Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
初めてコメントさせていただきます。凄く納得できる御説でした。私も今、後漢書が書き換えられた説の動画を作ってたので、非常に勉強になりました。
コメントありがとうございます。お役に立てたのであれば何よりです。『後漢書』の書き換えですか? 面白そうですが、このチャンネルは『後漢書』と『梁書』(ただし、どちらも倭伝に限っての話ですが)については信憑性にかなり問題があると考えています。
アップ有難う御座います。 やっぱり旅程記事は直線読みが王道ですね! 現状の倭人伝旅程記事は矛盾しており、その矛盾発生の原因と発生過程をどう考えていくか、と言うことだ思います。
岡上さん、ありがとうございます。なんの但し書きもないのに、いきなり放射状に読んでいくということには、どうしても同意できません。しかし、明確な矛盾がある、ということですね。
なぜ魏志倭人伝がこんなにわかりにくいのか、という命題に対して、岡上説同様に、なかなか整合性、可能性のある説だと思います。文献だけでここまで戦えるのか、と感動しますね。特に会稽の東治と東冶には、参りましたねえ。ここに特に238年前後の呉と公孫氏、高句麗と魏の複雑な関係が絡んでくるから、判断に迷いますよね。資治通鑑の翻訳をやる中で、様々な文献から引用していく面白さ、判断を考えさせられます。
岡さん、お褒めいただき恐縮です。会稽東治に関しては、まったく漢文素人の私でも、前段の夏の王少康の子が封じられた会稽の説話を読めば、東冶(県)であり得ないことは明らかだと思えたのですが、なぜ錚々たる先学の研究を経て東冶説が主流になっていたのか、理解に苦しみます。なぜ、『三国志』が倭人の入墨に関連して、『魏略』の記す「句呉の太伯の後」を不採用として「句呉を滅ぼした越王の祖先である無余の説話」を採用したのかも面白いところだと思っています。
Σ(゚Д゚) なるほど! ひとつひとつの動画で十分満足していましたが、そして自分なりに並べ替えたりして拝聴もしていましたが、新説先生がこうして改めて作ってくださると、実に明快でそして何より楽しい。ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます。動画も古くなってくるとなかなかご覧いただけなくなってきてしまいますので、新説を発信し続けるのはなかなか難しいです。。今後ともよろしくお願いします。
@@J-history ご返信までくさり、ありがとうございます。私、目が悪いので、映像と音声での解説にとても感謝しております。先生が古いとおっしゃる動画も私は何度も楽しく拝聴しています。ときには画面に映る図、写真、地図を見ながら、表はデザイン的に見ていますが。もし古くなったとお感じになる動画の再録(や再編やまとめ)をしてくださるときは、長くなってはしまいますが、表の部分も音声化してくださると嬉しく思います。長尺動画はyoutube向けでないのかも知れませんが、「歴史倶楽部」のようにゆったりとした(ほのかに関西風味な)口調で長い時間語ってくれる歴史のお話はいいものだと私は無責任に思っています。今回は特に手短に書けなくて申し訳ありません。失礼します。
@@じじりん ご返信ありがとうございます。表の音声化ですか。どのように音声化すればよいか、けっこうアナログ人間なものでなかなか難しそう。。。できるかぎり、表内の数字などについて、言葉でしゃべるように意識して原稿を作るようにします。
@@J-history 先生、私また余計な事を申し上げてしまってすみません。いつも楽しい時間をくださることに感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
会稽東冶と会稽東治のお話ですが、二水と三水は草書では殆ど違いが分かりません。版本になったのは相当後の話では。それと今の時代だからこのように正確な地図で真東とか仰有るが真東に九州中南部があるなどと当時の人が正確に果して認識出来たのでしょうか?海路を左右の角度を間違えずに真っ直ぐ船を進める事自体当時の技術では不可能です。僅かな角度のズレでは大きく変わってしまいます。
コメントありがとうございます。このチャンネルの仮説では、『三国志』の原史料となった梯儁たちの復命報告書には「会稽東治の東」ではなく当時の敵国であった呉の都である「建業の東」と書かれていたと考えています。当時の中国では緯度については一寸千里法によって正確に測れていたのは間違いありません。梯儁たちが女王国で測定した可能性は非常に高いと思っています。
知らなかったかいけいとうちかいけいとうや氵と冫の違いずーっと違いを知りませんでした。沖縄と鹿児島とでは全然違います。正直なところ旅程記事は苦手でした。あまりに阿波説の方々が力説するので半信半疑のままにしてました。スッキリしました。今回のアップは神回です。
「東治」は「東冶」が誤記されたものという見解が有力でしたからね。最近では「東治」と考える方が多くなってきたような気がします。動画内で触れている前段の「夏の王少康の子が封じられた会稽説話」の件もありますが、「東冶」は当時の一般的な用語であり、「東治」はかなり特殊な用語です。「東治」が「東冶」に誤記される可能性は高いですが、逆はほぼありえません。だから、長い写本を経ても書き継がれた「東治」は明らかに最初から「東治」だったと考えられます。
これだけまとめてもらうと、初めて頭の中で整理がつきました九州上陸までは韓人情報からも取れるけど倭地の中は倭人の言葉のみが情報ソースだから、有り得そうな話だなぁと思いました
@@J-history 「冶」という字は「冶金」ぐらいにしか使われないので、頻繁に使われる「治」に誤記される可能性の方が高いと思われますが
@@ancientJapanesehistorywithMAP 古荘さん、ありがとうございます。お役に立てたのであればよかったです。まあ、とにかく邪馬台国論争の原因が日数表記であるということだけは明らかです。
@@iricotaketo2138 コメントありがとうございます。会稽郡東冶県は広く知られた固有名詞で、それを示す「東冶」は『三国志』内で少なくとも5箇所で用いられていますが、「東治」はここ一箇所しかありません。
「魏志倭人伝後世書き換え説」がよく理解できましたこれはあり得る内容だと思いました私も御説と同じく邪馬台国熊本説の立場ですが、水行十日陸行一月の記述がいまだにもやもやしております陳寿三国志で現存している最古の写本の紹興本(1131~1162)も紹煕本(1195~1200)も「水行十日陸行一月」となっていますが、他の写本で違う記述のものは見つかっていないんですかね
コメントありがとうございます。熊本説の方がいらっしゃると心強いです。書き換えられたのが例えば450年頃とすれば、その後はずっと日数表記が書き写されていったのだと思われます。それ以前の里数が記された写本が見つからない限り立証できない仮説であることは自覚しています。また、見つかっている古い写本も、魏志倭人伝部分のものは皆無だと思います。まあ、ざっくり考えて、福岡平野に二万余戸の奴国があったとすれば、五万余戸の投馬国が筑紫平野であり、七万余戸の邪馬台国が熊本平野ということになるのでは、と思っています。熊本平野を狗奴国としてしまう方が多いので、ややこしくなるのです。倭人伝は必ずしも狗奴国を強大な国だとは書いていません。247年当時、たまたま戦っていた弱小国の可能性もあると考えています。激しい戦闘中なら大いに径百余歩の冢を造って、百人も殉葬させる余裕もないかと。
書き換え前の写本が見つかったのはすごいことです。しかし陳寿(実際に日本列島には行っていない)が邪馬台国鹿屋説を唱えていたのには驚きました。「待てあわてるな。これは孔明、もとい劉宋文帝の罠だ」と深呼吸して考え直すべきところですね。
中国の西域で結構見つかっていますので、今後も発見される可能性に期待しています。もちろん陳寿(魚豢でも)は日本に来ていませんが、梯儁の報告書に地図が添付されていたとすれば、陳寿は秘府に収められていた報告書&地図を目にしたはずです。それだけの権限は与えられていたはずですから。
辻褄合わせは確かによくあることですよね。
コメントありがとうございます。それをご納得いただけるとうれしいですが、結局は里数の書かれた写本などが見つからないと立証できない仮説ではあります。そこは自覚しています。
後世書き換え説、分かりやすく説得力がある解説ありがとうございます😚時が経つごとに事実を書き換えられるのは、現代での伝言ゲームでうまく伝達できず、途中で事実がねじ曲げられてる状態に近いのでしょうか?(¯―¯٥)叶わない事ですが、やはり陳寿の三國志原本を見てみたいですねw
そうですね。『三国志』原本や初期の写本に日数が書かれていたら、この説の誤りを素直に認めますが、ぜひ見てみたいです。原本は洛陽や長安で歴史の闇の中に埋もれたと考えられますが、西域(敦煌やトルファンなど)からは写本が出てくる可能性がまだ残っていると思っています。
(先ほどの追加で)正式な写本は秘府で厳格に行われたと思います。しかし、王朝交代などの動乱で散逸した場合には秘府外に伝わる写本で復元したと思われますから、時代を経て内容に改変が生じる可能性は大いにあったと思っています。
旅程記事の最大の謎は里数記事と日数記事の乖離と言えるかも知れません。そのことに対する一つの答え。筋道が通っており、いろいろ考えさせられます。会稽東冶は地理的には間違いだけど、後漢書の筆者にとっては事実ではなくても真実だったのかも。
武田さん、ありがとうございます。こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが、「『後漢書』は『三国志』をコピペしながら、ちゃんと考えましたよ感を出すために細部をちょっといじって、それが大きな間違いにつながってしまった」というような感じを受けるのです。范曄や『後漢書』倭伝担当者は、辺境の倭地の、それも過去のことなどどうでもよいと考えていた可能性もあると思っています。
@@J-historyさん 後漢書に関する考え、全く同じ感覚です!
@@岡上佑の古代史研究室 おぉ、岡上さんにご同意いただけると、すごく心強いです!
直線読みですが投馬国の一文で又がある場合何が継続しているのでしょう?次は南なのだから東行から方向が転じているので又はちょっとおかしいなと。自京城西至鳳山、南至稷山、又南至竹山のようになってないです。既に行われた行為の東行が又続くのでしょうか?梁書の又をとって不弥国より投馬国に至るに南水行二十日と書けばすればスッキリしたと思います。南を動詞として見れば、更に東行が続くけどちょっと川まで南へ向かい船で水行二十日して投馬国に至ると文法上できなくもないかもしれませんが⋯。後漢書は相手にしなくていいと思っていたのですがこんな利用法があるんですね。
コメントありがとうございます。『三国志』魏志倭人伝では、投馬国への行程記事に「又」はありませんよ。『後漢書』を相手にしなくてよいということには、賛成です。
又の多い太平御覧ですが又が不彌国にもついてると記憶してませんでした。東南→東行なのでこれも変ですね。元々の文にあった又を文法上の修正をして陳寿が於投馬国の於のように削ったのだとすれば、邪馬臺の南至の前の又は削らなくても問題なかったと思います。スッキリしないですが本当に太平御覧は旅程記事の古い形を残しているのでしょうか⋯
@@潤也藤原 太平御覧は後世の類書ですから、撰者の解釈が大きく影響していると思います。
書き換え説は兎も角、九州のどこか論に絞って世の中の論争というか議論がされることを願ってます。阿波説は、ほぼ消せそうな情報として丹が丹山(丹砂)で赤土。、真珠は白珠(パール)、青玉は翡翠ではない 翡翠(翡玉と書くらしい)、などから阿波説は、ほぼ消えます。畿内説は、元々遠過ぎる、大倭が大和だとしても、邪馬台国とは違うかなと。本動画とは無関係の話ですみません🙏
「倭人伝を普通に読めば、邪馬台国は九州を出ることはない」と考える方は多いですね。もちろん、畿内説の方はそのようなことは言われませんが。
@@J-historyベンガラ塗りと水銀朱の違いは見て一目瞭然!ベンガラ塗りを見ても畏怖の念は起きません!近々出版される愛媛大学の越智先生の地質学、気象学、地政学から見るヤマト国をご覧になってみてくださいね🙏
@@幕張メッセンジャー その辺りのことは知りませんが中国の歴史書には、丹は水銀朱のことではないような記述があるということを言いたいだけです。私はヤマト王権と邪馬台国(ヤマト国)は別物と捉えてるので、、、あまり水銀朱も関係ありません😅
@ 丁寧なご返答ありがとうございます!そもそもが文献だけではなくて考古的、地質学的、気象学的など総合的に考察したい私とでは、噛み合わない筈でしたね😊大変失礼致しました🙏
@@幕張メッセンジャー そうかも知れません!ただ、歴史書だけでなく遺跡や気象学なども多少は参考にしてますが皆さんの研究は素晴らしいですし、それぞれを否定するつもりもありませんが、特定するにはなかなか難しいと存じます。阿波説だと想像しますが、殺傷遺骨や鉄鏃などの発掘、遺骨の出土量や装飾品などの出土量はどうなのでしょうか?その辺りも多少調べたつもりですが、阿波が日本のルーツに関係あると想像してますが、だとしても魏志倭人伝の邪馬台国とは直接結びつかないというのが私の論理です。丁寧にコメントありがとうございます。
12:28「鹿児島県鹿屋市付近という魏志倭人伝の記述」とは、熊本県の方保田東原遺跡から移動か?14:44「倭王讃の遣使に対する聴衆記録」があったのは妥当だと考えるし、当然邪馬台国との関係についても検証されており、使者も「大和朝廷と邪馬台国は同じ」などと回答したことになるのだろう。一方で、(有名な赤壁の戦いを含め)三国志の記述でも「整合性がとれていない」と指摘される個所が多数あるのに、わざわざ辺境の倭国の記述に対して他書である後漢書との整合性を求める必要性が有るのかどうかは疑問。
鹿屋市付近は「会稽東治の東」です。梯儁たち郡使が復命報告書に会稽の説話を交えて「会稽東治の東」と書くことは考えられません。おそらく邪馬台国で一寸千里法を用いて八尺棒の影の長さを測った結果を、当時の敵国である呉の都「建業の東」と書いたのだろうと推測しています。そうすると緯度は少しあがります。熊本平野も誤差の範囲となるのではと思っています。辺境の倭地について重要だと考えていなかったというのは、おっしゃる通りだと思います。書き換えについては書写にあたった人たちの資質と考える以外ありません。残念ながら。ほかにもそうなった原因はいろいろ憶測はできますが、妄想にしかなりません。結局、里数の記された陳寿の原本あるいは初期写本が発見されない限り立証できないことは十分承知しています。
2:13 魏志倭人伝には『倭王因使上表 荅謝詔恩』(倭王は使によりて上表し、詔恩に荅謝す)と書かれています。つまり倭王は使者に上表文を託して悌儁に渡したということですから、倭王と悌儁は直接会っていないと考えられます。因みに、難升米らが魏に朝貢した際には、『引見勞賜遣還』((皇帝は難升米らを)引見し、労い、賜い、還し遣わした)と皇帝が難升米らと対面したことがはっきりと記されています。なぜ倭王は悌儁と会わなかったのでしょうか? 素直に、旅程記事に書かれているように邪馬台国は北部九州から一月ないし二月を要するような遠い場所にあったと考えればいいのではないでしょうか?倭王の居る邪馬台国は北部九州からずっと遠く離れたところにあったから、容易に会うことができなかった。だから倭王は使者に託したわけです。なので不彌国以降の旅程は、悌儁が倭人(おそらく下賜品を受け取り、また上表文を渡すために邪馬台国と伊都国の間を往来した使者)から得た情報だと思われます。隋書倭人条にあるように『夷人里数を知らず、ただ日を以って計る』つまり倭人には里数という概念はありませんでしたから、不彌国以降の旅程は日数表記になっているということだと思います。
greendolpfin7085さんのように読めば、そのように解釈できる余地がありますね。このチャンネルでは、この「使」は梯儁たちを指し、「梯儁たちを通して上表した」「梯儁たちに上表文を託した」というように解釈しています。漢文はむずかしいです。
@@J-history お返事いただきありがとうございます。なるほどそう言う風にもとれますね。ただ倭王が直接 魏の皇帝に会って上表文を渡すことは考えられず、梯儁を介することは自明なので、わざわざ「使によりて」との文言を入れたのは倭王から梯儁に直接ではなく倭の使者を通して、との意味にとるのが妥当ではないかと思われますが?このほかにも、梯儁による報告と思われる各国の戸数に関する記述において、不彌国までは「有〇〇戸」(〇〇戸あり)と断定的であるのに対して、投馬国以降は「可〇〇戸」(おそらく〇〇戸であろう)と推量になっています。つまり投馬国以降の情報は倭人から得たものではないでしょうか?このことも梯儁らが北部九州にとどまり、邪馬台国まで行っていないことを裏付けていると思います。
@@greendolphin7085 「因使」の解釈は水掛け論になってしまいますので。戸数については多すぎるという見解が主です(一戸5人などとすれば)が、倭人は女王国では租税を徴収していたと記しています。だから、原初的なものであっても、戸籍があったと思われます。「可」を推量とするのであれば、二万余戸の福岡平野を行程の山上から遠望した使者たちが、筑紫平野、熊本平野を同様に遠望して推量したのかもしれません。
@@J-history 確かに戸数に関しては全般的に多すぎるように思いますが、例えば、馬韓についての記述を見ると『凡そ五十餘国、大国で萬餘家 小国で數千家 総じて十餘萬戶』とあるので、倭国とのバランスを考えた場合、それほど大きな齟齬はない気がします。また戸籍のようなものがあったとしても、果たして現地の役人たちが戸数や口数を教えてくれたかどうか疑問です。むしろ魏の使者が国全体を俯瞰して、普通の大国なら1-2万戸、小国なら数千戸というのをおおよその目安として相対評価で考えていたのではないかと思います。なので数値そのものは不正確であり、絶対値にはあまり意味がないかと。(一度基準ができてしまうと、たとえ実態からかけ離れていても、変えるわけにはいかないですから)投馬国と邪馬台国の場合は、倭人から投馬国で奴国の倍くらい、邪馬台国で三倍くらいと聞いて「投馬国 五万戸程度、邪馬台国 七万戸程度と推測される」と報告したのではないでしょうか? それは畿内説的には、投馬国(鞆国)は吉備全体、邪馬台国(大和国)は畿内全体としてではないか?(あくまで妄想ですが)あるいは、一説にあるように大月氏国を意識してたかもしれません。。
@@greendolphin7085 昔から帰順の証に地図と戸籍を差し出せたということを聞いたことがあります。少し時代は降りますが、『日本書紀』でも新羅が地図と戸籍を神功皇后(私は仲哀天皇と考えていますが)に差し出しています。だから、原初的な戸籍であったとしても、存在したのなら郡使たちはそれを差し出させたか、少なくとも目にしたと思われます。五万戸、七万戸という数字はなかなか伝聞では信じられないような気もしますが。また、郡使たちは卑弥呼に関する詳細な記事を綴っています。「年は長大」とか、「一人の男の役割」とか、「城柵を《厳かに》設けている」など、実際に目にしないと書けないような表現もあります。
うーん、全部拝見すると、伊藤説で良い気もするのが怖いですね。。。
@@岡上佑の古代史研究室 伊藤説、隙がないですよね。これで邪馬台国熊本説を論じられると、邪馬台国論争が終わった感がでてくるので、敢えて違うことを、私は言ってます(笑)
ありがとうございます!そう言っていただけると、私も熊本説でよいのではと思ってきました(笑)。
@@ancientJapanesehistorywithMAP いつもありがとうございます!じつは、私は自説の弱点も知っているのですが。それは秘密です。年末企画もよろしくお願いします。
会稽東治の東は、短里ではなくて魏の里で換算すると遠い方の会稽東治になります。会稽東治の東は陳寿?の推定ですから、編纂するときに文書の里数の記録を読んで魏の里で推定したのでしょう。
ご指摘のあたりはとても難しい問題だと思っています。『三国志』の中で韓伝と倭人伝は明らかに短い尺度を用いています。なぜ『三国志』にいわゆる長里と短里が混在しているのかについて従来すっきりと解明した説はないと思います。たとえば、『魏略』やほかの倭人伝を記した先行文献が、いわゆる短里で記された郡使の報告書をもとに行程記事を書き、陳寿がそれを『三国志』の倭人伝の行程記事に流用した可能性などが考えられるでしょうが、なかなかしっくりきません。。『後漢書』は、途中の国々をめぐっていく行程記事を無視してしまいましたから、楽浪郡の境からの万二千里を長里(魏の里)で考えたために、南へ大きく誤認した可能性があります。
久しぶりにコメントさせて頂きます。東冶派なのですが、、、まず、確定的な対馬と壱岐の記述が南となっているけど、感覚的に東南の気がするので、それに方位を合わせて帯方郡から東南の線と東冶から北東の線を引くと、、、北中部九州あたりで交わる気がする、、、九州以外が外れる、、やっぱり、これだと自己都合な解釈になってしまいますよね、、、
コメントありがとうございます。いまでは、日本列島が90度回転して描かれている混一彊理歴代国都之図を根拠とした説は否定されていると思いますが(正しい列島の図も発見されて)、東冶派の方のメリットとはなんなのでしょうか? 沖縄説の方とかでなければ、東治でも問題ないと思うのですが・・・。
ご返信わざわざありがとうございます。もし、方位のズレや誤解があるなら、確定的な対馬壱岐の方位に合わせて全部同一方向に揃えた方がいいのかな?とただそう思ったからです。 方位を揃えた場合、東治からの方位が北東になるので、線を引いて伸ばしても対馬海峡から朝鮮半島あたりを通ってしまうから、、、ただそれだけです。
そもそも「会稽東治」なんて言葉は無くて「会稽郡治・東部都尉」で台州市あたりになる単に冶→治の誤字
コメントありがとうございます。なるほどですが、『後漢書』は地理的に邪馬台国が朱崖儋耳に近いと認識していますし、倭人伝に続けて(のなかに)東鯷人の話や東冶県の人の話まで追加してしまっています。「誤認」という点では明らかではと思います。
「後世書き変え説」は、「正論」ですね。…………「正史」は、次の王朝の、「正統」の理由付けです。…………日本🗾書紀もまた然りです。「古事記」は、レジスタンス?文書でしようか?😅
ご同意いただきありがとうございます。『日本書紀』は『後漢書』や『三国志』のような断代史ではなく、天地開闢から7世紀末までの通史ですから、(やろうと思えば)改変、隠蔽のし放題だったでしょうね。『古事記』は、謎ですね。。。
なるほど(´・ω・`)ってゆう妄想もありだと思います。
ありがとうございます。まあ、陳寿の原本あるいは初期の写本が発見されて、そこに里数が記されていなければ立証しようのない仮説だというのは重々承知しています。
そもそも魏略を読んでいないようですが、魏志倭人伝と魏略の引用で残されている部分の一致は非常に高いことが、簡単にわかります。これは両者が『元の文章』をコピーしたからです。魏略は魚豢の若干の考察が入っていることが伺えますが、逆に言えば魏志倭人伝はほぼほぼ書き写しただけで陳寿の意図は含まれていないのです。それは前文にも陳寿が述べていますし、そもそも魏志倭人伝の駄文を陳寿が書いたなどというのは、陳寿に対して失礼ですwいろいろと考えられていますが、そのスタート位置からして間違えているわけです。後世の書き換えなどと言うのは、東治→東冶などの1文字単位の書き間違えや、あなたがやったような日数表記が『元は里数表記だった!』などという主張が、後世の書き換えと言えるべきものなのです。万ニ千里は梯儁の、各国間の里数は張政の、それぞれの報告書からのものだと考えられます。これはつまり、足せばイコールになるなどという保証のないものです。周旋5千里は、単に一万二千里から歴韓国の七千里を引き算しただけの数値です。このようなアホなことを陳寿はしませんし、それを周旋などと表記するようなアホアホなこともしません。あと関係ないですが、266年の朝貢は台与ではありません、そのような記述はどこにもありません。壹与でもありません、それは宋代の書物にしか書かれていない表記です。
コメントありがとうございます。まあ、後世書き換え説は方々で書いておりますが、里数の書かれた写本が発見されない限り立証できない仮説であることは自覚しています。ただ、各国間の里数は張政の報告書という論拠は示せないと思います。また、周旋は「めぐり歩く」という意味です。狗邪韓国から邪馬台国までのめぐり歩いた距離です。陳寿は『三国志』内で正しく用いていると思います。
@@J-history 返信ありがとうございます。「発見されれば」などと書かれていますが、残されている写本は1つではないわけで、全部の写本を”誰か”が同じような日数表記に書き換えたなどというのは、無理のあるお話です。そのうち畿内ヤマト王権が三国志を書き換えたのだ!などと言いだしそうですねw
@@yoshihiro_sugimori ちょっと誤解されているかもしれませんが、たとえば、裴松之の注釈の付いていない東晋時代の写本が見つかって、その倭人伝部分の不彌国から邪馬台国への行程に具体的な里数が書かれていれば、「陳寿は『三国志』原本に具体的な里数を記していたけれども、後世にその里数が日数に書き換えらえた」可能性が非常に高くなる(拙論が立証される)ということです。そして、そういう写本が見つからない限り、拙論が立証されることはないことは承知していると申し上げています。
@@J-history 何度も返信ありがとうございます。しかしながら言われるような歴史であったならば、この世に日数表記の三国志と里数表記の三国志が伝わっているはずなのです。すべての写本の三国志を書き直さなければならない限り、(おおよそ)そうなるのです。そしてそれは不可能なことなのです。
初めてコメントさせていただきます。凄く納得できる御説でした。私も今、後漢書が書き換えられた説の動画を作ってたので、非常に勉強になりました。
コメントありがとうございます。お役に立てたのであれば何よりです。
『後漢書』の書き換えですか? 面白そうですが、このチャンネルは『後漢書』と『梁書』(ただし、どちらも倭伝に限っての話ですが)については信憑性にかなり問題があると考えています。
アップ有難う御座います。 やっぱり旅程記事は直線読みが王道ですね! 現状の倭人伝旅程記事は矛盾しており、その矛盾発生の原因と発生過程をどう考えていくか、と言うことだ思います。
岡上さん、ありがとうございます。
なんの但し書きもないのに、いきなり放射状に読んでいくということには、どうしても同意できません。
しかし、明確な矛盾がある、ということですね。
なぜ魏志倭人伝がこんなにわかりにくいのか、という命題に対して、岡上説同様に、なかなか整合性、可能性のある説だと思います。文献だけでここまで戦えるのか、と感動しますね。
特に会稽の東治と東冶には、参りましたねえ。ここに特に238年前後の呉と公孫氏、高句麗と魏の複雑な関係が絡んでくるから、判断に迷いますよね。
資治通鑑の翻訳をやる中で、様々な文献から引用していく面白さ、判断を考えさせられます。
岡さん、お褒めいただき恐縮です。
会稽東治に関しては、まったく漢文素人の私でも、前段の夏の王少康の子が封じられた会稽の説話を読めば、東冶(県)であり得ないことは明らかだと思えたのですが、なぜ錚々たる先学の研究を経て東冶説が主流になっていたのか、理解に苦しみます。
なぜ、『三国志』が倭人の入墨に関連して、『魏略』の記す「句呉の太伯の後」を不採用として「句呉を滅ぼした越王の祖先である無余の説話」を採用したのかも面白いところだと思っています。
Σ(゚Д゚) なるほど! ひとつひとつの動画で十分満足していましたが、そして自分なりに並べ替えたりして拝聴もしていましたが、新説先生がこうして改めて作ってくださると、実に明快でそして何より楽しい。ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございます。
動画も古くなってくるとなかなかご覧いただけなくなってきてしまいますので、新説を発信し続けるのはなかなか難しいです。。今後ともよろしくお願いします。
@@J-history ご返信までくさり、ありがとうございます。私、目が悪いので、映像と音声での解説にとても感謝しております。先生が古いとおっしゃる動画も私は何度も楽しく拝聴しています。ときには画面に映る図、写真、地図を見ながら、表はデザイン的に見ていますが。もし古くなったとお感じになる動画の再録(や再編やまとめ)をしてくださるときは、長くなってはしまいますが、表の部分も音声化してくださると嬉しく思います。長尺動画はyoutube向けでないのかも知れませんが、「歴史倶楽部」のようにゆったりとした(ほのかに関西風味な)口調で長い時間語ってくれる歴史のお話はいいものだと私は無責任に思っています。今回は特に手短に書けなくて申し訳ありません。失礼します。
@@じじりん
ご返信ありがとうございます。
表の音声化ですか。どのように音声化すればよいか、けっこうアナログ人間なものでなかなか難しそう。。。
できるかぎり、表内の数字などについて、言葉でしゃべるように意識して原稿を作るようにします。
@@J-history 先生、私また余計な事を申し上げてしまってすみません。いつも楽しい時間をくださることに感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
会稽東冶と会稽東治のお話ですが、二水と三水は草書では殆ど違いが分かりません。版本になったのは相当後の話では。それと今の時代だからこのように正確な地図で真東とか仰有るが真東に九州中南部があるなどと当時の人が正確に果して認識出来たのでしょうか?海路を左右の角度を間違えずに真っ直ぐ船を進める事自体当時の技術では不可能です。僅かな角度のズレでは大きく変わってしまいます。
コメントありがとうございます。
このチャンネルの仮説では、『三国志』の原史料となった梯儁たちの復命報告書には「会稽東治の東」ではなく当時の敵国であった呉の都である「建業の東」と書かれていたと考えています。
当時の中国では緯度については一寸千里法によって正確に測れていたのは間違いありません。梯儁たちが女王国で測定した可能性は非常に高いと思っています。
知らなかった
かいけいとうち
かいけいとうや
氵と冫の違い
ずーっと違いを知りませんでした。
沖縄と鹿児島とでは全然違います。
正直なところ旅程記事は苦手でした。あまりに阿波説の方々が力説するので半信半疑のままにしてました。
スッキリしました。
今回のアップは神回です。
「東治」は「東冶」が誤記されたものという見解が有力でしたからね。
最近では「東治」と考える方が多くなってきたような気がします。
動画内で触れている前段の「夏の王少康の子が封じられた会稽説話」の件もありますが、
「東冶」は当時の一般的な用語であり、「東治」はかなり特殊な用語です。
「東治」が「東冶」に誤記される可能性は高いですが、逆はほぼありえません。
だから、長い写本を経ても書き継がれた「東治」は明らかに最初から「東治」だったと考えられます。
これだけまとめてもらうと、初めて頭の中で整理がつきました
九州上陸までは韓人情報からも取れるけど倭地の中は倭人の言葉のみが情報ソースだから、有り得そうな話だなぁと思いました
@@J-history
「冶」という字は「冶金」ぐらいにしか使われないので、頻繁に使われる「治」に誤記される可能性の方が高いと思われますが
@@ancientJapanesehistorywithMAP
古荘さん、ありがとうございます。お役に立てたのであればよかったです。
まあ、とにかく邪馬台国論争の原因が日数表記であるということだけは明らかです。
@@iricotaketo2138
コメントありがとうございます。
会稽郡東冶県は広く知られた固有名詞で、それを示す「東冶」は『三国志』内で少なくとも5箇所で用いられていますが、「東治」はここ一箇所しかありません。
「魏志倭人伝後世書き換え説」がよく理解できました
これはあり得る内容だと思いました
私も御説と同じく邪馬台国熊本説の立場ですが、水行十日陸行一月の記述がいまだにもやもやしております
陳寿三国志で現存している最古の写本の紹興本(1131~1162)も紹煕本(1195~1200)も「水行十日陸行一月」となっていますが、
他の写本で違う記述のものは見つかっていないんですかね
コメントありがとうございます。熊本説の方がいらっしゃると心強いです。
書き換えられたのが例えば450年頃とすれば、その後はずっと日数表記が書き写されていったのだと思われます。
それ以前の里数が記された写本が見つからない限り立証できない仮説であることは自覚しています。また、見つかっている古い写本も、魏志倭人伝部分のものは皆無だと思います。
まあ、ざっくり考えて、福岡平野に二万余戸の奴国があったとすれば、五万余戸の投馬国が筑紫平野であり、七万余戸の邪馬台国が熊本平野ということになるのでは、と思っています。熊本平野を狗奴国としてしまう方が多いので、ややこしくなるのです。倭人伝は必ずしも狗奴国を強大な国だとは書いていません。247年当時、たまたま戦っていた弱小国の可能性もあると考えています。激しい戦闘中なら大いに径百余歩の冢を造って、百人も殉葬させる余裕もないかと。
書き換え前の写本が見つかったのはすごいことです。しかし陳寿(実際に日本列島には行っていない)が邪馬台国鹿屋説を唱えていたのには驚きました。「待てあわてるな。これは孔明、もとい劉宋文帝の罠だ」と深呼吸して考え直すべきところですね。
中国の西域で結構見つかっていますので、今後も発見される可能性に期待しています。
もちろん陳寿(魚豢でも)は日本に来ていませんが、梯儁の報告書に地図が添付されていたとすれば、陳寿は秘府に収められていた報告書&地図を目にしたはずです。それだけの権限は与えられていたはずですから。
辻褄合わせは確かによくあることですよね。
コメントありがとうございます。
それをご納得いただけるとうれしいですが、結局は里数の書かれた写本などが見つからないと立証できない仮説ではあります。そこは自覚しています。
後世書き換え説、分かりやすく説得力がある解説ありがとうございます😚時が経つごとに事実を書き換えられるのは、現代での伝言ゲームでうまく伝達できず、途中で事実がねじ曲げられてる状態に近いのでしょうか?(¯―¯٥)叶わない事ですが、やはり陳寿の三國志原本を見てみたいですねw
そうですね。『三国志』原本や初期の写本に日数が書かれていたら、この説の誤りを素直に認めますが、ぜひ見てみたいです。
原本は洛陽や長安で歴史の闇の中に埋もれたと考えられますが、西域(敦煌やトルファンなど)からは写本が出てくる可能性がまだ残っていると思っています。
(先ほどの追加で)
正式な写本は秘府で厳格に行われたと思います。しかし、王朝交代などの動乱で散逸した場合には秘府外に伝わる写本で復元したと思われますから、時代を経て内容に改変が生じる可能性は大いにあったと思っています。
旅程記事の最大の謎は里数記事と日数記事の乖離と言えるかも知れません。そのことに対する一つの答え。筋道が通っており、いろいろ考えさせられます。会稽東冶は地理的には間違いだけど、後漢書の筆者にとっては事実ではなくても真実だったのかも。
武田さん、ありがとうございます。
こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが、「『後漢書』は『三国志』をコピペしながら、ちゃんと考えましたよ感を出すために細部をちょっといじって、それが大きな間違いにつながってしまった」というような感じを受けるのです。范曄や『後漢書』倭伝担当者は、辺境の倭地の、それも過去のことなどどうでもよいと考えていた可能性もあると思っています。
@@J-historyさん 後漢書に関する考え、全く同じ感覚です!
@@岡上佑の古代史研究室
おぉ、岡上さんにご同意いただけると、すごく心強いです!
直線読みですが投馬国の一文で又がある場合何が継続しているのでしょう?次は南なのだから東行から方向が転じているので又はちょっとおかしいなと。自京城西至鳳山、南至稷山、又南至竹山のようになってないです。既に行われた行為の東行が又続くのでしょうか?梁書の又をとって不弥国より投馬国に至るに南水行二十日と書けばすればスッキリしたと思います。南を動詞として見れば、更に東行が続くけどちょっと川まで南へ向かい船で水行二十日して投馬国に至ると文法上できなくもないかもしれませんが⋯。後漢書は相手にしなくていいと思っていたのですがこんな利用法があるんですね。
コメントありがとうございます。
『三国志』魏志倭人伝では、投馬国への行程記事に「又」はありませんよ。
『後漢書』を相手にしなくてよいということには、賛成です。
又の多い太平御覧ですが又が不彌国にもついてると記憶してませんでした。東南→東行なのでこれも変ですね。元々の文にあった又を文法上の修正をして陳寿が於投馬国の於のように削ったのだとすれば、邪馬臺の南至の前の又は削らなくても問題なかったと思います。スッキリしないですが本当に太平御覧は旅程記事の古い形を残しているのでしょうか⋯
@@潤也藤原
太平御覧は後世の類書ですから、撰者の解釈が大きく影響していると思います。
書き換え説は兎も角、九州のどこか論に絞って世の中の論争というか議論がされることを願ってます。
阿波説は、ほぼ消せそうな情報として
丹が丹山(丹砂)で赤土。、真珠は白珠(パール)、青玉は翡翠ではない 翡翠(翡玉と書くらしい)、などから阿波説は、ほぼ消えます。畿内説は、元々遠過ぎる、大倭が大和だとしても、邪馬台国とは違うかなと。
本動画とは無関係の話ですみません🙏
「倭人伝を普通に読めば、邪馬台国は九州を出ることはない」と考える方は多いですね。
もちろん、畿内説の方はそのようなことは言われませんが。
@@J-history
ベンガラ塗りと水銀朱の違いは見て一目瞭然!ベンガラ塗りを見ても畏怖の念は起きません!近々出版される愛媛大学の越智先生の地質学、気象学、地政学から見るヤマト国をご覧になってみてくださいね🙏
@@幕張メッセンジャー その辺りのことは知りませんが中国の歴史書には、丹は水銀朱のことではないような記述があるということを言いたいだけです。
私はヤマト王権と邪馬台国(ヤマト国)は別物と捉えてるので、、、
あまり水銀朱も関係ありません😅
@
丁寧なご返答ありがとうございます!
そもそもが文献だけではなくて考古的、地質学的、気象学的など総合的に考察したい私とでは、噛み合わない筈でしたね😊大変失礼致しました🙏
@@幕張メッセンジャー そうかも知れません!
ただ、歴史書だけでなく遺跡や気象学なども多少は参考にしてますが皆さんの研究は素晴らしいですし、それぞれを否定するつもりもありませんが、特定するにはなかなか難しいと存じます。
阿波説だと想像しますが、殺傷遺骨や鉄鏃などの発掘、遺骨の出土量や装飾品などの出土量はどうなのでしょうか?その辺りも多少調べたつもりですが、阿波が日本のルーツに関係あると想像してますが、だとしても魏志倭人伝の邪馬台国とは直接結びつかないというのが私の論理です。
丁寧にコメントありがとうございます。
12:28「鹿児島県鹿屋市付近という魏志倭人伝の記述」とは、熊本県の方保田東原遺跡から移動か?
14:44「倭王讃の遣使に対する聴衆記録」があったのは妥当だと考えるし、当然邪馬台国との関係についても検証されており、使者も「大和朝廷と邪馬台国は同じ」などと回答したことになるのだろう。一方で、(有名な赤壁の戦いを含め)三国志の記述でも「整合性がとれていない」と指摘される個所が多数あるのに、わざわざ辺境の倭国の記述に対して他書である後漢書との整合性を求める必要性が有るのかどうかは疑問。
鹿屋市付近は「会稽東治の東」です。
梯儁たち郡使が復命報告書に会稽の説話を交えて「会稽東治の東」と書くことは考えられません。おそらく邪馬台国で一寸千里法を用いて八尺棒の影の長さを測った結果を、当時の敵国である呉の都「建業の東」と書いたのだろうと推測しています。そうすると緯度は少しあがります。熊本平野も誤差の範囲となるのではと思っています。
辺境の倭地について重要だと考えていなかったというのは、おっしゃる通りだと思います。
書き換えについては書写にあたった人たちの資質と考える以外ありません。残念ながら。
ほかにもそうなった原因はいろいろ憶測はできますが、妄想にしかなりません。結局、里数の記された陳寿の原本あるいは初期写本が発見されない限り立証できないことは十分承知しています。
2:13 魏志倭人伝には『倭王因使上表 荅謝詔恩』(倭王は使によりて上表し、詔恩に荅謝す)と書かれています。
つまり倭王は使者に上表文を託して悌儁に渡したということですから、倭王と悌儁は直接会っていないと考えられます。
因みに、難升米らが魏に朝貢した際には、『引見勞賜遣還』((皇帝は難升米らを)引見し、労い、賜い、還し遣わした)と皇帝が難升米らと対面したことがはっきりと記されています。
なぜ倭王は悌儁と会わなかったのでしょうか?
素直に、旅程記事に書かれているように邪馬台国は北部九州から一月ないし二月を要するような遠い場所にあったと考えればいいのではないでしょうか?
倭王の居る邪馬台国は北部九州からずっと遠く離れたところにあったから、容易に会うことができなかった。だから倭王は使者に託したわけです。
なので不彌国以降の旅程は、悌儁が倭人(おそらく下賜品を受け取り、また上表文を渡すために邪馬台国と伊都国の間を往来した使者)から得た情報だと思われます。
隋書倭人条にあるように『夷人里数を知らず、ただ日を以って計る』つまり倭人には里数という概念はありませんでしたから、
不彌国以降の旅程は日数表記になっているということだと思います。
greendolpfin7085さんのように読めば、そのように解釈できる余地がありますね。
このチャンネルでは、この「使」は梯儁たちを指し、「梯儁たちを通して上表した」「梯儁たちに上表文を託した」というように解釈しています。漢文はむずかしいです。
@@J-history お返事いただきありがとうございます。なるほどそう言う風にもとれますね。
ただ倭王が直接 魏の皇帝に会って上表文を渡すことは考えられず、梯儁を介することは自明なので、わざわざ「使によりて」との文言を入れたのは倭王から梯儁に直接ではなく倭の使者を通して、との意味にとるのが妥当ではないかと思われますが?
このほかにも、梯儁による報告と思われる各国の戸数に関する記述において、不彌国までは「有〇〇戸」(〇〇戸あり)と断定的であるのに対して、投馬国以降は「可〇〇戸」(おそらく〇〇戸であろう)と推量になっています。
つまり投馬国以降の情報は倭人から得たものではないでしょうか?
このことも梯儁らが北部九州にとどまり、邪馬台国まで行っていないことを裏付けていると思います。
@@greendolphin7085
「因使」の解釈は水掛け論になってしまいますので。
戸数については多すぎるという見解が主です(一戸5人などとすれば)が、倭人は女王国では租税を徴収していたと記しています。だから、原初的なものであっても、戸籍があったと思われます。
「可」を推量とするのであれば、二万余戸の福岡平野を行程の山上から遠望した使者たちが、筑紫平野、熊本平野を同様に遠望して推量したのかもしれません。
@@J-history
確かに戸数に関しては全般的に多すぎるように思いますが、例えば、馬韓についての記述を見ると『凡そ五十餘国、大国で萬餘家 小国で數千家 総じて十餘萬戶』とあるので、倭国とのバランスを考えた場合、それほど大きな齟齬はない気がします。
また戸籍のようなものがあったとしても、果たして現地の役人たちが戸数や口数を教えてくれたかどうか疑問です。
むしろ魏の使者が国全体を俯瞰して、普通の大国なら1-2万戸、小国なら数千戸というのをおおよその目安として相対評価で考えていたのではないかと思います。
なので数値そのものは不正確であり、絶対値にはあまり意味がないかと。(一度基準ができてしまうと、たとえ実態からかけ離れていても、変えるわけにはいかないですから)
投馬国と邪馬台国の場合は、倭人から投馬国で奴国の倍くらい、邪馬台国で三倍くらいと聞いて「投馬国 五万戸程度、邪馬台国 七万戸程度と推測される」と報告したのではないでしょうか? それは畿内説的には、投馬国(鞆国)は吉備全体、邪馬台国(大和国)は畿内全体としてではないか?(あくまで妄想ですが)
あるいは、一説にあるように大月氏国を意識してたかもしれません。。
@@greendolphin7085
昔から帰順の証に地図と戸籍を差し出せたということを聞いたことがあります。
少し時代は降りますが、『日本書紀』でも新羅が地図と戸籍を神功皇后(私は仲哀天皇と考えていますが)に差し出しています。
だから、原初的な戸籍であったとしても、存在したのなら郡使たちはそれを差し出させたか、少なくとも目にしたと思われます。
五万戸、七万戸という数字はなかなか伝聞では信じられないような気もしますが。
また、郡使たちは卑弥呼に関する詳細な記事を綴っています。
「年は長大」とか、「一人の男の役割」とか、「城柵を《厳かに》設けている」など、実際に目にしないと書けないような表現もあります。
うーん、全部拝見すると、伊藤説で良い気もするのが怖いですね。。。
@@岡上佑の古代史研究室 伊藤説、隙がないですよね。これで邪馬台国熊本説を論じられると、邪馬台国論争が終わった感がでてくるので、敢えて違うことを、私は言ってます(笑)
ありがとうございます!
そう言っていただけると、私も熊本説でよいのではと思ってきました(笑)。
@@ancientJapanesehistorywithMAP
いつもありがとうございます!
じつは、私は自説の弱点も知っているのですが。それは秘密です。
年末企画もよろしくお願いします。
会稽東治の東は、短里ではなくて魏の里で換算すると遠い方の会稽東治になります。会稽東治の東は陳寿?の推定ですから、編纂するときに文書の里数の記録を読んで魏の里で推定したのでしょう。
ご指摘のあたりはとても難しい問題だと思っています。
『三国志』の中で韓伝と倭人伝は明らかに短い尺度を用いています。なぜ『三国志』にいわゆる長里と短里が混在しているのかについて従来すっきりと解明した説はないと思います。
たとえば、『魏略』やほかの倭人伝を記した先行文献が、いわゆる短里で記された郡使の報告書をもとに行程記事を書き、陳寿がそれを『三国志』の倭人伝の行程記事に流用した可能性などが考えられるでしょうが、なかなかしっくりきません。。
『後漢書』は、途中の国々をめぐっていく行程記事を無視してしまいましたから、楽浪郡の境からの万二千里を長里(魏の里)で考えたために、南へ大きく誤認した可能性があります。
久しぶりにコメントさせて頂きます。
東冶派なのですが、、、
まず、確定的な対馬と壱岐の記述が南となっているけど、感覚的に東南の気がするので、それに方位を合わせて帯方郡から東南の線と東冶から北東の線を引くと、、、北中部九州あたりで交わる気がする、、、九州以外が外れる、、やっぱり、これだと自己都合な解釈になってしまいますよね、、、
コメントありがとうございます。
いまでは、日本列島が90度回転して描かれている混一彊理歴代国都之図を根拠とした説は否定されていると思いますが(正しい列島の図も発見されて)、東冶派の方のメリットとはなんなのでしょうか? 沖縄説の方とかでなければ、東治でも問題ないと思うのですが・・・。
ご返信わざわざありがとうございます。
もし、方位のズレや誤解があるなら、確定的な対馬壱岐の方位に合わせて全部同一方向に揃えた方がいいのかな?とただそう思ったからです。 方位を揃えた場合、東治からの方位が北東になるので、線を引いて伸ばしても対馬海峡から朝鮮半島あたりを通ってしまうから、、、ただそれだけです。
そもそも「会稽東治」なんて言葉は無くて「会稽郡治・東部都尉」で台州市あたりになる
単に冶→治の誤字
コメントありがとうございます。
なるほどですが、『後漢書』は地理的に邪馬台国が朱崖儋耳に近いと認識していますし、倭人伝に続けて(のなかに)東鯷人の話や東冶県の人の話まで追加してしまっています。「誤認」という点では明らかではと思います。
「後世書き変え説」は、「正論」ですね。…………「正史」は、次の王朝の、「正統」の理由付けです。…………日本🗾書紀もまた然りです。「古事記」は、レジスタンス?文書でしようか?😅
ご同意いただきありがとうございます。
『日本書紀』は『後漢書』や『三国志』のような断代史ではなく、天地開闢から7世紀末までの通史ですから、(やろうと思えば)改変、隠蔽のし放題だったでしょうね。
『古事記』は、謎ですね。。。
なるほど(´・ω・`)
ってゆう妄想もありだと思います。
ありがとうございます。
まあ、陳寿の原本あるいは初期の写本が発見されて、そこに里数が記されていなければ立証しようのない仮説だというのは重々承知しています。
そもそも魏略を読んでいないようですが、魏志倭人伝と魏略の引用で残されている部分の一致は非常に高いことが、簡単にわかります。これは両者が『元の文章』をコピーしたからです。魏略は魚豢の若干の考察が入っていることが伺えますが、逆に言えば魏志倭人伝はほぼほぼ書き写しただけで陳寿の意図は含まれていないのです。それは前文にも陳寿が述べていますし、そもそも魏志倭人伝の駄文を陳寿が書いたなどというのは、陳寿に対して失礼ですw
いろいろと考えられていますが、そのスタート位置からして間違えているわけです。後世の書き換えなどと言うのは、東治→東冶などの1文字単位の書き間違えや、あなたがやったような日数表記が『元は里数表記だった!』などという主張が、後世の書き換えと言えるべきものなのです。
万ニ千里は梯儁の、各国間の里数は張政の、それぞれの報告書からのものだと考えられます。これはつまり、足せばイコールになるなどという保証のないものです。周旋5千里は、単に一万二千里から歴韓国の七千里を引き算しただけの数値です。このようなアホなことを陳寿はしませんし、それを周旋などと表記するようなアホアホなこともしません。
あと関係ないですが、266年の朝貢は台与ではありません、そのような記述はどこにもありません。壹与でもありません、それは宋代の書物にしか書かれていない表記です。
コメントありがとうございます。
まあ、後世書き換え説は方々で書いておりますが、里数の書かれた写本が発見されない限り立証できない仮説であることは自覚しています。
ただ、各国間の里数は張政の報告書という論拠は示せないと思います。
また、周旋は「めぐり歩く」という意味です。狗邪韓国から邪馬台国までのめぐり歩いた距離です。陳寿は『三国志』内で正しく用いていると思います。
@@J-history 返信ありがとうございます。
「発見されれば」などと書かれていますが、残されている写本は1つではないわけで、全部の写本を”誰か”が同じような日数表記に書き換えたなどというのは、無理のあるお話です。
そのうち畿内ヤマト王権が三国志を書き換えたのだ!などと言いだしそうですねw
@@yoshihiro_sugimori
ちょっと誤解されているかもしれませんが、
たとえば、裴松之の注釈の付いていない東晋時代の写本が見つかって、その倭人伝部分の不彌国から邪馬台国への行程に具体的な里数が書かれていれば、「陳寿は『三国志』原本に具体的な里数を記していたけれども、後世にその里数が日数に書き換えらえた」可能性が非常に高くなる(拙論が立証される)ということです。
そして、そういう写本が見つからない限り、拙論が立証されることはないことは承知していると申し上げています。
@@J-history 何度も返信ありがとうございます。
しかしながら言われるような歴史であったならば、この世に日数表記の三国志と里数表記の三国志が伝わっているはずなのです。すべての写本の三国志を書き直さなければならない限り、(おおよそ)そうなるのです。そしてそれは不可能なことなのです。