレルで、1994年に片山右京が乗っていた022も動画で紹介解説して欲しいです。
あの車も素性はかなり良くトップグループを快走する事もありましたが
信頼性不足でイマイチ結果に結び付かなかった歯痒い1台で記憶に残っています。
ティレル020ホンダは個人的に気に入っていました。
シャーシは元々V8用なので改良にも限界あったのだと思います。
後はハーベイ博士の離脱が大きかったと思います。
91鈴鹿ラストラン、中嶋さんは7位まで来てたが
右のタイロッドエンド折れてクラッシュ。
あの時は残念に思いました。
しかし、94年にセナがあんな形になった事から、
折れたシャフトが中嶋さんを貫通しなくて
幸いだったのかもしれません。
当時中学・高校生でしたが、この020で車のトータルバランスの重要さに気付き始めた頃でしたね。
1:58 DFRも元を辿れば67年にロータス49と共にデビューしたDFVがルーツでしたからね。
スポンサーしてたカルビーは当時『じゃがりこ』を開発中で「F-1のスポンサーをしてるんだから車のドリンクホルダーに入る容器にしよう」って社長の一言でカップ入りが採用されたって開発部門の社員さんがテレビ番組で言ってました😋
それは、初耳でした。確かに軽く重ばらないですね(笑)30数年たっても続いてるのは偉い。チャック付きの袋入りと共にスーパーで扱ってますね。因みにシンプルにサラダ味やチーズ味が大好きです。あ~川口春奈さんのじゃがりこCMが懐かしい。
020の基本設計は018から変わりがないマシンのため、ハーベイ博士がHBエンジン搭載を求める助言をしてもホンダ、ジャパンマネー、久しぶりのメインスポンサーでケンおじさんは聞く耳持たずで予想通りの展開に…
トータルパッケージよりも当時最強ハイパワーなホンダエンジンに目が眩んだ結果が…って事でしょうか。
中嶋選手やそれに伴う日本企業のスポンサーマネーの事を考えるとホンダエンジンでのメリットの方が大きいとケン・ティレルとしては踏んだのでしょう。
冷静に考えてフォードHBエンジンならタイヤがピレリのままであってもベネトンあたりといい勝負をしてたかもしれませんね。
基本はHBエンジンでのレース用に作られたマシンですからね。ティレルに品質の高いパーツを買える資金があり、フォードゼテックRエンジンが使えたら91年のシーズンは変わったのかもしれません。ベネトンと同じスペックでタイヤも燃料も同じと言うことで。
恐らくHBエンジンは当時から牛耳っていたブリアトーレ氏&ウォーキンショー氏が独占供給を盾に許さなかったのでは。使いたければもっと金払えって恫喝まがいに言われそうですね。ただ、新参ジョーダンがHBエンジン獲得できたのか未だもって謎なので、また機会求めてジョーダンフォード(GP Car Story)の項で調べてみようかな(笑)
当時F1ファンの集いがあって、ティレルにホンダV10が搭載される話が出ました。
結構期待度が高かったのですが、私は苦戦すると予想していると話しました。
エンジンがV8に比べて重たいから、前後のバランスが崩れてフロントのピッチングが強くなるし、ピレリタイヤが性能悪いから上位は無理だろうと思っていましたね。
当時はピレリタイヤがやり玉に挙げられていたような記憶があります
ボロボロになったリアタイヤの写真や映像をよく見ました。
ブリスター😅
今でもそう思ってる人多い
トータルバランスが大事だということを後年知りました
当時はホンダV10でめちゃ期待したもんです
テレビ中継で解説の津川さんが『腐ってもチャンピエンジン。使いこなせないほうが悪い。』と言っていた。
まさにこれが起きていたと、今知った。
当時、タミヤ製1/20グランプリコレクションと1/28ミニFのティレル020ホンダ買いました。ガンメタルのカラーリングがとてもかっこ良よかったです。現在は共に絶版となっていて再販もされていないので貴重なキットかなと思います。
92年のイルモアエンジン搭載の020が好き❕
特にカラーリングの青白ネガポジ反転がたまらなくクール❕
鈴鹿ラストランで操作不能となり
クラッシュ⇒リタイヤした時に
ぶつかったのがタイヤバリアで良かった
という奥様のコメントがありましたが
後のセナの悲劇を思うと本当にそうですね
未発表となったRothmansカラーの
マシンも恰好よかったな
シーズン開幕前は期待感がいっぱいだったんですけどねえ…。
信頼性不足の上にマシンのバランスは悪いし、タイヤ性能は不安定だしで不発に終わりましたね。
鈴鹿のコースを歓声とともに周回する中嶋さんと、ダンロップコーナーで振られるマシンの姿が印象に残っています。
91年はV10のFW14がV12のMP4/6を凌駕するようになって行くのに象徴される、F1がエンジンパワー一辺倒からパッケージング重視に移り変わる時代の変革を感じさせるシーズンでした。
そんな中でこのマシンの苦戦もある程度必然だったのかもしれません。
ヲサーン世代の当方にとっては懐かしい話ですね・・・。
何しろ’89シーズン前半は冠スポンサー無しの状態に追い詰められていた古豪が
きちんと持ち直しつつあったさ中でのホンダエンジン搭載でしたから。
しかし期待も大きかった一方で懸念も抱いていました。
'86にルノーV6ターボを使っていた時期を除けばコスワースDFVファミリーしか扱った経験しか無いチームが
ホンダのような重くてハイパワーなエンジンを受け止められる駆動系をきちんと開発できるのかと。
(’86も駆動系のトラブル頻発でしたから)
少なくとも前半戦は予感的中で、これがタイヤ開発の停滞をも招いて低迷に至ったのではと。
ちなみに6:14で前年型の019がF1初のEng→ギアBOX→デフ配置と紹介されていますが、’88のベネトンB188が初採用と記憶しています。
92年シーズンのイルモアV10搭載時のデ・チェザリスの快走を応援していました。鈴鹿の走りは、ベテランとなり味のある走りを見せてくれるようになった彼の真骨頂だったと思います。
デ·チェザリスさん決まれば速い)ドライバーでした。鈴鹿4位もあるしお坊ちゃんにしてはなかなか。
当時ティレルを応援し、鈴鹿での4位入賞を鈴鹿サーキットで見て感動してました。クラッシャーと呼ばれてましたがジョーダン時代も含めなかなか速かった記憶があります。マンセルのFW14Bが目の前でブロロロっと火を吹きながらエンジンブローしたのが一番記憶に残ってます😅
93年のイギリスで021を投入したものの右京さんの車にトラブルが起きて020Cで決勝を走ることになって、グリッドに着いたら川井一仁氏が「なんだ020Cか。こりゃダメだ」というジェスチャーをして右京さんのテンションがダダ下がりした話ホント好き。
021は、フロントもリヤもモノショック化されていて、ロールに弱かったみたいですよね。
「ホント好き」 流行ってるねこの表現。そんな好きか?笑
ホンダV10はハイパワーだがフェラーリV12より重かった。フォードコスワースHBだったらティレルは躍進出来たと思う。
94年のティレルは一転して高パフォーマンスで、カミカゼ右京の爆走がみられましたね
何気にティレルのマシンって
私のツボなデザイン多め
前年と同じエンジンか、若干改良されたものと思いきや、供給されたホンダエンジンは、前年にマクラーレンに供給されたものとは全く違い、ブロックの材質から大きくランクダウンしたもので、実際はパワーも700馬力すら出ていない30馬力以上ダウンしたものだった。
15:27なぜかフロントのみならずリアサスペンションもモノショック(一本サス)にしたため、まともに接地せずに「いきなりスピンするマシン」となってしまった。
このマシンがデビュー直前に、当時のホリデーオートBGに書いてあった「このマシンは期待できる!」という記事が本当にむなしかった…。
30馬力以上スペックダウンして公称馬力程度しか出てないのなら、強度不足による駆動系のトラブルは発生しないのでは。
ハイノーズコンセプトの元祖であるのは間違いない。
とにかくその後出てくるハイノーズよりも一番美しいデザインだった。
残念なのは日本のバブル景気とタバコ広告に結構依存したF-1チームがスポンサー破綻とタバコ広告禁止により撤退して行った事です。
オールドファンとしてはロータスやティレルの老舗チームが消えていくのが寂しかった。
亜久里さんが90年鈴鹿で3位に入り「中嶋さんもマクラーレンと同じホンダV12を走らせれば91年は確実に表彰台に入れた」と言いつつ020の性能を見ればそれはかなわずだったと思う。
(とはいえモデナは91年に予選2位、タナボタながら決勝2位もありましたが)
91年のホンダが供給したのは悟氏の引退を事前に知っていた故本田宗一郎氏が配慮したものとも言われてます。
今になって解る話しになるけど、結局この時代マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズ、ベネトンの4強チーム以外全チーム資金難に悩まされてたんだよね。30年経つと色んなチームの資金難話しが幾らでも出てきますね
開幕戦フェニックス決勝でいきなりモデナ4位、中嶋5位、亜久里6位完走と出だし良かったから
おぉっ?これは面白くなりそうだぞ・・てな感じで観てた。ところが・・
私も祝祭空間のようなあのレースを見てから、「今年はいける❗」と本当に期待しました❗
しかし、翌ブラジルで亜久里がピットでいつまでもエンジンかからずスタート出来なくてや中嶋のマシンの異常を見て「あらら?これはおかしいぞ…」となり、サンマリノ、モナコの中嶋のリタイアでどんどんしぼんでいき、カナダの亜久里の炎上でほとんど諦め、ドイツでの亜久里の体たらくでもう匙を投げた感じでした…。
ここから3年間日本人ノーポイントですもんね。
アクティブつけたフットワークとかかなり速かったんだけどあまりに運がなさすぎた。
preさん
フットワーク大橋会長は当時チーム監督だったジャッキー・オリバーをクビにして、トム・ウォーキンショーを迎えようとしてました。しかしウォーキンショーの答えはNO!クビになりかけたオリバーは亜久里なんか入賞させてたまるか。最終戦オーストラリアGP、入賞確実だったにも関わらずタイヤ交換を引き伸ばしました。実況アナが亜久里選手のタイヤ交換はまだなんですか?て言ったほどですから。
ホンダV10は鋳鉄ブロックだったらしく(フェラーリ等はアルミブロック)、V10なのに重量はV12と同等か重かったらしいと、聞いた事があります。
このマシーン模型で作ったわ 6輪の「たいれる」 と一緒に本当にかっこいい
鈴木亜久里が鈴鹿で表彰台に登った時、コメント求められた中嶋悟は
(019の躍進+ホンダエンジンのタッグで)
来年は俺の番みたいなコメントして本人も周囲も期待大だったんですがねえ・・
フォードV8からホンダV10ではあまりに重量が違いすぎた。パワーはあったがトランスミッションやタイヤが耐えられなかった。
この車で思い出すのはサンマリノGPです
たしか予選二日間雨で、何か噛み合えば中嶋さんがポールポジション取れてたかもしれなかった…残念
初めて鈴鹿でF1見たのもこの年でした。
今回も面白かったです。次は、この翌年以降、右京の絶頂期でもあったヤマハやティレル022以降についても知りたいです。モーター天国さん、本当によく調べてますね!初耳の情報がいっぱいあって、他の動画も楽しいです!
まあフォードエンジンに合うように設計されてたみたいだし、何よりハーベイ博士がシーズン途中で離脱したのが痛かったよね…
重いエンジンを旨く合わせることができなかった開発資金不足。ティレルの独特なデザインのマシーンとホンダパワーが見事に融合した世界戦で善戦するレース展開を見たかった。
カラーリングはティレルにしては、かなりカッコ良かったのですが…。
92年、苦しい中でチームを支えたチェザリスは好きでした。
イルモアになってマシンバランスも良くなったし、チェザリスの走りも見事でした。
デザインとカラーリングは歴代マシンで一番好きなんだけどなぁ
F1は葉巻型のミニカーをもらってから気にしだし、ロータス78で衝撃を受け、赤いペガサスを読み漁り、ホンダターボでPGM-FIのCR-X Siをカタログで契約、フジのF1中継を見た。日本GPの中嶋さんには涙した。
赤いペガサスファンがここに居た 笑
93年のカラーリングが好きで、プラモを探した思い出があります。
93年前半は酷い状態で、右京曰く真っ直ぐ走らない、曲がらない車だったらしいです。
カタルニヤだかドニントンだかでは気が付いたらダートに居たそうです。
好きなマシンに好きなカラーで、当時好きだったヤマハエンジン搭載で日本人ドライブと応援していたチームだっただけに残念でなりません
タラ・レバが多い1つのチーム。
・ピレリでなくグッドイヤーだったら
・ロスマンズがスポンサー付いていたら
・ハーベイやミジョーが残留していたら
・ケン・ティレルが惜しみ無く資金を設備投資をしていたら
・ロン・デニスが株式を取得していたら
・マシンにもう少し信頼性があったら
・エンジンがルノー並みに(推定137kg位)軽かったら
・ギアボックスやリア部分等の駆動系一式をマクラーレンから購入していれば
・フロントウイングの幅が変わってなければ
・スペシャルガソリンで本家からのおこぼれ恩恵を受けてたら
・91年には時代遅れとなり始めた低くて後ろ側に設計されたサイドポンツーンに変化があったら
・鈴鹿前のシルバーストーンにて行われたテストで作ったセッティングがハマっていたら(鈴鹿で走り始めてすぐに合わないとボツになった)
いくらでも出てくる話でしたね。
1991年のホンダV10の質量は150kgで、ホンダV12と同程度とか言われていた。んで、あのトラブル。
1992年のイルモアV10の質量が110kgとか言われ、駆動系の負荷は減り、シャシーバランスも改善。
1992年はスポンサーもほとんど無い状況で、あのパフォーマンスは立派。
新谷かおる先生は、F1漫画『ジェントル萬』でホンダのスタッフに
「ティレルには、ティレル用のV10エンジンが必要」
の台詞を用意していた通り、トータルパッケージが重要となる話だった。
「ジェントル萬」の中ではもう一つ「エンジンの設計が始まった段階からシャシー設計も始めないと」とも言っていましたね。
この漫画では幻の「市販無限V10エンジン」にローラのF1シャシーにグッドイヤータイヤという組み合わせのマシンが出ていましたがローラのシャシーでも「低速コーナーで剛性不足」と言われています。
ホンダのパワーを伝えられなくてデフギヤがグシャッと壊れたそうです。
重いホンダV10でマシンの前後バランスが悪くて、本来の軽量でフットワークのいい良さをスポイルしてしまいました。
デザイナーのポスルズウェイトはフォードのHBを欲しがったのはよく分かります。
中嶋さんは自信のスポンサーであるホンダが逆にクビを絞めてしまうことになってしまいました。
カスタマー使用でもいいからHBエンジンだったら中嶋さん、表彰台へ行けたかなあ・・・。
ティレルヤマハ023だっけな?右京が94年のとあるグランプリで5位入賞したマシン。翌95年は不調で96年は右京がクラッシュしたりで大変だった記憶が…日本のサムライ物語是非取り上げて下さい😊
片山右京が5位入賞(1994年ブラジルとサンマリノ)したのはティレル022、マシンが宙を舞ったのが1995年型マシンの023です
鈴木亜久里が日本GPで表彰台にあがり、中嶋悟が所属するティレルに「ホンダV10」を搭載するとなるとわ中嶋悟も表彰台だと期待しましたね…。
92年意外と日本のスポンサー残ってたんですね~
Calbee
CLUB ANGLE
日本信販
ダメでしたね、020。期待大きかったので落胆も大きかった
テストの段階でサスアームよく折れてたなんて中嶋悟も後年言ってたし
後年関係者のインタビューとかって時効?なのかかなり核心というか際どいこと証言してるけど、それらをざっくりとまてめれば、結局ケンティレルをはじめ、チーム所有者が入ってくるスポンサーマネーを懐に入れてたのが不調不振の元凶。個人会社なので株式会社と違い会計報告や株主に説明責任がないから、財務はやりたい放題。
品質管理がマクラーレンやウイリアムズあたりと比較するとガバガバで杜撰なんですかね。
年は違いますが1994年のドイツGPで3番手を好走してた右京がリタイアした原因がメカニックの初歩的な整備ミスによるものでしたし
そういう詰めの甘さや仕事の雑さが金欠だけでなくチームの凋落の一因かもしれませんね。
@@yosss0930mjk こんにちは
サスアームが折れたのは、ホンダエンジンが重すぎるたことと、それに合わせたシャシーを作らなかったティレルが原因です
要するに、前年の軽いDFRと019の組み合わせが名車だったのにそれ以降キチンと翌年マシンを作らないチーム全体の責任でしょう
ドイツ好走のリタイヤは、確か、それまでヒトコ?のブレーキだったが、いきなりカーボンインダストリー製のブレーキに変えたのが原因だったと読みました、すいませこれは記憶違いかも、確認します。
なんにせよ、好調なブレーキを変更するとかフツーは考えられないし、そのあたり安く調達したいだけ、つまり利益に向かったのでは?と推測してます
とにかく、潤沢な資金をマシン開発に回さないケンティレルが糞過ぎ。これは他の英国系チーム、例えばアロウズも亜久里に金ばかり要求してマシンはクソ…日本人はカモにされてたんでしょうね
ロータス72なんて70年から75年まで使われ20勝挙げたんですね、やっぱコーリン・チャップマンは天才だったんだ
1991年はタイヤをグッドイヤーにしていれば少しは違ったと思うが、駆動系の弱さはどうにもならなかったかもね。ミナルディはその年フェラーリ+グッドイヤーにしても4位2回のみだったし。
020は019と同時に開発されたせいでマクラーレン用に造られたV10に合わせて特別に設計できる部分が少なかったことが失敗の原因でしょうね。
020にとってのベストエンジンは軽量でパワーもそこそこのイルモアでヤマハ搭載時もマシンバランス自体は悪くないけどシャシー自体がへたって駄目でした・・・。
ハイテク搭載は無理でもせめてモノコックぐらい新品だったらヤマハ搭載時ももうちょっと成績が良かったのではないでしょうか?
元々非力なDFRで最大のパフォーマンスを発揮するよう設計されたクルマですから設計に余裕が無かったのでしょう
サンマリノGPでは、前半一時3、4
位を走っていましたが、2台とも
リタイアで残念でしたね。
また、重量バランスが悪いのと
ピレリタイヤもすぐにたれるので
苦しいシーズンでしたね。
中嶋のラストシーズンでもあり
エンジンはSNのイニシャルも入って
期待していましたが、やっぱり
ピレリタイヤも大きかったなあ。
今思えば中嶋さんの表彰台に上がる最後のチャンスだったのかな。他のマシンがまだ信頼性が上がってなかっただけに残念です。
@@bow3954 さん
私も最後のチャンスだなあ、と
思っていました。エンジンそのものは
ハイパワーでしたが、シャシやタイヤ
が足を引っ張りましたね。
ティレルだけではなく、ピレリ
ユーザーのチー厶は計算狂った
のではないでしょうか。
良いエンジン載ったから良くなる訳ではないんだなあと思い知らされたなあ。このティレルチームは日本人と日本企業と縁がありましたね 中嶋悟とHONDAエンジン 片山右京とYAMAHAエンジン 高木虎之介も関係してたしなあ
020に積まれたV10エンジンですが、
1991年ホンダ→1992年イルモア→1993年ヤマハの3メーカー。
偶然にも同じVバンク角72度なのでモノコックとの接合ドッキングが容易だったのではと想像してしまいました。
もちろんラジエーター熱交換器など補機類の容量配置に変更はあるので簡単ポン付けと言う訳では無かったけれども?
V10はルノー以外ほとんどのメーカーがVバンク角72度を採用していたので珍しく無いですが?
93年のヤマハOX10はジャッドと提携して作られたので、エンジンブロックなんかはホンダ製らしいですよ。
シャシーに取り付けるボルトの位置まで同じらしいです。
@@galbo77 様
なるほど。
ホンダ、イルモア(もジャッド)、ヤマハも先祖を辿るとジャッドに行き着く兄弟エンジンって事になりますね?笑
ヤマハはV8エンジン時代にコスワースのエンジンをベースにシリンダーヘッドだけを独自の5バルブに改良する手法でしたが、
その路線から卒業しましたね。
それにしても約3シーズン(1993年は途中まででしたが)同じモノコックの020を使い続けた例は他に、
マクラーレンMP4/2(1884年~1986年)とロータス107(1992年~1994年)くらいですね。
@@galbo77 様
ティレル020に積まれた3メーカーの
ホンダ、イルモア、ヤマハの各V10エンジン。
ボアとストロークの具体的公称数値までは分からないですが、
同じ数字であれば更に驚きですね?
ジャッドの共通ブロックであれば可能性が大。
ボアとストロークも同じで有ればエンジンの全長も同じなので020マシン車体全体のホイールベースも全く同じ数字の可能性も見えてくる?
違うのは3シーズン(1991年、1992年、1993年)で細かく違うレギュレーションによって前後のウイング形状も変化している事くらいで基本的なジオメトリーも大体同じ。
アンヘドラルウイングの斜め支持をそのままに、その下にもウイング板があれば良かったのではないだろうかと思ってしまう…
確か、コースによってはアンヘドラルウィングの左右を繋ぐパーツがあった筈。
ウイングの下に板を付けたベネトンがコンストラクターとドライバーのWタイトルを取ったんじゃなかったかな
引退後の中嶋さんにチーム売却の話を持ちかけていたみたいですね。
91年は深夜起きて中嶋さんの走りを見てましたが、中嶋さんもマシントラブルや中嶋さんらしく無いミスでリタイヤしたりと可哀想だったなあと思います。
エンジンはホンダになってもマシン全体的バランスが悪くて当時のピレリタイヤでは中嶋さんもきつかったと思います。
逆にジョーダン191はバランスが良かったと思います。シューマッハのデビュー戦とベルギーでのチェザリスの走りが凄かったです。
あの時のチェザリスはセナをあと一歩まで追い詰めましたね。あわやチェザリスの最遅優勝記録樹立かと思いました。
ティレルにロスマンズがスポンサーの話があったのを初めて知りました。
なんで話がなくなってしまったんでしょう。
私が知る限りこの年のティレルが一番カッコ良かった😉
ミナルディ同様エンジンに目がくらみバランスがおかしくなった典型
え?マクラーレンの仲介だったんですね。てっきり中嶋悟さんがいるからHondaエンジンをゲットできたと思ってました。BRAUNもCALBEEも中嶋さんのおかげ。日本グランプリでリタイヤした中嶋さんはさわやかに笑いながら観客に手を振って去りましたね。車体とのマッチングが問題で難しいのに不満も一切見せず格好良すぎ。後年Hondaと良い関係が継続できるわけですね。Hondaも引退する中嶋さんのためにスペシャルチューニングしたいのに歯がゆかったでしょう。
HONDAV10のメンテナンスやチューニングを担当したのが無限
しかし、時間がなく期間も短かった為、間に合わず
さらに、HONDAとの連携も中々うまくいかなかったようで、そのせいでチューニングが不十分で本来のポテンシャルを引き出せなかったようで
中嶋さんもさぞ悔しかったでしょうね。
マシンのポテンシャルは
無限じゃなかった、、、
ホンダエンジンはマクラーレンもマッチングにかなり苦労していた。重量の問題や冷却のため再度に穴を開けなくてはならなかったりと、マシンをかなり犠牲にしていた部分もある。それを補うだけのパワーがあったのだろうけど、ティレルには何とかすることはできなかった。フロントはダウンフォース不足、リアはヘビーで曲がらない、スピンしやすいと辛かったよう。ちなみに020Cは、95年の雑誌のインタビューで右京さんは「走らせていて楽しかった。セッティング通りに動いてくれるから。」と述べている(もっともマシンが古すぎたことも認めている)。
021の新車のことですね。
020は使い古しのぐにゃぐにゃモノコックだったようでセッティング変えても何も変わらなかったと言ってましたね。
当時ホンダエンジンに一瞬喜んだんだけどすぐに疑問が浮かんだんだよなあ、
ベネトンと同じスペックのフォードHBのがトータルパッケージは良いんじゃないか?とね、
当時ティレルは資金に余裕の無い中堅チーム、いきなりチャンピオンエンジンに相応しい新車をいちから設計できるのか?とね、
あと、エンジンより先にまずはタイヤをピレリからグッドイヤー戻せと思っていた、
その方が最小限の投資で確実にパフォーマンスアップを狙えたからね、
ピレリからグッドイヤーに変えられない程の資金レベルだったから、
ホンダエンジンに相応しいクルマなんか資金的に作れるわけがないんだよね。
子供の頃はそんな事情を知らず勝てるかもぐらいに期待していましたが、こんなにも多くの問題があった事をこの動画でようやく理解出来ました。
モーター天国様お疲れ様です!
ティレルは90年のロスマンズとのスポンサー契約が結べなかったのが誤算だったな
2000年に、そのティレル買収したBARと組んでF1復帰となりましたね^ ^
その前には、ワークスホンダのマシンRA099の設計はハーベイさんだったりと縁がありますね。
細かいことだが
誤)アンヘドラルウイング
正)アンヘラルドウイング
ですね
当時はガルウィングと言ってたメディアもありましたね
ピレリタイヤは高温になるとまるでグッドイヤーには太刀打ちできなかった。タイヤの戦力不足に加えて横置きギアボックスの問題は深刻。マクラーレンも横置きギアボックス採用したら高速コーナーでギア抜けしてセナのマシンコントロールをもってしてもコースアウト&マシン裏返しになったりで熟成にはかなり時間かかってたね。エンジンは悪くなかったけど、ハイパワー化したら足周り系は使いまわしではダメという事でしたね。でもホンダはV10とV12をスタッフ増員してメンテしてたんだから今考えると凄い事だった。スポンサーの数の多さはまさにバブル経済の絶頂期を象徴してますね。
速いマシンを作るって事はとても難しいんだね。
018からの延長で019だったから、まだ良かったかな…??見た目は018が1番良かった感じですね…。020はホンダでなくフォードHBだったら…と思ってしまいますね…。やはり伝統的にハイパワーだけど重いホンダでは…シャシーとのバランスや剛性面が019の発展型では無理ですよね…。なので92年のチェザリスは納得です。トータルバランスが91年より良かった…っていう結果ですね。他のコメントでもありましたがミナルディフェラーリと末路は同じ感じですよ…ハイパワーエンジンに目が眩んだって感じ…。で、痛いしっぺ返しを喰らう…みたいな…。
あの時代のティレルは見た目がどんどんファットになっていった気がしますね…。
018が1番シャープでカッコ良かったですね。しかもミケーレアルボレートがドライバー…っていうのが…………。
毎回タイヤがダメになってた印象でしたが他にも色々あったんだ…
かっこ良かったのにね。
悲しき水中翼船。中嶋さんのために、のマシンだったんですが…あっ、スケール違いのミニカー2台、キットも組みました。
91年は期待したものの、全てが悪い方へ出ましたね
エンジン、ミッション、シャーシ、タイヤ
スポンサーも付いて、資金も潤沢・・・なんて報道はありましたが
F1は難しいんだなぁ・・・と思った時代でした
91年の資金は翌年の改良に繋がっていたと思います、ら
他所さんの受け売りになるけど
Rothmansの スポンサードの破談
K.ティレル 氏が
口を滑らせたのが要因だったとか。
あの カラーリング (゜-゜イイネ
コスワースのような軽量コンパクトなエンジンで開発したシャーシにパワーのある重いエンジン乗せたというイメージ
当時小5、知識も何もかもが今より浅っっっっさいガキでしたが、どれほど期待した事か…
開幕戦フェニックスでダブル入賞し、サンマリノでは序盤ホンダ搭載車1-2-3-4形成、残念ながらティレル勢はリタイアでしたが中嶋さんが表彰台立つのも時間の問題、と信じて疑いませんでした…まぁ結果は動画でも解説されてた通りですからね…。もっと資金があれば解決できた…のかな?
個人的に性能ではなく見た目で言えば歴代F1マシンの中で一番好きなデザインとカラーリングなのよ
タミヤのプラモデル買ってMP4/5Bと並べて飾っていました
そうなんだよなあ。中嶋、亜久里、右京3人とも五体満足で引退できてホント良かった。ハイノーズのダウンフォース不足は現代の多層式(多層カナード式)なら解消できたかも?でもレギュレーションがねどうだったか?
ケンおぢさんはレース戦略や新人発掘は見事なものでしたが運営は下手くそでしたね。
91年はカナダGPのモデナの2位の他、サンマリノGPでは一時ホンダ勢の1-2-3-4体制を築いたり、モナコGPではモデナが予選2位で
中盤にトラブルでリタイアするまで2位を走行してたりと、序盤で可能性を見せ期待させつつも、結局マシンの信頼性の低さはどうにもならなかったですね。