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高校生の時にスティーブ・ライヒの八重奏曲を聴いて以来、30年以上、現代音楽ファンです。日頃、クラシックよりジャズやロックを好むので、私にはいわゆるクラシックより馴染みやすかったです。とはいえ、一音楽ファンの正直な感想としては、現代音楽は外れが多いのと、聴いた後で音型の記憶が残る作品が少ない。その一方で、クラシックやポピュラー音楽を聴いている時には、ほとんど経験ありませんが、聴いていて自然の一風景が浮かぶ作品が少なからずあります。現代音楽は音楽だけより、何かしらのビジュアルエイドがあった方が受け入れられやすいのかなと思います。ヘンツェやクセナキス、武満徹さんらの作品には、私にとって聴いてよかったと思える特別なものがあります。オペラではシュニトケの白痴、見たのは10年以上前ですが、強烈な印象がまだ残っています。最近ピアノを買って、いつか武満さんの作品弾いて、割りに合わない経験してみたいですね。
やっぱりそうなのかと納得の行くお話でした。私たちは「おいしい」、「おいしくない」という言い方をしますが、現代音楽は「おいしい」曲が少ないという思いは、プロの方々でも同じなんだという安心感を持ちました。 「新しさ」の重要性という意味では、学問の世界で生きてきた者にとってはそれなりに分かるのですが、私の分野でも「新しい」かもしれないけれど、現実の経済の理解のためにはそのような最新の論文より1960年代の教科書の方がよほどマシというという現象は存在します。 それとカレーで例を挙げますが、刺激には割と慣れやすいので、カレー評論家はますます辛いカレーを求めるけれど、カレー初心者には辛すぎて耐えられないということはあろうかと思います。要するにどこまでの不協和音を美しいと感じるかという話ですが。バーンシュタインは現代音楽の解説で、皆さんは映画のいわゆる劇伴で、知らない間に現代音楽のような不協和音の音楽も聴いているんですよと書いていましたが、まあ、映像のあるなしで状況は変わるとは思います。
聴衆不在で論文の発表みたいになっちゃっているというのは、うまい例えですね。私も現代音楽と言うと、シューンベルク以降の無調音楽の影響受けた作品のことだと思ってましたので、非常に勉強になりました。
車田先生、今日も楽しいお話をありがとうございます。ラヴェルやドビュッシー、ストラヴィンスキーなどの近代音楽を現代音楽に含めてしまうととても幅広いジャンルになってしまいますね。私は個人的に年代で分けるというよりもスタイルで分けたいと考えています。具体的に言うと十二音技法以降、つまり調性との決別を求めた作品からが現代音楽と定義付けています。実は私は現代音楽がわりと好きな方で、ルチアーノ・ベリオ、ヤニス・クセナキス、オリヴィエ・メシアン(トゥーランガリラ交響曲、僕も大好きです)などの作品が大好きでよく聴いています。また、我が国が誇る偉大なる作曲家、武満徹先生の曲は本当に心を鷲掴みにする歌心がとても好きです。十二音技法やセリー音楽、トーンクラスターあたりまでは許容できますが、目新しさや奇抜さを求めすぎた実験的な作品はあまり好みません。ジョン・ケージは曲によっては好きですが、やりすぎと感じることも多々あります(実験音楽を標榜していたのである意味「わざと」なのでしょうけれども)車田先生の仰る通り、聴衆が置き去りにされるような作品は好きではありませんし、聴衆どころか演奏者すら置き去りにされてしまうような作品はやはり好きではありません。落語に古典落語や創作落語があるように、古典的な曲も現代的な曲も愛せる人が多くなると嬉しいですね。
普段私がなんとなく感じていることを、車田さんが、きちんと整理して話してくださるのをお聞きし、"そうだ、そうだ" と共感し、納得することが多いです。いつもありがとうございます😊
ここで例として挙がっていました「初演」… 何事にも、「一番最初」「初めの一歩」「先駆者?」等の苦労は、素晴らしいものですねぇ… ただ単に、言われた事を行うのではなく、より良い形にしていく、その為に、意見を言い、聞き、必要とあれば、変化させていく… 「出来上がったモノ」の素晴らしさゆえに、後日、多くの人たちに「浸透」して行き、場合によっては、ながぁ~~く、世に残っていく… いいなぁ~~♬いつもながら、車田さんの言葉には、世の様々な事にも通じるので、まるで、「哲学」そのものですね。音楽に関する知識とかだけでなく、その意味も含め、ありがとうございます。
自分が日本で学生だった頃、大学の作曲の先生が作曲した作品の初演に二・三度参加しました。作曲家の仕事というか、作曲をするということは書斎でスコアを書き上げて終わり、ではなく、そこから演奏家とリハーサルを重ね、議論し、細部を手直しし、また演奏家の側からいろいろアイディアも出し、それを互いにすり合わせ、一つのものと作っていくものだとつくづく思いましたし、その過程は「作曲家が生きている」ことでしか体験できない非常に刺激的で興味深いものでした。その結果作り上げた初演の演奏はやはり特別でした。その数年後、同じ作品を再演したのですが、初演の際にある程度「その作品のスタンダードな演奏法」を自分たちが作り上げていたので、圧倒的にやりやすかったですし、それもまた特別な経験でしたね。我々がオーソドックスだと思っているベートーヴェンやモーツァルト解釈も、そうした初演から幾度もの再演、初演の際に作曲者自身から解釈を授けられた演奏家がそれを再演、またその教えを受けた演奏家が再演、を繰り返し、長い時間をかけて熟成されてきたものなのだということを身をもって体験することができました。それにしてもオペラ《コペルニクス》は、もし自分が振らされる立場になったら地獄ですね。。。そんな複雑なスコアを読んで、プローベをして、しかもそんな指揮しにくい配置でやらされると思うとぞっとします。。。
「現代音楽」(あるいは新しい音楽)というクラシック音楽のサブジャンルは、時代区分と音楽概念の拡大(Jケイジ登場の前提)とを、ともに含んでいるように思います。デュシャン以降、美術の概念を問う形で美術の形式が拡張されました(形式からは定義困難)。音楽でもそれに対応する動きが生じ、その成果が現代音楽(多様化した音楽)と理解できそうです。演奏会で集中して現代音楽を聞いたおかげで、このサブジャンルにも慣れた者からすると、心を動かす作品があること自体はいうまでもありません(武満徹は馴染めなくて、という人に聞けといってもしかたない)。フランチェスコを主人公にしたメシアンのオラトリオ(?)は傑作という歯科なさそう。「世界音楽」(たとえば新作を含む邦楽)を知っていることも、現代音楽への態度を決めるかも。JSバッハがメンデルスゾーンによって復活したことは、きちんと理解しておくべき音楽史上の事態でないでしょうか。
現代音楽、どの辺からが、そうなのか、わかりにくいですね。私は、十二音技法が、その始まりなのではと、思っていましたが、バルトークの弦楽四重奏曲は、そのはしりみたいに感じますね。お話を聞いていると、声楽家の方にとっては、やりがいはありますが聴衆の反応が今一つみたいですね。これは、やはり、理解することが、難しいものが多いからでしょうか。しかし、たくさん、現代音楽を演奏されておられ、すごいなぁと思いました。万人受けすることを考えるから、現代音楽の価値がわからないのかもしれませんが。私も、春の祭典は、幼い頃は、やかましいなぁと思っていましたが、成長して、おもしろいと思うようになりました。この曲が初演された時のことを考えるとわかりますね。メシアンの交響曲もそうでした。またいい現代音楽に出会えるといいなぁと思います。薔薇が綺麗ですね。ドイツはお花が安くていいですね。
「目新しくなければならない」というのが、音楽にとっての新たな「壁」とならないことを祈ります。等身大でいることが、自然と「躍進」に繋がるのではないかと思います。現在の私たちが、素直に共感し感化し合える音楽を作ること…それを後代から見れば「躍進」と言うのかもしれません。いつも啓発的な動画をありがとうございます。
別ジャンルの話になってしまいますが…12音技法や変拍子という現代音楽的手法は、今では映画などの劇伴として使用したほうが適切だと思われます。例えばドラゴンクエストシリーズの作曲をされたすぎやまこういち氏は「現代音楽的な手法は、場合によっては有用。魔王の曲などで、オドロオドロしい雰囲気を作るのに役立つ。」と書籍の中で述べられています。ゲーム音楽の中では何度もループして曲を聴くことになるのですから最初は理解しにくい曲もだんだんとわかるようになっているように思います。単体で聴いたら、「?」となるかもしれませんが、組曲の中で使われる分には十分に音楽たりえると個人的な感想ですが考えています。
悩ましい問題ですね。現代美術の試行錯誤、純文学の行き詰まりと非常に似ています。「わかりやすい」曲を書くと、大衆迎合として無視されたり。
ことによると、今現在、ポピュラーと呼ばれている音楽(非クラシック領域・非現代音楽領域)から、将来「クラシック」が編まれる、選ばれる可能性も。現代美術のポップ・アート領域など、あるいは、バーンスタインやバーバーなど、あるいはミュージカル曲が大きく扱われていく可能性も。300年後、「音楽史」はどのようになっているか・・・(人類がいない可能性も)
私はクラシックでもメロディがあって美しい曲が好きなので、現代曲は苦手です。
コペルニクスのセティング美しいですね。音が回るのも楽しそう。個性は大事ですが、繰り返し聴いてみたいって思ってもらえないと残れないんですよね。悩ましいところ。
毎回楽しく拝見していますが、今回のテーマは特に興味深かったです。「現代」のものは音楽にしても演出にしても、はたまた美術にしても、奇をてらうことに重きが置かれすぎていて、一般人に受け入れられづらく、従って後世に残りづらいものしかないような気がします。確かに新しい物を生み出すことは重要だとは思いますが、内輪だけで満足しているような内容のものであるならば、新しい物を生み出したことにはならないと思えてしまいます。
現代美術の難解さもケッタイなものですね。理屈抜きではみられない作品も沢山ありますね。難解=高尚とは言えないのに、勘違いしてる人がいると思います。
❤️音楽に寄せて ♥️本日🌄は現代音楽のクラシックの難しさ❤作品のお話し楽器改良の中々難しい話オペラの難しを分かり安く解説有り難う御座いました🎧️前回壁の解説お聞きしました🎧️いつも感謝です🎧️❤
40年ぐらい前は、バルトークやプロコフィエフだとかやると、難しい現代音楽だ不協和音だ、チャイコフスキーとかやってくれと文句が出たけども、今は、これらは人気作曲家で、メシアンやベルクや武満やデュティユ、ヒナステラなども普通のお客さんが楽しんで聴いていますね。本当に演奏家が曲を自分のものにして思い入れをもって弾いていると、松村禎三や伊福部、黛、三善晃などは感動的ですね。若い世代の作曲家でも、山本和智さんや川島素晴さんのようにお客さんを驚かせ楽しませる人がだいぶんでてきていますね。ヨーロッパのドイツなどでは、「現代音楽」らしい大多数の聴衆に歓迎されない新作が多いけども、アメリカなどは、わりとわかりやすく初心者が楽しめるというか、クラシックは苦手というロックやプログレなどが好きな人が歓迎するライヒやフィリップ・グラス、ジョン・アダムスなど人気の作曲家がいますし、コリリアーノなども親しみやすいですね。舘野泉さんが吉松さんや光永さんに書いてもらっている新しい作品も、お客さんは感動して聴いていますね。人気のあるわかりやすい現代音楽が、専門家からは評価が悪かったりもしますね。
現代音楽に関しては、年代よりは様式で区別していましたので、カール・オルフやベンジャミン・ブリテン、グスタフ・ホルスト等の作品が現代音楽という認識は、これまでありませんでした。考えてみれば、ベートーヴェンの音楽、特に聴覚を失い始めてからの作品も、当時は前衛音楽だったのですね。ベートーヴェンの場合、フランス革命、近代啓蒙思想の台頭など、社会の風潮と作品に親和性があり、時代の寵児になったのかも知れません。今、現代音楽とされる作品や、ジャズ、ロック、ポッブスなどあらゆるジャンルの音楽の中から、時の淘汰を潜り抜け、普遍性を獲得して、「古典」として生き残る作品が少しでも多く生まれるよう、祈って止みません。
古典派やロマン派の音楽でさえ何回か聴くことでその曲の良さがよくわかってきます。ただでさえ難しい現代音楽を1回聴いただけでは普通の聴衆にはとても理解できるはずはないと思いますが、それが1回しか演奏されないとしたら、それこそ「現代音楽の壁」と言うべきではないでしょうか。
あなた様のご意見は素晴らしゅうございます!!
とても考えさせられるお話をありがとうございます。ティル・オイレンシュピーゲルという薔薇!美しいですね。ジャクリーヌ・デュ・プレという薔薇もとても好きです。
考え方の道筋が非常にわかりやすいです。現代音楽とは全然違いますが、RUclipsでたまたま「【地上最低のライブ】オノヨーコ(後略)」なるものを聞いてしまいました。さすがにクラッシックジャンルでの「現代音楽」はこんなバカバカしいレベルの自称「アート」作品はないのかな?
子供の頃よく聞いてたNHK FM「現代の音楽」のテーマ曲が現代音楽かと思ってました。あれがバッハの作品だと知ったのは最近のことです。お客がブーイングして暴れ出すといえば春祭ですよね。でも火の鳥なんかはチャイコフスキーと変わらない感じで気楽に聴けて大好きです。
演奏家の視点による現代音楽評はとても新鮮でした。面白かったです。声楽家にはリスクもあるのですね。なんていうか、現代音楽は、絵画で言うとピカソなどの絵のような物かなと思っています。基本的に絵画表現の歴史の流れの中でピカソはあの表現に辿り着いたのでしょうが、一般人はそんな流れは知らないので「うわっ」となりますが、絵画史の専門家などは「これは新しい、凄い!」と唸ったのでしょうね。現代音楽の評価基準も、そんな感じなのかなぁと思っています。
クロノスカルテットが演奏したスティーブ・ライヒの「ディファレント・トレイン」が大好きになり、それから現代音楽が好きになりました。私はフリージャズも好きで、現代音楽を聴くと似たような感じがあるなと思うことがよくあります。作品によってはフリージャズ以上に実験的なものもあって驚かされます。
コペルニクスのお話、とてもワクワクしました。是非みてみたいです!!
創造には2種類ある。1つは純粋に美しい物・良い物を作り出そうとする創造。もう1つは不快感のあるもの・異質なものを美化して作品にする創造。現代音楽の不協和音・無調音楽などは後者に当たりますね。そして後者のそれは単純に考えて難易度が高いことが分かります。
車田先生&視聴者様今回も、素晴らしいご考察!論文の為の論文そうした感覚を持っている方も多いのではないかなあとずっと思っていました。ベートーベンやワーグナーを超える新しい音楽それがあらわれていないのか、今を生きる私たちにはまだ理解ができない作品もあるのか?等など考えてしまいましたが車田先生の様に初演を任されるという栄誉もありますし評価が定まっていない分、取り組みがいもある、とも思いますが音も多すぎるし譜読みも大変すぎるし別の意味での緊張状態がずっと続き、確か演奏家からするとにコスパは悪いですね(爆)一般的な方々や生徒達に聞いてみると「恐怖映画のサントラ?」的??な答えが返ってきます(爆爆)トゥーランガリラ、好きです(^_^)私はクリスチャンではないしメシアンって、練習していても、音が多すぎ譜読み大変すぎ音にしてみてもこれで合っているのか?となんだかいつも多重録音的な聴こえ方で音楽ができあがってみないと、全体像が見えてこず把握できない難しさがありますがある程度できあがってくると「ああ、こういう世界観なんさ!」と感動しました(*^_^*)でもこういう曲を、一般の方々に理解してもらい、味わってもらうって、道のり遠いかなあ。。。これからも、ご投稿楽しみにしておりますm(_ _)m現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
昔の私にはドレミの音階以外は全て現代音楽に聴こえて意味不明でした。もう、ドビュッシーなんて完璧現代(笑当時は自分が理解できない音楽は当然バカにしてました(苦笑今では、6音、12音、チャーチモード、ディミニッシュスケールもろもろ美しくもカッコよくも聴こえます。ドレミ以外の規則性が認識できるようになると、とたんに面白く聴こえだしました。現代音楽の演出的な要素ではなく技巧的な要素に関心のある方は、尺八などの古典邦楽もぜひ!西洋では1900年代に始まったアプローチがもっと古くから完成されていて感慨深いです。
10年前、シェーンベルクとベルクとリゲティのそれぞれのヴァイオリン協奏曲がちんぷんかんぷんだったけど今ではベルクとリゲティは大好きになった。でもシェーンベルクは今もちんぷんかんぷん。同作曲家の初期の浄夜とかグレの歌は大好きだけど。
ブリテンのオペラは良いですね。特に「ノアの洪水」 Op.59はオペラ苦手という人も聴けてしまいます。英国の学校ではクリスマス時期に一部を演劇風にして生徒達で楽しむそうです。
恐らくクラシック音楽は、20世紀初頭……R.シュトラウスの辺りで『完成』されてしまったのだ、と私は思っています。『完成』の後に、新たな作品を創り出すのは本当に難しい。その結果『実験』だったり『破壊』だったり奇抜なものになってしまうのでしょう。30年程前、テレビのワイドショーで、人気タレントに得意料理を作ってもらう!というコーナーがありました。その日は、若い男性タレントが出演していました。彼は、自分の創作料理だと言って、完成されたコロッケをフライパンの中でグチャグチャに解きほぐし始めたのです!全部解きほぐして出来上がり。それを試食した司会のタレント夫妻の、「美味しいわね」と言いながら目が全く笑ってなく、あの何とも言えないビミョーな表情を、私は今でも覚えています😂😂😂『完成』の後に来るのは『破壊』。そして、そのような試作と実験を繰り返すうちに、きっと未来に繋がる素晴らしい作品が創り出されるのでしょう。でも、そういう秀作が創り出される過程で、グチャグチャのコロッケを食べさせられるようなモノを聴かせられたり、大切な声や楽器を壊されたりするのは、勘弁してほしいですね😅ここのところ、バロック時代の解説が多かったので、今日の解説はとても新鮮でした💐💐💐
現代にも残されている分野は非12平均律の(微分音)音楽だと思います例えばボーレン・ピアース音階でできた傑作はまだ生まれていないのではないでしょうか?n平均律を自ら選び、それで新たな和声などを生み出す ここにはまだ開拓の余地がある気がしています
古典の流れを汲む現代音楽のジャンルに映画音楽があると思います。ジョン・ウィリアムズやバーナード・ハーマン、ニーノ・ロータの美しい旋律はベートーヴェンやモーツァルトの音楽に負けない普遍性があると思います。
30年くらい前、中学生か高校生の頃に「キッチュのバーチャルプレイゾーン」という深夜ラジオを聴いていました。26世紀から20世紀にタイムスリップして来た科学者のDr.キッチュがその20世紀で出会った少年と二人で26世紀のラジオ番組『KACO(カコ)』を聴いてトークをする、『KACO』では1950年代から1990年代(番組放送当時)までのポップス、洋楽などの音楽を(26世紀の人から見て)クラシック音楽として紹介する、という番組でした。確かに現代のロックやポップスなどの音楽も何世紀も経てばクラシックと呼ばれるようになるよな、と思ってました。
現代音楽でもジョン・ケージのような難解な作品(正直自分にとってはつまらない)を聴くぐらいなら映画音楽やゲーム音楽のほうがよっぽどクラシック作品と同じような感銘を受ける作品があるし演奏する方も変な音の出し方したり不協和音と完全に不規則なリズムを奏でるよりスター・ウォーズとかジブリ作品とか演奏するほうが気持ちいいと思うのだけどどうなんだろう?特に4分33秒なんて丸や四角を塗り分けただけの評論家が認めたから芸術作品みたいな抽象画と同じようにつまらないと感じてしまう。
今回のお話の内容には関係ないのですが、車田さんのお声で音楽解説を聞けることはとても贅沢なことですね。どんなお話しでも心地良く、幸せな楽しい気分になります。
現代音楽に対する一般的な受け止め方は、とにかく敬遠したい、ということだと思います。それを、聴衆は保守的だ、新しいものに対する受容力がない、と非難することは可能でしょう。しかし、聴衆の側にしてみたら、現代音楽の供給側はじぶんたち聴衆のことはまったく眼中にない、ただ、自己満足的に奇抜な新作を作ってるだけ、というふうにも見えてしまいます。言い換えると、親しんでもらおう、という意図が微塵も感じられない、ただ突き放されているだけ、という感覚。希望としては、現代音楽の良さを理解してもらおう、という意図が少しでもあるのだったら、コンサートで短い時間、そのようなサウンドに慣れてもらえるような短い作品、あるいは長い曲でも一部分を演奏しても音楽として成り立つような、そういう曲をつくったらいいのに、と思います。少なくとも、現代音楽を1時間以上継続してきかされるのはほとんど苦行です。集中して聴けるのはおそらく10分以内。その時間に収まるような曲を作って、聴衆に馴染んでもらう努力をしたら、すこしは違うのではないかな、と思います。
同感 ちらっときいても惹きつけられることなく、『なんだこれ?』って印象だけで過ぎ去っていった。
私はいわゆるクラシック音楽も大好きですが、ミニマルミュージック特にアルヴォ・ペルトが大好きです。どこかバッハに通じる感性があるのでは?と思っています。何回聴いてもあきません。
曲が終わったあとの拍手と歓声がすごいイメージです。 曲の感想は 不安定で 暗い感じ ですかね。 あまり聴いた事なく たまにテレビでやっていた時の感想でした。
なんにでも言えることだが前衛に走ればそのジャンルは衰退する。現代音楽にしろモダンジャズにしてもあまり好んで聞く人は少なかろう。現代音楽に限ってもメロディを無視しすぎだ、かの武満徹氏も言っていた我々はメロディを追求しなければならない。←語句は違っていたかもしれないがそういう意味のことを言われてた。
コペルニクス、体験してみたくなりました。
クラッシックのメロディーやハーモニーに染まってしまった自分は、耳が、まず現代音楽を拒否ってしまいます。始めのうちは我慢して聴いていても、聴衆ピラミッドの下部にいる者としては、早々に聴きなれた曲に戻っちゃいますね。また、現代音楽が「演奏家や楽器にとってリスキー」というのは、確かにその通りだと思いました。今まで現代音楽に対して持っていたイメージや、モヤッとした感想が、この解説の中で明確になった気がします。
何年か前に現代曲も入れるべきとの団員の声もあり、私も20曲ほどスコアを読んだり、実際に音を出したりしたことがあります。結果、団員はやりたくないという声でした。意味があるかどうかわからない変拍子、不協和音の連続で私も振りながら作曲者は何が言いたいのだろうとの印象でした。だからと言って現在の作曲家を否定しません。こういうのは自然淘汰されるものであり何十年かしたら評価されるのかもしれません。
シェーンベルクを聴き始めたキッカケは、「トムとジェリー」の効果音に十二音技法が使われていると知ったのと、生演奏です。まだまだ5曲程しか知りませんが、好きかと問われると、ん~……微妙です。最近人気のカプースチンの曲は、例えばジョン・ケージ他の様な実験的音楽では無く、メロディーやノリがわかりやすいので、今後も演奏され続けて行くような気がしています。何かAIでも絡んでくると、音楽5期の始まりになるのでしょうか??その境目を、無理でも見届けてみたいものです🌠人間にしか表現出来ない感情を乗せた、人間主体の音楽が普遍的に奏でられています様に…🙏~🌠演奏家側の経験談や努力、自己管理、御苦労などを教えて頂き、ありがとうございました。聴衆側は自分が演奏した経験が有れば少しはそれらを感じられる場合も有るかもしれませんが、観ただけではわからない・気付かない事が多々有ると思いますから( 他の演奏も然りです)、時には出来なくても、そういう事を知ろうと興味を持つ歩み寄り、ほんの少しだけでも良いので、大切だなぁと改めて思いました。
一般人でも理解できる最後の現代音楽はウェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの楽章」だと思う。ブーレーズのウェーベルン全集をもっているが、聴きたいと思うのはこの曲だけ。シューンベルクははるかに聴きやすくて、「月に憑かれたピエロ」「清められた夜」、弦楽四重奏などは、マーラーの延長で普通に聴ける。今の現代音楽の作品は初演されたとしても再演されることはほとんどないと聞いている。マーラの音楽でさえ、一般人に評価されるのに60年くらいかかっているが、残念ながら現代音楽はどれだけ時間をかけようが、これを楽しみに聴くということが一般化することはないだろう。
たまに夫婦でクラシックや2000年代に作曲された現代音楽のコンサートを聴きにいきます。会場を出た後の感覚はクラシックと現代音楽ではちょっと違いますが、どちらも何かしらの深い喜びを与えてくれます。クラシックはいつも感動して涙が出ることも多々あります。現代音楽に関しては、今まで聴いたことのない音世界に包まれるのが楽しくてワクワクします。車田先生のお話はとてもわかりやすく心地良いです。正直に話されますし笑クラシック、現代音楽をもっと聴きたい気持ちになりました!
コペルニクスに興味出てきました
緊張感のあるお話
「聴衆を置き去りにする」「本来の奏法を無視する」ということは音楽以外の芸術、また他の文化、例えば政治などでもよく見られる現象に思えます。私たちは何を見せられているのかわからなくなる時があります。動画の締めに言われた「繰り返し聴かれる必要がある」「聴衆不在にならないように」というメッセージは今全ての文化に言えるような気がしました。
現代音楽のお話。おっしゃる通りだと実感します。自分は中学の時に12音技法や自分たちの国も含めて今の音楽も聴かなきゃもったいないと思って、ラジオで聴きあさったり、実際に書いてみたりして、意外と面白いなとハマってました。当時の一押しは「和解のレクイエム」でしたよ。様式の多様化というのはなるほどその通りですよね。セリエリズムや不確定の音楽を通過して一時期はサウンドの時代とかなどもありましたね。ちゃんと感情の起伏に素直に計算された音響を当てはめている音楽作品は非常に面白く聞こえます。反面成功していない作品は残念です。音楽ははじめ、風の音だったでしょう。それから鳥の声になり、自然の中にあふれる音と祈りや祝いの気持ちが形をとどめられるようになったような気がします。作曲家はそれらの音の素材を自分の形にしてパズルのように組み合わせて、人の喜ぶ作品を作り上げてきましたが、今は聞こえる音が多くなりすぎたのでしょうかね?自然な音よりも人工的な音の多いこと。モーツァルトのような、ショパンのような音楽が欲しいと言われれば、モーツァルトやショパンをやればいいので作り手は違うことを別の形で作らねばならない苦しい時代ですね。それでもあれだけのエクリチュールをこなしてきた作曲家たちは美しい書式と響きを知っているはずなのに・・・かつてリゲティが作品審査で「ハイドンをちゃんと研究しろ」と言ったことに通じるのでしょう。また「夏の夜の夢」原作の最近の新作オペラで人ならざるものを表すためにとんでもない高音の連発を使用しているのをラジオで聴いて「これ他人で再現・再演できるの?」と感じました。聴衆も演奏家も興行主も関わったみんなが熱狂・感動できる作品がクラシック分野の新作で数多く誕生することを願っています。
現代音楽はなかなかとっつきにくくほとんど聴きませんが今回のお話はとても興味深かったです。武満徹のノヴェンバーステップスはどの辺りになるのでしょうか。科学の世界では、何か今までに無い新しい性質の物質や新しい法則などが発見されると、ただそれだけで価値があるということがあります。「新しい」というだけで「知識が増える」と同時に「今まで考えられなかった新しい役立ち方」の可能性が広がるのですから。芸術においてもただ「新しい」「今までに無かった」というだけでも今までに経験されていない種類の感動を手に入れられるのかもしれません。私自身はまだその境地には達していませんが。
オマケで本編よりラフに笑ってるとこで思いがけずダメージくらった😇36:53
いわゆるクラシック音楽が現在進行形であった頃はクラシック以外の音楽がなかったですよね。現在の音楽のメインストリームは商業的規模から言うといわゆるポピュラー音楽であって現代音楽ではない・・・。そこから目を逸らすわけにはいかないと思います。その、クラシックしか無かった時代から、ポピュラー音楽と現代音楽に別れた時のことに興味がありますね。
現代音楽とは映画音楽のことだと思っていました。実際、ジェリー・ゴールドスミスとかディミトリー・ティオムキンとかエンニオ・モリコーネとかが大好きです。映画を見てサウンドトラックを買うのがお決まりでした。わかりやすいメロディーという意味でモーツァルトとつながるのかもしれません。
声楽家から見た現代音楽への視点から、こんなにも分かりやすく両面性を説明していただきありがとうございます。現代音楽に欠かせない要素がやはり電気なんですよね。。これにより、電気的な音とかももちろんですし、なにより、動画(昔はフィルム)に残せるようになってきた背景が、大きいと思います。これにより、より強烈な音像(怨憎?)イメージを残しやすくなり、さらに重工業が発展したことによっていろんな形で、人の耳・脳裏に残る音が大きく変わったことは影響していると思います。それを、敢えて電気を通さない音楽(かつ十二音のみ(使っても微分音))で、挑戦しているなあぁという作品は、本当に感銘を受けます。
音楽には人の心を動かして魂を震わせるほどの素晴らしい力がありますが、その素晴らしさを取り去って純粋なアートにしたものが現代音楽だと感じます。自己満足のウェイトが大きい創作物だと思います。人生は短いので、私は美しく感動的な旧来の音楽を聴きます。
自己満足ではないものも可能だと思いますが、それは音楽というよりは音響芸術であって、向き合い方も違うと思います。調性音楽に感じるような音楽的感動を得ることを目的とするものではないのでしょう。
私にとって現代音楽の長所は「飽きが来ない」ということである。つまり、本当にイイと感じて徐々に耳だこになることは皆無なのである。そうでない現代音楽を私はは「即古典」と呼んでいる。
クラシックに詳しくない者からすると前衛音楽は独立した別ジャンルとして切り離してほしい。現代音楽って時代の趨勢より前衛性を重視してるようでわかりにくい。
科学的な方向性が顕著に成ってる感じがありますね。とは言え、古典時代から音楽は数学的というか科学的な側面はあったので、そこは普遍性があるのかなと思っています。
現代音楽といっても、日本人にとって武満徹さんの作品は特別ですね。
武満さんのオペラができていれば… どんなだったでしょうね 車田さんも喜ぶような曲になったかも
現代音楽の初演となるとプロデューサー、作曲者、演奏者などリスクがあり大変そうですね。オペラの配役はイメージに合うから選出されるのでしょうか。絵画のようにAIを使った作曲というのもありそうです。
現代音楽は最近は聴いていませんが不協和音が心地よくてよく聴いたり弾いたりしていました。現代音楽が判らないとかつまらない人は不協和音が嫌いなんですかね。
現代音楽とは何なのかということを完全には理解できなかったのですが、聴衆受けするという観点では映画のサウンドトラックに採用されるような曲はちゃんと条件を満たしているのかなと思います。一方でバロックの時代でも、名も無い作曲家による変な曲というのは存在していた気がします。現代と違い記録を残すのも高価なので、忘れ去られてしまったのではないかと。バラ。見た目だけでなく香りも良いですよね。
個人的には、現代音楽以前、以後に分けて扱う意味はあると思いますが聴衆がそれに従う理由はまったくないと思ってます。軽音楽を聴くとしてもメロディだけじゃなくてベースやドラムのカッコよさを理解している人は多いでしょうし、それと同様の視点を現代音楽に持ち込むだけでいいのです。はっきり言えば勉強する必要すらないと思います。この点は前提知識は分かってて当たり前な基礎科学や能楽などより敷居が低いと思います。吹奏楽では時たま明らかに現代に寄った作品が取り上げられることがあります。もちろん学生が演奏することもままあります。しかし彼らはそういったものに驚くほど忌避感を持たず真摯に取り組んで高い水準の演奏を聴衆に届けてくれます。そういう状況(学生にこんな曲を演奏させるなんて~・・・的な)を問題視する人こそ無理解な聴衆になってしまう程に、です。結局のところ敷居を下げ、市場を広げつつも高さを積み上げていくには演奏経験のある聴衆を増やす外ないだろうと思います。ジャンルはあくまでジャンルでしかなく、もっと横断的に音楽を聴いていけるだけの余裕がほしいものです。
モーツァルトもベートーヴェンもバッハも「作曲された時」は「現代音楽」だった訳ですよね。これらの「現代音楽」は、「今、この時」には「古典」として聴き継がれています。では「今、この時」の「現代音楽」が果たして100年後、200年後に「古典」として聴き継がれているかどうか❓と考えると、個人的な考えですが、極めて懐疑的ではあります。ただ、矛盾するようですが、「作曲された時の現代」には批判され無視された作品も「今、この時」には「古典」成り得ているものも多数あります。そう考えると「今、この時の現代音楽」も100年後には再評価されて「古典」になっているかもしれませんね。タイムマシンがあれば100年後の聴衆に評価を聞いてみたいですね。蛇足ですが、随分前にサイモン・ラトルがブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を演奏した後に彼に「お恥ずかしいのですが、私はブリテンを初めて聴かせていただきました」と話をしたのですが、ラトルは「ブリテンの真髄はオペラにある。彼のオペラを聴きなさい」と言ってくれました。そこから私の、ブリテンへの旅、は続いています。取り留めのない話で申し訳ありません。
綺麗な薔薇です✨🌹✨車田さん邸を訪ねたいです♫日本でリサイタル是非してください♫絶対ゆきます♫
コペルニクス2015年の初演で主役ほんとにすごすぎます
現代音楽を心地良いと思う事は少ないです。聞きたいと思いません。現代音楽の作曲家には、「勝手にやってください。私は近づきませんから。」と言いたいです。もちろん高いお金を払ってコンサートには行きません。
ジョン・ケージの4分33秒を、ヘビメタバンドがやったときは、さすがに笑えました。
なるほど、そうやって難解な現代音楽も作品によっては世の中に浸透していくのでしょう。奇抜とも思えた『カルミナ・ブラーナ』は、今では好意的に受け入れられています。人気バンドが、自分達の解釈とエンタメ要素を取り入れて作ったミュージック・ビデオを2つ程観たことがあります。「何が良いのか」の基準は、よく分かりませんが、難解で奇抜と思われていた現代音楽の作品が、人気曲になる可能性も充分あるのですね😊🎵
「無音の中から聴こえる音も音楽である。」現代音楽の究極形ですよね。4分33秒(「無題」)が発表されて以降、作曲家たちはこの先に何ができるんだってなって迷走する作品も増えたんだろうな~。
アマ弦楽器奏者です。現代音楽が大好きですが、聴衆が感動するように演奏できるのはやっぱりプロだ、と思います。解釈や表現を素人の私達に沢山プロが伝えて欲しいと思います。
我が家も、庭に薔薇ちゃんを植えています♪世界的なデザイナーの故・森英恵氏は蝶々夫人があまりお好みではなかったとの記事を読みました。男尊女卑に嫌悪感があったからみたい。いまならタブーとされるシナリオも、逆に現代向けにねじ曲げすぎてしまうとまた魅力が欠ける場合があるので難しいお話かもですね😢ちょっと違いますが私はアラフォーで小学生からバンド活動してます。昔の曲が懐かしくても、90年代と今とでは若者のコトバも全然ちがいますし、音楽をやる上で時代把握は大切だな~と丁度感じておりましたw興味深い内容でしたm(_ _)m
石桁真礼生 作曲の河童譚っていう曲で一瞬娘役を真似て裏声で歌うシーンありましたが、フルで裏声って・・・・頭おかしいやろ
今回の動画は、なかなか難しいテーマですね。思うに、本当に美しい音楽は、一度も音楽を聴いたことがない人でも、すぐに感動するものだと思います。そうであってこそ、人の心を癒やすのだと思います。何度も何度も繰り返し聴いて理解を深めなければ受け入れられない音楽は、もはや、音楽というより「ただの知的作業」ではないでしょうか。残念ながら、もう音楽は終わっている、ということではないでしょうか。ドレミファソラシドと長調・短調の音階は、光の七色と同じで、理屈を超えて人の心に訴えかけます(神からの贈り物)。現代音楽はそれを否定し、超えようとして失敗しましたね。
うーん、コペルニクスを聞いてみたくなった。
通常以上に手間も時間もかけて客からブーイング! ( ºωº ; ) ありがたくない現代音楽w
まあ、音楽版「サラダ記念日」のようなもの。旧来の枠組みから脱して新しいスタイルを追求しようとするものの、ではポピュラー化とどう違うのか?という点で自縄自縛となって発展しない。「旧来の音楽」とは、結局、パトロンのための音楽であり、支配階級がオーサライズするからクラッシーな音楽=クラシック音楽として認められた。パトロン階級が没落し、作曲家がパトロンなしで自分の趣味嗜好で作曲し始めたから、現代音楽は取り留めなく、求心力のない音楽だと感じられてしまう。
労力の割に見返りが少ない・・・。分かるような気がします。故小澤征爾さんは全曲暗譜されておられので、メシアンの『アッシジの聖フランチェスコ』を世界初演した時は大変だったようですね。ブリテンの『ルクレツィアの陵辱』は評論家の吉田秀和氏が大絶賛した傑作ということでCDを持っているのですが、一度聴いただけでは良くわからなかったので、車田さんのお話を聞いてまた聴き返したいと思いました。特撮テレビ番組の『ウルトラセブン』では、現代音楽風の曲が多く使われていましたし、ホラー映画も現代音楽風の不協和音を多用した伴奏が多いように感じます。そういった意味で、現代人は現代音楽に対して、左程拒絶反応は無いはずなのですが・・・。メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』は小澤征爾さん指揮トロント響の演奏で、武満徹さんの『ノヴェンバーステップス』とカップリングされたLPで聴き馴染んでいて、シェーンベルクの『浄められた夜』、『月に憑かれたピエロ』とともに私にとっては古典です。
久石譲の映画音楽、「君たちはどう生きるか」は、ミニマル音楽の成功例だと思います。
素晴らしい作品は、現代でもなんでもよくて、広く聴衆に受容されたものが残っていくとうことなんでしょうかね?
サウンドアートというジャンルがあります。狭義のサウンドアートは演奏者が存在しないものだそうですが、演奏者によって演奏される場合でも音楽という範疇を超えたサウンドアートというものがあり得ます。現代音楽の一部にはそれに相当するものがあるようですが、それを音楽と捉えるのは間違っているように思います。ジョン・ケージの「4分33秒」はそれをさらに超えたものだと思いますが、それは、マルセル・デュシャンの「泉」をアートと呼ぶのならこれもアートだと言えるようなものだと理解しています。
音大で作曲を学びたいんだけどポピュラー音楽と現代音楽どちらを学ぶのか悩んでいる、、、、、、、
武満徹、吉松隆、坂本龍一は日本の誇るべき現代音楽の作曲家と思います。
「コペルニクス」興味津々だなあ。でもこういったシアターピースは映像、録音では真価はわからないでしょうね。フィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」やシュトックハウゼンの「光」は聴くだけでは退屈ですが劇場で聴けば印象が変わるのかもしれません。ここが現代作品の難しいところですねえ。劇場にいる人にしか真価がわからないということは世に広まらないですからね。しかも一度ではわからない作品も多いし。たしかに「割に合わない」けれども「作り続けなければならない」
現代音楽は難解でなく無意味。バッハやモーツァルトの後では、立ち尽くすだけで何も出来ない。絵画や彫刻も無意味なものを有り難がる文化が一部の界隈で成立した、それと同じ現象だろう。文学ではこんな事は起きない。音楽と視覚芸術は抽象的なので、誤魔化しが通用するのだろう。
素人による作曲コンクールの受賞曲などには弾きにくいものが多い。楽器や演奏技術に関する基本的知識のない人が作るとこうなるのだろうと思ったことがあります。ある試験の課題曲だったのですが、クオリティーの低い楽曲を繰り返し練習するのが苦痛で、試験を受けるのをやめました。
吹奏楽のコンクールがまさにそれ。演奏している中高生はほとんど理解できないと思われるのに受賞するためにやらされているという。
演奏家にとっては「ありがたくない」…としか言えないですね💦
CD4枚組の現代音楽百選は、愛聴しています。黛敏郎、芥川也寸志、松村禎三などの交響曲的作品も繰り返し聴きたくなります。毛嫌いはもったいないので、まずは聴いてみるのがおすすめです。合わなければ聴かなくなるのが自然です。
哲学も奏者への尊敬も学びも何も無い曲は、聴いていて良いと思えるわけがない、と思います。それは時代を超えて共通するのではないでしょうか。
コペルニクス? 「それでも地球は回っている」と言った天文学者ですね。それをイメージする曲なんですか? 演奏スタイルまで芸術の表現に使ってるんですね。初めて知りました、車田さんのお話はとても勉強になります。 カルミナ・ブラーナは好きでよく聴きますが、車田さんのバリトンで聴きたいですね、ラテン語の発音は難しそう。 日本でぜひ演奏して欲しいです。
ベートーヴェンの Op. 133 だけ認める。
好きな曲はあるけど、歩み寄りのない一方的なものがあまりにも多すぎる。どうにか聴き終わった瞬間もうメロなんて思い出せない。不協和音とサンプリングのような音を断片的に思い出す。音楽のすばらしさを伝えようと思ってない。俺様の芸術のすばらしさを伝えたいのだ。金払っておなぬーを長時間聴かされたらブーイングする気持ちはよくわかる。好みはさておき。現代音楽の年代的な背景を考えるに、自分は録音技術の発展とレコードやラジオなどの普及の影響もあるかと思いました。ラジオで遠出しなくても音楽を聴く機会が増えていき、蓄音機やレコードで聞き手が自由にリピート再生できるようになった。特にこのリピート再生の技術を手に入れたことで、覚えさせる気のない音楽 を覚えるまで聴くこともできるようになった。まあドラゴンの年は素晴らしい。
コペルニクスのトレイラー見つけました。オーケストラだけの1分でした。歌声がなかったのが残念。ruclips.net/video/th_ZbwoXxZk/видео.htmlsi=EmWokLin6qMnP4qy曲のセッティング、相当面白そうですけど、もう上演されないのでしょうね。ゴットフリート・フォン・アイネムといえば、「日本の葉」op.15も好きです。
現代作品、特にPOPSで耳に着く、記憶に残る作品はほぼないですね。現代人が劣化したのか、音楽が行き尽くしたか、なぞですね。ただ最近の歌謡曲で良い曲はほぼないです。
音楽を勝手にカテゴライズして選り好みしているのが、我々大人ではないのかな、とも思います。カフェで7〜12歳くらいの子供相手に、カルテットでジブリ、鬼滅の刃、ショスタコーヴィチ、藤倉大(チェロ独奏)を聴かせたことがあります。身動きもせず聴き入っていたのは、ショスタコと藤倉大でした。分かりやすいメロディで喜ぶ訳でもないんだなぁと。美しいものは美しいんですね
私は新参者で知らない事ばかりですけど、個人的には先鋭音楽として分けるべきと思います。兼田敏さんのパッサカリアのように、現代音楽の技法を使っても緻密で美しい曲書けますからね。どうするにしても、わざと楽器を傷める奏法をさせる曲は書くべきではありません。
昔、N響アワーのオープニング曲がトゥランガリラの5楽章で、それ以来メシアンの音楽が大好きになりました。今考えれば、メシアンの音楽が毎週テレビで全国に流れていたという状況は結構レアだなと思いますし、そんな国は日本ぐらいなのかな~なんて思ったりしてますw 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を車田先生の演奏でいつか生で聴いてみたいです。ぜひ東京で、お願いしますw
コメントのおかげ様で、何となく耳で憶えていた♪トゥ―ランガリラの第5楽章を思い出し(確か2000年でしたよね?)、全楽章との再会を果たせました。当時は響かなかったのに、えっ、こんなにリズミカルで楽しくて格好良かったっけ?と、24年越し?で、はまりました。ありがとうございます!
そりゃあ、今 残っている曲は100年200年という年月を経て時間によって選び抜かれたものですからね
私が考える現代音楽は、無調音楽です。長調短調の区別がなく、メロディは不規則に上がったり下がったりして予測し難く特徴がなく、従って記憶にも残りにくく、感情がなく無機質で、人間の様々な感情を全く表現しない音楽だと思います。いえ、音楽というのはお世辞で、音楽ではないと思っています。一般的にも人気がなく、試しに一度は聞いても、2度めはもう聞きたくない、そういうものかもしれません。ありがたくないものとおっしゃいましたが、演奏家からすると、おぼえにくく、人気がないので歌うチャンスが少ないというのはよくわかります。因みに、日本合唱連盟の課題曲になるものはこの種のものが多いと感じています。でも一部の専門家はこれこそ芸術だと言っているようです。
高校生の時にスティーブ・ライヒの八重奏曲を聴いて以来、30年以上、現代音楽ファンです。日頃、クラシックよりジャズやロックを好むので、私にはいわゆるクラシックより馴染みやすかったです。とはいえ、一音楽ファンの正直な感想としては、現代音楽は外れが多いのと、聴いた後で音型の記憶が残る作品が少ない。その一方で、クラシックやポピュラー音楽を聴いている時には、ほとんど経験ありませんが、聴いていて自然の一風景が浮かぶ作品が少なからずあります。現代音楽は音楽だけより、何かしらのビジュアルエイドがあった方が受け入れられやすいのかなと思います。ヘンツェやクセナキス、武満徹さんらの作品には、私にとって聴いてよかったと思える特別なものがあります。オペラではシュニトケの白痴、見たのは10年以上前ですが、強烈な印象がまだ残っています。最近ピアノを買って、いつか武満さんの作品弾いて、割りに合わない経験してみたいですね。
やっぱりそうなのかと納得の行くお話でした。私たちは「おいしい」、「おいしくない」という言い方をしますが、現代音楽は「おいしい」曲が少ないという思いは、プロの方々でも同じなんだという安心感を持ちました。
「新しさ」の重要性という意味では、学問の世界で生きてきた者にとってはそれなりに分かるのですが、私の分野でも「新しい」かもしれないけれど、現実の経済の理解のためにはそのような最新の論文より1960年代の教科書の方がよほどマシというという現象は存在します。
それとカレーで例を挙げますが、刺激には割と慣れやすいので、カレー評論家はますます辛いカレーを求めるけれど、カレー初心者には辛すぎて耐えられないということはあろうかと思います。要するにどこまでの不協和音を美しいと感じるかという話ですが。バーンシュタインは現代音楽の解説で、皆さんは映画のいわゆる劇伴で、知らない間に現代音楽のような不協和音の音楽も聴いているんですよと書いていましたが、まあ、映像のあるなしで状況は変わるとは思います。
聴衆不在で論文の発表みたいになっちゃっているというのは、うまい例えですね。
私も現代音楽と言うと、シューンベルク以降の無調音楽の影響受けた作品のことだと思ってましたので、非常に勉強になりました。
車田先生、今日も楽しいお話をありがとうございます。
ラヴェルやドビュッシー、ストラヴィンスキーなどの近代音楽を現代音楽に含めてしまうととても幅広いジャンルになってしまいますね。
私は個人的に年代で分けるというよりもスタイルで分けたいと考えています。
具体的に言うと十二音技法以降、つまり調性との決別を求めた作品からが現代音楽と定義付けています。
実は私は現代音楽がわりと好きな方で、ルチアーノ・ベリオ、ヤニス・クセナキス、オリヴィエ・メシアン(トゥーランガリラ交響曲、僕も大好きです)などの作品が大好きでよく聴いています。
また、我が国が誇る偉大なる作曲家、武満徹先生の曲は本当に心を鷲掴みにする歌心がとても好きです。
十二音技法やセリー音楽、トーンクラスターあたりまでは許容できますが、目新しさや奇抜さを求めすぎた実験的な作品はあまり好みません。
ジョン・ケージは曲によっては好きですが、やりすぎと感じることも多々あります(実験音楽を標榜していたのである意味「わざと」なのでしょうけれども)
車田先生の仰る通り、聴衆が置き去りにされるような作品は好きではありませんし、聴衆どころか演奏者すら置き去りにされてしまうような作品はやはり好きではありません。
落語に古典落語や創作落語があるように、古典的な曲も現代的な曲も愛せる人が多くなると嬉しいですね。
普段私がなんとなく感じていることを、車田さんが、きちんと整理して話してくださるのをお聞きし、"そうだ、そうだ" と共感し、納得することが多いです。いつもありがとうございます😊
ここで例として挙がっていました「初演」…
何事にも、「一番最初」「初めの一歩」「先駆者?」等の苦労は、素晴らしいものですねぇ… ただ単に、言われた事を行うのではなく、より良い形にしていく、その為に、意見を言い、聞き、必要とあれば、変化させていく… 「出来上がったモノ」の素晴らしさゆえに、後日、多くの人たちに「浸透」して行き、場合によっては、ながぁ~~く、世に残っていく… いいなぁ~~♬
いつもながら、車田さんの言葉には、世の様々な事にも通じるので、まるで、「哲学」そのものですね。音楽に関する知識とかだけでなく、その意味も含め、ありがとうございます。
自分が日本で学生だった頃、大学の作曲の先生が作曲した作品の初演に二・三度参加しました。
作曲家の仕事というか、作曲をするということは書斎でスコアを書き上げて終わり、ではなく、そこから演奏家とリハーサルを重ね、議論し、細部を手直しし、また演奏家の側からいろいろアイディアも出し、それを互いにすり合わせ、一つのものと作っていくものだとつくづく思いましたし、その過程は「作曲家が生きている」ことでしか体験できない非常に刺激的で興味深いものでした。その結果作り上げた初演の演奏はやはり特別でした。
その数年後、同じ作品を再演したのですが、初演の際にある程度「その作品のスタンダードな演奏法」を自分たちが作り上げていたので、圧倒的にやりやすかったですし、それもまた特別な経験でしたね。
我々がオーソドックスだと思っているベートーヴェンやモーツァルト解釈も、そうした初演から幾度もの再演、初演の際に作曲者自身から解釈を授けられた演奏家がそれを再演、またその教えを受けた演奏家が再演、を繰り返し、長い時間をかけて熟成されてきたものなのだということを身をもって体験することができました。
それにしてもオペラ《コペルニクス》は、もし自分が振らされる立場になったら地獄ですね。。。
そんな複雑なスコアを読んで、プローベをして、しかもそんな指揮しにくい配置でやらされると思うとぞっとします。。。
「現代音楽」(あるいは新しい音楽)というクラシック音楽のサブジャンルは、時代区分と音楽概念の拡大(Jケイジ登場の前提)とを、ともに含んでいるように思います。
デュシャン以降、美術の概念を問う形で美術の形式が拡張されました(形式からは定義困難)。
音楽でもそれに対応する動きが生じ、その成果が現代音楽(多様化した音楽)と理解できそうです。
演奏会で集中して現代音楽を聞いたおかげで、このサブジャンルにも慣れた者からすると、心を動かす作品があること自体はいうまでもありません(武満徹は馴染めなくて、という人に聞けといってもしかたない)。
フランチェスコを主人公にしたメシアンのオラトリオ(?)は傑作という歯科なさそう。
「世界音楽」(たとえば新作を含む邦楽)を知っていることも、現代音楽への態度を決めるかも。
JSバッハがメンデルスゾーンによって復活したことは、きちんと理解しておくべき音楽史上の事態でないでしょうか。
現代音楽、どの辺からが、そうなのか、わかりにくいですね。私は、十二音技法が、その始まりなのではと、思っていましたが、バルトークの弦楽四重奏曲は、そのはしりみたいに感じますね。お話を聞いていると、声楽家の方にとっては、やりがいはありますが聴衆の反応が今一つみたいですね。これは、やはり、理解することが、難しいものが多いからでしょうか。しかし、たくさん、現代音楽を演奏されておられ、すごいなぁと思いました。万人受けすることを考えるから、現代音楽の価値がわからないのかもしれませんが。私も、春の祭典は、幼い頃は、やかましいなぁと思っていましたが、成長して、おもしろいと思うようになりました。この曲が初演された時のことを考えるとわかりますね。メシアンの交響曲もそうでした。またいい現代音楽に出会えるといいなぁと思います。薔薇が綺麗ですね。ドイツはお花が安くていいですね。
「目新しくなければならない」というのが、音楽にとっての新たな「壁」とならないことを祈ります。
等身大でいることが、自然と「躍進」に繋がるのではないかと思います。
現在の私たちが、素直に共感し感化し合える音楽を作ること…それを後代から見れば「躍進」と言うのかもしれません。
いつも啓発的な動画をありがとうございます。
別ジャンルの話になってしまいますが…
12音技法や変拍子という現代音楽的手法は、今では映画などの劇伴として使用したほうが適切だと思われます。
例えばドラゴンクエストシリーズの作曲をされたすぎやまこういち氏は「現代音楽的な手法は、場合によっては有用。魔王の曲などで、オドロオドロしい雰囲気を作るのに役立つ。」と書籍の中で述べられています。ゲーム音楽の中では何度もループして曲を聴くことになるのですから最初は理解しにくい曲もだんだんとわかるようになっているように思います。
単体で聴いたら、「?」となるかもしれませんが、組曲の中で使われる分には十分に音楽たりえると個人的な感想ですが考えています。
悩ましい問題ですね。
現代美術の試行錯誤、純文学の行き詰まりと非常に似ています。「わかりやすい」曲を書くと、大衆迎合として無視されたり。
ことによると、今現在、ポピュラーと呼ばれている音楽(非クラシック領域・非現代音楽領域)から、将来「クラシック」が編まれる、選ばれる可能性も。
現代美術のポップ・アート領域など、あるいは、バーンスタインやバーバーなど、あるいはミュージカル曲が大きく扱われていく可能性も。300年後、「音楽史」はどのようになっているか・・・
(人類がいない可能性も)
私はクラシックでもメロディがあって美しい曲が好きなので、現代曲は苦手です。
コペルニクスのセティング美しいですね。音が回るのも楽しそう。個性は大事ですが、繰り返し聴いてみたいって思ってもらえないと残れないんですよね。悩ましいところ。
毎回楽しく拝見していますが、今回のテーマは特に興味深かったです。
「現代」のものは音楽にしても演出にしても、はたまた美術にしても、奇をてらうことに重きが置かれすぎていて、一般人に受け入れられづらく、従って後世に残りづらいものしかないような気がします。確かに新しい物を生み出すことは重要だとは思いますが、内輪だけで満足しているような内容のものであるならば、新しい物を生み出したことにはならないと思えてしまいます。
現代美術の難解さもケッタイなものですね。
理屈抜きではみられない作品も沢山ありますね。
難解=高尚とは言えないのに、勘違いしてる人がいると思います。
❤️音楽に寄せて ♥️本日🌄は現代音楽のクラシックの難しさ❤作品のお話し楽器改良の中々難しい話オペラの難しを分かり安く解説有り難う御座いました🎧️前回壁の解説お聞きしました🎧️いつも感謝です🎧️❤
40年ぐらい前は、バルトークやプロコフィエフだとかやると、難しい現代音楽だ不協和音だ、チャイコフスキーとかやってくれと文句が出たけども、今は、これらは人気作曲家で、メシアンやベルクや武満やデュティユ、ヒナステラなども普通のお客さんが楽しんで聴いていますね。本当に演奏家が曲を自分のものにして思い入れをもって弾いていると、松村禎三や伊福部、黛、三善晃などは感動的ですね。若い世代の作曲家でも、山本和智さんや川島素晴さんのようにお客さんを驚かせ楽しませる人がだいぶんでてきていますね。ヨーロッパのドイツなどでは、「現代音楽」らしい大多数の聴衆に歓迎されない新作が多いけども、アメリカなどは、わりとわかりやすく初心者が楽しめるというか、クラシックは苦手というロックやプログレなどが好きな人が歓迎するライヒやフィリップ・グラス、ジョン・アダムスなど人気の作曲家がいますし、コリリアーノなども親しみやすいですね。
舘野泉さんが吉松さんや光永さんに書いてもらっている新しい作品も、お客さんは感動して聴いていますね。
人気のあるわかりやすい現代音楽が、専門家からは評価が悪かったりもしますね。
現代音楽に関しては、年代よりは様式で区別していましたので、カール・オルフやベンジャミン・ブリテン、グスタフ・ホルスト等の作品が現代音楽という認識は、これまでありませんでした。
考えてみれば、ベートーヴェンの音楽、特に聴覚を失い始めてからの作品も、当時は前衛音楽だったのですね。ベートーヴェンの場合、フランス革命、近代啓蒙思想の台頭など、社会の風潮と作品に親和性があり、時代の寵児になったのかも知れません。
今、現代音楽とされる作品や、ジャズ、ロック、ポッブスなどあらゆるジャンルの音楽の中から、時の淘汰を潜り抜け、普遍性を獲得して、「古典」として生き残る作品が少しでも多く生まれるよう、祈って止みません。
古典派やロマン派の音楽でさえ何回か聴くことでその曲の良さがよくわかってきます。ただでさえ難しい現代音楽を1回聴いただけでは普通の聴衆にはとても理解できるはずはないと思いますが、それが1回しか演奏されないとしたら、それこそ「現代音楽の壁」と言うべきではないでしょうか。
あなた様のご意見は素晴らしゅうございます!!
とても考えさせられるお話をありがとうございます。
ティル・オイレンシュピーゲルという薔薇!美しいですね。ジャクリーヌ・デュ・プレという薔薇もとても好きです。
考え方の道筋が非常にわかりやすいです。
現代音楽とは全然違いますが、RUclipsでたまたま「【地上最低のライブ】オノヨーコ(後略)」なるものを聞いてしまいました。さすがにクラッシックジャンルでの「現代音楽」はこんなバカバカしいレベルの自称「アート」作品はないのかな?
子供の頃よく聞いてたNHK FM「現代の音楽」のテーマ曲が現代音楽かと思ってました。あれがバッハの作品だと知ったのは最近のことです。お客がブーイングして暴れ出すといえば春祭ですよね。でも火の鳥なんかはチャイコフスキーと変わらない感じで気楽に聴けて大好きです。
演奏家の視点による現代音楽評はとても新鮮でした。面白かったです。声楽家には
リスクもあるのですね。なんていうか、現代音楽は、絵画で言うとピカソなどの絵
のような物かなと思っています。基本的に絵画表現の歴史の流れの中でピカソはあの
表現に辿り着いたのでしょうが、一般人はそんな流れは知らないので「うわっ」となり
ますが、絵画史の専門家などは「これは新しい、凄い!」と唸ったのでしょうね。
現代音楽の評価基準も、そんな感じなのかなぁと思っています。
クロノスカルテットが演奏したスティーブ・ライヒの「ディファレント・トレイン」が大好きになり、それから現代音楽が好きになりました。
私はフリージャズも好きで、現代音楽を聴くと似たような感じがあるなと思うことがよくあります。
作品によってはフリージャズ以上に実験的なものもあって驚かされます。
コペルニクスのお話、とてもワクワクしました。
是非みてみたいです!!
創造には2種類ある。1つは純粋に美しい物・良い物を作り出そうとする創造。もう1つは不快感のあるもの・異質なものを美化して作品にする創造。現代音楽の不協和音・無調音楽などは後者に当たりますね。そして後者のそれは単純に考えて難易度が高いことが分かります。
車田先生&視聴者様
今回も、素晴らしいご考察!
論文の為の論文
そうした感覚を持っている方も多いのではないかなあとずっと思っていました。
ベートーベンやワーグナーを超える新しい音楽
それがあらわれていないのか、今を生きる私たちにはまだ理解ができない作品もあるのか?等など
考えてしまいましたが
車田先生の様に
初演を任されるという栄誉もありますし
評価が定まっていない分、取り組みがいもある、とも思いますが
音も多すぎるし
譜読みも大変すぎるし
別の意味での緊張状態がずっと続き、確か演奏家からするとにコスパは悪いですね(爆)
一般的な方々や生徒達に聞いてみると
「恐怖映画のサントラ?」的??な答えが返ってきます(爆爆)
トゥーランガリラ、好きです(^_^)
私はクリスチャンではないし
メシアンって、練習していても、音が多すぎ譜読み大変すぎ
音にしてみてもこれで合っているのか?と
なんだかいつも多重録音的な聴こえ方で
音楽ができあがってみないと、全体像が見えてこず把握できない難しさがありますが
ある程度できあがってくると
「ああ、こういう世界観なんさ!」と感動しました(*^_^*)
でも
こういう曲を、一般の方々に理解してもらい、味わってもらうって、道のり遠いかなあ。。。
これからも、ご投稿楽しみにしておりますm(_ _)m
現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
昔の私にはドレミの音階以外は全て現代音楽に聴こえて意味不明でした。もう、ドビュッシーなんて完璧現代(笑
当時は自分が理解できない音楽は当然バカにしてました(苦笑
今では、6音、12音、チャーチモード、ディミニッシュスケールもろもろ美しくもカッコよくも聴こえます。ドレミ以外の規則性が認識できるようになると、とたんに面白く聴こえだしました。
現代音楽の演出的な要素ではなく技巧的な要素に関心のある方は、尺八などの古典邦楽もぜひ!西洋では1900年代に始まったアプローチがもっと古くから完成されていて感慨深いです。
10年前、シェーンベルクとベルクとリゲティのそれぞれのヴァイオリン協奏曲がちんぷんかんぷんだったけど今ではベルクとリゲティは大好きになった。でもシェーンベルクは今もちんぷんかんぷん。同作曲家の初期の浄夜とかグレの歌は大好きだけど。
ブリテンのオペラは良いですね。特に「ノアの洪水」 Op.59はオペラ苦手という人も聴けてしまいます。英国の学校ではクリスマス時期に一部を演劇風にして生徒達で楽しむそうです。
恐らくクラシック音楽は、20世紀初頭……R.シュトラウスの辺りで『完成』されてしまったのだ、と私は思っています。『完成』の後に、新たな作品を創り出すのは本当に難しい。その結果『実験』だったり『破壊』だったり奇抜なものになってしまうのでしょう。
30年程前、テレビのワイドショーで、人気タレントに得意料理を作ってもらう!というコーナーがありました。その日は、若い男性タレントが出演していました。
彼は、自分の創作料理だと言って、完成されたコロッケをフライパンの中でグチャグチャに解きほぐし始めたのです!全部解きほぐして出来上がり。それを試食した司会のタレント夫妻の、「美味しいわね」と言いながら目が全く笑ってなく、あの何とも言えないビミョーな表情を、私は今でも覚えています😂😂😂
『完成』の後に来るのは『破壊』。そして、そのような試作と実験を繰り返すうちに、きっと未来に繋がる素晴らしい作品が創り出されるのでしょう。
でも、そういう秀作が創り出される過程で、グチャグチャのコロッケを食べさせられるようなモノを聴かせられたり、大切な声や楽器を壊されたりするのは、勘弁してほしいですね😅
ここのところ、バロック時代の解説が多かったので、今日の解説はとても新鮮でした💐💐💐
現代にも残されている分野は非12平均律の(微分音)音楽だと思います
例えばボーレン・ピアース音階でできた傑作はまだ生まれていないのではないでしょうか?
n平均律を自ら選び、それで新たな和声などを生み出す ここにはまだ開拓の余地がある気がしています
古典の流れを汲む現代音楽のジャンルに映画音楽があると思います。
ジョン・ウィリアムズやバーナード・ハーマン、ニーノ・ロータの美しい旋律はベートーヴェンやモーツァルトの音楽に負けない普遍性があると思います。
30年くらい前、中学生か高校生の頃に「キッチュのバーチャルプレイゾーン」という深夜ラジオを聴いていました。
26世紀から20世紀にタイムスリップして来た科学者のDr.キッチュがその20世紀で出会った少年と二人で26世紀のラジオ番組『KACO(カコ)』を聴いてトークをする、『KACO』では1950年代から1990年代(番組放送当時)までのポップス、洋楽などの音楽を(26世紀の人から見て)クラシック音楽として紹介する、という番組でした。
確かに現代のロックやポップスなどの音楽も何世紀も経てばクラシックと呼ばれるようになるよな、と思ってました。
現代音楽でもジョン・ケージのような難解な作品(正直自分にとってはつまらない)を聴くぐらいなら映画音楽やゲーム音楽のほうがよっぽどクラシック作品と同じような感銘を受ける作品があるし演奏する方も変な音の出し方したり不協和音と完全に不規則なリズムを奏でるよりスター・ウォーズとかジブリ作品とか演奏するほうが気持ちいいと思うのだけどどうなんだろう?
特に4分33秒なんて丸や四角を塗り分けただけの評論家が認めたから芸術作品みたいな抽象画と同じようにつまらないと感じてしまう。
今回のお話の内容には関係ないのですが、車田さんのお声で音楽解説を聞けることはとても贅沢なことですね。どんなお話しでも心地良く、幸せな楽しい気分になります。
現代音楽に対する一般的な受け止め方は、とにかく敬遠したい、ということだと思います。それを、聴衆は保守的だ、新しいものに対する受容力がない、と非難することは可能でしょう。しかし、聴衆の側にしてみたら、現代音楽の供給側はじぶんたち聴衆のことはまったく眼中にない、ただ、自己満足的に奇抜な新作を作ってるだけ、というふうにも見えてしまいます。言い換えると、親しんでもらおう、という意図が微塵も感じられない、ただ突き放されているだけ、という感覚。
希望としては、現代音楽の良さを理解してもらおう、という意図が少しでもあるのだったら、コンサートで短い時間、そのようなサウンドに慣れてもらえるような短い作品、あるいは長い曲でも一部分を演奏しても音楽として成り立つような、そういう曲をつくったらいいのに、と思います。
少なくとも、現代音楽を1時間以上継続してきかされるのはほとんど苦行です。集中して聴けるのはおそらく10分以内。その時間に収まるような曲を作って、聴衆に馴染んでもらう努力をしたら、すこしは違うのではないかな、と思います。
同感 ちらっときいても惹きつけられることなく、『なんだこれ?』って印象だけで過ぎ去っていった。
私はいわゆるクラシック音楽も大好きですが、ミニマルミュージック
特にアルヴォ・ペルトが大好きです。どこかバッハに通じる感性があるのでは?
と思っています。何回聴いてもあきません。
曲が終わったあとの拍手と歓声がすごいイメージです。
曲の感想は 不安定で 暗い感じ ですかね。 あまり聴いた事なく たまにテレビでやっていた時の感想でした。
なんにでも言えることだが前衛に走ればそのジャンルは衰退する。現代音楽にしろモダンジャズにしてもあまり好んで聞く人は少なかろう。
現代音楽に限ってもメロディを無視しすぎだ、かの武満徹氏も言っていた我々はメロディを追求しなければならない。←語句は違っていたかもしれないが
そういう意味のことを言われてた。
コペルニクス、体験してみたくなりました。
クラッシックのメロディーやハーモニーに染まってしまった自分は、耳が、まず現代音楽を拒否ってしまいます。
始めのうちは我慢して聴いていても、聴衆ピラミッドの下部にいる者としては、早々に聴きなれた曲に戻っちゃいますね。
また、現代音楽が「演奏家や楽器にとってリスキー」というのは、確かにその通りだと思いました。
今まで現代音楽に対して持っていたイメージや、モヤッとした感想が、この解説の中で明確になった気がします。
何年か前に現代曲も入れるべきとの団員の声もあり、私も20曲ほどスコアを読んだり、実際に音を出したりしたことがあります。結果、団員はやりたくないという声でした。意味があるかどうかわからない変拍子、不協和音の連続で私も振りながら作曲者は何が言いたいのだろうとの印象でした。
だからと言って現在の作曲家を否定しません。こういうのは自然淘汰されるものであり何十年かしたら評価されるのかもしれません。
シェーンベルクを聴き始めたキッカケは、「トムとジェリー」の効果音に十二音技法が使われていると知ったのと、生演奏です。
まだまだ5曲程しか知りませんが、好きかと問われると、ん~……微妙です。
最近人気のカプースチンの曲は、例えばジョン・ケージ他の様な実験的音楽では無く、メロディーやノリがわかりやすいので、今後も演奏され続けて行くような気がしています。
何かAIでも絡んでくると、音楽5期の始まりになるのでしょうか??
その境目を、無理でも見届けてみたいものです🌠
人間にしか表現出来ない感情を乗せた、人間主体の音楽が普遍的に奏でられています様に…🙏~🌠
演奏家側の経験談や努力、自己管理、御苦労などを教えて頂き、ありがとうございました。
聴衆側は自分が演奏した経験が有れば少しはそれらを感じられる場合も有るかもしれませんが、観ただけではわからない・気付かない事が多々有ると思いますから( 他の演奏も然りです)、時には出来なくても、そういう事を知ろうと興味を持つ歩み寄り、ほんの少しだけでも良いので、大切だなぁと改めて思いました。
一般人でも理解できる最後の現代音楽はウェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの楽章」だと思う。
ブーレーズのウェーベルン全集をもっているが、聴きたいと思うのはこの曲だけ。
シューンベルクははるかに聴きやすくて、「月に憑かれたピエロ」「清められた夜」、弦楽四重奏などは、マーラーの延長で普通に聴ける。
今の現代音楽の作品は初演されたとしても再演されることはほとんどないと聞いている。
マーラの音楽でさえ、一般人に評価されるのに60年くらいかかっているが、残念ながら現代音楽はどれだけ時間をかけようが、これを楽しみに聴くということが一般化することはないだろう。
たまに夫婦でクラシックや2000年代に作曲された現代音楽のコンサートを聴きにいきます。
会場を出た後の感覚はクラシックと現代音楽ではちょっと違いますが、どちらも何かしらの深い喜びを与えてくれます。
クラシックはいつも感動して涙が出ることも多々あります。
現代音楽に関しては、今まで聴いたことのない音世界に包まれるのが楽しくてワクワクします。
車田先生のお話はとてもわかりやすく心地良いです。正直に話されますし笑
クラシック、現代音楽をもっと聴きたい気持ちになりました!
コペルニクスに興味出てきました
緊張感のあるお話
「聴衆を置き去りにする」「本来の奏法を無視する」ということは音楽以外の芸術、また他の文化、例えば政治などでもよく見られる現象に思えます。
私たちは何を見せられているのかわからなくなる時があります。動画の締めに言われた「繰り返し聴かれる必要がある」「聴衆不在にならないように」というメッセージは今全ての文化に言えるような気がしました。
現代音楽のお話。おっしゃる通りだと実感します。
自分は中学の時に12音技法や自分たちの国も含めて今の音楽も聴かなきゃもったいないと
思って、ラジオで聴きあさったり、実際に書いてみたりして、意外と面白いなとハマってました。
当時の一押しは「和解のレクイエム」でしたよ。
様式の多様化というのはなるほどその通りですよね。セリエリズムや不確定の音楽を通過して
一時期はサウンドの時代とかなどもありましたね。ちゃんと感情の起伏に素直に計算された音響を
当てはめている音楽作品は非常に面白く聞こえます。反面成功していない作品は残念です。
音楽ははじめ、風の音だったでしょう。それから鳥の声になり、自然の中にあふれる音と祈りや祝い
の気持ちが形をとどめられるようになったような気がします。作曲家はそれらの音の素材を自分の
形にしてパズルのように組み合わせて、人の喜ぶ作品を作り上げてきましたが、今は聞こえる音が
多くなりすぎたのでしょうかね?自然な音よりも人工的な音の多いこと。
モーツァルトのような、ショパンのような音楽が欲しいと言われれば、モーツァルトやショパンを
やればいいので作り手は違うことを別の形で作らねばならない苦しい時代ですね。
それでもあれだけのエクリチュールをこなしてきた作曲家たちは美しい書式と響きを
知っているはずなのに・・・
かつてリゲティが作品審査で「ハイドンをちゃんと研究しろ」と言ったことに通じるのでしょう。
また「夏の夜の夢」原作の最近の新作オペラで人ならざるものを表すためにとんでもない高音の
連発を使用しているのをラジオで聴いて「これ他人で再現・再演できるの?」と感じました。
聴衆も演奏家も興行主も関わったみんなが熱狂・感動できる作品がクラシック分野の新作で
数多く誕生することを願っています。
現代音楽はなかなかとっつきにくくほとんど聴きませんが今回のお話はとても興味深かったです。
武満徹のノヴェンバーステップスはどの辺りになるのでしょうか。
科学の世界では、何か今までに無い新しい性質の物質や新しい法則などが発見されると、ただそれだけで価値があるということがあります。
「新しい」というだけで「知識が増える」と同時に「今まで考えられなかった新しい役立ち方」の可能性が広がるのですから。
芸術においてもただ「新しい」「今までに無かった」というだけでも今までに経験されていない種類の感動を手に入れられるのかもしれません。
私自身はまだその境地には達していませんが。
オマケで本編よりラフに笑ってるとこで思いがけずダメージくらった😇36:53
いわゆるクラシック音楽が現在進行形であった頃はクラシック以外の音楽がなかったですよね。現在の音楽のメインストリームは商業的規模から言うといわゆるポピュラー音楽であって現代音楽ではない・・・。そこから目を逸らすわけにはいかないと思います。その、クラシックしか無かった時代から、ポピュラー音楽と現代音楽に別れた時のことに興味がありますね。
現代音楽とは映画音楽のことだと思っていました。実際、ジェリー・ゴールドスミスとかディミトリー・ティオムキンとかエンニオ・モリコーネとかが大好きです。映画を見てサウンドトラックを買うのがお決まりでした。わかりやすいメロディーという意味でモーツァルトとつながるのかもしれません。
声楽家から見た現代音楽への視点から、こんなにも分かりやすく両面性を説明していただきありがとうございます。
現代音楽に欠かせない要素がやはり電気なんですよね。。これにより、電気的な音とかももちろんですし、なにより、動画(昔はフィルム)に残せるようになってきた背景が、大きいと思います。これにより、より強烈な音像(怨憎?)イメージを残しやすくなり、さらに重工業が発展したことによっていろんな形で、人の耳・脳裏に残る音が大きく変わったことは影響していると思います。
それを、敢えて電気を通さない音楽(かつ十二音のみ(使っても微分音))で、挑戦しているなあぁという作品は、本当に感銘を受けます。
音楽には人の心を動かして魂を震わせるほどの素晴らしい力がありますが、その素晴らしさを取り去って純粋なアートにしたものが現代音楽だと感じます。
自己満足のウェイトが大きい創作物だと思います。
人生は短いので、私は美しく感動的な旧来の音楽を聴きます。
自己満足ではないものも可能だと思いますが、それは音楽というよりは音響芸術であって、向き合い方も違うと思います。調性音楽に感じるような音楽的感動を得ることを目的とするものではないのでしょう。
私にとって現代音楽の長所は「飽きが来ない」ということである。つまり、本当にイイと感じて徐々に耳だこになることは皆無なのである。そうでない現代音楽を私はは「即古典」と呼んでいる。
クラシックに詳しくない者からすると前衛音楽は独立した別ジャンルとして切り離してほしい。現代音楽って時代の趨勢より前衛性を重視してるようでわかりにくい。
科学的な方向性が顕著に成ってる感じがありますね。
とは言え、古典時代から音楽は数学的というか科学的な側面はあったので、そこは普遍性があるのかなと思っています。
現代音楽といっても、日本人にとって武満徹さんの作品は特別ですね。
武満さんのオペラができていれば… どんなだったでしょうね 車田さんも喜ぶような曲になったかも
現代音楽の初演となるとプロデューサー、作曲者、演奏者などリスクがあり大変そうですね。
オペラの配役はイメージに合うから選出されるのでしょうか。
絵画のようにAIを使った作曲というのもありそうです。
現代音楽は最近は聴いていませんが不協和音が心地よくてよく聴いたり弾いたりしていました。
現代音楽が判らないとかつまらない人は不協和音が嫌いなんですかね。
現代音楽とは何なのかということを完全には理解できなかったのですが、聴衆受けするという観点では映画のサウンドトラックに採用されるような曲はちゃんと条件を満たしているのかなと思います。一方でバロックの時代でも、名も無い作曲家による変な曲というのは存在していた気がします。現代と違い記録を残すのも高価なので、忘れ去られてしまったのではないかと。
バラ。見た目だけでなく香りも良いですよね。
個人的には、現代音楽以前、以後に分けて扱う意味はあると思いますが聴衆がそれに従う理由はまったくないと思ってます。軽音楽を聴くとしてもメロディだけじゃなくてベースやドラムのカッコよさを理解している人は多いでしょうし、それと同様の視点を現代音楽に持ち込むだけでいいのです。はっきり言えば勉強する必要すらないと思います。この点は前提知識は分かってて当たり前な基礎科学や能楽などより敷居が低いと思います。
吹奏楽では時たま明らかに現代に寄った作品が取り上げられることがあります。もちろん学生が演奏することもままあります。しかし彼らはそういったものに驚くほど忌避感を持たず真摯に取り組んで高い水準の演奏を聴衆に届けてくれます。そういう状況(学生にこんな曲を演奏させるなんて~・・・的な)を問題視する人こそ無理解な聴衆になってしまう程に、です。
結局のところ敷居を下げ、市場を広げつつも高さを積み上げていくには演奏経験のある聴衆を増やす外ないだろうと思います。ジャンルはあくまでジャンルでしかなく、もっと横断的に音楽を聴いていけるだけの余裕がほしいものです。
モーツァルトもベートーヴェンもバッハも「作曲された時」は「現代音楽」だった訳ですよね。
これらの「現代音楽」は、「今、この時」には「古典」として聴き継がれています。
では「今、この時」の「現代音楽」が果たして100年後、200年後に「古典」として聴き継がれているかどうか❓と考えると、個人的な考えですが、極めて懐疑的ではあります。ただ、矛盾するようですが、「作曲された時の現代」には批判され無視された作品も「今、この時」には「古典」成り得ているものも多数あります。そう考えると「今、この時の現代音楽」も100年後には再評価されて「古典」になっているかもしれませんね。タイムマシンがあれば100年後の聴衆に評価を聞いてみたいですね。
蛇足ですが、随分前にサイモン・ラトルがブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を演奏した後に彼に「お恥ずかしいのですが、私はブリテンを初めて聴かせていただきました」と話をしたのですが、ラトルは「ブリテンの真髄はオペラにある。彼のオペラを聴きなさい」と言ってくれました。
そこから私の、ブリテンへの旅、は続いています。
取り留めのない話で申し訳ありません。
綺麗な薔薇です✨🌹✨
車田さん邸を訪ねたいです♫
日本でリサイタル是非してください♫絶対ゆきます♫
コペルニクス2015年の初演で主役ほんとにすごすぎます
現代音楽を心地良いと思う事は少ないです。聞きたいと思いません。現代音楽の作曲家には、「勝手にやってください。私は近づきませんから。」と言いたいです。もちろん高いお金を払ってコンサートには行きません。
ジョン・ケージの4分33秒を、ヘビメタバンドがやったときは、さすがに笑えました。
なるほど、そうやって難解な現代音楽も作品によっては世の中に浸透していくのでしょう。
奇抜とも思えた『カルミナ・ブラーナ』は、今では好意的に受け入れられています。人気バンドが、自分達の解釈とエンタメ要素を取り入れて作ったミュージック・ビデオを2つ程観たことがあります。
「何が良いのか」の基準は、よく分かりませんが、難解で奇抜と思われていた現代音楽の作品が、人気曲になる可能性も充分あるのですね😊🎵
「無音の中から聴こえる音も音楽である。」現代音楽の究極形ですよね。
4分33秒(「無題」)が発表されて以降、作曲家たちはこの先に何ができるんだって
なって迷走する作品も増えたんだろうな~。
アマ弦楽器奏者です。
現代音楽が大好きですが、聴衆が感動するように演奏できるのはやっぱりプロだ、と思います。
解釈や表現を素人の私達に沢山プロが伝えて欲しいと思います。
我が家も、庭に薔薇ちゃんを植えています♪
世界的なデザイナーの故・森英恵氏は蝶々夫人があまり
お好みではなかったとの記事を読みました。
男尊女卑に嫌悪感があったからみたい。
いまならタブーとされるシナリオも、逆に現代向けにねじ曲げすぎてしまうとまた魅力が欠ける場合があるので難しいお話かもですね😢
ちょっと違いますが私はアラフォーで小学生からバンド活動してます。昔の曲が懐かしくても、90年代と今とでは若者のコトバも全然ちがいますし、音楽をやる上で時代把握は大切だな~と丁度感じておりましたw
興味深い内容でしたm(_ _)m
石桁真礼生 作曲の河童譚っていう曲で一瞬娘役を真似て裏声で歌うシーンありましたが、フルで裏声って・・・・
頭おかしいやろ
今回の動画は、なかなか難しいテーマですね。
思うに、本当に美しい音楽は、一度も音楽を聴いたことがない人でも、すぐに感動するものだと思います。そうであってこそ、人の心を癒やすのだと思います。何度も何度も繰り返し聴いて理解を深めなければ受け入れられない音楽は、もはや、音楽というより「ただの知的作業」ではないでしょうか。残念ながら、もう音楽は終わっている、ということではないでしょうか。ドレミファソラシドと長調・短調の音階は、光の七色と同じで、理屈を超えて人の心に訴えかけます(神からの贈り物)。現代音楽はそれを否定し、超えようとして失敗しましたね。
うーん、コペルニクスを聞いてみたくなった。
通常以上に手間も時間もかけて客からブーイング! ( ºωº ; )
ありがたくない現代音楽w
まあ、音楽版「サラダ記念日」のようなもの。
旧来の枠組みから脱して新しいスタイルを追求しようとするものの、ではポピュラー化とどう違うのか?という点で自縄自縛となって発展しない。
「旧来の音楽」とは、結局、パトロンのための音楽であり、支配階級がオーサライズするからクラッシーな音楽=クラシック音楽として認められた。
パトロン階級が没落し、作曲家がパトロンなしで自分の趣味嗜好で作曲し始めたから、現代音楽は取り留めなく、求心力のない音楽だと感じられてしまう。
労力の割に見返りが少ない・・・。分かるような気がします。
故小澤征爾さんは全曲暗譜されておられので、メシアンの『アッシジの聖フランチェスコ』を世界初演した時は大変だったようですね。ブリテンの『ルクレツィアの陵辱』は評論家の吉田秀和氏が大絶賛した傑作ということでCDを持っているのですが、一度聴いただけでは良くわからなかったので、車田さんのお話を聞いてまた聴き返したいと思いました。特撮テレビ番組の『ウルトラセブン』では、現代音楽風の曲が多く使われていましたし、ホラー映画も現代音楽風の不協和音を多用した伴奏が多いように感じます。そういった意味で、現代人は現代音楽に対して、左程拒絶反応は無いはずなのですが・・・。
メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』は小澤征爾さん指揮トロント響の演奏で、武満徹さんの『ノヴェンバーステップス』とカップリングされたLPで聴き馴染んでいて、シェーンベルクの『浄められた夜』、『月に憑かれたピエロ』とともに私にとっては古典です。
久石譲の映画音楽、「君たちはどう生きるか」は、ミニマル音楽の成功例だと思います。
素晴らしい作品は、現代でもなんでもよくて、広く聴衆に受容されたものが残っていくとうことなんでしょうかね?
サウンドアートというジャンルがあります。狭義のサウンドアートは演奏者が存在しないものだそうですが、演奏者によって演奏される場合でも音楽という範疇を超えたサウンドアートというものがあり得ます。現代音楽の一部にはそれに相当するものがあるようですが、それを音楽と捉えるのは間違っているように思います。
ジョン・ケージの「4分33秒」はそれをさらに超えたものだと思いますが、それは、マルセル・デュシャンの「泉」をアートと呼ぶのならこれもアートだと言えるようなものだと理解しています。
音大で作曲を学びたいんだけどポピュラー音楽と現代音楽どちらを学ぶのか悩んでいる、、、、、、、
武満徹、吉松隆、坂本龍一は日本の誇るべき現代音楽の作曲家と思います。
「コペルニクス」興味津々だなあ。でもこういったシアターピースは映像、録音では真価はわからないでしょうね。フィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」やシュトックハウゼンの「光」は聴くだけでは退屈ですが劇場で聴けば印象が変わるのかもしれません。ここが現代作品の難しいところですねえ。劇場にいる人にしか真価がわからないということは世に広まらないですからね。しかも一度ではわからない作品も多いし。たしかに「割に合わない」けれども「作り続けなければならない」
現代音楽は難解でなく無意味。バッハやモーツァルトの後では、立ち尽くすだけで何も出来ない。
絵画や彫刻も無意味なものを有り難がる文化が一部の界隈で成立した、それと同じ現象だろう。
文学ではこんな事は起きない。音楽と視覚芸術は抽象的なので、誤魔化しが通用するのだろう。
素人による作曲コンクールの受賞曲などには弾きにくいものが多い。楽器や演奏技術に関する基本的知識のない人が作るとこうなるのだろうと思ったことがあります。ある試験の課題曲だったのですが、クオリティーの低い楽曲を繰り返し練習するのが苦痛で、試験を受けるのをやめました。
吹奏楽のコンクールがまさにそれ。演奏している中高生はほとんど理解できないと思われるのに受賞するためにやらされているという。
演奏家にとっては「ありがたくない」…としか言えないですね💦
CD4枚組の現代音楽百選は、愛聴しています。黛敏郎、芥川也寸志、松村禎三などの交響曲的作品も繰り返し聴きたくなります。毛嫌いはもったいないので、まずは聴いてみるのがおすすめです。合わなければ聴かなくなるのが自然です。
哲学も奏者への尊敬も学びも何も無い曲は、聴いていて良いと思えるわけがない、と思います。
それは時代を超えて共通するのではないでしょうか。
コペルニクス? 「それでも地球は回っている」と言った天文学者ですね。それをイメージする曲なんですか? 演奏スタイルまで芸術の表現に使ってるんですね。初めて知りました、車田さんのお話はとても勉強になります。 カルミナ・ブラーナは好きでよく聴きますが、車田さんのバリトンで聴きたいですね、ラテン語の発音は難しそう。 日本でぜひ演奏して欲しいです。
ベートーヴェンの Op. 133 だけ認める。
好きな曲はあるけど、歩み寄りのない一方的なものがあまりにも多すぎる。
どうにか聴き終わった瞬間もうメロなんて思い出せない。不協和音とサンプリングのような音を断片的に思い出す。
音楽のすばらしさを伝えようと思ってない。俺様の芸術のすばらしさを伝えたいのだ。
金払っておなぬーを長時間聴かされたらブーイングする気持ちはよくわかる。
好みはさておき。
現代音楽の年代的な背景を考えるに、自分は録音技術の発展とレコードやラジオなどの普及の影響もあるかと思いました。
ラジオで遠出しなくても音楽を聴く機会が増えていき、蓄音機やレコードで聞き手が自由にリピート再生できるようになった。
特にこのリピート再生の技術を手に入れたことで、覚えさせる気のない音楽 を覚えるまで聴くこともできるようになった。
まあドラゴンの年は素晴らしい。
コペルニクスのトレイラー見つけました。オーケストラだけの1分でした。歌声がなかったのが残念。
ruclips.net/video/th_ZbwoXxZk/видео.htmlsi=EmWokLin6qMnP4qy
曲のセッティング、相当面白そうですけど、もう上演されないのでしょうね。
ゴットフリート・フォン・アイネムといえば、「日本の葉」op.15も好きです。
現代作品、特にPOPSで耳に着く、記憶に残る作品はほぼないですね。
現代人が劣化したのか、音楽が行き尽くしたか、なぞですね。ただ最近の歌謡曲で良い曲はほぼないです。
音楽を勝手にカテゴライズして選り好みしているのが、我々大人ではないのかな、とも思います。
カフェで7〜12歳くらいの子供相手に、カルテットでジブリ、鬼滅の刃、ショスタコーヴィチ、藤倉大(チェロ独奏)を聴かせたことがあります。
身動きもせず聴き入っていたのは、ショスタコと藤倉大でした。
分かりやすいメロディで喜ぶ訳でもないんだなぁと。美しいものは美しいんですね
私は新参者で知らない事ばかりですけど、個人的には先鋭音楽として分けるべきと思います。兼田敏さんのパッサカリアのように、現代音楽の技法を使っても緻密で美しい曲書けますからね。
どうするにしても、わざと楽器を傷める奏法をさせる曲は書くべきではありません。
昔、N響アワーのオープニング曲がトゥランガリラの5楽章で、それ以来メシアンの音楽が大好きになりました。今考えれば、メシアンの音楽が毎週テレビで全国に流れていたという状況は結構レアだなと思いますし、そんな国は日本ぐらいなのかな~なんて思ったりしてますw 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を車田先生の演奏でいつか生で聴いてみたいです。ぜひ東京で、お願いしますw
コメントのおかげ様で、何となく耳で憶えていた♪トゥ―ランガリラの第5楽章を思い出し(確か2000年でしたよね?)、全楽章との再会を果たせました。
当時は響かなかったのに、
えっ、こんなにリズミカルで楽しくて格好良かったっけ?と、24年越し?で、はまりました。
ありがとうございます!
そりゃあ、今 残っている曲は100年200年という年月を経て時間によって選び抜かれたものですからね
私が考える現代音楽は、無調音楽です。長調短調の区別がなく、メロディは不規則に上がったり下がったりして予測し難く特徴がなく、従って記憶にも残りにくく、感情がなく無機質で、人間の様々な感情を全く表現しない音楽だと思います。いえ、音楽というのはお世辞で、音楽ではないと思っています。一般的にも人気がなく、試しに一度は聞いても、2度めはもう聞きたくない、そういうものかもしれません。ありがたくないものとおっしゃいましたが、演奏家からすると、おぼえにくく、人気がないので歌うチャンスが少ないというのはよくわかります。因みに、日本合唱連盟の課題曲になるものはこの種のものが多いと感じています。でも一部の専門家はこれこそ芸術だと言っているようです。